本編第四部
藤と菊理の目の前に、大柄の時間遡行軍が二体。
後ろに逃げ道こそあるものの、背を向けて全力疾走したとして、果たして何分後に捕まってしまうか。想像はしたくないが、そうなったらまず間違いなく詰みだ。
現実ならば、詰みはそのまま死に直結する。
しかし、どんな選択が最善かを悩んでいる時間は、あまりにも少ない。
「……菊理さん、本当に僕が囮になろうか」
「は? 馬鹿言わないで。あんたなんて、一秒も保たないでしょ」
「いや、そうかもしれないけど。その歩きにくい格好よりは、ほんの少しはマシかもしれないでしょ」
菊理の袴姿をちらっと見やって、藤は己の案を補足する。更に口にこそ出さなかったものの、堀川から訓練をつけてもらったことを藤は思い出していた。
ひょっとしたら奇跡が起きて、僅かなら時間を稼げるかもしれないという淡い期待が、藤の中には芽生えつつあった。
だが、菊理は藤の小さな提案を鼻で笑い飛ばす。
「それこそ、笑えない冗談よ」
彼女がそこまで言った瞬間、二人の耳は荒々しい足音を拾う。
カツカツという踵の高い靴でリノリウムの床を削るように走る音。その他にも、およそ人の出せる全力疾走を更に上回る速度で、急速に誰かが近づいてくる。
流石に、この足音は無視できなかっただろう。
歴史修正主義者役の少女を守るように、遡行軍たちは振り向き、
「オラオラオラアァッ!! 主に指一本、触れさせるかあ!!」
荒々しい口調と共に、一直線に突っ込んできたのは黒と深紅で織りなされた突風。
かけ声と共に繰り出された突きは、あまりに高速のため、たった一度の突きのはずなのに何度も銀の刃が閃いたと思ってしまったほどだ。
「加州、それに蜂須賀虎徹! 秋田も!」
菊理が呼びかけた相手であり、この場に駆けつけた援軍たちの正体。それは、菊理の加州清光を筆頭とした三人の刀剣男士だった。
薄藤色の髪を翻し、黄金色の鎧を蛍光灯の下で輝かせた青年――蜂須賀虎徹。
桜色の柔らかな髪を紺色の制帽の下に隠した、胴当てに着られているような小柄な体躯の少年――秋田藤四郎。
彼らを率いるのは、白々とした壁にくっきりと浮かび上がる黒のコートに赤の裏地を宿した青年――加州清光だ。
「やっと見つけたと思ったら、随分と危ないところだったね」
まずは蜂須賀が、二人を安心させるように声をかける。
「主君、ここは危険です。僕がお供しますので……っ!」
続けて、秋田が菊理を見つめて大きな声で彼女に呼びかけた。
やってきた加州たちと審神者たちの間には、丁度遡行軍が壁になってしまっているような立ち位置である。その懐を掻い潜るように、秋田は自分の主の元へと向かおうとした。だが、
『おっと、どこに行くつもりだい』
キンッと金属がぶつかる音。
桜色のつむじ風のように遡行軍に肉薄した少年を、遡行軍の得物が難なく弾いていた。
秋田の行動自体が遅かったわけではない。素人目の藤から見ても、彼が目の前の遡行軍よりも機敏に動いていたことは見てとれた。
それでも、彼は阻まれた。
つまり、秋田が行動を開始するより先に、遡行軍に化けた刀剣男士が彼の挙動を見抜いていたということに他ならない。
「こいつ、強……っ」
加州と蜂須賀が二人がかりで挑んでいる遡行軍の方も、得物である太刀を使って悠々と二人を相手に立ち回っている。
数としては相手が劣勢であるはずなのに、この余裕。彼らの練度は、実は相当上なのではないか――と推測したのを見越したかのように、歴史修正主義者役の少女は薄く笑う。
「察しているかもしれませんが、政府の刀はそれなりに強いようですよ。特に、今回は実戦部隊の生え抜きの方々を招いた――と聞きましたので」
「……だけど、数の利はこちらにある。僕がここに留まり続ければ、僕の刀もここに来るかもよ」
そうなれば、現状の三対二から六対二に変わる。
流石に一人に対して三人がかりで斬りかかられれば、全く相手にならないということもないだろう。
淡い期待を抱く藤とは対照的に、少女は余裕の様子を崩さない。
「でも、開戦してからもうそろそろ一時間が経過するのに、まだ到着していないようですが?」
「あいつら、何か手こずってたみたいだよ。あんたの気配が上手く掴めないとか何とか言ってたからさっ!!」
藤の焦燥を煽ったつもりではないのだろうが、加州は和泉守の様子を藤に伝える。
どうやら彼は手間取っているらしいと知らされれば、加州たちの合流を目にして安堵しかけていた気持ちが強制的に切り替えられた。
(僕らは、何をすれば――)
こうして藤が躊躇している間にも、加州たちは遡行軍の敵に化けた政府の刀たちに翻弄されている。
真剣同士がぶつかり合う試合は、木刀を使った普段の演練とはまるで異なる。
金属同士がぶつかり合い、火花を散らし、時に浅く肌を切り裂き真っ赤な血が飛び散る。今まで負傷して帰ってきた姿は目にしていたが、彼らが眼前で傷つく姿を直視したのは初めてだ。
そして、刀剣男士を傷つけている遡行軍は、目の前にいる。画面越しの映像でもなければ、区切られた枠組み内で行われる試合とも違う。
遡行軍たちがふらっとこちらを振り向き、得物の太刀を振り下ろせば、何の障害もなく彼らの刃が己の肌を裂き、肉を穿ち、骨を断つのだと肌身で感じられた。
(これが、刀剣男士たちが見ている光景──)
感慨など抱かない。抱く余裕すらない。
ベッド下に隠れているときに感じた恐怖が、再び体を覆っていく。
びりびりと指先が痺れ、喉の奥が渇き、足元がふらつく。ともすれば、その場でへたりこんでしまいそうだ。
隣にいる菊理に、ちらっと目をやる。
彼女は今にも泣きそうな、或いは怒りを堪えるような顔で、奥歯を割れんばかりに噛み締めて、敵を睨んでいた。
逃げ道を探るために睨み付けているのではなさそうだ。それなら、何故、そんな怒りの炎を燃やしているのか。
不思議に思いかけ、すぐに気が付く。
(そうだ。今、彼らが戦っているのは、菊理さんの刀たちだ)
自分の刀たちが、苦戦を強いられている。それなのに、自分ができることは見ていることだけ。
その現実が元々気位の高い彼女には歯がゆくて、悔しくて、しかし何もできないから、せめてもの抵抗として睨んでいるのだろうか。
或いは、恐怖で身が竦んで動けなくなってしまい、精一杯の反抗として睥睨しているのか。
「だけど……今、僕たちがすることは、きっとそれじゃない」
心を奮い立たせるために、まだ震えが収まらないながらも言葉を紡ぐ。
加州たちは今も必死に戦い続けている。
敵はこちらを舐めているのか、審神者二人を前にしても眼前の刀に集中してくれていた。
そして、争いの外側で、敵役の少女がこちらを見つめている。次なる選択は何かを問うかのように。
「菊理さん。今は睨んでる場合じゃないよ」
「……何よ、じゃあ私は何をしてろって言うの」
「逃げよう」
躊躇せず、藤は菊理の手をとる。先程とは立場は逆だ。
足の震えはまだあるけれど、縺れながらでも歩ける。ならば、自分たちがとるべき手段は一つしかない。
「ちょっと、あんた! 私の刀がまだ、戦ってるのに」
「だからだよ。彼らが逃げる隙を作ってるのに、そのまま棒立ちになっていて、もし、彼らが負けたら」
そんな予想は言いたくなかったが、藤は万が一を知っている。
これは試合だけれども、試合ではなかった場合、何が起きてしまうかを知っている。
菊理も思い当たることがあるのか、はっと鋭く息を飲んだ。
「彼らが負けたら、次は僕たちの番だ。そのとき、僕たちが遠くにいたら助かる可能性は増える。そういう訓練でしょ」
菊理の返事を待たずに、藤は駆け出す。
彼女がまだ何か言いたげにしていたが、最早悠長に待ってはいられない。
視界の端で、紅玉色の瞳を持つ青年が小さく頷いているのが見えた気がした。
***
『逃がしてよかったのか』
加州と蜂須賀の猛攻をひょいひょいと躱しながら、遡行軍の一体に化けた刀剣男士が自分の相方に問う。
秋田藤四郎に翻弄されている彼は、首を狙ってくる執拗な一撃を太刀で大きく薙ぎ払ってから、
『うん。どうせ、すぐに追いつくし』
「させません! 主君は僕がお守りします!!」
敵の煽るような物言いに怒りを感じたのか、秋田の攻撃の勢いが増す。
短刀は間合いが短い分、食らいついては離れての繰り返しとなり、それらを全て躱すのは幾ら敵が手練れでも至難の業のようだった。
『それに、もう少ししたら』
秋田の言葉など無視して、敵が呟く。
同時に、秋田が遡行軍から飛び退いた隙間を縫うように、一陣の風が刃を伴って突っ込んでくる。
視界いっぱいに広がる金色の髪。紺色のスカートの裾にあしらわれた桜色のフリルが舞い、あたかも桜の花びらが飛び込んできたように錯覚させる、その姿。
けれども、秋田は彼の名を知っていた。
「乱兄さん……!?」
「ああもう、さっきまで主の気配があったのに!!」
少女のように可愛らしい声をあげながらも、彼の行動は的確に遡行軍を追い詰めていく。
蝶のように舞い蜂のように刺す、という言葉を体現しているかの如く、彼が片手に握る短刀は遡行軍の籠手を傷つけ、足を掠り、捉えようとする太刀を弾く。
「おう、随分とのんびりと戦っているみてえだな、加州!!」
「そっちこそ、来るのが遅いんじゃないの、和泉守!!」
先程別れた藤の本丸の刀剣男士たち――和泉守、堀川、乱。彼らが主を追って、加州の後からやってきたのだ。
菊理と藤が同じ場所にいたのだから、彼女らの位置を辿ろうとしていた刀剣男士たちが同じ場所に集まるというのも道理というもの。
立ち塞がる敵も、これには流石に難色を示す。
元々、太刀の刀剣男士は振るう武器が大きい。そのため、室内戦は向いておらず、加えて言うなら多くの刀剣男士が集うこの場所では、尚更に得物の不利が大きな意味を持つ。
『これだけの大人数、どう対処する』
『ああ、それならやっぱり、僕が追いかけるよ』
蜂須賀と堀川の攻撃を力任せに押しやり、できた隙をついて遡行軍役のうちの一体が踵を返す。
突然の戦場離脱に一同は瞬時面食らうものの、すかさず和泉守と堀川が彼の後を追った。
「和泉守!」
「何だ!!」
後ろから呼びかける加州に向けて、和泉守は振り向かずに返答だけを投げかける。間髪入れず、加州も怒声のような声で和泉守に告げる。
「俺たちの主に傷一つでもつけたら、ぜってー許さねえから!」
「わーってるよ!!」
深紅の着物を翻し、肩に羽織った浅葱の上着がその後を追う。追従するのは堀川国広だ。乱藤四郎も、直についてくることだろう。
一対三になったことで、残った彼らが勝利をもぎ取ってくれるだろうと、今は祈るしかない。
脇差の刀剣男士特有の瞬発力で、すかさず堀川は和泉守の隣に並ぶ。まだ顔には迷いの影を貼り付かせながらも、堀川は和泉守に向けて微笑みかけた。
「兼さん、やっぱり主さんのこと、大事なんだね」
「あいつが死んだら、オレたちの負けになっちまうだろう。何度も言わせるな、国広」
「でも、さっきは主さんのこと、許さないって言ってたのに」
「許さねえよ。それは変わらねえ。……それに、もしオレが『許す』って言っちまったら、あいつが困るだろ」
それは、どうすればよいかという問いに対して、今に至るまで結論の出ない考えを整理するための言葉でもあった。
堀川が迷っていることは和泉守も重々承知しているが、自分とて何も迷っていないわけではない。
「……え?」
走りながら、堀川はきょとんとした顔をする。
ふん、と軽く鼻を鳴らしてから、普段は気が利くくせに妙な所で鈍感な相棒へと、彼は告げる。
「オレがあいつを許すことと、『主』って呼ぶことは一緒だ。あいつを許したら、あいつはその許しを受け入れなくちゃいけねえ」
己のすることは、結局の所二者択一だ。
『主』と呼んで、大手を振って彼女を許すか。
それとも、いつまでも『主』と呼ばずに許さないという態度をとるか。
たった二つの選択のどちらかを選ぶ行為が、今の和泉守にはできない。
頭の中では、彼女が本丸に戻ってからとってきた態度を公平に判断している。だが、それでも最後の一歩が踏み出せない。
だから、今は心を整理して主と再会するために、聞き手としての相棒の力を少し借りる。
「兼さんが許してくれたって事実を受け入れるのは、主さんにとって悪いことなんですか」
和泉守は一拍置いて、ずっと腹の内に抱えていた言葉を口にする。
「……『すまない』も『ごめんなさい』も、裏を返せば『許してくれるよな』って圧力だろ。あの、馬鹿みたいに真面目なあいつにとってはよ」
結局の所、ずっと気にかかっていたのは、それだった。
本来なら、演練が始まる前に踏ん切りをつけてもいいかと思ってはいた。
けれども、膝丸が主に謝罪をしたとき、彼女は戸惑ったような素振りをしていたのが、和泉守には気にかかった。本人すらも、何故自分がそんな躊躇を抱いたのかすら理解していないようだった。
だが、和泉守は考えた末に、先んじて理解した。
今まで己を折り曲げてきた彼女にとって、謝罪は応じ『なければならない』やり取りだ。
それを拒絶したら、再び溝ができてしまうと無意識に分かってしまうから、彼女は自ら溝を埋める努力をする。
けれども、できた溝は何も彼女だけが作ったものではない。和泉守や膝丸が作った部分もあり、そのツケを対して払ってもいない内の謝罪は、単なる自己満足の押しつけだ。
「だから、言いたくねえんだ。それを言っちまったら、オレはあいつを追い詰めたって連中と同じになっちまうだろ」
「……兼さん」
感慨深げに呟いた堀川は、なるほどと頷いてから、
「そんなこと考えてたんだね。てっきり、僕はまだ怒ってたのかと」
「国広、お前なあ!!」
「でもさ、兼さん」
堀川の中には、依然として答えはない。
自分が主を守りたい理由は、いまだに分からない。
和泉守のように怒っているわけでもなければ、彼が今話してくれたように、主に遠慮しているわけでもない。
そんな自分でも、相棒の心を少しだけ軽くできる言葉なら、堀川は分かる。
「主と認めることと、許すことは、僕は一緒じゃないと思うよ」
今だって、和泉守は藤を『主』と呼ばないものの、彼女の稽古には付き合うし、他の刀剣男士たちと同じように話もする。
藤が嘗て犯した過ちを許さないという一線こそ引いているものの、それ以外の点では和泉守は彼女の努力を認めていると、堀川は確信を持っている。
「許せないことが昔あったとしても、それでも主として認められるって関係も、あるんじゃないかな」
堀川の言葉に、和泉守が目をゆっくりと見開く。
彼の変化に気が付かず、堀川は前を向いて走りながら続ける。
「僕は、まだ……主さんにどう触れ合えばいいか分からない。主さんに仕えている理由も僕の中では、ずっとはっきりしないままだよ。そのことで、兼さんを理由に使ってるときもある」
自分の迷いを口にするのは恥ずかしいが、この際、己の不甲斐ない部分については目を瞑る。
「でもさ、それでもやっぱり、僕は主さんだけが主なんだよ。兼さんも、それでいいんじゃないかな」
許せない出来事はあった。
手入れを拒まれたこと、顕現した瞬間に投げかけられたぞんざいな言葉、それら全てを許しますとは言えない。
だが、こちらだって彼女に掴みかかって怖がらせ、言葉で彼女を追い詰めた。
あったことは覆せない。
時計の針は巻き戻せない。
歴史は、変えられない。
それでも、あった出来事を全て積み重ねた上に出来上がった『今』は、『これから』は。
――変えられる。
「兼さんにとって許せないことはあった。今も、完全には許してないのかもしれないんだよね。だけど」
「だけど、あいつが」
和泉守は言葉を引き取り、すぅっと息を吸い込む。
「あいつが、オレの今の主だ」
不甲斐ない姿を見せた主。情けない醜態を晒した、子供のような審神者。
傷を負った刀剣男士を見れば泣きそうになる。
他の刀剣男士に叱られていることも多い。
それでも、戦いから逃げないと彼女は決めた。
安全が保障されているらしいとはいえ、一歩間違えれば怪我をしてもおかしくないこの演練にも、率先して参加の意を示した。
それに何より。
彼女は、良い本丸を作ろうとしている。
その事実は、この数ヶ月間ずっと、和泉守の目が捉えてきた事実だ。
歌仙兼定や髭切のように特別に親密でなくても、和泉守だって藤を見てきた。
彼女が立ち直ろうと努力していることを。
本丸の皆を信じて一歩ずつ歩もうとしていることを。
あの雨の日の夜とも違う。鬼のことについて話したときの夜とも違う。
今までの謝罪ではなく、自分のこれまでについての告白でもなく、この先に続く一歩一歩の努力の姿を。
「ありがとよ、国広。おかげで目が覚めた」
どん、と音を立てて和泉守は床に着地する。
階段を全段すっ飛ばした跳躍の末に辿り着いた階。そこには『1』と大きく表記されていた。
そして、彼の前には追いかけ続けていた遡行軍が一体。
「さっさとこいつ倒して、オレたちの『主』を迎えに行くぞ!!」
***
菊理の手をとり、藤は転げ落ちるような勢いで階段を駆け下りた。
上層階には先程振り切ったはずの歴史修正主義者がいるかもしれないし、上るよりは下りる方が楽だということぐらいは藤も知っている。
何段もの階段を降り続け、ついに降りる階段がなくなり、安全を確保するために藤たちは踊り場から少し走った先で息を整えていた。踊り場は死角がないので、立ち止まっていては危険だと判断したからだ。
「はあっ、はあっ、これで、ちょっとは、撒けたかな」
「あんた、急に、走るなんて、びっくりしたじゃない!!」
緊張と中途半端な興奮のせいで、不自然に痙攣する足を片手で撫でながら、菊理は猛然と抗議する。
敵に追いつかれるかと冷や冷やしながら走るのは、ただ全力で走るのとは異なる緊張感を与える。極度の興奮状態も相まって、藤も菊理も足がガクガク震えていた。
「しかも、何だか窓がない所だし……いったい、私をどこに連れてきたのよ」
「どこにって言われても、ただ無我夢中で下に下にって走ってたんだけど」
「それなら、ここは一階?」
菊理は周りを見渡してみるが、何故か廊下にも部屋にも窓らしきものは一切ない。
辛うじて非常灯が幾つか点灯しているが、照明も極力絞られており、どことなく薄気味悪さを漂わせていた。
「妙よ。ここ、窓がなさすぎる。それに、何だか……気分が悪い」
「菊理さん、大丈夫?」
頭が痛むのか、菊理は片手を頭にやり、空いた片手で倒れないように廊下の手すりを掴んでいた。
顔色こそ悪くなってないものの、浮かんだ表情は苦痛を耐えているように見える。
「頭が……ちょっと痛い……かも。何か、声が聞こえる気がするような……」
「え……?」
頭痛を訴える彼女の背をさすりながら、どこか休める所はないかと藤は素早く辺りを見渡す。
白いリノリウムの床や、清潔そうなクリーム色の壁は上階と変わらない。ただ、ここには病院でよく見かける寝台や医療器具の類がない。
代わりに、倉庫代わりに使っていたのか、あちこちに段ボールの残骸が積み重なっていた。
所々に剥き出しの水道管や配管が見受けられ、古い設備がそのまま残っているような、或いは綺麗にする必要がないからわざとそうしているかのような、粗雑な雰囲気が感じられる。
廊下に採光のための窓も作られていないせいか、まるで天井が自分にのし掛かってくるような圧迫感を覚え、藤もどこか気分が悪くなったような心地に見舞われていた。
「もしかして、だけど……」
藤は、もう一度周りを見渡す。そして、とある小部屋の窓ごしに、部屋の中に貼り付けられていた案内板を見つる。
菊理を支えながら、藤は小部屋へと足を踏み入れた。
果たして、入り口から少し離れたそこにあった案内板には『地下一階』と明記されている。
「……あのさ、菊理さん。たしか、地下には入るなって言われてたよね」
「ええ、そうね。……そんな、話になってたわ」
菊理は軽く頭を振り、藤の手をやんわりと払う。
いつまでも藤の手を借りるわけにはいかないと、いつもの強がりで気力を保たせているのだろう。
並んだ二人の前にある案内図には、ごちゃごちゃと入り組んだ廊下と、病室の割には狭苦しい部屋たちが表記されていた。
先程までの入院棟や診療棟と比べると、部屋を後から増築したような雑然とした雰囲気が感じられる。
「地下は古いから危ないからって話だったけれど、この様子だと何だかそれだけじゃない気がするわ」
「どういうこと?」
「さっきから、頭の中がうるさいの。あんた、私がお化けとかの声を聞き取る体質だってこと、知ってるでしょ」
菊理の言う通り、彼女はその手の『人間ではない者』の声を聞き取りやすいとは藤も承知していた。
本丸に研修に来た際、当時本丸に居着いていた子供の幽霊のようなものの思念を拾い上げ、一騒動を起こしたのは記憶に新しい。
「多分、ここで何か色々あったのよ。上の階でも少しは聞こえていたけれど、こっちはもっとずっと濃い……」
「何かって、何があったの」
「知らないわよ。でも、色々想像はつくでしょ。例えば」
「――例えば、あまり表向きにはできない実験、とかかな?」
二人の後ろから、不意に響いた声。
突然のことに、二人は揃って尻尾を踏まれた猫のように、その場にすくみ上がった。
「何もそこまで驚くことではないよ。刀剣男士の顕現が安定する前、時間遡行そのものを人間が試していた時期もあった。時間遡行軍に対抗するための武器を作れないか、と試行錯誤していた頃もあったかな。刀剣男士が顕現するようになってからは、彼らの有用な使い方が、遡行軍への抵抗手段以外にないかと模索もされた」
藤たちが振り返った先。そこにいたのは、先だって上の階で振り切ってきた中年男性だった。
歴史修正主義者役の男性――だったはずだ。
だが、彼の手には先程と変わらず、持ち込み禁止と菊理が教えてくれた、凶器のナイフが握られている。
「刀剣男士の体は人間のそれに酷似しているが、手入れをすることで比較的容易に修復ができる。人間の体というものは、それ一つで莫大な資産を生む。何とか有効活用できないか……と考えていた時代の産物がここにはあるというだけだ。古い古い時代の話だ」
「何よ、それ。もしかして、それって」
菊理が男に何を問おうとしたのか、藤には分からなかった。藤の中にあったのは、この状況に対する警告じみた予感だけだった。
「人間ではない神の領域に、人間だって指をかけようとしていた時期もあったというだけのことだよ。今は無論、そんな口にできないようなことは、こんな分かりやすい形で残してやってはいないだろうけれどね。ともあれ、決して一朝一夕では拭えない感情が、この階には溜まっている。ただでさえ、病院という施設は死や苦痛とは隣り合わせであるからね」
足を軽く引きずりながら、男は二人に近づいてくる。
直感的に距離を保つべきだと藤は菊理の手をとり、じわじわと後退した。
しかし、すぐに壁が背につく。壁に貼り付けられていた案内板に先程まで接近していたのだから、それも当然だ。
「試合の様子は、監視カメラや監視用の術式で見ているのだけれど、ここではそれが狂ってしまうんだそうだ。だから、ここにはそれらの監視手段がない。これが何を意味するか、分かるかな。そこの洋服の方の審神者さん?」
「え、僕?」
まるで指示棒か何かのように、男はナイフで藤を指し示す。
凶器をちらつかせながらも、教師のような人を指導する物言いに慣れた口調というのが、どうにも藤の中では上手く噛み合ってくれない。
教室で指されたかのような気軽さと、突きつけられたもののちぐはぐ具合に、今自分がどんな状況にいるのかを忘れてしまいそうになるほどだ。
「監視手段がないから……何をしても、外の人には分からない? だったら、いくら歴史修正主義者役のあなたでも、こんな所で僕らを降参させても」
「ああ、君は本当に人を疑うということを知らないんだね」
言葉だけはこんなにも穏やかなのに、じわじわと漂ってくる気配の不穏さが何を意味するか。
その答えは、ほんの数秒後に分かった。
「つまり、私が言いたいことは、だね。君たちがここで死んでも、すぐに気が付く者はいない――ということだよ」
男の背後から膨れ上がる、ドス黒い気配。
今まで出会ってきた遡行軍役の者の殺気など鼻で笑い飛ばしたくなるほどの、濃密な死の空気が辺りを一気に押し包む。
どすどすという荒々しい音と共に部屋へと入ってきたのは、烏帽子にざんばら頭の鎧武者。
鬼のような角を生やした筋骨隆々の武者。ぼろ笠を被った青白い肌の流人のような者。
それら全てが、時間遡行軍の姿として、嘗て資料で目にした者たちだった。
何故、男が彼らを率いるような姿を見せているのか。その理由など、推して知るべしだろう。
彼は裏切り者『役』などではない。
本物の裏切り者だったということだ。
「……菊理さん、あれって」
「どうやら、政府の刀が化けてるって分けじゃなさそうね」
「そうみたいだね。……さっきみたいに、囮になれって言わないんだ」
「言うわけないでしょ、馬鹿。今がどんな状態か分かってるの!?」
そんな冗談めいたやり取りを交わしていなければ、目の前の状況を到底受け入れられそうになかった。
監視の目が届かない地下に迷い込んだと思ったら、何故か遡行軍が目の前にいる。
何となく分かった事柄といえば、眼前の男は恐らく遡行軍を手引きした者だということだ。
「凡庸な新人審神者と、問題を起こしていたと報告があった審神者か。折角手勢を貸してもらったというのに、狙いの者の所に導けなかったのは不本意ではあるが……まあ、上層階にもそろそろ彼らが忍び込んでいることだろう」
「それって、つまり上の階にも遡行軍が来てるってこと!?」
「もちろん。結界に綻びを作り、彼らを導く門を敷設しておいた。とはいえ、目印もなしに彼らが審神者を探すには、この建物は少々広い。そこで、私が審神者の何名かを『誤って』地下まで誘導するつもりだったが――」
彼がわざわざそんな策を巡らせなくても、藤たちは階段を降りすぎて勝手に地下へと足へ踏み入れてしまった。
飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことだ。
己の失態に歯がみしたい所だが、今はそんな反省会をしている場合ではない。
必要なのは、ここから脱出して上にいる刀剣男士たちに遡行軍が紛れ込んでいる現状を伝えることだとは、二人の審神者は承知していた。
さもなければ、彼らは政府の刀たちが化けているだけと思って遡行軍と戦ってしまうかもしれない。
ひょっとしたら、まだ合流できていない審神者が、本物の遡行軍に出くわす可能性だってある。
だが、そのためには、今まさに立ちはだかる遡行軍たちの手を掻い潜り、上の階まで駆け上がらなければならない。
「菊理さん」
「何よ」
「走れる?」
「走れるけど、あんた、まさか」
「僕ね、山育ちなんだ。だから、運動神経だけはいいんだよ」
じりじりと距離をとっていたおかげで、部屋の中にあった二つの扉のうち、恐らくは隣の部屋に続く扉に近づくことはできていた。
隣室に逃げ込み、更にそこの扉から廊下へと出て上階に向かうには、全速力で走れば五分もあればできるはずだ。
だが、二人が揃って同じ行動をとれば、遡行軍や裏切り者は当然二人を集中して追いかける。そうなれば、追いつかれる確率は上がる。
けれども、もし、追うはずの獲物が二つに分かれれば。
「菊理さん、和泉守に会ったらよろしく伝えておいて!!」
トン、と菊理の背中を扉へと押す。
同時に、藤は廊下に向けて中途半端に開けられていた窓に手をかけ、躊躇なく窓枠を飛び越えた。
目指す先は上への階段――ではない。
「審神者二人の後を追え! 刀剣男士どもに合流させるな!!」
男の命令の声を聞きながら、藤は「しめた」と舌なめずりをする。
藤が走る先は、建物の奥だ。遡行軍たちの半分だけでもそちらに惹きつけられれば、菊理が逃げられる可能性も上がる。
「どうか、菊理さんが無事に合流できますように」
祈りながら、彼女は廊下を走る。
ただ走るためだけの絡繰りにでもなったかのように、恐怖で心を折られないように無心で足を動かす。
既に死線を彷徨っている緊張で心臓は張り裂けそうであるが、構うものか。更に己の心の臓にむち打って、藤は廊下を駆け抜ける。
額から流れ落ちる汗は、きっと走ったせいだけではないだろう。ずり落ちかけたバンダナが鬱陶しくて、藤はそれを毟り取る。露わになった鬼の角で風を感じながら、彼女は疾駆した。
後ろから近寄ってくる、明確な死の足音を聞かないようにしながら。
後ろに逃げ道こそあるものの、背を向けて全力疾走したとして、果たして何分後に捕まってしまうか。想像はしたくないが、そうなったらまず間違いなく詰みだ。
現実ならば、詰みはそのまま死に直結する。
しかし、どんな選択が最善かを悩んでいる時間は、あまりにも少ない。
「……菊理さん、本当に僕が囮になろうか」
「は? 馬鹿言わないで。あんたなんて、一秒も保たないでしょ」
「いや、そうかもしれないけど。その歩きにくい格好よりは、ほんの少しはマシかもしれないでしょ」
菊理の袴姿をちらっと見やって、藤は己の案を補足する。更に口にこそ出さなかったものの、堀川から訓練をつけてもらったことを藤は思い出していた。
ひょっとしたら奇跡が起きて、僅かなら時間を稼げるかもしれないという淡い期待が、藤の中には芽生えつつあった。
だが、菊理は藤の小さな提案を鼻で笑い飛ばす。
「それこそ、笑えない冗談よ」
彼女がそこまで言った瞬間、二人の耳は荒々しい足音を拾う。
カツカツという踵の高い靴でリノリウムの床を削るように走る音。その他にも、およそ人の出せる全力疾走を更に上回る速度で、急速に誰かが近づいてくる。
流石に、この足音は無視できなかっただろう。
歴史修正主義者役の少女を守るように、遡行軍たちは振り向き、
「オラオラオラアァッ!! 主に指一本、触れさせるかあ!!」
荒々しい口調と共に、一直線に突っ込んできたのは黒と深紅で織りなされた突風。
かけ声と共に繰り出された突きは、あまりに高速のため、たった一度の突きのはずなのに何度も銀の刃が閃いたと思ってしまったほどだ。
「加州、それに蜂須賀虎徹! 秋田も!」
菊理が呼びかけた相手であり、この場に駆けつけた援軍たちの正体。それは、菊理の加州清光を筆頭とした三人の刀剣男士だった。
薄藤色の髪を翻し、黄金色の鎧を蛍光灯の下で輝かせた青年――蜂須賀虎徹。
桜色の柔らかな髪を紺色の制帽の下に隠した、胴当てに着られているような小柄な体躯の少年――秋田藤四郎。
彼らを率いるのは、白々とした壁にくっきりと浮かび上がる黒のコートに赤の裏地を宿した青年――加州清光だ。
「やっと見つけたと思ったら、随分と危ないところだったね」
まずは蜂須賀が、二人を安心させるように声をかける。
「主君、ここは危険です。僕がお供しますので……っ!」
続けて、秋田が菊理を見つめて大きな声で彼女に呼びかけた。
やってきた加州たちと審神者たちの間には、丁度遡行軍が壁になってしまっているような立ち位置である。その懐を掻い潜るように、秋田は自分の主の元へと向かおうとした。だが、
『おっと、どこに行くつもりだい』
キンッと金属がぶつかる音。
桜色のつむじ風のように遡行軍に肉薄した少年を、遡行軍の得物が難なく弾いていた。
秋田の行動自体が遅かったわけではない。素人目の藤から見ても、彼が目の前の遡行軍よりも機敏に動いていたことは見てとれた。
それでも、彼は阻まれた。
つまり、秋田が行動を開始するより先に、遡行軍に化けた刀剣男士が彼の挙動を見抜いていたということに他ならない。
「こいつ、強……っ」
加州と蜂須賀が二人がかりで挑んでいる遡行軍の方も、得物である太刀を使って悠々と二人を相手に立ち回っている。
数としては相手が劣勢であるはずなのに、この余裕。彼らの練度は、実は相当上なのではないか――と推測したのを見越したかのように、歴史修正主義者役の少女は薄く笑う。
「察しているかもしれませんが、政府の刀はそれなりに強いようですよ。特に、今回は実戦部隊の生え抜きの方々を招いた――と聞きましたので」
「……だけど、数の利はこちらにある。僕がここに留まり続ければ、僕の刀もここに来るかもよ」
そうなれば、現状の三対二から六対二に変わる。
流石に一人に対して三人がかりで斬りかかられれば、全く相手にならないということもないだろう。
淡い期待を抱く藤とは対照的に、少女は余裕の様子を崩さない。
「でも、開戦してからもうそろそろ一時間が経過するのに、まだ到着していないようですが?」
「あいつら、何か手こずってたみたいだよ。あんたの気配が上手く掴めないとか何とか言ってたからさっ!!」
藤の焦燥を煽ったつもりではないのだろうが、加州は和泉守の様子を藤に伝える。
どうやら彼は手間取っているらしいと知らされれば、加州たちの合流を目にして安堵しかけていた気持ちが強制的に切り替えられた。
(僕らは、何をすれば――)
こうして藤が躊躇している間にも、加州たちは遡行軍の敵に化けた政府の刀たちに翻弄されている。
真剣同士がぶつかり合う試合は、木刀を使った普段の演練とはまるで異なる。
金属同士がぶつかり合い、火花を散らし、時に浅く肌を切り裂き真っ赤な血が飛び散る。今まで負傷して帰ってきた姿は目にしていたが、彼らが眼前で傷つく姿を直視したのは初めてだ。
そして、刀剣男士を傷つけている遡行軍は、目の前にいる。画面越しの映像でもなければ、区切られた枠組み内で行われる試合とも違う。
遡行軍たちがふらっとこちらを振り向き、得物の太刀を振り下ろせば、何の障害もなく彼らの刃が己の肌を裂き、肉を穿ち、骨を断つのだと肌身で感じられた。
(これが、刀剣男士たちが見ている光景──)
感慨など抱かない。抱く余裕すらない。
ベッド下に隠れているときに感じた恐怖が、再び体を覆っていく。
びりびりと指先が痺れ、喉の奥が渇き、足元がふらつく。ともすれば、その場でへたりこんでしまいそうだ。
隣にいる菊理に、ちらっと目をやる。
彼女は今にも泣きそうな、或いは怒りを堪えるような顔で、奥歯を割れんばかりに噛み締めて、敵を睨んでいた。
逃げ道を探るために睨み付けているのではなさそうだ。それなら、何故、そんな怒りの炎を燃やしているのか。
不思議に思いかけ、すぐに気が付く。
(そうだ。今、彼らが戦っているのは、菊理さんの刀たちだ)
自分の刀たちが、苦戦を強いられている。それなのに、自分ができることは見ていることだけ。
その現実が元々気位の高い彼女には歯がゆくて、悔しくて、しかし何もできないから、せめてもの抵抗として睨んでいるのだろうか。
或いは、恐怖で身が竦んで動けなくなってしまい、精一杯の反抗として睥睨しているのか。
「だけど……今、僕たちがすることは、きっとそれじゃない」
心を奮い立たせるために、まだ震えが収まらないながらも言葉を紡ぐ。
加州たちは今も必死に戦い続けている。
敵はこちらを舐めているのか、審神者二人を前にしても眼前の刀に集中してくれていた。
そして、争いの外側で、敵役の少女がこちらを見つめている。次なる選択は何かを問うかのように。
「菊理さん。今は睨んでる場合じゃないよ」
「……何よ、じゃあ私は何をしてろって言うの」
「逃げよう」
躊躇せず、藤は菊理の手をとる。先程とは立場は逆だ。
足の震えはまだあるけれど、縺れながらでも歩ける。ならば、自分たちがとるべき手段は一つしかない。
「ちょっと、あんた! 私の刀がまだ、戦ってるのに」
「だからだよ。彼らが逃げる隙を作ってるのに、そのまま棒立ちになっていて、もし、彼らが負けたら」
そんな予想は言いたくなかったが、藤は万が一を知っている。
これは試合だけれども、試合ではなかった場合、何が起きてしまうかを知っている。
菊理も思い当たることがあるのか、はっと鋭く息を飲んだ。
「彼らが負けたら、次は僕たちの番だ。そのとき、僕たちが遠くにいたら助かる可能性は増える。そういう訓練でしょ」
菊理の返事を待たずに、藤は駆け出す。
彼女がまだ何か言いたげにしていたが、最早悠長に待ってはいられない。
視界の端で、紅玉色の瞳を持つ青年が小さく頷いているのが見えた気がした。
***
『逃がしてよかったのか』
加州と蜂須賀の猛攻をひょいひょいと躱しながら、遡行軍の一体に化けた刀剣男士が自分の相方に問う。
秋田藤四郎に翻弄されている彼は、首を狙ってくる執拗な一撃を太刀で大きく薙ぎ払ってから、
『うん。どうせ、すぐに追いつくし』
「させません! 主君は僕がお守りします!!」
敵の煽るような物言いに怒りを感じたのか、秋田の攻撃の勢いが増す。
短刀は間合いが短い分、食らいついては離れての繰り返しとなり、それらを全て躱すのは幾ら敵が手練れでも至難の業のようだった。
『それに、もう少ししたら』
秋田の言葉など無視して、敵が呟く。
同時に、秋田が遡行軍から飛び退いた隙間を縫うように、一陣の風が刃を伴って突っ込んでくる。
視界いっぱいに広がる金色の髪。紺色のスカートの裾にあしらわれた桜色のフリルが舞い、あたかも桜の花びらが飛び込んできたように錯覚させる、その姿。
けれども、秋田は彼の名を知っていた。
「乱兄さん……!?」
「ああもう、さっきまで主の気配があったのに!!」
少女のように可愛らしい声をあげながらも、彼の行動は的確に遡行軍を追い詰めていく。
蝶のように舞い蜂のように刺す、という言葉を体現しているかの如く、彼が片手に握る短刀は遡行軍の籠手を傷つけ、足を掠り、捉えようとする太刀を弾く。
「おう、随分とのんびりと戦っているみてえだな、加州!!」
「そっちこそ、来るのが遅いんじゃないの、和泉守!!」
先程別れた藤の本丸の刀剣男士たち――和泉守、堀川、乱。彼らが主を追って、加州の後からやってきたのだ。
菊理と藤が同じ場所にいたのだから、彼女らの位置を辿ろうとしていた刀剣男士たちが同じ場所に集まるというのも道理というもの。
立ち塞がる敵も、これには流石に難色を示す。
元々、太刀の刀剣男士は振るう武器が大きい。そのため、室内戦は向いておらず、加えて言うなら多くの刀剣男士が集うこの場所では、尚更に得物の不利が大きな意味を持つ。
『これだけの大人数、どう対処する』
『ああ、それならやっぱり、僕が追いかけるよ』
蜂須賀と堀川の攻撃を力任せに押しやり、できた隙をついて遡行軍役のうちの一体が踵を返す。
突然の戦場離脱に一同は瞬時面食らうものの、すかさず和泉守と堀川が彼の後を追った。
「和泉守!」
「何だ!!」
後ろから呼びかける加州に向けて、和泉守は振り向かずに返答だけを投げかける。間髪入れず、加州も怒声のような声で和泉守に告げる。
「俺たちの主に傷一つでもつけたら、ぜってー許さねえから!」
「わーってるよ!!」
深紅の着物を翻し、肩に羽織った浅葱の上着がその後を追う。追従するのは堀川国広だ。乱藤四郎も、直についてくることだろう。
一対三になったことで、残った彼らが勝利をもぎ取ってくれるだろうと、今は祈るしかない。
脇差の刀剣男士特有の瞬発力で、すかさず堀川は和泉守の隣に並ぶ。まだ顔には迷いの影を貼り付かせながらも、堀川は和泉守に向けて微笑みかけた。
「兼さん、やっぱり主さんのこと、大事なんだね」
「あいつが死んだら、オレたちの負けになっちまうだろう。何度も言わせるな、国広」
「でも、さっきは主さんのこと、許さないって言ってたのに」
「許さねえよ。それは変わらねえ。……それに、もしオレが『許す』って言っちまったら、あいつが困るだろ」
それは、どうすればよいかという問いに対して、今に至るまで結論の出ない考えを整理するための言葉でもあった。
堀川が迷っていることは和泉守も重々承知しているが、自分とて何も迷っていないわけではない。
「……え?」
走りながら、堀川はきょとんとした顔をする。
ふん、と軽く鼻を鳴らしてから、普段は気が利くくせに妙な所で鈍感な相棒へと、彼は告げる。
「オレがあいつを許すことと、『主』って呼ぶことは一緒だ。あいつを許したら、あいつはその許しを受け入れなくちゃいけねえ」
己のすることは、結局の所二者択一だ。
『主』と呼んで、大手を振って彼女を許すか。
それとも、いつまでも『主』と呼ばずに許さないという態度をとるか。
たった二つの選択のどちらかを選ぶ行為が、今の和泉守にはできない。
頭の中では、彼女が本丸に戻ってからとってきた態度を公平に判断している。だが、それでも最後の一歩が踏み出せない。
だから、今は心を整理して主と再会するために、聞き手としての相棒の力を少し借りる。
「兼さんが許してくれたって事実を受け入れるのは、主さんにとって悪いことなんですか」
和泉守は一拍置いて、ずっと腹の内に抱えていた言葉を口にする。
「……『すまない』も『ごめんなさい』も、裏を返せば『許してくれるよな』って圧力だろ。あの、馬鹿みたいに真面目なあいつにとってはよ」
結局の所、ずっと気にかかっていたのは、それだった。
本来なら、演練が始まる前に踏ん切りをつけてもいいかと思ってはいた。
けれども、膝丸が主に謝罪をしたとき、彼女は戸惑ったような素振りをしていたのが、和泉守には気にかかった。本人すらも、何故自分がそんな躊躇を抱いたのかすら理解していないようだった。
だが、和泉守は考えた末に、先んじて理解した。
今まで己を折り曲げてきた彼女にとって、謝罪は応じ『なければならない』やり取りだ。
それを拒絶したら、再び溝ができてしまうと無意識に分かってしまうから、彼女は自ら溝を埋める努力をする。
けれども、できた溝は何も彼女だけが作ったものではない。和泉守や膝丸が作った部分もあり、そのツケを対して払ってもいない内の謝罪は、単なる自己満足の押しつけだ。
「だから、言いたくねえんだ。それを言っちまったら、オレはあいつを追い詰めたって連中と同じになっちまうだろ」
「……兼さん」
感慨深げに呟いた堀川は、なるほどと頷いてから、
「そんなこと考えてたんだね。てっきり、僕はまだ怒ってたのかと」
「国広、お前なあ!!」
「でもさ、兼さん」
堀川の中には、依然として答えはない。
自分が主を守りたい理由は、いまだに分からない。
和泉守のように怒っているわけでもなければ、彼が今話してくれたように、主に遠慮しているわけでもない。
そんな自分でも、相棒の心を少しだけ軽くできる言葉なら、堀川は分かる。
「主と認めることと、許すことは、僕は一緒じゃないと思うよ」
今だって、和泉守は藤を『主』と呼ばないものの、彼女の稽古には付き合うし、他の刀剣男士たちと同じように話もする。
藤が嘗て犯した過ちを許さないという一線こそ引いているものの、それ以外の点では和泉守は彼女の努力を認めていると、堀川は確信を持っている。
「許せないことが昔あったとしても、それでも主として認められるって関係も、あるんじゃないかな」
堀川の言葉に、和泉守が目をゆっくりと見開く。
彼の変化に気が付かず、堀川は前を向いて走りながら続ける。
「僕は、まだ……主さんにどう触れ合えばいいか分からない。主さんに仕えている理由も僕の中では、ずっとはっきりしないままだよ。そのことで、兼さんを理由に使ってるときもある」
自分の迷いを口にするのは恥ずかしいが、この際、己の不甲斐ない部分については目を瞑る。
「でもさ、それでもやっぱり、僕は主さんだけが主なんだよ。兼さんも、それでいいんじゃないかな」
許せない出来事はあった。
手入れを拒まれたこと、顕現した瞬間に投げかけられたぞんざいな言葉、それら全てを許しますとは言えない。
だが、こちらだって彼女に掴みかかって怖がらせ、言葉で彼女を追い詰めた。
あったことは覆せない。
時計の針は巻き戻せない。
歴史は、変えられない。
それでも、あった出来事を全て積み重ねた上に出来上がった『今』は、『これから』は。
――変えられる。
「兼さんにとって許せないことはあった。今も、完全には許してないのかもしれないんだよね。だけど」
「だけど、あいつが」
和泉守は言葉を引き取り、すぅっと息を吸い込む。
「あいつが、オレの今の主だ」
不甲斐ない姿を見せた主。情けない醜態を晒した、子供のような審神者。
傷を負った刀剣男士を見れば泣きそうになる。
他の刀剣男士に叱られていることも多い。
それでも、戦いから逃げないと彼女は決めた。
安全が保障されているらしいとはいえ、一歩間違えれば怪我をしてもおかしくないこの演練にも、率先して参加の意を示した。
それに何より。
彼女は、良い本丸を作ろうとしている。
その事実は、この数ヶ月間ずっと、和泉守の目が捉えてきた事実だ。
歌仙兼定や髭切のように特別に親密でなくても、和泉守だって藤を見てきた。
彼女が立ち直ろうと努力していることを。
本丸の皆を信じて一歩ずつ歩もうとしていることを。
あの雨の日の夜とも違う。鬼のことについて話したときの夜とも違う。
今までの謝罪ではなく、自分のこれまでについての告白でもなく、この先に続く一歩一歩の努力の姿を。
「ありがとよ、国広。おかげで目が覚めた」
どん、と音を立てて和泉守は床に着地する。
階段を全段すっ飛ばした跳躍の末に辿り着いた階。そこには『1』と大きく表記されていた。
そして、彼の前には追いかけ続けていた遡行軍が一体。
「さっさとこいつ倒して、オレたちの『主』を迎えに行くぞ!!」
***
菊理の手をとり、藤は転げ落ちるような勢いで階段を駆け下りた。
上層階には先程振り切ったはずの歴史修正主義者がいるかもしれないし、上るよりは下りる方が楽だということぐらいは藤も知っている。
何段もの階段を降り続け、ついに降りる階段がなくなり、安全を確保するために藤たちは踊り場から少し走った先で息を整えていた。踊り場は死角がないので、立ち止まっていては危険だと判断したからだ。
「はあっ、はあっ、これで、ちょっとは、撒けたかな」
「あんた、急に、走るなんて、びっくりしたじゃない!!」
緊張と中途半端な興奮のせいで、不自然に痙攣する足を片手で撫でながら、菊理は猛然と抗議する。
敵に追いつかれるかと冷や冷やしながら走るのは、ただ全力で走るのとは異なる緊張感を与える。極度の興奮状態も相まって、藤も菊理も足がガクガク震えていた。
「しかも、何だか窓がない所だし……いったい、私をどこに連れてきたのよ」
「どこにって言われても、ただ無我夢中で下に下にって走ってたんだけど」
「それなら、ここは一階?」
菊理は周りを見渡してみるが、何故か廊下にも部屋にも窓らしきものは一切ない。
辛うじて非常灯が幾つか点灯しているが、照明も極力絞られており、どことなく薄気味悪さを漂わせていた。
「妙よ。ここ、窓がなさすぎる。それに、何だか……気分が悪い」
「菊理さん、大丈夫?」
頭が痛むのか、菊理は片手を頭にやり、空いた片手で倒れないように廊下の手すりを掴んでいた。
顔色こそ悪くなってないものの、浮かんだ表情は苦痛を耐えているように見える。
「頭が……ちょっと痛い……かも。何か、声が聞こえる気がするような……」
「え……?」
頭痛を訴える彼女の背をさすりながら、どこか休める所はないかと藤は素早く辺りを見渡す。
白いリノリウムの床や、清潔そうなクリーム色の壁は上階と変わらない。ただ、ここには病院でよく見かける寝台や医療器具の類がない。
代わりに、倉庫代わりに使っていたのか、あちこちに段ボールの残骸が積み重なっていた。
所々に剥き出しの水道管や配管が見受けられ、古い設備がそのまま残っているような、或いは綺麗にする必要がないからわざとそうしているかのような、粗雑な雰囲気が感じられる。
廊下に採光のための窓も作られていないせいか、まるで天井が自分にのし掛かってくるような圧迫感を覚え、藤もどこか気分が悪くなったような心地に見舞われていた。
「もしかして、だけど……」
藤は、もう一度周りを見渡す。そして、とある小部屋の窓ごしに、部屋の中に貼り付けられていた案内板を見つる。
菊理を支えながら、藤は小部屋へと足を踏み入れた。
果たして、入り口から少し離れたそこにあった案内板には『地下一階』と明記されている。
「……あのさ、菊理さん。たしか、地下には入るなって言われてたよね」
「ええ、そうね。……そんな、話になってたわ」
菊理は軽く頭を振り、藤の手をやんわりと払う。
いつまでも藤の手を借りるわけにはいかないと、いつもの強がりで気力を保たせているのだろう。
並んだ二人の前にある案内図には、ごちゃごちゃと入り組んだ廊下と、病室の割には狭苦しい部屋たちが表記されていた。
先程までの入院棟や診療棟と比べると、部屋を後から増築したような雑然とした雰囲気が感じられる。
「地下は古いから危ないからって話だったけれど、この様子だと何だかそれだけじゃない気がするわ」
「どういうこと?」
「さっきから、頭の中がうるさいの。あんた、私がお化けとかの声を聞き取る体質だってこと、知ってるでしょ」
菊理の言う通り、彼女はその手の『人間ではない者』の声を聞き取りやすいとは藤も承知していた。
本丸に研修に来た際、当時本丸に居着いていた子供の幽霊のようなものの思念を拾い上げ、一騒動を起こしたのは記憶に新しい。
「多分、ここで何か色々あったのよ。上の階でも少しは聞こえていたけれど、こっちはもっとずっと濃い……」
「何かって、何があったの」
「知らないわよ。でも、色々想像はつくでしょ。例えば」
「――例えば、あまり表向きにはできない実験、とかかな?」
二人の後ろから、不意に響いた声。
突然のことに、二人は揃って尻尾を踏まれた猫のように、その場にすくみ上がった。
「何もそこまで驚くことではないよ。刀剣男士の顕現が安定する前、時間遡行そのものを人間が試していた時期もあった。時間遡行軍に対抗するための武器を作れないか、と試行錯誤していた頃もあったかな。刀剣男士が顕現するようになってからは、彼らの有用な使い方が、遡行軍への抵抗手段以外にないかと模索もされた」
藤たちが振り返った先。そこにいたのは、先だって上の階で振り切ってきた中年男性だった。
歴史修正主義者役の男性――だったはずだ。
だが、彼の手には先程と変わらず、持ち込み禁止と菊理が教えてくれた、凶器のナイフが握られている。
「刀剣男士の体は人間のそれに酷似しているが、手入れをすることで比較的容易に修復ができる。人間の体というものは、それ一つで莫大な資産を生む。何とか有効活用できないか……と考えていた時代の産物がここにはあるというだけだ。古い古い時代の話だ」
「何よ、それ。もしかして、それって」
菊理が男に何を問おうとしたのか、藤には分からなかった。藤の中にあったのは、この状況に対する警告じみた予感だけだった。
「人間ではない神の領域に、人間だって指をかけようとしていた時期もあったというだけのことだよ。今は無論、そんな口にできないようなことは、こんな分かりやすい形で残してやってはいないだろうけれどね。ともあれ、決して一朝一夕では拭えない感情が、この階には溜まっている。ただでさえ、病院という施設は死や苦痛とは隣り合わせであるからね」
足を軽く引きずりながら、男は二人に近づいてくる。
直感的に距離を保つべきだと藤は菊理の手をとり、じわじわと後退した。
しかし、すぐに壁が背につく。壁に貼り付けられていた案内板に先程まで接近していたのだから、それも当然だ。
「試合の様子は、監視カメラや監視用の術式で見ているのだけれど、ここではそれが狂ってしまうんだそうだ。だから、ここにはそれらの監視手段がない。これが何を意味するか、分かるかな。そこの洋服の方の審神者さん?」
「え、僕?」
まるで指示棒か何かのように、男はナイフで藤を指し示す。
凶器をちらつかせながらも、教師のような人を指導する物言いに慣れた口調というのが、どうにも藤の中では上手く噛み合ってくれない。
教室で指されたかのような気軽さと、突きつけられたもののちぐはぐ具合に、今自分がどんな状況にいるのかを忘れてしまいそうになるほどだ。
「監視手段がないから……何をしても、外の人には分からない? だったら、いくら歴史修正主義者役のあなたでも、こんな所で僕らを降参させても」
「ああ、君は本当に人を疑うということを知らないんだね」
言葉だけはこんなにも穏やかなのに、じわじわと漂ってくる気配の不穏さが何を意味するか。
その答えは、ほんの数秒後に分かった。
「つまり、私が言いたいことは、だね。君たちがここで死んでも、すぐに気が付く者はいない――ということだよ」
男の背後から膨れ上がる、ドス黒い気配。
今まで出会ってきた遡行軍役の者の殺気など鼻で笑い飛ばしたくなるほどの、濃密な死の空気が辺りを一気に押し包む。
どすどすという荒々しい音と共に部屋へと入ってきたのは、烏帽子にざんばら頭の鎧武者。
鬼のような角を生やした筋骨隆々の武者。ぼろ笠を被った青白い肌の流人のような者。
それら全てが、時間遡行軍の姿として、嘗て資料で目にした者たちだった。
何故、男が彼らを率いるような姿を見せているのか。その理由など、推して知るべしだろう。
彼は裏切り者『役』などではない。
本物の裏切り者だったということだ。
「……菊理さん、あれって」
「どうやら、政府の刀が化けてるって分けじゃなさそうね」
「そうみたいだね。……さっきみたいに、囮になれって言わないんだ」
「言うわけないでしょ、馬鹿。今がどんな状態か分かってるの!?」
そんな冗談めいたやり取りを交わしていなければ、目の前の状況を到底受け入れられそうになかった。
監視の目が届かない地下に迷い込んだと思ったら、何故か遡行軍が目の前にいる。
何となく分かった事柄といえば、眼前の男は恐らく遡行軍を手引きした者だということだ。
「凡庸な新人審神者と、問題を起こしていたと報告があった審神者か。折角手勢を貸してもらったというのに、狙いの者の所に導けなかったのは不本意ではあるが……まあ、上層階にもそろそろ彼らが忍び込んでいることだろう」
「それって、つまり上の階にも遡行軍が来てるってこと!?」
「もちろん。結界に綻びを作り、彼らを導く門を敷設しておいた。とはいえ、目印もなしに彼らが審神者を探すには、この建物は少々広い。そこで、私が審神者の何名かを『誤って』地下まで誘導するつもりだったが――」
彼がわざわざそんな策を巡らせなくても、藤たちは階段を降りすぎて勝手に地下へと足へ踏み入れてしまった。
飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことだ。
己の失態に歯がみしたい所だが、今はそんな反省会をしている場合ではない。
必要なのは、ここから脱出して上にいる刀剣男士たちに遡行軍が紛れ込んでいる現状を伝えることだとは、二人の審神者は承知していた。
さもなければ、彼らは政府の刀たちが化けているだけと思って遡行軍と戦ってしまうかもしれない。
ひょっとしたら、まだ合流できていない審神者が、本物の遡行軍に出くわす可能性だってある。
だが、そのためには、今まさに立ちはだかる遡行軍たちの手を掻い潜り、上の階まで駆け上がらなければならない。
「菊理さん」
「何よ」
「走れる?」
「走れるけど、あんた、まさか」
「僕ね、山育ちなんだ。だから、運動神経だけはいいんだよ」
じりじりと距離をとっていたおかげで、部屋の中にあった二つの扉のうち、恐らくは隣の部屋に続く扉に近づくことはできていた。
隣室に逃げ込み、更にそこの扉から廊下へと出て上階に向かうには、全速力で走れば五分もあればできるはずだ。
だが、二人が揃って同じ行動をとれば、遡行軍や裏切り者は当然二人を集中して追いかける。そうなれば、追いつかれる確率は上がる。
けれども、もし、追うはずの獲物が二つに分かれれば。
「菊理さん、和泉守に会ったらよろしく伝えておいて!!」
トン、と菊理の背中を扉へと押す。
同時に、藤は廊下に向けて中途半端に開けられていた窓に手をかけ、躊躇なく窓枠を飛び越えた。
目指す先は上への階段――ではない。
「審神者二人の後を追え! 刀剣男士どもに合流させるな!!」
男の命令の声を聞きながら、藤は「しめた」と舌なめずりをする。
藤が走る先は、建物の奥だ。遡行軍たちの半分だけでもそちらに惹きつけられれば、菊理が逃げられる可能性も上がる。
「どうか、菊理さんが無事に合流できますように」
祈りながら、彼女は廊下を走る。
ただ走るためだけの絡繰りにでもなったかのように、恐怖で心を折られないように無心で足を動かす。
既に死線を彷徨っている緊張で心臓は張り裂けそうであるが、構うものか。更に己の心の臓にむち打って、藤は廊下を駆け抜ける。
額から流れ落ちる汗は、きっと走ったせいだけではないだろう。ずり落ちかけたバンダナが鬱陶しくて、藤はそれを毟り取る。露わになった鬼の角で風を感じながら、彼女は疾駆した。
後ろから近寄ってくる、明確な死の足音を聞かないようにしながら。