本編第四部

 しんと静まりかえった、空気さえも沈黙を尊んでいるかのような白い部屋。
 部屋に並べられた長机に、奥に位置するホワイトボードという並びは、まるで何かの授業が行われているかのようだ。
 だが、今ここで開かれているのは講座ではない。演練のための、最後の説明会だ。
 藤が視線を右に軽くやれば、自分と同じ審神者と思しき男性が一人。その背後にも、参加者の審神者がいることは、部屋に入ったときに既に知っている。先頭に座った藤以外も、部屋には四人の審神者がいた。
 更に部屋の後ろには、授業参観の保護者よろしく、護衛として選んだ刀剣男士一人がそれぞれ並んでいる。自分に向けて注がれている視線の主は、連れてきた乱藤四郎のものだろう。
 スーツ姿の職員が復唱している注意事項を聞きつつ、藤はホワイトボードの文字を再び目で追う。

(参加者は五種類に分けられる。一つは審神者、一つは刀剣男士、一つは時間遡行軍)

 審神者はこの部屋の中の四人であるそうだが、別の部屋に審神者がいて、彼らも参加する可能性については既に示唆されている。
 刀剣男士については、藤以外の三人も護衛として連れてきているが、彼ら以外にどんな刀剣男士が参加するかは未知数だ。
 時間遡行軍については、以前説明があったとおり、政府が管理している刀剣男士が遡行軍の見た目を装って参陣するとのことだ。

(それに、民間人と、歴史修正主義者)

 建物の内部には、審神者以外にも人間の参加者がいる。
 民間人役の人間は、不運にも襲撃に巻き込まれたという体裁なのだそうだ。
 歴史修正主義者はその逆で、襲撃に巻き込まれた人間のように見えて、実は襲撃を手引きした裏切り者という役周りだ。
 彼らは点数には含まれないが、どのように扱うかを政府の人間が見ているのは確かだろう。

「――以上。何か他に質問はありますか」

 職員の問いかけに、質問を投げかける者はいない。
 十分な時間を待ってから、彼は簡単な注意事項を最後に述べて「準備ができたら連絡する」という言葉だけを残して、去って行った。

「あるじさん、説明終わった?」

 説明役の職員がいなくなった瞬間、後ろに控えていた刀剣男士たちがそれぞれの主の元へとやってくる。藤の所にも、乱がいそいそと駆け寄ってきた。
 さながら教師が立ち去った後の教室のように、周囲に微かなざわめきが生まれた。

「ねえねえ、貰った資料、もう一度ボクにも見せてくれる? 立ち入り禁止区域の確認がしたいんだ」
「いいよ。この建物、病院に使われてたんだって。乱って病院行ったこと、ないよね」
「うん、一度もないよ。だから、ちょっと楽しみでもあるかな」

 軽く笑って、乱は藤の緊張をほぐしていく。
 藤が表示した画面には、事前に貰っていた内装の写真がいくつか添付されていた。
 具体的な見取り図については、図面が分からない状態での戦闘を想定して、今回は共有してもらえなかった。
 内装は、以前例として平岡に見せてもらった建物より、幾分か清潔そうではあった。それでも、白く塗られた内壁が薄らと灰色がかっている様子から、建物が過ごしてきた年月が短くないことが伝わってくる。

「それで、地下には行っちゃいけないって話だったよね」
「うん。老朽化が少し進んでいる所だから、大暴れされて万が一があっても困るから入らないでくれってことみたい」
「ボクたち、別に怪獣じゃないんだけどなー」

 こんなに可愛いのに、と乱は頬を膨らませる。ぷくぅと膨れた頬は、あたかも桜餅のようだ。とても、彼が時間遡行軍を仕留められる凄腕の実力者には見えない。
 もっとも、それを言うなら、今日参加するどの刀剣男士に対しても、同じことは言えるだろう。
 試合前に不必要な緊張は不要と、藤が幾らか気を緩めて乱と話していると、

「まさか、あんたが競争相手になるなんてね」

 藤の背後から、少し呆れたような調子で声がかけられる。振り返った先に誰がいるかは、部屋に入った時点で藤も知っていた。
 体を捻り、振り向いた先。そこには、今回同じチームとなった競争相手でもある審神者が座っている。
 柘榴色の髪に、澄んだ海色の瞳を持つ少女の名は、

「菊理さん。久しぶり、元気そうで何よりだよ」
「一ヶ月ぶりかしらね。腕試しに参加したと思ったら、あんたの暢気そうな顔を見ることになって、気が抜けちゃったわ」

 嫌味にも聞こえる言葉ではあったが、彼女の声には言葉そのものと異なり、嫌悪は見られない。
 真っ赤な着物に真っ黒の袴を穿いた、年の頃十代半ばの彼女の名は菊理。一ヶ月ほど前、藤の本丸にやってきて、研修を受けて帰った新人の審神者だ。
 鍛刀が上手くできず、半年間の赴任期間を経てもなお、彼女はその時点で二振りしか刀剣男士を励起させられていなかった。だから、先輩から改めて鍛刀の方法を教えてもらおうと藤の元にやってきて、彼女から手ほどきを受けたのだ。

「菊理さん、そんなに動きにくい格好で大丈夫なの?」
「あのね。これは『模擬戦』なのよ。確かに、運動用の服の方が動きやすいのは事実だけど、だからって私たちは普段から運動着で生活してるわけじゃないでしょ。遡行軍は、私たちが動きやすい格好をしてくるときだけ、襲ってくれるほど親切じゃないの」
「それはまあ、そうか。勝負の場でもあるけれど、これは突然の襲撃に対応するための戦いでもあるんだよね」

 事前に説明にもあったように、勝ち負けこそあれど、この戦闘は室内で敵襲を受けた場合を想定している。
 そんなとき、自分たちがどんな格好をしているかと問われれば、それは勿論平時の格好だ。
 出場の際の説明にも、普段着で参加するようにと注釈があったが、あれはそういう意味だったのかと、藤も遅まきながら理解する。

「それで、どうしてわざわざ僕に声をかけてきてくれたの?」
「用もなきゃ、あんたとは会話もできないわけ?」
「いや、そうじゃないけど。僕のこと、好きじゃないって言ってたから」

 以前に研修に来たとき、菊理は藤に対して『あんたのことは好きじゃない』と口にしていた。
 まだ年若い彼女にとって、その言葉には複雑な意味合いが込められているとは承知していたが、仔細を理解する前に藤は彼女と別れている。
 そして、今日は彼女の方から声をかけてきている。
 いったいどんな心境の変化があったのだろうと、藤は目を細めて彼女の返事を待っていた。

「好きじゃないからって、話さない理由にはならないわよ。一応……研修の成果も伝えないとって思ってたし」
「えっ、誰か鍛刀できたの?」

 藤が首を巡らせてみるが、菊理の護衛役として立っているのは、以前にも出会った加州清光だけだ。

「巴形薙刀っていう、ちょっと変わったやつ。今日は連れてきてないわよ。薙刀は、室内戦に向いてないもの」
「薙刀って、確かまだ、あまり顕現が確認されていないんだよね? 菊理さん、凄い!」

 純粋に賞賛の意を込めて歓声をあげ、藤は菊理の手をとる。興奮した弾みでとった行動だったが、これは大いに菊理を驚かせたようで、彼女は猫のように目をまんまるに見開いた。

「あるじさんだって、すぐに髭切さんや次郎さんを顕現してるんだから、十分凄いんだよ?」

 乱が横から口を挟み、ちょんちょんと藤の頬を細い指でつつく。彼は、自分の主を立てることにも余念がない。

「僕の場合は、何となくで顕現できただけだもの。薙刀の刀剣男士は、まだ演練以外で見たことがないんだ。今度、本丸まで遊びに行っても」
「はいはい、そこまでー。あんたも、うちの主にあまり馴れ馴れしくしないでくれる?」

 不意に、二人の審神者の間に爪紅を塗った手が、すっと割って入る。
 思春期の高校生の如き、僅かな気だるさを残しつつも、隙を見せない声音。その声を耳にした刹那、藤の隣に控えていた乱の目が、すぅっと細められる。
 二人の間に差し込まれた手の主は、菊理の刀である加州清光だ。主の着物と同じ真っ赤な瞳に、淡い栗色がほんのり混じった髪の毛が揺れる。
 深紅の襟巻きに黒の装束は主とお揃いなのか、それとも主である菊理が彼に合わせたのだろうか。

「言っておくけど、俺たちとあんたは、敵同士だからね。馴れ合うのはここだけだから」

 藤の本丸には加州清光はいないが、彼女の先輩である友人が加州をよく伴っていたので、彼の人となりは知っているつもりだった。
 加州清光といえば、どこかお調子者のような振る舞いをしていて、それでいて面倒見のいい好青年だと思い込んでいた。だが、こちらを睨む紅玉の瞳に、友好の気配は微塵もない。

「もちろん、ボクもあるじさんも、それぐらい分かってるよ。そっちこそ、あとで吠え面かかないでよ?」
「そっくりそのまま、同じ言葉をお返ししてやるよ」

 ばちばちと火花を散らしあう、加州と乱。刀剣男士同士が視線だけで戦端を開いている傍ら、藤は菊理に小声で問う。

「……僕、加州を怒らせるようなことしたっけ」

 こちらが彼の無礼をしてしまったのなら、先に謝っておいた方がいい。そう思っての質問だったが、菊理は唇を尖らせて、何故か明後日の方向を向いてしまった。

「菊理さん?」
「何でもない。ちょっと、加州が勘違いしてるだけだよ。あいつ、大袈裟だから」
「そうなの? それなら、いいけど」

 加州と乱は、未だに無言で相手を威嚇し合っている。なまじっか声を出さない分、漂う殺気の濃密さだけが際立っていた。

「そういえば、あんた。他の参加者のことは知ってるの?」

 菊理に尋ねられて、藤はぱちぱちと数度瞬きをした。この控え室の中、藤と菊理が話している以外で審神者同士で会話をしている者はいない。
 その理由を、藤はすぐに答えられる。
 自分の右側に座っている男性の審神者については、藤も完全に初対面だ。だが、藤から見て対角線上の席にちんまりと座っている子供の名を彼女は知っている。

「あっちにいるのは、更紗って名前の子だよ。僕が審神者になった後、最初にできた友達なんだ」


 ***

 表情も動かさず、声も発さず、まるで人形のように鎮座している、巫女装束姿の小さな子供。演練の説明の最中も、彼女は瞬き以外の動作を殆どしていなかった。
 もし、彼女がこの部屋に刀剣男士と共に入ってくる姿を見なければ、人によっては彼女が人形だと勘違いしていたかもしれない。
 そんな少女の側に控える刀剣男士は、口の半分を狐面の下半分のような造形の面で覆った青年だ。声を発する際に支障がないよう、口元は隠されていないが、その唇は固く閉ざされている。
 彼の肩には狐が一匹載っているが、こちらは逆に何か言いたげに二人を見つめているものの、結局口を開け閉めするに留めていた。
 説明が終わり、少女の刀剣男士が彼女の元に近寄っても、二人の間に会話は生まれない。その理由は、単にこの刀剣男士――鳴狐が極端な無口だったからでもあるが、最たる原因は別にある。
 そんな、厳格とも言える沈黙を破ったのは、

「更紗ちゃん、久しぶり。元気だった?」

 朗らかに声をかけるのは、朝焼け色の髪の女性。先程まで別の審神者と話していた藤が、そこにいた。
 彼女の声を聞いた瞬間、人形だった少女の瞳に光が灯る。
 少女は巫女装束の袂から、すぐさまメモ帳を取り出し、同じく手にとった鉛筆でがりがりと字を書いていく。
 鳴狐と少女――更紗の間に、会話がなかった理由。それは、彼女が言葉を失っている者だからだ。

『げんき』

 走り書きのような文字で、更紗は藤へと返事する。
 字を書くために僅かに生じる時間差も、藤は気にせずに待っていた。

「おお、これはこれは藤殿に乱殿! 乱殿は、先だっての出陣以来ですなあ」

 鳴狐の肩の上に載っていた狐が、話し相手を見つけたからか、嬉々として声をかけてきた。どうやら、彼は彼で沈黙に耐えかねていたらしい。

「あの時って……ああ、もう一年以上前の話になるのか。僕が、更紗ちゃんに救援をお願いしたときだね」
「うん。強かったんだよ、鳴狐さん。でも、ボクもあの頃のボクとは違うからね! 今日は、あっと驚かせてみせるんだから」

 乱の言葉を聞いて、藤は再び自分が今何に参加しようとしているのかを意識させられる。
 菊理の加州にも言われたことだが、自分は他の審神者とは敵同士なのだ。つまり、目の前にいるこの親友である子供とも、競い合わなくてはならない。

(何か、やりづらいなあ……)

 更紗は十才ぐらいの子供であり、彼女と正面からぶつかるのは、少々大人げないのではと思ってしまう。
 こちらは成人しているのに、相手はどう見ても子供で、しかも言葉を話すことすらできないのだから。

「更紗ちゃん、恐かったらちゃんと逃げるんだよ。刀剣男士たちに、すぐに迎えに来てもらうんだよ」
「藤殿は、お優しいですなあ。無論、我ら鳴狐を筆頭として、我々は主の元に疾く馳せ参じます故、心配は無用ですよ」
「大丈夫」

 狐が太鼓判を押し、鳴狐本人も言葉少なに保障する。この様子なら、彼女のことを何があっても守ってくれるだろう。
 更紗は、わけあって表情を変えられない子供ではあるが、本人が何を思っているかは目を見れば分かる。少女の瞳は、得意げな輝きが宿っていた。

「ボクだって、すぐあるじさんを見つけるもん! 時間遡行軍に、あるじさんを傷つけさせるような真似はさせないから!」
『そこーぐん だけ じゃない』

 息巻く乱に、更紗は無言の抗議をメモに記す。

「遡行軍だけじゃないって? 今回、僕たちの敵であり点数になる敵は遡行軍でしょ? あとは、歴史修正主義者役の人が配備されるって、さっき話してはいたけど」

 更紗は藤の質問に、ゆっくりと首を横に振る。次いで、鳴狐の肩にいる狐が説明役を買って出た。

「毎年恒例ではありますが、遡行軍を倒して得点を稼ぐために、一番の敵は他の本丸の刀剣男士でございます。なので、審神者を先んじて仕留める者が、後を絶たないのですよ」
「えっ、そんなことがあるの!?」
「大将を先に落とすのは、刀剣男士としてどうなのでしょうと思うのですが、通例になりつつあるのが現状です」

 狐の説明に、藤はぎょっとする。
 得点を競い合う相手として、余所の本丸の刀剣男士が同じ建物内にいるとは承知していたが、自分が襲われるなどとは微塵も想定していなかった。
 そもそも、刀剣男士が、ただ得点を稼ぐため『だけ』という理由で、人を襲うなどあり得ないと思い込んですらいた。
 しかし、審神者としては先輩でもある更紗は、頬を膨らませて小さく頷く。彼女も、急襲の憂き目に晒されたことがあるらしい。

「演練の勝利は、審神者としての評価に繋がります。なので、多少無理を通しても勝ちを狙うのでしたら、弱い審神者を倒した方が早いということですなあ」
「えー、でもそれって勝ったって言わないじゃん。本当は、遡行軍を撃退するのがボクたちの任務なのに、人間を仕留めに行ったら勝てるのは当たり前でしょ?」

 乱が猛然と抗議するが、藤は狐が言う説明も効率的な戦術としては有効だと理解していた。
 単純に勝ちたいのなら、遡行軍を一つ一つ倒すより先に、競争相手である審神者を退場に追い込んだ方がいい。
 教えられたルールでは、建物内に配備された式神や監視カメラが戦況を逐一観測し、降参せねば死ぬという状態に追い詰められていると判断された場合、強制的に敗退扱いにされるらしい。
 そして、降参を強いる相手は、何も時間遡行軍に限らないというわけだ。

「流石に怪我はさせない……よね?」
「そればかりは、審神者によりますからな。主殿は、以前蹴飛ばされかけたことがありまして、その時の鶴丸殿の形相といったら。あれこそ、まさに鬼だったと聞いてますよ」

 狐の言葉に、藤の口角が引き攣る。幼い子供に対して、そのような粗暴な対応をとる者がいるのなら、大人の藤などいったいどんな扱いを受けるか分かったものではない。
 今、この待合室にいるのが、これから敵となる審神者の面々であるとは知っている。
 更紗は、刀剣男士同士の戦いに手心を加えてはくれないだろうが、審神者本人を傷つけるような指示を出すような子ではないと、藤は信じている。
 無論、藤とて口も利けない子供を追い詰めてまで、勝ちを得たいとは思わない。
 問題は、名前すら知らないもう一人の男性の審神者と、菊理だ。
 菊理は、交流をするようになってから、まだ日の浅い知り合いであるが、彼女が良くも悪くも向上心に燃えている人だとは承知している。
 実家が名門である彼女は、家の期待を背負って審神者の任に就いている。故に、民間人から審神者の任に就いた藤よりも、見据えている視野も、肩に負った荷物も違う。

(勝ちをとるために、審神者を攻めるのが上策と考えれば……やるのかもしれない)

 手元の端末を食い入るように見つめている彼女の横顔は、真剣そのものだ。藤よりも年下であるというのに、その眼差しはよく研がれた刀に似ている。
 そうはいっても、菊理は近頃まで鍛刀が成功できず、人数が揃わないせいで出陣もろくに行けていなかったとは聞いている。練度においては、自分の刀の方が上だとは思えた。

(後は……)

 ちらりと、藤が視線を動かした先。
 彼女の隣に座っていた、鉄紺色の髪を短く整え、薄手のシャツにズボンという簡素な出で立ちの青年。何か考えているのか、軽く伏せられた目からはその感情は読み取れない。
 彼については、名前すら知らない。だが、彼の隣に控えている刀剣男士が誰かはすぐ分かった。

「……髭切」

 思わず、声が漏れてしまう。
 柔らかそうな秋の稲穂を思わせる金の髪に、琥珀色の澄んだ瞳。今まで見たこともない、ふわふわとした毛のついた外套状のマントが、緩やかに肩にかけられている。
 引き締まった体を包むのは、袖からズボンまで全身白に染められた戦装束だ。藤の髭切とは異なる衣装であったために、彼が髭切であると気が付くのに一拍遅れてしまった。
 刀剣男士の中でも、顕現直後から纏っていた戦装束と違う装束は、修業に出て力を得た刀剣男士だけが身につけられる装束だと聞いている。
 つまり、あの髭切は修業に行ってきた髭切なのだろう。

「うわあ、髭切さんが相手かあ。違う本丸だと分かってても、やりづらいなあ」

 乱も髭切に気が付いたのか、小声で愚痴めいた言葉をこぼす。

「どうする、あるじさん。髭切さんが、あるじさんのところに来たら」

 乱は冗談めかした調子で尋ねたが、藤には答えられなかった。
 自分の本丸ではない髭切が、自分を仕留めに襲ってくる。その姿を想像するだけで、頭の中がざわつき、胸の奥が不安の黒雲で濁っていく。
 自分の本丸にいる他の刀剣男士であっても、きっと似たような気持ちにはなるだろう。
 たとえば、歌仙に命をとられそうになる――たとえフリであっても、そんな状況に追い込まれると考えると、別の本丸の歌仙兼定と分かっていても、体の芯が震える。
 けれども、髭切はそれだけではない気がする。
 それが、具体的に何なのかは言えなかったが。

「そのときは、乱が助けてくれるんでしょ?」

 それに、自分には自分の刀たちがついてきてくれる。乱に自信を込めた瞳で問うと、乱は「当たり前でしょ」と笑ってみせた。

「あるじさんが楽しいことを見つけられるように、ボクは頑張るって決めてるんだ。だから、この演練も、最後には笑えるように頑張るよ」

 乱のひまわりのような笑顔は、抜けるような青空がよく似合う涼やかさに満ちている。
 不自然に跳ねた心臓を落ち着かせようと、深呼吸を一つ。
 吸って、吐いて、ゆっくりと息を整えた刹那、待合室の扉が開いた。

 ***

「思ったよりも狭いくせに、やたら階層だけはありそうな場所だな」

 演練の管理をしている職員が、彼らに見せてくれた内装の写真を見て、和泉守はぼやく。
 職員に地図は貰えないかと尋ねたが、地図がない状態で審神者を見つけるのも、訓練のうちだからと断られてしまった。代わりに、各階層の廊下に案内図は設置しているらしい。
 今、彼らの側に主はいない。彼らが案内されたのは、主とは別の控え室だった。
 刀剣男士たちを見て、審神者が作戦を変更することができないよう、審神者の側には最低限の護衛として刀剣男士一名だけが同伴を許されている。
 和泉守と堀川は、十人も入ったらぎゅうぎゅうになるような、少し狭い部屋に通されて、試合開始の案内を待っている。
 彼らの周りには他の本丸の刀剣男士も見受けられるが、これから刃をぶつけ合う者であるという考えがあるからか、本丸の垣根を跨いで団欒をしている者は殆どいなかった。

「多分、この会場は病院だと思うよ。現代の病院は、こういう施設が多いみたいだから」

 和泉守の呟きに、堀川がすかさず堀川が補足する。
 いくつか提示された室内の写真には、受付と思しき長椅子が並ぶ空間や、入院患者が過ごす寝台が多数置かれた部屋もあった。

「部屋が多いと、死角が増えるね。主さんを見つけるのが大変そうだなあ」
「なあ、国広」

 当初の作戦では、なるべく早く主を見つけることだったはずだ――と堀川が思っていたときだった。

「点数を稼ぐには、時間遡行軍を倒す必要があるんだろ。そんなら、あいつは放ってさっさと敵を倒した方がいいとは思わねえか」

 その発言に、堀川はぎょっとする。
 彼の言うとおり、どれだけ主を守っていたとしても、遡行軍を倒さなければ点数には繋がらない。最善策は遡行軍を倒しつつ主を保護することだろうが、都合よく主が無事のままでいてくれるとも限らない。
 だから、主を優先的に保護すると、本丸内で協議の結果、決めたはずだというのに。
 和泉守のあっけらかんとした物言いに、堀川はすぐさま首を横に振った。

「だ、だめだよ。主さんがとられたら、僕らはその時点で負けなんだよ」
「おう、国広。お前、主と勝利、どっちが大事なんだ?」

 堀川を見据える、濁りの一切無い翡翠色の瞳。
 心の中にまだ残っている、彼の微かな迷いを見抜いているかのような視線に、堀川は思わず息を飲む。
 自分は、主に仕えている。けれども、それはただ、己を顕現させたのが彼女だから、という理由だけではないのかと、堀川はずっと自身に問答していた。
 中途半端な忠誠心に疑念を抱き、しかしどうすることもできず、結局和泉守の側にいて彼に追従していることで、彼の答えを自らの答えとしていた。
 だが、今、堀川は和泉守に問われている。

(兼さんは……勝つために主の優先度を下げようとしている。じゃあ、僕は)

 主を守る刀としては、否定するべきなのだろう。
 しかし、和泉守は勝利を欲している。和泉守の意見に寄り添っていたい「堀川国広」は、彼の意見に賛同すればいいと囁いている。
 どっちが正しいか。判断に迷い、唇の震えを抑えて吐き出した言葉は、

「どっちも、大事だよ。勝つことも、主さんのことも」

 浮かべた笑みが不自然になっていないといいが、と堀川は願う。
 明らかに、自分の言葉は誤魔化しであると、他の誰より堀川自身が知っていた。

「……国広」

 和泉守が、何か言おうとしたときだった。

「よっ、お二人さんが参加者か。珍しいこともあるもんだな」

 不意に、視界に真っ白の羽織が飛び込む。現れたのは、頭の天辺からつまさきまで、真っ白に染まった装束で身を固めた刀剣男士だ。
 とろりと溶けた月を思わせる蜂蜜色の瞳には、軽快な口ぶりに似合わない老獪さが滲み出ていた。

「えっと、鶴丸さん……ですよね。たしか、更紗さんの本丸の」

 本丸ぐるみで仲良くしているため、堀川も鶴丸の姿は何度か目にしている。
 同じ個体であっても、漂う雰囲気の違いでどこの本丸かは分かるものだ。鶴丸の纏う気配は、間違いなく更紗という名の審神者の鶴丸と同一だ。

「ああ。主に『鶴丸がいないと困る』って頼まれているからな。全く、人気者は辛いもんだ」

 そんなことを言いながらも、鶴丸は楽しげに目を細める。自分が頼りにされているのが嬉しくて仕方ない、という顔だ。

「それで、和泉守」

 くるりとその場で半回転して、鶴丸は和泉守に向き直る。弾みで、白い羽織がばさりと翼のようにはためいた。

「きみは、自分の主のことがまだ嫌いなのか?」

 鶴丸は、藤の本丸に何度も顔を見せている。藤が離れに閉じこもっている間も、本丸の業務を円滑に進めるために、歌仙に助言をしにきたこともあったほどだ。
 故に、当然ながら、和泉守が藤とはあまり良好な関係ではないと、彼も知っていた。それらのぎこちない関係も踏まえて、彼は和泉守に尋ねている。

「オレは、あいつがどんな主になろうとしてるのか、見極めようとしているだけだ」

 和泉守も、最初からその問いがあると分かっていたかのように、鶴丸の質問にすらすらと答える。
 鶴丸は、興味があるのかないのかはっきりしない表情で、「そうかい」とだけ呟いた。
 和泉守と鶴丸のやり取りを目の当たりにして、二人に気付かれないように堀川は表情を曇らせる。

「きみは潔癖だな。長いものに巻かれてしまうのも、悪くはないもんだぞ?」
「オレは、流されるままに自分の主人を決めるってことは、したくねえだけだ。そんな適当な選び方は、たとえあいつが何者だったとしても……何か、違うだろ」

 和泉守はきっぱりと「主を見極める」ために、今こうして主とはつかず離れずの距離を作っていると言っているのに。
 果たして自分は何をしているのかと、堀川は再び自問する。答えは、見つかりそうにもない。
 和泉守に、この悩みを打ち明けようかと堀川は顔を上げ、しかし言葉は迷子になったまま、音として出てくることはなかった。
 まごまごしている間にも、時は進んでいく。
 ガチャリと、部屋の扉が開く音。その向こうには、スーツ姿の職員が一人。

「刀剣男士の皆様。お待たせしました。これより、会場までご案内します」

 開戦の火蓋が斬って落とされる音に、その場のもののふたちは、一瞬にして表情を引き締めた。
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