本編第四部
抜き足差し足でありながらも、小走りで行くという器用な真似をしながら、藤は己の呼吸にすら細心の注意を払いつつ、こそこそと廊下を行く。
所々で騒音が響いているのは、刀剣男士が時間遡行軍役の者と出会ったからだろう。まだ、その剣戟の音は遠くにあるが、うかうかしていれば自分も巻き込まれる。
戦闘に巻き込まれないように、それでいて味方に見つけてもらえるように、何をするべきか。
結局のところ良案は思いつかず、それでも足だけを動かしているときだった。
(人影……?)
藤が今いる四階の建物は、病棟以外にも待合室や長期入院患者が気分転換できるように、雑談用の部屋が用意されていた。
子供向けの積み木やおもちゃが部屋の隅には散らばっており、古びた漫画や本が置かれた本棚もある。
その陰にしゃがみように、人間が一人。どこか怪我をしたのか、本棚にもたれたままじっとしていた。そろそろと近づけば、それはスーツを着た五十代ほどの男と分かった。
(控え室にいなかった、別の審神者の人……? それとも一般人役の人か、はたまた歴史修正主義者役の人か)
前者二つなら、協力して逃げればいい。
後者の人の場合、その役目を持つ人間が何をするかを考える必要がある。審神者を時間遡行軍の元に誘導しようとする、というのが妥当な線か。
(……でも、誰彼構わず敵だって思いたくないんだよね。もし僕をどこかに誘導しようとしたなら、その時はちょっと疑ってみよう)
一旦彼に対する具体的な対処法は棚上げして、藤は男性へと駆け寄った。
こちらの足音に気が付いたのか、彼も顔を上げる。
机仕事が似合いそうな穏やかな人相とは裏腹に、こちらを見る彼の表情には動揺が顕著に出ていた。
突然声をかけられて驚いたのか。それとも、そういう設定を演じている人なのだろう。
白髪交じりに小太りの姿は、如何にもサラリーマン然としていた。藤の脳裏に、実家で暮らす育ての父親の姿がよぎる。
「大丈夫ですか。立てますか」
「ああ……何とか。君は?」
「ええっと……この建物のイベントに参加している者です」
審神者です、と馬鹿正直に答えて、相手がもし敵だったなら、自分の情報を自ら明らかにしてしまうことになる。そんな所も、もしかしたら評価に組み込まれているのかもしれないと考え、藤はわざと言葉を濁した。
果たして、相手も意図を汲んだのか。藤に対して、深くは尋ねようとはしなかった。
「助かったよ。年下の方にこういうのは何だが、一人ではどうにも心細くてね。ああ、腰が重い」
「こんなときは、お互い様ですよ」
男は足が痛むのか、本棚に体重の半分を預けるようにして腰を上げようとする。藤が彼に手を貸そうか悩んでいる間に、彼は立ち上がってしまった。
(完全に信頼しない方がいいのは、分かっているんだけど……ちょっと気まずいね)
まして、相手は年上の人間だ。目上の人間は敬うようにと教えられてきた彼女としては、そんな人の側で黙って突っ立っているだけというのは、何とも居心地が悪い。自分は疑うという行為自体が下手なのだと、藤は改めて思い知る。
「君は、審神者……なのかな。それなら、刀剣男士がこの辺りに来ていたりはしないのかね?」
「いえ、彼らはまだ……来てないみたいです」
審神者ではないかと尋ねられ、刀剣男士が来ていないと答えてしまった時点で、半分自分が審神者と打ち明かしているようなものだ。付け焼き刃の誤魔化しは、やはり長続きしなかった。
「そうか。彼らがいたのなら、私も安心できたのだが」
残念そうに言われて、藤は居心地の悪さに針を飲んだような気持ちになった。
自分とて、一人でいることに不安を覚えている。早くに合流できるのではないかと、楽観視していた部分もあったが、未だ合流の機会は訪れそうにない。
(和泉守に主として認めてもらうためにも、こんな所でへこんでる場合じゃないや)
今回の部隊長である和泉守と藤の間の関係は、必ずしも完全に修復されたとは言えない。
未だに、彼は自分を『主』と呼んではくれない。友人になることはできても、そこで和泉守との交流は止まっている。
きっと、彼が『主』と認めるには、まだ越えなければならない壁があるのだろう。
「すみません、僕が不甲斐ないばかりに」
だから、反射的にそんな言葉が口をついて出た。
「不甲斐ない……?」
「あ、いえ。その……彼らと少し喧嘩をしてしまって。それがずーっと長引いていて、僕を主と認めないって言ってる刀剣男士もいるので」
自分で説明しながらも、何と情けないのだろうと顔から火が出るような思いがした。
和泉守との関係を悪化させた上に、未だに引きずったままにしてしまっているのは、詰まるところ、己の至らなさが招いた結果だ。
普段は、彼も特段藤を毛嫌いするような素振りは見せない。だが、このような試合の場ではもしかしたら、勝利と主の安全の優先順位を秤にかけて、揺れてしまうこともあるのかもしれない。
その原因は、間違いなく自分が過去に犯した過ちのせいだろう。
「あ、でも他の刀剣男士の方も来てますので。先程、他の本丸の刀剣男士に助けられましたし」
「君は……うん、助けられている身で言うのもなんだが、なかなか楽天的なものの見方をするんだね」
立ち話も何だからと、声を潜めながら二人は歩き出す。
男の話し方は学校の教師のように柔らかであったが、男の指摘は正鵠を射ていた。寧ろ、正面から射貫かれて、思わず「うっ」と声を詰まらせたほどだ。
彼がもし審査員のような存在なら、まず間違いなく評価は下がってしまったに違いない。
「楽天的……ですかね」
「この試合では、他の刀剣男士によって審神者が害されることが度々起きてしまっている。演練の趣旨を無視した、まことに嘆かわしい行為であり、私も頭を抱えているのだが……君は、それについては知らないのかい?」
「それは、知ってますが……」
足を悪くしているのか、足を引きずるように歩く彼の背に片手を添えつつ、藤は答える。
引きずり方を見るに、芝居ではなく、ひょっとして本当に足が悪いのかもしれない。
「知っているのなら、他の本丸の刀剣男士に出会うのは、君にとって喜ばしいことではないと分かるんじゃないかね」
「でも、彼らはいい人ですよ」
「先程、喧嘩という非常に私的な問題のせいで、自分の刀がなかなか合流してくれないと嘆いていたように聞こえたのだが、それは私の聞き間違いかな」
またしても正論を突きつけられて、藤は返答を見失う。彼の言葉に、反論できる余地は微塵もなかった。和泉守がまだ来ないのは事実なのだから。
それに、こともあろうに、自分は他の本丸の髭切に助けられてしまった。
審神者は人間なのだから、遡行軍に敵わなくても仕方ないとも言える。けれども、だからといって他人の頼りっぱなしなのは、自分でもどうかと思ってしまう。
「とはいえ、先程はああ言ったが、君のように誰かを信頼しようとすること自体は悪くないことだと、私個人としては思うよ」
指摘ばかりも良くないと思ったのか。一転して励ましの言葉もかけられ、今度は気まずさとは別の居心地の悪さ――照れくさい気持ちが藤の中に生まれる。
反射的に俯いた藤の背を押すように、彼の声は柔らかく響く。
「誰かを信じたいという気持ちを軸に行動できるのは、それ自体が一つの美徳だ。君は優しい。その優しさが、たまたま今回の戦いには向いてなかったというだけの話さ」
「ありがとうございます。そんな風に、言ってもらえるとは思ってなくて」
「だけど、今は戦いの最中だ」
にこっと笑いかける初老の男性に、藤は「ですよね」と苦笑いを返す。彼の言わんとしていることが分からないほど、藤も子供ではない。
「……勿論、反省はしてます。それより、この後どうしましょう」
「ああ、それなら階下に向かおうか。そちらは、敵が手薄だったはずだ。よかったら、私が案内しよう」
それとなく持ちかけた問いに対して、彼は自分が行きたい方向を明らかにする。
ふと、彼に話しかける前、自分が決めたことを藤は思い出す。もし、彼がどこかへ行こうと誘った場合は、そのときは遡行軍側の人間であるかもしれないと、少し疑ってみようと考えたことを。
励ましの言葉をくれる優しい人を疑うのは、正直楽しいことではない。
だが、これは訓練だ。彼がもし、訓練の試験官としての役割を持つのなら、疑うのが寧ろ礼儀だろう。
結論を出した上で、藤はぴたりと足を止めた。
「あの」
ひょっとしたら、審神者に嫌われそうなことを最初に口にしたのも、わざとだったのかもしれない。
まだひよっこの審神者に対して、自分は敵役の人間だぞと教えるために強調した演技なら、今まで彼を助けながら歩いていた自分は尚更間抜けだ。
とはいえ、今からでも遅くない。行動は遅れてしまったが、藤はそっと相手から距離をとる。
「もしかして、なんですけど。さっき、刀剣男士が来ないことを残念がってましたけど、本当は」
喉の奥がひりひりと渇く。先程までとは異なる緊張に、心臓の鼓動がやけに早い。
「あなたは、刀剣男士に来てほしくない人なんじゃないんですか?」
汚れのついたスーツを着た男の足もまた、一歩遅れて縫い付けられたように止まった。にっこりとこちらに向けて微笑みかける表情の意味が、藤には読み取れない。
「見つかったら、あなたの方がまずいんじゃないですか。だから、僕を不安がらせて、その後に安心をさせて、敵がいないって誘いだそうとして」
「なるほど。あなたは平和ぼけをした扱いやすい子供だと思っていたが、それなりに頭は切れるようだ」
先程までの優しげな落ち着きのある声音に、ぴりっと緊張感が混じる。そして、同時に警戒を孕んだ敵意も。
「そのまま騙されてくれれば、私としても非常に楽だったのだけれどねえ。まあ、いい」
ぐるりと振り返った男が、こちらに向かってくる姿を見て、藤は息を飲んだ。
男女の体格差に対する恐怖も無論ある。大の男が勢いよくぶつかれば、いくら力の強い藤でも床に倒れ込んでしまう。足が悪そうな彼であっても、例外ではない。
だが、彼女が驚いた理由はそれだけではなかった。
「それ、は」
いつの間にか男の手が握っていた、銀色に光る凶器。
普段、刀剣男士の刀を見ているせいで、ついつい『おもちゃのような武器』と思ってしまうが、刃渡りが短い得物でも刺さった位置が悪かったら当然死んでしまう。
たとえ、それが演技のための小道具だったとしても、恐怖の鮮度は変わらない。
そんな相手が、ほんの一歩踏み出せば隣に並ぶような距離にいると考えた瞬間、頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「ひっ」
喉の奥から、引き攣った悲鳴が零れる。
先程まで優しい声で話掛けてくれた相手が、こちらに牙を剥いている。これもまた試験なのかもしれないと、どこかで理解しているが、突如至近距離に現れた敵への恐怖が藤の足を絡め取ってしまっていた。
敵を暴いたとしても、その後どうするかを考えていなかった自分は、あまりに愚かだ。だが、今は反省会をしている場合でもない。
踵を返して走れば、足の悪い彼は見逃してくれるだろうか。それとも、それすらも演技で、逃げた瞬間に捕まえてくるつもりなのだろうか。
信頼しかけていた相手が、実は敵だったという混乱は想像を絶するほど大きく、二の足を踏んでいるときだった。
「ちょっとあんた、何してるのよ!!」
甲高い声と共に、どんっと男に勢いよくぶつかる誰かの影。それが何者かを理解するより早く、よろめくどころか倒れかかった男の側を一陣の赤い風が駆けていく。事態の進行の早さについていけない、藤の手をとって。
「えっ、あの!!」
「今のうちに行くわよ!!」
自分の手をぎゅっと握りしめている娘。柘榴色の髪を振り乱し、真っ赤な着物の袖を翻し、黒の袴を靡かせている彼女の名を藤は知っている。
「菊理さん!?」
その人物は、研修のときにやってきた自分の後輩審神者だった。
***
耳元で響く、ひゅっと刃が空気を断つ音。間一髪の所で体を捻り、回避。続けて反撃しようとしたが、隙をつかせまいと蜘蛛に似た異形――の幻影を被った何者かが、まるで入れ替わるように援護に回る。
和泉守の眼前に立つ敵の数は、精々二体。だが、彼らは脇差と打刀を操っている。
その幻影の内側にいるのは刀剣男士であると知っているために、和泉守には彼らが脅威だと分かっていた。
(打刀は脇差の刀剣男士とは、息を合わせやすいっつー話だったが、敵にすると厄介だな)
和泉守が隙を生み出さんと陽動をしてみて、敵が罠にかかったとしても、空いた片方が姿勢を崩した相方の補助に転じる。
もし仕掛けるなら、相手二体に対して、こちらも同時に攻勢に転じる必要があったが、何も言わずに連携できるほどの意思疎通はまだできない。
堀川なら呼吸を揃えられるかと思いきや、主のもとに行こうと焦っているのか、彼はやけに攻めに回ろうとしている。おかげで、和泉守が乱と共に彼を守る必要があったぐらいだ。
脇差を持つ蜘蛛に似た下半身の化け物と、鍔迫り合いで斬り結んだ瞬間、背後からもう一つの敵の気配が迫る。
先程からずっとこうだ。どちらかを抑えていても、同時にもう片方を抑えているという状況がない。
だから、背後をとられる。已む無く、和泉守は何度目かの回避に回った。
「おい、乱藤四郎!」
「何か用?!」
埒が明かないと、和泉守は吼える。
「お前に合わせる! 好きに暴れろ!!」
「いいの!?」
「オレは部隊長だ、部下に合わせるのは当たり前だろう!!」
「どうなっても知らないからね!!」
堀川と一緒に打刀を持つ敵に肉薄していた乱は、くるりと身を翻し急制動。虚を突かれて動きを止める敵に対し、乱はトンと軽く床を蹴り、蝶のようにひらりと舞い上がる。
その手は敵の顔――正確には肩をしっかと掴み、そこを支点に縦に一回転。曲芸師のように空中へと躍り上がった彼は、脇差を操る化け物の直上まで到達する。
「そっち、お願いね!!」
乱が飛び上がったことで、踏み台代わりにされた打刀の刀剣男士は手隙になる。
「おう!!」
空中で体にひねりを加え、天井に一瞬足をつけた乱は、重力に従ってそのまま脇差の刀剣男士の元へと垂直に落下する。
刃を、下にして。
「国広、ぼさっとすんな!!」
「う、うん。兼さん、任せて!」
和泉守の激励に弾かれたように、堀川も打刀を持つ敵へと距離を詰める。和泉守がわざと大きく振った一撃を掻い潜り、鋭く繰り出される堀川の突きは、敵に付けいる隙を与えない。
やがて、数度の打ち合いの末、壁に背をつけた敵の喉元に和泉守の刀の切っ先が迫る。
「これで、詰みだな。それとも、このままオレたちに本当に折られるか?」
今回の演練では、普段のように木刀は使っていない。己の本体を使用していいという許可を出したのは、できるだけ実戦に近い感覚を得られるように、という特別な配慮なのだろう。
「兼さん。あっちも終わったみたいだよ」
堀川が目線で示した先。そこには、乱が蜘蛛の形をした化け物を上から押さえつけ、その延髄に短刀を突きつけているところだった。
天井から落下する際にそのまま刺し殺すことも可能だっただろうが、そこまですると敵に擬態している刀剣男士を破壊すると思って、彼なりに加減したのだろう。
『……降参。降参だよ』
雑音の混じった声が聞こえ、次いでさぁっと霧が晴れるかの如く、時間遡行軍の幻影がほどけていく。
代わりに姿を見せたのは、肩ほどまでの長さの波打つ黒い髪に丸眼鏡の青年だった。濃紺のインバネスコートに落ち着きのある眼差しは、刀剣男士というよりも研究者のようにも見える。
しかし、彼の手には先程まで振るわれていた凶器――彼の本体が握られていた。即ち、彼は間違いなく刀剣男士だ。
「肥前くんも、もう術式を解いていいだろう。僕たちの仕事はこれで終わった」
肥前と呼ばれた、乱に組み付かれている遡行軍の幻影も、ゆっくりと消えていく。
廊下に這いつくばったままの状態で姿を見せたのは、くすんだ黒色の着物に同色の襟巻きを巻いた青年だった。ちっ、と漏れ出た甲高い音は、恐らく舌打ちだろう。
「蝿みたいにぶんぶん飛び回りやがって……反則だろ、あれは」
「ふふん、天井を使うことの何がいけないの? せっかく狭い場所なんだから、有効活用しなきゃね」
「古い建物だと、天井抜けて足がはまるかもしれねえっつーことを、知らないのかよ」
「そうなんだ。じゃあ、遡行先ではやらない方がいいかな」
乱から解放された肥前という刀剣男士は、億劫そうに立ち上がる。服についた埃を払い落とし、肥前ともう一人の刀剣男士は廊下の脇に寄った。
丁度、三人が向かおうとして階段までの道を開いた形だ。
「さて、僕らの戦いはこれで終わった。これ以上、そちらを邪魔するつもりもない。先に行くといい」
研究者めいた刀剣男士は、道を指し示した後は、もう用はないと言わんばかりに肥前を連れてどこかへと立ち去っていった。
「兼さん、急ごう。早くしないと主さんが敵に襲われちゃうよ」
早口で和泉守を急かす堀川を、刀を収めた和泉守はじろっと睥睨する。その視線は仲間に向けるにしても、無遠慮だった。
「国広、お前は本当に急ぎたいって思ってるのか」
「……兼さんは、違うの? だって、さっき、早く見つけようって」
「オレのことはどうでもいいだろう。オレが『主よりやっぱり敵を倒すのを優先したい』って言ったらどうするんだ」
堀川の顔に躊躇が浮かぶ。階段と和泉守の間に何度も視線を行き交わし、口は何度も開いたり閉じたりを繰り返しているのに、言葉は一向に出てこない。
「ちょっと、和泉守! 堀川も! あるじさんを探しに行くってことで、話はまとまってたでしょ!!」
「そ、そうだよ。兼さん。それで……方針は決まってたんだから。途中で変えるのは良くないよ。それに」
腰に収めた刀の柄に添えられた堀川の手は、微かに震えていた。ぎゅっと拳を握っても、その震えは一向に消えない。そんな状態でも、彼は口を動かした。
「……まだ主さんを許してないから、そんなことを言うの。僕は、手入れを後回しにされた話については、もう怒ってなんていないよ」
顕現したときから、すぐ主に背中を向けられたことは、堀川も覚えている。
だけれども、あれは仕方なかったのだとも割り切ろうとしていた。彼女には、彼女なりの理由があって、堀川に限らず新しく来た刀剣男士を遠ざけていたのだから。
そんな関係が行き着いた先が、負傷した自分を放置して逃げ出すという結末であったとしても、堀川は藤を恨むつもりはない――少なくとも、今はそう思えている。
あれも、彼女にとっては理由があることだ。
その理由ももう知っているし、聞いた上で許していいと思えた。だというのに、和泉守だけが、まだこの件に拘り続けている。
「前から言ってるだろ。オレはあいつがしたことの一部は、やっぱり許せねえって思ってる。手入れをしなかったことを許したら、あいつの勝手な行動を正当化しちまうだろう」
「でも、仕方なかったんだよ」
「仕方なかったで、オレは済ませたくねえ。だけどな、それはオレの理由だ。お前の理由じゃねえ」
ぽん、と堀川の頭に手を置き、和泉守はその頭をかき混ぜるようにぐしゃぐしゃと撫でる。まるで、凝り固まった考えそのものをほぐしていくように。
「国広。お前なら、自分で考えられるだろ。行くぞ、乱。無駄な時間、使っちまって悪かったな」
「そうだよ、急がないと!」
先を行く和泉守に小走りで駆け寄り、乱は声を潜ませる。
「和泉守さんは、あるじさんがしたこと、ずーっと許さないつもり?」
「……少なくとも、今はな」
「だけど、それだと、あるじさんもずーっと気にし続けると思うんだけど。ボクとしては、それってあまり嬉しくないかな」
「許しちゃいねえが、もう怒っちゃいねえよ。それは本当だ」
「じゃあ、どうして『主』って呼ばないの。それは、許してないからじゃないの」
疑問を積み重ねる乱に、和泉守はふいっと顔を逸らす。弾みで、彼の耳にぶら下がった赤い耳飾りが涼やかな音を立てて鈍く光った。
「もし、オレがあいつを『主』って呼んだら、そのときは、乱の言うようにあいつを許したことになっちまうだろう。そうしたら」
和泉守はそこまで言って、言葉を切る。
思い出すのは、道場で藤が膝丸と話していたときのことだ。
あのときはすまなかった、と謝る彼の姿を見て、気にかかった何か。そして、後から和泉守は、自分が何を気にしているのかを悟った。
(本当は、そろそろ区切りをつけてもいい頃合いだとは思ってたんだよ。乱、お前に言われなくてもな)
けれども、和泉守は未だに彼女に頭を下げていない。
許す許さないの話の前に、自分が主に掴みかかって怖がらせたという事実もあり、少なくともその点については、自分から謝罪が必要だろうと考えてもいた。
本音を言うなら、頃合いさえ見つかれば、さらっと謝罪を口にするつもりもあった。だというのに今は、和泉守は『悪かった』と言うことを拒んでいる。
否、言ってはいけないとすら思っている。
(だけど、オレも今のまま足踏みしているわけにもいかねえんだよな……。くそ、国広のことを叱れる立場じゃねえな)
迷っているのは、自分も同じだ。どちらの足を踏み出して歩けば分からなくなっている子供のように、ひどく簡単なことを前にして、自分は躊躇している。こちらは、その原因すらはっきりしていると言うのに。
「おい、乱。主の場所はどっちだ」
錯綜する思いを振り切るように、和泉守は乱に問う。
「上だよ! さっきより気配が遠くなってるような、近くなってるような、あるじさんも移動してるみたい」
「くそっ、大人しく待ってるってわけじゃなさそうだな!!」
敵に追われて逃げたのなら、益々合流を急がねばなるまい。後ろをついてくる堀川の姿を確認してから、和泉守は一足飛びで階段を駆け上がった。
***
自分の前に突きつけられた凶刃から、辛うじて難を逃れ、菊理に手を引かれて走り続けて、いったい何分経ったのだろうか。
奇妙に引き延ばされた己の感覚では、まるで三十分近く走り回っているような心地になっていたが、実際は五分も経っていないのだろう。
階段を降り、廊下を駆け抜け、また階段を上って降りてを繰り返した先、もはや何階かも分からない廊下の果てで、二人はその場にしゃがみこんだ。静かすぎる廃病院の空間に、ぜえぜえと乱れた息が散っていく。
「菊理、さん、思ったより、足、早いんだね」
「そっち……こそっ、ああもう、こんなに走ったの、いつぶりよ!」
どうやら走り回っているうちに入院室のある棟から、診察室が並ぶ棟に移動していたらしい。窓からの景色が、先程まで見ていた景色とまるで違う。
遠くに見える建物の窓の位置から察するに、今は三階にいると藤は見当をつける。
幸い、敵の姿はこの棟に来てからは全く見ていない。少しゆっくりできそうだと、藤は壁に背をつけ、深呼吸をした。
「あのさ、菊理さん。僕を助けてよかったの?」
「何よ、助けられたくなかったの?」
「いや、だって、加州は僕のことを『敵だ』って言ってたし、審神者同士で蹴落とし合って勝利を得ようとする事例もあるみたいだし」
そこまで藤が説明するのを聞いてから、ようやく菊理はその考えに思い至ったらしい。唇を尖らせ、ふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「確かに、誰かと手を組むような真似はするなって、言われていたけど」
「……やっぱり」
藤の後輩にあたる彼女が、何やら格式ある家の令嬢であるが故に、審神者として華々しい成績を期待されていることを、藤は知っている。
そんな彼女にとって、この演練は己の活躍を分かりやすく外に見せられる機会だ。
だというのに、菊理は藤の手をとって助けた。あのまま放置されていたら、ライバルが消えてくれると分かっていたのにも拘わらず。
「だけど、私の勝手でしょ。それとも、あんたまで私は他の連中と手を組むなって言うの?」
「言わないよ。僕も、他の審神者の刀剣男士に助けられたもの。だから、君はどうしたいのかが気になって」
菊理は膝を抱え、その隙間に顔を埋めたまま答えない。
家からのプレッシャーで彼女が悩んでいるらしいことは、研修中に藤も知っていた。その件については、彼女自身、答えはまだ出ていないのだろう。
「……一人で全部できるのが、一人前である証だって、お父様は言っていた」
くぐもった声で返ってきた菊理の言葉に、藤は首をゆっくりと横に振る。
「刀剣男士がいないと、審神者は何もできないよ」
きっとそんなことは、菊理も分かっているはずだ。
それでも、彼女は彼らに寄りかかってよいかと悩んでいた。恐らく、今も。
「それに、この試合で僕らができることなんて、上手く逃げ回ることだけなんだからさ」
その言葉を聞いても納得できないのか、藤の方を見ようとしない菊理に「それなら」と言葉を続ける。
「僕は君にとってお荷物になっちゃうかもしれないけど、お荷物の面倒を見て、その上で勝利を得たなら、とても凄いってことにならない?」
菊理は今度こそ顔を上げて、藤の瞳を見つめた。大きく見開かれた蒼の目は、藤を捉えて微かに揺れている。
「一緒に逃げよう。君の刀に助けに来てもらうまで。僕の刀と合流できたら、君も守ってもらうように頼むよ。審神者が襲われたときに守る必要があるってことは、和泉守たちも分かってるだろうから」
「加州だけが先に来て、あんたを守らないって言ったら?」
「まあ、その時は置いていってもらってもいいよ」
「馬鹿。ちゃんと守るよう命令するわよ。私の刀なんだから、そのぐらいの言うことは聞かせる」
眉をきりりと吊り上げ、少しばかりの悪態を吐く彼女は、初々しさはあるものの強かな審神者としての強さを見せ始めていた。
藤もにっと笑みを浮かべ、彼女の奮起に応じる。
「あんた、さっき走り回ったときに足挫いたりしてないわよね」
「うん。さっきはナイフを突きつけられたけど、斬られてもいないから」
念のため、手足に触れてみるものの、痛みを感じる部分はない。菊理に背中を確認してもらいもしたが、こちらも無傷だ。
「参加する審神者は武器厳禁って言われてたのに、歴史修正主義者側は武器を持ち込めるなんて、何だか不平等だよね」
「そうね。今回の演練は刀剣男士以外、銃火器ならびに刃物の持ち込みは禁止だったはずだけど」
そこまで言いかけて、菊理はふっと唇を閉ざす。
「菊理さん?」
「刀剣男士以外、銃火器ならびに刃物の持ち込みは禁ず。例外は認めない……って書いてあったはずなんだけど」
「それって、今回の演練の規則に書いてあったことかな」
「そうよ。でも、あんたはナイフを突きつけられたのよね?」
「うん。だけど、本当にナイフか分からないよ。おもちゃのナイフだったのかも」
そんな風に言われると、自分が玩具を前にしてあそこまで恐怖してしまったのが、とても情けなく感じてしまう。日頃から本物の刃物を目にしているのに、どうして気付かないのだと叱られても文句は言えない。
「多分そうだと思うけど……もし、そうじゃなかったとしたら」
藤は菊理の独り言は半分聞き流していたが、菊理は藤が語る状況を素通りしていいのか悩んでいた。
審神者側の参加者が刃物をこっそり忍ばせていた、というのならまだ分かる。勝利欲しさに不正を行うのは、いつの時代もよくある話だ。
だが、政府が用意した仮想敵の歴史修正主義者が持ち込んだというのは、違和感が残る。勝とうが負けようが、主催者側である彼らにとって意味のないことであるはずなのに。
「……菊理さん」
「何よ、今考えてるところなんだから――」
「人が来た」
藤の呼びかけに、菊理は思考を一旦切り替える。
この場所は廊下の突き当たりであり、背後は壁だ。正確には非常階段に繋がっているようだが、幸い封鎖されているため、ここから侵入されてくる可能性はない。
故に、やってくる人は彼女らの前に限られる。果たして、徐々に足音が近づき、姿を見せたのは、
「た、助けて、ください……」
栗色の長い髪を背中に流した、まだ十代前半と思しき少女が一人。縺れるような足取りで、こちらに向かって駆けてくる。
「大丈夫?!」
すぐさま藤は立ち上がり、疲労困憊でへたり込んだ彼女を支える。その間にも、すかさず怪我をしていないか、少女の全身に目をやった。
(民間人役の子かな……それとも、僕ら以外の審神者? 更紗ちゃんよりは年上そうだけど、まだまだ子供なのに)
あどけなさの残る顔といい、戦知らずの無垢そうな瞳といい、菊理のように世間擦れした部分すらない。
走り回ったせいか、汗が滝のように流れ落ち、少女の着ているワンピースをじっとりと濡らしていた。
「私は……大丈夫ですので。まだ、他に、怪我のせいで逃げ遅れた人がいるんです。その人を……助けないと」
「菊理さん、どうする。僕は、助けに行った方がいいと思うんだけど」
民間人が審神者に助けを求め、逃げ遅れた人物が救援を要請していると聞いて見捨てるのは、あまりにむごい選択だ。
試合云々のことを抜きに考えれば、すぐにでも救出すべきだと分かる。
「そうね。ここで見捨てて、変に評価を下げられても困るし。そこのおちびさん、その怪我人の場所まで案内してもらえる?」
怪我人を見つけた後は、比較的敵がやってこない、今いる廊下の突き当たりまで連れて行くか。
怪我の度合いによっては、その場で手当をする必要があるだろう。どちらにせよ、休息時間は終わりを告げることになる。
敵の只中に好んで飛び込みたくはない。けれども、だからといって、刀剣男士たちが助けてくれるまでに多くの人を見殺しにしたとなれば、彼らに合わせる顔がない。
その点については、藤も菊理と同じ考えを持っていた。
「分かりました。こちらです」
少女は立ち上がり、スカートの埃を払う。慎重に廊下の曲がり角から顔を覗かせ、敵がいないことを確認し、彼女はゆっくりと歩き出した。
「君も、この演練の参加者なの?」
「はい、そうですよ」
互いの情報交換も兼ねて、道すがら藤は少女に尋ねる。彼女は振り向かずに、そのまま答えた。
「まだ、審神者の候補生ですけれど。だから、先輩たちがどんな活躍をするのか、とても楽しみにしています」
菊理と藤は思わず顔を見合わせ、同時に気まずそうに目を逸らす。後輩に期待されるほど、自分たちが華々しい活躍を見せられるわけがないと、分かっていたからだ。
「僕たち、後輩の君にそんな風に言ってもらえるほど、何かできるとは思えないんだけど……」
「ええ、そうでしょうね」
謙遜も込めての発言だったが、まさか肯定されるとは思っておらず、藤がどう返したものかと躊躇したときだった。
がらり、と廊下の戸が開く。
歩いていた廊下の途中にある、唯一閉じられていた診察室の扉。そこから出てきたのは、黒々とした巨体の化け物だった。
まるで立体映像の着ぐるみが歩いているかのように、その表面には時々不自然なちらつきが走る。
「ですから、これからお二人が先輩の審神者として、目の前の危難をどうくぐり抜けるか。不肖、歴史修正主義者役を任ぜられたこの私に、見せてくださいな」
にっこりと微笑む少女の背後から、遡行軍の見た目をした敵が近づいてくる。
はめられた、と気が付くにはあまりに遅すぎた。
「……どうしよう」
「あんた、囮にでもなったら? 走るのだけは得意でしょ」
「冗談きついよ、菊理さん」
先程の比ではない、濃厚な危地の香り。
極限まで窮地に陥ると、人は呼吸すらも忘れて立ちすくむのだと二人は思い知ることになった。
所々で騒音が響いているのは、刀剣男士が時間遡行軍役の者と出会ったからだろう。まだ、その剣戟の音は遠くにあるが、うかうかしていれば自分も巻き込まれる。
戦闘に巻き込まれないように、それでいて味方に見つけてもらえるように、何をするべきか。
結局のところ良案は思いつかず、それでも足だけを動かしているときだった。
(人影……?)
藤が今いる四階の建物は、病棟以外にも待合室や長期入院患者が気分転換できるように、雑談用の部屋が用意されていた。
子供向けの積み木やおもちゃが部屋の隅には散らばっており、古びた漫画や本が置かれた本棚もある。
その陰にしゃがみように、人間が一人。どこか怪我をしたのか、本棚にもたれたままじっとしていた。そろそろと近づけば、それはスーツを着た五十代ほどの男と分かった。
(控え室にいなかった、別の審神者の人……? それとも一般人役の人か、はたまた歴史修正主義者役の人か)
前者二つなら、協力して逃げればいい。
後者の人の場合、その役目を持つ人間が何をするかを考える必要がある。審神者を時間遡行軍の元に誘導しようとする、というのが妥当な線か。
(……でも、誰彼構わず敵だって思いたくないんだよね。もし僕をどこかに誘導しようとしたなら、その時はちょっと疑ってみよう)
一旦彼に対する具体的な対処法は棚上げして、藤は男性へと駆け寄った。
こちらの足音に気が付いたのか、彼も顔を上げる。
机仕事が似合いそうな穏やかな人相とは裏腹に、こちらを見る彼の表情には動揺が顕著に出ていた。
突然声をかけられて驚いたのか。それとも、そういう設定を演じている人なのだろう。
白髪交じりに小太りの姿は、如何にもサラリーマン然としていた。藤の脳裏に、実家で暮らす育ての父親の姿がよぎる。
「大丈夫ですか。立てますか」
「ああ……何とか。君は?」
「ええっと……この建物のイベントに参加している者です」
審神者です、と馬鹿正直に答えて、相手がもし敵だったなら、自分の情報を自ら明らかにしてしまうことになる。そんな所も、もしかしたら評価に組み込まれているのかもしれないと考え、藤はわざと言葉を濁した。
果たして、相手も意図を汲んだのか。藤に対して、深くは尋ねようとはしなかった。
「助かったよ。年下の方にこういうのは何だが、一人ではどうにも心細くてね。ああ、腰が重い」
「こんなときは、お互い様ですよ」
男は足が痛むのか、本棚に体重の半分を預けるようにして腰を上げようとする。藤が彼に手を貸そうか悩んでいる間に、彼は立ち上がってしまった。
(完全に信頼しない方がいいのは、分かっているんだけど……ちょっと気まずいね)
まして、相手は年上の人間だ。目上の人間は敬うようにと教えられてきた彼女としては、そんな人の側で黙って突っ立っているだけというのは、何とも居心地が悪い。自分は疑うという行為自体が下手なのだと、藤は改めて思い知る。
「君は、審神者……なのかな。それなら、刀剣男士がこの辺りに来ていたりはしないのかね?」
「いえ、彼らはまだ……来てないみたいです」
審神者ではないかと尋ねられ、刀剣男士が来ていないと答えてしまった時点で、半分自分が審神者と打ち明かしているようなものだ。付け焼き刃の誤魔化しは、やはり長続きしなかった。
「そうか。彼らがいたのなら、私も安心できたのだが」
残念そうに言われて、藤は居心地の悪さに針を飲んだような気持ちになった。
自分とて、一人でいることに不安を覚えている。早くに合流できるのではないかと、楽観視していた部分もあったが、未だ合流の機会は訪れそうにない。
(和泉守に主として認めてもらうためにも、こんな所でへこんでる場合じゃないや)
今回の部隊長である和泉守と藤の間の関係は、必ずしも完全に修復されたとは言えない。
未だに、彼は自分を『主』と呼んではくれない。友人になることはできても、そこで和泉守との交流は止まっている。
きっと、彼が『主』と認めるには、まだ越えなければならない壁があるのだろう。
「すみません、僕が不甲斐ないばかりに」
だから、反射的にそんな言葉が口をついて出た。
「不甲斐ない……?」
「あ、いえ。その……彼らと少し喧嘩をしてしまって。それがずーっと長引いていて、僕を主と認めないって言ってる刀剣男士もいるので」
自分で説明しながらも、何と情けないのだろうと顔から火が出るような思いがした。
和泉守との関係を悪化させた上に、未だに引きずったままにしてしまっているのは、詰まるところ、己の至らなさが招いた結果だ。
普段は、彼も特段藤を毛嫌いするような素振りは見せない。だが、このような試合の場ではもしかしたら、勝利と主の安全の優先順位を秤にかけて、揺れてしまうこともあるのかもしれない。
その原因は、間違いなく自分が過去に犯した過ちのせいだろう。
「あ、でも他の刀剣男士の方も来てますので。先程、他の本丸の刀剣男士に助けられましたし」
「君は……うん、助けられている身で言うのもなんだが、なかなか楽天的なものの見方をするんだね」
立ち話も何だからと、声を潜めながら二人は歩き出す。
男の話し方は学校の教師のように柔らかであったが、男の指摘は正鵠を射ていた。寧ろ、正面から射貫かれて、思わず「うっ」と声を詰まらせたほどだ。
彼がもし審査員のような存在なら、まず間違いなく評価は下がってしまったに違いない。
「楽天的……ですかね」
「この試合では、他の刀剣男士によって審神者が害されることが度々起きてしまっている。演練の趣旨を無視した、まことに嘆かわしい行為であり、私も頭を抱えているのだが……君は、それについては知らないのかい?」
「それは、知ってますが……」
足を悪くしているのか、足を引きずるように歩く彼の背に片手を添えつつ、藤は答える。
引きずり方を見るに、芝居ではなく、ひょっとして本当に足が悪いのかもしれない。
「知っているのなら、他の本丸の刀剣男士に出会うのは、君にとって喜ばしいことではないと分かるんじゃないかね」
「でも、彼らはいい人ですよ」
「先程、喧嘩という非常に私的な問題のせいで、自分の刀がなかなか合流してくれないと嘆いていたように聞こえたのだが、それは私の聞き間違いかな」
またしても正論を突きつけられて、藤は返答を見失う。彼の言葉に、反論できる余地は微塵もなかった。和泉守がまだ来ないのは事実なのだから。
それに、こともあろうに、自分は他の本丸の髭切に助けられてしまった。
審神者は人間なのだから、遡行軍に敵わなくても仕方ないとも言える。けれども、だからといって他人の頼りっぱなしなのは、自分でもどうかと思ってしまう。
「とはいえ、先程はああ言ったが、君のように誰かを信頼しようとすること自体は悪くないことだと、私個人としては思うよ」
指摘ばかりも良くないと思ったのか。一転して励ましの言葉もかけられ、今度は気まずさとは別の居心地の悪さ――照れくさい気持ちが藤の中に生まれる。
反射的に俯いた藤の背を押すように、彼の声は柔らかく響く。
「誰かを信じたいという気持ちを軸に行動できるのは、それ自体が一つの美徳だ。君は優しい。その優しさが、たまたま今回の戦いには向いてなかったというだけの話さ」
「ありがとうございます。そんな風に、言ってもらえるとは思ってなくて」
「だけど、今は戦いの最中だ」
にこっと笑いかける初老の男性に、藤は「ですよね」と苦笑いを返す。彼の言わんとしていることが分からないほど、藤も子供ではない。
「……勿論、反省はしてます。それより、この後どうしましょう」
「ああ、それなら階下に向かおうか。そちらは、敵が手薄だったはずだ。よかったら、私が案内しよう」
それとなく持ちかけた問いに対して、彼は自分が行きたい方向を明らかにする。
ふと、彼に話しかける前、自分が決めたことを藤は思い出す。もし、彼がどこかへ行こうと誘った場合は、そのときは遡行軍側の人間であるかもしれないと、少し疑ってみようと考えたことを。
励ましの言葉をくれる優しい人を疑うのは、正直楽しいことではない。
だが、これは訓練だ。彼がもし、訓練の試験官としての役割を持つのなら、疑うのが寧ろ礼儀だろう。
結論を出した上で、藤はぴたりと足を止めた。
「あの」
ひょっとしたら、審神者に嫌われそうなことを最初に口にしたのも、わざとだったのかもしれない。
まだひよっこの審神者に対して、自分は敵役の人間だぞと教えるために強調した演技なら、今まで彼を助けながら歩いていた自分は尚更間抜けだ。
とはいえ、今からでも遅くない。行動は遅れてしまったが、藤はそっと相手から距離をとる。
「もしかして、なんですけど。さっき、刀剣男士が来ないことを残念がってましたけど、本当は」
喉の奥がひりひりと渇く。先程までとは異なる緊張に、心臓の鼓動がやけに早い。
「あなたは、刀剣男士に来てほしくない人なんじゃないんですか?」
汚れのついたスーツを着た男の足もまた、一歩遅れて縫い付けられたように止まった。にっこりとこちらに向けて微笑みかける表情の意味が、藤には読み取れない。
「見つかったら、あなたの方がまずいんじゃないですか。だから、僕を不安がらせて、その後に安心をさせて、敵がいないって誘いだそうとして」
「なるほど。あなたは平和ぼけをした扱いやすい子供だと思っていたが、それなりに頭は切れるようだ」
先程までの優しげな落ち着きのある声音に、ぴりっと緊張感が混じる。そして、同時に警戒を孕んだ敵意も。
「そのまま騙されてくれれば、私としても非常に楽だったのだけれどねえ。まあ、いい」
ぐるりと振り返った男が、こちらに向かってくる姿を見て、藤は息を飲んだ。
男女の体格差に対する恐怖も無論ある。大の男が勢いよくぶつかれば、いくら力の強い藤でも床に倒れ込んでしまう。足が悪そうな彼であっても、例外ではない。
だが、彼女が驚いた理由はそれだけではなかった。
「それ、は」
いつの間にか男の手が握っていた、銀色に光る凶器。
普段、刀剣男士の刀を見ているせいで、ついつい『おもちゃのような武器』と思ってしまうが、刃渡りが短い得物でも刺さった位置が悪かったら当然死んでしまう。
たとえ、それが演技のための小道具だったとしても、恐怖の鮮度は変わらない。
そんな相手が、ほんの一歩踏み出せば隣に並ぶような距離にいると考えた瞬間、頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「ひっ」
喉の奥から、引き攣った悲鳴が零れる。
先程まで優しい声で話掛けてくれた相手が、こちらに牙を剥いている。これもまた試験なのかもしれないと、どこかで理解しているが、突如至近距離に現れた敵への恐怖が藤の足を絡め取ってしまっていた。
敵を暴いたとしても、その後どうするかを考えていなかった自分は、あまりに愚かだ。だが、今は反省会をしている場合でもない。
踵を返して走れば、足の悪い彼は見逃してくれるだろうか。それとも、それすらも演技で、逃げた瞬間に捕まえてくるつもりなのだろうか。
信頼しかけていた相手が、実は敵だったという混乱は想像を絶するほど大きく、二の足を踏んでいるときだった。
「ちょっとあんた、何してるのよ!!」
甲高い声と共に、どんっと男に勢いよくぶつかる誰かの影。それが何者かを理解するより早く、よろめくどころか倒れかかった男の側を一陣の赤い風が駆けていく。事態の進行の早さについていけない、藤の手をとって。
「えっ、あの!!」
「今のうちに行くわよ!!」
自分の手をぎゅっと握りしめている娘。柘榴色の髪を振り乱し、真っ赤な着物の袖を翻し、黒の袴を靡かせている彼女の名を藤は知っている。
「菊理さん!?」
その人物は、研修のときにやってきた自分の後輩審神者だった。
***
耳元で響く、ひゅっと刃が空気を断つ音。間一髪の所で体を捻り、回避。続けて反撃しようとしたが、隙をつかせまいと蜘蛛に似た異形――の幻影を被った何者かが、まるで入れ替わるように援護に回る。
和泉守の眼前に立つ敵の数は、精々二体。だが、彼らは脇差と打刀を操っている。
その幻影の内側にいるのは刀剣男士であると知っているために、和泉守には彼らが脅威だと分かっていた。
(打刀は脇差の刀剣男士とは、息を合わせやすいっつー話だったが、敵にすると厄介だな)
和泉守が隙を生み出さんと陽動をしてみて、敵が罠にかかったとしても、空いた片方が姿勢を崩した相方の補助に転じる。
もし仕掛けるなら、相手二体に対して、こちらも同時に攻勢に転じる必要があったが、何も言わずに連携できるほどの意思疎通はまだできない。
堀川なら呼吸を揃えられるかと思いきや、主のもとに行こうと焦っているのか、彼はやけに攻めに回ろうとしている。おかげで、和泉守が乱と共に彼を守る必要があったぐらいだ。
脇差を持つ蜘蛛に似た下半身の化け物と、鍔迫り合いで斬り結んだ瞬間、背後からもう一つの敵の気配が迫る。
先程からずっとこうだ。どちらかを抑えていても、同時にもう片方を抑えているという状況がない。
だから、背後をとられる。已む無く、和泉守は何度目かの回避に回った。
「おい、乱藤四郎!」
「何か用?!」
埒が明かないと、和泉守は吼える。
「お前に合わせる! 好きに暴れろ!!」
「いいの!?」
「オレは部隊長だ、部下に合わせるのは当たり前だろう!!」
「どうなっても知らないからね!!」
堀川と一緒に打刀を持つ敵に肉薄していた乱は、くるりと身を翻し急制動。虚を突かれて動きを止める敵に対し、乱はトンと軽く床を蹴り、蝶のようにひらりと舞い上がる。
その手は敵の顔――正確には肩をしっかと掴み、そこを支点に縦に一回転。曲芸師のように空中へと躍り上がった彼は、脇差を操る化け物の直上まで到達する。
「そっち、お願いね!!」
乱が飛び上がったことで、踏み台代わりにされた打刀の刀剣男士は手隙になる。
「おう!!」
空中で体にひねりを加え、天井に一瞬足をつけた乱は、重力に従ってそのまま脇差の刀剣男士の元へと垂直に落下する。
刃を、下にして。
「国広、ぼさっとすんな!!」
「う、うん。兼さん、任せて!」
和泉守の激励に弾かれたように、堀川も打刀を持つ敵へと距離を詰める。和泉守がわざと大きく振った一撃を掻い潜り、鋭く繰り出される堀川の突きは、敵に付けいる隙を与えない。
やがて、数度の打ち合いの末、壁に背をつけた敵の喉元に和泉守の刀の切っ先が迫る。
「これで、詰みだな。それとも、このままオレたちに本当に折られるか?」
今回の演練では、普段のように木刀は使っていない。己の本体を使用していいという許可を出したのは、できるだけ実戦に近い感覚を得られるように、という特別な配慮なのだろう。
「兼さん。あっちも終わったみたいだよ」
堀川が目線で示した先。そこには、乱が蜘蛛の形をした化け物を上から押さえつけ、その延髄に短刀を突きつけているところだった。
天井から落下する際にそのまま刺し殺すことも可能だっただろうが、そこまですると敵に擬態している刀剣男士を破壊すると思って、彼なりに加減したのだろう。
『……降参。降参だよ』
雑音の混じった声が聞こえ、次いでさぁっと霧が晴れるかの如く、時間遡行軍の幻影がほどけていく。
代わりに姿を見せたのは、肩ほどまでの長さの波打つ黒い髪に丸眼鏡の青年だった。濃紺のインバネスコートに落ち着きのある眼差しは、刀剣男士というよりも研究者のようにも見える。
しかし、彼の手には先程まで振るわれていた凶器――彼の本体が握られていた。即ち、彼は間違いなく刀剣男士だ。
「肥前くんも、もう術式を解いていいだろう。僕たちの仕事はこれで終わった」
肥前と呼ばれた、乱に組み付かれている遡行軍の幻影も、ゆっくりと消えていく。
廊下に這いつくばったままの状態で姿を見せたのは、くすんだ黒色の着物に同色の襟巻きを巻いた青年だった。ちっ、と漏れ出た甲高い音は、恐らく舌打ちだろう。
「蝿みたいにぶんぶん飛び回りやがって……反則だろ、あれは」
「ふふん、天井を使うことの何がいけないの? せっかく狭い場所なんだから、有効活用しなきゃね」
「古い建物だと、天井抜けて足がはまるかもしれねえっつーことを、知らないのかよ」
「そうなんだ。じゃあ、遡行先ではやらない方がいいかな」
乱から解放された肥前という刀剣男士は、億劫そうに立ち上がる。服についた埃を払い落とし、肥前ともう一人の刀剣男士は廊下の脇に寄った。
丁度、三人が向かおうとして階段までの道を開いた形だ。
「さて、僕らの戦いはこれで終わった。これ以上、そちらを邪魔するつもりもない。先に行くといい」
研究者めいた刀剣男士は、道を指し示した後は、もう用はないと言わんばかりに肥前を連れてどこかへと立ち去っていった。
「兼さん、急ごう。早くしないと主さんが敵に襲われちゃうよ」
早口で和泉守を急かす堀川を、刀を収めた和泉守はじろっと睥睨する。その視線は仲間に向けるにしても、無遠慮だった。
「国広、お前は本当に急ぎたいって思ってるのか」
「……兼さんは、違うの? だって、さっき、早く見つけようって」
「オレのことはどうでもいいだろう。オレが『主よりやっぱり敵を倒すのを優先したい』って言ったらどうするんだ」
堀川の顔に躊躇が浮かぶ。階段と和泉守の間に何度も視線を行き交わし、口は何度も開いたり閉じたりを繰り返しているのに、言葉は一向に出てこない。
「ちょっと、和泉守! 堀川も! あるじさんを探しに行くってことで、話はまとまってたでしょ!!」
「そ、そうだよ。兼さん。それで……方針は決まってたんだから。途中で変えるのは良くないよ。それに」
腰に収めた刀の柄に添えられた堀川の手は、微かに震えていた。ぎゅっと拳を握っても、その震えは一向に消えない。そんな状態でも、彼は口を動かした。
「……まだ主さんを許してないから、そんなことを言うの。僕は、手入れを後回しにされた話については、もう怒ってなんていないよ」
顕現したときから、すぐ主に背中を向けられたことは、堀川も覚えている。
だけれども、あれは仕方なかったのだとも割り切ろうとしていた。彼女には、彼女なりの理由があって、堀川に限らず新しく来た刀剣男士を遠ざけていたのだから。
そんな関係が行き着いた先が、負傷した自分を放置して逃げ出すという結末であったとしても、堀川は藤を恨むつもりはない――少なくとも、今はそう思えている。
あれも、彼女にとっては理由があることだ。
その理由ももう知っているし、聞いた上で許していいと思えた。だというのに、和泉守だけが、まだこの件に拘り続けている。
「前から言ってるだろ。オレはあいつがしたことの一部は、やっぱり許せねえって思ってる。手入れをしなかったことを許したら、あいつの勝手な行動を正当化しちまうだろう」
「でも、仕方なかったんだよ」
「仕方なかったで、オレは済ませたくねえ。だけどな、それはオレの理由だ。お前の理由じゃねえ」
ぽん、と堀川の頭に手を置き、和泉守はその頭をかき混ぜるようにぐしゃぐしゃと撫でる。まるで、凝り固まった考えそのものをほぐしていくように。
「国広。お前なら、自分で考えられるだろ。行くぞ、乱。無駄な時間、使っちまって悪かったな」
「そうだよ、急がないと!」
先を行く和泉守に小走りで駆け寄り、乱は声を潜ませる。
「和泉守さんは、あるじさんがしたこと、ずーっと許さないつもり?」
「……少なくとも、今はな」
「だけど、それだと、あるじさんもずーっと気にし続けると思うんだけど。ボクとしては、それってあまり嬉しくないかな」
「許しちゃいねえが、もう怒っちゃいねえよ。それは本当だ」
「じゃあ、どうして『主』って呼ばないの。それは、許してないからじゃないの」
疑問を積み重ねる乱に、和泉守はふいっと顔を逸らす。弾みで、彼の耳にぶら下がった赤い耳飾りが涼やかな音を立てて鈍く光った。
「もし、オレがあいつを『主』って呼んだら、そのときは、乱の言うようにあいつを許したことになっちまうだろう。そうしたら」
和泉守はそこまで言って、言葉を切る。
思い出すのは、道場で藤が膝丸と話していたときのことだ。
あのときはすまなかった、と謝る彼の姿を見て、気にかかった何か。そして、後から和泉守は、自分が何を気にしているのかを悟った。
(本当は、そろそろ区切りをつけてもいい頃合いだとは思ってたんだよ。乱、お前に言われなくてもな)
けれども、和泉守は未だに彼女に頭を下げていない。
許す許さないの話の前に、自分が主に掴みかかって怖がらせたという事実もあり、少なくともその点については、自分から謝罪が必要だろうと考えてもいた。
本音を言うなら、頃合いさえ見つかれば、さらっと謝罪を口にするつもりもあった。だというのに今は、和泉守は『悪かった』と言うことを拒んでいる。
否、言ってはいけないとすら思っている。
(だけど、オレも今のまま足踏みしているわけにもいかねえんだよな……。くそ、国広のことを叱れる立場じゃねえな)
迷っているのは、自分も同じだ。どちらの足を踏み出して歩けば分からなくなっている子供のように、ひどく簡単なことを前にして、自分は躊躇している。こちらは、その原因すらはっきりしていると言うのに。
「おい、乱。主の場所はどっちだ」
錯綜する思いを振り切るように、和泉守は乱に問う。
「上だよ! さっきより気配が遠くなってるような、近くなってるような、あるじさんも移動してるみたい」
「くそっ、大人しく待ってるってわけじゃなさそうだな!!」
敵に追われて逃げたのなら、益々合流を急がねばなるまい。後ろをついてくる堀川の姿を確認してから、和泉守は一足飛びで階段を駆け上がった。
***
自分の前に突きつけられた凶刃から、辛うじて難を逃れ、菊理に手を引かれて走り続けて、いったい何分経ったのだろうか。
奇妙に引き延ばされた己の感覚では、まるで三十分近く走り回っているような心地になっていたが、実際は五分も経っていないのだろう。
階段を降り、廊下を駆け抜け、また階段を上って降りてを繰り返した先、もはや何階かも分からない廊下の果てで、二人はその場にしゃがみこんだ。静かすぎる廃病院の空間に、ぜえぜえと乱れた息が散っていく。
「菊理、さん、思ったより、足、早いんだね」
「そっち……こそっ、ああもう、こんなに走ったの、いつぶりよ!」
どうやら走り回っているうちに入院室のある棟から、診察室が並ぶ棟に移動していたらしい。窓からの景色が、先程まで見ていた景色とまるで違う。
遠くに見える建物の窓の位置から察するに、今は三階にいると藤は見当をつける。
幸い、敵の姿はこの棟に来てからは全く見ていない。少しゆっくりできそうだと、藤は壁に背をつけ、深呼吸をした。
「あのさ、菊理さん。僕を助けてよかったの?」
「何よ、助けられたくなかったの?」
「いや、だって、加州は僕のことを『敵だ』って言ってたし、審神者同士で蹴落とし合って勝利を得ようとする事例もあるみたいだし」
そこまで藤が説明するのを聞いてから、ようやく菊理はその考えに思い至ったらしい。唇を尖らせ、ふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「確かに、誰かと手を組むような真似はするなって、言われていたけど」
「……やっぱり」
藤の後輩にあたる彼女が、何やら格式ある家の令嬢であるが故に、審神者として華々しい成績を期待されていることを、藤は知っている。
そんな彼女にとって、この演練は己の活躍を分かりやすく外に見せられる機会だ。
だというのに、菊理は藤の手をとって助けた。あのまま放置されていたら、ライバルが消えてくれると分かっていたのにも拘わらず。
「だけど、私の勝手でしょ。それとも、あんたまで私は他の連中と手を組むなって言うの?」
「言わないよ。僕も、他の審神者の刀剣男士に助けられたもの。だから、君はどうしたいのかが気になって」
菊理は膝を抱え、その隙間に顔を埋めたまま答えない。
家からのプレッシャーで彼女が悩んでいるらしいことは、研修中に藤も知っていた。その件については、彼女自身、答えはまだ出ていないのだろう。
「……一人で全部できるのが、一人前である証だって、お父様は言っていた」
くぐもった声で返ってきた菊理の言葉に、藤は首をゆっくりと横に振る。
「刀剣男士がいないと、審神者は何もできないよ」
きっとそんなことは、菊理も分かっているはずだ。
それでも、彼女は彼らに寄りかかってよいかと悩んでいた。恐らく、今も。
「それに、この試合で僕らができることなんて、上手く逃げ回ることだけなんだからさ」
その言葉を聞いても納得できないのか、藤の方を見ようとしない菊理に「それなら」と言葉を続ける。
「僕は君にとってお荷物になっちゃうかもしれないけど、お荷物の面倒を見て、その上で勝利を得たなら、とても凄いってことにならない?」
菊理は今度こそ顔を上げて、藤の瞳を見つめた。大きく見開かれた蒼の目は、藤を捉えて微かに揺れている。
「一緒に逃げよう。君の刀に助けに来てもらうまで。僕の刀と合流できたら、君も守ってもらうように頼むよ。審神者が襲われたときに守る必要があるってことは、和泉守たちも分かってるだろうから」
「加州だけが先に来て、あんたを守らないって言ったら?」
「まあ、その時は置いていってもらってもいいよ」
「馬鹿。ちゃんと守るよう命令するわよ。私の刀なんだから、そのぐらいの言うことは聞かせる」
眉をきりりと吊り上げ、少しばかりの悪態を吐く彼女は、初々しさはあるものの強かな審神者としての強さを見せ始めていた。
藤もにっと笑みを浮かべ、彼女の奮起に応じる。
「あんた、さっき走り回ったときに足挫いたりしてないわよね」
「うん。さっきはナイフを突きつけられたけど、斬られてもいないから」
念のため、手足に触れてみるものの、痛みを感じる部分はない。菊理に背中を確認してもらいもしたが、こちらも無傷だ。
「参加する審神者は武器厳禁って言われてたのに、歴史修正主義者側は武器を持ち込めるなんて、何だか不平等だよね」
「そうね。今回の演練は刀剣男士以外、銃火器ならびに刃物の持ち込みは禁止だったはずだけど」
そこまで言いかけて、菊理はふっと唇を閉ざす。
「菊理さん?」
「刀剣男士以外、銃火器ならびに刃物の持ち込みは禁ず。例外は認めない……って書いてあったはずなんだけど」
「それって、今回の演練の規則に書いてあったことかな」
「そうよ。でも、あんたはナイフを突きつけられたのよね?」
「うん。だけど、本当にナイフか分からないよ。おもちゃのナイフだったのかも」
そんな風に言われると、自分が玩具を前にしてあそこまで恐怖してしまったのが、とても情けなく感じてしまう。日頃から本物の刃物を目にしているのに、どうして気付かないのだと叱られても文句は言えない。
「多分そうだと思うけど……もし、そうじゃなかったとしたら」
藤は菊理の独り言は半分聞き流していたが、菊理は藤が語る状況を素通りしていいのか悩んでいた。
審神者側の参加者が刃物をこっそり忍ばせていた、というのならまだ分かる。勝利欲しさに不正を行うのは、いつの時代もよくある話だ。
だが、政府が用意した仮想敵の歴史修正主義者が持ち込んだというのは、違和感が残る。勝とうが負けようが、主催者側である彼らにとって意味のないことであるはずなのに。
「……菊理さん」
「何よ、今考えてるところなんだから――」
「人が来た」
藤の呼びかけに、菊理は思考を一旦切り替える。
この場所は廊下の突き当たりであり、背後は壁だ。正確には非常階段に繋がっているようだが、幸い封鎖されているため、ここから侵入されてくる可能性はない。
故に、やってくる人は彼女らの前に限られる。果たして、徐々に足音が近づき、姿を見せたのは、
「た、助けて、ください……」
栗色の長い髪を背中に流した、まだ十代前半と思しき少女が一人。縺れるような足取りで、こちらに向かって駆けてくる。
「大丈夫?!」
すぐさま藤は立ち上がり、疲労困憊でへたり込んだ彼女を支える。その間にも、すかさず怪我をしていないか、少女の全身に目をやった。
(民間人役の子かな……それとも、僕ら以外の審神者? 更紗ちゃんよりは年上そうだけど、まだまだ子供なのに)
あどけなさの残る顔といい、戦知らずの無垢そうな瞳といい、菊理のように世間擦れした部分すらない。
走り回ったせいか、汗が滝のように流れ落ち、少女の着ているワンピースをじっとりと濡らしていた。
「私は……大丈夫ですので。まだ、他に、怪我のせいで逃げ遅れた人がいるんです。その人を……助けないと」
「菊理さん、どうする。僕は、助けに行った方がいいと思うんだけど」
民間人が審神者に助けを求め、逃げ遅れた人物が救援を要請していると聞いて見捨てるのは、あまりにむごい選択だ。
試合云々のことを抜きに考えれば、すぐにでも救出すべきだと分かる。
「そうね。ここで見捨てて、変に評価を下げられても困るし。そこのおちびさん、その怪我人の場所まで案内してもらえる?」
怪我人を見つけた後は、比較的敵がやってこない、今いる廊下の突き当たりまで連れて行くか。
怪我の度合いによっては、その場で手当をする必要があるだろう。どちらにせよ、休息時間は終わりを告げることになる。
敵の只中に好んで飛び込みたくはない。けれども、だからといって、刀剣男士たちが助けてくれるまでに多くの人を見殺しにしたとなれば、彼らに合わせる顔がない。
その点については、藤も菊理と同じ考えを持っていた。
「分かりました。こちらです」
少女は立ち上がり、スカートの埃を払う。慎重に廊下の曲がり角から顔を覗かせ、敵がいないことを確認し、彼女はゆっくりと歩き出した。
「君も、この演練の参加者なの?」
「はい、そうですよ」
互いの情報交換も兼ねて、道すがら藤は少女に尋ねる。彼女は振り向かずに、そのまま答えた。
「まだ、審神者の候補生ですけれど。だから、先輩たちがどんな活躍をするのか、とても楽しみにしています」
菊理と藤は思わず顔を見合わせ、同時に気まずそうに目を逸らす。後輩に期待されるほど、自分たちが華々しい活躍を見せられるわけがないと、分かっていたからだ。
「僕たち、後輩の君にそんな風に言ってもらえるほど、何かできるとは思えないんだけど……」
「ええ、そうでしょうね」
謙遜も込めての発言だったが、まさか肯定されるとは思っておらず、藤がどう返したものかと躊躇したときだった。
がらり、と廊下の戸が開く。
歩いていた廊下の途中にある、唯一閉じられていた診察室の扉。そこから出てきたのは、黒々とした巨体の化け物だった。
まるで立体映像の着ぐるみが歩いているかのように、その表面には時々不自然なちらつきが走る。
「ですから、これからお二人が先輩の審神者として、目の前の危難をどうくぐり抜けるか。不肖、歴史修正主義者役を任ぜられたこの私に、見せてくださいな」
にっこりと微笑む少女の背後から、遡行軍の見た目をした敵が近づいてくる。
はめられた、と気が付くにはあまりに遅すぎた。
「……どうしよう」
「あんた、囮にでもなったら? 走るのだけは得意でしょ」
「冗談きついよ、菊理さん」
先程の比ではない、濃厚な危地の香り。
極限まで窮地に陥ると、人は呼吸すらも忘れて立ちすくむのだと二人は思い知ることになった。