本編第四部

 手に握る細くて硬い物の感触に、反射的に背筋が伸びる。緊張が程よく体中に行き渡っていく。この手の物を構えるのは、お遊びを除けば実に五年ぶりぐらいではなかろうか。
 修練用に作られた木刀独特の無骨で、それでも手に馴染む感触。けれども、決して軽いわけではない。両手で感じる重みは、この得物が玩具ではないと教えてくれた。
 眼前にいる歌仙に向かって、勢いよく一歩踏み出す。相手は重さを感じない自然な態度で、彼女――歌仙の主であり、今は藤と名乗っている女性が打ち込んだ渾身の一撃を受け止める。
 木同士がぶつかり合う音は、竹刀の音よりも少し重い。だからこそ――面白い。

「くっ、じゃあ、こっち……!!」

 鍔迫り合いで押し勝てる相手とは思っていない。
 ふっと力を抜き、今度は僅かな隙――それすらも恐らく作られた隙だろうが――で歌仙の胴にあたる部分を打ちにいく。
 しかし、ほんの数秒前には歌仙がいた位置には虚空があるばかり。あれ、と驚くより早く、藤の胴の方にぴたりと冷たい切っ先の感触。

「歌仙、動きが速すぎるよ」
「黙って胴を斬られにいくような馬鹿が、一体どこにいるんだい」
「確かに胴は狙ったけど、だけど腕を狙うわけにもいかないじゃないか。歌仙、籠手は装備してないし」

 藤の言う通り、歌仙の服装は紺色の胴着だけで、戦装束のときに装着している籠手はない。
 とはいえ、藤も白い着物に紺の袴だけで武具の類は身につけていないが、これは彼が打ち込んでこないと分かっているから身軽な格好でいるだけだ。

「なら、胴はいいと?」
「……いや、よくないけど、歌仙は筋肉質な体の持ち主だから大丈夫だと思って……あいてて」
「誰が頭まで筋肉だい」
「そこまで言ってないっ」

 ぐりぐりと拳骨をねじ込まれ、藤は悲鳴をあげる。暫くじゃれ合ってから、ようやく解放され、彼女は額から流れ落ちる汗を片腕で拭い去った。
 夏の終わりにかけて起きていた一騒動も終えた頃、既に暦の上では秋が近づいてきつつあった。夏場は暑さのあまり朝夕に鍛錬が集中しがちだった道場も、めでたく昼も活用されるようになり、刀剣男士が試合をする姿を目にする機会が増えた。
 最初こそ、藤は彼らの様子を横から見ていただけだった。だが、以前は人数合わせで鍛錬に混じっていたこともあるぐらい、彼女も剣術には興味を持っている。
 鍛錬の見学を始めて数日後には、藤も素振りや軽い手合わせに付き合うようになっていた。
 そうはいっても、藤の力量は彼らには到底及ばない。手合わせといっても実戦からは程遠く、今も歌仙と試合をしているというより、歌仙に実力の差を見せつけられるだけの結果となっていた。

「君の手癖かもしれないが、矢鱈と君は額と腕と胴体を狙うね。剣術については素人ではなさそうだと思っていたが、師がそのように教えたのかい?」
「額を打てば意識を奪えるから……ですか?」

 側にいた五虎退にさらっと物騒な解釈を加えられて、誤解をさせてはならないと、藤は勢いよく首を横に振る。

「ち、違うよ。僕がちょこっとだけやっていたのは剣道っていう武道の一種なんだけど、打っていい場所が決められているんだ」
「剣道とやらは僕はよく分からないが、打つ場所が決められているような剣では、いざというとき体が動かせないだろう」

 歌仙の言うことももっともだ、と藤は頷く。
 敵が額を打っただけで、動かなくなるわけではないだろう。そして、相手がその部位だけ狙ってくれるとも思えない。

「ちなみに、歌仙たちとしては……一撃で仕留めるなら、どこを狙う?」
「首だね」
「喉もいいですよ」
「ぼ、僕は首の後ろです」

 その場に同席していた歌仙、横から顔を見せた物吉、そして五虎退の言葉に、自分で尋ねておきながら藤は少し笑顔を引き攣らせる。さらりと人間の急所をあげられる辺り、彼らはやはり徹頭徹尾、刀なのだろう。

「主は、まずは素振りをもう少しした方がいいだろう。得物を振るうとき、余計なことを考えずに最速で敵を討つ手段に行き着けるように、無心になる癖をつけておくといい」

 そんなものだろうか、と藤は木刀をぶんっと振る。そうすると、空中に木刀の茶色い軌跡がゆるりと通り過ぎていく。それなりに質量のある物体ではあるにも関わらず、太刀筋は殆ど乱れていなかった。
 日頃鍛えているから乱れを生まずに振れる――というわけではなく、これは単に自分の血のおかげだろうと藤は思っていた。
 今は手拭いで覆われている、己の額。そこに生えている、薄緑色の一対の角。硬質な硝子に似たような透き通ったそれは、飾りではなく、正真正銘「生えて」いるものだ。
 皆が知っていることだが、藤は――この本丸の審神者は、鬼だ。
 常人よりも少し犬歯が尖っていたり、人の血液に関しての感じ方が異なっていたりなど、いくらか常人とは異なる身体的特徴はある。
 それ自体を、藤は小さいときから肯定的に受け入れていたため、今も否定しようとはしていなかった。
 そんな鬼としての身体的特徴の一つに、単純な腕力の強さがある。鍛えれば、もっと力強くなれるのかもしれないが、ともあれ今時点でも素振りをする程度ならふらつくことはない。

「ただね、主。素振りをするのはいいが、一番肝心なことを忘れてはいけないよ」

 歌仙は木刀を腰紐に手挟み、空いた両手で藤の両肩に手を置く。

「君がもし敵に襲われるようなことがあったら、戦おうなどと思っちゃいけない。全力で逃げて、僕らを探すんだ。たとえ何があろうと」
「分かってるよ。僕だって、時間遡行軍に勝てるなんて思ってないもの」

 時間遡行軍に会ったことはないが、戦闘においては並外れた才を持つ歌仙たちを傷だらけにするような相手だ。藤とて、自分が太刀打ちできる相手などとは、露ほども思っていない。
 たとえ、己が何者であろうとも、結局のところ己は平和な現代の生活に馴染んだ凡人であると、藤は忘れていなかった。

「おうおう、さっきから聞いていれば、随分と最初から逃げ腰な指導じゃねえか、之定!」

 独特の呼び名に、本丸中で一番よく通る声を持つその刀剣男士の名は和泉守兼定。
 今は長い黒髪を一つにまとめ、歌仙や藤と同じように道着姿に着替えている。一試合した後なのか、額からは幾筋か汗が流れ落ちていた。

「和泉守。きみはそう言うが、主にとっては逃走こそ生き延びるための一番の近道なんだよ」
「わーってるよ。オレは気構えの話がしたいんだ。逃亡が一番って分かってても、向かい合う強さも育てておくにこしたことはないだろ?」
「それは、そうだが」
「和泉守は、最初から逃げ腰では負けに行くようなものだと言いたいのだろう」

 和泉守の後ろから姿を見せたのは、薄緑の髪の青年――膝丸だ。和泉守と手合わせをしたのか、彼も少し暑そうに、手で団扇を作って首筋を扇いでいる。

「主。もしよければ、君の手合わせに付き合おう」
「いいの?」
「ああ。試合は既に何戦かしているからな。たまには、主に打ち込まれる側になるのも悪くなかろう」
「おやおや、お二人さんも随分と仲良しになったもんだね!」

 大きな声で会話に割って入ったのは、次郎太刀だ。
 彼特注の巨大な木刀をまるで小枝のように片手に携え、彼は二人へとそれぞれ視線を送る。今日は戦装束のときのように化粧をしていない分、皆の姉貴分というよりは気の良い兄さんといった風情だ。

「いや、仲良しというか」

 藤は言いつつ、ちらりと膝丸へと視線をやる。
 膝丸と藤の関係は一言では言い表せないほど、複雑な紆余曲折を経て今に至っていた。
 諸々の事情から本丸の業務を放棄していた藤に、膝丸が怒りを抱いたのがことの発端であり、藤が本丸に戻って正式に謝罪をしてからもその亀裂は残っていた。
 藤の様子を、膝丸の兄である髭切が殊更に気に掛けていたこともあり、一度生まれた罅は益々深い傷となってしまった。
 だが、最終的には膝丸が藤がやり直す姿勢を認め、自分が感情的になり過ぎていた部分もあったと反省したために、今は丸く収まっている。

「まあ……俺にも非はあったからな。主には、居心地の悪い思いをさせてしまった。申し訳ない」

 考えてもみれば、こんな形で謝罪した機会はなかったからと、膝丸は改めて静々と頭を下げる。
 彼から謝罪を貰って、驚いたのは藤の方だ。
 彼女としては、この話は一ヶ月ほど前に既に終わった話であり、それ以上彼に何かしてほしいなどとは思っていない。無論、頭を下げさせるつもりもない。

「そんな風に謝らなくてもいいよ。僕も……迷惑をかけたのは、事実だし」

 謝罪に対する定型文の如き返答をしつつも、藤は自分の胸中に不自然な引っかかりを覚えていた。
 膝丸に謝罪されることは、嫌なことでも何でもないはずなのに。
 不可解に思いながら、藤は膝丸に頭を上げるように促す。

「…………」

 側に居た和泉守は、二人のやり取りの様子を、感情をあまり見せない瞳でそっと窺っていた。




 膝丸との手合わせは、言うまでもなく藤の惨敗だった。
 勝てるとは思っていないが、顕現してまだ日が浅い膝丸になら、ハンデも加えれば或いは――と少しばかり期待も抱いたが、結果は強かに打った尻の痛みだけだった。

「やっぱり強い……。あ、でも髭切とは太刀筋が似てる気がする」
「そうだろうか。もしそうなら、俺としては嬉しいが」

 尊敬している兄に似ていると言われるのは、やはり特別らしい。膝丸は、得意げに口の線を吊り上げてみせた。

「そうだ。どうせだから、髭切も僕と手合わせしようよ。そうしたら、どこが似てるかとか分かるだろうし」

 ひょいと立ち上がり、藤は道場の片隅で黙々と素振りを繰り返していた髭切に呼びかける。髭切は主直々の呼び出しに、木刀を片手に携えて近づいてきた。

「僕が主と手合わせを?」
「うん。あ、本気は勘弁してほしいから、髭切の経験値にはならないかもしれないけれど」
「そうだねえ。えーっと……」

 髭切は己の木刀に目を向け、期待の眼差しを送る藤に視線をやり、やがてゆっくりと首を横に振った。

「僕はやめておくよ。万が一、主に怪我をさせても困るもの」

 てっきり色よい返事を貰えると思っていた藤は、目をぱちぱちと数度瞬かせる。
 髭切とは何度か既に手合わせの経験もあるし、そのときに彼が主に怪我をさせたことはない。
 髭切が負傷していたときに一度だけ、手元が狂って少し痛打を貰った覚えはあるが、十全の彼がそのような初歩的な誤りをするとも思えなかった。

「髭切、もしかして調子悪い?」

 ひょっとして、何か負傷でもしているのかと問うと、髭切はすぐに首を横に振った。

「……大丈夫だよ。ああ、そうだ。それなら堀川が手合わせの相手を探していたから、彼とやってくるといいよ」

 髭切は次なる案だけを示すと、早々にまた道場の隅へと戻っていってしまった。



 主が他の刀剣男士といると、何だか苛々する。
 そのことに気が付いたのは、同じ本丸の仲間である小豆長光が、彼女と一緒に何やらちょっとした事件の解決に勤しんでいる姿を目にしたときだった。
 藤が彼と共にいたのは、小豆が事件の中心人物に大きく関わっていたからだとは知っていた。
 それ以上の理由はそこになく、事件が解決した後は何事もなかったかのように、いつもの距離感に戻っている。

(だけど、僕は気がついてしまったんだ)

 道場の片隅で、無心になろうと素振りをしていても、今は余計な雑念が横から割り込んでくる。

(僕は、嫉妬をしていた)

 先だって気付いた、この感情。
 他の刀剣男士と共にいる主を見る度、自分を一番にして欲しいと願う己に気付いてしまった。
 小豆長光だけではない。
 歌仙であれ、五虎退であれ、物吉であれ、たとえ弟の膝丸であっても。

(歌仙は前のように、僕に当たらなくなったのに。今度は、僕が誰彼構わず八つ当たりしたくなってる)

 嘗て、主が歌仙たちを遠ざけて本丸の離れに閉じこもってしまった頃のことだ。
 歌仙は自分が主への接し方を間違えたと思い、同時に髭切は間違えなかったと考えた。その末に、歌仙には数度、一方的な対抗心を向けられていた。
 髭切としては、己だって一歩道を違えれば主を傷つける側に回っていたとは自覚している。
 ただ、ちょっとした運命の巡り合わせが、主の心情を理解させやすい位置に、自分を立たせてくれたというだけのことだ。
 ともあれ、今は主も歌仙と和解して、嘗てのように髭切に敵対心を向けることもなく、主をあらゆる形で支える役割に落ち着いている。
 対する自分はどうか。
 主の一番になりたいと願った。
 願うあまり、行き場のない怒りに似た感情――嫉妬を抱いている。
 嫉妬は良くないと、分かっているのに。

(嫉妬したら、鬼になってしまう。本当の、化け物としての鬼に)

 それを断つために、もう一振り。
 虚空を削る木刀は、今日も迷いを載せているせいか、切っ先がぶれている。
 定まった所で止まらない己の未熟さに、髭切は嘆息した。


「主さん、右!!」

 鋭い指示に従い、藤は反射的に体を右側へとずらす。
 突然の指示にあわせて、素早く体を動かすのは存外難しく、踏ん張りきれなかった足が縺れて思わず転びかける。
 だが、傾いた体は少年の手でしっかりと受け止められていた。

「……結構、言われた瞬間に動くって大変だね」
「咄嗟のときに、主さんが迷わずに行動できるようになるには大事なことですよ」

 姿勢を正して、藤は少しばかり乱れた息を整える。
 最初こそ堀川と鍛錬をしていたが、どうせ鍛えるなら純粋に戦う技術より、別の技術を身につけようと堀川が提案したのだ。
 その結果、刀剣男士が主を助けるために指示を出したとき、咄嗟に動けるようにするための心構えを得る鍛錬を藤は行っていた。
 当たらないと予め言われている木刀が、それでも何度も眼前を行き交う状態で、突然飛んでくる指示に応じるのは簡単ではない。単に命令された通りに動くだけだが、藤はすっかり神経をすり減らしてしまっていた。
 休憩にしましょう、と誘われ、堀川と一緒に壁に背をつけて腰を下ろす。すぐさま、堀川はクーラーボックスから冷えたペットボトル飲料水を渡してくれた。
 和泉守の助手を自称するからか、お手伝いが得意と豪語するだけあって、彼には手抜かりという言葉が辞書にないようだ。

「ありがとう、堀川」
「どういたしまして。僕は主さんの刀でもありますから」

 きびきびと言いつつも、堀川はちらっと和泉守にも視線をやる。
 そのまま自分用のペットボトルの蓋を開けようとしたのだろうが、ぼーっとしていたのか、彼の手は虚空を回していた。

「……堀川?」
「あっ、すみません。僕としたことが」

 改めて蓋をきゅっと開け、堀川は中身をぐいっと呷る。
 藤も座り直し、ペットボトルを頬に当て、その冷たさを堪能していた。
 そんな主の横顔を見つつ、堀川は再びそっと和泉守を見やる。

(兼さんは……僕がこうしているのを見て、どう思うんだろう)

 和泉守と藤の間にも、膝丸と同じように嘗ては亀裂が生じていた。和泉守を顕現したときから、藤は離れに既に閉じこもった生活だけをしていたからも、大きな理由の一つだ。
 そんな状態で何故顕現をしたのか。疑問に思って後から聞いた話によると、新しい刀剣男士を顕現していたのは、そうしなければ審神者を辞めさせられると政府の者に言われていたから、らしい。
 そんなある日、出陣の末に負傷した刀剣男士を前にして、彼女は一度手入れを断った。そこには彼女なりに大事な理由があったのだが、和泉守はそれを許すつもりはないと断言した。
 けれども、今は気安く声をかけるぐらいの仲にはなっている。今のような修練の時間のときには、何度か手合わせをしている姿も見た。

(だけど、兼さんは――一度も、主とは呼んでいない)

 あの決定的な断裂の後、和泉守は藤を『主』と呼ばなくなった。元々、顕現した瞬間から彼女への懐疑の念は抱いていたようだが、それが確信に変わったことで、彼女は『主』ではないと判断したらしい。
 堀川は既に習慣となっていたので、藤を『主さん』と呼び続けている。和泉守ほど、きっぱりと彼女を拒むこともできず、済し崩し的に彼女を主として受け入れた。
 最初は『そういうものだから仕方ない』という諦めから。
 今は――どうなのだろうか。

(兼さんが認めたら、僕も主さんを、ちゃんと主さんとして認められるのかな……)

 藤は己の心の内を、自らの心に傷を作りながらも打ち明けてくれた。
 それを受け入れたのは小豆で、すぐには受け入れられないと拒んだのが膝丸と和泉守で、それなら自分は、何を選んだのだろうか。
 そこで、堀川の問答はいつも止まる。
 ともすれば、主とこうして話しているのも、全て惰性から行っていることではないと思ってしまう。
 尊敬すべき主人だからとか、守りたいと思う人だからとか、もっともらしい理由もない。
 ただ何となく、刀と主はそういうものだから、という曖昧な根拠しかない。
 それは、堀川としても現状で良しとできない状態で、でもどうすればいいか分からないままで。
 和泉守を追っていれば、彼を指標にしていれば、とりあえずは迷わずに済む。そんな理由からも、今も彼を視線で追ってしまう。

「堀川も髭切も、ちょっと疲れ気味だよね。今日はゆっくり休んで、暫く何もしない時間を作ってみたら?」

 よほど陰鬱な顔をしていたのだろうか。藤から休息の提案をされて、堀川は素早く首を横に振る。

「やだなあ、僕は元気いっぱいですよ。でも、暑くて少し寝苦しくはあるんですよね。それに兼さん、ちょっといびきがうるさくて」
「聞こえてるぞ、国広ぉ!!」
「あ、まずい。何でもないよー、兼さーん!!」

 手合わせの最中だというのに、和泉守は軽口すら叩いてみせる。きっと彼は迷いがないのだろう。
 その背中が眩しくて――今は、少し遠い。

「……本当に大丈夫だよね? 暑いなら、夜中であっても冷房をつけてもいいよ?」
「平気ですってば。あまり涼しいと、今度は夜更かししちゃいそうですし。それに」

 そこまで言って、堀川はペットボトルを不意に藤へと渡す。同時に、すっくと立ち上がり、彼は手元に己の本体――脇差を出現させた。
 刀剣男士と刀は一心同体。必要とあれば、少しだけ時間はかかるが、己のすぐ側に本体を引き寄せるのは容易にできる。

「何者ですか」

 厳しい誰何の声より前に、手合わせのかけ声は既に失せ、道場は沈黙で包まれていた。
 凜と響く堀川の問いかけに応じたのは、道場の入り口からそっと入り込んできた小さな影。

「これはこれは。手合わせ中に、失礼致しました」

 山吹色の毛並みに、隈取りに似た真っ赤な紋様。
 愛嬌のある黒い瞳は、艶やかなビー玉のようにくるりと輝いている。

「審神者様にお話があってきたのですが、今どちらに?」

 ――こんのすけ。
 政府の遣いとされる管狐が、嘗て本丸に災いを齎した狐と同じ形の妖獣が、にこやかに微笑んだ。

 ***

「……それで、彼は一体何しにきたんだい」

 こんのすけを庭の転送装置まで送り届けた藤の背後から、歌仙が音もなく姿を見せる。眉間に深々と刻まれた皺が、彼の中に抱く疑念をありありと示していた。

「うん。ちょっと先の話なんだけど、今度いつもと違って大規模な演練をやる予定なんだって。それに参加するかどうかって、質問しにきたんだ。少しでも参加の意思があるなら、また日を改めて正式に説明のための人を送るって」
「本当に、それだけだろうね」
「本当に、それだけだったよ」

 歌仙が警戒するのも無理はない。藤とて、狐を目にしたときは内心どきりとしていた。
 こんのすけと呼ばれている狐たちは、見た目こそ愛くるしいが、政府の連絡係の役目も担っている。
 藤が審神者になる前、研修で教えられた内容によると、こんのすけは刀剣男士たちのように意思を持って活動する個体と、操り主が乗り移った状態で活動する個体の二つの種類があるらしい。

「ただ、あのこんのすけは……今まで話していたこんのすけとは大分違ってて、ちょっとびっくりした」

 藤はこんのすけの様子を思い出し、少し目を逸らす。
 藤が今まで目にしてきた個体は、彼女の担当をしている部署の長が憑依した状態で話をしていた。
 彼は厳格な仕事人であり、同時に何やら刀剣男士に対して良くない感情を持っていたため、藤に対して「刀剣男士とは距離を置くように」と何度も進言してきた。
 仮にも自分の上司なので、無碍にはできなかったが、藤は彼に対して強い苦手意識を抱き、ひいてはこんのすけそのものに対しても警戒心を抱いてしまうまでになっていた。
 その上司は既に別の部署にいるそうだが、次に赴任した人も似たようなものだろう。
 そう思っていたのだが、

「何か……すっごく人なつっこくて、演練の説明したら、油揚げが欲しいって言うから」
「油揚げ?」
「それで、あげたら、『はぐー、うんまい! やっぱり油揚げは最高!!』とかなんとか」

 藤の説明を聞いて、歌仙は突発的に頭痛に襲われたように額に手をやる。
 どこか遠く見ているような視線は、突然訪れた理解不能の説明を、どうにか呑み込もうとしてのことだろう。

「……それは間違いなくこんのすけ、なんだろうね?」
「本人はこんのすけって名乗ってたよ。ああ、式神用に調整された人格だから、慣れていないと風変わりなように感じるかもしれないって言ってた」

 マスコットキャラのようにお考えください、と自ら説明されては、警戒をする方が何だか馬鹿らしく感じる。
 すっかり毒気を抜かれてしまい、見送った今になっても、あれは幻覚だったのではと藤はどこかで思っていたほどだ。

「こんのすけは、ともかくとして。折角だから、その大きな演練のことに対して詳しく聞きたいって言ったら、審神者へ説明するために、支部長の人がここに来ることになるって言われてね。そんなわけだから、お茶の準備とか頼める?」

 来訪の予定日を提示すると、歌仙は「それなら問題ない」と一も二もなく頷いた。早速、彼の頭の中には、二つ三つの案が生まれていく。

「それで、きみはその大きな演練とやらに、誰を連れて行く予定なんだい?」

 普段の演練でも、連れて行ける刀剣男士の数は六振りだ。大きな演練という大仰な呼び方からすると、ひょっとしたら全員を連れて行くことは可能かも知れないが、逆に定員が狭まるとも考えられる。
 主の最初の刀としては、是非主の傍らに控えていたいと歌仙はつい思ってしまう。
 その一方で、新参の刀剣男士に経験を積ませる機会ではないかと、先達としての気持ちも芽生えている。
 うずうず半分、落ち着こうという気持ち半分で、歌仙が答えを待っていると、

「……そうだね。やっぱり来たばかりの刀剣男士にお願いしたら、場数を踏めて良いとは思っているんだけど」

 口元を手で覆うような姿勢をとり、藤は様々な提案を頭に浮かべては消していく。
 そんな中、彼女はぽつりと漏らした。
 考えの整理であるかのように、或いは自然な感情の発露として。ふ、と口からついて飛び出た言葉は、

「髭切は、行きたいって思うのかな」

 ただ何となく、彼はどうするのだろう――と。
 明日の天気はどうだろうとか、夕餉は何が出るのだろうとか、そんな他愛のない発言と大差なく、彼女は髭切の意見を聞いてみたいと無意識に問う。

「彼はどうだろうね。ここ最近は弟の稽古に付き合っているだろうし、自分よりも弟を行かせたがるんじゃないかな」

 彼女の疑問に、すぐさま歌仙は自分なりの見解を口にする。
 歌仙の見る限り、最近の髭切は戦いに熱中するというよりは、弟や他の男士との交流に注力しているらしい。
 いつもは飄々としている彼も、本丸の中では古参という認識をようやく得たのだろうと歌仙は捉えていた。

「えっ、あ……うん、そうだね。それはありえそうだ」

 返事をしつつも、藤は口元にそっと手をやる。
 髭切のことを話題にしたつもりはなかったが、知らない間に口から髭切のことが飛び出てしまっていたらしい。
 彼には沢山世話になったが、いくら本人から頼まれていたとしても、本当に贔屓するわけにもいかない。
 確かに、少しばかり髭切に対しては特別な感情を抱いている。それは認めざるを得ない。
 だが、それは彼が自分が閉じ込めていた本音を掬い上げてくれたからだ。
 正しい審神者であること、鬼として生まれた自分のこと、それらの在り方が上手く噛み合わずに閉じこもっていたとき、彼だけが正面からぶつかって、藤すらも見落としていた本音を拾い上げてくれた。
 そんな彼に対して、まるで頼りになる父のような兄のような、或いは師のような、年上の存在に対する敬意の念は抱いているとは自覚している。
 だから、ついつい未知の事象を前にすると、彼に頼りたくなってしまう。
 けれども、だからといって、依怙贔屓は良くない。
 それに、髭切が偏った重用を喜ぶような性格にも思えない。

(寧ろ、ちょっと距離を置かれている気がする。手合わせも断られちゃったし。髭切としては、いい加減に自立してくれって思っているのかな)

 自分は贔屓してくれとは以前頼まれたが、それは源氏の重宝として――名家の家宝としての当然の主張であって、字面通りの意味ではなかったのではないか、とすら考えられる。

「一応、打診はしてみるよ。髭切、戦うのは好きみたいだから」
「髭切はさておくとしても、この話を聞いたら、皆がこぞって手をあげるだろうね。覚悟しておくといいよ、主」
「嬉しいけど、そんな中から選ぶってなると難しいね。さて、どうしようかなあ」

 気が付けば、少し早くなった日暮れが藤たちの影を長く引っ張っていた。夕餉にしようと歌仙に誘われ、藤は庭を歩き、本丸へと向かう。
 髭切に対する苦々しいとも、或いは困惑とも言える感情は、話を終えてもなお後を引いている。
 けれども、彼女は今は蓋を閉めて、心の棚の上にそっと仕舞ったのだった。
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