本編第三部(完結済み)
翌日、藤は小豆と共に菓子折りの入った袋を片手に、三日月に教えてもらった住所へと向かっていた。調べたところ、その場所は然程本丸からも遠くなく、電車で揺られれば二時間ほどで到着することができると分かった。
そうして、普段は乗り慣れない電車を使い、ビルや商店街の代わりに民家が建ち並ぶ地域までやってきた辺りで、二人は電車を降りた。
じゃんじゃんと鳴り響く蝉時雨。ざわざわと揺れる木々と、所々に見える青々とした田んぼ。
農地と住宅が入り乱れたような地域であり、そのおかげか、漂う空気はどこか緩やかだ。道を往く人々も、穏やかに談笑している姿が目立つ。
長い坂道を下り、藤はようやく目的地へと辿り着いた。
「ここ、だよね」
「そのようだな。あるじのたんまつも、ここでせいかいだとひょうじしているぞ」
藤が見つめた先、そこには少し広めではあるが、どこにでもよくある平屋の民家があった。
庭には数本の背丈が低い木が植えられており、玄関口には鉢植えが並べられている。すくすくと蔦を伸ばした朝顔は、既に昼の日差しにやられて萎んでいた。
「あるじ、ここにくるまえに、かれにはれんらくをしたのかい?」
「しようと思ったんだけど、繋がらなかったんだよね。どうにも、電源を落としているみたいで」
結果的に不意打ちのような訪問になってしまうが、今は仕方ない。藤は『相模』と書かれた表札の下、据え付けられている呼び出し用のインターホンをゆっくりと押した。
ピンポンという甲高い音が響く。続けて、
「はい、どなたでしょう?」
おっとりとした女性の声に、藤は思わずごくりと唾を呑んだ。藤が夢の中で聞いた女性の声と、インターフォンから聞こえてきた声は、多少嗄れてはいるが全く同じものだった。
「えっと、煉さん……その、息子さんに会いに来たのですが」
おずおずと切り出し、藤は様子を窺う。果たして、幻の本丸の中で生きている彼女は、何と答えるのだろうか。
固唾を呑んで待っていると、女性は不思議そうな声で、
「ええと……別の家と勘違いをしていないでしょうか。私には、息子などおりませんが」
一瞬、自分は言葉を正しく認識できなくなってしまったのかと、藤は錯覚しかけた。それほどまでに、女性の発言の意味を理解することを、頭が拒んでいた。
「あの、でも、煉さんはあなたの」
そこまで言いかけたとき、話している女性の後ろから足音がした。何事か話し合うやり取りが遠くで聞こえた後、ぶつりとインターホンが切られる。同時に、少し重たげな床を踏む音が家の奥から響き、がらりと玄関の引き戸が開く。
「藤殿、どうしてここにあなたがいるんだ?」
引き戸の向こうに立っていたのは、以前に何度か相談にも乗ってもらった先輩の審神者――煉に間違いなかった。
紫紺の髪に、黄金色の瞳。そして、出会ったときから感じていた、どこか浮き世離れした印象を相手に持たせる整った顔立ち。
今こうして考えてみれば、その瞳や面差しは父親の燭台切光忠に似たものだと藤にも分かった。彼が纏う俗世からは切り離したような空気は、片親が付喪神だったからだろう。
帰省中のためか、今の彼はいつもの着流しではなく、シャツにズボンという簡素な格好をしていた。
「煉さんこそ、さっきの人は息子なんていないって……あれは、一体どういうことなんですか?」
自分の事情を話すのが先だと理解していたが、藤は問わずにいられなかった。まるで息子が存在していないかのような物言いに、混乱していたと同時に、言い知れない不気味さも感じていたからだ。
尋ねられた煉は、眉間に皺を寄せ、どう答えるか悩んでいるかのように、何度か口を開けたり閉めたりしている。
「なにか、じじょうがあるのだろう。あるじ、さきにかれに、かんざしについてはなしたほうがよいのではないか」
「それもそうだね、小豆。煉さん、僕たち実は、煉さんのお母さんに返したい物があって、ここにきたんです」
「母さんに? どうして、あなたが」
そこまで彼が言ったときだった。
「あら、光忠。お客様?」
青年の背後から、ほっそりとした女性の影が姿を見せた。
年の頃は五十を超えているだろう。白髪が交じった髪を緩く一つに結い、夏の季節に合わせてか、薄い生地の着物を纏っていた。
だが、今は彼女がどんな身なりをしているのかについて、藤にはどうでもよかった。
それよりも、もっと気になる言葉を彼女は口にしてしまっていた。
「……あの、今、なんて」
ざわざわと、心の片隅が嫌な予感に震えている。自身の考え得る限り、最悪の予想が思い浮かび、同時に否定したいと心が叫んでいた。
しかし、彼女の希望を打ち砕くように、女性は言う。
「光忠。お客様をこんな暑い中で待たせていては駄目でしょう。ほら、ご案内しないと」
本丸を失い、幻の本丸に逃げ込んだ、嘗て審神者だった女性。
彼女は、自身の息子であるはずの青年を、既に折れた刀剣男士の名で呼んでいた。
***
呆気にとられている藤や小豆とは対照的に、煉は落ち着き払った様子で、彼らを玄関先から奥の間へと案内してくれた。
古びた家屋独特の温もりを感じさせる木製の床板は、体重をかける度にぎしりと程よく軋んだ音をたてる。その音と共に、三人は奥の間に辿り着いた。煉の母親は、彼にお茶をいれてほしいと頼まれ、今は席を外している。
部屋の壁に架けられた時計は、長く時を刻んでいたためか、すっかり日に焼けて、やや黄ばんで見える。普段は憩いの場として使われている部屋なのか、いくつかの本棚やテレビが据え付けられている。
ごくごく一般的な家庭の光景。だからこそだろうか。
どうしても、先だってのやり取りから漂う異質さが浮き彫りになってしまう。
「それで、今日はどうして、こんな所までやって来たんだ? それより、そもそもどうやってここを知った?」
幾らか警戒の色を帯びた問いであったのは、それは仕方ないと藤も承知していた。
審神者でなかったとしても、自分の実家に仕事場の同僚が突然姿を見せたら、不審に思って当然だ。
「三日月さんに教えてもらったんです。煉さんのお母さんの物を、僕の刀剣男士がたまたま拾って、それで返したくて」
「まず、なにがあったかについて、わたしからせつめいしよう。ことのはじめは、わたしがまつりで、かんざしをひろったことがげんいんなのだ」
小豆は背筋を伸ばし、主の代わりにこれまで起きた出来事を、要点だけ絞って説明していく。
簪を手に入れてから体験した奇っ怪な現象について、話すにつれて、煉の顔には先程とは異なる表情がゆっくりと浮かび上がっていった。
まるで、誰かを悼んでいるような悲しげな表情は、現実を見失った母に代わって、焼失した本丸の刀剣男士に哀悼の念を捧げているように見えた。
「……そういうわけで、このかんざしは、もつべきものにかえすべきだとおもった。それが、あなたのははぎみか、あなたじしんなのかは、わたしたちでははんだんしかねた」
言いつつ、小豆は簪を机の上にそっと載せる。照明の灯りを受けて、簪は今はひたすら沈黙に徹していた。
暫く、静寂が空間を支配する。重く降り積もる沈黙の代わりに、窓の向こうで蝉が終わらない合奏を延々と続けている。
だが、やがて蝉も疲れを感じたのだろうか。じー、という音を最後に、本当の無音が世界を覆った。
その間隙を縫うように、煉は言う。
「迷惑をかけたようで、すまなかった。自分のことなのに、あなたに負担を押しつけてしまった形になったらしい」
「いえ、いいんです。そんなことは」
藤は咄嗟に首を横に振る。菊理が倒れたのは、結果的に巡り合わせが悪かったからであり、寧ろ薄々不穏な気配を感じながらも管理が不十分だった自分のせいだとすら、藤は思っていた。
煉は机の上に置かれた簪に手を伸ばし、拾い上げる。持ち上げた拍子に、微かに金属の擦れる音が響いた。
「――どうして、忘れていたんだろうな」
先輩として後輩を諭す目も、刀剣男士に揶揄われて快活に笑う主の目も、そこにはない。彼は昏く沈んだ瞳で、簪を見つめていた。
「確かに、俺はあの祭りの日、父と教えられていた刀剣男士に出会った。そして、これを返してほしいと頼まれた。……今の今まで、忘れていたよ」
「……それで、煉さんは返したんですか?」
煉は、ゆっくりと首を横に振る。弾みで、緩く結んだ彼の髪が音もなく揺れた。
「母のことについては、あなたたちも教えてもらったんだろう? 彼女は俺が物心ついたときから、今はもう存在しない本丸を、まるでつい先日までそこにいたかのように話していた。この簪を渡したら、より彼女の心が本丸に向けられてしまうような気がして……いや、違うな」
そこまで言ってから、彼は笑った。その笑顔は、藤もよく知った笑みだった。
己の心の柔らかな部分を隠すために、必死に作り上げた仮面。自分が平気だと、周りに、そして自分自身を偽るために見せる嘘の笑顔だ。
「俺は怖かったんだ。もし、彼女があんなに大事にしていた本丸がもう無いと、気が付いてしまったら。もし、彼女が俺の父の後を追って、いなくなってしまったら。それが怖くて、俺は結局渡さなかった。ずっと、自室の荷物の中に紛れ込ませていたんだろう」
「でも、泣いたお母さんを前にして、守ってあげたいと思ったと僕に話してくれたのも、僕は事実だと信じてます」
――だから、そんな風に笑わないでほしい。
あのとき、きっと髭切も似たような気持ちだったのだろう。ひたすら笑い、己の非を詫びてばかりの主の姿を見て、今の自分のように、胸がしめつけられるような思いに駆られたに違いない。
「煉さんは、これ以上お母さんに甘えちゃいけないと思って、子供の自分からお別れするための証のように簪を捉えていたんじゃないでしょうか。少なくとも、僕はここに宿る子供の声を聞いて、そう感じました」
「そうかもしれないな。だから、情けない『子供の俺』を、俺はここに封じたのかもしれない」
「なさけないことではないと、わたしはおもうぞ」
できる限り、あの夢の中にいた青年の目を――彼の瞳に籠もっていた思いの一割でも、目の前の青年に届ければと願いながら、小豆は続ける。
「あのこどもは、わたしに『おいていかないで』と縋った。そして『おかあさん、ぼくをみて』と必死に叫んでいた。さきほどのごふじんのようすからさっするに、かのじょは――」
さざ波一つたたない水鏡の如き瞳を持った青年へ――無邪気に母と父に甘えていたかったはずの少年へと、小豆は言う。
「かのじょは、あなたを『光忠』とおもいこんでいる。あなたもずっと、しょうちのうえで、そのやくわりをえんじつづけている。かのじょのこどもとしての、ほんらいもつたちばをすてて。ただ、ははおやのために」
それが、どれほどの精神的な痛みを強いることになるのか。小豆には想像もできない。
だが、全ての感情を殺したような目を持った青年の顔が、彼が受けた痛みの全てを物語っていると小豆も藤も理解していた。
「あなたのなかにある『こども』は、あなたにとって、ほんらい、あたりまえであるべきだったものだ。それを、なさけないなどとは、どうかいわないでほしい」
小豆の言葉を聞いて、煉は長く息を吐く。その姿を見て、藤は親近感すら覚えていた。
煉は成熟しきった大人であり、審神者としての先輩として、自分よりずっと先を歩いていると思っていた。
だが彼が今こうして見せた顔は、藤となんら変わることのない、どうしようもない現実に藻掻き続けた者の表情だった。
「そうして、行き場をなくした心が、周りに迷惑をかけたんじゃ世話ないな」
「ここには、嘗て審神者だったあなたのお母さんの思いも、お父さんの刀剣男士の思いも込められているって教えられました。だから、煉さんのせいだけじゃないです」
別に、彼に頭を下げてもらうために、今日はここに来たわけではない。
心を壊した母や、既に折れた刀剣男士の代わりに、彼に謝ってもらいたいなどとは、藤は微塵も考えていなかった。
「それに、煉さんが小さい頃……いえ、今でも構いません。お母さんやお父さんに会いたいって願ったり、一緒に過ごしたいって縋ったりすることは……甘えたいって思うことは、悪いことではないはずです」
「あなたにとってはそうだろう。だが、俺にそれを望む人はいなかったんだ。望まれてもいない甘えなど、ただの押しつけにしかなならない。挙げ句、他人にまで構ってもらおうとするなんて」
煉は簪を握る手に、ぐっと力を込める。そのまま彼が折ってしまうのではないかと、藤が息を呑んだときだった。
「いいや、のぞんだひとはいたぞ」
岩を打つ水音のように、静かに、しかしはっきりと、小豆長光は言う。
「ゆめであった光忠は、わたしにこういっていた」
――彼はたまに忘れてしまうようなんだ。だから、君の方から彼に教えてあげてくれないかな。
夏祭りの幻の中、乾いた諦めを混ぜて彼が告げた言葉の意味が、今の小豆には分かる。
あれは、単に光忠が主の子供を気遣って口にしただけの言葉ではなかった。
小豆や歌仙が藤に見せるものとはまた違う、大きな愛情と計り知れない優しさから発せられた言葉は、
「かれは、ちちとして、あなたにそういっていたのだ。こどもだったころにいだいたおもいを、わすれないでほしいと」
父でもないのに父と呼ばれ、置き去りにされた子供時代の心持つ少年に、小豆は何度も夢の中で慕われ、共に遊んだ。
そうして今、失われた本当の父の代わりに、子供の心を封じて成長した青年へと、父親が託したかった言葉を放つ。
「それを、ふようなものだとは、すくなくとも、わたしはおもわない」
結論を出すのはあくまで自分ではないと、小豆は言う。
煉が憐れだと慰めるのは簡単だ。しかし、可哀想という言葉は思わぬ形で人を傷つけると、以前藤にも教えられた。
それに、優しさだけが全てを良い方向に動かせるものではないと、彼はもう知っている。
煉が失われた『燭台切光忠』の役を演じ続けるのも、彼なりに母への優しさではあったのだろう。だが、その優しさが万事全てを良き方向に導いているとは、小豆には到底思えなかった。
それで全てが上手くいっているのなら、目の前の青年がこのような顔を――夢の中で小豆に縋った少年と同じ顔をするわけがないのだから。
「……燭台切光忠は、そう言ったのか」
乾いた――同時に、少し震えを残した声で、煉は問う。
小豆は念を押すように、もう一度頷いた。
ふつりと火が消えたように、しんと静まった空気が辺りを包む。
何秒、いや、何分そうしていただろうか。
不意に、音がした。
最初、藤や小豆には、その音が布が擦れた音に聞こえた。
だが、
「は……はは、そう、か。そんな、ことを、言ってたのか」
それは、掠れた笑い声だった。
「そんなことを、あの人は、俺に言ってたのか」
湿っぽさを僅かに覗かせた声で、彼は――笑っていた。
「そんな風に思ってくれてるなんて、考えたことも、なかったな」
「……だって、煉さんは光忠さんの子供なんでしょう。親が、子供を案じるのは、当たり前だと……」
「そう言えるのは藤殿、あなたのご両親がきっといい人だったからだろう」
煉は藤から視線を逸らし、どこか遠く――恐らくは燭台切光忠へと思いを馳せているような瞳で、ゆっくりと口を開き、語り始めた。
「ここまで関わってしまった以上、あなたには話すべきなのだろうな」
前置きを挟んでから、彼は言う。
「俺は、あの刀剣男士の単純な忘れ形見じゃないんだ」
何やら含みを持った言い回しに、藤は首を傾げた。
ごく自然な発想として、本丸が襲撃される前に審神者と光忠の間に何らかのやり取りがあって、襲撃時に彼女は既に身籠もっていたのだろうと考えていた。
だが、藤が己の推測を口にすると、彼はゆっくりと首を振り、否定を露わにした。
「襲撃時、彼女の体にそのような兆しはなかったと、政府の者が保障している。これは、推測も挟むが……」
煉は言いづらいことを打ち明けようとしているかの如く、一つ深呼吸を置く。
「審神者としての力があったからかもしれないが……母は、既に折れて失われたはずの父の――燭台切光忠の魂を己の想いだけでつなぎ止め、子を成した。専門的な言い回しだと、死者と結ばれるのは冥婚と言うそうだ。母が成し遂げたのも、それに近かったのだろう」
淡々と語られていたが、その言葉の内容は一人の女性の執念を端的に示していた。
死した者が生きているという夢に縋りたい気持ちは、まだ分からないでもない。
だが、深い悲しみを理由に、眠った者の魂を揺り起こして、あまつさえ結ばれるといった行動は、最早人の理解の域を超えた狂気染みた妄執と言えよう。
「そうして、俺が生まれた。だから、俺の周りには、死した者が持つ独特の穢れが染みついている。片親が死者だから、こうなってしまっているんだろう。結界や神域に入ると体調を崩すのも、そういう理由からだ。初めて藤殿に会ったとき、俺が穢れていると非難した子供がいたのは覚えているだろうか。彼女は、きっと一目見て俺の穢れに気が付いたから、あんな発言をしていたんだ」
忘れもしない、藤が菊理に初めて出会ったときのことでもある。
彼女は煉が穢れを持っていると指摘して、生まれつきだと彼が言った瞬間、汚い物でも見るかのように距離を置いた。
それがどういう理由かは、菊理本人に聞くまでは分からない。しかし、少なくとも菊理は単なる言いがかりではなく、明確な理由があって彼を拒絶していたのだ。
「安らかに眠った魂を無理矢理揺り起こすような形で結ばれて、そうして生まれた子供など、あの刀剣男士は――燭台切光忠は疎んでいるんじゃないかと、自分の生まれを知ったときから思っていた」
だが、小豆が伝えた言葉が、青年の――一人の子供の懸念を払拭した。父親は死してもなお、僅かに宿った思いの中ですら、子を案じ続けていた。
「……燭台切光忠という刀剣男士が、ずっと苦手だった」
喉の奥から絞り出すような声は、顔も知らぬ父を呪う声のようにも聞こえた。
母の心を乱し、母の現実を壊した大きな引き金となり、己を父の替え玉にした原因そのものである存在に向ける感情が、単なる悲しみだけで済むはずがない。
審神者の先輩としての煉の顔しか見たことがなかった藤は、彼の心の内に存在する生身の人間としての姿を今初めて、目にしていた。
「あいつは、俺の全てを奪っていった。壊していった。母もそうだ。彼女の目には、最初から俺はいなかった。ただ、自分が好きな男の子供が欲しかっただけだと、ずっと思っていた」
「……でも、あなたは仮面をつける選択をしたんですね」
煉が吐き出した憎悪混じりの慟哭じみた吐露に、藤は静かな言葉で返答する。
「お母さんを傷つけるんじゃなくて、自分が傷つく選択をしたんですね」
他人から向けられる身勝手な優しさを、不要だと承知していたものの、笑顔で受け止める選択をした。そんな在りし日の自分と似た姿が、そこにはあった。
だからこそ、彼は自分を放っておかず、あれほどまで親身になって相対してくれたのだろう。
「そんなに大層なものじゃない。ただ、怖かったんだ。自分は、本当は誰にも必要とされていないのではないか、生きているか死んでいるかも分からない状態でここにいていいのか、自信が持てなかった。光忠の代わりは――父に似た顔がある俺だけができることだと、思えたから」
「……本丸の刀剣男士たちのことは?」
問いながらも、既に彼の中で答えはあるのだろうと藤には分かっていた。答えがあるからこそ、あの日、煉は藤にあれほどまで的確に言葉を投げかけられたに違いない。
だからこの質問は、煉の自問自答に藤が付き合っているだけでもあった。
「最初は、ただ逃げ込んだだけだった。俺の審神者としての才を必要としてくれる人がいるなら、母から逃げられるなら、何でもいいと思っていた」
自分の心を殺し尽くそうとした嘗ての藤に、煉が付き合ってくれたように、藤は黙って彼の言葉を受け止める。
「刀剣男士の存在自体、正直苦手だった。だけど、あなたもよく知っているように……あいつらは、本当に、いい奴すぎるんだ」
哀切と怨嗟を混ぜたようだった声が、ゆっくりと普段の彼へと戻っていく。
本丸で過ごした日々を振り返っているのか、思い出し笑いを浮かべる彼は、藤のよく知る頼れる先輩としての『煉』であった。
「燭台切光忠も、あのいい奴すぎる刀剣男士の一人だった。それと同時に、俺の父親としても──在ってくれていたんだな」
その言葉を聞いて、あのとき髭切に簪が壊されなくてよかったと、藤は心底から思う。
目を細め、慈しむように簪を見つめる青年の横顔には、確かに子供の頃の彼の笑顔に似たものが宿っていた。
「それで、この簪は僕からお母さんに返しておきましょうか?」
重苦しい空気を払うためか、場を仕切り直すように藤は一呼吸置いてから、煉へと尋ねる。
先程よりも、やや快活な語調で話しかけたのも、話を切り替えようと意図してのことだった。
煉も藤の考えを汲み取ってくれたのか、これ以上自分の話題は出さず、神妙な顔つきで藤の提案を聞いてくれた。
「三日月さんは、僕にこの簪を返してほしいと頼んでいました」
「おそらく、あなたがははおやに、やくそくのかんざしをかえすことで、あなたが光忠であると、よりごかいされるのを、あやぶんだのだろう」
小豆の推測には、藤も内心で同意していた。
もしここで光忠と誤認されている彼が簪を渡したなら、彼女は愛する刀剣男士が帰ってきたと、益々夢の世界に逃避してしまいかねない。それでは、あまりに彼が不憫だ。
だが、煉は暫しの沈黙を挟んでから、ゆっくりと首を横に振った。
「これは、俺が返しておこう。これ以上、あなたに迷惑はかけられない」
「そんな、大したことじゃありません。迷惑なんて、僕の方が何度も助けられていたぐらいですから。僕がいないとき、本丸の運営を手伝ってくれたって、歌仙からも聞いています」
「迷惑云々は除くとしても、できれば『息子として』俺が返すべきだと思うんだ。あの夏祭りの日に、俺は父に頼まれていたのに、ずっとしまいこんで、どこにあったのかも忘れていたんだから」
気遣いを滲ませる二対の視線へ、煉は藤たちを安心させるかのように、目を細め、口元に笑みを引いてみせた。
「『光忠』と母に呼ばれた日から、いや、もっと前から……母のことは諦めていたんだ。どうしようもない、仕方がないんだ、と」
彼の言葉に、藤は否が応でも既視感を覚えていた。
周りが鬼をどう見ているかについて、藤もどこかで諦念を抱いていた。不要な憐憫を向けられても仕方の無いことだと、最初から諦めていた。
「子供であることをやめて、大人として分かりよく諦められる人間になるべきだと思っていた。だけど、それは、大事なものを結果的に見失う結果になっていたのかもしれない」
今、彼は違う答えを探そうとしている。
簪一つで、何が変わるものでもないかもしれない。
それでも、変革を望む心そのものが、諦めずに次なる何かを探ろうと願うこと自体が、今の彼にとっては鍵なのだと藤には思えた。
簪を持つ青年の横顔に貼り付いていた、年不相応に落ち着きすぎた『大人』の仮面は、既に音もなく剥がれ落ちていた。
「藤殿、俺の中にあった子供の心を、否定しないでいてくれてありがとう」
そして、続けて彼女の隣にいる小豆長光へと、彼は深々と頭を下げる。
「小豆長光殿、父の言葉を伝えてくれて感謝する。あなたの姿は父にそこまで似ていないはずなのに、何故だろうな。何だか、父さんと話したような気分になれた」
小豆のことを父親と誤解し、無邪気に慕っていた少年。彼の面影を青年の柔和な笑みから感じ取った小豆は、静かに返礼のみをした。
二人がそれぞれ顔を上げるのを待っていたかのように、外では蝉の大合奏が再び始まる。空から降り注ぐかのような賑やかな音は、自分たちが夢や幻ではなく現実に生きていると示しているかのようだ。
折良く、がちゃりと戸が開く音。藤が振り返ると、そこには玄関口で出会った女性が立っていた。彼女の手に持つお盆には、紅茶のカップが四つ並んでいる。
「あ、お構いなく。僕たち、もう……お暇しますので」
簪が煉の手元にあり、彼がこれをどうするか決めた以上、藤がこれ以上何か口を挟む必要はない。速やかに別れの挨拶を述べると、藤はソファから腰を浮かした。
小豆も主に倣い、彼女の隣に控えるようにしつつも、席を立つ。
「藤殿、よければ送っていくが」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。僕のことより、その……」
ちらりと、藤は入り口の近くに立つ女性へと視線をやる。彼女が見た夢の中、揺り椅子に揺られた女性は、どこか遠くを――在りし日の本丸の夢を、ずっと追いかけ続けていた。
きっと今も、彼女の心には、既にない本丸が深く根付いているのだろう。そこから解放すべきかどうかは、やはり第三者の自分が決められるものではなさそうだ。
「気をつけて帰ってくれ。また、本丸に礼の品でも送らせてもらうよ」
何てことのない、別れの挨拶。自分が背を向け、この家を立ち去った後、彼がどのような決断をするのかを思うと、何を言っても全て空々しいもののように感じられてしまう。
だから、藤は簡潔にこれだけ告げた。
「はい。また、お会いしましょう」
今度は、ただの審神者同士として。
お互いの刀剣男士の腕を自慢し合い、時に共に遊び、時に切磋琢磨を重ねよう、と。
玄関の戸が閉まる音を聞いてから、青年は困惑した様子の女性に正面から相対した。
その時初めて、彼女は何と年をとったのだろうか、と彼は気が付く。
審神者になってから早十年、いや十一年だっただろうか。年に一度、この季節に帰省して顔を合わせる以外は、彼女とはろくに連絡をとっていなかった。
彼女の側にいたら、自分がどんどん『光忠』になってしまうような気がした。だから、彼女と共に過ごす時間を極力削ろうと思っていた。
それが、大人としての自分がとれる、自分にとっても彼女にとっても最良の選択だと信じていた。
(――でも、子供の心を持ち続けることは、悪じゃない)
先程来てくれた二人が思い出させてくれたことが、大人になるのが早すぎた青年の背中をそっと押す。
何より、他ならぬ父が己を肯定してくれたのだから、臆する必要もない。
「あの方達、何の用で光忠に会いに来たの?」
少女のような口ぶりで、本丸が焼け落ちた日から時が止まってしまった女性は、息子を愛した刀剣男士の名で呼びつつ問う。
煉は、浅く息を吸い、吐いた。
そして覚悟を決め、彼は言う。
「母さんが、昔預けた物を返しに来てくれたんだ」
燭台切光忠なら決して使わない呼び名を、彼は敢えて口にする。
母は、不思議そうにこちらを見つめていた。
「光忠?」
「ううん。俺は光忠じゃない」
今まで、ずっと言おうと思って言えなかった否定の言葉を、彼は告げる。
「俺は『龍哉』だ。あなたが名付け、あなたが育てた。あなたと、燭台切光忠の、ただ一人の息子だ」
***
冷房の効いた家から出ると、途端にむっとした湿気と熱気が藤を取り巻いた。
もっとも、今は人工的な冷気よりも、うだるような暑さの方が、藤にとっては心地よかった。
「煉さん、ちゃんと簪を返せたかな」
「いまは、かのじょのこころに、かれのきもちがとどいたと、しんじるしかないだろう」
どこか心配そうな小豆の口ぶりは、まるで彼自身が煉の両親であるかのようだ。
小豆にとっては、一週間ほどとはいえ、己を父と呼んでくれた子供であることには変わりない。たとえそれが本人ではなかったとしても、関わった以上、素知らぬふりもできないのが小豆の優しさだ。
「それにしても、そもそもの話なんだけど……あの簪って、どうして祭りの会場に落ちていたんだろう。お父さんの光忠さんの幽霊が、簪に宿った煉さんを祭りに連れて行ってあげたってこと?」
藤の問いには、至極もっともな疑問だった。
ことの発端である簪が煉の本丸にあったとしても、彼は簪そのものの存在を今まで忘れていたほどだ。持っていったとも考えづらいし、何より彼は祭りには行かないと言っていたのだから、煉が原因ではないだろう。
「あるいは、かんざしそのものが、かれのためにうごいたのかもしれないな」
「え?」
隣を歩く小豆の顔を見上げ、藤はそれが冗談としての言葉ではないとすぐに気が付く。小豆の瞳は、真剣そのものだった。
「とあるじょせいにわたされ、じょせいから光忠へとあずけられ、そしてそのこどもへ――そうしておおくのおもいを、ひきついできたかんざしが、いまのあるじのために、なにかしたいとねがっても、ふしぎではない」
同じ『物』であるからこそ、小豆長光はあの細い簪にある種の共感すら抱いていた。
藤のために何かしてあげたいと、刀の性としても、小豆長光個人としても、彼は強い思いを持っていた。それと似たものが、簪に宿り、意志を持って動いたと考えるのは、そこまで突拍子な話でもあるまい。
「いまのもちぬしがすててしまった、こどもじだいのこころ。それを、なんとかしてかれにかえそうとおもったのかもしれない。そのきもちこそが、ものにこころをやどすということ――つまり」
「付喪神、なんだね」
持ち主を転々としていくことで、単なる装飾品に過ぎない簪は、多くの思いを宿した。結果、物そのものにも一つの純粋な願いが芽生え、行き場を無くしていた少年の心を持ち主に戻そうと奔走した。
与えられた環境によって、持ち主の心を受け止め、やがて多くの物語を引き継ぐ。
そうして数多の心を引き継いだ物が語る──それが、物語。
さしずめ、この件の自分たちは、物語の聞き手であり、運び手でもあったのだろう。
藤と小豆はそのように思いながら、ふと振り返り、すっかり見えなくなったあの家へと思いを馳せる。
「……それは、こどももおなじ、なのかもしれないな」
「そうだね。子供も、親から与えられた物語によって色んな形に心を育てて、人になっていく。それは、きっと君たちと変わらないんだ」
既に終わってしまった本丸の夢を抱えた母に育てられ、自らの子供時代を封じた煉。
そして、周りからの期待に応えようと、今まさに己を無理にでも大人にしようと藻掻いている一人の少女のことも、藤は忘れていなかった。
(煉さんは、お母さんのことを諦めない選択をした。菊理さんも……誰かに頼ること、刀剣男士と一緒にいることを、諦めないでいてくれたらいいな)
少し西に傾きかけた日が、二人の影を伸ばしていく。肌を撫でる風は、僅かではあるが微かな冷えを齎している。
秋の影は、すぐそこまで迫ってきていた。
そうして、普段は乗り慣れない電車を使い、ビルや商店街の代わりに民家が建ち並ぶ地域までやってきた辺りで、二人は電車を降りた。
じゃんじゃんと鳴り響く蝉時雨。ざわざわと揺れる木々と、所々に見える青々とした田んぼ。
農地と住宅が入り乱れたような地域であり、そのおかげか、漂う空気はどこか緩やかだ。道を往く人々も、穏やかに談笑している姿が目立つ。
長い坂道を下り、藤はようやく目的地へと辿り着いた。
「ここ、だよね」
「そのようだな。あるじのたんまつも、ここでせいかいだとひょうじしているぞ」
藤が見つめた先、そこには少し広めではあるが、どこにでもよくある平屋の民家があった。
庭には数本の背丈が低い木が植えられており、玄関口には鉢植えが並べられている。すくすくと蔦を伸ばした朝顔は、既に昼の日差しにやられて萎んでいた。
「あるじ、ここにくるまえに、かれにはれんらくをしたのかい?」
「しようと思ったんだけど、繋がらなかったんだよね。どうにも、電源を落としているみたいで」
結果的に不意打ちのような訪問になってしまうが、今は仕方ない。藤は『相模』と書かれた表札の下、据え付けられている呼び出し用のインターホンをゆっくりと押した。
ピンポンという甲高い音が響く。続けて、
「はい、どなたでしょう?」
おっとりとした女性の声に、藤は思わずごくりと唾を呑んだ。藤が夢の中で聞いた女性の声と、インターフォンから聞こえてきた声は、多少嗄れてはいるが全く同じものだった。
「えっと、煉さん……その、息子さんに会いに来たのですが」
おずおずと切り出し、藤は様子を窺う。果たして、幻の本丸の中で生きている彼女は、何と答えるのだろうか。
固唾を呑んで待っていると、女性は不思議そうな声で、
「ええと……別の家と勘違いをしていないでしょうか。私には、息子などおりませんが」
一瞬、自分は言葉を正しく認識できなくなってしまったのかと、藤は錯覚しかけた。それほどまでに、女性の発言の意味を理解することを、頭が拒んでいた。
「あの、でも、煉さんはあなたの」
そこまで言いかけたとき、話している女性の後ろから足音がした。何事か話し合うやり取りが遠くで聞こえた後、ぶつりとインターホンが切られる。同時に、少し重たげな床を踏む音が家の奥から響き、がらりと玄関の引き戸が開く。
「藤殿、どうしてここにあなたがいるんだ?」
引き戸の向こうに立っていたのは、以前に何度か相談にも乗ってもらった先輩の審神者――煉に間違いなかった。
紫紺の髪に、黄金色の瞳。そして、出会ったときから感じていた、どこか浮き世離れした印象を相手に持たせる整った顔立ち。
今こうして考えてみれば、その瞳や面差しは父親の燭台切光忠に似たものだと藤にも分かった。彼が纏う俗世からは切り離したような空気は、片親が付喪神だったからだろう。
帰省中のためか、今の彼はいつもの着流しではなく、シャツにズボンという簡素な格好をしていた。
「煉さんこそ、さっきの人は息子なんていないって……あれは、一体どういうことなんですか?」
自分の事情を話すのが先だと理解していたが、藤は問わずにいられなかった。まるで息子が存在していないかのような物言いに、混乱していたと同時に、言い知れない不気味さも感じていたからだ。
尋ねられた煉は、眉間に皺を寄せ、どう答えるか悩んでいるかのように、何度か口を開けたり閉めたりしている。
「なにか、じじょうがあるのだろう。あるじ、さきにかれに、かんざしについてはなしたほうがよいのではないか」
「それもそうだね、小豆。煉さん、僕たち実は、煉さんのお母さんに返したい物があって、ここにきたんです」
「母さんに? どうして、あなたが」
そこまで彼が言ったときだった。
「あら、光忠。お客様?」
青年の背後から、ほっそりとした女性の影が姿を見せた。
年の頃は五十を超えているだろう。白髪が交じった髪を緩く一つに結い、夏の季節に合わせてか、薄い生地の着物を纏っていた。
だが、今は彼女がどんな身なりをしているのかについて、藤にはどうでもよかった。
それよりも、もっと気になる言葉を彼女は口にしてしまっていた。
「……あの、今、なんて」
ざわざわと、心の片隅が嫌な予感に震えている。自身の考え得る限り、最悪の予想が思い浮かび、同時に否定したいと心が叫んでいた。
しかし、彼女の希望を打ち砕くように、女性は言う。
「光忠。お客様をこんな暑い中で待たせていては駄目でしょう。ほら、ご案内しないと」
本丸を失い、幻の本丸に逃げ込んだ、嘗て審神者だった女性。
彼女は、自身の息子であるはずの青年を、既に折れた刀剣男士の名で呼んでいた。
***
呆気にとられている藤や小豆とは対照的に、煉は落ち着き払った様子で、彼らを玄関先から奥の間へと案内してくれた。
古びた家屋独特の温もりを感じさせる木製の床板は、体重をかける度にぎしりと程よく軋んだ音をたてる。その音と共に、三人は奥の間に辿り着いた。煉の母親は、彼にお茶をいれてほしいと頼まれ、今は席を外している。
部屋の壁に架けられた時計は、長く時を刻んでいたためか、すっかり日に焼けて、やや黄ばんで見える。普段は憩いの場として使われている部屋なのか、いくつかの本棚やテレビが据え付けられている。
ごくごく一般的な家庭の光景。だからこそだろうか。
どうしても、先だってのやり取りから漂う異質さが浮き彫りになってしまう。
「それで、今日はどうして、こんな所までやって来たんだ? それより、そもそもどうやってここを知った?」
幾らか警戒の色を帯びた問いであったのは、それは仕方ないと藤も承知していた。
審神者でなかったとしても、自分の実家に仕事場の同僚が突然姿を見せたら、不審に思って当然だ。
「三日月さんに教えてもらったんです。煉さんのお母さんの物を、僕の刀剣男士がたまたま拾って、それで返したくて」
「まず、なにがあったかについて、わたしからせつめいしよう。ことのはじめは、わたしがまつりで、かんざしをひろったことがげんいんなのだ」
小豆は背筋を伸ばし、主の代わりにこれまで起きた出来事を、要点だけ絞って説明していく。
簪を手に入れてから体験した奇っ怪な現象について、話すにつれて、煉の顔には先程とは異なる表情がゆっくりと浮かび上がっていった。
まるで、誰かを悼んでいるような悲しげな表情は、現実を見失った母に代わって、焼失した本丸の刀剣男士に哀悼の念を捧げているように見えた。
「……そういうわけで、このかんざしは、もつべきものにかえすべきだとおもった。それが、あなたのははぎみか、あなたじしんなのかは、わたしたちでははんだんしかねた」
言いつつ、小豆は簪を机の上にそっと載せる。照明の灯りを受けて、簪は今はひたすら沈黙に徹していた。
暫く、静寂が空間を支配する。重く降り積もる沈黙の代わりに、窓の向こうで蝉が終わらない合奏を延々と続けている。
だが、やがて蝉も疲れを感じたのだろうか。じー、という音を最後に、本当の無音が世界を覆った。
その間隙を縫うように、煉は言う。
「迷惑をかけたようで、すまなかった。自分のことなのに、あなたに負担を押しつけてしまった形になったらしい」
「いえ、いいんです。そんなことは」
藤は咄嗟に首を横に振る。菊理が倒れたのは、結果的に巡り合わせが悪かったからであり、寧ろ薄々不穏な気配を感じながらも管理が不十分だった自分のせいだとすら、藤は思っていた。
煉は机の上に置かれた簪に手を伸ばし、拾い上げる。持ち上げた拍子に、微かに金属の擦れる音が響いた。
「――どうして、忘れていたんだろうな」
先輩として後輩を諭す目も、刀剣男士に揶揄われて快活に笑う主の目も、そこにはない。彼は昏く沈んだ瞳で、簪を見つめていた。
「確かに、俺はあの祭りの日、父と教えられていた刀剣男士に出会った。そして、これを返してほしいと頼まれた。……今の今まで、忘れていたよ」
「……それで、煉さんは返したんですか?」
煉は、ゆっくりと首を横に振る。弾みで、緩く結んだ彼の髪が音もなく揺れた。
「母のことについては、あなたたちも教えてもらったんだろう? 彼女は俺が物心ついたときから、今はもう存在しない本丸を、まるでつい先日までそこにいたかのように話していた。この簪を渡したら、より彼女の心が本丸に向けられてしまうような気がして……いや、違うな」
そこまで言ってから、彼は笑った。その笑顔は、藤もよく知った笑みだった。
己の心の柔らかな部分を隠すために、必死に作り上げた仮面。自分が平気だと、周りに、そして自分自身を偽るために見せる嘘の笑顔だ。
「俺は怖かったんだ。もし、彼女があんなに大事にしていた本丸がもう無いと、気が付いてしまったら。もし、彼女が俺の父の後を追って、いなくなってしまったら。それが怖くて、俺は結局渡さなかった。ずっと、自室の荷物の中に紛れ込ませていたんだろう」
「でも、泣いたお母さんを前にして、守ってあげたいと思ったと僕に話してくれたのも、僕は事実だと信じてます」
――だから、そんな風に笑わないでほしい。
あのとき、きっと髭切も似たような気持ちだったのだろう。ひたすら笑い、己の非を詫びてばかりの主の姿を見て、今の自分のように、胸がしめつけられるような思いに駆られたに違いない。
「煉さんは、これ以上お母さんに甘えちゃいけないと思って、子供の自分からお別れするための証のように簪を捉えていたんじゃないでしょうか。少なくとも、僕はここに宿る子供の声を聞いて、そう感じました」
「そうかもしれないな。だから、情けない『子供の俺』を、俺はここに封じたのかもしれない」
「なさけないことではないと、わたしはおもうぞ」
できる限り、あの夢の中にいた青年の目を――彼の瞳に籠もっていた思いの一割でも、目の前の青年に届ければと願いながら、小豆は続ける。
「あのこどもは、わたしに『おいていかないで』と縋った。そして『おかあさん、ぼくをみて』と必死に叫んでいた。さきほどのごふじんのようすからさっするに、かのじょは――」
さざ波一つたたない水鏡の如き瞳を持った青年へ――無邪気に母と父に甘えていたかったはずの少年へと、小豆は言う。
「かのじょは、あなたを『光忠』とおもいこんでいる。あなたもずっと、しょうちのうえで、そのやくわりをえんじつづけている。かのじょのこどもとしての、ほんらいもつたちばをすてて。ただ、ははおやのために」
それが、どれほどの精神的な痛みを強いることになるのか。小豆には想像もできない。
だが、全ての感情を殺したような目を持った青年の顔が、彼が受けた痛みの全てを物語っていると小豆も藤も理解していた。
「あなたのなかにある『こども』は、あなたにとって、ほんらい、あたりまえであるべきだったものだ。それを、なさけないなどとは、どうかいわないでほしい」
小豆の言葉を聞いて、煉は長く息を吐く。その姿を見て、藤は親近感すら覚えていた。
煉は成熟しきった大人であり、審神者としての先輩として、自分よりずっと先を歩いていると思っていた。
だが彼が今こうして見せた顔は、藤となんら変わることのない、どうしようもない現実に藻掻き続けた者の表情だった。
「そうして、行き場をなくした心が、周りに迷惑をかけたんじゃ世話ないな」
「ここには、嘗て審神者だったあなたのお母さんの思いも、お父さんの刀剣男士の思いも込められているって教えられました。だから、煉さんのせいだけじゃないです」
別に、彼に頭を下げてもらうために、今日はここに来たわけではない。
心を壊した母や、既に折れた刀剣男士の代わりに、彼に謝ってもらいたいなどとは、藤は微塵も考えていなかった。
「それに、煉さんが小さい頃……いえ、今でも構いません。お母さんやお父さんに会いたいって願ったり、一緒に過ごしたいって縋ったりすることは……甘えたいって思うことは、悪いことではないはずです」
「あなたにとってはそうだろう。だが、俺にそれを望む人はいなかったんだ。望まれてもいない甘えなど、ただの押しつけにしかなならない。挙げ句、他人にまで構ってもらおうとするなんて」
煉は簪を握る手に、ぐっと力を込める。そのまま彼が折ってしまうのではないかと、藤が息を呑んだときだった。
「いいや、のぞんだひとはいたぞ」
岩を打つ水音のように、静かに、しかしはっきりと、小豆長光は言う。
「ゆめであった光忠は、わたしにこういっていた」
――彼はたまに忘れてしまうようなんだ。だから、君の方から彼に教えてあげてくれないかな。
夏祭りの幻の中、乾いた諦めを混ぜて彼が告げた言葉の意味が、今の小豆には分かる。
あれは、単に光忠が主の子供を気遣って口にしただけの言葉ではなかった。
小豆や歌仙が藤に見せるものとはまた違う、大きな愛情と計り知れない優しさから発せられた言葉は、
「かれは、ちちとして、あなたにそういっていたのだ。こどもだったころにいだいたおもいを、わすれないでほしいと」
父でもないのに父と呼ばれ、置き去りにされた子供時代の心持つ少年に、小豆は何度も夢の中で慕われ、共に遊んだ。
そうして今、失われた本当の父の代わりに、子供の心を封じて成長した青年へと、父親が託したかった言葉を放つ。
「それを、ふようなものだとは、すくなくとも、わたしはおもわない」
結論を出すのはあくまで自分ではないと、小豆は言う。
煉が憐れだと慰めるのは簡単だ。しかし、可哀想という言葉は思わぬ形で人を傷つけると、以前藤にも教えられた。
それに、優しさだけが全てを良い方向に動かせるものではないと、彼はもう知っている。
煉が失われた『燭台切光忠』の役を演じ続けるのも、彼なりに母への優しさではあったのだろう。だが、その優しさが万事全てを良き方向に導いているとは、小豆には到底思えなかった。
それで全てが上手くいっているのなら、目の前の青年がこのような顔を――夢の中で小豆に縋った少年と同じ顔をするわけがないのだから。
「……燭台切光忠は、そう言ったのか」
乾いた――同時に、少し震えを残した声で、煉は問う。
小豆は念を押すように、もう一度頷いた。
ふつりと火が消えたように、しんと静まった空気が辺りを包む。
何秒、いや、何分そうしていただろうか。
不意に、音がした。
最初、藤や小豆には、その音が布が擦れた音に聞こえた。
だが、
「は……はは、そう、か。そんな、ことを、言ってたのか」
それは、掠れた笑い声だった。
「そんなことを、あの人は、俺に言ってたのか」
湿っぽさを僅かに覗かせた声で、彼は――笑っていた。
「そんな風に思ってくれてるなんて、考えたことも、なかったな」
「……だって、煉さんは光忠さんの子供なんでしょう。親が、子供を案じるのは、当たり前だと……」
「そう言えるのは藤殿、あなたのご両親がきっといい人だったからだろう」
煉は藤から視線を逸らし、どこか遠く――恐らくは燭台切光忠へと思いを馳せているような瞳で、ゆっくりと口を開き、語り始めた。
「ここまで関わってしまった以上、あなたには話すべきなのだろうな」
前置きを挟んでから、彼は言う。
「俺は、あの刀剣男士の単純な忘れ形見じゃないんだ」
何やら含みを持った言い回しに、藤は首を傾げた。
ごく自然な発想として、本丸が襲撃される前に審神者と光忠の間に何らかのやり取りがあって、襲撃時に彼女は既に身籠もっていたのだろうと考えていた。
だが、藤が己の推測を口にすると、彼はゆっくりと首を振り、否定を露わにした。
「襲撃時、彼女の体にそのような兆しはなかったと、政府の者が保障している。これは、推測も挟むが……」
煉は言いづらいことを打ち明けようとしているかの如く、一つ深呼吸を置く。
「審神者としての力があったからかもしれないが……母は、既に折れて失われたはずの父の――燭台切光忠の魂を己の想いだけでつなぎ止め、子を成した。専門的な言い回しだと、死者と結ばれるのは冥婚と言うそうだ。母が成し遂げたのも、それに近かったのだろう」
淡々と語られていたが、その言葉の内容は一人の女性の執念を端的に示していた。
死した者が生きているという夢に縋りたい気持ちは、まだ分からないでもない。
だが、深い悲しみを理由に、眠った者の魂を揺り起こして、あまつさえ結ばれるといった行動は、最早人の理解の域を超えた狂気染みた妄執と言えよう。
「そうして、俺が生まれた。だから、俺の周りには、死した者が持つ独特の穢れが染みついている。片親が死者だから、こうなってしまっているんだろう。結界や神域に入ると体調を崩すのも、そういう理由からだ。初めて藤殿に会ったとき、俺が穢れていると非難した子供がいたのは覚えているだろうか。彼女は、きっと一目見て俺の穢れに気が付いたから、あんな発言をしていたんだ」
忘れもしない、藤が菊理に初めて出会ったときのことでもある。
彼女は煉が穢れを持っていると指摘して、生まれつきだと彼が言った瞬間、汚い物でも見るかのように距離を置いた。
それがどういう理由かは、菊理本人に聞くまでは分からない。しかし、少なくとも菊理は単なる言いがかりではなく、明確な理由があって彼を拒絶していたのだ。
「安らかに眠った魂を無理矢理揺り起こすような形で結ばれて、そうして生まれた子供など、あの刀剣男士は――燭台切光忠は疎んでいるんじゃないかと、自分の生まれを知ったときから思っていた」
だが、小豆が伝えた言葉が、青年の――一人の子供の懸念を払拭した。父親は死してもなお、僅かに宿った思いの中ですら、子を案じ続けていた。
「……燭台切光忠という刀剣男士が、ずっと苦手だった」
喉の奥から絞り出すような声は、顔も知らぬ父を呪う声のようにも聞こえた。
母の心を乱し、母の現実を壊した大きな引き金となり、己を父の替え玉にした原因そのものである存在に向ける感情が、単なる悲しみだけで済むはずがない。
審神者の先輩としての煉の顔しか見たことがなかった藤は、彼の心の内に存在する生身の人間としての姿を今初めて、目にしていた。
「あいつは、俺の全てを奪っていった。壊していった。母もそうだ。彼女の目には、最初から俺はいなかった。ただ、自分が好きな男の子供が欲しかっただけだと、ずっと思っていた」
「……でも、あなたは仮面をつける選択をしたんですね」
煉が吐き出した憎悪混じりの慟哭じみた吐露に、藤は静かな言葉で返答する。
「お母さんを傷つけるんじゃなくて、自分が傷つく選択をしたんですね」
他人から向けられる身勝手な優しさを、不要だと承知していたものの、笑顔で受け止める選択をした。そんな在りし日の自分と似た姿が、そこにはあった。
だからこそ、彼は自分を放っておかず、あれほどまで親身になって相対してくれたのだろう。
「そんなに大層なものじゃない。ただ、怖かったんだ。自分は、本当は誰にも必要とされていないのではないか、生きているか死んでいるかも分からない状態でここにいていいのか、自信が持てなかった。光忠の代わりは――父に似た顔がある俺だけができることだと、思えたから」
「……本丸の刀剣男士たちのことは?」
問いながらも、既に彼の中で答えはあるのだろうと藤には分かっていた。答えがあるからこそ、あの日、煉は藤にあれほどまで的確に言葉を投げかけられたに違いない。
だからこの質問は、煉の自問自答に藤が付き合っているだけでもあった。
「最初は、ただ逃げ込んだだけだった。俺の審神者としての才を必要としてくれる人がいるなら、母から逃げられるなら、何でもいいと思っていた」
自分の心を殺し尽くそうとした嘗ての藤に、煉が付き合ってくれたように、藤は黙って彼の言葉を受け止める。
「刀剣男士の存在自体、正直苦手だった。だけど、あなたもよく知っているように……あいつらは、本当に、いい奴すぎるんだ」
哀切と怨嗟を混ぜたようだった声が、ゆっくりと普段の彼へと戻っていく。
本丸で過ごした日々を振り返っているのか、思い出し笑いを浮かべる彼は、藤のよく知る頼れる先輩としての『煉』であった。
「燭台切光忠も、あのいい奴すぎる刀剣男士の一人だった。それと同時に、俺の父親としても──在ってくれていたんだな」
その言葉を聞いて、あのとき髭切に簪が壊されなくてよかったと、藤は心底から思う。
目を細め、慈しむように簪を見つめる青年の横顔には、確かに子供の頃の彼の笑顔に似たものが宿っていた。
「それで、この簪は僕からお母さんに返しておきましょうか?」
重苦しい空気を払うためか、場を仕切り直すように藤は一呼吸置いてから、煉へと尋ねる。
先程よりも、やや快活な語調で話しかけたのも、話を切り替えようと意図してのことだった。
煉も藤の考えを汲み取ってくれたのか、これ以上自分の話題は出さず、神妙な顔つきで藤の提案を聞いてくれた。
「三日月さんは、僕にこの簪を返してほしいと頼んでいました」
「おそらく、あなたがははおやに、やくそくのかんざしをかえすことで、あなたが光忠であると、よりごかいされるのを、あやぶんだのだろう」
小豆の推測には、藤も内心で同意していた。
もしここで光忠と誤認されている彼が簪を渡したなら、彼女は愛する刀剣男士が帰ってきたと、益々夢の世界に逃避してしまいかねない。それでは、あまりに彼が不憫だ。
だが、煉は暫しの沈黙を挟んでから、ゆっくりと首を横に振った。
「これは、俺が返しておこう。これ以上、あなたに迷惑はかけられない」
「そんな、大したことじゃありません。迷惑なんて、僕の方が何度も助けられていたぐらいですから。僕がいないとき、本丸の運営を手伝ってくれたって、歌仙からも聞いています」
「迷惑云々は除くとしても、できれば『息子として』俺が返すべきだと思うんだ。あの夏祭りの日に、俺は父に頼まれていたのに、ずっとしまいこんで、どこにあったのかも忘れていたんだから」
気遣いを滲ませる二対の視線へ、煉は藤たちを安心させるかのように、目を細め、口元に笑みを引いてみせた。
「『光忠』と母に呼ばれた日から、いや、もっと前から……母のことは諦めていたんだ。どうしようもない、仕方がないんだ、と」
彼の言葉に、藤は否が応でも既視感を覚えていた。
周りが鬼をどう見ているかについて、藤もどこかで諦念を抱いていた。不要な憐憫を向けられても仕方の無いことだと、最初から諦めていた。
「子供であることをやめて、大人として分かりよく諦められる人間になるべきだと思っていた。だけど、それは、大事なものを結果的に見失う結果になっていたのかもしれない」
今、彼は違う答えを探そうとしている。
簪一つで、何が変わるものでもないかもしれない。
それでも、変革を望む心そのものが、諦めずに次なる何かを探ろうと願うこと自体が、今の彼にとっては鍵なのだと藤には思えた。
簪を持つ青年の横顔に貼り付いていた、年不相応に落ち着きすぎた『大人』の仮面は、既に音もなく剥がれ落ちていた。
「藤殿、俺の中にあった子供の心を、否定しないでいてくれてありがとう」
そして、続けて彼女の隣にいる小豆長光へと、彼は深々と頭を下げる。
「小豆長光殿、父の言葉を伝えてくれて感謝する。あなたの姿は父にそこまで似ていないはずなのに、何故だろうな。何だか、父さんと話したような気分になれた」
小豆のことを父親と誤解し、無邪気に慕っていた少年。彼の面影を青年の柔和な笑みから感じ取った小豆は、静かに返礼のみをした。
二人がそれぞれ顔を上げるのを待っていたかのように、外では蝉の大合奏が再び始まる。空から降り注ぐかのような賑やかな音は、自分たちが夢や幻ではなく現実に生きていると示しているかのようだ。
折良く、がちゃりと戸が開く音。藤が振り返ると、そこには玄関口で出会った女性が立っていた。彼女の手に持つお盆には、紅茶のカップが四つ並んでいる。
「あ、お構いなく。僕たち、もう……お暇しますので」
簪が煉の手元にあり、彼がこれをどうするか決めた以上、藤がこれ以上何か口を挟む必要はない。速やかに別れの挨拶を述べると、藤はソファから腰を浮かした。
小豆も主に倣い、彼女の隣に控えるようにしつつも、席を立つ。
「藤殿、よければ送っていくが」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。僕のことより、その……」
ちらりと、藤は入り口の近くに立つ女性へと視線をやる。彼女が見た夢の中、揺り椅子に揺られた女性は、どこか遠くを――在りし日の本丸の夢を、ずっと追いかけ続けていた。
きっと今も、彼女の心には、既にない本丸が深く根付いているのだろう。そこから解放すべきかどうかは、やはり第三者の自分が決められるものではなさそうだ。
「気をつけて帰ってくれ。また、本丸に礼の品でも送らせてもらうよ」
何てことのない、別れの挨拶。自分が背を向け、この家を立ち去った後、彼がどのような決断をするのかを思うと、何を言っても全て空々しいもののように感じられてしまう。
だから、藤は簡潔にこれだけ告げた。
「はい。また、お会いしましょう」
今度は、ただの審神者同士として。
お互いの刀剣男士の腕を自慢し合い、時に共に遊び、時に切磋琢磨を重ねよう、と。
玄関の戸が閉まる音を聞いてから、青年は困惑した様子の女性に正面から相対した。
その時初めて、彼女は何と年をとったのだろうか、と彼は気が付く。
審神者になってから早十年、いや十一年だっただろうか。年に一度、この季節に帰省して顔を合わせる以外は、彼女とはろくに連絡をとっていなかった。
彼女の側にいたら、自分がどんどん『光忠』になってしまうような気がした。だから、彼女と共に過ごす時間を極力削ろうと思っていた。
それが、大人としての自分がとれる、自分にとっても彼女にとっても最良の選択だと信じていた。
(――でも、子供の心を持ち続けることは、悪じゃない)
先程来てくれた二人が思い出させてくれたことが、大人になるのが早すぎた青年の背中をそっと押す。
何より、他ならぬ父が己を肯定してくれたのだから、臆する必要もない。
「あの方達、何の用で光忠に会いに来たの?」
少女のような口ぶりで、本丸が焼け落ちた日から時が止まってしまった女性は、息子を愛した刀剣男士の名で呼びつつ問う。
煉は、浅く息を吸い、吐いた。
そして覚悟を決め、彼は言う。
「母さんが、昔預けた物を返しに来てくれたんだ」
燭台切光忠なら決して使わない呼び名を、彼は敢えて口にする。
母は、不思議そうにこちらを見つめていた。
「光忠?」
「ううん。俺は光忠じゃない」
今まで、ずっと言おうと思って言えなかった否定の言葉を、彼は告げる。
「俺は『龍哉』だ。あなたが名付け、あなたが育てた。あなたと、燭台切光忠の、ただ一人の息子だ」
***
冷房の効いた家から出ると、途端にむっとした湿気と熱気が藤を取り巻いた。
もっとも、今は人工的な冷気よりも、うだるような暑さの方が、藤にとっては心地よかった。
「煉さん、ちゃんと簪を返せたかな」
「いまは、かのじょのこころに、かれのきもちがとどいたと、しんじるしかないだろう」
どこか心配そうな小豆の口ぶりは、まるで彼自身が煉の両親であるかのようだ。
小豆にとっては、一週間ほどとはいえ、己を父と呼んでくれた子供であることには変わりない。たとえそれが本人ではなかったとしても、関わった以上、素知らぬふりもできないのが小豆の優しさだ。
「それにしても、そもそもの話なんだけど……あの簪って、どうして祭りの会場に落ちていたんだろう。お父さんの光忠さんの幽霊が、簪に宿った煉さんを祭りに連れて行ってあげたってこと?」
藤の問いには、至極もっともな疑問だった。
ことの発端である簪が煉の本丸にあったとしても、彼は簪そのものの存在を今まで忘れていたほどだ。持っていったとも考えづらいし、何より彼は祭りには行かないと言っていたのだから、煉が原因ではないだろう。
「あるいは、かんざしそのものが、かれのためにうごいたのかもしれないな」
「え?」
隣を歩く小豆の顔を見上げ、藤はそれが冗談としての言葉ではないとすぐに気が付く。小豆の瞳は、真剣そのものだった。
「とあるじょせいにわたされ、じょせいから光忠へとあずけられ、そしてそのこどもへ――そうしておおくのおもいを、ひきついできたかんざしが、いまのあるじのために、なにかしたいとねがっても、ふしぎではない」
同じ『物』であるからこそ、小豆長光はあの細い簪にある種の共感すら抱いていた。
藤のために何かしてあげたいと、刀の性としても、小豆長光個人としても、彼は強い思いを持っていた。それと似たものが、簪に宿り、意志を持って動いたと考えるのは、そこまで突拍子な話でもあるまい。
「いまのもちぬしがすててしまった、こどもじだいのこころ。それを、なんとかしてかれにかえそうとおもったのかもしれない。そのきもちこそが、ものにこころをやどすということ――つまり」
「付喪神、なんだね」
持ち主を転々としていくことで、単なる装飾品に過ぎない簪は、多くの思いを宿した。結果、物そのものにも一つの純粋な願いが芽生え、行き場を無くしていた少年の心を持ち主に戻そうと奔走した。
与えられた環境によって、持ち主の心を受け止め、やがて多くの物語を引き継ぐ。
そうして数多の心を引き継いだ物が語る──それが、物語。
さしずめ、この件の自分たちは、物語の聞き手であり、運び手でもあったのだろう。
藤と小豆はそのように思いながら、ふと振り返り、すっかり見えなくなったあの家へと思いを馳せる。
「……それは、こどももおなじ、なのかもしれないな」
「そうだね。子供も、親から与えられた物語によって色んな形に心を育てて、人になっていく。それは、きっと君たちと変わらないんだ」
既に終わってしまった本丸の夢を抱えた母に育てられ、自らの子供時代を封じた煉。
そして、周りからの期待に応えようと、今まさに己を無理にでも大人にしようと藻掻いている一人の少女のことも、藤は忘れていなかった。
(煉さんは、お母さんのことを諦めない選択をした。菊理さんも……誰かに頼ること、刀剣男士と一緒にいることを、諦めないでいてくれたらいいな)
少し西に傾きかけた日が、二人の影を伸ばしていく。肌を撫でる風は、僅かではあるが微かな冷えを齎している。
秋の影は、すぐそこまで迫ってきていた。