本編第一部(完結済み)

「歌仙、ちょっと頼みがあるんだ」

 あの遠征から数日後の朝。いつものように卓袱台を囲んでいた四人の中、藤がどんぶりサイズの自分の茶碗を片手に何気ない様子で口を開く。
 風邪が治ってからも遠征の資料をまとめていたため、落ち着いて主が朝食をとるのは実に二日ぶりだった。久しぶりに食卓の場を共にした主が口にした頼み事に、歌仙は眉を少しばかり上げて、意表を突かれたという顔をする。

「僕にかい?」
「うん。実は、ちょっと演練にいこうと思っているんだ」

 藤の言葉を聞いて、刀剣男士である三人は一様に顔を見合わせる。
 ――演練。それは刀剣男士同士のチームワークを試すために、あるいは単純に実力を試すために、他の本丸の刀剣男士と試合を行うことである。簡単に言うなら、交流を兼ねた試合といったところだろうか。

「ですが、主様。演練の参加は、基本六振りであったと思います。ボクたちではまだ数が足りないですよ」

 物吉が指摘したように、演練の参加は本来六振りで一部隊と見なすという慣例に則り、六振りで参加するのが基本とされているはずであった。数日前に、主が見せてくれた覚え書きに記されていたのを目にしていたので、物吉はそのことを覚えていた。この本丸にいる刀剣男士は、まだ三振り。どう見ても数が足りているようには思えない。
 少年の言葉を耳にして、藤は「違う違う」と小さく首を横に振る。

「正式に演練を誰かに申し込みに行く、というわけじゃないんだ。ちょっと見学に行こうと思って」
「見学……ですか? それは、試合を見に行くんですか?」
「そうじゃなくて、刀剣男士を見に行こうと思ったんだ」

 いまいち要領を得ない会話に、尋ねた五虎退も首を傾げる。直接指名された歌仙に、物吉と五虎退の注目が集まるが、事情を聞いていない歌仙が彼らの疑問に答えられるわけがなかった。
 最終的に三人の目線は主に集中する。三対の視線を一身に浴びて、藤はようやく本題を口にした。

「実は――新しい刀剣男士を、顕現させようと思っていて」

 その言葉を聞いて、食卓にいる三人の表情が三者三様のものに変わる。
 物吉は新たな仲間の来訪を聞いて素直に表情を輝かせていたが、五虎退は戸惑いを見せ、歌仙に至ってはまるで炭でも飲んだようにやや険しい顔をしていた。
 茶碗の中のご飯を掻き込むことに忙しい彼女には、器が邪魔になっていたために、幸か不幸か彼らの顔は見えていないようだった。その仕草の下に主がどんな顔をしているのかもまた、歌仙たちには見えていない。

「どうして、いきなり鍛刀をしようなんて言い出したんだい」
「どうしてって言われても、必要かなと思ったから」

 どんと茶碗を置いて、口の中に米を詰めながら彼女は言う。少しだけ逸らした目線は、歌仙の瞳と交差することなく彼の隣を見つめていた。
 どことなく漂う不穏な気配が、藤と歌仙の間に流れる。いつ爆発するか分からない導火線を見守るように、五虎退の視線が不安げに二人の間を行ったり来たりしていた。
 口に出さずとも、五虎退も歌仙も彼女が顕現に対して消極的なことを知っていた。物吉を顕現するまで、何度彼女は「いつか鍛刀をする」と言って先延ばしにしたか数知れない。
 けれども、そんな主が率先して鍛刀を考えていると口にしていた。つまり、彼女が自身の方針を転換させてまで必要だと判断したということに他ならないと、二人は結論づけていた。

(……僕のことを、頼りないと思っているのだろうか)

 数日前の夜にした会話が、歌仙の脳裏をよぎる。
 歌仙にとっても頼りになる刀剣男士が必要だと、彼女は言った。歌仙を支えることは自分には絶対できないのだと。
 直前まで、彼女に助けられたとすら思っていた歌仙としては、納得できない発言だった。まるで一本の線を引かれて、この先から入ってくるなと言われたかのようだ。
 そこに加えて、この鍛刀をするという発言。歌仙の不安を煽るには十分すぎる要素だった。

「顕現させるにあたって、せっかくだからどんな人が来るのか知っておいても損はないかと思ったんだ。演練には色んな刀剣男士が来ているらしいから、丁度いいかと思ってね」

 藤の言っていることに理屈は通っている。だが、理屈だけでは歌仙の内側の黒雲は払えない。
 何故歌仙と五虎退がそんな顔をしているのか、物吉が当然分かるわけもなく、彼の琥珀色の瞳には二人とは違う戸惑いが浮かんでいた。聞いてはいけないような神経質な空気に、流石の物吉も普段の明るさを抑えて成り行きを見守っている。

「見学に行くだけだから、同行はするのは一振りでいいよね。だから、歌仙にお願いしようかと思って」

 ――それは、頼られていると思っていいのだろうか。
 胸中の問いを、歌仙は口にできない。己を安心させるための材料を、藤の顔から読み取ることもできない。ただ彼ができたことは、首を縦に振ることだけだった。

「ありがとう。行くのは明日の予定だから、準備しておいてね」

 言うだけ言って、彼女は席を立とうとした。が、不意に伸びてきた五虎退の細い指が藤の上着の裾を引く。

「……五虎退、どうしたの?」
「あの。……後で、お話ししたいことがあるので、お部屋に行ってもいいですか?」
「今じゃ駄目なことなの?」
「……え、と。はい、そうです」

 内気な少年が藤に向けた視線は、今までと違う確かな強い意志が秘められていた。彼の目に気圧されるように、彼女はかすかに首を縦に振った。


 ***


 あの日の夜と寸分違わぬ五虎退の姿が、主の部屋の前にあった。ただ、あの日と違うのは、少年は目的地を最初からここにしていたという点だ。
 遠征帰りの夜、彼女に向けて刀剣男士としての決意を新たにしてから、ここに来たのは今日が初めてだ。あのときは襲いかかった現実に圧倒されてしまって主に慰められてしまったが、五虎退には僅かな時間を共に過ごした姉弟に教えてもらったことを、忘れていたわけではなかった。

「あるじさまに、伝えなくちゃ」

 主と同じ名前の女性が教えてくれた大事なこと。歴史の波に攫われてしまったけれど、未来に生きる自分に確かに残してくれた光。
 五虎退が勘違いだと思い込もうとした、顕現した時から主との間にある微かな違和感に彼は向き合うことを決めた。まるで五虎退の存在そのものに困っているような気配を、出会った当初の藤は漂わせていた。けれども彼女と話をして、共に遊びまわり、きっと勘違いだと彼は思うようになっていった。

(ううん、違います。僕も聞くのが怖くて……勘違いだって思いたかっただけなんです)

 決定的な一言を口にしてしまったら、主との間に消えない溝が刻まれてしまうのではないか。主がついている優しい嘘に甘えていれば、自分は傷つかずに済む。そんな甘い考えがなかったとは、五虎退は断言できない。
 だからといって、五虎退は無理に主を問い詰めようとは思っていなかった。ただ、伝えたいと思うことを口にするという決意はしていた。

「あるじさま。僕です」

 五虎退がか細い声を張り上げると、襖の向こうから「どうぞ」という小さな返事がした。
 意を決して、そっと襖を開く。あの夜の時と同じように、主の部屋が変わることなく広がっている。ただ、部屋の主は今日は寝台にいない。文机で何かを読んでいる最中だったようで、広げられた本の前に彼女はいた。
 顔を上げた藤は、変わらず薄く笑みを浮かべる。

「どうしたの。改まって話があるなんて」
「……その、言いたいことが、あるんです」

 思い当たることがないのだろう。藤は微かに首を傾げて、五虎退の言葉の続きを待っている。
 不意に、五虎退は口の中がからからに乾いていることに気がついた。今までの関係から一歩踏み出す言葉。別に、何もかもを打ち明けてほしいと迫るわけでもないのに、どうしてこんなにも喉が引き攣ってしまうのか。
 それでも、五虎退は顔を上げて主の顔を見つめる。すぅと息を吸い込み、彼は震える唇を動かす。

「あるじさまは……僕たちに、お話しできていないことが、あるんですよね」

 つっかえつっかえ口にした言葉が、藤の耳に飛び込む。彼女の笑顔に亀裂が走り、緩く浮かべられた口角がはっきりと歪む。
 彼女の表情の変化に気がつき、五虎退は顔を青くする。傷つけてしまったのではないかという懸念が、これほどまでに胃を鷲掴みにされるような恐怖と隣り合わせだなどと、想像すらしていなかったからだ。続く言葉があったはずなのに、彼の口からはなかなか出てこない。
 言わなければいけない。言わなければ、これではまるで追い詰めているようではないか。無言で、迫っているようではないか。

「僕が……話していないこと?」
「あの! べ、別に無理に、話してほしいとか、そういうことを言いたいんじゃなくて……ただ、待ってるって、言いたかったんです」

 藤が何かを言う前に、五虎退の声が被さるように響く。藤は口を噤んで、彼の必死の思いを聞いていた。

「僕は、お待ちしてます。あるじさまは、いっぱい頑張ってるんだと思います。頑張ってるんだろうって……知ってます。だから、その、無理はしなくていいですから……でも、いつか」

 頭の中で理路整然と並べていたはずの言葉も、いざ本人を前にしたら一言も思い出すことができない。顔を真っ赤にして今にも泣きそうになりながらも、五虎退は思いの丈を細い声で口にしていく。
 主が一体何を気にしているか分からない少年には、自分の言葉一つ一つが彼女にとっての棘になっていないかという不安に駆られてしまっていた。
 対する藤は、何の反応もせず黙って五虎退の言葉を聞いている。歪んだ笑顔を浮かべていた顔は、今や完全に俯いてしまい、どんな表情をしているのかも分からない。

「いつか、いつか……お話ししてくれると、信じてます、から」

 どうして、自分を疎むような気持ちを抱いていたのか。どうして、話しているときに全く別のことを考えているような素振りを見せるのか。
 それらの疑問を、五虎退は「いつか」という言葉に包んで願いとして、藤へと差し出した。
 
「……そう。ありがとう、五虎退」

 藤は五虎退の言葉をすべて聞いてから顔を上げ――笑っていた。目を細めて、口角を微かにつり上げ、いつもの笑顔を浮かべていた。
 主の様子を見て、少年はその場で崩れ落ちそうなほどの安心に包まれる。主がいつものように自分を受け入れてくれた。彼女の普段と変わらない笑顔が、五虎退の緊張を緩やかに解していく。冷たい目で拒絶されるのではないかという心配は、どうやら杞憂だったようだ。

「ごめんね。そんな風に気を遣わせてしまって」
「いえ……そんなこと、ないです。それよりも僕は、あるじさまを……嫌な思いにさせてないかって思って……」
「僕が、五虎退に? 安心して。五虎退が悪い所なんて一つもないよ」

 藤は大げさなくらいに目を丸くしてみせてから、ゆるりと微笑んだ。不安そうな少年に近づいて、彼の柔らかな髪を撫でる。愛おしそうに目を細める姿は、普段と何ら変わりないものだった。
 何かを変えようと思って話したはずなのに、変わらないことに安堵している矛盾。それに気がついてしまった五虎退は、複雑な思いを表層に浮かべて主に気づかれないように表情を歪める。だが、劇的な変化を無理に望めば傷つけてしまうのではないかと思っていたのも、また事実だ。だから彼は、大人しく頭を撫でられるがままになっていた。

「五虎退が気にしていることが、具体的に何かは僕には分からない。でも、言い出してくれてありがとう」
「……はい」

 明確な返事を得られたわけではないが、これ以上深入りをするのなら詰問と変わらない。五虎退は細く息を吐き出して、乱れてしまった気持ちを落ち着かせようとした。
 その様子を藤は笑顔を崩さずに黙って見守り続けた。普段と何ら変わらない──いつもの笑顔を浮かべて。

(いつだって悪いのは、僕の方だ)

 蓋をした思いは、言葉にはならずじまいだった。

 
 

(立ち聞きをするなんて、雅ではない。そのはずなのにね)

 自嘲するような歪んだ苦笑いを浮かべて、歌仙は廊下の壁から背を離す。藤の部屋を通りがかった彼は、思いがけなく耳に飛び込んだ言葉を聞いてその場で足を止めてしまった。
 ――お話しできていないことが、あるんですよね。
 五虎退が意を決して口にした言葉。しかし、少年は決して問い詰めるようなことはしなかった。
 話してくれるのを信じて待つ。五虎退の必死の言葉は、廊下にいた歌仙にもよく聞こえていた。

(僕は、信じられなかった。待つことができなかった)

 だから、あの遠征帰りの夜に彼女を問い詰めた。藤に決して支えられないと告げられて、突き放されたような気がして、思わず彼女を引き留めてしまった。何か言いたいことがあるのではないかと、追い詰めてしまった。
 その結果が。歌仙は自分の掌を見つめる。数日前、主に叩きつけられた言葉の爪痕が、そこに残っているような気がした。

(僕が頼りないからじゃない。僕が主を信頼していないんじゃないか)

 それなら、主が自分を信頼するはずがない。こちらは信頼していないのに、相手には信頼してほしいなんて虫のよすぎる話だ。
 話し声はそれ以上聞こえなくなり、五虎退に立ち聞きを悟られないように歌仙はその場を離れた。

「僕は……主を信頼することもできていなかったのか。惰性に流されて、白黒はっきりさせる勇気すら無かった」

 歌仙の考えは、奇しくも五虎退と同じものであった。
 知らないふりをしている方が、互いに傷つかずに済む。そんな人間じみた処世術に、慣れてしまっていたことに我ながら驚かされる。だというのに、彼女に力不足だと思われていないか心配するなどと烏滸がましい。距離を置いていたのは自分自身でもあるのだから。

「そのくせ、捨てられるような気がして焦って、結果的に僕は主を問い詰めることしかできなかった」

 五虎退のようにただ待っている、ということも伝えられていない。そのような考えにすら至れていない。
 遠征の時に見上げた月が、とても恋しく思える。あのとき感じた、心が洗い流されたような気持ちにはほど遠い。それでも翌日が来るのかと思うと、歌仙はため息をつくしかなかった。


 ***


 歌仙兼定は、今日で何度目になるか分からない嘆息をこっそりと吐き出した。彼の息の音をかき消すほどに、ガンガンという硬いものをぶつけ合う音や雄叫びのようなものが響く。
 ここは、演練会場の一角。野外演練場の見学席として用意された場だ。見学者用の座席に座っている歌仙の隣では、藤が半ば身を乗り出しながら、試合の様子を食い入るように見つめていた。

「歌仙。あれは何ていう刀なの?」
「あれは、獅子王という刀だよ。太刀に分類されているね」

 主に裾を引かれて、歌仙は先ほど聞こえていた名乗りを記憶の端から拾い上げて答える。二人の視線の先には金の髪をたなびかせた黒服の青年がいた。黒い毛皮のようなものを纏っており、名前の通り遠目には獅子を思わせる姿をしているようにも見える。

「じゃあ、あっちの対戦相手は?」
「あれは山伏国広と名乗っていたよ。こちらも太刀だね」
「へえ。同じ太刀でも全然違うんだね」

 二人がずらした視線の先には、名前の通り山伏の装束に似たものをまとった男がいた。一本足の下駄を履いているのに、器用な足さばきで巧みに金髪の少年の攻撃を躱している。
 一対一の試合ではなく、六対六で行われた試合の果ての一騎打ちだったため、二人にはあちこち擦り傷ができていた。それでも戦意が全く衰えていないのは、さすが刀剣男士というところだろう。
 一切の気の緩みが混じることのない二人の試合に、藤は目を輝かせて見入っている。しかし、歌仙の口から漏れ出るのはため息ばかりだった。

(せっかく主が楽しそうにしているのだから、こんな風にため息をつくものでもないだろうに)

 内心ではそう思っていても、先日から心に残っている蟠りを思うと主の喜びも手放しで受け入れることもできない。新しい刀剣男士の顕現が、ひいては自分に向けての戦力外通告なのではないかという暗い予測は、早々簡単に拭えるものではなかった。

「じゃあ歌仙。あっちにいる刀剣男士は?」
「主。試合相手の一覧はここに来る前に受付から貰ったのだから、自分で見たらどうなんだい」
「それもそうだったね」

 思わず声を荒らげそうになりながらも、自制心を総動員させて、歌仙は努めていつもの調子で返事をした。
 彼に言われた通り、藤は薄い小冊子に目を通し始める。そこには、今日の演練に出場する刀剣男士と本丸について簡単にまとめられていた。
 演練と称してはいるが、刀剣男士たちの目に宿る光は実戦と変わらない。誰だって、主の前で手を抜くようなまねはしたくないのだろう。同じ刀剣男士である歌仙は、気を紛らわせるためにも出場者たちの心中に思いを馳せる。
 演練が開催される場所はいつも決まっているわけではなく、時期も不確定らしい。他の審神者も、数日前に突然通達が来るということもあると話をしていた。今回は広めの運動場にて六対六の実戦に近い乱戦と、道場のようなスペースで行われる剣道の試合に似た一対一を六振り分こなす一騎打ちが行われている。歌仙たちは最初に乱戦の方の試合を見に来ていた。
 不意にかけ声がやみ、次いでわっという歓声が上がる。獅子王が山伏国広を下し、首筋に木刀を突きつける様子が歌仙の目からも見てとれた。
 獅子王に後を託していた五振りが歓声をあげ、主らしい審神者の男性も満足そうに頷いている。主に向かって一目散に駆けていく獅子王の姿は、年相応の少年にしか見えなかった。擦り傷だらけの彼に微笑みかける審神者の青年が見せる横顔は、どこか主を思わせる穏やかさがある。自分の主に褒められて嬉しいのだろう、頬を紅潮させて満面の笑みを浮かべる獅子王の姿は、否応なしに歌仙の心に言いようのない痛みを与える。
 視線を敗者の方に向けると、一騎打ちに敗北した山伏国広の元に味方の刀剣男士たちが集まって、何事か話し合っていた。どうやら、もう次の戦いに向けて討論を交わしているようだ。彼らの様子を主である白髪の少女が、微笑みながら見守っている。彼らを見つめる少女の瞳に宿る暖かさも、また歌仙の心中を穏やかでないものへと変えていく。

「歌仙。次は一対一の方を見に行こう。もっと落ち着いて見られるかもしれない」
「分かったよ」

 返事が短くなってしまうのは、歌仙の中に不安があるからだけではない。先ほどから、他の刀剣男士に向けて目を輝かせている主を見て、歌仙は胸の奥がちりちりと焦げるような苛立ちを覚えていた。
 先を行く藤の後を追いかけながらも、歌仙は消化しきれない思いに顔を顰めていた。
 ――そんな彼の様子を見つめる、一対の視線に気がつくこともなく。


 それから一時間ほど。歌仙と藤は道場の片隅にある試合観戦場から、次から次へと行われる演練の様子を見つめていた。
 主である彼女は、元々剣術の指南を多少なれど受けていたのだろうと、歌仙は以前推察していた。恐らくそのためか、試合そのものも楽しんでいるようだ。相手が使用しているのは木刀ではあったが、彼らの挙措は実戦のときと変わりない。その様子が彼女の興味を刺激しているようだった。

「…………」

 だが、当の歌仙は眉を顰めて試合の様子を見つめていた。その表情を一言で表すのなら「面白くない」だろう。
 興奮を露わにした主の喜びの表情を作り出したのが自分ではない、という事実。他の刀剣男士に興味を持っているようだ、という光景。そのすべてが、歌仙にとって「面白くない現実」となっていく。
 気分転換のためにも、席を立って飲み物でも買ってこようかと考えた時だった。

「あのさ。もしかして今、暇してる?」

 不意に軽薄そうな青年の声が、歌仙の頭上から降ってくる。いったい誰の声かと歌仙は首を後ろに捻る。
 彼の背後に立っていたのは、黒いコートに赤いマフラーの青年だった。一見地味に見える黒のコートも、ひらりと垣間見えた裏地には赤と黒のチェック柄で鮮やかに彩られている。耳には大きな金の耳飾りが輝き、しなやかな足はコートと同じ黒いズボンが包んでいる。戦場に立つには些か不釣り合いな踵の高いブーツが、この青年には奇妙なぐらい似合っていた。猫のように細くつり上がった紅の瞳が、どこか楽しそうに歌仙たちを見つめている。

「ここに来たのはいいんだけど、対戦相手が急用で来られなくなって暇してるんだよねー。折角の演練なのにぼーっとしてるだけっていうのも勿体ないし、対戦相手探してたってわけ」
「僕らは観戦に来ているんだよ。悪いけれど君の相手はできない。他を当たってくれるかな」

 下り坂の機嫌であっても、歌仙は冷静さを忘れまいと至極もっともな回答をした。隣に座っている藤に視線を送ると、流石に会話が聞こえたのかこちらに目を向けている。
 しかし、歌仙の断り文句を聞いて青年はにやりと笑った。

「へえ。主の前で負けるのが怖いんだ」
「なっ――!」

 挑発的な彼の言葉に、歌仙はガタリと音を立てて立ち上がる。普段の彼なら、こんな安っぽい挑発に乗ることはしない。けれども、歌仙の虫の居所はこの会場に来てから悪い方向に傾くばかりだった。そんな折に、こんな言葉を向けられたら黙っていることができるわけもない。

「ちょっと、歌仙。どうしたの」

 主が歌仙の苛立ちにまるで気づいていない様子であることも、彼の中に燻る炎の燃料となる。ぐいぐいと藤に裾を引かれるが、歌仙はまるで意に介さず目の前の青年を睨みつけていた。

「よーし、決まり。じゃあ、会場借りてくるね。あ、名前言うの忘れてた。俺、加州清光。よろしくー」

 ひらひらと手を振って、彼は慣れた足取りで受付の方に向かう。垣間見えた手の爪には、五指とも真っ赤な爪紅が塗られていた。
 踵の高いブーツに派手な赤と黒の装い。武人の誇りのようなものを感じさせない軽薄な態度。その全てが、歌仙の神経を逆なでしていく。
 彼がもしもっと落ち着いていれば、彼の立ち居振る舞いに隙がないことに気がつくことができただろう。また、刀剣男士であるのならば、誰であれ某かの矜持を抱えているものであり、彼の見た目にも何かの意味があると推察もできただろう。けれども、今の歌仙には加州を分析できるほどの心理的余裕はまるでなかった。

「ねえ、歌仙。相手の主に許可もとらないで試合なんて、本当に良かったの?」
「いいんだよ。相手が売ってきた喧嘩だ」
「あんな安っぽい売り言葉に乗らなくてもよかったのに」
「君には関係ないだろう」

 バシッという鋭い音が、二人の間に響く。
 歌仙が自分に伸ばされた藤の手を払った音。それは、奇しくも先日の夜のやり取りと同じ、相手を拒絶するものだった。
 試合の声にかき消されるような小さな音のはずなのに、歌仙の耳にはずっと強く、残酷な響きに聞こえた。歌仙が払った弾みでついた赤いあざが、藤の手にはくっきりと残っていた。それに気がついてしまった歌仙の胸中に、言い知れない罪悪感が湧き上がる。
 ――あの夜の自分の気持ちを、少しは思い知ればいい。
 そんな暗い喜びが一瞬浮かび上がり、しかし手を庇うような彼女の仕草に黒い感情はすぐに小さくなっていく。残されたのは、行き場のない居心地の悪さばかりだ。彼女のあざを見ないように、歌仙は目を逸らすことしかできなかった。

「…………関係ない、か」

 残された藤は、まだ痛みが残る手に目を落とす。その横顔には微かに後悔の色が滲んでいたが、既に席を後にした歌仙が気づく由もなかった。


 二振りの刀剣男士が、演練場の片隅で向かい合う。その手には一振りの木刀。向かい合う二人の間には沈黙しかない。
 片や未だ消えない眉間のしわを露わにしている歌仙。片や余裕の表れか、微笑を浮かべ続けている加州清光。
 審判員すらいない、試合というよりも私闘のような場。観客もおらず、開始の合図すらも歌仙の主である藤に任されているため、余人の入る場はどこにもなかった。
 加州の主はまだ姿を見せる様子はない。どうやら、彼は自分の主に試合のことを話していないようだった。
 まだ気乗りしない様子の藤は、審判員が立つべき位置に立ちながらも困ったように顔を顰めている。いつもの笑みが引っ込んでしまうのも、無理もないと言えるだろう。

「じゃあ、お願いしまーす」

 加州に促されて、藤は二人を交互に見つめたあと、

「じゃあ……はじめっ」

 些か覇気の足りない開始の言葉をかける。
 彼女の合図を聞いて、真っ先に動いたのは歌仙だった。もはや乱暴とも言える踏み込みだったが、気迫だけは刀剣男士だけあって並の者なら圧倒される凄みを備えている。
 空間を抉り取るような一撃を、加州は上段に構えた木刀で受け流そうとする。だが、逃がすまいと歌仙は力押しで加州の木刀を押さえつける。
 ガァンという木刀同士がぶつかり合う音。ギリギリと音をたてて、双方がしのぎを削りあう。見るからに華奢そうな加州では受け止めきれず、このまま押し切れるのではと歌仙が思った時、

「あのさ。何をそんなにムキになってんの?」

 木製の刃越しに、加州が目を細めて問いかける。先ほどまでの韜晦の様子はなく、彼の紅の瞳は真っ直ぐに歌仙を見据えていた。

「――減らず口を叩いてる余裕がきみにあるのかい?」
「大アリだよ……っと!」

 歌仙の一撃を力ではなく技巧で弾き、加州は数歩のステップを挟んで距離を取る。

「さっきから、きみはやけに絡んでくるね。一体何のつもりだ」
「なーんていうか、ほっとけないんだよね。後で主を泣かせそうな感じがしてさ。それくらいなら、一回ストレス発散に付き合っておこうかなって」
「……何を言っているんだ」

 要領を得ない加州の答えに、歌仙の苛々のボルテージは一気に高まる。彼を挑発するように、加州はくるりと片手で木刀を回して片手でちょいちょいと手招きをしてみせる。
 歌仙の戦意を煽りながらも加州は微かに顔を動かした。ちらりと向けられた視線の先には、審判員の位置に立つ歌仙の主がいる。明け方の空に似た色の髪の人物は、不安げな視線をずっと歌仙に送っているようだった。

(だけど、こっちは気づく様子なし……か)

 視線を戻せば、歌仙の瞳からは変わらず明確な敵意が向けられていた。主の視線に気づく様子など今の彼にはまるでない。
 ふうとため息をついた加州は、上段に構え直した木刀の切っ先を歌仙に向ける。

「じゃ、次は俺からね」

 ヒールの高いブーツを履いているとは思えない足捌きで、一気に距離を詰める。飄々としたいい加減な言動とは裏腹に、猫のような隙のないしなやかな動きが歌仙を翻弄していく。
 ――早い。しかし、見えないわけではない
 殺気の高まり。それに加州のわずかな体の筋肉の動かし方。それらを見れば、どこから攻撃が来るかは分かる。

(左、か――!)

 回避のために体をずらしかけ、

「はーずれ」

 突き放すような言葉に、背筋にひやりとしたものが走る。
 たしかに左側面上方から振り下ろされると思った一撃。だが、それは視界にわずかに入っただけの残像に過ぎなかった。
 ならば敵の狙いは別だ。足技か。それとも、攻撃自体がただの挑発か。
 反射的に距離を置こうとして、しかし歌仙は既に懐へ肉薄している加州に気がつく。

「フェイントに見せかけて――攻撃!!」

 下から掬い上げれらるような一撃に、躱しきれないと歌仙が歯を食いしばった刹那、

「こら――――!! 加州、あなた何してんの!!」

 ピタリと、加州の切っ先が止まる。
 聞いたことのない女性の声が、二人の間を切り裂くように響いた。
 声の元に歌仙が顔を向けると、そこには黒い髪を短く整えた女性が立っていた。彼女の傍には、背の高い白髪の男性が控えている。おそらくは刀剣男士だろう──山吹色の着物を纏う彼の腰には、一振りの太刀がつるされていた。

「人様の刀剣男士と勝手に一騎打ちなんてして! 小狐丸の試合が終わるまで大人しく待ってるって言ってたのに、目を離したらいなくなってるから、びっくりしたじゃない!」
「あ、まずい」

 切っ先を下ろした加州は、先ほどまでの強気な笑みは何処へやら、一転して冷や汗をダラダラ流している。肩を怒らせてズカズカと試合の場に上がりこんできた彼女に、歌仙もすっかり毒気を抜かれてしまった。

「人の、しかも新人の審神者さんの刀剣男士に喧嘩売るなんて! あなたがそんな子供っぽいことする人だと思わなかったな!」
「ごめん。主、ごめんってば!!」

 歌仙に向けていた戦う者の姿としての姿はすっかりなりを潜め、一転して加州は女性に平謝りを続けている。
 ぽかんと口をあけてその様子を見守っている歌仙の裾を、不意にくい、と引っ張る者がいた。反射的に視線を向けると、そこには藤が立っていた。加州の主の登場に気を取られていた歌仙は、突如やってきた主と真正面から向き合う機会に、何というべきか言葉を迷わせてしまう。

「歌仙。怪我はしてない?」

 果たして、彼女がかけた言葉は歌仙の身を案じるものだった。怪我をしていないか見るためなのか、藤の手が歌仙の木刀を握る手に添えられる。
 返事をしようとして、歌仙は思わず声を詰まらせた。彼女の手に目をやれば、そこにはまだ赤いあざが残っていた。自分の振り払う力が思ったより強かったことを自覚し、居た堪れない思いに彼の胸が締め付けられる。先ほどよぎった暗い喜びは、既にどこかへ消えてしまっていた。

「怪我はしていないよ。それより」
「ならよかった。向こうも、やっと主の人が来てくれたみたいだね。どうなるかと思ったよ」

 歌仙がかけようとした謝罪の言葉は、藤に遮られて言葉にすらさせてもらえなかった。まるで遠回しに謝罪を拒絶されたようで、言葉の行き場を無くしてしまった歌仙は口を噤む。やりきれない思いを抱えたまま、歌仙は木刀を下ろして彼らのやり取りを見守ることにした。
 噛みつくような勢いで主に叱り飛ばされている加州は、首を竦めて身を縮めている。先ほどの調子は何処へやら、まるで雨に打たれた子犬のような有様だ。
 彼と対する主の方を落ち着いて確認したとき、歌仙は「おや」と内心で呟いた。彼女の姿を、歌仙はどこかで見たような気がしていた。しかし、それがいつのことだったかを思い出す前に、

「申し訳ない。ぬしさまがああなると、しばらくは怒りが収まるまで時間がかかりますゆえ」

 ゆったりとした男性の声に、二人は反射的にそちらに首を向ける。声の主は、加州の主の隣に控えていた山吹色の衣をまとった刀剣男士だった。白髪の癖毛が狐の耳のようにぴんと立っている。彼がきっと加州の主が口にしていた小狐丸なのだろう。

「申し訳ありませんが、暫し時間をいただきたく存じます」
「それは構わないんだけど……あれ、大丈夫なの」
「仕方がありません。突然姿を消してぬしさまを心配させたにも関わらず、暢気に手合わせなどしていたのですから」

 藤の問いに小狐丸は肩を竦め、苦笑いを浮かべてみせる。彼につられて、藤も曖昧な微笑で応じた。
 それから十五分ほどしてから、ようやく加州は主の説教から解放されたのだった。
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