本編第四部
主の客人が自分を呼んでいる。そんな風に言われて、最初、膝丸は首を捻ってみせた。
何かの間違いではないか、と思ったが、本丸の初期刀である歌仙が間違いをするわけもない。
早く行くようにとせっつかれ、指定された応接室に向かい、襖を開く。
「……貴様は」
思わず、警戒心を僅かに滲ませて話しかけた先にいるのは、以前夏祭りでも目にした白金色の髪の刀剣男士。血のように赤い瞳が、無言で膝丸を見つめている。或いは、睨んでいるのだろうか。
「膝丸、知り合いなの?」
「ああ。夏祭りの折、あの娘に……イチに再会したと言っただろう。あの折に、彼女の側にいた刀剣男士だ。親戚が護衛につけたとかどうとか、と話していた」
「夏祭りについては、私が彼に頼んだんだよ。彼女を一人で放っておくわけにはいかないからね」
好々爺然とした声に、今度は刀剣男士の隣に座る老爺へと膝丸は視線をやる。
彼にとっては初めて見る老人だ。暢気そうに茶を啜る姿を見る限り害はなさそうだが、どこか隙がない雰囲気も漂わせている。彼に視線で着席を促され、膝丸は主の隣に腰を下ろした。
「主、この者は」
「政府から来た人の知り合いの方だそうだよ。僕と、それと膝丸に話があるんだって」
「俺と主に?」
膝丸は政府の人間はおろか、外部の人間と深く関わったためしがない。
政府の役人が来た際も、兄の側に控えているだけの場合が多く、結果的に彼がまともに交流したのは、兄と喧嘩中のときに万屋で出会ったイチと名乗る少女だけだ。
そんな膝丸の思考を読み取ったのではないのだろうが、湯呑みをとんと置いて老爺は告げる。
「私が今日話したいと思ったことは、君たちがイチと呼んでいる女の子についてだ」
「さっき自己紹介で一ノ瀬……って言ってましたよね。そういえば、イチさんも最初そう名乗ってました」
「ああ。彼女は私の親戚でね。正確には、私の兄の孫にあたる」
膝丸は純粋な驚きで目を見開いていたが、藤は別の理由で何度も目を瞬かせていた。
先だって、この老人が話した情報が頭に加わり、そして今告げられた内容がそこに混ざっていったせいで、家系図の複雑さに混乱してしまったからだ。
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか。それって、もしかして」
藤と膝丸の友人であるイチと、目の前の老人は血縁的な関係がある。イチの祖父の弟なら、大叔父と表せる筈だ。
そして、以前歌仙を処分しようとした、件の冷徹なこんのすけの操り主とも、彼は親戚であると話していた。
「……つまり、イチさんと、あのこんのすけの人って、親戚なんですか?」
「ああ。彼は、彼女の戸籍上の兄にあたる。実際は、もう少し複雑ではあるのだけれどね」
「えっと、それなら菊理さんも?」
先日、藤の本丸に研修生としてやってきた、少し怒りっぽい少女の姿を思い出す。彼女はイチの姉であったはずだ。
「そういえば、君が菊理の指導をしていたと聞いたよ。彼女は彼にとって従姉妹にあたる」
おや、と藤が思うより先に、老爺は言葉を続けた。
「あの子も、何かと大変な時期に審神者になってしまった子だからね。良い先達との交流で、少しは肩の力が抜ければと思っているんだが」
「僕は大したことはしてないですよ。彼女を助けたい者たちは、本丸にいるんじゃないかって話しただけです」
何やら名家の出らしい彼女は、家の方針として刀剣男士を『物』として蔑み、審神者としてそれを制御するようにという期待を一身に背負わされているようだった。
そんな理由もあって、年若い彼女は誰かに頼る方法を見失い、やり場のない八つ当たりを藤にぶつけていた。
藤は菊理のように誰かの期待に応じる必要もなく、それが菊理にとっては羨ましくもあり、同時に許せない部分でもあったらしい。
研修の折に話はしたが、それで解決できたのだろうか──と、今でも藤は時々彼女のことを思い出している。
「あの、イチさんが僕の担当をしていた方の妹さんなら、菊理さんも妹さんになるんじゃないですか」
「君たちがイチと呼んでいるあの子は、小さい時に私の家の者が養子として引き取ったのだよ。血のつながりはあるが、彼女たちは今離れて暮らしている。君の担当をしていた者は、彼女の義理の兄にあたるわけだね」
気になっていたことを尋ねると、予想外の回答が老人から返ってきた。
兄弟が別々に暮らしていることに思う所があるのか、藤の隣に座る膝丸の眉が僅かにつり上がる。
「それで、我らの本丸の初期刀を害した男の縁者であり、あの娘の関係者でもある者が一体なんの用だ」
膝丸の声に棘を感じ、藤は慎重にそちらに視線をやる。
あからさまな敵愾心こそ抱いていないものの、彼が老爺に向ける視線は厳しい。まるで、腹の底を探ろうとしているかのようだ。
「話というのは、他でもない。あの子について、お願いがあるんだ」
「彼女に関わるな、と言いたいのか?」
膝丸はちらりと鬼丸を見やってから、再び老爺へと視線を戻す。
怒りというよりかは、事実確認に近いものだったが、その裏に潜む感情は彼にしては珍しく、少し感情的ではあった。
「膝丸は、この人の言いたいことを知ってるの?」
「さてな。だが、そこの刀剣男士は夏祭りの折、これ以上彼女に関わるなと忠告してきた。それに、初めて会ったときに彼女を迎えに来た人間がいただろう。あの無作法者は、明らかに俺を蔑んでいた」
膝丸から伝えられた新たな情報に、藤は思わず小さく息を呑んだ。
確かに、何やら複雑そうな家庭環境だとは思っていた。実際、迎えの親戚とやらが、藤がイチと選んだ姉への贈り物を壊そうとした姿も目撃している。
だが、いくら家の事情が絡んでいるとはいえ、研修生だった菊理の妹とも聞いていたから、また会えるだろうと何となく根拠のない期待もしていた。
しかし、どうやらそう簡単に、ことは進んでくれなさそうだ。
「彼女をそちらがどんな環境に留め置こうか、刀剣男士の立場としては、俺が口を挟むべきではないと承知している」
ならば、何故ここまで普段は落ち着いている彼が口を動かし、警戒を露わにしているのか。理由は、彼自らが語った。
「だが、俺が忘れかけていた大事なことを、彼女は思い出させてくれた。それ故、俺は己の過ちに気がつき、兄者と良き関係を築き直せた。その恩義を忘れるつもりはない」
決意表明に似た言葉には、恩人を無碍に扱えば少なからず敵意をそちらに向けるという意思がありありと込められていた。
ぴりぴりとした空気に、藤がどうしようと狼狽していると、不意に乾いた笑い声が響く。
他ならぬ、それは目の前の老人が漏らした声だった。決して大きな笑い声ではなく、まるで知り合いがちょっとした冗談を口にしたかのような、どこか人を安心させる笑い方だ。
「あのー……すみません、僕の刀剣男士が無作法な真似を」
どう反応をすればいいか悩み、藤はひとまず謝罪を述べる。少なくとも、膝丸の発言は初対面の人に向けるには敵意が込められすぎていた。
「ああ、いや、いいんだ。彼の反応は、寧ろ私にとっては有り難いぐらいなのだから」
「どういうことですか?」
「あの子についてお願いがある、と言っただろう。私はね、彼女から君たちの話を聞いたとき、是非君たちに頼みたいと思ったんだ」
「何を……でしょうか」
たった一度会っただけの者に、しかも一人は刀剣男士であると分かっているのに、一体何を依頼したいのだろうと藤は心の中で身構える。政府に関係している大人からの依頼が、碌なものであった試しがないので、この反応も当然だ。
「お願いは至極単純だ。私たちは君に――彼女の友達になってもらいたいんだ」
老爺の穏やかな声が音となって消えた後、沈黙がふわりと辺りを支配する。少し煩い鳥のさえずりが耳に響き、近くに来ているのだろうかと思わずそちらに気を逸らしたくなるほど、その願い事は藤の予想の外側から現れた。
はあ、と重たいため息が一つ。
見れば、老爺の隣に控えている刀剣男士が、呆れた様子を隠そうともせずに吐息を漏らしていた。彼自身、この微妙な沈黙は予期できていたようだ。
「え、と……友達、ですか」
「ああ。友達だ。彼女は少々わけがあって、自由に外に出られる状況ではない。だから、直接会うよりも文をやり取りしてもらうことになると思うが、何にしても友人関係を続けてもらいたいんだよ」
「ええっと……その、すごく言いにくいんですけど」
藤は僅かに引き攣った微笑を浮かべ、ちらりと膝丸を見やる。未だに半眼で相手を睨んでいる膝丸も、藤に同意すると言わんばかりに首を縦に振った。
「僕、もう彼女とは友達のつもりでした。手紙も……出す先が分からなかっただけで、もし届けてもらえるのなら、是非送りたいです」
相手へ失礼にならないように、しかし大仰ではなく、ごく自然な口ぶりで藤は答える。
今更、彼女の保護者に出張ってもらわなくとも、あの少女とは、友人で在り続けたいという気持ちはある。
知り合いという単語で済ませてしまうには、あまりにも彼女に対して積極的に好意を向けすぎた。
それに藤も膝丸も、言葉を交わして交流を深めることを嫌だと思っていないのだから、これはもう友人と言い換えても問題ないだろう。
「……そうか。彼女は、想像以上に良き者と知り合えたようだ」
まるで肩の荷が下りたかのように、老爺は破顔する。その振る舞いは、孫娘を案じる祖父のように穏やかだった。
「だから言ったんだ。あんたが、わざわざ顔を出して頼まなくてもいいと」
今まで巌のように黙りこくっていた刀剣男士が、どこか気安さの残る口ぶりで老爺に指摘する。
膝丸と会っていた彼には、少女と膝丸のやり取りを見て、彼らがただの顔見知り以上には交流を深めていると察していたのだろう。
「いやはや、鬼丸の言う通りだったようだ。どうにも、年寄りは口うるさくてよくないな」
「あ、でも……お爺さんが色々と考えてくれたって知ったら、あの子は喜ぶと思いますよ。それに僕もちょっと、ほっとしました」
子供の教育やら交流関係やらで口出しをしすぎる大人が、子供にとっては寧ろ逆効果――といった話題は、藤も小耳に挟んだことはある。自分とて、経験がないわけではない。
だが、彼女に関しては、誰かが少し口を出すぐらいが丁度いいのではと藤は考えていた。どうにも彼女は、どこか浮き世離れしていて、一人で何かを決めさせるには不安を覚える。
「この前もプレゼントを贈らせてもらいましたし、お返しも頂戴しました。膝丸のことでは、知らない間にお世話にもなっていたみたいだし、また機会があったら万屋でお茶とかしてみたいんですが、どうでしょうか」
折角なら、先日の祭りのときに貰った贈り物のお礼も言いたい。
彼女の姉である菊理についても、藤は面識があるので、彼女について尋ねてみてもいい。
随分と世間知らずのようだったから、美味しいお菓子の一つでも用意して驚かせても楽しそうだ。
あれこれ次に会う機会について夢想していると、老爺も嬉しそうに目を細めて藤に頷き返してくれた。
続いて、彼は側に置いていた小さな鞄から、これまた小ぶりの封筒を取り出して、二人の前に差し出した。
「君たちにまた会えたら、これを読んでほしいと彼女から預かってきたものだ。私が帰った後でいいので、読んでもらえるだろうか」
「はい、勿論です。あの、僕から返信を送りたいときは、どうすればいいでしょうか」
「それなら、私の私書箱の宛先を教えておこう。そうすれば、私が受け取って彼女に渡してあげられるからね」
それは、願ってもない朗報だった。
審神者の知り合いは携帯端末を保持していたが、あのイチと名乗っていた娘は携帯端末を持たされていなかったので、連絡の取りようがないと思っていたからだ。
「少し世間知らずな所がある子だが、どうかよろしく頼む」
深々と頭を下げる老人に、藤は慌てて「こちらこそ」と頭を下げ返す。そして、二人は顔を見合わせ、同時に小さな苦笑いを零したのだった。
***
政府からやってきた支部長の男性と、イチの親戚である老人たちを玄関まで見送る途中、不意に付き添いの刀剣男士――鬼丸と呼ばれていた彼が、ぴたりと足を止めた。
何か忘れ物だろうかと、膝丸と共にいた藤もその場に踏みとどまる。老人達は自分たちのお喋りに夢中になっているのか、この刀剣男士の様子には気が付いていないようだった。
「あの……」
「そこの刀剣男士。おれは、あの日言ったはずだ。関わるな、と」
「あの娘の親戚とやらは、寧ろ関わって欲しそうだったが?」
鬼丸の忠告に対し、膝丸の返事は疑問の形をとった警戒であった。藤も主人であるらしい老人と言っていることが違う鬼丸に対して、首を軽く傾げて疑問の意を見せる。
「あいつは……甘いだけだ。あれに関わって、お前らが得られるものは何もない。寧ろ、厄介ごとが増えるだけだ。そんな存在に干渉して、どうするというんだ」
「僕は、別にイチさんと友達になって、何か得をしたいわけじゃないです。彼女と過ごして、彼女も僕も楽しいと思える時間を過ごせたらいいなと、そう思っているだけです」
ひょっとしたら、菊理のように、鬼丸も関係者から何らかの期待を背負わされているのではないか。だから、損得の勘定で交流関係を図っているのではないか。
藤の考えが当たっているのか当たっていないのか、彼の表情からはうかがい知れない。
ただ炯々と輝く底知れない深みを抱いた紅色の瞳が、藤の器がどれほどか測ろうとしているように見えた。
にらみ合うこと暫し。
漸く老爺たちも彼が足を止めていることに気が付き、
「鬼丸、帰る時間だよ」
鬼丸と呼びかけられた刀剣男士は、不意に藤に一歩詰め寄る。
「おい、じいさん。あんたは、あの子供の友達とやらに、こいつを選んだんだったな」
質問の意図が読めなかったのか、老人は「ああ」と困惑混じりで返答する。
「なら、あんたはこいつが何者か知るべきだ」
彼の動きは、あまりに唐突すぎた。
故に、後ろに控えていた膝丸も、行動が一拍遅れた。
鬼丸は無造作に手を藤へと伸ばし、彼女の顔を鷲掴みにせんと手を広げる。頭が砕かれるのではないかと危ぶみ、反射的に藤はぎくりとする。
無論、そんなことは起きなかった。
しかし、彼の大きな手は、藤の額に巻かれたバンダナをその逞しい指に引っかけて、容赦なく剥ぎ取っていった。
「――――っ!!」
本丸の皆の前では、角を隠すような真似はもうしていない。だが、流石に見知らぬ他人の前では、余計な諍いを招かないように藤は未だに額にある角を隠していた。
だというのに、こんな形で暴露されて、藤の心臓はどくんと跳ね上がる。
こちらを見る老人二人の視線が、己の正しさでこちらを拒絶しているかのような鬼丸の瞳が、在りし日の自分に向けられた視線と重なる。
何を言うべきか悩み、唇の端が震える。膝丸が声を張り上げ、鬼丸を非難しているのが視界の端に見えた。
(――逃げちゃだめだ)
まず、拳をぎゅっと握る。
幼い自分なら、泣くことしかできなかった。或いはその場から逃げ出していただろう。
けれども、足はまだ床についている。瞳に涙は浮かんでいない。
(――笑って誤魔化すのも、だめだ)
近頃の自分なら、きっと笑って何でも無いふりをしていた。みっともないものをお見せしてすみません、と謝ってすらいた。
けれども、その選択はもうしないと決めた。
彼が融かしてくれた仮面をつけるのは、裏切りになってしまうから。
あの秋の日差しを思わせる金色の髪の彼――髭切の思いを、台無しにはしない。
顔を上げ、口角に緩やかな笑みを残しながらも、しかし偽りではなく真摯な思いから老爺と鬼丸を見つめる。
「鬼丸さんの言う通り、隠し事はよくなかったですね。だから、話します。そちらの支部長さんはご存じだったかもしれませんが、僕は――見れば分かることですが、鬼です。勿論人を取って食うような鬼ではありませんが、このような見た目をしています」
己が人ではなく鬼として育てられ、その自認のまま大人になった。故に、藤は自らを「鬼の姿をした人間」ではなく「鬼」と語る。
「それでも、僕は彼女の友人として共にいたいと思います」
大袈裟には話さず、ごく自然な口ぶりで藤は言う。
己が何者かを、単純な言葉で説明する。
「そうだね、主」
その背中を押すように。
ふわりと、大きな手が頭に乗る。
振り向くまでもなく、気配だけで隣にいる者が何者かを藤は知っていた。
「久しぶりだね、鬼丸国綱。僕の主は見ての通り、鬼だ。それで、こんな所でそのことを暴いて、君は鬼退治でも始めるつもりかい?」
藤の視界に、白い上着が大きな翼のように翻る。
側にいた膝丸が彼を呼ぶまでもなく、藤はその名を呟いていた。
「――髭切」
「うん。何やら話し声が聞こえてきたから、何事かと思ったら、随分とそちらの刀が無作法な真似をしていたからね。これを流石に、どうでもいいとはできないと思って、声をかけさせてもらったよ」
声音は落ち着いているのに、微かな棘を滲ませながら、髭切は鬼丸と彼の後ろにいる老人二人へと微笑みかける。
支部長である平岡は、やはり藤の角の件について知っていたのか、角を見て驚いている様子はなかった。
だが、イチの親戚である清十郎は、あからさまに表情にこそ出していないが、どこか険しさの残る目つきで藤を見つめている。
「お前は、鬼を庇うのか。鬼切」
「僕の主は彼女だ。主を侮辱するなら、僕は斬る。それだけのことだよ」
どこか驚いたように、聞き慣れない呼び名で髭切に尋ねる鬼丸に、まるで簡単な算数の答えを教えるかのようにさらりと髭切は告げる。
受け答えそのものに剣呑さは薄いが、一線を越えれば彼は冗談抜きで抜刀するだろうと、藤には容易に想像できた。
それほどまでに、彼は本気だ。
「鬼丸。それ以上、彼女に無礼な真似を働くのはやめなさい」
一触即発の空気を、嗄れた老爺の声が割る。枯れていてもなお、彼の声は静かにこの場に響いた。
鬼丸は、その手に握っていたバンダナを藤の手に返すと、
「悪い。あんたを試すような真似をした」
どうやら、鬼丸の方にも意図はあったらしいと知り、藤はどんな顔をしていいか分からず、結局こくりと頷き返すだけに留めた。
続けて、奥にいる鬼丸が仕えている主人――イチの保護者でもある彼へと視線を送る。
自分はこのまま、あの少女の友人であることを彼に許されるのか。許されないのなら、諦めるしかないのだろうか。
「君が、たとえどんな姿をしていようと、私はそのことを咎めるつもりはないよ」
息を呑んで答えを待っていた中、老爺は何の躊躇も見せずに藤を受け入れる言葉を口にする。
それは、彼女にとって、久方ぶりに『大人』という存在から向けられた許容の言葉でもあった。
「それに、君が悪人ではないことは十分に伝わっている。君の人柄は、見た目に左右されるものではない。私はそのことを――よく知っている」
彼は言葉の後、ちらりと鬼丸を見やった。
ぶっきらぼうで、寡黙で、厳めしい顔つきの彼は、常人なら側にいるのすらも躊躇するような気配を滲ませている。
それでも、彼は隣に鬼丸という刀剣男士がいてほしいと思った。その選択そのものが、あの老人の心がどんなものかを示しているように思えた。
「……ありがとうございます」
「何も感謝されるようなことはしていないよ。さて、客人があまり長居をしていては何かと差し障るだろう」
「そうだね。審神者様、演練の件について、選出する刀剣男士の報告を待っているよ」
何てことのないように笑う彼らの姿を見て、藤はふと思う。
もし、自分が幼い時分に彼らのような大人に巡り会えたら――。
そこまで考えて、詮ないことだと彼女は小さくかぶりを振った。
(僕が『僕』を誇らしく語れるようになったから、ああいう答えをしてもらえた。僕が卑屈な態度をとっていたら、きっとまたすれ違ってしまっていた)
だから、このやり取りは自分が前に歩み出ていることの象徴でもあるのだ。
そっと後ろに視線をやると、その通りだと言わんばかりに、柔らかな琥珀の双眸が微笑んでくれていた。
***
「――あのさ、今度大規模な演練があるんだって。出場するつもりだから、皆よろしくね」
夕餉の席で、半分ほど目の前の焼き魚を平らげた藤は、何気ない調子で皆に向けて問う。
全員に知らせる事項ではあると分かっていたのだが、皆が一堂に会する時間帯は限られる。その限られた瞬間が、食事の時間だったから、手っ取り早く伝えようとした彼女に悪気はない。
だが、小豆と歌仙が作った秋刀魚の塩焼きとエンドウ豆に芋や鶏肉を使った煮物が皆の舌を楽しませている中、この話題は突然投げ込まれた爆弾並みの影響力を皆に与えた。
「え、大規模な演練ですか!?」
まず驚きの声をあげたのは堀川であり、
「何だい何だい、その面白そうな響きは! 次郎さん、凄く気になっちゃうね!!」
「そ、それは……いつもの演練とはどう違うのでしょうか」
次郎が、がばっと身を乗り出し、彼のあおりを受けて箸からぽろりと芋を落としながら、五虎退は恐々尋ねる。
本丸の中でも顕現してからの年数は一番長いにも限らず、五虎退は相変わらず戦闘に対しては消極的だ。
「ええっとね。いつもと違って建物を使って、主――つまり僕を守りながら行動することになるだろうって言ってた」
実を言うと細かいルールについては、まだ藤は読み切れていなかった。
だが、これだけの情報でも、皆にとっては寝耳に水であったらしい。にわかに食卓はざわつき始める。
「へえ、室内戦か。たしかにオレたちは、演練では野外戦や場所を区切っての試合ばっかやってるからな」
「室内戦といえば、僕たちの出番だよね。兼さん」
「おう。オレたちが生まれた時代としても、うってつけじゃねえか? 室内戦ならこっちのものってな」
「何をー! ボクたちだって負けてないからね!」
食卓の端で乱が拳を振り上げ、ぶんぶんと振っている。
金色の髪が勢い余ってきらきらと揺れて、彼の主張を盛り立てていた。
「ええっと、とりあえず! そういうわけだから明後日ぐらいに、皆の意見を聞いて出場する刀剣男士を決めようと思うんだ。出陣の予定が入らない限りは、時間を空けておいてね」
皆に聞こえるように声を張り上げるも、既に情報を聞かされていた歌仙や、普段から落ち着いた様子を崩さない小豆以外は騒々しいことこの上ない。
我も我もと己の利点を声高に主張し、どんな内容の演練なのかと浮き足立っていた。
「出陣と比べると、生死を賭けたわけではないから、素直に盛り上がれるのかな?」
藤としては、もしかしたら自分も怪我をするかもしれないと思うと、おいそれと喜べないのだが、刀剣男士たちにとってはそうではないらしい。
普段から、時間を遡った先で己の命を賭して戦っているのだから、戦い自体は仕事のように感じて嫌になったりしているのではと考えていたのは杞憂のようだ。寧ろ、演練への参加意欲を見せてすらいる。
彼らにとって、戦うという行為は喜びであると同時に、呼吸するのと同じように必要なものなのだろう。
(でも……髭切は、あまり興味がないのかな)
ちらりと藤が見やった先、弟の隣に座っている髭切は、いつもと変わらない様子でお茶を飲んでいる。
隣の膝丸が、自分たちも出られるのなら出てみたいと息巻いている様子とは、非常に対照的だ。
もし、彼が出てくれるのなら、たとえ演練の最中に不測の事態があったとしても安心できるのに。
今日、後ろから自分を支えてくれたときだってそうだった。必要なときに彼が背後にいると思うと、お腹の底がじんわりと暖まるような不思議な安堵を覚える。
「だからって、無理強いはさせられないからね」
それに、あまり髭切を重用すると、それはそれで過剰に贔屓をしているように見える。
本丸が設立して日の浅い内から、己の弱い部分も受け止めて付き添ってくれた髭切は、確かに大事な刀剣男士ではある。
彼自身、一番贔屓してほしいなどと言ってはいたが、本当に彼だけを大事にして他を蔑ろにすれば、間違いなく軽蔑されると藤は確信していた。
(髭切がいなくても、僕は大丈夫)
寧ろそんな姿を見せた方が、彼はきっと安心するだろう。髭切の横顔から視線を外して、藤は歌仙におかわりを求めた。
***
「じゃあ、開けるよ」
「ああ。何を勿体ぶっているのだ」
「だって、友達から手紙貰うなんて久々なんだもの。いや、初めてかもしれない」
「文のやり取りなど、日常の出来事ではないのか。君もよく、政府の者とやり取りをしていると言っているだろう」
「あれは端末でキーボード使って打ち込んだ文だから、こういうのとは違うじゃないか」
軽口を膝丸と交わし合いながら、藤は自室で昼間に預かった手紙を開こうとしていた。
本当はすぐにでも開封したかったのだが、流石に演練のことについて考えるのが先だから、と後回しにしていたのである。
膝丸は、手紙など珍しくもないと言いたかったようだが、藤にとって紙に書かれた手紙は何年ぶりか分からない代物だ。
家に来るダイレクトメールを別として、個人間でやり取りされる手紙は、最早絶滅危惧種のようになりつつある。ネットワークの海を泳いですぐに届く電子メールの方が、よほど手軽且つ複雑な内容が送れるからだ。
「こうして誰かから手紙を貰うなんて、何年ぶりだろう」
「欲しければ、頼めばよかろう。歌仙など、特に用も無いのに毎晩何か書いているようだぞ。主が文を欲しいというなら、いくらでも書くのではないか」
「膝丸は情緒がない。近くにいる人に書いてもらうのは、何か違うんだよ」
「君に言われたくないのだが」
流石に情緒がないと言われたのは、気に障ったようで、膝丸は口をへの字に曲げて藤をじろりと睨んだ。
とはいえ、それも本気で機嫌を損ねているわけではないと藤も知っている。怒らないでよ、と軽く宥めてから、藤はいよいよと手紙の封を破っていく。
中から表れたのは、非常に簡素な紙が数枚。その中の一枚を開き、
そして彼らは絶句した。
「……………………」
「……主、これは」
「……膝丸、読める?」
無言で首を振る膝丸。もちろん、縦にではなく横に。
藤が開いた手紙には、控えめに表現するなら、みみずがのたうったような文字が残されていた。
平仮名であるということは辛うじて分かるが、裏を返せば平仮名であることしか分からない。
正しいとめ、はね、はらいを崩して余計な線を数本入れるだけで、平仮名は未知の文字に変化するのだと、藤は改めて知る羽目になった。
「えっと……これは、僕の名前かな。こっちは、ひ……多分、ざ、だから、ここの辺りで膝丸って書いてあるんだろうね」
「こっちは……た、か? いや、け、にも見えるな。この線は……ああ、これは『げ』と書きたいわけだな」
こうなってしまうと、最早手紙を読むというよりは、暗号の解読に近い。
結局、多くの憶測と類推を重ねながら、膝丸と藤が出した結論は『二人は元気に過ごしていますか。また一緒に遊びに行きたいです。この前のお祭りでは、藤様にも会いたかったです』という内容が記されている――恐らくは、という結論だった。
一時間近い暗号解読の末、途中で歌仙に淹れてもらったお茶はすっかり空になっていた。
そして彼らは今、薄らと疼痛を頭に覚えつつ、卓袱台越しに向かい合って緊急会議を開いていた。
「膝丸。こう思うのはイチさんにはもの凄く失礼かもしれないんだけど……」
「いや、恐らく俺も全く同じことを考えている」
「元々、世間知らずとは分かっていたけれど、世間知らずというよりも、何かこう……字というものを知らなかったんじゃないかなあ」
まるで、字を初めて己の手で書いたかのように、彼女の筆跡は単純に筆跡が汚いを通り越して、解読不可能の領域に食い込んでいた。幼稚園や保育園の子供が書く字の方が綺麗かもしれない、と思うほどに。
イチが残した字は、藤が幼い頃に親に字を教えてもらったとき、地面に書いていた拙い文字によく似ている。
つまり、それほどまでに、彼女は文字を書くという行為に不慣れであると示していた。
「あの老人は、俺が来る前にこのことについて何か話していたか?」
「いや、全く。多分知らないんじゃないかな。普通は、預かった手紙を勝手に見るような真似はしないだろうし」
「しかし、君はどうするつもりなのだ。このまま手紙のやり取りをするとなると、なかなか大変だぞ」
そのことについては、藤も全く同意だった。
返事を読むだけで時間を要する手紙は、読んでいるだけなのに負担も相当である。
(そもそも、なんで、字を知らないんだろう)
藤もかなり特殊な環境で育った身ではあるが、幸い母親は通常の学生同様に学校は通っていたので、幼い彼女に簡単な読み書きと計算については教えてくれた。
その後、保護施設の先生からも一通りの教養は身につけさせてくれたので、生活に必要な学問はそれなりに身についている。
本来は、子供たちに学校を通わせる義務を課しているこの国では、全く文字を習わない環境にいる方が珍しいのではないか、と藤は知識として知っている。
勿論、時と場合によってはその限りではないだろうが、少なくともイチは健康な民間人のように見えた。
(あまり外に出られないって言っていたけど、これじゃまるで)
出られないどころではなく。
何も与えられていないのでは――。
そこまで考えていたとき、ちょんちょんと机に投げ出していた手がつつかれ、藤ははっとする。気が付くと、目の前にいる膝丸と目が合った。
「主は、このまま文通をするつもりか」
「あ、いや……ああ、そうだ。それなら、字の勉強ができるような表を送ったらどうかな。あいうえお表ってやつ」
幼い頃、母親が地面に書いて教えてくれた五十音の表を思い出し、藤は手近な紙に線を引いて平仮名を綴り始める。
「つまり、手習いのための見本か」
「そうそう」
「その割に、見本とするには君の字は汚いようだが」
藤の額に、びきりと青筋が立った。剣呑な目つきでじろりと膝丸を睨む。
「本当のことを言ったまでだ」
「言っていいことと悪いことがあるの。それなら、膝丸が書いてよ」
「なにゆえ、源氏の重宝である俺がこのようなことを」
ぶつぶつ言いながら、膝丸は藤が書いた『あいうえお』の隣に、鉛筆ですらすらと文字を綴る。
藤の少し不揃いな平仮名の隣には、膝丸の性格を表したかのような、教科書の見本の如き文字が整然と並んだ。
「悔しいけど、膝丸の方が字が綺麗みたいだから、それは任せるよ。これを見ながら練習してもらえば、少しは読める字になるんじゃないかな」
「そうしてもらわねば、今後のやり取りでも難儀しそうだからな」
今度は清書用に新しい紙を取り出し、膝丸は再び五十音を書き始める。
刀剣男士は刀なのに、文字まで美しく書けるんだなと藤は感心しながら、その様子を眺めていた。
「……主、尋ねようと思っていたのだが、君はあの男から彼女の名を聞けたのか?」
「あ、そういえば」
夏祭りでイチに会ったとき、膝丸は護衛の鬼丸から「彼女には名がない」と聞かされていた。
それは何かの比喩かと思いきや、親戚の老人も一度も彼女の名については触れていない。あくまで『あの子』や『イチと君たちが呼んでいる女の子』という表現に留めていた。
イチというのは、少女の名字である『一ノ瀬』をもじっただけの通称であり、彼女の名前ではない。彼女の姉である菊理も、イチのことは『あの子』としか呼ばなかった。
まるで、本当に呼び名が存在していないかのように。
「手紙というのは、宛名を書くものだろう。名がないのでは、書きようがない」
膝丸の指摘するように、誰それ宛てへと記すのが手紙の通例だ。宛名のない手紙など、届くはずがない。
今回に限って言うなら、彼女の親戚が宛先になるが、だからといって便せんの宛先まで無記名というのは、如何にも味気なかった。
「もしかしたら、普段は他人に対して名前は公開しないようにしているのかも。僕の『藤』という名前も、審神者になるなら本名は隠した方がいいって勧められて、自分でつけたものだから」
「なるほど。俺たちが生まれた頃の時代では、女人は名を公にしない風習があったような気がする」
「ああ、平安時代ってそうだったよね。誰それの娘とか、何々の君とか」
古典の授業でぼんやりと聞いた話では、父親の名前を冠してどこの家の娘と名乗ったり、はたまた住んでいる屋敷の名前を名乗ったりするような風習があったらしい。
膝丸は、そのことを言っているのだろう。
「じゃあ、いっそのこと僕らも彼女に呼び名みたいなのものをつける?」
藤はぴんと人差し指を立てて、膝丸へと提案する。
本人が名を名乗ってくれないからとはいえ、無記名の手紙を出すのはあまりに味気ない。
それなら、仮でもいいから三人の間で通用する名前を作ろう、と。
「なるほど、通り名か。それは確かに良いかもしれないな。それで、何と書く?」
「……イチコさん?」
「君こそ、情緒がないのではないか」
「膝丸は配慮が足りないと思うんだけど。僕に冷たくない?」
「思ったことを言ったまでだ」
元々、名付けのセンスについては皆無であるとは藤も自覚している。
以前、五虎退の虎の子にジョンと名付けようとして、あの可愛らしい少年に無言で首を横に振られたこともあった。
「じゃあ、それは膝丸に任せるから。僕は文章を書くから、後はよろしくね」
そこまで文句を言うなら、自分で考えてみせろと膝丸に宿題を押しつけ、藤はさっさと机に向き直って何を書こうかと吟味し始めようとした。
だが、その状態のまま硬直すること数秒後。
「……ごめん、膝丸。便箋、明日買ってくるから、書くのはそれからにしよう」
手紙を貰ったことがない藤は、当然ながら、手紙を書いたこともなかった。
***
「名、通り名、通称か……」
膝丸は顎先に指を押し当て、虚空を睨む。
藤の自室から自分の部屋に戻るまでの間に、適当な案が思いつくかと予想していたが、なかなかこれが難しい。藤が出した没案が、まだましに見えてきてしまうほどだ。
部屋に辿り着いてからもなお、ずっと悩んではいるが、これぞ相応しいと思う呼び名は思いつかない。
「白い椿の帯留めをしていたから白椿……いや、髪の色から考えるなら、黒を取り入れた言葉にした方がよいか?」
うんうんと頭を抱えていたせいで、膝丸は自室の襖が開く音を聞き逃していた。
故に、顔を上げた瞬間、目の前にいる己の瓜二つの顔――髭切の顔を目にして、膝丸は思わず驚きの声をあげる。
「あ、兄者、いつの間に!?」
「ほんの数分前からだよ。お風呂が空いたから、入ったらどうかなって思って」
「……ああ、もうそんな時間か。確かに手紙を読むのに、一時間ほどかけてしまったからな」
さっと読んで頭に入れてしまうつもりが、予想外の解読時間を要してしまったのだから仕方ない。
改めて時計を眺め、普段なら風呂の時間をとうに迎えていたと膝丸は気が付く。
この本丸は、基本的に風呂の時間に皆がまとめて入るような習慣が身についている。裏を返せば、うかうかしていたら湯が抜かれかねない。
「それなら、先に主が入るって言ってたから、お湯を一度抜いちゃうかもね。朝に入ったらどうだい」
「ああ、そうしよう。その方が集中できそうだ」
「それで、弟は何でそんなに難しい顔をしているんだい?」
事情を知らない髭切に、膝丸は簡単に名付けについて説明する。
膝丸が悩んでいるときに出会った少女については、藤からも膝丸からも聞いていたので、髭切も知っていた。実際、顔を見たこともある。
「名前ねえ。お前は、適当でいいとは思わないんだ?」
「そうは言うが兄者、文において名は最初に記すものだろう。それが適当というのは、どうなのだ」
「うーん……まあ、本音を言えばどうでもいいんじゃないかなって思うけど、主にとっては名前は凄く大切なものみたいだからねえ」
膝丸も後から聞いた話ではあるが、他の髭切はともかく、今目の前にいる兄は名前をやや重んじる傾向がある。
本人の考えというよりは、名前という概念に対して藤が拘りを持っているから、彼女の考え方に影響されたらしい。
「どう呼ばれるかで、その人が何者かが決まってしまうんだよ。僕は今は『髭切』と名乗っているけれど、それ以外の名前もある。そちらで呼ばれていたら、僕はもっと違った僕になっていたかもしれない」
髭切の逸話の中には、名前に対する由来や逸話が深い繋がりを持っている。
髭切ではない名を使って顕現されていたのなら、髭切は別の性格や考え方を得ていたかもしれない。
それは、今の髭切にとっては嬉しくないことだ。
「主も『藤』とは呼ばれているけど、主の本名で呼ぶと少し違う顔を見せるんだよね。どちらも主ではあるのは確かなんだけど……呼んだ相手に対する接し方とか、どういう自分を見せるかってことは、名前に左右される部分も大きいんじゃないかな」
だから、名前をつけるのなら、その人が何者かを定義づけるぐらいの大きな意味のあるのだ、と意識しなければならない。髭切が言外に言いたかったことは、十二分に膝丸に伝わった。
だが、それならば尚更、膝丸は悩んでしまう。自分が誰かの存在を大きく変える――などと、想像したことすらない。元より、自分は刀で髭切の兄で、それ以上の何者でもない。
そこまで考えて、ふと思う。
(俺にあるこの名が、俺が俺であると証明してくれている。兄者の弟であり、源氏の重宝である、この俺を)
己がそこにいて、何者であるかを証明しているのは『膝丸』という名だ。膝丸と誰かに呼ばれるからこそ、自分は自分でいられる。
ならば、彼女に名を与えるのなら、たとえ単なる通称であるにしても、呼びかけたときに彼女が良き者であると感じられるような名であるべきだ。
その担い手が自分であると思うと、やはり幾らか緊張を覚えるが、悪い気はしない。
(元より、俺と主のみが使う通称だ。気に入らないと本人に言われれば、返上すればいいまでのこと)
そう思えば、少し気楽にもなる。軽く深呼吸をして、膝丸は彼女の様子を思い出す。
さざ波一つたたない湖面を彷彿させる、静かな振る舞い。愚直とも思えるほどに姉を慕い、喧嘩した姉が送ってきた詫びの品に何か返礼をしたいと、揺るがぬ意思を持って二人に訴えた声。
兄との関係に亀裂を生じさせてしまった膝丸が、埋められない己の寂しさを『悪しきもの』として押し殺そうとしたとき。
寂しいは良くないことですか、と正面からこちらに向かって尋ねた瞬間を、今でも覚えている。
あの問いがあったから、己の感情に素直になろうと思えた。
周りに対して、あまり感情を揺らさなかった瞳は、次に会ったときは、純粋に再会への歓喜に満ちていた。
彼女の翡翠色の双眸は静かな湖面に似ていて、真夏の深緑よりは淡く、まるで春に目覚めた新芽たちのようだった。
「――若苗」
いつしか、言葉が口から滑り出ていた。
「それが、お前が選んだ名かい」
髭切の問いに、膝丸は無言で頷き返す。
顕現したばかりの刀剣男士のように、彼女にはどこか頼りない部分はある。先だって読んだ手紙から見ても、見識が深いとも思えない。寧ろ、無垢で無知な印象を受けるほどだ。
だが、それでも、空へと枝葉を伸ばそうとする若木の強さがそこに宿っていると、膝丸は感じていた。たとえ今はなかったとしても、前に進む強さを彼女に与えられればいいと願った。
春の光を浴びて育つ、若い苗木。
彼女の呼び名に、これ以上相応しいものはない。
「俺と主が使う、彼女への呼び名だ。悪い名ではないだろう?」
「そうだね。うん、良い名だと思うよ」
膝丸に対して笑いかけながら、髭切はふと口の中で主の本名を転がしてみる。
その名はどこか他人行儀で、けれども不思議な愛おしさを髭切に齎した。
何かの間違いではないか、と思ったが、本丸の初期刀である歌仙が間違いをするわけもない。
早く行くようにとせっつかれ、指定された応接室に向かい、襖を開く。
「……貴様は」
思わず、警戒心を僅かに滲ませて話しかけた先にいるのは、以前夏祭りでも目にした白金色の髪の刀剣男士。血のように赤い瞳が、無言で膝丸を見つめている。或いは、睨んでいるのだろうか。
「膝丸、知り合いなの?」
「ああ。夏祭りの折、あの娘に……イチに再会したと言っただろう。あの折に、彼女の側にいた刀剣男士だ。親戚が護衛につけたとかどうとか、と話していた」
「夏祭りについては、私が彼に頼んだんだよ。彼女を一人で放っておくわけにはいかないからね」
好々爺然とした声に、今度は刀剣男士の隣に座る老爺へと膝丸は視線をやる。
彼にとっては初めて見る老人だ。暢気そうに茶を啜る姿を見る限り害はなさそうだが、どこか隙がない雰囲気も漂わせている。彼に視線で着席を促され、膝丸は主の隣に腰を下ろした。
「主、この者は」
「政府から来た人の知り合いの方だそうだよ。僕と、それと膝丸に話があるんだって」
「俺と主に?」
膝丸は政府の人間はおろか、外部の人間と深く関わったためしがない。
政府の役人が来た際も、兄の側に控えているだけの場合が多く、結果的に彼がまともに交流したのは、兄と喧嘩中のときに万屋で出会ったイチと名乗る少女だけだ。
そんな膝丸の思考を読み取ったのではないのだろうが、湯呑みをとんと置いて老爺は告げる。
「私が今日話したいと思ったことは、君たちがイチと呼んでいる女の子についてだ」
「さっき自己紹介で一ノ瀬……って言ってましたよね。そういえば、イチさんも最初そう名乗ってました」
「ああ。彼女は私の親戚でね。正確には、私の兄の孫にあたる」
膝丸は純粋な驚きで目を見開いていたが、藤は別の理由で何度も目を瞬かせていた。
先だって、この老人が話した情報が頭に加わり、そして今告げられた内容がそこに混ざっていったせいで、家系図の複雑さに混乱してしまったからだ。
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか。それって、もしかして」
藤と膝丸の友人であるイチと、目の前の老人は血縁的な関係がある。イチの祖父の弟なら、大叔父と表せる筈だ。
そして、以前歌仙を処分しようとした、件の冷徹なこんのすけの操り主とも、彼は親戚であると話していた。
「……つまり、イチさんと、あのこんのすけの人って、親戚なんですか?」
「ああ。彼は、彼女の戸籍上の兄にあたる。実際は、もう少し複雑ではあるのだけれどね」
「えっと、それなら菊理さんも?」
先日、藤の本丸に研修生としてやってきた、少し怒りっぽい少女の姿を思い出す。彼女はイチの姉であったはずだ。
「そういえば、君が菊理の指導をしていたと聞いたよ。彼女は彼にとって従姉妹にあたる」
おや、と藤が思うより先に、老爺は言葉を続けた。
「あの子も、何かと大変な時期に審神者になってしまった子だからね。良い先達との交流で、少しは肩の力が抜ければと思っているんだが」
「僕は大したことはしてないですよ。彼女を助けたい者たちは、本丸にいるんじゃないかって話しただけです」
何やら名家の出らしい彼女は、家の方針として刀剣男士を『物』として蔑み、審神者としてそれを制御するようにという期待を一身に背負わされているようだった。
そんな理由もあって、年若い彼女は誰かに頼る方法を見失い、やり場のない八つ当たりを藤にぶつけていた。
藤は菊理のように誰かの期待に応じる必要もなく、それが菊理にとっては羨ましくもあり、同時に許せない部分でもあったらしい。
研修の折に話はしたが、それで解決できたのだろうか──と、今でも藤は時々彼女のことを思い出している。
「あの、イチさんが僕の担当をしていた方の妹さんなら、菊理さんも妹さんになるんじゃないですか」
「君たちがイチと呼んでいるあの子は、小さい時に私の家の者が養子として引き取ったのだよ。血のつながりはあるが、彼女たちは今離れて暮らしている。君の担当をしていた者は、彼女の義理の兄にあたるわけだね」
気になっていたことを尋ねると、予想外の回答が老人から返ってきた。
兄弟が別々に暮らしていることに思う所があるのか、藤の隣に座る膝丸の眉が僅かにつり上がる。
「それで、我らの本丸の初期刀を害した男の縁者であり、あの娘の関係者でもある者が一体なんの用だ」
膝丸の声に棘を感じ、藤は慎重にそちらに視線をやる。
あからさまな敵愾心こそ抱いていないものの、彼が老爺に向ける視線は厳しい。まるで、腹の底を探ろうとしているかのようだ。
「話というのは、他でもない。あの子について、お願いがあるんだ」
「彼女に関わるな、と言いたいのか?」
膝丸はちらりと鬼丸を見やってから、再び老爺へと視線を戻す。
怒りというよりかは、事実確認に近いものだったが、その裏に潜む感情は彼にしては珍しく、少し感情的ではあった。
「膝丸は、この人の言いたいことを知ってるの?」
「さてな。だが、そこの刀剣男士は夏祭りの折、これ以上彼女に関わるなと忠告してきた。それに、初めて会ったときに彼女を迎えに来た人間がいただろう。あの無作法者は、明らかに俺を蔑んでいた」
膝丸から伝えられた新たな情報に、藤は思わず小さく息を呑んだ。
確かに、何やら複雑そうな家庭環境だとは思っていた。実際、迎えの親戚とやらが、藤がイチと選んだ姉への贈り物を壊そうとした姿も目撃している。
だが、いくら家の事情が絡んでいるとはいえ、研修生だった菊理の妹とも聞いていたから、また会えるだろうと何となく根拠のない期待もしていた。
しかし、どうやらそう簡単に、ことは進んでくれなさそうだ。
「彼女をそちらがどんな環境に留め置こうか、刀剣男士の立場としては、俺が口を挟むべきではないと承知している」
ならば、何故ここまで普段は落ち着いている彼が口を動かし、警戒を露わにしているのか。理由は、彼自らが語った。
「だが、俺が忘れかけていた大事なことを、彼女は思い出させてくれた。それ故、俺は己の過ちに気がつき、兄者と良き関係を築き直せた。その恩義を忘れるつもりはない」
決意表明に似た言葉には、恩人を無碍に扱えば少なからず敵意をそちらに向けるという意思がありありと込められていた。
ぴりぴりとした空気に、藤がどうしようと狼狽していると、不意に乾いた笑い声が響く。
他ならぬ、それは目の前の老人が漏らした声だった。決して大きな笑い声ではなく、まるで知り合いがちょっとした冗談を口にしたかのような、どこか人を安心させる笑い方だ。
「あのー……すみません、僕の刀剣男士が無作法な真似を」
どう反応をすればいいか悩み、藤はひとまず謝罪を述べる。少なくとも、膝丸の発言は初対面の人に向けるには敵意が込められすぎていた。
「ああ、いや、いいんだ。彼の反応は、寧ろ私にとっては有り難いぐらいなのだから」
「どういうことですか?」
「あの子についてお願いがある、と言っただろう。私はね、彼女から君たちの話を聞いたとき、是非君たちに頼みたいと思ったんだ」
「何を……でしょうか」
たった一度会っただけの者に、しかも一人は刀剣男士であると分かっているのに、一体何を依頼したいのだろうと藤は心の中で身構える。政府に関係している大人からの依頼が、碌なものであった試しがないので、この反応も当然だ。
「お願いは至極単純だ。私たちは君に――彼女の友達になってもらいたいんだ」
老爺の穏やかな声が音となって消えた後、沈黙がふわりと辺りを支配する。少し煩い鳥のさえずりが耳に響き、近くに来ているのだろうかと思わずそちらに気を逸らしたくなるほど、その願い事は藤の予想の外側から現れた。
はあ、と重たいため息が一つ。
見れば、老爺の隣に控えている刀剣男士が、呆れた様子を隠そうともせずに吐息を漏らしていた。彼自身、この微妙な沈黙は予期できていたようだ。
「え、と……友達、ですか」
「ああ。友達だ。彼女は少々わけがあって、自由に外に出られる状況ではない。だから、直接会うよりも文をやり取りしてもらうことになると思うが、何にしても友人関係を続けてもらいたいんだよ」
「ええっと……その、すごく言いにくいんですけど」
藤は僅かに引き攣った微笑を浮かべ、ちらりと膝丸を見やる。未だに半眼で相手を睨んでいる膝丸も、藤に同意すると言わんばかりに首を縦に振った。
「僕、もう彼女とは友達のつもりでした。手紙も……出す先が分からなかっただけで、もし届けてもらえるのなら、是非送りたいです」
相手へ失礼にならないように、しかし大仰ではなく、ごく自然な口ぶりで藤は答える。
今更、彼女の保護者に出張ってもらわなくとも、あの少女とは、友人で在り続けたいという気持ちはある。
知り合いという単語で済ませてしまうには、あまりにも彼女に対して積極的に好意を向けすぎた。
それに藤も膝丸も、言葉を交わして交流を深めることを嫌だと思っていないのだから、これはもう友人と言い換えても問題ないだろう。
「……そうか。彼女は、想像以上に良き者と知り合えたようだ」
まるで肩の荷が下りたかのように、老爺は破顔する。その振る舞いは、孫娘を案じる祖父のように穏やかだった。
「だから言ったんだ。あんたが、わざわざ顔を出して頼まなくてもいいと」
今まで巌のように黙りこくっていた刀剣男士が、どこか気安さの残る口ぶりで老爺に指摘する。
膝丸と会っていた彼には、少女と膝丸のやり取りを見て、彼らがただの顔見知り以上には交流を深めていると察していたのだろう。
「いやはや、鬼丸の言う通りだったようだ。どうにも、年寄りは口うるさくてよくないな」
「あ、でも……お爺さんが色々と考えてくれたって知ったら、あの子は喜ぶと思いますよ。それに僕もちょっと、ほっとしました」
子供の教育やら交流関係やらで口出しをしすぎる大人が、子供にとっては寧ろ逆効果――といった話題は、藤も小耳に挟んだことはある。自分とて、経験がないわけではない。
だが、彼女に関しては、誰かが少し口を出すぐらいが丁度いいのではと藤は考えていた。どうにも彼女は、どこか浮き世離れしていて、一人で何かを決めさせるには不安を覚える。
「この前もプレゼントを贈らせてもらいましたし、お返しも頂戴しました。膝丸のことでは、知らない間にお世話にもなっていたみたいだし、また機会があったら万屋でお茶とかしてみたいんですが、どうでしょうか」
折角なら、先日の祭りのときに貰った贈り物のお礼も言いたい。
彼女の姉である菊理についても、藤は面識があるので、彼女について尋ねてみてもいい。
随分と世間知らずのようだったから、美味しいお菓子の一つでも用意して驚かせても楽しそうだ。
あれこれ次に会う機会について夢想していると、老爺も嬉しそうに目を細めて藤に頷き返してくれた。
続いて、彼は側に置いていた小さな鞄から、これまた小ぶりの封筒を取り出して、二人の前に差し出した。
「君たちにまた会えたら、これを読んでほしいと彼女から預かってきたものだ。私が帰った後でいいので、読んでもらえるだろうか」
「はい、勿論です。あの、僕から返信を送りたいときは、どうすればいいでしょうか」
「それなら、私の私書箱の宛先を教えておこう。そうすれば、私が受け取って彼女に渡してあげられるからね」
それは、願ってもない朗報だった。
審神者の知り合いは携帯端末を保持していたが、あのイチと名乗っていた娘は携帯端末を持たされていなかったので、連絡の取りようがないと思っていたからだ。
「少し世間知らずな所がある子だが、どうかよろしく頼む」
深々と頭を下げる老人に、藤は慌てて「こちらこそ」と頭を下げ返す。そして、二人は顔を見合わせ、同時に小さな苦笑いを零したのだった。
***
政府からやってきた支部長の男性と、イチの親戚である老人たちを玄関まで見送る途中、不意に付き添いの刀剣男士――鬼丸と呼ばれていた彼が、ぴたりと足を止めた。
何か忘れ物だろうかと、膝丸と共にいた藤もその場に踏みとどまる。老人達は自分たちのお喋りに夢中になっているのか、この刀剣男士の様子には気が付いていないようだった。
「あの……」
「そこの刀剣男士。おれは、あの日言ったはずだ。関わるな、と」
「あの娘の親戚とやらは、寧ろ関わって欲しそうだったが?」
鬼丸の忠告に対し、膝丸の返事は疑問の形をとった警戒であった。藤も主人であるらしい老人と言っていることが違う鬼丸に対して、首を軽く傾げて疑問の意を見せる。
「あいつは……甘いだけだ。あれに関わって、お前らが得られるものは何もない。寧ろ、厄介ごとが増えるだけだ。そんな存在に干渉して、どうするというんだ」
「僕は、別にイチさんと友達になって、何か得をしたいわけじゃないです。彼女と過ごして、彼女も僕も楽しいと思える時間を過ごせたらいいなと、そう思っているだけです」
ひょっとしたら、菊理のように、鬼丸も関係者から何らかの期待を背負わされているのではないか。だから、損得の勘定で交流関係を図っているのではないか。
藤の考えが当たっているのか当たっていないのか、彼の表情からはうかがい知れない。
ただ炯々と輝く底知れない深みを抱いた紅色の瞳が、藤の器がどれほどか測ろうとしているように見えた。
にらみ合うこと暫し。
漸く老爺たちも彼が足を止めていることに気が付き、
「鬼丸、帰る時間だよ」
鬼丸と呼びかけられた刀剣男士は、不意に藤に一歩詰め寄る。
「おい、じいさん。あんたは、あの子供の友達とやらに、こいつを選んだんだったな」
質問の意図が読めなかったのか、老人は「ああ」と困惑混じりで返答する。
「なら、あんたはこいつが何者か知るべきだ」
彼の動きは、あまりに唐突すぎた。
故に、後ろに控えていた膝丸も、行動が一拍遅れた。
鬼丸は無造作に手を藤へと伸ばし、彼女の顔を鷲掴みにせんと手を広げる。頭が砕かれるのではないかと危ぶみ、反射的に藤はぎくりとする。
無論、そんなことは起きなかった。
しかし、彼の大きな手は、藤の額に巻かれたバンダナをその逞しい指に引っかけて、容赦なく剥ぎ取っていった。
「――――っ!!」
本丸の皆の前では、角を隠すような真似はもうしていない。だが、流石に見知らぬ他人の前では、余計な諍いを招かないように藤は未だに額にある角を隠していた。
だというのに、こんな形で暴露されて、藤の心臓はどくんと跳ね上がる。
こちらを見る老人二人の視線が、己の正しさでこちらを拒絶しているかのような鬼丸の瞳が、在りし日の自分に向けられた視線と重なる。
何を言うべきか悩み、唇の端が震える。膝丸が声を張り上げ、鬼丸を非難しているのが視界の端に見えた。
(――逃げちゃだめだ)
まず、拳をぎゅっと握る。
幼い自分なら、泣くことしかできなかった。或いはその場から逃げ出していただろう。
けれども、足はまだ床についている。瞳に涙は浮かんでいない。
(――笑って誤魔化すのも、だめだ)
近頃の自分なら、きっと笑って何でも無いふりをしていた。みっともないものをお見せしてすみません、と謝ってすらいた。
けれども、その選択はもうしないと決めた。
彼が融かしてくれた仮面をつけるのは、裏切りになってしまうから。
あの秋の日差しを思わせる金色の髪の彼――髭切の思いを、台無しにはしない。
顔を上げ、口角に緩やかな笑みを残しながらも、しかし偽りではなく真摯な思いから老爺と鬼丸を見つめる。
「鬼丸さんの言う通り、隠し事はよくなかったですね。だから、話します。そちらの支部長さんはご存じだったかもしれませんが、僕は――見れば分かることですが、鬼です。勿論人を取って食うような鬼ではありませんが、このような見た目をしています」
己が人ではなく鬼として育てられ、その自認のまま大人になった。故に、藤は自らを「鬼の姿をした人間」ではなく「鬼」と語る。
「それでも、僕は彼女の友人として共にいたいと思います」
大袈裟には話さず、ごく自然な口ぶりで藤は言う。
己が何者かを、単純な言葉で説明する。
「そうだね、主」
その背中を押すように。
ふわりと、大きな手が頭に乗る。
振り向くまでもなく、気配だけで隣にいる者が何者かを藤は知っていた。
「久しぶりだね、鬼丸国綱。僕の主は見ての通り、鬼だ。それで、こんな所でそのことを暴いて、君は鬼退治でも始めるつもりかい?」
藤の視界に、白い上着が大きな翼のように翻る。
側にいた膝丸が彼を呼ぶまでもなく、藤はその名を呟いていた。
「――髭切」
「うん。何やら話し声が聞こえてきたから、何事かと思ったら、随分とそちらの刀が無作法な真似をしていたからね。これを流石に、どうでもいいとはできないと思って、声をかけさせてもらったよ」
声音は落ち着いているのに、微かな棘を滲ませながら、髭切は鬼丸と彼の後ろにいる老人二人へと微笑みかける。
支部長である平岡は、やはり藤の角の件について知っていたのか、角を見て驚いている様子はなかった。
だが、イチの親戚である清十郎は、あからさまに表情にこそ出していないが、どこか険しさの残る目つきで藤を見つめている。
「お前は、鬼を庇うのか。鬼切」
「僕の主は彼女だ。主を侮辱するなら、僕は斬る。それだけのことだよ」
どこか驚いたように、聞き慣れない呼び名で髭切に尋ねる鬼丸に、まるで簡単な算数の答えを教えるかのようにさらりと髭切は告げる。
受け答えそのものに剣呑さは薄いが、一線を越えれば彼は冗談抜きで抜刀するだろうと、藤には容易に想像できた。
それほどまでに、彼は本気だ。
「鬼丸。それ以上、彼女に無礼な真似を働くのはやめなさい」
一触即発の空気を、嗄れた老爺の声が割る。枯れていてもなお、彼の声は静かにこの場に響いた。
鬼丸は、その手に握っていたバンダナを藤の手に返すと、
「悪い。あんたを試すような真似をした」
どうやら、鬼丸の方にも意図はあったらしいと知り、藤はどんな顔をしていいか分からず、結局こくりと頷き返すだけに留めた。
続けて、奥にいる鬼丸が仕えている主人――イチの保護者でもある彼へと視線を送る。
自分はこのまま、あの少女の友人であることを彼に許されるのか。許されないのなら、諦めるしかないのだろうか。
「君が、たとえどんな姿をしていようと、私はそのことを咎めるつもりはないよ」
息を呑んで答えを待っていた中、老爺は何の躊躇も見せずに藤を受け入れる言葉を口にする。
それは、彼女にとって、久方ぶりに『大人』という存在から向けられた許容の言葉でもあった。
「それに、君が悪人ではないことは十分に伝わっている。君の人柄は、見た目に左右されるものではない。私はそのことを――よく知っている」
彼は言葉の後、ちらりと鬼丸を見やった。
ぶっきらぼうで、寡黙で、厳めしい顔つきの彼は、常人なら側にいるのすらも躊躇するような気配を滲ませている。
それでも、彼は隣に鬼丸という刀剣男士がいてほしいと思った。その選択そのものが、あの老人の心がどんなものかを示しているように思えた。
「……ありがとうございます」
「何も感謝されるようなことはしていないよ。さて、客人があまり長居をしていては何かと差し障るだろう」
「そうだね。審神者様、演練の件について、選出する刀剣男士の報告を待っているよ」
何てことのないように笑う彼らの姿を見て、藤はふと思う。
もし、自分が幼い時分に彼らのような大人に巡り会えたら――。
そこまで考えて、詮ないことだと彼女は小さくかぶりを振った。
(僕が『僕』を誇らしく語れるようになったから、ああいう答えをしてもらえた。僕が卑屈な態度をとっていたら、きっとまたすれ違ってしまっていた)
だから、このやり取りは自分が前に歩み出ていることの象徴でもあるのだ。
そっと後ろに視線をやると、その通りだと言わんばかりに、柔らかな琥珀の双眸が微笑んでくれていた。
***
「――あのさ、今度大規模な演練があるんだって。出場するつもりだから、皆よろしくね」
夕餉の席で、半分ほど目の前の焼き魚を平らげた藤は、何気ない調子で皆に向けて問う。
全員に知らせる事項ではあると分かっていたのだが、皆が一堂に会する時間帯は限られる。その限られた瞬間が、食事の時間だったから、手っ取り早く伝えようとした彼女に悪気はない。
だが、小豆と歌仙が作った秋刀魚の塩焼きとエンドウ豆に芋や鶏肉を使った煮物が皆の舌を楽しませている中、この話題は突然投げ込まれた爆弾並みの影響力を皆に与えた。
「え、大規模な演練ですか!?」
まず驚きの声をあげたのは堀川であり、
「何だい何だい、その面白そうな響きは! 次郎さん、凄く気になっちゃうね!!」
「そ、それは……いつもの演練とはどう違うのでしょうか」
次郎が、がばっと身を乗り出し、彼のあおりを受けて箸からぽろりと芋を落としながら、五虎退は恐々尋ねる。
本丸の中でも顕現してからの年数は一番長いにも限らず、五虎退は相変わらず戦闘に対しては消極的だ。
「ええっとね。いつもと違って建物を使って、主――つまり僕を守りながら行動することになるだろうって言ってた」
実を言うと細かいルールについては、まだ藤は読み切れていなかった。
だが、これだけの情報でも、皆にとっては寝耳に水であったらしい。にわかに食卓はざわつき始める。
「へえ、室内戦か。たしかにオレたちは、演練では野外戦や場所を区切っての試合ばっかやってるからな」
「室内戦といえば、僕たちの出番だよね。兼さん」
「おう。オレたちが生まれた時代としても、うってつけじゃねえか? 室内戦ならこっちのものってな」
「何をー! ボクたちだって負けてないからね!」
食卓の端で乱が拳を振り上げ、ぶんぶんと振っている。
金色の髪が勢い余ってきらきらと揺れて、彼の主張を盛り立てていた。
「ええっと、とりあえず! そういうわけだから明後日ぐらいに、皆の意見を聞いて出場する刀剣男士を決めようと思うんだ。出陣の予定が入らない限りは、時間を空けておいてね」
皆に聞こえるように声を張り上げるも、既に情報を聞かされていた歌仙や、普段から落ち着いた様子を崩さない小豆以外は騒々しいことこの上ない。
我も我もと己の利点を声高に主張し、どんな内容の演練なのかと浮き足立っていた。
「出陣と比べると、生死を賭けたわけではないから、素直に盛り上がれるのかな?」
藤としては、もしかしたら自分も怪我をするかもしれないと思うと、おいそれと喜べないのだが、刀剣男士たちにとってはそうではないらしい。
普段から、時間を遡った先で己の命を賭して戦っているのだから、戦い自体は仕事のように感じて嫌になったりしているのではと考えていたのは杞憂のようだ。寧ろ、演練への参加意欲を見せてすらいる。
彼らにとって、戦うという行為は喜びであると同時に、呼吸するのと同じように必要なものなのだろう。
(でも……髭切は、あまり興味がないのかな)
ちらりと藤が見やった先、弟の隣に座っている髭切は、いつもと変わらない様子でお茶を飲んでいる。
隣の膝丸が、自分たちも出られるのなら出てみたいと息巻いている様子とは、非常に対照的だ。
もし、彼が出てくれるのなら、たとえ演練の最中に不測の事態があったとしても安心できるのに。
今日、後ろから自分を支えてくれたときだってそうだった。必要なときに彼が背後にいると思うと、お腹の底がじんわりと暖まるような不思議な安堵を覚える。
「だからって、無理強いはさせられないからね」
それに、あまり髭切を重用すると、それはそれで過剰に贔屓をしているように見える。
本丸が設立して日の浅い内から、己の弱い部分も受け止めて付き添ってくれた髭切は、確かに大事な刀剣男士ではある。
彼自身、一番贔屓してほしいなどと言ってはいたが、本当に彼だけを大事にして他を蔑ろにすれば、間違いなく軽蔑されると藤は確信していた。
(髭切がいなくても、僕は大丈夫)
寧ろそんな姿を見せた方が、彼はきっと安心するだろう。髭切の横顔から視線を外して、藤は歌仙におかわりを求めた。
***
「じゃあ、開けるよ」
「ああ。何を勿体ぶっているのだ」
「だって、友達から手紙貰うなんて久々なんだもの。いや、初めてかもしれない」
「文のやり取りなど、日常の出来事ではないのか。君もよく、政府の者とやり取りをしていると言っているだろう」
「あれは端末でキーボード使って打ち込んだ文だから、こういうのとは違うじゃないか」
軽口を膝丸と交わし合いながら、藤は自室で昼間に預かった手紙を開こうとしていた。
本当はすぐにでも開封したかったのだが、流石に演練のことについて考えるのが先だから、と後回しにしていたのである。
膝丸は、手紙など珍しくもないと言いたかったようだが、藤にとって紙に書かれた手紙は何年ぶりか分からない代物だ。
家に来るダイレクトメールを別として、個人間でやり取りされる手紙は、最早絶滅危惧種のようになりつつある。ネットワークの海を泳いですぐに届く電子メールの方が、よほど手軽且つ複雑な内容が送れるからだ。
「こうして誰かから手紙を貰うなんて、何年ぶりだろう」
「欲しければ、頼めばよかろう。歌仙など、特に用も無いのに毎晩何か書いているようだぞ。主が文を欲しいというなら、いくらでも書くのではないか」
「膝丸は情緒がない。近くにいる人に書いてもらうのは、何か違うんだよ」
「君に言われたくないのだが」
流石に情緒がないと言われたのは、気に障ったようで、膝丸は口をへの字に曲げて藤をじろりと睨んだ。
とはいえ、それも本気で機嫌を損ねているわけではないと藤も知っている。怒らないでよ、と軽く宥めてから、藤はいよいよと手紙の封を破っていく。
中から表れたのは、非常に簡素な紙が数枚。その中の一枚を開き、
そして彼らは絶句した。
「……………………」
「……主、これは」
「……膝丸、読める?」
無言で首を振る膝丸。もちろん、縦にではなく横に。
藤が開いた手紙には、控えめに表現するなら、みみずがのたうったような文字が残されていた。
平仮名であるということは辛うじて分かるが、裏を返せば平仮名であることしか分からない。
正しいとめ、はね、はらいを崩して余計な線を数本入れるだけで、平仮名は未知の文字に変化するのだと、藤は改めて知る羽目になった。
「えっと……これは、僕の名前かな。こっちは、ひ……多分、ざ、だから、ここの辺りで膝丸って書いてあるんだろうね」
「こっちは……た、か? いや、け、にも見えるな。この線は……ああ、これは『げ』と書きたいわけだな」
こうなってしまうと、最早手紙を読むというよりは、暗号の解読に近い。
結局、多くの憶測と類推を重ねながら、膝丸と藤が出した結論は『二人は元気に過ごしていますか。また一緒に遊びに行きたいです。この前のお祭りでは、藤様にも会いたかったです』という内容が記されている――恐らくは、という結論だった。
一時間近い暗号解読の末、途中で歌仙に淹れてもらったお茶はすっかり空になっていた。
そして彼らは今、薄らと疼痛を頭に覚えつつ、卓袱台越しに向かい合って緊急会議を開いていた。
「膝丸。こう思うのはイチさんにはもの凄く失礼かもしれないんだけど……」
「いや、恐らく俺も全く同じことを考えている」
「元々、世間知らずとは分かっていたけれど、世間知らずというよりも、何かこう……字というものを知らなかったんじゃないかなあ」
まるで、字を初めて己の手で書いたかのように、彼女の筆跡は単純に筆跡が汚いを通り越して、解読不可能の領域に食い込んでいた。幼稚園や保育園の子供が書く字の方が綺麗かもしれない、と思うほどに。
イチが残した字は、藤が幼い頃に親に字を教えてもらったとき、地面に書いていた拙い文字によく似ている。
つまり、それほどまでに、彼女は文字を書くという行為に不慣れであると示していた。
「あの老人は、俺が来る前にこのことについて何か話していたか?」
「いや、全く。多分知らないんじゃないかな。普通は、預かった手紙を勝手に見るような真似はしないだろうし」
「しかし、君はどうするつもりなのだ。このまま手紙のやり取りをするとなると、なかなか大変だぞ」
そのことについては、藤も全く同意だった。
返事を読むだけで時間を要する手紙は、読んでいるだけなのに負担も相当である。
(そもそも、なんで、字を知らないんだろう)
藤もかなり特殊な環境で育った身ではあるが、幸い母親は通常の学生同様に学校は通っていたので、幼い彼女に簡単な読み書きと計算については教えてくれた。
その後、保護施設の先生からも一通りの教養は身につけさせてくれたので、生活に必要な学問はそれなりに身についている。
本来は、子供たちに学校を通わせる義務を課しているこの国では、全く文字を習わない環境にいる方が珍しいのではないか、と藤は知識として知っている。
勿論、時と場合によってはその限りではないだろうが、少なくともイチは健康な民間人のように見えた。
(あまり外に出られないって言っていたけど、これじゃまるで)
出られないどころではなく。
何も与えられていないのでは――。
そこまで考えていたとき、ちょんちょんと机に投げ出していた手がつつかれ、藤ははっとする。気が付くと、目の前にいる膝丸と目が合った。
「主は、このまま文通をするつもりか」
「あ、いや……ああ、そうだ。それなら、字の勉強ができるような表を送ったらどうかな。あいうえお表ってやつ」
幼い頃、母親が地面に書いて教えてくれた五十音の表を思い出し、藤は手近な紙に線を引いて平仮名を綴り始める。
「つまり、手習いのための見本か」
「そうそう」
「その割に、見本とするには君の字は汚いようだが」
藤の額に、びきりと青筋が立った。剣呑な目つきでじろりと膝丸を睨む。
「本当のことを言ったまでだ」
「言っていいことと悪いことがあるの。それなら、膝丸が書いてよ」
「なにゆえ、源氏の重宝である俺がこのようなことを」
ぶつぶつ言いながら、膝丸は藤が書いた『あいうえお』の隣に、鉛筆ですらすらと文字を綴る。
藤の少し不揃いな平仮名の隣には、膝丸の性格を表したかのような、教科書の見本の如き文字が整然と並んだ。
「悔しいけど、膝丸の方が字が綺麗みたいだから、それは任せるよ。これを見ながら練習してもらえば、少しは読める字になるんじゃないかな」
「そうしてもらわねば、今後のやり取りでも難儀しそうだからな」
今度は清書用に新しい紙を取り出し、膝丸は再び五十音を書き始める。
刀剣男士は刀なのに、文字まで美しく書けるんだなと藤は感心しながら、その様子を眺めていた。
「……主、尋ねようと思っていたのだが、君はあの男から彼女の名を聞けたのか?」
「あ、そういえば」
夏祭りでイチに会ったとき、膝丸は護衛の鬼丸から「彼女には名がない」と聞かされていた。
それは何かの比喩かと思いきや、親戚の老人も一度も彼女の名については触れていない。あくまで『あの子』や『イチと君たちが呼んでいる女の子』という表現に留めていた。
イチというのは、少女の名字である『一ノ瀬』をもじっただけの通称であり、彼女の名前ではない。彼女の姉である菊理も、イチのことは『あの子』としか呼ばなかった。
まるで、本当に呼び名が存在していないかのように。
「手紙というのは、宛名を書くものだろう。名がないのでは、書きようがない」
膝丸の指摘するように、誰それ宛てへと記すのが手紙の通例だ。宛名のない手紙など、届くはずがない。
今回に限って言うなら、彼女の親戚が宛先になるが、だからといって便せんの宛先まで無記名というのは、如何にも味気なかった。
「もしかしたら、普段は他人に対して名前は公開しないようにしているのかも。僕の『藤』という名前も、審神者になるなら本名は隠した方がいいって勧められて、自分でつけたものだから」
「なるほど。俺たちが生まれた頃の時代では、女人は名を公にしない風習があったような気がする」
「ああ、平安時代ってそうだったよね。誰それの娘とか、何々の君とか」
古典の授業でぼんやりと聞いた話では、父親の名前を冠してどこの家の娘と名乗ったり、はたまた住んでいる屋敷の名前を名乗ったりするような風習があったらしい。
膝丸は、そのことを言っているのだろう。
「じゃあ、いっそのこと僕らも彼女に呼び名みたいなのものをつける?」
藤はぴんと人差し指を立てて、膝丸へと提案する。
本人が名を名乗ってくれないからとはいえ、無記名の手紙を出すのはあまりに味気ない。
それなら、仮でもいいから三人の間で通用する名前を作ろう、と。
「なるほど、通り名か。それは確かに良いかもしれないな。それで、何と書く?」
「……イチコさん?」
「君こそ、情緒がないのではないか」
「膝丸は配慮が足りないと思うんだけど。僕に冷たくない?」
「思ったことを言ったまでだ」
元々、名付けのセンスについては皆無であるとは藤も自覚している。
以前、五虎退の虎の子にジョンと名付けようとして、あの可愛らしい少年に無言で首を横に振られたこともあった。
「じゃあ、それは膝丸に任せるから。僕は文章を書くから、後はよろしくね」
そこまで文句を言うなら、自分で考えてみせろと膝丸に宿題を押しつけ、藤はさっさと机に向き直って何を書こうかと吟味し始めようとした。
だが、その状態のまま硬直すること数秒後。
「……ごめん、膝丸。便箋、明日買ってくるから、書くのはそれからにしよう」
手紙を貰ったことがない藤は、当然ながら、手紙を書いたこともなかった。
***
「名、通り名、通称か……」
膝丸は顎先に指を押し当て、虚空を睨む。
藤の自室から自分の部屋に戻るまでの間に、適当な案が思いつくかと予想していたが、なかなかこれが難しい。藤が出した没案が、まだましに見えてきてしまうほどだ。
部屋に辿り着いてからもなお、ずっと悩んではいるが、これぞ相応しいと思う呼び名は思いつかない。
「白い椿の帯留めをしていたから白椿……いや、髪の色から考えるなら、黒を取り入れた言葉にした方がよいか?」
うんうんと頭を抱えていたせいで、膝丸は自室の襖が開く音を聞き逃していた。
故に、顔を上げた瞬間、目の前にいる己の瓜二つの顔――髭切の顔を目にして、膝丸は思わず驚きの声をあげる。
「あ、兄者、いつの間に!?」
「ほんの数分前からだよ。お風呂が空いたから、入ったらどうかなって思って」
「……ああ、もうそんな時間か。確かに手紙を読むのに、一時間ほどかけてしまったからな」
さっと読んで頭に入れてしまうつもりが、予想外の解読時間を要してしまったのだから仕方ない。
改めて時計を眺め、普段なら風呂の時間をとうに迎えていたと膝丸は気が付く。
この本丸は、基本的に風呂の時間に皆がまとめて入るような習慣が身についている。裏を返せば、うかうかしていたら湯が抜かれかねない。
「それなら、先に主が入るって言ってたから、お湯を一度抜いちゃうかもね。朝に入ったらどうだい」
「ああ、そうしよう。その方が集中できそうだ」
「それで、弟は何でそんなに難しい顔をしているんだい?」
事情を知らない髭切に、膝丸は簡単に名付けについて説明する。
膝丸が悩んでいるときに出会った少女については、藤からも膝丸からも聞いていたので、髭切も知っていた。実際、顔を見たこともある。
「名前ねえ。お前は、適当でいいとは思わないんだ?」
「そうは言うが兄者、文において名は最初に記すものだろう。それが適当というのは、どうなのだ」
「うーん……まあ、本音を言えばどうでもいいんじゃないかなって思うけど、主にとっては名前は凄く大切なものみたいだからねえ」
膝丸も後から聞いた話ではあるが、他の髭切はともかく、今目の前にいる兄は名前をやや重んじる傾向がある。
本人の考えというよりは、名前という概念に対して藤が拘りを持っているから、彼女の考え方に影響されたらしい。
「どう呼ばれるかで、その人が何者かが決まってしまうんだよ。僕は今は『髭切』と名乗っているけれど、それ以外の名前もある。そちらで呼ばれていたら、僕はもっと違った僕になっていたかもしれない」
髭切の逸話の中には、名前に対する由来や逸話が深い繋がりを持っている。
髭切ではない名を使って顕現されていたのなら、髭切は別の性格や考え方を得ていたかもしれない。
それは、今の髭切にとっては嬉しくないことだ。
「主も『藤』とは呼ばれているけど、主の本名で呼ぶと少し違う顔を見せるんだよね。どちらも主ではあるのは確かなんだけど……呼んだ相手に対する接し方とか、どういう自分を見せるかってことは、名前に左右される部分も大きいんじゃないかな」
だから、名前をつけるのなら、その人が何者かを定義づけるぐらいの大きな意味のあるのだ、と意識しなければならない。髭切が言外に言いたかったことは、十二分に膝丸に伝わった。
だが、それならば尚更、膝丸は悩んでしまう。自分が誰かの存在を大きく変える――などと、想像したことすらない。元より、自分は刀で髭切の兄で、それ以上の何者でもない。
そこまで考えて、ふと思う。
(俺にあるこの名が、俺が俺であると証明してくれている。兄者の弟であり、源氏の重宝である、この俺を)
己がそこにいて、何者であるかを証明しているのは『膝丸』という名だ。膝丸と誰かに呼ばれるからこそ、自分は自分でいられる。
ならば、彼女に名を与えるのなら、たとえ単なる通称であるにしても、呼びかけたときに彼女が良き者であると感じられるような名であるべきだ。
その担い手が自分であると思うと、やはり幾らか緊張を覚えるが、悪い気はしない。
(元より、俺と主のみが使う通称だ。気に入らないと本人に言われれば、返上すればいいまでのこと)
そう思えば、少し気楽にもなる。軽く深呼吸をして、膝丸は彼女の様子を思い出す。
さざ波一つたたない湖面を彷彿させる、静かな振る舞い。愚直とも思えるほどに姉を慕い、喧嘩した姉が送ってきた詫びの品に何か返礼をしたいと、揺るがぬ意思を持って二人に訴えた声。
兄との関係に亀裂を生じさせてしまった膝丸が、埋められない己の寂しさを『悪しきもの』として押し殺そうとしたとき。
寂しいは良くないことですか、と正面からこちらに向かって尋ねた瞬間を、今でも覚えている。
あの問いがあったから、己の感情に素直になろうと思えた。
周りに対して、あまり感情を揺らさなかった瞳は、次に会ったときは、純粋に再会への歓喜に満ちていた。
彼女の翡翠色の双眸は静かな湖面に似ていて、真夏の深緑よりは淡く、まるで春に目覚めた新芽たちのようだった。
「――若苗」
いつしか、言葉が口から滑り出ていた。
「それが、お前が選んだ名かい」
髭切の問いに、膝丸は無言で頷き返す。
顕現したばかりの刀剣男士のように、彼女にはどこか頼りない部分はある。先だって読んだ手紙から見ても、見識が深いとも思えない。寧ろ、無垢で無知な印象を受けるほどだ。
だが、それでも、空へと枝葉を伸ばそうとする若木の強さがそこに宿っていると、膝丸は感じていた。たとえ今はなかったとしても、前に進む強さを彼女に与えられればいいと願った。
春の光を浴びて育つ、若い苗木。
彼女の呼び名に、これ以上相応しいものはない。
「俺と主が使う、彼女への呼び名だ。悪い名ではないだろう?」
「そうだね。うん、良い名だと思うよ」
膝丸に対して笑いかけながら、髭切はふと口の中で主の本名を転がしてみる。
その名はどこか他人行儀で、けれども不思議な愛おしさを髭切に齎した。