本編第一部(完結済み)
「っくしゅん」
静まり返った部屋に、大きなくしゃみが響く。くしゃみをした弾みに、ぱちりと部屋の主が瞼を開けた。
寝台の上に横たわっていたこの部屋の主こと藤は、目やにと涙がまじった目を瞬かせる。数秒かけてようやく焦点があった瞳には、この二か月で見慣れた天井が映っていた。
ずるずると体を起こしてみたものの、寝起きということもあって頭は全く回らない。けれども頭の回転が遅い理由は他にもあった。
「寒い……」
自分のものとは思えないほど力の入らない腕を伸ばし、藤は布団を掴む。ずるずると引きあげて体に巻きつけてから、ようやく彼女は一息ついた。
しかし今の季節は真冬とは程遠い。カレンダーも既に六月をめくり終えて、七月を迎えている。徐々に梅雨も終わり蒸し暑さが始まる頃合いだというのに、藤は絶え間ない悪寒と戦っていた。
「風邪をひくなんて、僕にしては珍しいよね――っくしゅん」
頭に貼りつけていた解熱用のジェルシートを張り直し、もう一度布団に入る。頭は割れ鐘でも叩いたかのようにガンガンと痛みが響いているのに、体の方は重りをつけて海底散歩でもしているのかと思うほど気怠い。
よりにもよって、藤は今本丸に一人きりであった。風邪をひいた主を放って歌仙たちが薄情にも出かけてしまった、というわけではなく、政府から下された任務によって異なる時代に赴いているからである。
「風邪をひいたのは自業自得なんだから、一人きりでも文句言えないんだよなあ」
もう一度小さくくしゃみをして、藤は熱がこもった息を吐く。
彼女が言う通り、体調を崩し始めたのは山歩きの翌日からだった。雨の中を傘も差さずにうろうろしていたことが原因なのは、火を見るよりも明らかである。
任務のために出かける歌仙も、直前まで主の部屋を出たり入ったりと落ち着きのない様子を見せていた。
心配をかけていることは、誰よりも藤自身が自覚している。だからこそ胃の底が引き絞られるような申し訳なさと、審神者としてのあるまじき失態に対する不甲斐なさが、彼女の胸中を占めていた。
「一人だって慣れているし。歌仙もご飯作っておいてくれた。皆がいなくても、平気だよ」
布団を頭まで引き上げて、熱のこもった闇の中で目を閉じる。じんわりと体に滲んだ汗が不快感を募らせる。外では少し早い蝉の掠れた鳴き声が響いていた。
しんしんと雪のように積もる静寂によって、孤独感はいや増すばかりだ。静けさという名の圧力に耐えるように、ぎゅっと藤は目を瞑る。
そうして、うつらうつらしているとき。彼女の小さな暗闇に柔らかな侵入者がやってきた。
「うわっ、何!?」
ふわふわの毛触りに驚いて、思わず布団をはねのける。
そこには、白い毛に黒い縞が鮮やかな虎の子たちがいた。一匹だけでなく、寝台の上への登攀を試みてころころと転がり落ちたらしい虎の子たちが、何匹も床に折り重なっている。
唯一寝台に上った一匹は、その柔らかな鼻面を藤に何度も押し付けた。まるで、自分たちがここにいるから安心しろと言わんばかりに。
「……ごめんよ。そうだね。君たちがいるものね」
虎の子の温かな毛に指を通していると、少し悪寒も収まったようだ。寝台の端で我も我もと腕を伸ばす虎の子を、彼女は全員抱え上げる。あっという間に彼女の寝床は白いふわふわの虎の子に占拠されてしまった。
「はは。あったかくていいや」
体を横たえた彼女の布団の中に、次から次へと虎の子たちが体を寄せる。藤はその中の一匹を抱きしめて、ごろりと寝返りを打った。寝台の側にある窓からは初夏の鮮やかな緑が広がっている。
見るともなしにそれらを見つめながら、
「歌仙たち、怪我してないかな」
先だっての出陣のことを思い出して、隠し切れなかった懸念を口にする。
政府の担当官である富塚に「気にすることではない」と言われ、彼女自身そう思うべきだと分かっていても、気がかりであることには変わりはない。
面と向かって歌仙たちに言うことは、審神者としてすべきではないと思っているから、口にはしていない。しかし、簡単に忘れられるような光景でもない。
意識を失い、血だらけになって帰ってきた歌仙の姿。そんな姿を見ても動じてはならないという、審神者という立場としてのあるべき姿。そして、手入れをしたときに自分の体を襲った体調不良。
全て思い返し、藤は苦々しげに顔を歪める。
「歌仙たちが怪我をして帰ってきたなら、手入れしてあげないとね」
頭痛が何だというのだ。吐き気がなんだというのだ。審神者なら、その程度のことは我慢しなければならない。
何より、歌仙も五虎退も物吉も歴史を守るという大任を果たすために顕現して、今もこうして戦っている。それならば自身の不始末で体調を崩していようが、彼らを助けるのは当たり前のことだろう。体調管理をできていない自分の落ち度なのだから、不平を言っている暇などないと、藤は己を叱責する。
熱のせいで回らない頭は、不愉快な思考さえ堂々巡りの坩堝に落とし込んでしまう。気持ちを切り替えようと、藤は虎の子を抱えたまま布団からのそのそと顔を出す。
熱のせいで潤んだ視界でぼんやりと辺りを見渡し、そしてそこにいるはずのない存在を、彼女の眼は捉えた。
「審神者様。本日はお休みになられていましたか」
寝台の反対側、部屋の入口にあたる場所に面妖な装飾を施した一匹の狐が立っていた。審神者の上司にあたる政府の言伝を行う者――こんのすけがそこにいた。
「……今日は、ちょっと風邪をひいていたんです」
途端、藤は自分の思考の一切合財を切り捨てて、よそ行きの顔を取り繕う。腕の中に抱いていた虎の子も、すげない所作で寝台から下ろしてしまった。
「それはそれは、お大事になさってください。何せ審神者様は替えが利かない身ですから。して、本日は刀剣男士の皆様は?」
「政府の任務で出かけてる」
「遠征ですか。さぞかし、お一人で大変でしょう」
言葉だけを捉えるなら、こんのすけは藤を労っているように聞こえる。しかし、狐という生き物のせいだろうか。表情を伴わない労いは、人間のそれよりも随分と白々しいものに聞こえた。
「……それで、本日はどのようなご用でしょうか?」
「先日、脇差を顕現なされたと聞きました」
こんのすけの言葉を聞いて、藤は微かに顔を顰める。
物吉について殊更に隠していたわけではないが、この数日の間で誰かが訪れるということはなかった。いったい、どこからそんな話が漏れたのか。これではまるで、見張られているようではないか。
「物吉貞宗。いやはや、全くもって素晴らしい。ご存知ですか、彼は戦いに勝利を運ぶ刀と言われています。審神者の中では、彼はあらゆる幸運を引き寄せると験担ぎに用いる者もいるらしいですよ」
「どうだろう。僕は彼がそんな大層な存在には見えなかったけれど」
「見た目によらず、という言葉もございますから。それに、物吉自身も自身の幸運を自覚しているような振る舞いをしているのではありませんか?」
狐の顔に変化はなかったはずなのに、藤にはまるでこんのすけがしたり顔で語っているように見えてしまっていた。それでも彼女は表情を崩さず、ガラス玉のような瞳で狐の演説を耳にしていた。
「事実はそうでなかったとしても、我々が彼から幸運を見出したという物語さえあればいいのですよ。要は、気の持ちようということです」
「幸運を運ぶ役回りを演じてもらえば、幸運が舞い込むと?」
「ええ。物語は後から付け足されるものですからね」
こんのすけの言葉自体に悪意はない。幸せを運ぶ青い鳥が、本当に幸せを運べるかどうかという事実はどうでもいいことだ。ただ、偶然手に入った幸せに青い鳥という理由を結びつけることで、人は幸せを感じることができる。
こんのすけの言いたいことは、そういうことだろうと藤は理解する。理解し、それでも彼女は首を縦に振ることはしなかった。
「幸せを運ぶ役も、楽なものじゃないと思うよ」
ぽつりと口の中だけで呟いた言葉は音にならず、こんのすけの耳に届くことはなかった。彼がこちらの返事を待っているのを目にして、彼女は物吉を見たときの自分の素直な感想を口にする。
「僕の知る限り、彼は寧ろおっちょこちょいで少しドジな所がある普通の男の子に見えるよ」
「刀剣男士、ですよ」
「……失礼しました。刀剣男士、だよ」
物吉のことを人間のように話す藤に対して、こんのすけの指摘が被さる。言い直した藤に、こんのすけは今度こそはっきりと分かるような笑顔を見せた。
「お分かりいただけたようで何よりです」
藤も狐につられたように笑みを返す。口元に緩く弧を描く、刀剣男士たちに常に見せている微笑。既に定番となっている、それはいつも通りの彼女の笑顔だった。
「さて、用は何か、とお尋ねになっていましたが。実は、本日は審神者様にアドバイスをしに参ったのです」
「アドバイス?」
「はい。打刀の歌仙兼定。短刀の五虎退。そして、脇差の物吉貞宗。どれも戦闘においては欠かせない刀種です。しかし、三振りというのは物足りない。審神者様もそう思っておられるのではありませんか」
こんのすけの的確な指摘を受けて、藤は口を噤ませる。本来、刀剣男士は一部隊六振りで成立させるものだというのは、審神者としての常識であることは彼女も知っている。
にも関わらず、現在本丸にいる刀剣男士はたったの三振り。その半分である。
「偵察と夜間の戦闘を得意とする短刀。短刀よりも頑丈でありながら、短刀の小回りの良さも併せ持つ脇差。夜間も昼間もバランスよく戦闘をこなす打刀」
「それで十分じゃないか」
「とんでもない。彼らでは相手を圧する力に大きく欠けてしまいます。脇差も短刀も、どちらかというと夜襲や室内戦を得意としています」
こんのすけの説明は藤にとっても初耳な部分があったが、己の無知を自ら曝け出す気もないので、一旦だんまりを続ける。
「打刀はバランスよくと言いましたが、裏を返せば器用貧乏とも言えます。今時点の審神者様に下す任務の多くは、野外戦が多いでしょう。ならば、野外の広い場所で優位を確保できる駒が必要です」
狐が明確に告げた「駒」という単語を耳にした瞬間、ささくれを引っ張ったような小さな鋭い痛みが、彼女の胸の奥に走る。しかし、藤は審神者としてその痛みを無視することを選んだ。
抗弁の代わりに、このメッセンジャーが伝えたいことが何かを知る方に探りを入れる。
「それで。誰を鍛刀したらいいって言いたいの?」
「太刀を。あるいは、大太刀でも構いませんが、あれは癖が少し強い。ならば、初心者の審神者様でも安心して運用できる太刀をおすすめします」
藤の表情は、先ほどから石のように固まったたままであった。彼女の様子に気が付いたのか、こんのすけは安心させるように笑顔らしきものを見せる。
「太刀の刀剣男士は、脇差や短刀に比べて、人間の成人男性のような見た目をしている者が多いのですよ。つまり、精神年齢が高い者たちばかりです。すぐに本丸にも馴染むことでしょう」
「そういうものかな」
「ええ。大人というものは、弁えているものですから」
狐の告げた内容は、刀剣男士のことをよく知らない審神者にとっては朗報ともいえることの筈だった。
しかし、藤の心にはじわじわと黒い泥のようなものが湧き上がり、溜まっていく。
親切に自分に呼びかける大人の男性特有の低く優しげな声。頭を撫で、優しげに笑いかけ、どこまでも暖かさに満ちた人の姿。
(弁えているなんて、結局は周りがそう思っているだけなのに)
実際のところ、声をかけたその人は、どれほど自分のことを理解していたのか。弁えていたのは、いったいどちらだったのか。
記憶の底から蘇る情景が鮮明になるにつれて、喉の奥に魚の骨が刺さったような不快感が募る。肺腑に冷たい水を流し込まれるような嫌悪が、そして――やるせない気持ちが生まれていく。
「……少し、考えさせて」
首を軽く横に振って、見えるはずのない幻の情景を打ち払う。彼女の気持ちを知らないこんのすけは、奇妙な生き物を見つけたように不思議そうに首を傾げた。
「考えるほどのことでしょうか?」
「大人の人が来るなら……ちゃんと、生活空間とか整えないと」
「何を仰っているのでしょう。たしかに人間なら衣食住は大事ですが、たかが刀には不要ですよ」
こんのすけは、まるで面白いジョークを藤が口にしたように、愛想笑いと分かる声を喉の奥から漏らす。
対する藤は、今度も表情を動かさない。血の通った彼らの生きざまを見てきた藤には、こんのすけの態度はひたすらに神経を逆撫でするだけのものだった。
たとえ、頭では彼らを刀と扱えと理解していても、心は素直に動かない。虹を見てはしゃぐ物吉を、子猫と戯れる五虎退を、主の所業にいつも呆れたように肩を竦める歌仙を、『たかが刀』とはもう彼女の心は言えなくなっていた。
とはいえ、こんのすけは政府からの遣いだ。審神者であるために、彼の――彼の背後にいる何かの不興を買うわけにはいかない。
「そうかもしれない。ただの……僕の自己満足だよ。審神者の士気だって、大事だよね」
「それもそうですね。審神者様が満足した生活を送れなければ、使われる物も十分な力を発揮できますまい」
あくまで審神者の士気に対しての言及ではあったが、こんのすけも一応の納得をしたようだった。
狐が無意識に放った棘を、どうにか自分の納得する形で抜き終えて藤は一つ息を吐く。頭が重いのは、きっと熱だけのせいではあるまい。
「その、太刀っていったいどんな人――どんな刀剣男士なの」
気持ちを切り替えようと、藤は話題を少しずらす。
「一口で表せるものではありませんので、気になるのでしたら演練会場に行かれるのは如何でしょう。色々な審神者様の刀剣男士を見るのも、勉強となるでしょう」
こんのすけの提案を耳にして、藤は表情こそ変えなかったものの内心で難色を滲ませる。
目の前の狐は、あくまで親切心から申し出てくれているということは嫌になるほど分かっていた。
戦力不足が不安だから、新たな戦力の追加を促す。戦力追加による部隊の不和を気にするのなら、先達を観察することそ勧める。彼の発言に、一貫して悪意はない。断る理由を持ち出しているのは、自分自身なのだと藤は自覚していた。
「ありがとう。熱が引いたら考えておくよ」
「はい。戦績向上のためにも、ぜひともご検討くださいませ。お体をお大事に」
狐は笑顔を見せてから、くるりと踵を返す。ふさふさの尻尾が旗のようにひらりと棚引いて消えていく。その後ろ姿に向けて、藤の隣に置かれた五虎退の虎が、ぐるると低いうなり声を漏らした。
「こら。政府の遣いにそんな態度見せちゃだめ」
唸っていた虎の子の濡れた鼻を、藤は人差し指でとんとんと軽く叩く。虎の子は不満そうにふわふわの前足を藤の足に載せた。
「……新しい刀剣男士――太刀、か」
すっかり冷えてしまった体を温めるために、藤は布団の中で丸くなる。じんわりと広がる温もりの中に、虎の子が入る余地は作られていなかった。
「どんな人がいるんだろう。歌仙みたいな口うるさい人かな。それとも五虎退みたいに引っ込み思案な? ああ、でも」
うつらうつらと微睡の中を彷徨いながら、藤は考えを口にする。
「結局、いい人なんだろうな」
物吉の混じりけのない笑顔は、まるで白い染みのようにこびりついて離れない。彼らとの温かな日々を思い返すたびに、炙られるような痛みが胸の奥によぎる。
「でも、戦力がいないと歌仙たちが怪我をするかもしれなくて。それは、嫌だな……」
恐れているのは、歌仙たちが怪我をすること自体なのだろうか。手入れをすることで、自分の体調が著しく崩れてしまうことの方ではないのか。
――だとしたら、とんだ偽善だ。
自嘲を口に浮かべながら、彼女は泥のような眠りの中に沈んでいった。
***
時代が変わろうと、空の高さも、生き物の鳴き声も変わらない。そのような感慨に耽るような余裕はなく、歌仙兼定はやや足早に歩きながら、斜め後方からついてくる物吉に声をかける。
「それで、我々は何を確認すればいいんだったかな。物吉」
「もう少し先にある所で起きる戦に、時間遡行軍が介入するかもしれない。だから、問題なく戦が始まって終わるかどうか、ですよ」
「歌仙、さん……歩くのが、その、ちょっと速い、です……」
五虎退に言われて、歌仙の足がぴたりと止まる。彼の歩幅は、常のそれよりもいくらか大股になっていた。歌仙として自覚はしたくなかったのだが、指摘されたのなら無視もできない。
「やっぱり心配……ですよね」
「主も七つ八つの幼子というわけじゃない。今頃大人しく休んでいるだろうさ」
歌仙に追いついた五虎退の言葉に、彼は自分の気持ちを押し殺すように、つれない返事をする。
遠征で出かける前に顔を見たときは、まだ熱があるからか主は気怠そうにしていた。刀であった歌仙にとって、その様子がどれほどの影響を彼女に与えているものなのか分からない。寝ていれば治るとは言われたが、はたしてそれが事実なのかも彼には判別できない。
けれども、政府から課せられた遠征の任務をこなさないわけにもいかない。今は主の言葉を信じて自分たちの仕事をするべきだと、彼は横にそれる思考を修正する。
「そうですよ。それに、この任務も後少しです。あるべきところで、あるべきことが起きている。それを確認さえすればいいんですから!」
「物吉の言う通りだ。あと一日もかからないよ」
歌仙たちに今回課せられた任務は、ある時代における戦の発生に関する調査だ。政府の人間はぼかしていたが、ある時代というのが、俗に言われる戦国時代やその近辺の時代であることに間違いない。
当時、日本のあちこちでは戦が日常茶飯事のように行われていた。それら一つ一つが、あるべき形で行われ、予定通りの結果を齎していることを確認するというのが、今回の調査の趣旨である。
歌仙たちは、さる目的地の指定された時刻において、戦が問題なく起きたかを確認するようにと指示されていた。歴史に広く名を残すような大きな戦ではなく、小規模な小競り合い程度ではあるそうだが、それでも歴史の一ページであることに変わりはない。
「方角は……こっちで合ってるでしょうか」
「そのはずだよ。政府の人間も、もう少し目的地を絞って転送してほしいものだよね」
「その付近一帯に問題が起きてないかを確認するのも、ボクたちの仕事みたいですから」
五虎退は不安げに懐に入れた羅針盤を確認し、歌仙は主の不調を気にしてか珍しく愚痴をこぼした。
遠征任務というものは、武力以外で解決しそうな問題の対処、問題なく歴史が動いているかの確認、時空の揺らぎのようなものが観測されたと言われる場所の原因調査と、出陣と異なり積極的な武力行動を伴わない任務全般を指している。無論、内容によってはそのまま戦闘になることもあるので一定以上の警戒はしているが、出陣の時よりはいくらか気も抜いてはいた。
「仕事と言えど、行き先を間違えて行ったり戻ったりはごめんだね。さて、夜になる前に急ごうか」
目的地に向かって足を踏み出しかけたとき、不意にがさがさと藪をかき分ける音が耳に飛び込む。即座に三人はそちらに視線をやり、緊張を漲らせた。
この時代、動物だけでなく賊の類も当然のように頻発している。警戒すべきは、時間遡行軍だけではない。
張りつめた糸のような緊迫感の中、がさりと藪をかき分けて出てきたのは人影だった。傾きかけた西日を浴びて立っていたのは、五虎退くらいの年ごろの少年を連れた妙齢の女性だった。
「あ、あの」
細い声で声をかけた女性の身なりは、一言で言い表すなら貧相なものだ。色褪せたつぎだらけの着物に、ぼさぼさの黒髪を無造作に布でまとめている。手には籠のようなものを持っており、その中には山菜らしき緑が散らばっていた。
「旅の人、どちらへ向かうおつもりで? この辺り、宿のようなものはないはずなのだけれど」
「ええと、僕たちは……」
意表を突いて真っ当な質問を投げかけられて、歌仙は口ごもる。
歴史の改変がされていないか、未来から確認に来ました――などと、言えるはずもない。幸い、時代に合わせた旅装として、幾分くたびれた外套と傘を身に着けているので、見た目から怪しまれることはなさそうだった。
「姉ちゃん、こんな奴ら放っておけって」
「でも、迷っているのなら、一晩くらいは村で泊めてあげないと。もう夜になってしまうわ」
隣の弟らしき少年の苦言など物ともせず、女性は歌仙に笑いかける。泥で汚れた顔であるにも関わらず、荒れ野に咲く一輪の花のような、人を惹きつけずにはいられない笑顔だった。
「すみません。実は先ほどから、皆さんの話を少しだけ聞いてしまったもので。もしかして、道に迷っているんじゃないかって」
歌仙らのやり取りを聞いて、この女性はどうやら彼らを道に迷った旅の者と勘違いしたらしい。歌仙たちが返事をしないのを肯定ととったのか、彼女は言葉を続ける。
「子供を連れて、夜にこの辺りを歩くのは危険よ。よかったら私の村で一泊過ごして、夜が明けるのを待ってから出立してはどう?」
邪気のない微笑を浮かべて女性は問いかける。思わず三人は顔を見合わせた。
「その村というのは、どちらにあるんだい?」
「あちらに向かって、歩いてしばらくいったところなの。今からなら、日が暮れる前には到着するだろうから。私も一緒について行くから、迷う心配もないわ」
彼女が細い指で指した方角は、丁度三人が向かおうとした先でもあった。
彼女が同行したところで、目的地からずれるわけでもない。にべもなく断ってしまってもいいが、この分なら向かう先が一緒になってしまうのだから、断ろうが彼女と同道することは目に見えていた。
「それなら、お願いするよ。見ての通り、こちらも子供連れなもので困っていたんだ」
適当に話を合わせるために、歌仙は五虎退と物吉の存在を使うことにした。警戒をされてもされなくても立場上影響はないが、やはり不審の目で見られ続けたいとは思わない。
もし怪しい者として危害を向けられてしまっては、歌仙たちにとっても困ったことになる。歴史を改変できない彼らにとって、敵意を向けてきた者への対処の仕方が限られてしまうからだ。
そのような歌仙の思惑など当然知るわけもなく、女性は人好きのされそうな笑顔のまま一度頭を下げる。不服そうな少年の肩に手を置き、
「こっちは弟の弥助。私は――ふじと、いうの」
女性の名乗りを聞いた一行は、思わず目を見開いた。三人の間に微妙な空気が流れたのを感じ取ったのだろう、ふじが不安を顔によぎらせる。
「いや、申し訳ない。主――知り合いに、同じ名前の人がいたもので」
「あら、それはおかしな縁もあったものね」
「ええ、まったく。では、お願いします」
勝手知ったる帰り道なのだろう、女性は弟の手を引いて迷うことなく歩き始める。彼女に遅れまいと五虎退がいそいそとその背を追う。早速弟の弥助に声をかけられてしどろもどろになっている少年は、傍から見たら兄弟の一人に見えただろう。
「何だか不思議な感じがしますね。顔も髪の色も全く違うっていうのに、でも主様と少し似ているかもしれないってボクは思いました」
「相手が誰であろうと、お節介をせずにはいられない所とかね」
物吉の脳裏には、先日崖から落ちかけた時に助けられたことが浮かび上がっていた。相手が刀剣男士だろうが人間だろうが、困っていたら助ける。その姿勢は目の前の女性と通ずるものだろう。
「さて、日が沈む頃なら政府の任務に指定されていた時刻ともほぼ合致する。彼女に案内されるまでもなかったかもしれないが、怪しまれて変な形で誰かに話されても困るからね」
「あの――歌仙さん」
夕日が作り出したでこぼこの影を見つめ、物吉は硬い声音で歌仙に問いかける。
「政府は、戦が起きることを確認してくるようにと命じたんですよね」
「ああ、そうだよ。ここより暫く行った先で、今日この日に戦が起きる。夜襲といったところかな。それがどうやら、正しい歴史らしい」
「戦が起きたら――」
「物吉」
物吉の言葉にかぶせるように発せられた歌仙の呼びかけも、少年に負けず劣らず強張ったものだった。
物吉は琥珀色の瞳を見開き、歌仙をじっと見つめる。傾きかけた日が歌仙の顔に陰を作ってしまい、彼の表情を見ることは叶わない。
「分かってます。……分かってますよ」
少年は、ぐいと傘を目深にかぶり直す。同じく陰で顔を隠してしまったため、彼は口元だけを覗かせていた。その口元には、いつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
「笑っていなければ、幸運は来ませんものね。では、行きましょう!」
物吉と歌仙が三人組を追いかけ始める少し前。五虎退は、主と同じ名前の女性の隣を歩いていた。
彼女の弟――弥助のように手こそ繋がれていないものの、彼女の優しげな微笑は主を彷彿させるものがあり、何度も何度も五虎退は彼女に視線を送っていた。
「おい、お前。姉ちゃんのこと、じろじろ見てるんじゃないぞ」
「あ、あの……ごめんなさい」
「いいのよ。ねえ、こんなに小さいのに旅をしているなんて、大変なことが色々あったんじゃないの?」
「いえ、その」
労わるようなふじの目を見ていると、任務や自分の立場を隠して彼女の隣を歩いているということすら、後ろめたく感じてしまう。その後ろめたさが、彼の表情を不安げなものへと変えていく。
気弱な少年の態度が彼女の母性をくすぐったのか、彼女は五虎退の頭をそっと撫でた。ふじの手は日々の野良仕事のせいか荒れてていたが、主のものにも似ているような気がした。
「大変なときも、ありますけど、でも、僕よりも歌仙さん……さっき話してた人や、あるじさま……あの、お姉さんと同じ名前の人……の方が、もっと大変なんです」
「そうなんだね。そうだ。私と同じ名前のその人のこと、もっと聞きたいな」
今にも泣き出しそうな五虎退の様子が心配だったのだろう。つとめて明るい声を出して、ふじは話題を振る。弥助も少しは興味があるのか、唇を尖らせながらも片目だけ五虎退に視線を送っていた。
思いがけなく二人分の視線を集めた五虎退の白い頬は、みるみるうちに朱に染まっていった。それでも、主のことを話せるという喜びが元来の内気さを上回り、彼の口を動かした。
「そ、そのひと……は、いつも……頑張っていて、優しい人、なんです。僕や歌仙さんが怪我をしたときも、夜遅くまで手入れ……手当て、してくれて」
初めての出陣の時のことが、昨日のことのように思い返される。
「かくれんぼを一緒にしてくれました。僕のためにご飯を食べる器を用意してくれました」
顕現したばかりで、不安に押しつぶされそうな時に声をかけてくれた姿が思い浮かぶ。
「僕が失礼なことを言ってしまったときも、笑って許してくれました」
政府の人が来たあの日、今まで男の人だと思いこんでいたことを明らかにしても、彼女は何でもないことのように流してくれた。
「坊やにとって、とても大事な人なんだね」
ふじの相槌を聞きながらも、五虎退は自分の記憶を改めて振り返る。振り返った先で、彼は気がついてしまった。そこかしこに点々と残っている、小さな染みのような懸念に。
出陣から帰ってきた時、手入れをしながら彼の話を聞いていた藤は、まるで五虎退から距離を置こうとしているように、彼には感じられた。
彼女の性別を取り違えていたことが露見した時、彼女は笑って許してくれた。だが、確かに笑っていたはずなのに――どうして、こんなにも落ち着かない気持ちになってしまうのだろう。
そして何より、彼女と初めて会ったときのことを彼は思い出してしまう。初対面のはずなのに彼女がどうしてか、自分を拒絶していると感じられたときのことを。あれは、本当に勘違いだったのだろうか。
「大事な人……なんですけれど」
「なんだよ。そんだけ嬉しそうに話してて、ちげーのかよ」
何だかんだ言いながらも話を聞いていたらしい弥助に尋ねられ、五虎退は唇をぐっと噛む。一度疑問を抱いてしまうと、不安は次から次へと波のように彼の小さな心に押し寄せていた。
「ごめんなさい。もしかして、聞いてはいけないことだった?」
「違うんです! そうじゃなくて……あるじさま、その人が……もしかして、僕が思っているのとは違う気持ちを持ってるんじゃないかって心配になって」
「違う気持ち?」
「僕は……その人が、大好きです。一緒にいると、温かい気持ちになれますし、笑顔を見ると嬉しくなります。でも……その人は、僕のことをどう思ってるのかなって」
話しているうちに気が落ち込んでしまい、小さくなっていた歩幅はやがてゼロになってしまった。立ち止まってしまった五虎退を見て、ふじと弥助は顔を見合わせる。
五虎退が知る由も無いことであったが、行きずりの少年の不安を払拭せずに放置しておく程、この女性は人でなしではなかった。そして弟も、そんな姉のことをよく知っていた。
まず、弟の弥助の方がつまらなさそうにフンと鼻を鳴らす。次いで、ふじは五虎退の不安そうな顔を見つめて、
「その人は、坊やのことが嫌いなわけではないと思うな」
殊更に明るい声を作って、声を張り上げる。五虎退は思わず顔を上げた。
「どう思っているかっていうのは、私は会ったことがないからよく分からない。でも、坊やのことが好きだから、いっぱい素敵なことをしてくれるんじゃない?」
「そう……でしょうか」
「うん。だって、嫌いだったらそんなことしないもの」
「でも……たまに、なんでですけど。そこで話しているはずなのに、あるじさまのことが少し遠く……感じることがあるんです。あるじさま、凄く遠くばかり見て、僕のことを見ていないような気がして」
五虎退は不安を隠すことをやめて、目の前の女性に心中をぶつけてみる。女性は夕日に照らされながら、からりとした笑みを彼に向けた。
「そりゃあ、いつも坊やと同じ気持ちじゃないって時もあるよ。たまには、虫の居所が悪くてそっけない態度をとってしまう時もある」
おもむろに隣に立つ弟の頭をわしわしと撫で、彼女は続ける。
「うちもこーんなやんちゃな弟がいるから、お姉ちゃんもう大変で。畑仕事をさぼったときとか、お姉ちゃんが大事に育ててた花を潰しちゃったときとか、大喧嘩したこともあるのよ?」
「それは悪かったって! 姉ちゃんの言いつけは守るようにしてるだろ!?」
突然自分に話を振られて、弥助は慌てたように弁解をまくし立てる。彼の勢いに負けじと、ふじは弟の頬をびよんと引っ張った。弥助の伸びた頬が作り出した顔があまりに滑稽で、五虎退はつられたように笑う。
「僕のあるじさまも、そうなんでしょうか」
「うん。絶対、その人は坊やのことを好きなんだと思うよ」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
ふじは弟からパッと手を放し、五虎退の視線に合わせるように屈む。相対する彼女の栗色の瞳は、主とは違う活力に満ちているように見えた。
彼女は少年の細い両肩に手を置き、少年に問いかける。
「ねえ。好きの反対ってなんだと思う?」
「嫌い……ですか?」
ふじは、ゆっくりと首を横に振った。
「無関心、なんだよ」
はっきりと告げられた言葉は、じんわりと五虎退の胸の内に染み渡る。
「無視されて、いないように扱われる。それが一番はっきりしていて、一番辛い別れ方なの。嫌いって態度に出しているうちは、まだその人のことが好きなんだと私は思うな」
「でも、嫌いって言われたら……それでも辛いです」
「うん。とっても辛いと思う。だけど、好きな人だからこそ嫌な所は嫌って言いたいし、嫌っていうこともまた勇気なんだと思うの」
ふじが真剣に伝えようとしていることを耳にしても、五虎退の中ではまだ完全な理解にまでは至らない。他人が傷つくことを言うのなら、それが好きなことの証だとしても結局苦しいことに変わりはないのだろうか。
けれども、もし自分が無意識に誰かを傷つけていたのなら。それは避けたいことだ、と彼は自然に思っていた。
「嫌いという、勇気……」
「だって、好きな人の全部が嫌いだったら無視するでしょ? そうじゃなくて、直してもらいたい所があるから頑張って嫌だって言うんだもの。傷つけると分かってそれでも言うのは、凄く勇気がいると思う」
「それなら、あるじさまが時折遠く感じるのは……」
「何か言いたい。けれど、勇気が出ない。そんな感じなのかなって私は思うの。ただの勘だけどね?」
「そーそー。姉ちゃん、当てずっぽうで適当なこと言うから」
混ぜ返す弟の頭を小突くふじの姿は、どこにでもいる村娘のはずなのに何故だかとても眩しいものに五虎退には見えた。
「勇気が出ない人には……僕は、どうすればいいんでしょうか」
「そういう時は、待ってあげるといいと思う。勇気が出るようになるまで。優しく、ゆっくり待ってあげるの。そんな坊やの姿が、きっとその人の勇気を育ててくれると思う」
ふと、五虎退は自分が藤に会ってすぐのことを思い出す。引っ込み思案な彼の言葉を、彼女は急かすことなく待っていた。自分のことを蔑ろにしなくていいと、声をかけてくれた。自分が狼狽えているときでも、困惑するわけでもなく静かに微笑んでいた。その態度に助けられたことは、きっと何度もある。
「……はい。そうしてみます」
五虎退は、力強く頷く。本丸に戻ったときは、この話を彼女にしようと決意して。
静まり返った部屋に、大きなくしゃみが響く。くしゃみをした弾みに、ぱちりと部屋の主が瞼を開けた。
寝台の上に横たわっていたこの部屋の主こと藤は、目やにと涙がまじった目を瞬かせる。数秒かけてようやく焦点があった瞳には、この二か月で見慣れた天井が映っていた。
ずるずると体を起こしてみたものの、寝起きということもあって頭は全く回らない。けれども頭の回転が遅い理由は他にもあった。
「寒い……」
自分のものとは思えないほど力の入らない腕を伸ばし、藤は布団を掴む。ずるずると引きあげて体に巻きつけてから、ようやく彼女は一息ついた。
しかし今の季節は真冬とは程遠い。カレンダーも既に六月をめくり終えて、七月を迎えている。徐々に梅雨も終わり蒸し暑さが始まる頃合いだというのに、藤は絶え間ない悪寒と戦っていた。
「風邪をひくなんて、僕にしては珍しいよね――っくしゅん」
頭に貼りつけていた解熱用のジェルシートを張り直し、もう一度布団に入る。頭は割れ鐘でも叩いたかのようにガンガンと痛みが響いているのに、体の方は重りをつけて海底散歩でもしているのかと思うほど気怠い。
よりにもよって、藤は今本丸に一人きりであった。風邪をひいた主を放って歌仙たちが薄情にも出かけてしまった、というわけではなく、政府から下された任務によって異なる時代に赴いているからである。
「風邪をひいたのは自業自得なんだから、一人きりでも文句言えないんだよなあ」
もう一度小さくくしゃみをして、藤は熱がこもった息を吐く。
彼女が言う通り、体調を崩し始めたのは山歩きの翌日からだった。雨の中を傘も差さずにうろうろしていたことが原因なのは、火を見るよりも明らかである。
任務のために出かける歌仙も、直前まで主の部屋を出たり入ったりと落ち着きのない様子を見せていた。
心配をかけていることは、誰よりも藤自身が自覚している。だからこそ胃の底が引き絞られるような申し訳なさと、審神者としてのあるまじき失態に対する不甲斐なさが、彼女の胸中を占めていた。
「一人だって慣れているし。歌仙もご飯作っておいてくれた。皆がいなくても、平気だよ」
布団を頭まで引き上げて、熱のこもった闇の中で目を閉じる。じんわりと体に滲んだ汗が不快感を募らせる。外では少し早い蝉の掠れた鳴き声が響いていた。
しんしんと雪のように積もる静寂によって、孤独感はいや増すばかりだ。静けさという名の圧力に耐えるように、ぎゅっと藤は目を瞑る。
そうして、うつらうつらしているとき。彼女の小さな暗闇に柔らかな侵入者がやってきた。
「うわっ、何!?」
ふわふわの毛触りに驚いて、思わず布団をはねのける。
そこには、白い毛に黒い縞が鮮やかな虎の子たちがいた。一匹だけでなく、寝台の上への登攀を試みてころころと転がり落ちたらしい虎の子たちが、何匹も床に折り重なっている。
唯一寝台に上った一匹は、その柔らかな鼻面を藤に何度も押し付けた。まるで、自分たちがここにいるから安心しろと言わんばかりに。
「……ごめんよ。そうだね。君たちがいるものね」
虎の子の温かな毛に指を通していると、少し悪寒も収まったようだ。寝台の端で我も我もと腕を伸ばす虎の子を、彼女は全員抱え上げる。あっという間に彼女の寝床は白いふわふわの虎の子に占拠されてしまった。
「はは。あったかくていいや」
体を横たえた彼女の布団の中に、次から次へと虎の子たちが体を寄せる。藤はその中の一匹を抱きしめて、ごろりと寝返りを打った。寝台の側にある窓からは初夏の鮮やかな緑が広がっている。
見るともなしにそれらを見つめながら、
「歌仙たち、怪我してないかな」
先だっての出陣のことを思い出して、隠し切れなかった懸念を口にする。
政府の担当官である富塚に「気にすることではない」と言われ、彼女自身そう思うべきだと分かっていても、気がかりであることには変わりはない。
面と向かって歌仙たちに言うことは、審神者としてすべきではないと思っているから、口にはしていない。しかし、簡単に忘れられるような光景でもない。
意識を失い、血だらけになって帰ってきた歌仙の姿。そんな姿を見ても動じてはならないという、審神者という立場としてのあるべき姿。そして、手入れをしたときに自分の体を襲った体調不良。
全て思い返し、藤は苦々しげに顔を歪める。
「歌仙たちが怪我をして帰ってきたなら、手入れしてあげないとね」
頭痛が何だというのだ。吐き気がなんだというのだ。審神者なら、その程度のことは我慢しなければならない。
何より、歌仙も五虎退も物吉も歴史を守るという大任を果たすために顕現して、今もこうして戦っている。それならば自身の不始末で体調を崩していようが、彼らを助けるのは当たり前のことだろう。体調管理をできていない自分の落ち度なのだから、不平を言っている暇などないと、藤は己を叱責する。
熱のせいで回らない頭は、不愉快な思考さえ堂々巡りの坩堝に落とし込んでしまう。気持ちを切り替えようと、藤は虎の子を抱えたまま布団からのそのそと顔を出す。
熱のせいで潤んだ視界でぼんやりと辺りを見渡し、そしてそこにいるはずのない存在を、彼女の眼は捉えた。
「審神者様。本日はお休みになられていましたか」
寝台の反対側、部屋の入口にあたる場所に面妖な装飾を施した一匹の狐が立っていた。審神者の上司にあたる政府の言伝を行う者――こんのすけがそこにいた。
「……今日は、ちょっと風邪をひいていたんです」
途端、藤は自分の思考の一切合財を切り捨てて、よそ行きの顔を取り繕う。腕の中に抱いていた虎の子も、すげない所作で寝台から下ろしてしまった。
「それはそれは、お大事になさってください。何せ審神者様は替えが利かない身ですから。して、本日は刀剣男士の皆様は?」
「政府の任務で出かけてる」
「遠征ですか。さぞかし、お一人で大変でしょう」
言葉だけを捉えるなら、こんのすけは藤を労っているように聞こえる。しかし、狐という生き物のせいだろうか。表情を伴わない労いは、人間のそれよりも随分と白々しいものに聞こえた。
「……それで、本日はどのようなご用でしょうか?」
「先日、脇差を顕現なされたと聞きました」
こんのすけの言葉を聞いて、藤は微かに顔を顰める。
物吉について殊更に隠していたわけではないが、この数日の間で誰かが訪れるということはなかった。いったい、どこからそんな話が漏れたのか。これではまるで、見張られているようではないか。
「物吉貞宗。いやはや、全くもって素晴らしい。ご存知ですか、彼は戦いに勝利を運ぶ刀と言われています。審神者の中では、彼はあらゆる幸運を引き寄せると験担ぎに用いる者もいるらしいですよ」
「どうだろう。僕は彼がそんな大層な存在には見えなかったけれど」
「見た目によらず、という言葉もございますから。それに、物吉自身も自身の幸運を自覚しているような振る舞いをしているのではありませんか?」
狐の顔に変化はなかったはずなのに、藤にはまるでこんのすけがしたり顔で語っているように見えてしまっていた。それでも彼女は表情を崩さず、ガラス玉のような瞳で狐の演説を耳にしていた。
「事実はそうでなかったとしても、我々が彼から幸運を見出したという物語さえあればいいのですよ。要は、気の持ちようということです」
「幸運を運ぶ役回りを演じてもらえば、幸運が舞い込むと?」
「ええ。物語は後から付け足されるものですからね」
こんのすけの言葉自体に悪意はない。幸せを運ぶ青い鳥が、本当に幸せを運べるかどうかという事実はどうでもいいことだ。ただ、偶然手に入った幸せに青い鳥という理由を結びつけることで、人は幸せを感じることができる。
こんのすけの言いたいことは、そういうことだろうと藤は理解する。理解し、それでも彼女は首を縦に振ることはしなかった。
「幸せを運ぶ役も、楽なものじゃないと思うよ」
ぽつりと口の中だけで呟いた言葉は音にならず、こんのすけの耳に届くことはなかった。彼がこちらの返事を待っているのを目にして、彼女は物吉を見たときの自分の素直な感想を口にする。
「僕の知る限り、彼は寧ろおっちょこちょいで少しドジな所がある普通の男の子に見えるよ」
「刀剣男士、ですよ」
「……失礼しました。刀剣男士、だよ」
物吉のことを人間のように話す藤に対して、こんのすけの指摘が被さる。言い直した藤に、こんのすけは今度こそはっきりと分かるような笑顔を見せた。
「お分かりいただけたようで何よりです」
藤も狐につられたように笑みを返す。口元に緩く弧を描く、刀剣男士たちに常に見せている微笑。既に定番となっている、それはいつも通りの彼女の笑顔だった。
「さて、用は何か、とお尋ねになっていましたが。実は、本日は審神者様にアドバイスをしに参ったのです」
「アドバイス?」
「はい。打刀の歌仙兼定。短刀の五虎退。そして、脇差の物吉貞宗。どれも戦闘においては欠かせない刀種です。しかし、三振りというのは物足りない。審神者様もそう思っておられるのではありませんか」
こんのすけの的確な指摘を受けて、藤は口を噤ませる。本来、刀剣男士は一部隊六振りで成立させるものだというのは、審神者としての常識であることは彼女も知っている。
にも関わらず、現在本丸にいる刀剣男士はたったの三振り。その半分である。
「偵察と夜間の戦闘を得意とする短刀。短刀よりも頑丈でありながら、短刀の小回りの良さも併せ持つ脇差。夜間も昼間もバランスよく戦闘をこなす打刀」
「それで十分じゃないか」
「とんでもない。彼らでは相手を圧する力に大きく欠けてしまいます。脇差も短刀も、どちらかというと夜襲や室内戦を得意としています」
こんのすけの説明は藤にとっても初耳な部分があったが、己の無知を自ら曝け出す気もないので、一旦だんまりを続ける。
「打刀はバランスよくと言いましたが、裏を返せば器用貧乏とも言えます。今時点の審神者様に下す任務の多くは、野外戦が多いでしょう。ならば、野外の広い場所で優位を確保できる駒が必要です」
狐が明確に告げた「駒」という単語を耳にした瞬間、ささくれを引っ張ったような小さな鋭い痛みが、彼女の胸の奥に走る。しかし、藤は審神者としてその痛みを無視することを選んだ。
抗弁の代わりに、このメッセンジャーが伝えたいことが何かを知る方に探りを入れる。
「それで。誰を鍛刀したらいいって言いたいの?」
「太刀を。あるいは、大太刀でも構いませんが、あれは癖が少し強い。ならば、初心者の審神者様でも安心して運用できる太刀をおすすめします」
藤の表情は、先ほどから石のように固まったたままであった。彼女の様子に気が付いたのか、こんのすけは安心させるように笑顔らしきものを見せる。
「太刀の刀剣男士は、脇差や短刀に比べて、人間の成人男性のような見た目をしている者が多いのですよ。つまり、精神年齢が高い者たちばかりです。すぐに本丸にも馴染むことでしょう」
「そういうものかな」
「ええ。大人というものは、弁えているものですから」
狐の告げた内容は、刀剣男士のことをよく知らない審神者にとっては朗報ともいえることの筈だった。
しかし、藤の心にはじわじわと黒い泥のようなものが湧き上がり、溜まっていく。
親切に自分に呼びかける大人の男性特有の低く優しげな声。頭を撫で、優しげに笑いかけ、どこまでも暖かさに満ちた人の姿。
(弁えているなんて、結局は周りがそう思っているだけなのに)
実際のところ、声をかけたその人は、どれほど自分のことを理解していたのか。弁えていたのは、いったいどちらだったのか。
記憶の底から蘇る情景が鮮明になるにつれて、喉の奥に魚の骨が刺さったような不快感が募る。肺腑に冷たい水を流し込まれるような嫌悪が、そして――やるせない気持ちが生まれていく。
「……少し、考えさせて」
首を軽く横に振って、見えるはずのない幻の情景を打ち払う。彼女の気持ちを知らないこんのすけは、奇妙な生き物を見つけたように不思議そうに首を傾げた。
「考えるほどのことでしょうか?」
「大人の人が来るなら……ちゃんと、生活空間とか整えないと」
「何を仰っているのでしょう。たしかに人間なら衣食住は大事ですが、たかが刀には不要ですよ」
こんのすけは、まるで面白いジョークを藤が口にしたように、愛想笑いと分かる声を喉の奥から漏らす。
対する藤は、今度も表情を動かさない。血の通った彼らの生きざまを見てきた藤には、こんのすけの態度はひたすらに神経を逆撫でするだけのものだった。
たとえ、頭では彼らを刀と扱えと理解していても、心は素直に動かない。虹を見てはしゃぐ物吉を、子猫と戯れる五虎退を、主の所業にいつも呆れたように肩を竦める歌仙を、『たかが刀』とはもう彼女の心は言えなくなっていた。
とはいえ、こんのすけは政府からの遣いだ。審神者であるために、彼の――彼の背後にいる何かの不興を買うわけにはいかない。
「そうかもしれない。ただの……僕の自己満足だよ。審神者の士気だって、大事だよね」
「それもそうですね。審神者様が満足した生活を送れなければ、使われる物も十分な力を発揮できますまい」
あくまで審神者の士気に対しての言及ではあったが、こんのすけも一応の納得をしたようだった。
狐が無意識に放った棘を、どうにか自分の納得する形で抜き終えて藤は一つ息を吐く。頭が重いのは、きっと熱だけのせいではあるまい。
「その、太刀っていったいどんな人――どんな刀剣男士なの」
気持ちを切り替えようと、藤は話題を少しずらす。
「一口で表せるものではありませんので、気になるのでしたら演練会場に行かれるのは如何でしょう。色々な審神者様の刀剣男士を見るのも、勉強となるでしょう」
こんのすけの提案を耳にして、藤は表情こそ変えなかったものの内心で難色を滲ませる。
目の前の狐は、あくまで親切心から申し出てくれているということは嫌になるほど分かっていた。
戦力不足が不安だから、新たな戦力の追加を促す。戦力追加による部隊の不和を気にするのなら、先達を観察することそ勧める。彼の発言に、一貫して悪意はない。断る理由を持ち出しているのは、自分自身なのだと藤は自覚していた。
「ありがとう。熱が引いたら考えておくよ」
「はい。戦績向上のためにも、ぜひともご検討くださいませ。お体をお大事に」
狐は笑顔を見せてから、くるりと踵を返す。ふさふさの尻尾が旗のようにひらりと棚引いて消えていく。その後ろ姿に向けて、藤の隣に置かれた五虎退の虎が、ぐるると低いうなり声を漏らした。
「こら。政府の遣いにそんな態度見せちゃだめ」
唸っていた虎の子の濡れた鼻を、藤は人差し指でとんとんと軽く叩く。虎の子は不満そうにふわふわの前足を藤の足に載せた。
「……新しい刀剣男士――太刀、か」
すっかり冷えてしまった体を温めるために、藤は布団の中で丸くなる。じんわりと広がる温もりの中に、虎の子が入る余地は作られていなかった。
「どんな人がいるんだろう。歌仙みたいな口うるさい人かな。それとも五虎退みたいに引っ込み思案な? ああ、でも」
うつらうつらと微睡の中を彷徨いながら、藤は考えを口にする。
「結局、いい人なんだろうな」
物吉の混じりけのない笑顔は、まるで白い染みのようにこびりついて離れない。彼らとの温かな日々を思い返すたびに、炙られるような痛みが胸の奥によぎる。
「でも、戦力がいないと歌仙たちが怪我をするかもしれなくて。それは、嫌だな……」
恐れているのは、歌仙たちが怪我をすること自体なのだろうか。手入れをすることで、自分の体調が著しく崩れてしまうことの方ではないのか。
――だとしたら、とんだ偽善だ。
自嘲を口に浮かべながら、彼女は泥のような眠りの中に沈んでいった。
***
時代が変わろうと、空の高さも、生き物の鳴き声も変わらない。そのような感慨に耽るような余裕はなく、歌仙兼定はやや足早に歩きながら、斜め後方からついてくる物吉に声をかける。
「それで、我々は何を確認すればいいんだったかな。物吉」
「もう少し先にある所で起きる戦に、時間遡行軍が介入するかもしれない。だから、問題なく戦が始まって終わるかどうか、ですよ」
「歌仙、さん……歩くのが、その、ちょっと速い、です……」
五虎退に言われて、歌仙の足がぴたりと止まる。彼の歩幅は、常のそれよりもいくらか大股になっていた。歌仙として自覚はしたくなかったのだが、指摘されたのなら無視もできない。
「やっぱり心配……ですよね」
「主も七つ八つの幼子というわけじゃない。今頃大人しく休んでいるだろうさ」
歌仙に追いついた五虎退の言葉に、彼は自分の気持ちを押し殺すように、つれない返事をする。
遠征で出かける前に顔を見たときは、まだ熱があるからか主は気怠そうにしていた。刀であった歌仙にとって、その様子がどれほどの影響を彼女に与えているものなのか分からない。寝ていれば治るとは言われたが、はたしてそれが事実なのかも彼には判別できない。
けれども、政府から課せられた遠征の任務をこなさないわけにもいかない。今は主の言葉を信じて自分たちの仕事をするべきだと、彼は横にそれる思考を修正する。
「そうですよ。それに、この任務も後少しです。あるべきところで、あるべきことが起きている。それを確認さえすればいいんですから!」
「物吉の言う通りだ。あと一日もかからないよ」
歌仙たちに今回課せられた任務は、ある時代における戦の発生に関する調査だ。政府の人間はぼかしていたが、ある時代というのが、俗に言われる戦国時代やその近辺の時代であることに間違いない。
当時、日本のあちこちでは戦が日常茶飯事のように行われていた。それら一つ一つが、あるべき形で行われ、予定通りの結果を齎していることを確認するというのが、今回の調査の趣旨である。
歌仙たちは、さる目的地の指定された時刻において、戦が問題なく起きたかを確認するようにと指示されていた。歴史に広く名を残すような大きな戦ではなく、小規模な小競り合い程度ではあるそうだが、それでも歴史の一ページであることに変わりはない。
「方角は……こっちで合ってるでしょうか」
「そのはずだよ。政府の人間も、もう少し目的地を絞って転送してほしいものだよね」
「その付近一帯に問題が起きてないかを確認するのも、ボクたちの仕事みたいですから」
五虎退は不安げに懐に入れた羅針盤を確認し、歌仙は主の不調を気にしてか珍しく愚痴をこぼした。
遠征任務というものは、武力以外で解決しそうな問題の対処、問題なく歴史が動いているかの確認、時空の揺らぎのようなものが観測されたと言われる場所の原因調査と、出陣と異なり積極的な武力行動を伴わない任務全般を指している。無論、内容によってはそのまま戦闘になることもあるので一定以上の警戒はしているが、出陣の時よりはいくらか気も抜いてはいた。
「仕事と言えど、行き先を間違えて行ったり戻ったりはごめんだね。さて、夜になる前に急ごうか」
目的地に向かって足を踏み出しかけたとき、不意にがさがさと藪をかき分ける音が耳に飛び込む。即座に三人はそちらに視線をやり、緊張を漲らせた。
この時代、動物だけでなく賊の類も当然のように頻発している。警戒すべきは、時間遡行軍だけではない。
張りつめた糸のような緊迫感の中、がさりと藪をかき分けて出てきたのは人影だった。傾きかけた西日を浴びて立っていたのは、五虎退くらいの年ごろの少年を連れた妙齢の女性だった。
「あ、あの」
細い声で声をかけた女性の身なりは、一言で言い表すなら貧相なものだ。色褪せたつぎだらけの着物に、ぼさぼさの黒髪を無造作に布でまとめている。手には籠のようなものを持っており、その中には山菜らしき緑が散らばっていた。
「旅の人、どちらへ向かうおつもりで? この辺り、宿のようなものはないはずなのだけれど」
「ええと、僕たちは……」
意表を突いて真っ当な質問を投げかけられて、歌仙は口ごもる。
歴史の改変がされていないか、未来から確認に来ました――などと、言えるはずもない。幸い、時代に合わせた旅装として、幾分くたびれた外套と傘を身に着けているので、見た目から怪しまれることはなさそうだった。
「姉ちゃん、こんな奴ら放っておけって」
「でも、迷っているのなら、一晩くらいは村で泊めてあげないと。もう夜になってしまうわ」
隣の弟らしき少年の苦言など物ともせず、女性は歌仙に笑いかける。泥で汚れた顔であるにも関わらず、荒れ野に咲く一輪の花のような、人を惹きつけずにはいられない笑顔だった。
「すみません。実は先ほどから、皆さんの話を少しだけ聞いてしまったもので。もしかして、道に迷っているんじゃないかって」
歌仙らのやり取りを聞いて、この女性はどうやら彼らを道に迷った旅の者と勘違いしたらしい。歌仙たちが返事をしないのを肯定ととったのか、彼女は言葉を続ける。
「子供を連れて、夜にこの辺りを歩くのは危険よ。よかったら私の村で一泊過ごして、夜が明けるのを待ってから出立してはどう?」
邪気のない微笑を浮かべて女性は問いかける。思わず三人は顔を見合わせた。
「その村というのは、どちらにあるんだい?」
「あちらに向かって、歩いてしばらくいったところなの。今からなら、日が暮れる前には到着するだろうから。私も一緒について行くから、迷う心配もないわ」
彼女が細い指で指した方角は、丁度三人が向かおうとした先でもあった。
彼女が同行したところで、目的地からずれるわけでもない。にべもなく断ってしまってもいいが、この分なら向かう先が一緒になってしまうのだから、断ろうが彼女と同道することは目に見えていた。
「それなら、お願いするよ。見ての通り、こちらも子供連れなもので困っていたんだ」
適当に話を合わせるために、歌仙は五虎退と物吉の存在を使うことにした。警戒をされてもされなくても立場上影響はないが、やはり不審の目で見られ続けたいとは思わない。
もし怪しい者として危害を向けられてしまっては、歌仙たちにとっても困ったことになる。歴史を改変できない彼らにとって、敵意を向けてきた者への対処の仕方が限られてしまうからだ。
そのような歌仙の思惑など当然知るわけもなく、女性は人好きのされそうな笑顔のまま一度頭を下げる。不服そうな少年の肩に手を置き、
「こっちは弟の弥助。私は――ふじと、いうの」
女性の名乗りを聞いた一行は、思わず目を見開いた。三人の間に微妙な空気が流れたのを感じ取ったのだろう、ふじが不安を顔によぎらせる。
「いや、申し訳ない。主――知り合いに、同じ名前の人がいたもので」
「あら、それはおかしな縁もあったものね」
「ええ、まったく。では、お願いします」
勝手知ったる帰り道なのだろう、女性は弟の手を引いて迷うことなく歩き始める。彼女に遅れまいと五虎退がいそいそとその背を追う。早速弟の弥助に声をかけられてしどろもどろになっている少年は、傍から見たら兄弟の一人に見えただろう。
「何だか不思議な感じがしますね。顔も髪の色も全く違うっていうのに、でも主様と少し似ているかもしれないってボクは思いました」
「相手が誰であろうと、お節介をせずにはいられない所とかね」
物吉の脳裏には、先日崖から落ちかけた時に助けられたことが浮かび上がっていた。相手が刀剣男士だろうが人間だろうが、困っていたら助ける。その姿勢は目の前の女性と通ずるものだろう。
「さて、日が沈む頃なら政府の任務に指定されていた時刻ともほぼ合致する。彼女に案内されるまでもなかったかもしれないが、怪しまれて変な形で誰かに話されても困るからね」
「あの――歌仙さん」
夕日が作り出したでこぼこの影を見つめ、物吉は硬い声音で歌仙に問いかける。
「政府は、戦が起きることを確認してくるようにと命じたんですよね」
「ああ、そうだよ。ここより暫く行った先で、今日この日に戦が起きる。夜襲といったところかな。それがどうやら、正しい歴史らしい」
「戦が起きたら――」
「物吉」
物吉の言葉にかぶせるように発せられた歌仙の呼びかけも、少年に負けず劣らず強張ったものだった。
物吉は琥珀色の瞳を見開き、歌仙をじっと見つめる。傾きかけた日が歌仙の顔に陰を作ってしまい、彼の表情を見ることは叶わない。
「分かってます。……分かってますよ」
少年は、ぐいと傘を目深にかぶり直す。同じく陰で顔を隠してしまったため、彼は口元だけを覗かせていた。その口元には、いつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
「笑っていなければ、幸運は来ませんものね。では、行きましょう!」
物吉と歌仙が三人組を追いかけ始める少し前。五虎退は、主と同じ名前の女性の隣を歩いていた。
彼女の弟――弥助のように手こそ繋がれていないものの、彼女の優しげな微笑は主を彷彿させるものがあり、何度も何度も五虎退は彼女に視線を送っていた。
「おい、お前。姉ちゃんのこと、じろじろ見てるんじゃないぞ」
「あ、あの……ごめんなさい」
「いいのよ。ねえ、こんなに小さいのに旅をしているなんて、大変なことが色々あったんじゃないの?」
「いえ、その」
労わるようなふじの目を見ていると、任務や自分の立場を隠して彼女の隣を歩いているということすら、後ろめたく感じてしまう。その後ろめたさが、彼の表情を不安げなものへと変えていく。
気弱な少年の態度が彼女の母性をくすぐったのか、彼女は五虎退の頭をそっと撫でた。ふじの手は日々の野良仕事のせいか荒れてていたが、主のものにも似ているような気がした。
「大変なときも、ありますけど、でも、僕よりも歌仙さん……さっき話してた人や、あるじさま……あの、お姉さんと同じ名前の人……の方が、もっと大変なんです」
「そうなんだね。そうだ。私と同じ名前のその人のこと、もっと聞きたいな」
今にも泣き出しそうな五虎退の様子が心配だったのだろう。つとめて明るい声を出して、ふじは話題を振る。弥助も少しは興味があるのか、唇を尖らせながらも片目だけ五虎退に視線を送っていた。
思いがけなく二人分の視線を集めた五虎退の白い頬は、みるみるうちに朱に染まっていった。それでも、主のことを話せるという喜びが元来の内気さを上回り、彼の口を動かした。
「そ、そのひと……は、いつも……頑張っていて、優しい人、なんです。僕や歌仙さんが怪我をしたときも、夜遅くまで手入れ……手当て、してくれて」
初めての出陣の時のことが、昨日のことのように思い返される。
「かくれんぼを一緒にしてくれました。僕のためにご飯を食べる器を用意してくれました」
顕現したばかりで、不安に押しつぶされそうな時に声をかけてくれた姿が思い浮かぶ。
「僕が失礼なことを言ってしまったときも、笑って許してくれました」
政府の人が来たあの日、今まで男の人だと思いこんでいたことを明らかにしても、彼女は何でもないことのように流してくれた。
「坊やにとって、とても大事な人なんだね」
ふじの相槌を聞きながらも、五虎退は自分の記憶を改めて振り返る。振り返った先で、彼は気がついてしまった。そこかしこに点々と残っている、小さな染みのような懸念に。
出陣から帰ってきた時、手入れをしながら彼の話を聞いていた藤は、まるで五虎退から距離を置こうとしているように、彼には感じられた。
彼女の性別を取り違えていたことが露見した時、彼女は笑って許してくれた。だが、確かに笑っていたはずなのに――どうして、こんなにも落ち着かない気持ちになってしまうのだろう。
そして何より、彼女と初めて会ったときのことを彼は思い出してしまう。初対面のはずなのに彼女がどうしてか、自分を拒絶していると感じられたときのことを。あれは、本当に勘違いだったのだろうか。
「大事な人……なんですけれど」
「なんだよ。そんだけ嬉しそうに話してて、ちげーのかよ」
何だかんだ言いながらも話を聞いていたらしい弥助に尋ねられ、五虎退は唇をぐっと噛む。一度疑問を抱いてしまうと、不安は次から次へと波のように彼の小さな心に押し寄せていた。
「ごめんなさい。もしかして、聞いてはいけないことだった?」
「違うんです! そうじゃなくて……あるじさま、その人が……もしかして、僕が思っているのとは違う気持ちを持ってるんじゃないかって心配になって」
「違う気持ち?」
「僕は……その人が、大好きです。一緒にいると、温かい気持ちになれますし、笑顔を見ると嬉しくなります。でも……その人は、僕のことをどう思ってるのかなって」
話しているうちに気が落ち込んでしまい、小さくなっていた歩幅はやがてゼロになってしまった。立ち止まってしまった五虎退を見て、ふじと弥助は顔を見合わせる。
五虎退が知る由も無いことであったが、行きずりの少年の不安を払拭せずに放置しておく程、この女性は人でなしではなかった。そして弟も、そんな姉のことをよく知っていた。
まず、弟の弥助の方がつまらなさそうにフンと鼻を鳴らす。次いで、ふじは五虎退の不安そうな顔を見つめて、
「その人は、坊やのことが嫌いなわけではないと思うな」
殊更に明るい声を作って、声を張り上げる。五虎退は思わず顔を上げた。
「どう思っているかっていうのは、私は会ったことがないからよく分からない。でも、坊やのことが好きだから、いっぱい素敵なことをしてくれるんじゃない?」
「そう……でしょうか」
「うん。だって、嫌いだったらそんなことしないもの」
「でも……たまに、なんでですけど。そこで話しているはずなのに、あるじさまのことが少し遠く……感じることがあるんです。あるじさま、凄く遠くばかり見て、僕のことを見ていないような気がして」
五虎退は不安を隠すことをやめて、目の前の女性に心中をぶつけてみる。女性は夕日に照らされながら、からりとした笑みを彼に向けた。
「そりゃあ、いつも坊やと同じ気持ちじゃないって時もあるよ。たまには、虫の居所が悪くてそっけない態度をとってしまう時もある」
おもむろに隣に立つ弟の頭をわしわしと撫で、彼女は続ける。
「うちもこーんなやんちゃな弟がいるから、お姉ちゃんもう大変で。畑仕事をさぼったときとか、お姉ちゃんが大事に育ててた花を潰しちゃったときとか、大喧嘩したこともあるのよ?」
「それは悪かったって! 姉ちゃんの言いつけは守るようにしてるだろ!?」
突然自分に話を振られて、弥助は慌てたように弁解をまくし立てる。彼の勢いに負けじと、ふじは弟の頬をびよんと引っ張った。弥助の伸びた頬が作り出した顔があまりに滑稽で、五虎退はつられたように笑う。
「僕のあるじさまも、そうなんでしょうか」
「うん。絶対、その人は坊やのことを好きなんだと思うよ」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
ふじは弟からパッと手を放し、五虎退の視線に合わせるように屈む。相対する彼女の栗色の瞳は、主とは違う活力に満ちているように見えた。
彼女は少年の細い両肩に手を置き、少年に問いかける。
「ねえ。好きの反対ってなんだと思う?」
「嫌い……ですか?」
ふじは、ゆっくりと首を横に振った。
「無関心、なんだよ」
はっきりと告げられた言葉は、じんわりと五虎退の胸の内に染み渡る。
「無視されて、いないように扱われる。それが一番はっきりしていて、一番辛い別れ方なの。嫌いって態度に出しているうちは、まだその人のことが好きなんだと私は思うな」
「でも、嫌いって言われたら……それでも辛いです」
「うん。とっても辛いと思う。だけど、好きな人だからこそ嫌な所は嫌って言いたいし、嫌っていうこともまた勇気なんだと思うの」
ふじが真剣に伝えようとしていることを耳にしても、五虎退の中ではまだ完全な理解にまでは至らない。他人が傷つくことを言うのなら、それが好きなことの証だとしても結局苦しいことに変わりはないのだろうか。
けれども、もし自分が無意識に誰かを傷つけていたのなら。それは避けたいことだ、と彼は自然に思っていた。
「嫌いという、勇気……」
「だって、好きな人の全部が嫌いだったら無視するでしょ? そうじゃなくて、直してもらいたい所があるから頑張って嫌だって言うんだもの。傷つけると分かってそれでも言うのは、凄く勇気がいると思う」
「それなら、あるじさまが時折遠く感じるのは……」
「何か言いたい。けれど、勇気が出ない。そんな感じなのかなって私は思うの。ただの勘だけどね?」
「そーそー。姉ちゃん、当てずっぽうで適当なこと言うから」
混ぜ返す弟の頭を小突くふじの姿は、どこにでもいる村娘のはずなのに何故だかとても眩しいものに五虎退には見えた。
「勇気が出ない人には……僕は、どうすればいいんでしょうか」
「そういう時は、待ってあげるといいと思う。勇気が出るようになるまで。優しく、ゆっくり待ってあげるの。そんな坊やの姿が、きっとその人の勇気を育ててくれると思う」
ふと、五虎退は自分が藤に会ってすぐのことを思い出す。引っ込み思案な彼の言葉を、彼女は急かすことなく待っていた。自分のことを蔑ろにしなくていいと、声をかけてくれた。自分が狼狽えているときでも、困惑するわけでもなく静かに微笑んでいた。その態度に助けられたことは、きっと何度もある。
「……はい。そうしてみます」
五虎退は、力強く頷く。本丸に戻ったときは、この話を彼女にしようと決意して。