本編第一部(完結済み)

 自分という存在が何かと問われれば、ふじは迷うことなく「ありふれた村娘である」と答えただろう。
 富や贅沢とは無縁の村で、農業を生業にしている家に彼女は長女として生まれた。弟妹は弥助以外にも沢山いたが、皆小さい頃に流行病で命を落としていった。
 それは悲しいことだったが、どこにでもありふれた悲劇でもあった。冷たくなっていった幼い命の分だけ、彼女は楽しく生きようと思うようになっていった。
 両親の畑仕事を手伝い、時に近くの山の実りを得るために足を伸ばし、村全体の仕事があれば男手でなくても率先して手伝いを名乗り出た。
 少しばかり人生というものに一生懸命なだけの、どこにでもいる女に過ぎなかった。都暮らしの公家の奥方や女房のように、綺麗な着物に身を包み、爪に入り込む泥や手のまめとは縁遠い日々を過ごすことなど、考えたことはなかった。
 それらの幸せは、聞いている限りはとても楽そうではあった。商人が土産話と共に持ってきた夢のような美しさの装飾品や器は、確かに彼女の心を躍らせはした。
 だが、ふじは今の生活を、今の自分を不幸だと思ったことはなかった。
 彼女には家族がいた。父と母がいて、弟がいた。彼女が笑えば、皆が笑顔になる。彼らの笑顔は、ふじをますます笑顔にさせる。そうやって笑顔の輪は幸せの輪になり、永遠に続いていく。それだけで良かったのだ。
 大好きな人たちと気持ちと幸せを分かち合い、貧しくとも心さえ踏みにじられなければ。それで、彼女は良かった。

 ――だというのに。


「弥助! 母ちゃん、父ちゃん!」

 悲鳴のような呼び声に応じる者はなく、彼女は顔を歪めながら村を全力で走り抜ける。家々のあちこちに上がった火の手は、黒い煙となって道を塞いでいる。
 見知ったはずの家への道も、まるで地獄に続いているかのようだ。その中を、彼女はわき目も振らず走る。煙を吸わないように反射的に着物の袖で口を覆い、辿りついた先でふじは目を見開く。

「そんな……!」

 ござを敷いただけの簡単な居間に、朝出たときの穏やかな様子は見る影もない。炎はまるで生き物のように、今も部屋の全てを食らいつくさんとしている。
 そして、玄関には両親が折り重なるように倒れていた。見慣れたはずの背中には、思わず目を逸らしたくなるような大きな傷跡が刻まれていた。彼らの体の下に広がる炎とは違う赤が、彼らが目を覚ますことはないだろうという現実を彼女に突きつける。

「母ちゃん、父ちゃん、返事してよ。ねえ」

 必死に呼びかけて揺すっても、彼らは薄目すら開くことはなかった。何度か声をかけ、彼らは既に事切れていると理解した彼女は、否応なしに気持ちを切り替えざるを得なくなった。
 冷静になったふじの目は、両親の無惨な遺体を通して、ある不自然さに気が付く。彼らの体には大きな火傷の痕がなく、部屋も崩れて出られなくなるほど派手な倒壊の様子はまだ見せていない。そもそも玄関に倒れているということは、死体をここまで運んだ者がいなかったのなら、彼ら自身がここまで自力で辿りついたことを示している。それに体を貫いているこの傷跡は火によるものではなく、もっと鋭利な刃物によるものだというのは、素人目でも分かる。

「……盗賊? それとも、まさか」
「おい! ここにもいたぞ!!」

 ふじが思考を纏める間もなく、村の誰の者でもない荒々しい男の声が背後から響く。振り返る間もなく、腕をぐいと強く引かれてふじは反射的に悲鳴をあげた。
 咄嗟に首を捻れば、彼女の腕を掴んでいたのは軽甲冑を装備した侍だった。無精髭を生やし、値踏みをするような瞳は炎のせいか妙にギラギラして見える。片手はふじの腕を掴んでいたが、もう片方の手に握られているものを見て、彼女は大きな瞳を益々丸くした。
 真っ赤なものをこびりつかせ、今なお燃え上がる炎を受けて鈍く光る刀。その赤が何かを理解するのは、あまりに容易い。

「なんで、母ちゃんたちを殺した!!」
「はあ? ああ、この村には我々の陣に放たれた間者を匿った疑いがある。見せしめに全てを焼き払い、村人は皆殺しというのが我らの将のお達しよ」
「そんな! 村に客人なんて、来てないのに!」

 一瞬。ほんの一瞬だけ、ふじは先ほど出会った三人組を思い出し、すぐさま思い出した自分を恥じた。あんな優しい人たちが、弟の友達になってくれた子供たちが、間者なわけがないと即座に否定する。
 必死に身を捩って男の腕を振りほどこうとしたが、男は下卑た笑いを見せたまま、ふじの腕を放そうとしない。

「おーい、誰か来いよ! 女がまだ残ってたぞ!」

 男の妙に楽しそうな声を耳にして、命を奪われるのとは違う恐怖がふじの全身を駆け巡る。いっそ舌を噛み切ってやろうかと思い切った決断をしかけたとき、

「姉ちゃんを、放せ――――!!」

 どん、と何かに突き飛ばされ、姿勢が崩れて男の手がふじから離れる。
 割って入った声は、間違いなく弟のものだ。尻餅をついたふじが見たのは、煤まみれの弟が侍に向かって飛びついている所だった。

「弥助、やめなさい!! 危ないわ!!」

 必死の制止の声は、姉を守るという使命に燃え上がった弟の闘志を消すには、まるで足りない。

「こんにゃろ、姉ちゃんに何するんだ!」
「貴様、どこに隠れてた! このっ」

 侍は乱暴に弥助を引き剥がし、地面に叩きつける。うう、と呻き声をあげて、よろよろと立ち上がる彼に向けて、

「やめて――――!!」
 
 ばっさりと、銀の刃が振り下ろされる。ぱっと、真っ赤な血が嘘のように彼の体からあふれ出る。

「――――っ!!」

 声にならない悲鳴が、炎の中を響いていく。無我夢中で弥助に駆け寄り、男のことなど完全に意識の外に追いやり、彼の傷を必死に抑える。けれども彼女の手から血は絶え間なく溢れ出て、止まる様子はまるでなかった。

「ねえ……ちゃ、にげ……」
「いや、いやよ! どうして、どうして弥助まで!!」

 事切れる弟の熱を必死に押しとどめようとしても、彼の命の火は無慈悲にも消えていく。やがて少年の瞳から光が完全に消えたことを理解してしまい、

「あ、ああ、あぁ――――っ!!」

 嗚咽交じりの絶叫が喉からあふれでる。だが、どれほど大きな声で叫んでも、もう弥助の返事はない。からかい混じりに笑って、姉を茶化す弟はこの世のどこにもいない。
 貧しくとも、笑顔で生きていられればそれでよかった。家族がいれば、それでよかった。多くを望むことなく、平穏だけを愛してきた。
 だというのに、何故こうも理不尽に全てを突然奪われなければならないのか。

「どうして、どうして、どうして!!」

 怒りと悲しみで頭の中は嵐のように乱れている。あの侍が武器を持っているということすら、既に思考の中にない。
 家族を一度に奪われた彼女は、我を忘れて侍に飛びかかろうとする。けれども踏み出しかけた足は、目にした光景を前に、辛うじて踏みとどまることを選んだ。
 何故なら、あの下卑た顔の忌ま忌ましい侍の隣に、彼の仲間らしい大男が一人立っていたからだ。その背丈といったら、ふじよりも二回り以上は大きいと思えるほどである。ごつごつした体躯に違わず、その顔も見る者に恐怖を与えるに相応しい顔つきをしていた。
 そして何よりも彼の額からは――天を衝くような一対の長い角が生えていた。鉢金の飾りではない、生えていたのだ。
 非現実な存在を見て、怒りで真っ赤に染まっていた頭が、幾分かの理性をふじに取り戻させる。

「お、鬼……?」
「そうだが。気に食わねえ目してんな、女」
「お、鬼の旦那! そいつはこの村の人間で、俺が見つけたんでさぁ」
「そうか。なら、こいつも殺さねぇとな。ああ、めんどくせぇ」

 慈悲や遊びの入る余地など一切ない死刑宣告に、よからぬことを考えていた軽甲冑の男は、あからさまに残念そうな表情を見せる。
 対するふじは、分かりやすい死の足音を目の前にして、逆に怒りの炎を燃え上がらせていた。
 まるで草を毟るように、虫を潰すように、こいつは命を奪うことを「面倒くさい」などと言ってのけたのだ。許せない。許せない許せない。許せない許せない許せない!!

「あなたたちは、命を何だと思ってるの!!」
「ごちゃごちゃ、うるせえやつだな。人間ってやつはよぉ」

 男はふじの詰問に返事をすることもなく、のしのしと歩み寄る。近づけば近づくほど、彼の巨躯から感じる威圧感に圧倒されそうになる。
 だが、負けじとふじは鬼の男を睨み返す。腰の刀を抜くこともなく、男はふじを睥睨する。

「冥途の土産代わりに、名前ぐらいは聞いてやる」
「……ふじ」
「そうか。そりゃ悪くねえ名だな。俺たちにとってちゃあ、縁がある名だ。だが縁があろうと無かろうと、悪いがこっちもお上からの命令ってやつがある身なんでな」

 踵を返して逃げれば、彼は迷うことなくこちらを殺す。対峙してすぐに、彼女はそのことを理解した。
 残された命の時間はないに等しく、だからこそ最後までふじは己自身であることを選ぶ。

「お上からの命令って……あなたに、自分の考えというものはないの」
「あるさ。人間には一生、分からねえだろうけどよ」

 鬼の目は何かを諦めたように濁っていたが、貪欲なまでの生存に対する意思だけはふじからも見て取れた。
 彼が生きるためにこの村が邪魔で、彼らの方が力が強く、自分たちは弱かった。山で狩られる獣と同じだ。強くないから、負けてしまっただけのこと。

(――ここで、お終いなんだ)

 この村で生まれ、この村で育った。ふじの人生は村と共にあり、村以外の人間との関わりなどほぼないと言っていい。彼女の二十と幾許かの生は、こうして意味もなく終わるのだ。そう思いかけ、

(そうだ、あの人たち)

 置いてきてしまったあの三人を思い出す。
 内気そうな少年は、自分と同じ名前のあるじさまという人と寄り添って歩いていけるだろうか。笑顔が眩しい少年は、笑顔と一緒に皆に幸せを齎していけるのだろうか。一人離れて微笑んでいた青年は、無事にこの場から逃げてくれているだろうか。

(あの坊やたちには、何か残せたのかな――)

 眼前の鬼が自分に向けて振り下ろす拳。その鉄槌のような一撃が、ふじという人間の人生を終わらせる刹那――彼女は確かに、微笑んでいた。


 ***


 炎によって生まれた熱は、新たな炎を生み出していく。同じ理屈なのだろうか、村を壊滅させた炎は戦の導火線にも火をつけたようだった。
 先ほどまで点々とあった民家を障害物の代わりとし、時には死体すらも盾にして、壮絶な戦が幕を開けた。誰が何のために起こし、何を望んだのか。それを理解している者は殺し合っている者の中の、ほんの一握りだっただろう。
 報酬を求め、名誉を求め、誇りを求め、居場所を求め、手に持った槍で敵の体を貫き、矢が頭を貫き、刀が喉を切り裂く。夜にも関わらず、雄叫びが山の地鳴りのように轟く。村人の死体たちの中に、武者たちの亡骸が折り重なり、死体の山を高くしていく。
 だが、どんなものにもやがて終わりが訪れる。雄叫びが徐々に消え、辺りに夜の静寂が戻った頃、村の中を歩く者がいた。

「…………」

 この歴史における異物。戦が何事もなく起きることを確認し、繰り広げられた地獄絵図を静観していた者――刀剣男士。三人の顔は、歴史が守られたというのに沈鬱なものだった。
 彼らは皆、戦場から少し離れた場所で事の顛末を見守ることを選んだ。歌仙がそのように決断し、五虎退と物吉も首を縦に振った。戦のどさくさに紛れて時間遡行軍がやってこないかと警戒はしていたが、結局は杞憂だったようだ。おかげで三人は気を紛らわすこともできず、繰り広げられる死の有様を目の当たりにすることになった。
 侍によってあっけなく殺された少年の姿も。巨躯の鬼のような男に殴られて首がねじ曲がり、起き上がらなくなった女性の姿も。その後に続く、戦いの果てに積み重ねられていった数々の死も。
 全て、目を逸らすことなく彼らは見つめていた。

「……どうして、駄目、なんですか」

 震える声で誰ともなしに尋ねたのは、五虎退だった。
 歌仙に言い返されるまでもなく、少年も自分たちがいる意味は理解していた。けれども、こうして物言わぬ骸の中に立たされてしまうと、問いは自然に口から零れ出てしまう。

「どうして……僕らはここに、いるんですか」
「――歴史を守るためだよ」

 答えたのは、歌仙の声。燃え盛る村を見たときと同じように、まるで刀そのもののような無機質な鋼の声だった。

「そのために、僕たちはここにいる。ここでもし村が残っていたら、続く戦の趨勢は変わっていたかもしれない。村人を助ければ、復讐に燃えた彼らは生きるべきだった筈の誰かの命を奪うかもしれない。僕たちは、そこまで歴史の手綱を握ることはできない」

 理路整然と説明されて、しかし五虎退は頷かない。頷けない。
 理屈に従ってしまったら、胸の内を焦がす炎が消えてしまう気がした。人として手に入れた形のない温かなものが、冷えて無くなってしまうように思われた。

「……でも、この歴史がなければ主様が生まれた歴史まで続かない。きっとそういうことなんです」

 歌仙よりはいくらか優しげな声音で、物吉は正しさと感情の間に揺れ動く少年の心に寄り添う。
 本丸で寝込んでいる主の姿を思い出すと、揺れていた五虎退の心が僅かに落ち着きを取り戻す。彼女がそこにあり続けるために、自分たちがいるのだと考えることができる。

「歌仙さんばかりに任せてたら、歌仙さんが大変ですよ。時間遡行軍が隠れていないか、最後に見て回りましょう」

 五虎退の手を引いて物吉は歩き始め、その数歩目で足を止めた。
 警戒のために辺りを見渡していた物吉の目は、ある一点を見つめて止まっている。その先には一人の大柄な男が倒れていた。
 鬼の角のような鉢金を――否、額から鬼の角を生やした男。彼は目を見開き、己の元にやってくる死を信じられないといった顔で受け止め、逝ったようだった。喉の部分にある深い傷が致命傷となったのだろう。傷から察するに、不意打ちだったのだろうか。

「この人……。あの人を、殺した人……です、よね」
「そうだと思います。時間遡行軍かと思ったんですけど、やっぱり違いますね」

 あの男が姿を見せた刹那、三人はその容姿から時間遡行軍の可能性を感じ取っていた。けれども、夜目が利く五虎退と物吉がその懸念を否定した。時間遡行軍独特の異常さも感じられず、生きるために今を必死に生きる人間の貪欲さしか、彼からは感じられなかったのだ。
 この時代の人間のしようとしていることに干渉してしまえば、時間遡行軍としていることは変わりない。だから彼らは、ただ彼の蛮行を黙って見つめることしかできなかった。

「……もう、亡くなっているんですね」

 五虎退は俯き、目を見開いたまま彫像のように倒れている男を見つめる。もし少年の炎に感情的な復讐の炎が残っていたとしても、彼の敵は歴史という濁流に呑まれ、もうこの世にいない。
 やり場のない虚無ばかりが、五虎退の心を占めていく。物吉の心中にも同様の遣る瀬無さが生まれていたが、同時に少年はある一つの確信も得ていた。

「主様は……あなたとは違います」

 己の死というものを、驚愕という感情でしか受け止めることができなかったのだろう。見開かれたままの鬼の男の目と視線を交わした物吉は、しゃがみこんで彼の瞳を閉ざしてやる。たとえ私情で穏やかでない感情を抱いていたとしても、死者を粗雑に扱うような真似は彼にはできなかった。

「五虎退、行きましょう。歌仙さんを見失ってしまいます」

 地面に縫い付けられているように立ち尽くす五虎退の肩を、物吉は軽く揺さぶる。はっと我に返った五虎退の顔は、何かを堪えるように真っ赤なものだった。

「ボクたちのやるべきことは、終わったんです」
「……はい」

 唇を震わせて頷く五虎退。彼の心に寄り添うように背中をさすりつつ、唇を噛む物吉。
 彼らを見つめる歌仙は、顔を歪めまいと歯を食いしばり、歴史の爪痕を黙って見つめていた。


 ***


 薄暗い廊下に、ぺたぺたという軽い足音が響く。窓から差し込む月明かりは、今日は何故だか冷たい気がした。
 夏の風に吹かれて、風呂上りの濡れた髪がじっとりと肌にまとわりつく。けれども含んだ水気を拭き取る気力もない。歩き慣れた本丸のはずなのに、今はどこか他人の家のように思える。
 行く場所など決めていない足音の主は、しかしある部屋の前で足を止める。その部屋が誰の部屋かを悟り、少年はくしゃりと顔を歪ませる。
 頼るまいと思っていたはずなのに。あの少年に、しっかりしろよと背中を叩かれたのに。でも、今このときだけは、彼女に縋りたい。
 いつしか小さな手は襖に伸びていて、

「入るなら、その前に少しいいでしょうか」

 琥珀色の瞳をした少年の言葉に、白髪の少年は手を止めた。横に視線を向ければ、闇から滲み出るように物吉が姿を見せていた。いつになく張りつめた顔をした彼は、遠征のときとは違う緊張を漂わせている。

「どうしたんですか?」
「もし主様に遠征の話をするなら、ひとつだけボクからお願いがあるんです」

 物吉は五虎退の耳に口を寄せて、一言二言あることを伝える。その内容を聞いて、物吉は微かに首を捻ったまま、こくりと頷いた。

「……わかりました、気を付けます。でも、どうしてですか?」
「今は言えません。でも、主様のためにお願いします」

 主のためと言うのなら、五虎退としては頷かないわけにはいかない。彼はもう一度了承の意をこめて頷いてから、襖をそっと開いた。
 すーっという木と襖が触れ合う音と共に、視界に主の部屋が広がる。出会った当初よりはいくらか増えた調度品。文机の上には、審神者としての仕事のものと思しき書類が、乱雑に積み上げられている。
 そして寝台の上では、主である女性が少しばかり驚いたような顔で五虎退を見つめていた。まだ風邪が治っていないのだろう、いつもより少しばかり頬が赤い。
 彼女は驚きを見せた後、突然やってきた小さな訪問者に優しげに微笑みかけた。その笑顔が、変わらずそこにあり続けるいつもの様子が、何よりも少年の胸を締め付ける。

「どうしたの、五虎退」

 少年の様子がいつもと異なることに気がつき、主は慎重に問いかける。
 遠征から帰還したときから妙に皆が言葉少なだったことには、藤も気が付いていた。夜遅かったこともあって話を聞くのは明日にしようと考えていたが、どうやらその考えは甘かったようだ。

「何か話したいことでもあるの?」

 少年が話しやすいように切り出すと、彼の震えが大きくなる。

「……あるじ、さま」
「何?」

 薄い微笑を崩さず首を微かに傾げる彼女の姿が、同じ名の女性の笑顔と重なる。彼女の溌剌とした笑顔が、頭に載せられた優しい手の感触が、堰を切ったように思い出の奔流となって五虎退の中に溢れかえる。
 気が付けば少年は、主にしがみついて震える声で全てを話していた。
 行きずりで出会ったその時代に生きていた女性に、優しくしてもらったこと。相談に乗ってもらったこと。喧嘩っ早いが憎めない少年と口喧嘩をしたこと。彼にも励ましてもらったこと。そして、歴史が彼らを押しつぶしていったこと。
 藤は表情を変えず、微かに目を伏せて少年の慟哭を静かに受け入れた。

「……僕は、僕は……あの人たちを守りたいって思いました」

 涙で声を震わせながら、少年は自分の願いを口にする。

「でも歌仙さんは、それはダメだって言いました。そんなことをしたら、きっと歴史を変えてしまうことになるからって」

 藤は物吉に視線を送り、事実なのかと無言で問いかける。物吉は躊躇わず頷いた。

「僕は、僕たちは……何のために、あそこにいたんでしょう」

 彼の吐露した出来事は、あまりに過酷なものだった。だからこそ、少年の中で浮かぶ質問はシンプルだが真っ直ぐすぎるものとなる。
 藤は自分に抱きついて顔を隠している少年に、視線を落とす。機械的に彼の髪の毛を撫で、そうして何分も経ってからようやく口を開く。

「……もう、出陣したくない?」

 彼女の提案は、人間の思考としては至極真っ当な到達点でもあった。
 だが、その言葉を耳にして、五虎退は冷たい水が体に落ちるような薄ら寒さを覚える。

「僕は見てきたわけじゃないから、五虎退の気持ちが分かるとは軽々しく言えない。でも、五虎退にとってとても悲しいことが起きたというのは伝わってるよ。それで、五虎退はもう出陣したくないと思ってる?」

 殊更に優しいわけでもなく、それでいて冷たいわけでもなく。彼女は心を乱さず五虎退に問いかける。自分が感情を見せたら、五虎退がそれに流されてしまうだろうと思っているかのように。

「……僕は」

 五虎退は、言葉に迷う。
 出陣したくないと言ったら、優しい主は出陣しない選択をさせてくれるだろうか。ずっと本丸にいるだけのただの子供になっても、彼女はきっと許してくれるのではないか。
 だが、それなら自分はなぜここにいるのか。
 一振りの刀だった己が、ここにいる理由。それを投げ捨ててしまっては、きっと己の意味そのものを見失ってしまう。
 窓辺から漏れる月明かりの下で、主は答えを待っていた。
 きっと今首を縦に振ったら自分は自分を許せなくなる。もう、彼女に近づくことすらできなくなってしまう。
 だから、彼が選ぶ答えは一つしかない。
 ばしんと、見えない手が背中を叩いた気がした。藤からそっと体を引き剥がし、涙まじりの瞳で、しかし迷うことない曇りなき瞳で、敬愛する主を見つめる。

「僕は、それでも……行きます」
「辛いことがあっても?」
「……はい。歌仙さんみたいに、落ち着いてはいられないけど。……でも、僕はそれでも、行きます。行って、ちゃんと、全部見てきます」

 歴史に名を残すことのなかった者たちは、名を残した者たちよりもずっと多くいることを、五虎退は知った。
 涙を流してその死を悼みたく思う者もいれば、怒りに駆られて牙を剥けたくなる人がいることも知った。その誰もが、歴史という荒波に揉まれて消えていくことを、彼はその身を以て知った。

「たとえ、いなくなってしまう人たちだとしても。その人たちが生きていたんだっていうことを、僕はちゃんと覚えていきたい、です。それが全部、今の僕たちに繋がる……そんな気が、するんです」
「……そう」

 まるで今から死地に赴くとでも言わんばかりの五虎退の決意を、藤は視線を落として短い一言で受け止める。
 俯いてしまった彼女の顔に、どんな感情がよぎっているのかは少年には知る術がない。辛いことを受け入れるという少年の健気さに感じ入っているのか、傷ついても尚立とうとする彼を止めたいという優しい思いを殺しているのか、それとも。
 やがて、一分ほど俯いていた藤は顔を上げた。そこにはもう、口元に弧を浮かべたいつも通りの優しげな表情が戻っていた。

「無理はしないようにね。僕では君を支えきれないだろうから」
「支えきれないなんてことない、です。だけど……はい、気をつけます」
「偉いね、五虎退は」

 少年の頭に手を伸ばし、藤は優しく撫でる。その手つきがあの村娘のものに似ている気がして、少年の瞳にはまた熱いものがこみ上げかかっていた。
 これ以上涙を流すまいと必死にこらえ、彼は勢いよくぺこりと頭を下げる。そのお辞儀を別れの挨拶の代わりにして、五虎退は踵を返してその場を去っていった。
 残されたのは寝台で優しげに微笑む藤と、五虎退の背中を見送った物吉だけだ。

「物吉は大丈夫?」
「ボクは何となく、想像してましたから」

 気遣うように尋ねられて、物吉は笑顔で答える。何でもない風を完全に取り繕うことはできなくても、それでも笑うことはまだできた。

「本当は、五虎退も分かっていたんだと思います。ただ、彼はその可能性を見ないようにしてしまっていただけなんです」
「そうだね。自分に嘘はつけても、現実は嘘に付き合ってくれないから」

 何か思う所があるのか、藤も目を細めて同意の頷きを見せる。先ほどまで抱きついていた五虎退の温もりを感じ取るように、彼女は寝間着をぎゅっと握りしめていた。
 歴史を守るということが、どういうことなのか。今回の一件で、この使命に課せられた重みを知ったのは五虎退たちだけではない。
 歌仙も、物吉も、そしてあの場にいなかった主も。何がしかを感じずにはいられず、見なかったふりにもできない。だから、受け入れるしかない。

(主様には……辛いこと、なのかもしれない)

 元より人間であって人間でない存在――刀剣男士の自分たちに比べて、藤はただの『人間』だと物吉は確信していた。
 刀として積み重ねてきた歴史と比べれば、取るに足らない時間かもしれないが、『人間』として生きることに関しては物吉たちよりも藤の方がより長く、強く実感しているはずだ。自分が想像もできないような責任を感じているのではないかと、物吉は心配そうに眉を顰めた。
 五分ほど藤は沈黙を続け、物吉はその場で彼女の言葉の続きを待った。

「…………物吉。ちょっと顔が青くなってるんだけど、自分で気が付いてる?」

 静寂の後に耳にした言葉に、物吉は微かに目を見開く。

「五虎退みたいに、しがみつきたい?」

 手を差し出してみせる藤。けれども、物吉は首を横に振った。

「でも、顔色は良くないよ。君にも何か思うところが、あったんじゃないの」

 主に問われ、物吉は口を噤む。
 五虎退のように、歴史の理不尽さに対して締め付けられるような思いを抱きはした。けれども彼の胸に巣くうのは、それとはもっと別の遣りきれない思いだった。

「何だか、不甲斐なかったんです。歌仙さんが言うように、ボクたちがボクたちの意思で人々を助けることはできない。でも、ボクの運んだ幸運が良い結果をもたらしてくれることがあるかもしれないって……思ってたんです」
「…………」
「幸運を運ぶ刀なのに、人を幸せにできるはずなのに、ボクは何も」
「あのさ、物吉」

 抑え込んでいた感情が爆発し、捲し立てていた物吉の言葉が、断ち切られる。
 いつの間にか寝台から滑り降りた藤が、物吉の前に立っていた。二人の背丈はほぼ同じなので、彼の琥珀色の瞳には彼女の藤色がよく見える。

「幸運を運ぶっていうのは、誰が言い始めたことなの?」

 前の主だったのかもしれない。あるいは、物吉貞宗という刀に与えられた物語の一つなのかもしれない。
 しかし、少年には具体的に誰とは口にできなかった。あまりに当たり前すぎること故に、彼は考えたこともなかった。人間に、どうして息をしているのかと問うぐらい、彼女の問いは彼の根源を問いかけるものだった。

「物吉が言い始めたんじゃなくても――ううん。たとえ物吉自身だったとしても、自分の役目を決めつけるのは苦しいだけだよ」
「…………」
「僕は君が幸運を運ぶという物語に、期待はしてない」

 藤は物吉を象る物語を、ばっさりと否定する。
 己の在り様そのものを否定されて、少年は大きな瞳をますます大きくさせた。体が強張り、その場に崩れ落ちるような衝撃を受ける。だが、そこで終わらず彼女は言葉を続ける。

「ただ、君と一緒に見た虹は、君が送ってくれた幸運(もの)だと思っている」

 目を細めて、彼女は物吉に微笑みかける。
 少年の瞼の裏に蘇るのは、泥だらけになりながら二人で見た七色の架け橋。失敗だらけの少年が、初めて主に送った幸運。

「幸運は自分が運んだなんて、言えるものじゃない。不幸も同じ。だって、当人しか幸せか不幸かなんてわからないから」

 彼女は笑顔を崩さない。虹を見たときと同じ笑顔を、崩さない。

「ただ、君が笑って楽しそうにしてたら、周りの人たちの心も温かくなる。君が運べる幸運って、そういうものでいいんだと思うよ」

 物吉の手をとり、何かを掬い上げるかのような形を彼の手で作ってみせる。何もそこにはないはずなのに、物吉には何故か暖かなものがそこにあるように思えた。

「君がいるから幸せだ。強いて言うならそういう風に思わせる力が、幸運を運ぶってことなんだと思う」

 不甲斐ない自分がこぼれ落とした幸せばかりが、目にうつっていた。元々そこにあったものを取り落としてしまったのだと、思っていた。
 けれども、藤はそうではないと言う。幸せは失ったのではなく、元から物吉が持っているものですらなかった。
 誰かの幸せを全て叶えることなど、できるわけがない。けれども、物吉が幸せそうにしていることで、幸せを感じる人がいる。物吉と共に見たものを、幸運を運んできたと彼に言ってもらうことで、幸せだと気づくことができる人がいる。
 山間で見た虹を、ただの虹として忘れるか、幸運が運んできた幸せの虹として思い出に刻むか。取るに足らない気象現象であったとしても、それに対する向き合い方は彼の言葉一つでこんなにも違ったものになる。
 無尽蔵の幸せを与えられるほどの大きな力は、両の掌にはない。けれども、細やかな幸せを相手に気づかせ、幸運だと信じ込ませる。
 物吉貞宗――笑顔を崩さない少年の力は、そんな他愛のない、しかし物吉がいなければ決して得られない――幸運を信じ込むための力なのだと主は語る。そのことに、彼もまた気が付く。
 少年は顔を上げる。先ほどまでの動揺は、収まっていた。

「…………はい」
「無理に笑えとは言わない。でも、物吉の笑顔は素敵だと、僕は思うよ」

 少年が幸せだと言い続ければ、どんな苦境だって幸せになる。
 とんだ詭弁だと言う者もいるかもしれない。けれども、存在もあやふやな幸運を引き寄せようと躍起になり、己の無力さに嘆くぐらいなら、自分の幸せは詭弁が作り上げるものだと理解した方がいい。
 小難しいことを考えられるほど、藤は物吉貞宗の物語を知らない。少年の生き様の全てを把握しているわけではない。ただ、ある一点だけは、彼女の人生という証拠を以て断固と言い張れる。

「だから、自分で自分の役割を決めつけて、苦しむのはやめてほしい」

 言葉を口にするのは簡単で、実行するのは難しい。今だって、刀剣男士という役割から逃れることはできないだろう。何もかもを納得することはできないだろう。とはいえ、藤が口にした言葉が全て虚言とも物吉は思わない。

「まだ、全部わかったとは思えませんけれど、でも……ありがとうございます」

 琥珀色の少年は微笑む。人々に幸せを与えると言われた笑顔で、主に笑いかけた。


 ***


 七月の風に雨の気配は感じられず、生ぬるい暑気だけが髪を優しく撫でていく。縁側にいた青年――歌仙兼定は、ゆるりと顔を上げる。紺青の空には、煌々と月が輝いていた。
 あの屍の山を照らしていた月と、この本丸を照らす月が同じとは思えない。だが、書物によればあの戦場にのぼっていた月も、今こうしてのぼっている月も、変わらないものだという。
 空気が澄んでいるのだろう、やけに輪郭がはっきりしている月を見上げて口を開きかけ、しかし男の口から言葉は紡がれない。
 自分は今、一体どんな顔をしているのだろう。
 本丸に戻ってきたとき、主はいつものように薄い微笑を浮かべて迎えてくれた。彼女の笑顔を壊したくなくて、滞りなく遠征を終えたことだけを告げた。彼女に勘付かれないまま、こうして夜を過ごすことができたことを、彼は誰にともなく感謝する。
 そうして、日々を積み重ねていけばいい。明日、明後日、一週間、一か月、一年――記憶を積み重ねて、あの血のような夕日も、消え去ることのない戦場のにおいも、忘れてしまえばいい。
 だから、遠征の報告結果に綴る言葉は一つだけだ。
 歴史に異状なし。かくして正しい歴史は守られ、未来の平和は続いていく。

「…………」

 いつの間にか膝の上で握っていた拳は、力を込めすぎて真っ白になっていた。何度目になるか分からないほど、自分に理屈を突きつけてきた。己が成すべきことが何かを、心の中で唱え続けた。
 もしも刀のままだったのなら、こんな感傷に振り回されることもなかったのだろう。今この時、すみれ色の髪の男は、感情というものは手放しで喜べるだけの贈り物ではないことに気が付いた。
 もしも刀のままだったのなら――何も感じずに主に仇名すものを斬ることが、できただろう。
 もしも刀のままだったのなら――主と共にいる嬉しさを味わうことも、なかったのだろう。
 答えなど出るわけもなく、男は月を見上げ続ける。

「歌仙」

 孤独な彼の背中に声をかけたのは、折しも彼が丁度思い浮かべていた相手だった。
 上着もかけずに、月明かりに髪を濡らして藤がそこに立っている。まだ熱が引いていないのだろう。ほんのりと顔が赤い。

「寝ていないとだめだろう、主」
「でも、歌仙のことが気になったんだよ」

 歌仙の隣に掌一つ分の隙間を置いて腰掛ける彼女に、歌仙は自分が纏っていた外套をかける。「ありがとう」と微笑む彼女を見て、歌仙は咄嗟に口元に意識的な微笑を浮かべる。

「五虎退がね、遠征先で何を見てきたのか教えてくれたんだ」

 しかし、藤が口にした言葉を聞いて歌仙の唇は真一文字に結ばれた。普段通りの顔を浮かべたいのに、ただそれだけのことが今はこんなにも難しい。
 藤は歌仙の葛藤を知ってか知らずか、彼の清流のような瞳をじっと見つめていた。

「歌仙は、どうなの?」
「どう、とは?」
「五虎退は沢山泣いて、いっぱい思いを吐き出して、でも歴史を守る使命を持ち続けるって言っていた。物吉は、幸せを運ぶことができない自分に悩んでいた。でも、五虎退が言うには歌仙は冷静で、感情的になる彼を寧ろ止めていたって」

 喉が凍りついてしまったかのように、答えが出てこない。流暢にまわる舌も、風雅な言葉を思い浮かべることができる頭も、今は鉛と化したように動かない。

「部隊長として立派な振る舞いをしてくれたんだね。ありがとう」

 藤に丁寧に頭を下げられて、鈍ってしまった思考の中でも歌仙は自分の考えが正しかったと確信する。
 他ならぬ主に、歌仙兼定の決断が正しかったのだと示された。ならば、この感傷はきっと誤りなのだろう。主から与えられる誉よりも大事な感情など不要と断じ――

「それで、歌仙としては?」

 ――られずに、主の続く言葉を聞く。

「審神者と刀剣男士としては、きっと歌仙の振る舞いは正しかったし、それを誉める僕も正しいんだろう。でも歌仙は、どうなんだろうって思ったの」

 自分でもうまく言葉を見つけられないのか、藤は空を見上げる。歌仙が見つめていたものと同じ月が、静かに二人を照らしていた。
 何分そうしていただろうか。やがて、彼女は口を開き、

「大きな正しさに、心まで無理に従わなくてもいいかなって」

 簡潔に、告げる。

「歴史を守るのは正しいことで、歌仙がしたことも正しいことで、だから遠征先で歌仙が選んだことは、とてもとても正しくて偉いことだと思う。凄いことだと思う」

 藤は、歌仙の選択を認めていた。
 五虎退のように感情的に責めるのでもなく、どうにもならない事実に仕方ないと諦めて受け入れるのではなく、彼女なりに見据えた上で歌仙の選んだ答えを『凄い』と称した。
 だが、主の言葉はそれだけでは終わらない。歌仙の胸のあたりに手を差しのばして、

「でも、正しいことと、自分がどう思うかは別だと思う」

 トンと歌仙の胸に手を当てる。熱が引いていない彼女の手は、衣服越しでもじんわりと温かい。

「どれだけみんなにとって正しいことであっても、歌仙はそう思ってないなら、それはそれでいいと思う。無理をして、自分を押し殺す必要はないよ」

 そこまで口にしてから、彼女は困ったように苦笑いを浮かべる。

「とは言っても、僕は審神者だから、歌仙には正しいことをしてもらわないと困るんだけどね」

 上に立つものとして、歌仙の主として、藤はこれからも今日のような任務を下し続けると宣言をする。歌仙が何を思い、何を感じたところで、彼女が命令を下さないという選択肢はとらないのだと言外に滲ませていた。

「それなら結局、僕がきみに何を言っても意味はないんじゃないか」

 問いかけながらも、我ながら意地悪な質問をしたものだと歌仙は思う。せっかく主が病の体をおして励ましてくれているのだから、素直に受け取ればいいものを。
 だが、瞼の裏に焼き付いた戦場の光景が、彼の口を勝手に動かしてしまっていた。

「うん。それは歌仙の言うとおりなんだけどね」

 歌仙の胸から、藤の手がそっと離れる。だが、彼女の藤色の瞳は歌仙から逸れることはなかった。

「でも、何も言わずに正しさに流されるよりは、自分の正直な気持ちを聞いてくれる人がいるだけでも、違うんじゃないかって」

 彼女は、真っ直ぐに歌仙を見つめ続けている。普段は目を合わせると先に逸らすことが多い藤が、今日ばかりは自ら歌仙と視線を交わしていた。
 どんな刀にも負けないほど鋭く、真摯で、真っ直ぐな光を帯びた瞳。そこには、出会った当初の頼りなさのようなものは、見つけられない。

「僕は、どんなことだとしても、ちゃんと歌仙の口から歌仙の思いを聞きたい。頭ごなしな正しさで、君を否定したりしないよ」

 空気が、シンと静まりかえる。夏の虫の細やかな鳴き声だけが、今この場を支配する唯一の音だった。
 歌仙は口を開かない。藤も、同じく口を閉ざしたままだ。
 急かすのではなく、話題を投げかけるのでもなく、混じりけのない歌仙の言葉を聞くために彼女はただ待っている。
 何分も過ぎてから、ようやく歌仙は重い口を開いた。

「……頭では、僕たちのすべきことが何かは分かっていたんだ。だけど、実際に目で見て肌で感じるとは大違いでね」
「うん」
「戦の時代がどういうものかを、僕はよく知っていた。この目で見てきたわけれはないけれど、刀の身で感じ続けていた。だから今更その焼き直しを見たところで動じないだろうと、侮っていたのかもしれない」
「……うん」
「――存外、堪えるものだったよ。ただ、少しばかり話しただけの人間だというのに」

 歌仙は片手で自分の顔を覆う。そのせいで、彼の表情は窺えない。声が濡れているわけでも、涙を流しているわけでもないのに、言葉の端々に滲む彼の心情はひしひしと伝わっていた。

「せめて、彼女の日々が生きることを疎むほど悲惨なものなら――それなら、あのような結末も救いになるかもしれない。なんて、自分勝手な逃げ道を探してしまうくらいに。それぐらい、幸せを願ってしまったんだ」

 毎日の暮らしが苦しいものであるなら、いっそ戦に押し流される方が幸せなのかもしれない。生者にだけ許される妄言だと分かっていても、彼はそんな考えに一瞬とはいえ逃げたくなってしまった。
 それほどまでに、肩入れをしてしまっていた。けれども、日々の暮らしについて尋ねたとき、彼女は今が幸せだと笑ってみせたのだ。身勝手な逃避すらも、歌仙には許されなかった。

「僕らは、歴史を守るという役目のためにこうして人の姿を得た」
「そうだね」
「だけど、大きなものを守るために、守らないこともまた、選ばなくてはいけない」

 赤く爆ぜた彼女の微笑みが、彼の瞼の裏で歪んで、消えていく。

「僕らは、一体何を守っているんだろうか。――僕らは何のために、この体を得たんだろう」

 問いかけても、答えはない。問いかけた彼自身も、口にするまでもなく答えのない疑問であると理解していた。
 あるいは、それこそ正しい答えに従うべき部分なのだろう。即ち、歴史を守るために小の犠牲に目を瞑る、という。

「……歌仙は、今の生活をどう思ってる?」

 不意に藤に質問を投げかけられ、歌仙は顔を覆っていた片手をどけ、戸惑いを露わにした。

「今の生活は、嫌い?」
「まさか。少し我が儘で自分勝手で好き放題をするところが多い主だけど、一緒に過ごしていて楽しいと感じているよ。五虎退も、物吉も、いい仲間だ」
「そう。それなら、今はそれでいいんじゃないかな」

 藤は歌仙がかけてくれた外套をかき寄せるようにしながら、優しげに微笑む。

「歴史を守るためとか、使命のために体を得たとか、そういう正しすぎる答えって曖昧ではっきり分からない。僕だって、分からない。でも、歌仙が優しい人で、五虎退が健気ないい子で、物吉が一生懸命な子だっていうのは分かる」

 一つ一つ指を折りながら、彼女はこの本丸で巡り会った刀剣男士に思いを馳せる。

「僕は、そういうものは守りたいって思う。歌仙が守るものも、今はそれでいいんじゃない?」

 目の前の主は、あの理不尽な惨状を目の当たりにしたわけではない。実際あの血と炎と死が織りなす光景を目にしたら、また異なる感想を抱くかもしれない。
 それでも今は、主の慰めの言葉が少しだけ心を軽くしてくれる。胸の内を渦巻いていた遣る瀬なさも、言葉と一緒に流れ出ていったようだ。

(僕が、守りたいと思うもの。それは)

 改めて向き合えば、そこには変わらず主と定めた娘がいた。
 少し癖の多い、朝焼けを思わせる色の髪。その名の通り、藤色をした瞳。頼りなさそうな所もあるけれど、困っていたらこうして側に寄り添おうとしてくれる人。
 何か隠し事をしているような素振りもあるが、それでも今こうして共にいることが何よりも大事なことだと、自然に思える。

「……きみに励まされる日が来るとはね」
「失礼な。これでも気配りはできる方だと自分では思っているんだよ」
「どうやら、そのようだね。ありがとう」

 歌仙は顔の緊張を解き、ふっと目を細める。本丸に戻って、ようやく彼が自然に浮かべた笑顔だった。
 感謝の思いを込めて、藤の頭をそっと撫でる。いつものように少しばかり彼女はびくりとしたが、何も言わず大人しく撫でられていた。

「礼を言われるほど、僕は良い主ではないと思うんだけど」
「いいや、十分助かっているよ」

 むず痒そうに視線を逸らした彼女は、思い出したように小さくくしゃみをする。彼女の体をこれ以上冷やしてはいけないと、歌仙は藤の手をとって立たせた。

「そら、今日はもう寝るといいよ。僕に付き合って体調を崩させてしまってもは、元も子もないからね」
「ねえ、歌仙」

 歌仙に促されるがままに歩きながら、藤は少し赤い顔で彼を見上げる。

「歌仙は、頼れる人って欲しい?」
「いきなり何を言い出すんだい。十分主は頼りになっているよ」
「僕じゃなくて、刀剣男士の中で」

 押し切るような強い声音に、歌仙は眉を顰める。急に大きな声を出したせいで頭が痛むのか、藤は額に手をやりながら、それでも会話を続けた。

「歌仙は悩んでいても、言葉にする相手がいなさそうだと思ったんだ。五虎退も物吉も、歌仙から見たらきっと年下で、頼りないというわけじゃないけど、相談相手にしづらいかと思って」

 藤の言う通り、年齢のことはさておくとしても、先に感情に走った五虎退も、清濁を黙って飲み込むには善良すぎる物吉にも、歌仙は己の思いを打ち明けようとは思わなかった。同じ刀剣男士同士という意味では、歌仙が精神的に頼れそうな相手は、現時点においては存在しないと言うことになる。

「僕じゃ、歌仙の気持ちに完全に寄り添って支えてあげるってことはできないから」
「先ほども言ったけれど、十分支えられたと思っているよ。一体主は何を言いたいんだい」
「僕じゃ、絶対君たちのことは支えきれないんだ。だって」

 予測ではなく確定事項のように言い切った内容に、歌仙は眉を顰める。続く言葉をいくら待っても、藤の言葉は続かなかった。

「だって?」
「……何でもない」
「何でもない、なんてことはないだろう。きみも、何か思っていることがあるなら話してくれないか。僕ばかり聞いてもらって、これでは不公平だろう?」

 口にしたのは今この瞬間が初めてであったが、主に何か隠しごとがあるということは歌仙も既に気がついていた。
 妙に顕現を嫌がる素振りを見せていたことも、時折何かを拒絶するように目を逸らすことも、そこに何か隠したい意図があるのだろうとは推測できていた。いつか話をしてくれるだろうと考えていたが、こんな避けるような態度をとられてしまうと歌仙としても無視はできなかった。
 しかし。

「何でもないってば。気にしないで」

 ぴしゃりと言い返す藤の声は、先ほどの穏やかな空気には程遠いものだった。本人もそこまで強く言い返すつもりはなかったのだろう。どこか気まずげに視線を床に落として、

「ごめん。もう寝るね」

 言葉少なに形だけの謝罪を一方的に突きつける。歌仙の外套を無言で彼に渡すと、背中を向けて部屋へと去って行った。渡された外套は仄かに彼女の温もりを伝えてくれるのに、何故か今はとても冷えたもののように思えてしまう。
 先ほど洗い流されたようにすっきりとした歌仙の心には、再び黒い雲のような影が立ちこめていた。

「何故、きみは僕を頼ろうとしてくれないんだ。きみにとって、僕は」

 続く言葉を何にするかも分からず、彼の呟きは夜の静寂に溶けていった。
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