本編第三部(完結済み)
簪を巡る一騒動に巻き込まれて、一週間と少し経った頃。藤の元に、ある贈り物が届いた。
丁寧な包装が施されたお菓子がいくつかと、手紙が一つ。送り主については、考えるまでもなく、すぐに誰かは分かった。
「あるじ、それは?」
玄関先から居間へと荷物を運び、今まさに封を開こうとしている藤に、丁度良く廊下を通りがかった小豆長光が声をかける。
振り返った藤は、返事の代わりに差出人を記した封筒の裏を小豆長光に見せた。
その流麗な筆跡で綴られているのは、簪に宿っていた少年――今は青年となった彼の名だ。
「かれは、なんといってきたのだ?」
「今から読むところ。ちょっと待ってて」
封を鋏で開き、触っただけでも上質と分かる紙を封筒から数枚取り出す。
簡単な季節の挨拶から始まり、そこには藤の先輩である煉の近況が綴られていた。
本丸はすっかり秋めいており、最近は朝晩は涼しいと感じるほどであるということ。三日月が髭切を茶に誘っているということ。
以前藤が遊びに行ったときは、まだ本丸にやってきたばかりだった謙信景光も、今は本丸に馴染んだこと。今度、大規模な演練があるようなので、参加を検討しているということ。
そんな審神者としての日々を綴った言葉の最後に、それはあった。
『母の件だが――結局、何もかもが元通りとはならなかった』
その文章を読み、思わず手紙を握る藤の手に力が入った。だが、続く言葉は決して悲観的なものではなかった。
『簪の約束について、母は覚えていたようだった。だが、本丸が壊滅したという認識は戻ってこなかった。ただ、少なくとも俺のことを、自分の息子だとは気が付いてくれた』
こんなにも、あっさりと――と、言葉が後を追う。
手紙をしたためていた彼は、きっとこの言葉を苦笑いしながら書いていたのではないか。藤には、そんな彼の姿がありありと思い浮かべられた。
『母に全てを思い出させるべきなのか、それとも今のまま静かに余生を過ごさせるべきなのかは、俺にもまだ分からない。だから、もう暫く考え続けていこうと思う』
彼にとっては、生まれたときからずっと付き纏っていた問題だ。一朝一夕では結論は出まい。
藤としても、鬼である自分と周りへの接し方については、全て答えが出ているとは思っていない。それと一緒なのだろう。
横をちらりと見れば、小豆長光が深く頷いているのが目に入った。どうやら、彼も同じ意見ではあるらしい。
『簪については、俺の手元に戻ってからは、特に妙な異変などは起こしていない。どうして、子供時代の俺があなたの小豆長光を慕ったのか、何故簪が祭りの会場に落ちていたのか。気になることはあるが、その答えに拘ってもさして意味は無いと考えている』
理屈だけなら、確かにいくらでも並べ立てられる。
たとえば、小豆長光は長船派の一振りでもあるため、長船派の祖である光忠を父に持つ子の思念が、縁につられて惹かれたとも言えよう。
以前、小豆が話したように、簪の付喪神が己に託された心を救いたいと送り出したのかもしれないし、光忠の幽霊が持ち去って事態を動かそうとしたとも考えられる。
だが、経緯や原因はどうあれ、結果は一つしかない。
故に、過程に固執するつもりはないと煉は結論を出したのだろう。
『ただ、これからは、もう少し――忘れていた子供時代を思い返して、今まで我慢していた分を取り返していけたら、と思うようにはなった。あなたには迷惑をかけてすまなかった。そして、本当に感謝している。ありがとう』
その後には、ささやかな別れの挨拶と共に彼の名で手紙は締めくくられていた。
手紙を読み終え、藤は思わず長く息を吐き出す。
ほんの一ヶ月にも満たない出来事であったというのに、まるで数ヶ月も悩まされていたような気すらした。
「……難しいね、大人になるって。僕、今年で成人なのになあ」
「にんげんはじぶんがおとなであるか、こどもであるかと、くぎりをつけてしまうから、なおさらなやんでしまうのではないか?」
小豆に指摘され、藤は手紙を再び読み返す。
出会ったときから、自分よりも審神者としても人間としても大人だと思っていた青年が、いったい何を思っていたのか。改めてこのような形で知ると、否が応でも考えさせられてしまう。
自分は、子供か大人か、果たしてどちら側に立っているのだろう、と。
「大きくなったら皆勝手に大人になって、我が儘を言わないで、人の役に立つことをしていく。それが良い大人で、かっこいいんだって思っていたんだけど――そんなに単純じゃないんだね」
菊理の様子、嘗ての己の様子、そして煉の選択をそれぞれ比べ、藤は三者三様の考えに思いを馳せる。
この問いに答えが出る日は来るのだろうか。そんなことを思って、ぼんやりと天井を見上げていると、ぽん、と頭の上に手が置かれた。
小豆長光の大きな手は、少し伸びて今は一つに結ばれている藤の髪の毛を、ゆっくりと撫でていく。
「むりに、こたえをださなくてもいいとわたしはおもうぞ。あるじは、あるじがただしいとおもうみちを、ゆけばいい。ほかのみなにもいわれたのだろう?」
「うん。そう……だね。そうだったものね」
周りの正しさに従おうとして、結果的に周囲を馬鹿にするような目で見てしまったのは、ほんの数ヶ月前の話だ。早々に忘れられるわけもない。
いつから、あのように周りに流されるようになったのかは定かではないが、少なくともそれは今の藤にとって、それは『良くない』ことだった。
(僕を大事にしてくれる人を、僕も大事にしたい。だけど、それは、僕が僕を大事にしない理由にしたくない)
自分は自分の心が正しいと信じる道を、今は歩いていくしかない。
そして、今の自分が何をしたいかと言うと、
「小豆、おやつにしようよ。こんなに美味しそうなお菓子貰ったんだから。僕、こっちの檸檬入りゼリーが食べたい。あ、でも、桃もいいな」
「なら、ほかのみんなもよんでこよう。このかしには、おちゃはなにがあうだろうか?」
「暑いから、麦茶か冷たい紅茶がいいんじゃないかな。僕、お菓子の用意してるから、小豆はお茶の準備とかお願いしていい?」
「ああ、もちろん」
もう一度わしゃわしゃと藤の頭を撫でてから、小豆はその場を後にする。彼が戻るまでに皆の分を箱から出しておこうと、藤はお菓子の包装を破り始めた。
***
何やら主の嬉しそうな声が聞こえて、髭切は自然とそちらに足を向けた。近頃、ついつい主の姿を探しては、彼女の様子を見守っていたくなってしまう。
決して、藤が弱いとか脆いと思っているわけではない。現に、あの新人審神者が藤をなじった後も、彼女は特に落ち込みもせずに普段通り過ごしていた。
ただ、どういう理由か、ふとした拍子に彼女のことを考えてしまう。
だが、何か困っていたら手を貸したい、という単なる助言者や指導者としての気持ちとも違う。刀として支えたいという従者としての忠誠心とも少し異なる。
そのくせ、藤が嬉しそうに笑っていても、何やらむかむかしてしまうときがある。
自分にではなく、歌仙や和泉守、次郎太刀といった面々と楽しそうに話している姿を見かける度に、まるで苦い汁でも呑まされたような気持ちになる。
それでいて、自分に笑いかけているときは、歓喜が体中にわき上がっていくのだから、わけが分からない。
(僕のことを頼りにしてくれるとは、言ってくれているのにね)
それだけでは物足りないのだろうかと、髭切は廊下を歩きながら、悶々と考え込む。主のことを考えると、最近はずっとこんな感じだ。
流石に出陣に支障がないように注意はしているが、このままではいずれ影響が出る可能性がゼロとは言えない。
そんなことを悩んでいるから、やけに彼女の声を耳が拾ってしまうのだろう。方角から察するに、どうやら居間にいるようだ。
「主の顔を見て落ち着くなら、主の顔を見に行けばいいんだ。うん、これで解決」
方針が決まったなら、後は行動あるのみ。居間の出入り口まで、あと数歩もない。
二本の足を踏み出して、居間に入って、主に声をかけようと思った。
――だが、足が止まる。
彼の目は、少しばかり開かれた襖の向こうから見える主を――正確には、主と彼女の隣にいる小豆長光を凝視していた。
主が小豆に、何事か話しかける。その顔には、髭切が半年間追い求めていた彼女の本当の笑顔が、向日葵が咲くように眩しい笑顔が輝いている。
小豆の手が主の頭に触れ、軽く撫でていく。藤は何の抵抗も無く、それを受け入れている。
(――――あれ?)
ただ、それだけのことのはずなのに。
突如、体の奥が沸騰したかのように、ぶわりと嫌な熱が湧き上がる。怒りとも悲しみとも違う何かが吹き上がり、歯を食いしばっていなければ叫びだしてしまいそうだった。
激情に振り回される髭切をよそに、小豆は席を立ち、こちらに向かってくる。
この廊下は一本道だ。どこかの部屋に入らなければ、小豆と鉢合わせしてしまうだろう。
(僕は、何を動揺しているんだろう……?)
心が揺れている。だが、その理由が分からない。
小豆と会いたくないと判断するに至った理由も、この突然生まれた熱の理由も、頭が理解していない。
感情ばかりが先行して、思考が追いつかない経験は今までも何度かあったが、顕現してからの一年でそんな事態も大分収まっていた――そう思っていたはずなのに。
ひとまず、手近な空き部屋に体を滑り込ませ、髭切は息を吐く。小豆が遠ざかったのを確認してから、髭切は改めて居間へと向かった。
この正体不明の感情も、主を見れば鎮まるのではないかと、彼は襖を開いて中へ入る。
「あ、髭切。丁度今、おやつにしようって話していたところなんだ。髭切は何がいい?」
羊羹に似た、色鮮やかなお菓子を並べている藤は、髭切に対してもにこやかに微笑んでみせる。それで、普段なら心穏やかになるはずだった。
だが、どういう理由か。彼女の笑顔を見てもなお、髭切の心にできた波は消えてくれそうになかった。
「髭切、どうしたの?」
動揺が顔にも出ていたのだろう。心配そうにしている藤に向けて、髭切はゆっくりと首を横に振り「何でも無い」と言う。口の端に力を込めれば、どうにか微笑みの形を作れた。
「さっき、主が小豆長光と楽しそうにしていたから、ちょっと」
ちょっと、何なのか。
できるなら、主が答えを教えてくれたらと、髭切は不自然な所で言葉を切る。
「ああ……うん。あの簪のことで、色々と話をしていたんだまだ全てが終わったわけじゃないのだろうけど、一旦僕が関われる部分は、上手くおさまったんじゃないかなって。それがどうかしたの?」
藤に尋ね返されても、髭切には答えの持ち合わせがない。結局、視線をあちらこちらに彷徨わせる結果になった彼の様子を見て、藤も眉を寄せる。
「祭りのとき、主は僕を頼りにしてるって言ってくれたけど、今回は小豆と解決したんだねって思って」
自分は何を言っているのかと、他ならぬ髭切自身が頭の中に疑問符を撒き散らしていた。
小豆と解決して、だから、それが何だというのだ。
どうして、ただそれだけのことを自分はこんなに気にしてしまっている?
「まあ、結果的に髭切の手は借りなくても大丈夫だったわけだね。あ、もしかして、髭切」
何か閃いたという顔で、藤はずいと髭切に向けて身を乗り出す。
「前にも言ってたあれ……そう、贔屓してもらえなくて、嫉妬してるの?」
瞬間、息が止まる。
「……え?」
「いや、そんなわけないよね。あ、そうだ。この前、菊理さんの言葉に怒ってくれてありがとう。髭切が代わりに怒ってくれたから、僕も落ち着いていられたんだと思う」
主がこちらにお礼を言っているというのに、髭切には彼女の言葉が遠く彼方から響いているように感じられていた。
たった一言の単語が、胸の中心に突如根を張り、全身を蝕んでいるような不気味な感触。そんなものに不意打ちのように襲われて、平静でいられるわけがない。
(――嫉妬?)
彼女の言葉を、心の中で繰り返す。
ずん、と胸の重みが増した気がした。
だが、どういうわけだろうか。この単語は、何故かあのもやもやした整理のつかない気持ちを、綺麗に説明しているようにも思えた。
(嫉妬は、よくないよ)
口こそ動かなかったものの、体の中心――髭切の核でもある物語の一つが、そっと自分へと囁きかけている。
(嫉妬はよくないよ。鬼になっちゃうから)
嫉妬に狂った女が変じた鬼。
その鬼の片腕を切り落とした刀。
それが、自分だというのに。
だけど、自分はこの『嫉妬』に納得してしまっている。
さながら水と油のような関係性であるはずなのに、『髭切』という物語の中には本来ありえない不純物が、どろりと染みこんでいく。
「髭切、何だか顔色が悪いけど……大丈夫?」
主がこちらを見つめている。そこに、余計な感情は一切交ざっていない。あるのは、ただ自分を案じる視線だけだ。
「……うん、大丈夫。僕は、大丈夫だよ」
何でもないことを示すために、髭切は机の上に並べられていた菓子の一つを手にとる。
「これ、おいしそうだねえ。もう一つ貰っていいかな」
「駄目だよ。膝丸の分ならいいけどさ。あと、僕はこれを食べたいから、これ以外にしてね」
「おや、ずるいなあ。それは、主の特権かい?」
「そういうこと! こっちは乱が好きそうな味かなあ」
主と言葉を交わしていれば、やがてざわめていた髭切の心も落ち着いていった。
だが、一度生まれた濁りが消えたわけではない。澄んだ水に零れ落ちた一滴の墨が、どれだけ薄まっても完全に焼失することはないのと同じように。
ひとたび意識した『嫉妬』は、髭切の胸中に深く根を下ろしていった。
丁寧な包装が施されたお菓子がいくつかと、手紙が一つ。送り主については、考えるまでもなく、すぐに誰かは分かった。
「あるじ、それは?」
玄関先から居間へと荷物を運び、今まさに封を開こうとしている藤に、丁度良く廊下を通りがかった小豆長光が声をかける。
振り返った藤は、返事の代わりに差出人を記した封筒の裏を小豆長光に見せた。
その流麗な筆跡で綴られているのは、簪に宿っていた少年――今は青年となった彼の名だ。
「かれは、なんといってきたのだ?」
「今から読むところ。ちょっと待ってて」
封を鋏で開き、触っただけでも上質と分かる紙を封筒から数枚取り出す。
簡単な季節の挨拶から始まり、そこには藤の先輩である煉の近況が綴られていた。
本丸はすっかり秋めいており、最近は朝晩は涼しいと感じるほどであるということ。三日月が髭切を茶に誘っているということ。
以前藤が遊びに行ったときは、まだ本丸にやってきたばかりだった謙信景光も、今は本丸に馴染んだこと。今度、大規模な演練があるようなので、参加を検討しているということ。
そんな審神者としての日々を綴った言葉の最後に、それはあった。
『母の件だが――結局、何もかもが元通りとはならなかった』
その文章を読み、思わず手紙を握る藤の手に力が入った。だが、続く言葉は決して悲観的なものではなかった。
『簪の約束について、母は覚えていたようだった。だが、本丸が壊滅したという認識は戻ってこなかった。ただ、少なくとも俺のことを、自分の息子だとは気が付いてくれた』
こんなにも、あっさりと――と、言葉が後を追う。
手紙をしたためていた彼は、きっとこの言葉を苦笑いしながら書いていたのではないか。藤には、そんな彼の姿がありありと思い浮かべられた。
『母に全てを思い出させるべきなのか、それとも今のまま静かに余生を過ごさせるべきなのかは、俺にもまだ分からない。だから、もう暫く考え続けていこうと思う』
彼にとっては、生まれたときからずっと付き纏っていた問題だ。一朝一夕では結論は出まい。
藤としても、鬼である自分と周りへの接し方については、全て答えが出ているとは思っていない。それと一緒なのだろう。
横をちらりと見れば、小豆長光が深く頷いているのが目に入った。どうやら、彼も同じ意見ではあるらしい。
『簪については、俺の手元に戻ってからは、特に妙な異変などは起こしていない。どうして、子供時代の俺があなたの小豆長光を慕ったのか、何故簪が祭りの会場に落ちていたのか。気になることはあるが、その答えに拘ってもさして意味は無いと考えている』
理屈だけなら、確かにいくらでも並べ立てられる。
たとえば、小豆長光は長船派の一振りでもあるため、長船派の祖である光忠を父に持つ子の思念が、縁につられて惹かれたとも言えよう。
以前、小豆が話したように、簪の付喪神が己に託された心を救いたいと送り出したのかもしれないし、光忠の幽霊が持ち去って事態を動かそうとしたとも考えられる。
だが、経緯や原因はどうあれ、結果は一つしかない。
故に、過程に固執するつもりはないと煉は結論を出したのだろう。
『ただ、これからは、もう少し――忘れていた子供時代を思い返して、今まで我慢していた分を取り返していけたら、と思うようにはなった。あなたには迷惑をかけてすまなかった。そして、本当に感謝している。ありがとう』
その後には、ささやかな別れの挨拶と共に彼の名で手紙は締めくくられていた。
手紙を読み終え、藤は思わず長く息を吐き出す。
ほんの一ヶ月にも満たない出来事であったというのに、まるで数ヶ月も悩まされていたような気すらした。
「……難しいね、大人になるって。僕、今年で成人なのになあ」
「にんげんはじぶんがおとなであるか、こどもであるかと、くぎりをつけてしまうから、なおさらなやんでしまうのではないか?」
小豆に指摘され、藤は手紙を再び読み返す。
出会ったときから、自分よりも審神者としても人間としても大人だと思っていた青年が、いったい何を思っていたのか。改めてこのような形で知ると、否が応でも考えさせられてしまう。
自分は、子供か大人か、果たしてどちら側に立っているのだろう、と。
「大きくなったら皆勝手に大人になって、我が儘を言わないで、人の役に立つことをしていく。それが良い大人で、かっこいいんだって思っていたんだけど――そんなに単純じゃないんだね」
菊理の様子、嘗ての己の様子、そして煉の選択をそれぞれ比べ、藤は三者三様の考えに思いを馳せる。
この問いに答えが出る日は来るのだろうか。そんなことを思って、ぼんやりと天井を見上げていると、ぽん、と頭の上に手が置かれた。
小豆長光の大きな手は、少し伸びて今は一つに結ばれている藤の髪の毛を、ゆっくりと撫でていく。
「むりに、こたえをださなくてもいいとわたしはおもうぞ。あるじは、あるじがただしいとおもうみちを、ゆけばいい。ほかのみなにもいわれたのだろう?」
「うん。そう……だね。そうだったものね」
周りの正しさに従おうとして、結果的に周囲を馬鹿にするような目で見てしまったのは、ほんの数ヶ月前の話だ。早々に忘れられるわけもない。
いつから、あのように周りに流されるようになったのかは定かではないが、少なくともそれは今の藤にとって、それは『良くない』ことだった。
(僕を大事にしてくれる人を、僕も大事にしたい。だけど、それは、僕が僕を大事にしない理由にしたくない)
自分は自分の心が正しいと信じる道を、今は歩いていくしかない。
そして、今の自分が何をしたいかと言うと、
「小豆、おやつにしようよ。こんなに美味しそうなお菓子貰ったんだから。僕、こっちの檸檬入りゼリーが食べたい。あ、でも、桃もいいな」
「なら、ほかのみんなもよんでこよう。このかしには、おちゃはなにがあうだろうか?」
「暑いから、麦茶か冷たい紅茶がいいんじゃないかな。僕、お菓子の用意してるから、小豆はお茶の準備とかお願いしていい?」
「ああ、もちろん」
もう一度わしゃわしゃと藤の頭を撫でてから、小豆はその場を後にする。彼が戻るまでに皆の分を箱から出しておこうと、藤はお菓子の包装を破り始めた。
***
何やら主の嬉しそうな声が聞こえて、髭切は自然とそちらに足を向けた。近頃、ついつい主の姿を探しては、彼女の様子を見守っていたくなってしまう。
決して、藤が弱いとか脆いと思っているわけではない。現に、あの新人審神者が藤をなじった後も、彼女は特に落ち込みもせずに普段通り過ごしていた。
ただ、どういう理由か、ふとした拍子に彼女のことを考えてしまう。
だが、何か困っていたら手を貸したい、という単なる助言者や指導者としての気持ちとも違う。刀として支えたいという従者としての忠誠心とも少し異なる。
そのくせ、藤が嬉しそうに笑っていても、何やらむかむかしてしまうときがある。
自分にではなく、歌仙や和泉守、次郎太刀といった面々と楽しそうに話している姿を見かける度に、まるで苦い汁でも呑まされたような気持ちになる。
それでいて、自分に笑いかけているときは、歓喜が体中にわき上がっていくのだから、わけが分からない。
(僕のことを頼りにしてくれるとは、言ってくれているのにね)
それだけでは物足りないのだろうかと、髭切は廊下を歩きながら、悶々と考え込む。主のことを考えると、最近はずっとこんな感じだ。
流石に出陣に支障がないように注意はしているが、このままではいずれ影響が出る可能性がゼロとは言えない。
そんなことを悩んでいるから、やけに彼女の声を耳が拾ってしまうのだろう。方角から察するに、どうやら居間にいるようだ。
「主の顔を見て落ち着くなら、主の顔を見に行けばいいんだ。うん、これで解決」
方針が決まったなら、後は行動あるのみ。居間の出入り口まで、あと数歩もない。
二本の足を踏み出して、居間に入って、主に声をかけようと思った。
――だが、足が止まる。
彼の目は、少しばかり開かれた襖の向こうから見える主を――正確には、主と彼女の隣にいる小豆長光を凝視していた。
主が小豆に、何事か話しかける。その顔には、髭切が半年間追い求めていた彼女の本当の笑顔が、向日葵が咲くように眩しい笑顔が輝いている。
小豆の手が主の頭に触れ、軽く撫でていく。藤は何の抵抗も無く、それを受け入れている。
(――――あれ?)
ただ、それだけのことのはずなのに。
突如、体の奥が沸騰したかのように、ぶわりと嫌な熱が湧き上がる。怒りとも悲しみとも違う何かが吹き上がり、歯を食いしばっていなければ叫びだしてしまいそうだった。
激情に振り回される髭切をよそに、小豆は席を立ち、こちらに向かってくる。
この廊下は一本道だ。どこかの部屋に入らなければ、小豆と鉢合わせしてしまうだろう。
(僕は、何を動揺しているんだろう……?)
心が揺れている。だが、その理由が分からない。
小豆と会いたくないと判断するに至った理由も、この突然生まれた熱の理由も、頭が理解していない。
感情ばかりが先行して、思考が追いつかない経験は今までも何度かあったが、顕現してからの一年でそんな事態も大分収まっていた――そう思っていたはずなのに。
ひとまず、手近な空き部屋に体を滑り込ませ、髭切は息を吐く。小豆が遠ざかったのを確認してから、髭切は改めて居間へと向かった。
この正体不明の感情も、主を見れば鎮まるのではないかと、彼は襖を開いて中へ入る。
「あ、髭切。丁度今、おやつにしようって話していたところなんだ。髭切は何がいい?」
羊羹に似た、色鮮やかなお菓子を並べている藤は、髭切に対してもにこやかに微笑んでみせる。それで、普段なら心穏やかになるはずだった。
だが、どういう理由か。彼女の笑顔を見てもなお、髭切の心にできた波は消えてくれそうになかった。
「髭切、どうしたの?」
動揺が顔にも出ていたのだろう。心配そうにしている藤に向けて、髭切はゆっくりと首を横に振り「何でも無い」と言う。口の端に力を込めれば、どうにか微笑みの形を作れた。
「さっき、主が小豆長光と楽しそうにしていたから、ちょっと」
ちょっと、何なのか。
できるなら、主が答えを教えてくれたらと、髭切は不自然な所で言葉を切る。
「ああ……うん。あの簪のことで、色々と話をしていたんだまだ全てが終わったわけじゃないのだろうけど、一旦僕が関われる部分は、上手くおさまったんじゃないかなって。それがどうかしたの?」
藤に尋ね返されても、髭切には答えの持ち合わせがない。結局、視線をあちらこちらに彷徨わせる結果になった彼の様子を見て、藤も眉を寄せる。
「祭りのとき、主は僕を頼りにしてるって言ってくれたけど、今回は小豆と解決したんだねって思って」
自分は何を言っているのかと、他ならぬ髭切自身が頭の中に疑問符を撒き散らしていた。
小豆と解決して、だから、それが何だというのだ。
どうして、ただそれだけのことを自分はこんなに気にしてしまっている?
「まあ、結果的に髭切の手は借りなくても大丈夫だったわけだね。あ、もしかして、髭切」
何か閃いたという顔で、藤はずいと髭切に向けて身を乗り出す。
「前にも言ってたあれ……そう、贔屓してもらえなくて、嫉妬してるの?」
瞬間、息が止まる。
「……え?」
「いや、そんなわけないよね。あ、そうだ。この前、菊理さんの言葉に怒ってくれてありがとう。髭切が代わりに怒ってくれたから、僕も落ち着いていられたんだと思う」
主がこちらにお礼を言っているというのに、髭切には彼女の言葉が遠く彼方から響いているように感じられていた。
たった一言の単語が、胸の中心に突如根を張り、全身を蝕んでいるような不気味な感触。そんなものに不意打ちのように襲われて、平静でいられるわけがない。
(――嫉妬?)
彼女の言葉を、心の中で繰り返す。
ずん、と胸の重みが増した気がした。
だが、どういうわけだろうか。この単語は、何故かあのもやもやした整理のつかない気持ちを、綺麗に説明しているようにも思えた。
(嫉妬は、よくないよ)
口こそ動かなかったものの、体の中心――髭切の核でもある物語の一つが、そっと自分へと囁きかけている。
(嫉妬はよくないよ。鬼になっちゃうから)
嫉妬に狂った女が変じた鬼。
その鬼の片腕を切り落とした刀。
それが、自分だというのに。
だけど、自分はこの『嫉妬』に納得してしまっている。
さながら水と油のような関係性であるはずなのに、『髭切』という物語の中には本来ありえない不純物が、どろりと染みこんでいく。
「髭切、何だか顔色が悪いけど……大丈夫?」
主がこちらを見つめている。そこに、余計な感情は一切交ざっていない。あるのは、ただ自分を案じる視線だけだ。
「……うん、大丈夫。僕は、大丈夫だよ」
何でもないことを示すために、髭切は机の上に並べられていた菓子の一つを手にとる。
「これ、おいしそうだねえ。もう一つ貰っていいかな」
「駄目だよ。膝丸の分ならいいけどさ。あと、僕はこれを食べたいから、これ以外にしてね」
「おや、ずるいなあ。それは、主の特権かい?」
「そういうこと! こっちは乱が好きそうな味かなあ」
主と言葉を交わしていれば、やがてざわめていた髭切の心も落ち着いていった。
だが、一度生まれた濁りが消えたわけではない。澄んだ水に零れ落ちた一滴の墨が、どれだけ薄まっても完全に焼失することはないのと同じように。
ひとたび意識した『嫉妬』は、髭切の胸中に深く根を下ろしていった。