本編第四部
こちこちと部屋に響くのは、時計の秒針の音。やけに強く聞こえるそれが気になって、思わず顔を上げ、髭切は居間にかけられた時計の針を目で追っていた。
時刻は十四時。そろそろ、教えられた試合開始時刻が近いはずだ。
「兄者。時計を見ていても、試合の結果が届くわけではないぞ」
昼食を終えてから、髭切はずっと居間に居座り続けている。
そんな兄の気持ちを、弟の膝丸もある程度は汲み取ってくれていたらしい。彼の手には、よく冷えた麦茶が入った湯呑みが二つあった。兄を労って用意してくれたのだろう。
弟の差し出した飲み物を受け取りながら、髭切は「うん」と曖昧な返事をした。
「ただの演練だ。気にするほどのことではあるまい」
「それでも、主が僕たち刀剣男士の戦いの側にいるわけだから、万が一があったらと思うと気になっちゃってね」
髭切の懸念事項については、膝丸も全く心配していないとは言えなかった。主は刀剣男士たちと比べると驚くほどに弱く、少し刀が触れただけでその肌は裂け、血を流す。
膝丸にとっては飛び降りることもわけのない段差も、運が悪ければ骨を折ると教えられた。
刀剣男士である彼らにとって、藤に限らず人間という存在は、砂糖の塊のように脆い。
「だが、兄者。主とて、我が本丸の将であることには変わるあるまい。確かに大怪我をされるのは困るが、多少の傷は真剣に戦い抜いた栄誉であるとも考えられないか」
あまり思い詰めてはどうかと思い、膝丸はそれとなく怪我に対して前向きな考えを示してみせる。
実際、戦いにおける傷は戦う者にとっては勲章のようなものだ。刀剣男士として、傷を負わないのが一番ではあるが、戦ってできた傷は己が戦場に立ち、勇猛果敢に難敵に挑み、勝利した証でもある。
「うーん、まあ、そうなんだけど」
髭切は湯呑みを机に置き、己の両の手でそっと包む。
その柔らかな包み方は、まるで湯呑みが主自身であるかのようでもあった。
「そのこと自体は、分かっているんだけどね。でも、できるだけ主の体には傷を残したくないって思ってしまうんだけど、これは変なのかなあ」
髭切自身、自分が負傷することには嫌悪などは感じない。弟同様、傷は自分の誇りであるとも考えている。
けれども、と髭切は想像してみる。
もし、主の体に一本でも傷跡が残ったら。
それは、時間遡行軍役の刀剣男士の刀が残した傷かもしれない。和泉守や乱たちが、彼女を守ろうとしてうっかりつけてしまった傷かもしれない。
或いはたまたま尖ったものが落ちていて、それに足を引っかけたという場合もあるかもしれない。
自分ではない『物』が主の体に傷をつける。
そのことを想像すると、途端に己の機嫌が悪くなっていくと髭切は気が付いていた。
(でも、主に傷をつけたのは、しかも顔に刀傷を残しかけたのは――僕、だったんだけどね)
主が鬼であると知った顕現直後の際に、髭切は己を顕現した主人であるにも関わらず、藤に斬りかかった。
顔と首筋に浅い傷を作ってしまったが、幸い薬の効きが良かったのか、今は後も残っていない。
そのことを後悔しているのかというと、髭切はあまり己を責めようとは思っていなかった。
主に傷ついてほしくない。
だけど、自分が傷つけたことは許せてしまう。
そんな自分の考えが矛盾しているとは、客観的に理解している。けれども、主観的には納得できてしまう。何だか妙な感覚だ。
「和泉守はともかく、堀川と乱は慎重派だ。和泉守とて、別に主を傷つけたいわけではあるまい。俺たちはただ、帰ってきて疲労困憊の主を労って、上手い飯の一つでも用意しておけばよいのだ」
「もしかして、厨で歌仙に何か言われた?」
「勝利の如何に関わらず、何かご馳走を用意したいと小豆と話していたな。人手が足りないから、俺ももう暫くしたら手伝いに行くつもりだ」
「それなら、僕も手伝おうか」
この申し出に、膝丸は琥珀色の瞳を大きく見開く。まるで、太陽が西から昇ってきたかのような驚きぶりだ。
「兄者が、手伝いを……?」
「そんなに意外かい?」
「いや……だが、良いのか。主からの報告を待たなくて」
「時計をいくら見ていても試合結果は届かない、と言ったのは弟だよ? それに、何かしていないと落ち着かなくてね」
あれこれ想像で気を揉んでいるよりは、主が喜びそうな料理の一つでも用意しておく方が生産的だ。
気を取り直して、冷たい麦茶をぐいと一杯呷る。キン、と頭に走った冷たさに、髭切は思わず唇をすぼめた。
***
目の前に広がる光景を前に、藤は今の時刻が夜ではないことを心底感謝した。
そうでなければ、自分は演練に参加しているのではなく、肝試しに参加中と思っていた所だっただろう。
「廃墟探訪を趣味にしている人もいるって聞いたことはあるけれど……僕には、絶対無理だな……」
白く塗られた壁に、残されたままの部屋の案内板。そこには「五〇五」や「五〇七」といった部屋の番号が刻まれている。
それらの部屋は、入院のために使われていた部屋だ。一室、扉が壊れている場所から覗き込み、寝台が置いてあるのを確認したから間違いあるまい。
「廃墟ってほど、ぼろぼろなわけじゃないけどさ」
実際、窓ガラスには罅もなく、床だって使い込まれたが故の汚れは残っているが、薄ら埃が積もっている程度で比較的清潔に保たれている。
それでも、本来なら看護師や患者、見舞いの人たちが行き交うはずの廊下が無人であるというのは、非常に薄ら寂しいものがある。
なまじっか、嘗て入院生活をしていた身としては、静かすぎる病院がどれほど異質なのか、よく分かってしまった。
一歩進むだけで、不自然なまでに靴音が響く。
味方の刀剣男士も、敵に扮した刀剣男士も今は近くにいないようで、嘘みたいに藤の周りは静まりかえっていた。
「僕だけ違う所に間違えて送られた……ってことはないよね」
演練開始時、審神者たちは施設内の各所にそれぞれ転送装置で送られる。これは、万屋や政府公認施設への移動と原理は変わらない。
窓から見える景色からの推察と周りの表札が誤っていなければ、ここは建物内では五階にあたるはずだ。
「演練が既に始まっている割には、全然人の姿が見当たらないような」
そーっと曲がり角に顔を覗かせ、そこで藤は思わず呼吸を止める。
(いる…………!)
曲がり角を曲がった遙か向こうに、ぼんやりとした黒い影。恐らくは、時間遡行軍に扮した政府の刀剣男士だ。
今回は模擬戦なので殺気こそ薄いが、その威容には反射的に身が竦むほどの恐怖を覚えた。
(あんなのと、皆は戦っているの……?)
外側の姿を見ただけで自分はこれほど怯えているのに、己の刀剣男士はあれらと斬り結び、勝利を掴み取ってきているのだ。その事実に、藤は敵に対する恐怖以外の震えを感じる。
人間とは程遠い見た目の化け物と刀を交え、笑顔で勝利を報告する刀剣男士たち。
化け物を倒せるということは、つまり、彼らもまた――。
(……違う。確かに、皆はあんな恐ろしいものと戦える力を持っているし、戦うこと自体を大事な誇りとしている。僕には到底できないことだ。だけど)
曲がり角から顔を引っ込め、そろそろと足音を殺しながら、階段の方へと向かう。幸い、階段には敵の姿はなさそうだ。
藤は一歩進むにも全神経を集中させ、階下へと急いだ。
歩きながらも、彼女は自分の中に生まれた恐怖をそっと窘める。
(だけど、彼らと僕は違う生き物だ。僕にとっては理解できない恐怖が、彼らにとっては理解できる誉れになる。それだけの話だ)
鬼である自分を、藤は恥だと思ったことはない。だが、周囲の人間の多くは、鬼という異端の姿を持って生まれた彼女を憐れんだ。
その時に感じた不快な感情は、今でもはっきりと覚えている。
刀剣男士たちだって変わらない。彼らと自分は価値観の根幹が違っていて、しかしそれでも一緒にいられるのだと、今なら素直に信じられる。
鬼である自分を、ありのままの鬼として、彼らは受け止めてくれたのだから。
「色々考えている間に一階降りちゃったけど、もっと降りた方がいいかな」
和泉守たちがどこにいるかは、皆目見当がつかない。
彼らに見つけてもらうためには目立つ行動をするべきか。だが、下手に目立ってしまったら、敵にも己がここにいると教えることになってしまう。
四階の踊り場で行きつ戻りつしているとき、不意に、かつんという甲高い靴音が階下から響く。
考えるよりも早く、体は動く。階下から聞こえてきた靴音に、藤はくるりと背を向けた。
味方である可能性と、敵である可能性を天秤に掛け、敵である可能性だった場合のリスクをとったのだ。
(こっちからも音がする)
だが、階段から遠ざかろうと走り出しかけた廊下の向こう側にも、ぱたぱたと足音が聞こえる。
咄嗟に、手近な所にあった病室の引き戸に手をかけ、藤はできるだけ慎重に、しかし素早く開く。
辛うじて人間一人分が通り抜けられるぐらいの隙間ができた刹那、藤はすぐさま体を滑り込ませた。すかさず、これまた針に糸を通すような慎重さで戸を閉め、ゆっくりと鍵をかける。
幸い、鍵の開け閉めは可能になっていたようで、音もなく錠が落ちたのを確認して、藤は心底から安堵の息を吐こうとし、
(これでよし――――っ!?)
不意に、口が大きなものに塞がれる。
突然の接触に藤は心臓が口から出るのではないかと思うほど驚き、その場で飛び上がりそうになった。
「しーっ、落ち着いてくれ、藤殿。俺だ」
軽やかに舞う羽根のようであり、どこかに稚気を滲ませた声。振り返って目にした姿は、予想通りの真っ白の羽織を纏った白髪の男だ。
「鶴丸さん……驚かさないでください。心臓が飛んでいくかと」
「おっと、そっちの方が俺にとっちゃ驚きだな」
そこに立っていたのは、白一色の戦装束に身を包んだ青年、鶴丸国永だった。普段なら目立って仕方ない白の服も、病院という建物内では寧ろ保護色になっている。
彼の足元には、緋色の袴が鮮やかな少女が佇んでいた。
口のきけない無表情の少女は、鶴丸国永の主でもある更紗だ。
「もう合流できたんだね」
「ああ。俺たち刀剣男士は、主と深い深い縁で結ばれている。だからこそ、慎重に気配を探っていけば、見つけることはそんなに難しくないはずさ」
鶴丸は片手に持つ刀で軽く肩を叩きながら、何てことのない調子で藤に解説する。
「ただ、この縁を辿る手段は、顕現してから日が浅いとちょっと困難かもしれないな。俺と主は、それはもう何年もの長い付き合いがあるから、息をするように探せたもんだが」
「長いってどれくらいなの?」
更紗が十才ぐらいならば、いくら審神者になるのがとても早かったとしても、三から四年ぐらいだろうかと藤は思っていた。
しかし、藤の質問を聞いても、鶴丸は曖昧に笑うばかりだ。どうやら真面目に答えるつもりはないらしい。
「和泉守は、まだ顕現して一年も経ってないよ。乱だってようやく半年過ぎたくらいだもの。ちゃんと探してもらえるかな」
「そればっかりは分からんな。ただ、顕現したての頃だって縁がないわけじゃない。意識すれば辿れるだろう」
鶴丸の足元にいる更紗を見やると、彼女は安堵したような表情を浮かべていた。この試合において、更紗は最年少のはずだ。
こんな廃墟に一人取り残された上に、遡行軍に追いかけ回されるなどという状況は、更紗にとっても十分に恐怖だったのだろう。自分のことではないが、彼女が無事に保護してもらえていて、藤もほっとしていた。
鶴丸は更紗を片腕で抱え上げると、藤が閉めた扉にそっと耳を当てる。
「……敵、いる?」
「いや、今はいなさそうだ。今のうちに俺と主は他の仲間と合流する」
「鳴狐さんたちとかは、どうしてるの」
「遡行軍狩りだ。点数も稼がないといけないからな」
どうやら、更紗本丸の刀剣男士は主を迎えに行く鶴丸と、敵を倒す他二名という戦力の割り振り方をしたらしい。
藤よりも積み重ねてきた年数が多い審神者だからこそできる、少数精鋭の戦術だ。
「悪いが、俺は藤殿を連れて行くことはできない。俺がきみの側にずっといたら、きみの評価が下がってしまうからな」
こちらの甘い目論見を先んじて読んでいたように、鶴丸には同行を拒否されてしまった。
人脈があれど、いざという時はどうにもならないものだ。気にしていないということを示すために、藤は曖昧な微笑で応じた。
「俺はここを出て行く。鍵をかけて閉じこもるのも一つの策だが、政府の刀どもは閉まっている扉をいつまでも見逃してくれるほど、甘くはないぞ」
「忠告ありがとう。気をつける」
「ああ。早く自分の刀剣男士と合流できるように、俺も祈ってるよ」
軽い調子でひらひらと手を振り、鶴丸は鍵を開けて扉を開く。こちらが籠城したい場合を考えてくれたのだろう、藤の手順を真似るかのように、鶴丸は扉の隙間からするりと抜け出ていった。
***
和泉守兼定を筆頭とした藤の刀剣男士らも、彼らの主と同じように政府の転送装置を経由して施設内の各所に送られていた。和泉守たちの転送先は、施設内にある小部屋だ。
三人は纏めて一箇所に送られたので、はぐれる心配はなかった。しかし、肝心の主の居場所は彼らは知らない。
「どうにも、この『縁を辿る』って感覚は分かりづれえんだよなあ」
和泉守の感覚では、藤と繋がっていることこそ分かるものの、彼女が具体的にどこにいるかまでは探れない。漠然と近くにいるだろう、と認識できる程度だ。
「おい、乱。そっちはどうだ」
「うーん、上にいる……とは思うんだけど」
短刀の刀剣男士はその他の刀剣男士よりも、偵察能力に優れている個体が多いと言われている。
それは、彼らが総じて小柄で敵に見つかりにくいという点から生じた評価でもあるが、主に対する直感が鋭いという点からも生まれた言葉でもある。
付喪神として人の形をとる前は、懐に忍ばされてきたり、寝所の守りとして使われていたりという、短刀そのものの来歴が原因なのか。彼らは、主との縁を他の刀剣男士より感じやすい個体が多い。
だが、その短刀の刀剣男士である乱藤四郎でさえ、この建物内にいると分かるだけで精一杯のようだった。
「それなら、まずは足を使って主さんを探す……でいいんだよね。兼さん」
「仕方がねえな。あいつがやられたら、お終いなんだからよ」
和泉守の言葉は、聞いた限りでは「いやいや賛同している」という気持ちが明らかに滲んでいた。
堀川は、思わせぶりに和泉守に視線をやってから、
「……じゃあ、まずは上の階に」
彼らが転送されてきた先の部屋から一歩外に出て、堀川はすぐさま腰の脇差に手をやった。
彼の所作を見て、残りの二人の間にも緊張感が走る。
乱藤四郎も得物を抜き放ち、和泉守の羽織が抜刀の弾みで大きく浅葱色の弧を描いた。
部屋を出た先にあったのは、一本の通路。すぐそばに曲がり角があり、その死角から飛び出てきたのは、
「おわっ、びっくりした!! 堀川じゃん、それに和泉守も」
「加州さん?」
「なんだ。お前、加州清光か」
別の演練で加州とは顔を合わせたことがある二人は、曲がり角からの乱入者――黒く結わえた髪を猫の尾のように振り、同じく黒いコートを翻した刀剣男士の名を知っていた。
相手も和泉守たちの顔と名前だけは把握していたのか、二人の名を呼ぶ。だが、彼もまた、一拍遅れて腰に吊った打刀に手を伸ばしていた。
「あー、やめろやめろ。オレたちは、お前とやりあうつもりはねえよ」
「兼さん?」
「刀剣男士同士でぶつかりあってどうすんだ。オレたちに与えられた『状況』は、時間遡行軍が紛れ込んだ建物内で、はぐれた主を探さなきゃならねえってことだろ」
「和泉守の言う通りだ。加州、刀を引け」
加州の後ろから聞こえたのは、落ち着きのある凜ととした青年の声だ。間を置かず、声の主が姿を見せる。
淡い藤色の髪に黄金色の鎧を纏う姿は、この白い建物の中ではかなり浮いていた。だが、見た目のちぐはぐさとは裏腹に、彼の挙措に隙はない。
少なくとも顕現して日の浅い自分たちよりは、刀剣男士として顕現した時間は長いだろうとすぐに分かる。
「でも、蜂須賀。こいつら、主を泣かせた本丸の刀だよ」
「泣かされたわけじゃないと、主も言っていただろう」
乱は待合室で加州の主を見ていたので、彼らの主が嘗て本丸の研修にやってきた少女だとは知っている。
彼女は以前の訪問時に、乱たちの主――藤と一対一で話をしていた。その仔細までは、流石に聞くのは憚られて秘密のままだ。
ただ、見送りの様子を見ている限り、彼女が泣かされた様子などはまるでなく、寧ろ少しすっきりしているようにも見えた。恐らく、泣かせたというのは向こうの誤解なのだろう。
「分かったよ。そんで、あんたたち、主はどこにいんのさ」
「……捜索中だけど」
「何だ。まだ見つけてないんだ」
加州の返答に、乱はむっとして眉に力を込める。
普段は可愛く綺麗に、と振る舞っている彼も、睨み付ければ十分に凄みはある。乱藤四郎は刀剣男士であって、ただの可愛らしい子供ではない。
「はっはーん。さては、主との縁がちゃんと繋がってないから、探すのに手間取ってるんじゃないの?」
「そっちだって、主と一緒にいないよね? それこそ、縁が繋がってないんじゃないの?」
「俺たちは、これから主と仲良くなっていく所だからいいの」
何気ない調子で返しているものの、加州の瞳に力がこもっているのは、彼らの本丸と関係が薄い三人にも分かった。
痛いところを突かれたと思ったのだろう。
「……主は、二度と泣かせない。主は俺が守るって決めたんだから」
皆への発言というよりは、自分への決意を表明するためと思しき言葉が、加州の口から漏れる。
「おう、良い覚悟してんじゃねえか」
和泉守がにっと笑うと、加州も彼によく似た狼の如き獰猛な笑みで応じた。
「とーぜん。そっちはどうなのさ」
「聞くまでもねーよ。あいつをとっとと見つけて、遡行軍どもを刈り尽くす。もたもたしてると、取る首がなくなるぞ?」
「遠慮しなくていいから、ゆっくり探してもいいよ。その前に、ぜーんぶ俺たちが倒すから」
加州と和泉守が火花を飛ばしている傍ら、蜂須賀が小柄な少年の刀剣男士と共に、乱と堀川に近寄ってきた。
少年の方は、乱の戦装束によく似た紺色の制服を着ている。桜色のふわふわした綿毛のような髪が、紺の制帽によってくしゃりと抑えられていた。
「えっと……ボクたち、そっちの主を泣かせたりしてないからね?」
誤解があってはいけないと、念のために乱は今一度、潔白を表明する。
「分かっているよ。加州の方が勘違いしているんだ。いや、彼も本当は、承知しているのかもしれないけれどね」
蜂須賀は加州に一度視線を送ってから、ひょいと肩を竦めてみせる。その仕草は、駄々を捏ねる藤を窘める歌仙によく似ていた。彼も本丸の中では、苦労人なのかもしれない。
「そちらの主は見つかっていないようだが、縁はうまく辿れそうだろうか」
「うーん……ボクも頑張ってるんだけど、何だかぼやけているんだよね。堀川はどう?」
「僕も同じです。どこかに向かって繋がっていることは、分かるんですが」
乱と堀川が揃って難色を示すのを見て、蜂須賀はもう一歩二人へと距離を詰める。
「縁を辿るということは、そこまで難しくはない。上手く見つけられないのは、きっと主のことをはっきりと思い描けてないからだと、俺は思っている」
「えーっ? ボクはたくさん、あるじさんのことを考えてるよ」
「たくさんじゃなくていい。たった一つだけでいいから、それを強く強く頭の中で繰り返すと見つけやすいんだ。これは、経験則だが」
蜂須賀は己の胸にそっと手を添え、言葉を続ける。
「主に出会ったときでも、主とのとびきり楽しい思い出でもいい。そのたった一つの星のような思い出が、俺たち刀剣男士と主の縁を一番感じやすくしてくれる」
蜂須賀の助言を受けて、乱は胸に拳を押し当て、空色の瞳を閉じる。
思い描くのは、夏に浴衣を選びに行ったとき。
狼狽える主を言い負かし、似合わないからと言いつつも着たそうにしていた浴衣を着せることに成功した。
あの瞬間、乱は自分と主の間にできていた溝を跳び越えられたと確信できた。
何度も何度も、主の照れた顔を、笑顔を、心の中で繰り返す。
――瞬間。
ピン、と。
自分から主へと、一本の明瞭な線が見えた気がした。
「いた」
乱の短い言葉に、今まで加州と火花を散らしていた和泉守がすぐさま振り返る。
「見つかったか。どこだ」
「あっち。上の階。同じ階まで行けば、もっと詳しく分かると思う」
「なら、急ぐぞ。加州、さっきの続きは試合の後でな!!」
捨て台詞だけを残して、和泉守は浅葱色と深紅の風になって階段へと向かう。すぐさま堀川が追従し、乱が持ち前の脚力を活かして走り出す。
だが、駆け出した三人は次の廊下を曲がった先で足を止めざるを得なくなった。
廊下を塞ぐように立つ、黒の巨影。
微かにノイズの走った時間遡行軍の残像が、二つ分。
一つは蜘蛛に似た形状で、一つはぼろ傘を被った大男だ。
本物の時間遡行軍ではないのは、不規則に明滅するノイズからも明白だ。恐らくは、見た目だけを偽装する術式によって、姿を偽っているのだろう。
「ちっ、めんどくせえときに来やがったな」
「どうするの、兼さん」
「決まってる。さっさと倒して、あいつを迎えに行くぞ!」
既に抜刀していた己の本体たる刀を突きつけ、和泉守は咆哮した。
***
部屋に籠城するか、それとも廊下を彷徨って敵の目をかいくぐるか。藤は暫し悩んで、後者を選んだ。
時間遡行軍役の刀剣男士にとって、病室の扉の鍵など、あってないようなものだ。閉じこもっていたとき、離れの扉の鍵が和泉守によってあっさり壊されたことをよく覚えている。
この狭い病室で、時間遡行軍に襲われたらひとたまりもない。まさか、窓を伝って逃げるわけにもいかないだろう。
そうなったら、完全に詰みだとは、いくら戦の経験がない藤にも分かる。
「誰もいませんように……」
そろそろと病室の引き戸を開き、藤は外に滑り出る。
幸い、廊下には今の所、人影は見えない。
「そういえば、時間遡行軍の他に、歴史修正主義者の役の人とか民間人の役の人もいるんだっけ……。そのうち出会うんだろうな」
自分と同じ控え室にいたのは審神者だとは知っているが、それ以外の審神者が別の部屋で待機していたかについては、結局教えられていない。
ひょっとしたらいるのかもしれないし、いないのかもしれない。
民間人もいれば、裏切り者に扮した人もいる。彼らがどんな見た目をしているか、などは当然知らされていない。
最低限のルールの外側に位置する不確定要素については、演練の説明をしていた人間は敢えてぼかして伝えていた。
それは、これが実地を想定した訓練だからだろう。
実際、敵が自ら『敵です』と分かる符牒をつけてくれていることなんてあり得ない。
「人を疑うのって、あまり好きじゃないんだけどな」
鶴丸との会話を経て、少し気が緩んでいたのだろう。或いは、考え事をしていたせいか。
今まで慎重に確かめていた曲がり角を曲がる際の確認を、うっかり怠ってしまった。
そして、そのツケはすぐに返ってくる。
「――――ぃっ!?」
思わず悲鳴をあげそうになり、咄嗟に己の口を塞いで声を遮断する。
距離にして数メートル先に立つ、巨漢の武者。
まるで古い時代のホラー映画に出てきそうな、幽鬼じみた形相が遠目からでも分かる。
烏帽子に鎧の姿には、壊れたホログラムのように、微かにノイズが走っていた。あれが、政府の刀剣男士を時間遡行軍のように見せる偽装術式の効果なのだろう。
だが、その威容を前に、藤の心臓は今度こそ口から飛び出るかと思った。
幸い、敵は背を向けている。背に目がついていないのなら、こちらに気付くはずもない。
そろりと、一歩。
続けて、慎重にもう一歩。
じりじりと後ずさりしていき、曲がり角を曲がり終えた瞬間。
きゅっ、と甲高い音が響く。
リノリウムの床を、己の靴が滑った音だ。
それは聞きようによっては、よくある家鳴りや物音にとも思えるが、そのまま聞き逃してくれると楽観視できるほど、藤も暢気ではない。
(まずい、まずいまずいまずい!!)
すぐさま、足音をできる限り殺して、近くの病室に転がり込む。しかし、この部屋は既に扉が取り外されており、籠城は到底できそうにない。
ならば、せめて最も見つけづらい所に逃げ込もうと周囲を見渡し、藤は置きっぱなしになっている寝台と布団に気が付く。
(ここなら……見つけにくいかな)
時間遡行軍の姿から察するに、あれは以前資料で見かけた太刀を操る種類のもののはずだ。
それに化けているとしたら、同じく太刀の刀剣男士が高い。彼らは総じて長身だから、低い所に対する視認はしづらいだろうと、藤は一縷の希望に縋る。
寝台の下に身を屈めてそろりと潜り込み、置きっぱなしになっている布団を引っ張って、それとなく自然な形に見えるように半分ほど寝台から垂らす。あたかも、適当に放り出した布団がまだ残っているかのように。
どうにか薄い布団を緞帳代わりにして隠れられた――と思った刹那、カツカツという靴音が藤の潜む部屋の前で止まった。
(そりゃ、気が付くよねえ……)
あれだけ派手に廊下に音を響かせれば、自分が敵ならまず様子を見に行く。そこに何がいるかどうか、なんてことは二の次だ。
案の定、靴音の主は部屋の中に入ってくる。あの鎧姿の見た目なら、本来ならガシャガシャと鎧同士が擦れ合う音が聞こえそうなものだが、耳に届いたのは靴音だけだ。あくまで、見た目を欺瞞しているだけらしい。
(気が付きませんように、素通りしますように)
見つかったところで、殺されるわけではないと分かっているのだが、今この瞬間に限っては本当に出会ったら死ぬ――と思うあまり、心臓が異常な高鳴りを体中に響かせていた。
自分の鼓動が外まで漏れて、敵に聞かれているのではないか、とあり得ない想像に一瞬囚われるほどの緊張に、思わず体が震える。
指先が冷たくなってくるほどの恐怖を感じているはずなのに、頭は妙に熱っぽく、思考は無意味に空転し続けていた。
いっそのこと、飛び出して逃げ出したい衝動に駆られるが、今飛び出したら、せっかく隠れたのが無駄になる。
寝台の隙間からは、辛うじて床上数センチの様子が確認できる。敵は、今まさに藤の目の前を通過して、窓際へと向かったようだ。
(そうだ。僕はここにいないから、そのままどっかに行って!)
藤の期待に応じるように戻ってきた敵の足は、藤の目の前を通り過ぎていく。きっと誰もいないと思って、部屋を出て行くだろうと藤が思った瞬間だった。
ざくっ、と布を切り裂く嫌な音。
同時に、彼女の眼前に銀色の刃が、切っ先が、刀身が、勢いよく現れる。
「ぅ――――っ」
思わず悲鳴をあげかけて、理性で押しとどめたものの、結局声になりきっていない音が口から漏れてしまった。
寝台のマットレス越しから、寝台の下にいる藤の眼前に突き刺さるように、太刀が突き立てられたのだと分かったのは、その後だった。
『みいつけた』
どこか楽しそうな声は、何だか聞き馴染みがある気がする。しかし、今はそんなことを考えている暇など到底ない。
『早く出てきなよ。それとも、無様に這いつくばったまま降参するのがお好みかい?』
ざらざらと雑音の混じった声。偽装術式によって変化させられた声は、不必要に藤の恐怖を煽る。
(どうしよう、どうしよう……)
多分、相手はあと数秒も待ってくれないだろう。
寝台ごと退かされ、降参を拒否すれば判定のカメラから見ている審査員の方が、自分に敗北の烙印を叩きつけるとは分かっていた。
猶予は、この隙間の時間しかない。
悪あがきを数秒したら、もしかしたら和泉守たちが来てくれるかもしれない。今の自分にとって、ほんの一秒が砂金の一粒のように価値がある。
逡巡は、思った以上に僅かだった。
深呼吸も省略して、藤は寝台から飛び出し、同時に自分が緞帳代わりに使っていた毛布を引っ掴む。
「えいっ!!」
少し重たい毛布を、大体の敵の位置を予測して大雑把に投げる。
目くらましにしかならないとしても、今はそれで十分。
ばさりと毛布が切り裂かれる音など気にせずに、視線は敵の方へとやりながら、後ずさるように入り口に向かったときだった。
「どいて」
短い声と共に、白い影が目の前をよぎる。
その声が、あまりに聞き慣れた声だったから。
その色が、あまりに見慣れた色だったから。
一瞬、藤は勘違いをした。
「……髭切?」
ふわりとたなびく、黄金色の髪。
己の前に屹立する背中は広くて、大きくて、心の中に無意識に安堵が広がる。
ありがとう、と声をかけようかと思った。
助けて、と縋ったら守ってくれるだろうか、と一瞬考えた。
けれども。
「そこの審神者。逃げるつもりなら、さっさと部屋を出て。邪魔だから」
素っ気ない言葉が、この髭切は自分の髭切ではないと、何よりも明瞭に示していた。
部屋にいる遡行軍の正面からの一撃を、難なく受け止め、彼らの間で鍔迫り合いが起きる。
本来なら、髭切は敵の攻撃を躱してもよかったはずだ。
それなのに躱さなかったのは、自分がいるせいだと藤は遅まきながら気が付いた。
(僕の髭切じゃない髭切に、迷惑をかけちゃ駄目だ)
演練の名目は審神者を守る演習であり、それはよその本丸の審神者であろうと同じだ。
本来なら、本丸を問わず審神者を保護し、時間遡行軍を協力して撃退するのが最善策だと、彼は分かっているのだろう。
このまま仕留めてしまえば――そうでなくても、巻き込んで事故を装って、藤を降参にまで追い込めば一番得だと思っていても、眼前の髭切は、そんな卑劣な手段を良しとしなかった。
だったら、自分も彼の足を引っ張るような真似はするべきではない。
「……すみません、お願いします」
言葉も早々に藤は踵を返し、部屋から飛び出る。
敵の姿がいないことを確かめてから、剣戟の残る部屋を背にして彼女は駆け出した。
胸の奥ががらんどうになったような、不可解な空虚さが何から生まれたのかは、藤には分からなかった。
時刻は十四時。そろそろ、教えられた試合開始時刻が近いはずだ。
「兄者。時計を見ていても、試合の結果が届くわけではないぞ」
昼食を終えてから、髭切はずっと居間に居座り続けている。
そんな兄の気持ちを、弟の膝丸もある程度は汲み取ってくれていたらしい。彼の手には、よく冷えた麦茶が入った湯呑みが二つあった。兄を労って用意してくれたのだろう。
弟の差し出した飲み物を受け取りながら、髭切は「うん」と曖昧な返事をした。
「ただの演練だ。気にするほどのことではあるまい」
「それでも、主が僕たち刀剣男士の戦いの側にいるわけだから、万が一があったらと思うと気になっちゃってね」
髭切の懸念事項については、膝丸も全く心配していないとは言えなかった。主は刀剣男士たちと比べると驚くほどに弱く、少し刀が触れただけでその肌は裂け、血を流す。
膝丸にとっては飛び降りることもわけのない段差も、運が悪ければ骨を折ると教えられた。
刀剣男士である彼らにとって、藤に限らず人間という存在は、砂糖の塊のように脆い。
「だが、兄者。主とて、我が本丸の将であることには変わるあるまい。確かに大怪我をされるのは困るが、多少の傷は真剣に戦い抜いた栄誉であるとも考えられないか」
あまり思い詰めてはどうかと思い、膝丸はそれとなく怪我に対して前向きな考えを示してみせる。
実際、戦いにおける傷は戦う者にとっては勲章のようなものだ。刀剣男士として、傷を負わないのが一番ではあるが、戦ってできた傷は己が戦場に立ち、勇猛果敢に難敵に挑み、勝利した証でもある。
「うーん、まあ、そうなんだけど」
髭切は湯呑みを机に置き、己の両の手でそっと包む。
その柔らかな包み方は、まるで湯呑みが主自身であるかのようでもあった。
「そのこと自体は、分かっているんだけどね。でも、できるだけ主の体には傷を残したくないって思ってしまうんだけど、これは変なのかなあ」
髭切自身、自分が負傷することには嫌悪などは感じない。弟同様、傷は自分の誇りであるとも考えている。
けれども、と髭切は想像してみる。
もし、主の体に一本でも傷跡が残ったら。
それは、時間遡行軍役の刀剣男士の刀が残した傷かもしれない。和泉守や乱たちが、彼女を守ろうとしてうっかりつけてしまった傷かもしれない。
或いはたまたま尖ったものが落ちていて、それに足を引っかけたという場合もあるかもしれない。
自分ではない『物』が主の体に傷をつける。
そのことを想像すると、途端に己の機嫌が悪くなっていくと髭切は気が付いていた。
(でも、主に傷をつけたのは、しかも顔に刀傷を残しかけたのは――僕、だったんだけどね)
主が鬼であると知った顕現直後の際に、髭切は己を顕現した主人であるにも関わらず、藤に斬りかかった。
顔と首筋に浅い傷を作ってしまったが、幸い薬の効きが良かったのか、今は後も残っていない。
そのことを後悔しているのかというと、髭切はあまり己を責めようとは思っていなかった。
主に傷ついてほしくない。
だけど、自分が傷つけたことは許せてしまう。
そんな自分の考えが矛盾しているとは、客観的に理解している。けれども、主観的には納得できてしまう。何だか妙な感覚だ。
「和泉守はともかく、堀川と乱は慎重派だ。和泉守とて、別に主を傷つけたいわけではあるまい。俺たちはただ、帰ってきて疲労困憊の主を労って、上手い飯の一つでも用意しておけばよいのだ」
「もしかして、厨で歌仙に何か言われた?」
「勝利の如何に関わらず、何かご馳走を用意したいと小豆と話していたな。人手が足りないから、俺ももう暫くしたら手伝いに行くつもりだ」
「それなら、僕も手伝おうか」
この申し出に、膝丸は琥珀色の瞳を大きく見開く。まるで、太陽が西から昇ってきたかのような驚きぶりだ。
「兄者が、手伝いを……?」
「そんなに意外かい?」
「いや……だが、良いのか。主からの報告を待たなくて」
「時計をいくら見ていても試合結果は届かない、と言ったのは弟だよ? それに、何かしていないと落ち着かなくてね」
あれこれ想像で気を揉んでいるよりは、主が喜びそうな料理の一つでも用意しておく方が生産的だ。
気を取り直して、冷たい麦茶をぐいと一杯呷る。キン、と頭に走った冷たさに、髭切は思わず唇をすぼめた。
***
目の前に広がる光景を前に、藤は今の時刻が夜ではないことを心底感謝した。
そうでなければ、自分は演練に参加しているのではなく、肝試しに参加中と思っていた所だっただろう。
「廃墟探訪を趣味にしている人もいるって聞いたことはあるけれど……僕には、絶対無理だな……」
白く塗られた壁に、残されたままの部屋の案内板。そこには「五〇五」や「五〇七」といった部屋の番号が刻まれている。
それらの部屋は、入院のために使われていた部屋だ。一室、扉が壊れている場所から覗き込み、寝台が置いてあるのを確認したから間違いあるまい。
「廃墟ってほど、ぼろぼろなわけじゃないけどさ」
実際、窓ガラスには罅もなく、床だって使い込まれたが故の汚れは残っているが、薄ら埃が積もっている程度で比較的清潔に保たれている。
それでも、本来なら看護師や患者、見舞いの人たちが行き交うはずの廊下が無人であるというのは、非常に薄ら寂しいものがある。
なまじっか、嘗て入院生活をしていた身としては、静かすぎる病院がどれほど異質なのか、よく分かってしまった。
一歩進むだけで、不自然なまでに靴音が響く。
味方の刀剣男士も、敵に扮した刀剣男士も今は近くにいないようで、嘘みたいに藤の周りは静まりかえっていた。
「僕だけ違う所に間違えて送られた……ってことはないよね」
演練開始時、審神者たちは施設内の各所にそれぞれ転送装置で送られる。これは、万屋や政府公認施設への移動と原理は変わらない。
窓から見える景色からの推察と周りの表札が誤っていなければ、ここは建物内では五階にあたるはずだ。
「演練が既に始まっている割には、全然人の姿が見当たらないような」
そーっと曲がり角に顔を覗かせ、そこで藤は思わず呼吸を止める。
(いる…………!)
曲がり角を曲がった遙か向こうに、ぼんやりとした黒い影。恐らくは、時間遡行軍に扮した政府の刀剣男士だ。
今回は模擬戦なので殺気こそ薄いが、その威容には反射的に身が竦むほどの恐怖を覚えた。
(あんなのと、皆は戦っているの……?)
外側の姿を見ただけで自分はこれほど怯えているのに、己の刀剣男士はあれらと斬り結び、勝利を掴み取ってきているのだ。その事実に、藤は敵に対する恐怖以外の震えを感じる。
人間とは程遠い見た目の化け物と刀を交え、笑顔で勝利を報告する刀剣男士たち。
化け物を倒せるということは、つまり、彼らもまた――。
(……違う。確かに、皆はあんな恐ろしいものと戦える力を持っているし、戦うこと自体を大事な誇りとしている。僕には到底できないことだ。だけど)
曲がり角から顔を引っ込め、そろそろと足音を殺しながら、階段の方へと向かう。幸い、階段には敵の姿はなさそうだ。
藤は一歩進むにも全神経を集中させ、階下へと急いだ。
歩きながらも、彼女は自分の中に生まれた恐怖をそっと窘める。
(だけど、彼らと僕は違う生き物だ。僕にとっては理解できない恐怖が、彼らにとっては理解できる誉れになる。それだけの話だ)
鬼である自分を、藤は恥だと思ったことはない。だが、周囲の人間の多くは、鬼という異端の姿を持って生まれた彼女を憐れんだ。
その時に感じた不快な感情は、今でもはっきりと覚えている。
刀剣男士たちだって変わらない。彼らと自分は価値観の根幹が違っていて、しかしそれでも一緒にいられるのだと、今なら素直に信じられる。
鬼である自分を、ありのままの鬼として、彼らは受け止めてくれたのだから。
「色々考えている間に一階降りちゃったけど、もっと降りた方がいいかな」
和泉守たちがどこにいるかは、皆目見当がつかない。
彼らに見つけてもらうためには目立つ行動をするべきか。だが、下手に目立ってしまったら、敵にも己がここにいると教えることになってしまう。
四階の踊り場で行きつ戻りつしているとき、不意に、かつんという甲高い靴音が階下から響く。
考えるよりも早く、体は動く。階下から聞こえてきた靴音に、藤はくるりと背を向けた。
味方である可能性と、敵である可能性を天秤に掛け、敵である可能性だった場合のリスクをとったのだ。
(こっちからも音がする)
だが、階段から遠ざかろうと走り出しかけた廊下の向こう側にも、ぱたぱたと足音が聞こえる。
咄嗟に、手近な所にあった病室の引き戸に手をかけ、藤はできるだけ慎重に、しかし素早く開く。
辛うじて人間一人分が通り抜けられるぐらいの隙間ができた刹那、藤はすぐさま体を滑り込ませた。すかさず、これまた針に糸を通すような慎重さで戸を閉め、ゆっくりと鍵をかける。
幸い、鍵の開け閉めは可能になっていたようで、音もなく錠が落ちたのを確認して、藤は心底から安堵の息を吐こうとし、
(これでよし――――っ!?)
不意に、口が大きなものに塞がれる。
突然の接触に藤は心臓が口から出るのではないかと思うほど驚き、その場で飛び上がりそうになった。
「しーっ、落ち着いてくれ、藤殿。俺だ」
軽やかに舞う羽根のようであり、どこかに稚気を滲ませた声。振り返って目にした姿は、予想通りの真っ白の羽織を纏った白髪の男だ。
「鶴丸さん……驚かさないでください。心臓が飛んでいくかと」
「おっと、そっちの方が俺にとっちゃ驚きだな」
そこに立っていたのは、白一色の戦装束に身を包んだ青年、鶴丸国永だった。普段なら目立って仕方ない白の服も、病院という建物内では寧ろ保護色になっている。
彼の足元には、緋色の袴が鮮やかな少女が佇んでいた。
口のきけない無表情の少女は、鶴丸国永の主でもある更紗だ。
「もう合流できたんだね」
「ああ。俺たち刀剣男士は、主と深い深い縁で結ばれている。だからこそ、慎重に気配を探っていけば、見つけることはそんなに難しくないはずさ」
鶴丸は片手に持つ刀で軽く肩を叩きながら、何てことのない調子で藤に解説する。
「ただ、この縁を辿る手段は、顕現してから日が浅いとちょっと困難かもしれないな。俺と主は、それはもう何年もの長い付き合いがあるから、息をするように探せたもんだが」
「長いってどれくらいなの?」
更紗が十才ぐらいならば、いくら審神者になるのがとても早かったとしても、三から四年ぐらいだろうかと藤は思っていた。
しかし、藤の質問を聞いても、鶴丸は曖昧に笑うばかりだ。どうやら真面目に答えるつもりはないらしい。
「和泉守は、まだ顕現して一年も経ってないよ。乱だってようやく半年過ぎたくらいだもの。ちゃんと探してもらえるかな」
「そればっかりは分からんな。ただ、顕現したての頃だって縁がないわけじゃない。意識すれば辿れるだろう」
鶴丸の足元にいる更紗を見やると、彼女は安堵したような表情を浮かべていた。この試合において、更紗は最年少のはずだ。
こんな廃墟に一人取り残された上に、遡行軍に追いかけ回されるなどという状況は、更紗にとっても十分に恐怖だったのだろう。自分のことではないが、彼女が無事に保護してもらえていて、藤もほっとしていた。
鶴丸は更紗を片腕で抱え上げると、藤が閉めた扉にそっと耳を当てる。
「……敵、いる?」
「いや、今はいなさそうだ。今のうちに俺と主は他の仲間と合流する」
「鳴狐さんたちとかは、どうしてるの」
「遡行軍狩りだ。点数も稼がないといけないからな」
どうやら、更紗本丸の刀剣男士は主を迎えに行く鶴丸と、敵を倒す他二名という戦力の割り振り方をしたらしい。
藤よりも積み重ねてきた年数が多い審神者だからこそできる、少数精鋭の戦術だ。
「悪いが、俺は藤殿を連れて行くことはできない。俺がきみの側にずっといたら、きみの評価が下がってしまうからな」
こちらの甘い目論見を先んじて読んでいたように、鶴丸には同行を拒否されてしまった。
人脈があれど、いざという時はどうにもならないものだ。気にしていないということを示すために、藤は曖昧な微笑で応じた。
「俺はここを出て行く。鍵をかけて閉じこもるのも一つの策だが、政府の刀どもは閉まっている扉をいつまでも見逃してくれるほど、甘くはないぞ」
「忠告ありがとう。気をつける」
「ああ。早く自分の刀剣男士と合流できるように、俺も祈ってるよ」
軽い調子でひらひらと手を振り、鶴丸は鍵を開けて扉を開く。こちらが籠城したい場合を考えてくれたのだろう、藤の手順を真似るかのように、鶴丸は扉の隙間からするりと抜け出ていった。
***
和泉守兼定を筆頭とした藤の刀剣男士らも、彼らの主と同じように政府の転送装置を経由して施設内の各所に送られていた。和泉守たちの転送先は、施設内にある小部屋だ。
三人は纏めて一箇所に送られたので、はぐれる心配はなかった。しかし、肝心の主の居場所は彼らは知らない。
「どうにも、この『縁を辿る』って感覚は分かりづれえんだよなあ」
和泉守の感覚では、藤と繋がっていることこそ分かるものの、彼女が具体的にどこにいるかまでは探れない。漠然と近くにいるだろう、と認識できる程度だ。
「おい、乱。そっちはどうだ」
「うーん、上にいる……とは思うんだけど」
短刀の刀剣男士はその他の刀剣男士よりも、偵察能力に優れている個体が多いと言われている。
それは、彼らが総じて小柄で敵に見つかりにくいという点から生じた評価でもあるが、主に対する直感が鋭いという点からも生まれた言葉でもある。
付喪神として人の形をとる前は、懐に忍ばされてきたり、寝所の守りとして使われていたりという、短刀そのものの来歴が原因なのか。彼らは、主との縁を他の刀剣男士より感じやすい個体が多い。
だが、その短刀の刀剣男士である乱藤四郎でさえ、この建物内にいると分かるだけで精一杯のようだった。
「それなら、まずは足を使って主さんを探す……でいいんだよね。兼さん」
「仕方がねえな。あいつがやられたら、お終いなんだからよ」
和泉守の言葉は、聞いた限りでは「いやいや賛同している」という気持ちが明らかに滲んでいた。
堀川は、思わせぶりに和泉守に視線をやってから、
「……じゃあ、まずは上の階に」
彼らが転送されてきた先の部屋から一歩外に出て、堀川はすぐさま腰の脇差に手をやった。
彼の所作を見て、残りの二人の間にも緊張感が走る。
乱藤四郎も得物を抜き放ち、和泉守の羽織が抜刀の弾みで大きく浅葱色の弧を描いた。
部屋を出た先にあったのは、一本の通路。すぐそばに曲がり角があり、その死角から飛び出てきたのは、
「おわっ、びっくりした!! 堀川じゃん、それに和泉守も」
「加州さん?」
「なんだ。お前、加州清光か」
別の演練で加州とは顔を合わせたことがある二人は、曲がり角からの乱入者――黒く結わえた髪を猫の尾のように振り、同じく黒いコートを翻した刀剣男士の名を知っていた。
相手も和泉守たちの顔と名前だけは把握していたのか、二人の名を呼ぶ。だが、彼もまた、一拍遅れて腰に吊った打刀に手を伸ばしていた。
「あー、やめろやめろ。オレたちは、お前とやりあうつもりはねえよ」
「兼さん?」
「刀剣男士同士でぶつかりあってどうすんだ。オレたちに与えられた『状況』は、時間遡行軍が紛れ込んだ建物内で、はぐれた主を探さなきゃならねえってことだろ」
「和泉守の言う通りだ。加州、刀を引け」
加州の後ろから聞こえたのは、落ち着きのある凜ととした青年の声だ。間を置かず、声の主が姿を見せる。
淡い藤色の髪に黄金色の鎧を纏う姿は、この白い建物の中ではかなり浮いていた。だが、見た目のちぐはぐさとは裏腹に、彼の挙措に隙はない。
少なくとも顕現して日の浅い自分たちよりは、刀剣男士として顕現した時間は長いだろうとすぐに分かる。
「でも、蜂須賀。こいつら、主を泣かせた本丸の刀だよ」
「泣かされたわけじゃないと、主も言っていただろう」
乱は待合室で加州の主を見ていたので、彼らの主が嘗て本丸の研修にやってきた少女だとは知っている。
彼女は以前の訪問時に、乱たちの主――藤と一対一で話をしていた。その仔細までは、流石に聞くのは憚られて秘密のままだ。
ただ、見送りの様子を見ている限り、彼女が泣かされた様子などはまるでなく、寧ろ少しすっきりしているようにも見えた。恐らく、泣かせたというのは向こうの誤解なのだろう。
「分かったよ。そんで、あんたたち、主はどこにいんのさ」
「……捜索中だけど」
「何だ。まだ見つけてないんだ」
加州の返答に、乱はむっとして眉に力を込める。
普段は可愛く綺麗に、と振る舞っている彼も、睨み付ければ十分に凄みはある。乱藤四郎は刀剣男士であって、ただの可愛らしい子供ではない。
「はっはーん。さては、主との縁がちゃんと繋がってないから、探すのに手間取ってるんじゃないの?」
「そっちだって、主と一緒にいないよね? それこそ、縁が繋がってないんじゃないの?」
「俺たちは、これから主と仲良くなっていく所だからいいの」
何気ない調子で返しているものの、加州の瞳に力がこもっているのは、彼らの本丸と関係が薄い三人にも分かった。
痛いところを突かれたと思ったのだろう。
「……主は、二度と泣かせない。主は俺が守るって決めたんだから」
皆への発言というよりは、自分への決意を表明するためと思しき言葉が、加州の口から漏れる。
「おう、良い覚悟してんじゃねえか」
和泉守がにっと笑うと、加州も彼によく似た狼の如き獰猛な笑みで応じた。
「とーぜん。そっちはどうなのさ」
「聞くまでもねーよ。あいつをとっとと見つけて、遡行軍どもを刈り尽くす。もたもたしてると、取る首がなくなるぞ?」
「遠慮しなくていいから、ゆっくり探してもいいよ。その前に、ぜーんぶ俺たちが倒すから」
加州と和泉守が火花を飛ばしている傍ら、蜂須賀が小柄な少年の刀剣男士と共に、乱と堀川に近寄ってきた。
少年の方は、乱の戦装束によく似た紺色の制服を着ている。桜色のふわふわした綿毛のような髪が、紺の制帽によってくしゃりと抑えられていた。
「えっと……ボクたち、そっちの主を泣かせたりしてないからね?」
誤解があってはいけないと、念のために乱は今一度、潔白を表明する。
「分かっているよ。加州の方が勘違いしているんだ。いや、彼も本当は、承知しているのかもしれないけれどね」
蜂須賀は加州に一度視線を送ってから、ひょいと肩を竦めてみせる。その仕草は、駄々を捏ねる藤を窘める歌仙によく似ていた。彼も本丸の中では、苦労人なのかもしれない。
「そちらの主は見つかっていないようだが、縁はうまく辿れそうだろうか」
「うーん……ボクも頑張ってるんだけど、何だかぼやけているんだよね。堀川はどう?」
「僕も同じです。どこかに向かって繋がっていることは、分かるんですが」
乱と堀川が揃って難色を示すのを見て、蜂須賀はもう一歩二人へと距離を詰める。
「縁を辿るということは、そこまで難しくはない。上手く見つけられないのは、きっと主のことをはっきりと思い描けてないからだと、俺は思っている」
「えーっ? ボクはたくさん、あるじさんのことを考えてるよ」
「たくさんじゃなくていい。たった一つだけでいいから、それを強く強く頭の中で繰り返すと見つけやすいんだ。これは、経験則だが」
蜂須賀は己の胸にそっと手を添え、言葉を続ける。
「主に出会ったときでも、主とのとびきり楽しい思い出でもいい。そのたった一つの星のような思い出が、俺たち刀剣男士と主の縁を一番感じやすくしてくれる」
蜂須賀の助言を受けて、乱は胸に拳を押し当て、空色の瞳を閉じる。
思い描くのは、夏に浴衣を選びに行ったとき。
狼狽える主を言い負かし、似合わないからと言いつつも着たそうにしていた浴衣を着せることに成功した。
あの瞬間、乱は自分と主の間にできていた溝を跳び越えられたと確信できた。
何度も何度も、主の照れた顔を、笑顔を、心の中で繰り返す。
――瞬間。
ピン、と。
自分から主へと、一本の明瞭な線が見えた気がした。
「いた」
乱の短い言葉に、今まで加州と火花を散らしていた和泉守がすぐさま振り返る。
「見つかったか。どこだ」
「あっち。上の階。同じ階まで行けば、もっと詳しく分かると思う」
「なら、急ぐぞ。加州、さっきの続きは試合の後でな!!」
捨て台詞だけを残して、和泉守は浅葱色と深紅の風になって階段へと向かう。すぐさま堀川が追従し、乱が持ち前の脚力を活かして走り出す。
だが、駆け出した三人は次の廊下を曲がった先で足を止めざるを得なくなった。
廊下を塞ぐように立つ、黒の巨影。
微かにノイズの走った時間遡行軍の残像が、二つ分。
一つは蜘蛛に似た形状で、一つはぼろ傘を被った大男だ。
本物の時間遡行軍ではないのは、不規則に明滅するノイズからも明白だ。恐らくは、見た目だけを偽装する術式によって、姿を偽っているのだろう。
「ちっ、めんどくせえときに来やがったな」
「どうするの、兼さん」
「決まってる。さっさと倒して、あいつを迎えに行くぞ!」
既に抜刀していた己の本体たる刀を突きつけ、和泉守は咆哮した。
***
部屋に籠城するか、それとも廊下を彷徨って敵の目をかいくぐるか。藤は暫し悩んで、後者を選んだ。
時間遡行軍役の刀剣男士にとって、病室の扉の鍵など、あってないようなものだ。閉じこもっていたとき、離れの扉の鍵が和泉守によってあっさり壊されたことをよく覚えている。
この狭い病室で、時間遡行軍に襲われたらひとたまりもない。まさか、窓を伝って逃げるわけにもいかないだろう。
そうなったら、完全に詰みだとは、いくら戦の経験がない藤にも分かる。
「誰もいませんように……」
そろそろと病室の引き戸を開き、藤は外に滑り出る。
幸い、廊下には今の所、人影は見えない。
「そういえば、時間遡行軍の他に、歴史修正主義者の役の人とか民間人の役の人もいるんだっけ……。そのうち出会うんだろうな」
自分と同じ控え室にいたのは審神者だとは知っているが、それ以外の審神者が別の部屋で待機していたかについては、結局教えられていない。
ひょっとしたらいるのかもしれないし、いないのかもしれない。
民間人もいれば、裏切り者に扮した人もいる。彼らがどんな見た目をしているか、などは当然知らされていない。
最低限のルールの外側に位置する不確定要素については、演練の説明をしていた人間は敢えてぼかして伝えていた。
それは、これが実地を想定した訓練だからだろう。
実際、敵が自ら『敵です』と分かる符牒をつけてくれていることなんてあり得ない。
「人を疑うのって、あまり好きじゃないんだけどな」
鶴丸との会話を経て、少し気が緩んでいたのだろう。或いは、考え事をしていたせいか。
今まで慎重に確かめていた曲がり角を曲がる際の確認を、うっかり怠ってしまった。
そして、そのツケはすぐに返ってくる。
「――――ぃっ!?」
思わず悲鳴をあげそうになり、咄嗟に己の口を塞いで声を遮断する。
距離にして数メートル先に立つ、巨漢の武者。
まるで古い時代のホラー映画に出てきそうな、幽鬼じみた形相が遠目からでも分かる。
烏帽子に鎧の姿には、壊れたホログラムのように、微かにノイズが走っていた。あれが、政府の刀剣男士を時間遡行軍のように見せる偽装術式の効果なのだろう。
だが、その威容を前に、藤の心臓は今度こそ口から飛び出るかと思った。
幸い、敵は背を向けている。背に目がついていないのなら、こちらに気付くはずもない。
そろりと、一歩。
続けて、慎重にもう一歩。
じりじりと後ずさりしていき、曲がり角を曲がり終えた瞬間。
きゅっ、と甲高い音が響く。
リノリウムの床を、己の靴が滑った音だ。
それは聞きようによっては、よくある家鳴りや物音にとも思えるが、そのまま聞き逃してくれると楽観視できるほど、藤も暢気ではない。
(まずい、まずいまずいまずい!!)
すぐさま、足音をできる限り殺して、近くの病室に転がり込む。しかし、この部屋は既に扉が取り外されており、籠城は到底できそうにない。
ならば、せめて最も見つけづらい所に逃げ込もうと周囲を見渡し、藤は置きっぱなしになっている寝台と布団に気が付く。
(ここなら……見つけにくいかな)
時間遡行軍の姿から察するに、あれは以前資料で見かけた太刀を操る種類のもののはずだ。
それに化けているとしたら、同じく太刀の刀剣男士が高い。彼らは総じて長身だから、低い所に対する視認はしづらいだろうと、藤は一縷の希望に縋る。
寝台の下に身を屈めてそろりと潜り込み、置きっぱなしになっている布団を引っ張って、それとなく自然な形に見えるように半分ほど寝台から垂らす。あたかも、適当に放り出した布団がまだ残っているかのように。
どうにか薄い布団を緞帳代わりにして隠れられた――と思った刹那、カツカツという靴音が藤の潜む部屋の前で止まった。
(そりゃ、気が付くよねえ……)
あれだけ派手に廊下に音を響かせれば、自分が敵ならまず様子を見に行く。そこに何がいるかどうか、なんてことは二の次だ。
案の定、靴音の主は部屋の中に入ってくる。あの鎧姿の見た目なら、本来ならガシャガシャと鎧同士が擦れ合う音が聞こえそうなものだが、耳に届いたのは靴音だけだ。あくまで、見た目を欺瞞しているだけらしい。
(気が付きませんように、素通りしますように)
見つかったところで、殺されるわけではないと分かっているのだが、今この瞬間に限っては本当に出会ったら死ぬ――と思うあまり、心臓が異常な高鳴りを体中に響かせていた。
自分の鼓動が外まで漏れて、敵に聞かれているのではないか、とあり得ない想像に一瞬囚われるほどの緊張に、思わず体が震える。
指先が冷たくなってくるほどの恐怖を感じているはずなのに、頭は妙に熱っぽく、思考は無意味に空転し続けていた。
いっそのこと、飛び出して逃げ出したい衝動に駆られるが、今飛び出したら、せっかく隠れたのが無駄になる。
寝台の隙間からは、辛うじて床上数センチの様子が確認できる。敵は、今まさに藤の目の前を通過して、窓際へと向かったようだ。
(そうだ。僕はここにいないから、そのままどっかに行って!)
藤の期待に応じるように戻ってきた敵の足は、藤の目の前を通り過ぎていく。きっと誰もいないと思って、部屋を出て行くだろうと藤が思った瞬間だった。
ざくっ、と布を切り裂く嫌な音。
同時に、彼女の眼前に銀色の刃が、切っ先が、刀身が、勢いよく現れる。
「ぅ――――っ」
思わず悲鳴をあげかけて、理性で押しとどめたものの、結局声になりきっていない音が口から漏れてしまった。
寝台のマットレス越しから、寝台の下にいる藤の眼前に突き刺さるように、太刀が突き立てられたのだと分かったのは、その後だった。
『みいつけた』
どこか楽しそうな声は、何だか聞き馴染みがある気がする。しかし、今はそんなことを考えている暇など到底ない。
『早く出てきなよ。それとも、無様に這いつくばったまま降参するのがお好みかい?』
ざらざらと雑音の混じった声。偽装術式によって変化させられた声は、不必要に藤の恐怖を煽る。
(どうしよう、どうしよう……)
多分、相手はあと数秒も待ってくれないだろう。
寝台ごと退かされ、降参を拒否すれば判定のカメラから見ている審査員の方が、自分に敗北の烙印を叩きつけるとは分かっていた。
猶予は、この隙間の時間しかない。
悪あがきを数秒したら、もしかしたら和泉守たちが来てくれるかもしれない。今の自分にとって、ほんの一秒が砂金の一粒のように価値がある。
逡巡は、思った以上に僅かだった。
深呼吸も省略して、藤は寝台から飛び出し、同時に自分が緞帳代わりに使っていた毛布を引っ掴む。
「えいっ!!」
少し重たい毛布を、大体の敵の位置を予測して大雑把に投げる。
目くらましにしかならないとしても、今はそれで十分。
ばさりと毛布が切り裂かれる音など気にせずに、視線は敵の方へとやりながら、後ずさるように入り口に向かったときだった。
「どいて」
短い声と共に、白い影が目の前をよぎる。
その声が、あまりに聞き慣れた声だったから。
その色が、あまりに見慣れた色だったから。
一瞬、藤は勘違いをした。
「……髭切?」
ふわりとたなびく、黄金色の髪。
己の前に屹立する背中は広くて、大きくて、心の中に無意識に安堵が広がる。
ありがとう、と声をかけようかと思った。
助けて、と縋ったら守ってくれるだろうか、と一瞬考えた。
けれども。
「そこの審神者。逃げるつもりなら、さっさと部屋を出て。邪魔だから」
素っ気ない言葉が、この髭切は自分の髭切ではないと、何よりも明瞭に示していた。
部屋にいる遡行軍の正面からの一撃を、難なく受け止め、彼らの間で鍔迫り合いが起きる。
本来なら、髭切は敵の攻撃を躱してもよかったはずだ。
それなのに躱さなかったのは、自分がいるせいだと藤は遅まきながら気が付いた。
(僕の髭切じゃない髭切に、迷惑をかけちゃ駄目だ)
演練の名目は審神者を守る演習であり、それはよその本丸の審神者であろうと同じだ。
本来なら、本丸を問わず審神者を保護し、時間遡行軍を協力して撃退するのが最善策だと、彼は分かっているのだろう。
このまま仕留めてしまえば――そうでなくても、巻き込んで事故を装って、藤を降参にまで追い込めば一番得だと思っていても、眼前の髭切は、そんな卑劣な手段を良しとしなかった。
だったら、自分も彼の足を引っ張るような真似はするべきではない。
「……すみません、お願いします」
言葉も早々に藤は踵を返し、部屋から飛び出る。
敵の姿がいないことを確かめてから、剣戟の残る部屋を背にして彼女は駆け出した。
胸の奥ががらんどうになったような、不可解な空虚さが何から生まれたのかは、藤には分からなかった。