本編第一部(完結済み)

 じゃわじゃわと聞きなれない雑音が、本丸の庭で響き渡っている。季節はすっかり夏になっていた。これが噂に聞く蝉の声なのだろうと、物吉は額に滲む汗を拭いながら思う。演練に向かってしまった主と歌仙の分も日々の雑用をこなさねばならず、今日は何かと忙しく感じられた。

「これで終わり……と」

 本丸中から掻き出した埃やゴミを袋に収め、庭の一角にあるゴミ捨て場に置く。そうして、物吉は一仕事終えた後の程よい疲労感に身を包まれていた。
 部屋に戻って一休みしよう。厨の冷蔵庫から冷やしたお茶を入れるのもいいかもしれない。心なしか足を弾ませて、少年は本丸に足を向ける。
 見れば、涼しそうな日陰ができた縁側には五虎退の姿があった。彼の側には、いつものように白い虎の子たちがわらわらと集まっている。

「五虎退。鍛刀部屋の掃除は終わったんですか?」
「…………はい」

 妙に歯切れの悪い返事に物吉は首を傾げる。隣に腰掛けると、物吉の足元にも虎の子たちが数匹絡みついた。ふわふわの毛並みを撫でると、自然に物吉の顔がほころぶ。だが、虎の子に触れるまでもなく、彼は既に別の一件で心を弾ませていた。

「新しい刀剣男士って、どんな人なんでしょうね。ボクは初めてだから、とっても楽しみです!」
「…………」

 場を盛り上げようとわざとらしいまでに大きな声を出してみたが、五虎退の顔は変わらず浮かないままだ。流石に無視をすることもできず、物吉は不安げな少年の顔をのぞき込む。

「何か心配事ですか? 主様の具合はもう随分と良くなってると思いますよ」
「……違うんです。僕が心配なのは、そうではなくて」

 五虎退は暫くは口を噤んでいたが、やがてポツリポツリと語り出した。
 主は今まで鍛刀を避けるようにしていたということ。主が物吉を顕現するときも随分間を置いていたということ。物吉を顕現するとき、隠れて一人で行おうとしていたこと。それに、主が自分たちに何か隠し事をしているということ。

「僕は、無理に何もかも、知りたいわけじゃないのに……。でも、何も変わらないのも、何だか苦しくて……どうしてでしょう」

 五虎退が一緒に語って聞かせてくれた、あの女性の言葉を物吉は振り返る。
 何かを話すための勇気があるのなら、恐らく五虎退や自分たちが必要なのは待ち続ける勇気だ。だが、きっとそれもまた、隠し事を打ち明ける勇気と同じように難しいことなのだろう。
 五虎退が自身の中に抱えた重荷に潰されそうになっているのを目にして、物吉は少しだけなら、と一つの決断をする。

「主様が何を隠してるのか。ボクは多分、知っていますよ」
「本当ですか!?」
「でも……ボクも偶然知っただけなんです。だから主様には何の覚悟も――五虎退の言うような打ち明ける勇気も、準備していませんでした。その時の主様はとてもとても、苦しそうでした」

 あの雨の日に崖の上で起きたことを、物吉は振り返る。その時藤が見せた、触れたら今にも壊れそうな顔のことも。

「だから、ボクの口からは何も話しません。主様が自分でお話になる時を待ちます。でも、もし主様が隠していることで誰かが主様を傷つけるようなことがあったら」

 物吉を慰めるように撫でた彼女の手を思い出す。彼の手を取って、君は幸せを気づかせることができる子だ、と話した彼女の声を思い出す。ほんのわずかな時ではあるけれど、彼女のくれた全てを思い出す。

「もし傷つけるようなことがあったら――ボクはその人を許しません」

 一振りの刀として、持ち物に幸運を与える脇差として、何より彼女が認めた一人の人間として。
 物吉の真っ直ぐな決意に同意するように、五虎退も力強く頷いた。


 ***



「ほんっとーに、ごめんなさい! ほら、加州も!!」
「ちょ、やめてってば! 頭抑えなくても自分で下げられるって!」

 主である女性に、頭がのめりこまんばかりに机へ抑えつけられて、加州は抗議の声をあげる。彼の悲鳴を聞いてようやく手を離した主は、それでも加州から目を離すことはなかった。彼らが騒ぐせいで周りの目が自然と集まり、加州とその主は慌てて愛想笑いで誤魔化そうとする。
 ここは演練会場の一角にある喫茶店。試合を終えた刀剣男士と主が休憩をするための場でもある。窓際の席を確保した加州の主である女性は、注文を終えると早々に自分の刀剣男士の不始末を謝罪したのだった。

「えっと……いきなり一騎打ちなんて持ちかけて、ごめん。びっくり……させたよね?」
「それは、まあ……びっくりしました」

 先ほどの勢いはどこへやら、不意に塩らしくなった加州はぺこりと頭を下げる。つられて謝られた藤も頭を下げてしまい、いったいどちらが謝っているのか分からないような構図ができあがってしまった。
 やれやれとため息をついた加州の主は、パンッと手を胸の前で叩いて仕切り直しとばかりに微笑む。

「じゃあ、改めて自己紹介させてください。私はこの加州清光の主でスミレっていいます。近侍はさっきから散々頭を下げてる彼ね」
「俺は加州清光。刀種は打刀。二度目ましてだけど、よろしくね」

 スミレと名乗る女性は、名前に違わない鮮やかな紫の瞳を持っていた。黒く細い髪は肩につくかつかないかの長さで、活動的な印象を藤たちに与える。
 彼女の隣に座る加州清光は、主に叱られながらも少し頬を緩ませていた。刀剣男士として、彼女の側にいるのが嬉しいのだろうと、藤の隣に座る歌仙は思う。
 あれほど心の中に暗いものを抱えていたにも関わらず、主の隣に主の刀としていられるというだけ、で歌仙もまた少なからず浮き足立っていた。

「それで、こっちが太刀の小狐丸」
「小狐丸と申します」

 丁寧に頭を下げたのは、スミレの反対側に座っていた男性だ。山吹色の着物に癖の多い白い髪の毛は確かに狐を思わせるものがある。古風な喋り方からして、古い時代の刀だろうかと歌仙は自慢の目利きをしてみる。

「僕は、藤っていいます。こちらは――」

 歌仙の方をちらりと見て、彼女はほんの数秒押し黙る。何と紹介されるのだろうかと歌仙が内心で身構えていると、

「近侍の、歌仙兼定。僕の最初の刀」

 相手に倣うように『近侍』という単語を用いて彼を紹介した。
 彼女の言葉を聞いた瞬間、先ほどまで主を見て胸中に渦巻いていた黒々としたものが、歌仙の中で嘘のように静まっていくことに気付かされた。他の刀剣男士に目移りしているように見えていても、歌仙兼定のことは近侍として紹介してくれる。それだけのことではあるが、誇らしさで胸を満たすには十分すぎた。

「さっき話したときは、見学に来た新人って説明していたけれど、審神者になってからはどれくらいなの?」
「まだ、二ヶ月くらい」

 たどたどしく指を折って、藤は自分が積み重ねた月日を説明する。藤は何気なく説明をしていたが、歌仙は表情にこそ出さなかったものの驚きを覚えていた。
 言葉にすればたったの二ヶ月だ。しかし、歌仙にとってはまるで数年が経ったように感じていた。人間になったばかりの彼にとって、たったの数ヶ月でも主とは感じる時間の濃さが違う。歌仙にとって主と過ごした二ヶ月という期間は、「まだ」と表現できるほど薄いものではなかった。

「これも何かの縁だろうから、困ったことがあったら何でも訊いてね」
「こーんなこと偉そうに言っているけど、主もまだまだだからねー。あまり調子に乗せなくていいから」

 塩らしい様子を見せなくてもいいと判断したのか、途端に今までのどこかふてぶてしい様子を見せる加州清光。自分の近侍に窘めるようなことを言われて、スミレは頬を少し膨らませて加州の腕を小突く。

(やはり、この二人……どこかで見たような。万屋で見かけたのだろうか)

 加州の主を目にしたときに覚えた既視感を、しかし歌仙は深く考えようとまでは思わなかった。万屋に行けば、審神者と刀剣男士の組み合わせなどいくらでも目に入る。きっとその一つだったのだろう。
 主と近侍の他愛ないやりとりを見守りながら、歌仙は店員が運んできた紅茶を口に運ぶ。普段飲み慣れていない、スッとした清涼感が口に残っていく不思議な味だ。横目で主を見つめると、彼女も同様の感想を持ったのか複雑そうな顔をしていた。傍らに用意されたミルクなるものを入れ始めているあたり、そのまま飲むのは口に合わなかったのだろう。

「加州の言ってることは気にしなくていいからね! それで、演練には見学で来たって言っていたけど、知り合いでもいたの?」
「今回みたいな、一対一の飛び入り参加目当てとかじゃない限りは珍しいよね」
「加州のは、喧嘩の押し売りの間違いじゃないの」

 スミレに混ぜ返されて、加州は首を竦める。どうやら、彼は主に頭が上がらないようだ。

「だから違うってば。で、実際の所はどうなの?」

 加州に詰め寄られて、藤は目を逸らしてミルクで濁った紅茶の表面を見つめながら答える。

「刀剣男士を見に来たんだ。新しく鍛刀をするから、刀剣男士ってどんな人がいるのか、改めて気になってね。ほら、今本丸にいる刀剣男士との相性とかもあるから」

 そこまで言ってから、藤はきゅっと唇を噤む。何か言ってはいけないことを口にしてしまったように、彼女はわざとらしい苦笑いを浮かべた。

「ごめん。何だか変なこと言ってるよね。審神者なのに、刀剣男士に対して気を回しすぎて、こんなのおかしいよね」
「そうかな。私はそんなに変なことじゃないと思うよ」

 彼女はわざとらしいまでの否定を重ねようとしたが、スミレはあっけらかんとした様子で藤に笑いかける。隣に座る小狐丸も、安心させるようにうんうんとゆっくり頷いてみせた。
 だが、藤の言葉を聞いた加州は主に気がつかれないように目を眇めて、歌仙をちらと見つめる。視線に気がついた彼が加州と目を合わせると、紅目の彼は意味ありげににやりと笑ってみせた。
 二人の応酬に気がつくことなく、スミレは動揺を見せる藤に言葉をかける。

「だって、知らない人が生活に入ってくるんだもの。心配になるのは当たり前じゃない?」
「……そうかもしれないけど、でも」
「ええと、藤さんって呼んでもいい?」

 藤の言葉を遮るように問いかけられて、勢いに圧された彼女はおずおずと首を縦に振る。

「藤さん。もしかして審神者になって、結構緊張してる?」
「えっ」
「慣れないことをして、ちゃんとやらなきゃって緊張して肩肘張ってるのかなと思ったの。もう少し楽にしてもいいと思うよ」

 呆気にとられている藤の横顔を、歌仙はそっと窺う。彼女の横顔は珍しくはっきりと動揺を表していた。
 会って数分の人間が、主の中の何かに触れている。歌仙が触れさせてもらえなかったものか、或いはそれとは別の何かか。どちらにせよ、近侍の自分が気づけなかったことに、スミレが先んじて気がついたらしいというのは事実だ。
 はたして、藤は数秒の間を挟んでからゆっくりと首を縦に振った。もう一度紅茶を口につける。その仕草は、流し込んだ紅茶と共に、固まった何かも溶かそうとしているかのようだった。

「ありがとう。少し、楽になったかもしれない」

 ティーカップを小さな皿の上に置いた藤は、ゆっくり顔を上げてスミレに笑いかける。いつもよりは強張っている笑顔だったが、それでも歌仙は主が笑っていることに内心で安堵の息をついた。

「私も、新人の頃はもうガチガチになっちゃって、大変だったから。今ぐらいはゆっくりしよう?」

 スミレも藤につられるように、ニコリと微笑んでみせる。
 それから、彼女たちは他愛のない本丸の話題で花を咲かせていた。女性同士のお喋りが久しぶりだったからだろうか。どちらかというと聞き手に回っている藤の口も、いつもより滑らかに回っているように歌仙には見えた。
 とりわけ、注文した菓子については二人とも大いに気に入るところだったらしく、その後は暫く本丸運営には関係ない菓子談義が続いたほどだった。同席している加州がこっそり耳打ちした所によると、女性というものは甘いものが大抵好きなのだということらしい。そういえば、初めて料理を作った日にも、主に「好物は甘い物だ」と言われたなと歌仙は思い返す。
 彼女たちのお喋りを聞かされる側になった歌仙たちはというと、二人の雑談を邪魔しない程度に、演練の話や本丸の男士たちの情報交換を行っていた。加州が、本丸にいる自身の相棒という刀剣男士について話そうとしたとき、

「歌仙が教えてくれたんだ」

 不意に藤が口にした自身の名が、彼の意識を主の声の元へ引き寄せる。

「庭に藤棚があってね。審神者になった最初の日に、主でもなくて藤でもなくて――そう呼んでくれたんだ」
「歌仙さんって物知りなのね」
「うん。彼は僕より物知りだし、僕より頭もいいみたいで」

 藤は歌仙の視線に気がついたのか、ちらりとこちらに視線を送っていた。意味ありげに数秒の間見つめられていたが、やがて彼女の方から視線が逸らされる。その視線の意味を歌仙が推し量るよりも先に、話は次の話題に移ってしまっていた。

「藤さんは、次の鍛刀ではどんな刀剣男士を顕現したいの?」
「太刀がいいと思ってる。ただ、短刀とか脇差の刀剣男士よりは大人の人だって聞いていて、実際どうなんだろうって見学に来たってわけ」
「なるほどね。それなら丁度いい」

 スミレはティーカップを置き、自分の隣に座る山吹色の着物を纏った刀剣男士――小狐丸の背中をぽんぽんと叩いた。

「加州清光は打刀だけど、この小狐丸はれっきとした太刀なの」
「ええ。体は大きいですが小狐丸と……いえ決してこれは冗談ではなく」

 主に促されて、改めて名乗りを上げる小狐丸。彼の冗談めいた発言に藤の口元がふっと緩む。口角が微かにひくひくしているのは、吹き出しそうになっているのを堪えている証拠だ。これは、藤のよく分からない笑いのツボを刺激された顔だと、歌仙はすぐに気がついた。

「折角だから、好きなだけ見ていっていいからね。小狐丸が太刀の代表になるかは分からないけど、少なくとも遠目に見るよりはいいでしょう?」

 スミレに促されて、藤はおずおずと席を立ち小狐丸の側に近寄る。彼女と未知の刀剣男士の邂逅を、歌仙は言葉にできないものを抱えたまま見守っていた。
 試合を見ているときほどの興奮は見られなかったが、彼女の瞳の奥には新しい刀剣男士への興味が垣間見える。そのことに気がついてしまい、彼はそっと心の片隅に苦いものを覚える。

「体が大きいんだね。小狐丸なのに」
「ええ。小さいというのは遠慮ですよ。昔は大きな物もそのように表現したのです」

 礼儀正しく説明をする小狐丸に、藤は「へえ」と相づちを打つ。座っている彼の背丈を目で測っているのか、屈んだり立ったりを暫く繰り返してから、彼女は口元に手を当てて考え込む素振りを見せた。

「小狐丸さんって、身長はいくつなの?」
「ぬしさま、小狐丸の背丈はいくつなのですか?」
「確か188センチだよ。尺でいうといくつだっけ」
「六尺二寸って言った方が俺たちには通じやすいかもね」

 スミレに補足するように加州が答える。彼らの発言を聞いて、歌仙と藤は揃って顔を見合わせた。

「それって、頭とか打ったりしない?」
「恥ずかしながら時折鴨居に頭を打ち付けておりまして、ぬしさまに頼んで高さを変えてもらえないかと相談している所なのです」
「小さな本丸だと、背の高い人が苦労しちゃうんだよね」

 歌仙は自分の本丸の様子を思い出す。たしかに、このような長身の人物がいたら苦労するだろう。今まで五虎退や物吉のような子供の見た目をした刀剣男士ばかり顕現されていたため、気づくことができなかった点だ。

「服も別のものを用意した方がいいかな。髪の毛も長い人なら手入れが大変だろうね」
「触ってみますか? ぬしさまお気に入りの毛並みですよ」

 腰ほどまでに届くふさふさした白髪が、ずいと藤の前に差し出される。彼女は目でスミレに許可を求め、彼女に頷かれてから恐る恐る彼の白い髪の毛へ指を滑らせた。最初からおっかなびっくりであった手つきは、やがて五虎退の虎を撫でるように大胆なものへと変わっていく。

「ふわふわで気持ちいいね」
「でしょう? 私もお気に入りなの」

 小狐丸を中心にわいわいと盛り上がる二人。彼女たちを見つめながら、歌仙は小狐丸という太刀の観察を続ける。
 上背は彼らが言う通り、かなりのものだろう。歌仙は自分の背丈を厳密に測ったわけではないが、己の体よりは彼が一回り大きいことぐらいは分かる。しかも見かけ倒しの背丈では無く、露わになっている二の腕にはしっかりと筋肉がついている。がっしりとした体が振るう一撃は、恐らく強力なものに違いない。
 性格の面においても、他人である主以外の人間に触れられることを許容する度量の大きさは、一目置くべき所だ。小狐丸固有のものか太刀全体のものかは分からないが、主を立てて後ろに付き添うような物言いや振る舞いは、申し分ないくらい洗練されたものでもある。

「あの、もしよかったら刀身も見てみたいのだけれど、いいかな」
「構いませんよ。ただ、ここで抜刀をするのはあまり良いとは言えませんね」
「それならテラスに出ようよ。そこでならお日様の下で見ることができるし、丁度いいんじゃない?」

 スミレに促され、まず小狐丸が席を立つ。歌仙も主についていくべきかと腰を浮かしかけたが、

「主ー。ちょっといい? 俺、この歌仙とここで話をしてたいんだけど」

 割って入った加州の言葉に、歌仙は中腰のまま固まった。彼が何を言おうと、主がついてこいと言うなら断るつもりだったが、

「歌仙がいいなら、僕はいいよ」

 あっさりと許可は下りてしまい、歌仙は改めて席に座り直す。普段通りの何気ない藤の言葉が、今は少し冷たいもののように聞こえてしまうのはなぜだろうか。
 スミレの方も許可を出したようで、加州は改めて歌仙の前に座り直す。三人がテラスに出て行ってしまったためか、先ほどよりもやけに空間が広く感じられた。

「それで、話とはなんだい」
「うん。会った時から思ってたんだけどさ」

 加州は主の前で見せる人なつこい微笑を引っ込め、代わりに歌仙を試すような挑戦的な笑みを見せる。

「何をそんなに焦ってんの?」


 ***


 テラスに出ると、七月のぎらぎらした日差しと湿り気を帯びた夏の風が通り過ぎていった。微かにただよう草の香りが、藤に本丸の畑を思い出させる。先を行くスミレという女性の話では、彼女の本丸ではあまり畑当番をしたがる刀剣男士がいないらしい。
 本丸ごとに色々な形がある。彼女と話をして藤は改めてそんな当たり前のことを思い知った。けれども、と同時に一つの反論も心に浮かぶ。

「僕はあんな風にはできないな」

 小狐丸と軽口でもたたき合っているのだろうか。すぐに裏表のない笑顔を浮かべ、遠慮無く物を言い合うスミレの姿はいっそ眩しいぐらいに理想的な審神者の姿に見えた。
 藤は意識的に笑顔を作り上げる。口元に少し力を入れ、緩く弧を描いた笑み。いつも歌仙や五虎退らに向けている笑顔は、きっとスミレが自分の刀剣男士に見せるものとは程遠いのだろうと彼女は知っていた。
 テラスから庭に降りた三人は、その片隅に辿り着いてからようやく足を止める。

「太刀の顕現って私は結構時間がかかったんだけど、藤さんはもう沢山顕現しているの?」
「ううん。まだ三振りだけ。あまり鍛刀できてなくて」

 言いながらも、藤はスミレに気づかれないように表情に力を込める。何故鍛刀をしないのかと問われて、表情を崩さないためだった。だが、藤の回答を聞くとスミレは安心したように頬を緩ませた。

「あー、そうなんだ。よかった~。実は私も苦手でね」
「苦手……新しい刀剣男士が来ることが?」

 藤は思わず表情を崩し、驚きと少しばかりの安堵を顔に滲ませる。しかしスミレは藤の言葉を聞き、首を横に振った。

「鍛刀自体がね、何だかうまくできないことが多いの。新しい子が来ることは大歓迎なんだけどね」

 スミレは照れ隠しのためか、あははと苦笑いを浮かべてみせる。つられて藤も笑ってみせたが、その笑顔は自然に零れたものにしては些か完璧すぎるものだった。

「次の顕現は太刀がいいって話していたよね。何か理由はあるの?」
「太刀の刀剣男士は戦力になるって聞いたんだ。だから、なるべく早く顕現したい。本当は下見に行ってる時間も惜しいんだけど」

 そこまで言って、藤は続く言葉に迷った。自分が口にしたように、下見に行く時間も惜しいのだから、本来は今すぐにでも鍛刀場に向かうべきだ。つまり、ここでこうしているのはただの自分の我が儘であり鍛刀の先延ばしに過ぎない。
 藤が何を言うかとスミレが続きを待っている様子に気がつき、彼女は慌てて口を動かした。

「戦力が不足していると、出陣の時に怪我をするかもしれないから。戦力は多いに越したことはないと思ったんだ」

 まるで責任を刀剣男士らに押しつけているようで、ばつの悪さのようなものが彼女の内側に溜まっていく。だが、戦力不足なのは事実だ。
 一つ息を吐き出して、藤はちらりと店内に残っている歌仙に目を向ける。窓ガラスの向こうにいる彼は、いつになく真剣そうな顔で加州と話をしていた。その横顔は、あの遠征帰りの夜を思わせるものだった。

「……それに、僕の本丸にいる子たちは、歌仙より年下の子ばかりなんだ。刀としての実年齢はどうなのかは分からないけど、歌仙にとっては何もかも打ち明けるというわけにはいかないみたい」

 一人で縁側に腰掛けていた後ろ姿を藤は思い返す。その姿は、どこか自分に似ているように彼女には思えていた。

「だから、歌仙が頼れるような大人の同じ刀剣男士がいたら、少しは気が楽になるかなって。歌仙は必要ないって思っているみたいなんだけどね」

 そこまで話してから、藤は視線を感じて顔をスミレたちの方に向ける。彼女も小狐丸も揃ってじっと藤の言葉を聞いていた。やけに真面目くさった言葉を口にしたことが、途端に恥ずかしく思えてくる。咄嗟に取り繕うような笑顔を藤は作った。

「まだ新米の、しかも――ただの人間なんかじゃ、歌仙も安心して何もかも話すってわけにもいかないだろうし」
「そんなことはないと私は思うけどな。藤さんは、こんなにもいっぱい歌仙さんのことを考えてるんだもの」

 にっこりと微笑みかけるスミレ。けれども、藤は足こそ動かさなかったものの、内心で一歩後ずさりをしていた。

「僕は、歌仙たちみたいに色んな戦いを見ているわけじゃない。それに、僕の価値観と歌仙や他の皆の価値観は合わない」

 留まることの知らない言葉の奔流が、彼女の口からついて出る。漏れ出た言葉は、今まで歌仙たちには聞かせたことのない感情の発露だった。

「余計なことを言っても、困らせてしまうだけなんだ。僕のせいで傷つけたり戸惑わせたりしてしまうくらいなら、何も言わない方がいい」
「うーん……それは、人間の考え方と刀剣男士の考え方は合わないってこと?」

 スミレの問いかけに、藤は答えない。

「私はそんなことはないと思うな。意外と、皆は私たちと同じような考え方をしてるよ。簡単なことで怒ったり、笑ったりね。小狐丸なんて、私が髪の毛を梳いてあげないとすぐに拗ねるんだもの」
「ぬしさま。それはどうかご内密にと」
「ふふ、いいじゃない。まあ、大人の見た目をしている小狐丸でもこうなんだから、あまり違うものだって分けなくてもいいんじゃないかな」

 先輩の言葉を聞いて、藤は笑顔を見せる。彼女が親切から、アドバイスをしてくれていることは藤にも分かっていた。だからこそ、彼女はその言葉を受け入れるべきだと、変わらない笑顔を作り上げる。折角の助言を無為にしないためにも、意識的に受容の姿勢を見せようとしてしまう。
 たとえ、その助言に無数の否定を向けたいと思っていたとしても。

「戦力のためとか友人になってもらうためとか、そういう形での顕現も大事だとは思う。でも、相談役っていう意味なら審神者でもできるよ。私たちが向き合えば、その分だけ刀剣男士たちも応えてくれる」

 藤は浮かべた微笑を微動だにさせずに、スミレの言葉を聞いている。喉の奥で浮かび上がる万の抗弁は、閉ざされた唇から漏れることはない。

「ええ。私は……おそらくは全ての刀剣男士が、ぬしさまのために刀を振るいたいという心を常に持っています。新たに顕現される刀剣男士が誰であろうとも、それは変わらぬはず。他の刀剣男士のために顕現したと知れば、気を悪くされるでしょう」

 小狐丸も主と同じように、目の前にいる新人審神者に向けて刀剣男士としての心構えを告げる。

「本丸にいる仲間同士のことを藤様が気遣われるように、恐らく歌仙殿たちも、藤様のことを気にしておられるでしょう。我々のことに心を配っていただけるのは、無論無上の喜びではありますが、我々に遠慮をすることもないのですよ」

 胸に手を当てて、小狐丸は藤を安心させるように目を弓なりに細めた。

「人と刀剣男士という違いはあれど、我々はぬしさまがどのような考え方を持っていたとしても受け入れたい。そのように常から考えているのです」

 今まで黙って笑顔を浮かべ続けていた藤の表情が、小狐丸のその言葉を聞いた瞬間、明らかに変わった。何かを思い悩むように、唇を真一文字に結んで目を伏せる。
 藤の胸の内からは、無数の言葉が湧き上がっていた。その多くは自嘲や諦観に塗れたものであると、彼女自身が自覚していた。だが、同時に別の言葉も浮かび上がる。

「どんな考え方でも、聞いてくれるのかな」

 その言葉は、問いかけというよりは最早願いに近かった。

「間違ってるって、言わないでくれるかな」

 掠れた吐息のような言葉は、切れそうな糸に縋り付こうとするように細かった。だが、小狐丸はたしかにその言葉を聞いていた。

「ええ。歌仙殿は良い刀のようですし、藤殿もよい主のようでいらっしゃる。それなら、きっと大丈夫ですよ」

 彼は狐のように細い目で、微笑みかける。こんのすけにも似たその笑顔は、けれどもあの獣よりはずっと優しげに思えるものだった。
 藤は胸に手を当て、数度小さく深呼吸をする。小狐丸の言葉を体の内に染み渡らせるように、口にした思いを逃がしてしまわないように、体の内側へと取り込んでいくような振る舞いだった。

「……ごめんね、変なこと言って」
「ううん。刀剣男士って何だか遠い人みたいに感じるから、不安になっちゃうよね。私もそうだったから気にしてないよ」
「うん。……うん」

 藤の口元に小さく浮かんだ笑みは、先ほどよりは幾分か柔らかなものになっていた。

「さてと。刀身を見に来たんだよね。それじゃあ小狐丸先生、どうぞ!」
「ぬしさま、それに藤殿。少し下がっていただけますか。間違って怪我でもしたら、大事ですゆえ」

 小狐丸に促されて、二人は数歩彼から距離をとった。他に近づくものがいないことを確認してから、彼は腰に吊している太刀に手をかけてすらりと抜き放つ。
 少し反りのある刀身が、初夏の光を浴びて鈍く煌めいていた。濃い鈍色の中に、さざ波のように浮き上がっているのは見事な銀の刃文だ。切っ先にかけての傾斜は緩やかだが、先端部分の鋭さは見ていて背筋を伸ばす凄絶さがある。

「すごい。小狐丸って、こんな綺麗な刀身をしているんだね」

 感嘆の息をついた彼女は、いそいそと小狐丸が持つ彼の半身に近づいた。瞬きする間を惜しんで、じっくりと優美な曲線を見つめる様子はまさに興味津々と言える。

「藤さんは、刀を見るのが好きなの?」
「うん。しょっちゅうは難しかったけど、審神者になる前から興味はあったんだ」
「歌仙さんや他の男士とは、やっぱり違うものなの?」
「専門家じゃないから細かくは分からないけれど、でもどこか違うとは思うよ」

 自分の顔を小狐丸の刃に写しながら、藤は少しだけ楽しそうに声を弾ませた。

「へえ、そういうものなんだ。じゃあ、刀に興味があったから、審神者になったの?」
「そういうわけじゃないよ。そっちは……成り行きで」

 藤は少しばかり言葉を濁し、小狐丸に夢中のような素振りを見せることで、それ以上の追及を避けようとした。幸い、スミレは太刀に夢中になっている新人に、無理に話しかけようとはしなかった。

「……刀は、いいよね。怖い物のはずなのに、綺麗って言ってもらえるから」

 小狐丸自身に聞かれないように、極限まで小さくした声で彼女は呟く。その呟きには、微かな羨望も滲んでいた。

(でも、もしかしたら、もしかしたらだけれど――何か、違うものになるのかもしれない)

 刀身から顔を離して、彼女は無意識に自分の額に巻かれたバンダナをそっと撫でた。刀を鞘に収める小狐丸に、刀身を見せてくれた感謝をお辞儀で表しながらも彼女は先ほど聞いた言葉を思い返す。

(どんな考えも、本当に受け入れてくれるのなら)

 そこまで期待の蕾を膨らませながらも、同時に喉の奥が締め付けるように引き攣れるのが藤には分かった。
 耳の奥で響く女性の泣き声。或いは困ったように問いかける男性の声。「どうして」と問いかけるその声たちが、自分にどんな感情を向けていたかを、彼女は覚えている。
 不意にぞっとするほど冷たいものが背中に流れ落ちたような気がして、彼女は微かに身震いする。
 けれども、と彼女は唇をそっと噛んだ。
 あるじさまを待っていますと告げた、五虎退の真摯な目。
 ボクは何も見ていませんと言った、物吉の優しげな笑顔。
 それに――歌仙の困ったような笑顔が、ふと彼女の中で蘇る。

(何かきっかけがあれば、それならきっと話せるかもしれない)

 丁度、鍛刀を控えている身だ。新しい刀剣男士が訪れるときに、彼らに話せなかったことを口にしよう。
 ――今度こそ、きっと。何かを変えられるかもしれない。
 少しばかりの希望を胸に抱えて、藤は小さく頷いた。
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