本編第三部(完結済み)
「この簪は、とある刀剣男士のために誂えた浴衣と一緒に、お渡ししているものなんですよ」
金の笹が揺れた簪を手に持って、店員である青年が言う。彼の言葉を聞いて、藤と小豆は思わず顔を見合わせた。
「その刀剣男士の名前は?」
勢い込んで尋ねる藤に、青年はカウンターに仕舞ってあったカタログを取り出して、広げてみせた。
数ページめくった先で、彼は一人の青年を指さす。
青銅色の髪に、片目を眼帯で隠した、整った顔立ちをした刀剣男士が写真の中で佇んでいた。金色に輝く瞳は、さながらとろりと溶けた蜂蜜のように優しげだ。
「彼の名前は、燭台切光忠。太刀の刀剣男士だよ」
研修から数日後、藤は小豆と共に簪の持ち主捜しを始めていた。
菊理の言葉を信じるならば、簪の最初の持ち主は審神者の女性だ。その後、彼女の手から刀剣男士の手に渡り、刀剣男士は彼女の息子である少年に託した。
経緯はどうあれ、審神者がこの手の小物を買う場合、大抵は万屋で購入することが多い。ならば、と藤はとある呉服屋へと顔を出していた。以前、膝丸と共に立ち寄ったあの店だ。
そして、簪を渡されていた刀剣男士について、今まさに教えてもらったのである。
「燭台切光忠なら、どの刀剣男士もこの簪を持っているんですか?」
「大体の燭台切光忠は、一緒に貰う場合が多いようだね。お世話になっている主が女性なら、尚更そうするんじゃないかな」
刀剣男士の名が分かっただけでも、進歩ではあるのだろう。だが、人間と違い、名前が判明したところで持ち主自体が誰かはっきりするわけではない。何故なら、刀剣男士は、同じ名前、同じ姿の個体が複数存在するからだ。
「燭台切光忠は、すごく珍しい刀剣男士……とかじゃないですよね」
「そうだね。彼は顕現には比較的応えてくれやすいと聞いているよ。人当たりのいい青年だから、政府でも働いている個体がいるそうだ」
「それならば、ほんまるがやけおちたさにわについては、しっているだろうか」
燭台切光忠だけを辿っても、答えに至らないと判断した小豆は、今度は別方向から探りを入れる。
「本丸が焼け落ちた? 穏やかな話ではなさそうだね」
「いつのころかはわからないが、どうやら、このかんざしのもちぬしがいたほんまるは、じかんそこうぐんにおそわれたようなのだ」
「あまり楽しい話ではないのですが……これについて、何か知っていますか? どうしても、持ち主を探したいんです」
藤に問われ、店員も思案の素振りを見せるが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「僕も、ここで働き始めてからまだ数年しか経っていないからね。店主なら何か知っているかもしれないから、聞いてきてあげよう」
店の奥へと向かった店員に向けて、藤はぺこりと頭を下げる。店と関係のあることかどうかも定かではないのに、親身になって接してくれるだけでも、既に十分過ぎるぐらいだ。いくらお礼を言っても足りないほどである。
「……見つかるといいな」
「だが、あるじ。わたしのすいそくだが、おそらく、その光忠というとうけんだんしは、すでに」
「うん。多分……折れちゃったんだよね」
もし彼が存命だったなら、自らの手で主に簪を返しにいくだろう。だが、彼は夏祭りに遊びに来ていた、審神者の子供に渡した。
簪の持ち主である女性が、襲撃の後も審神者を続けていたかは定かではないが、少なくとも燭台切光忠は、彼女の本丸には戻ってこなかったに違いない。
「男の子の方は、無事に生きているといいんだけど」
「ゆうれいのようにもおもえたが、菊理どのは『しねん』ということばをつかっていただろう? きっと、かれのおもいがやどっただけ……とわたしはしんじたい」
恋心を抱いていたであろう刀剣男士は永久に失われ、あまつさえ、自らの子供まで亡くなっていたら。
そんな結末を想像してしまうと、たとえ持ち主を見つけても、いったいどんな顔をして渡しに行けばいいか分からなくなってしまいそうだった。
「……あのさ、小豆。こんなことを言うのは、不謹慎かもしれないけれど」
藤は整然とした店内を眺め、こくりと唾を呑む。
何てことの無い、平穏な日常。混乱も暴力も程遠い、平和な世界が店の外にも続いている。
けれど、と藤は思う。
思わずにはいられなかった。
「僕らの居場所は、あんなにあっさり、壊れるんだね」
菊理が語って聞かせてくれた光景を、藤は今日まで何度も頭の中に思い描いた。
帰ってこない仲間を待ちながら過ごす日々を、心に描き出した。それは酷く空虚で、悲しく、寂しいものに思えた。
想像でもこれほど胸が痛くなるのなら、実際にその体験をした人の心は、どれほどの痛みを感じるのだろうか。
そして、そんな寒々しい日々は、藤が暮らす日常と隣り合わせの場所にあるのだ。
「あるじのへいおんがこわれぬよう、わたしたちがこうしてそばにいる。あの燭台切光忠も、きっとおなじきもちで、かのじょのそばにいたのだろう」
「…………うん」
ただ強く信じるだけでは、守れないこともある。燭台切光忠とあの審神者の女性も、恐らくそうだったのだろう。
単なる運の巡り合わせや、ちょっとしたボタンの掛け違いのような行き違いで、あっという間に平穏は崩壊する。
「だから、せめて、これだけでもちゃんと返してあげたいなって思うんだ。どうして、あの男の子があんなにお父さんを探しているのかも、僕には何だか分かる気がする」
きっと、彼の母親の心はまだ本丸のどこかに残されている。故に、本丸を知らない子供であっても、彼は彼なりに母を案じて、彼女の望む者を見つけ出そうとしているのではないか。或いは、本丸に囚われる母を解放しようとしているのか。
沢山の思いが複雑に絡み合って、解けないままになっている。藤にはそう思えてならなかった。
「お待たせしました、お客様。松井から話は聞きました。焼けた本丸の燭台切光忠が持っていた簪……その持ち主を探してるそうですね」
草履が床を擦る音。続けて、姿を見せたのは初老の女性だった。以前、歌仙に藤の着物とあわせて、あれこれ購入を勧めていた店主その人だった。
「はい、この簪の持ち主のことを、何かご存じですか」
「ええ。よく覚えています。その簪は、彼女の燭台切光忠が、ここで浴衣を仕立てたときにあわせて購入していったもので、間違いないでしょう。ただ、あの刀剣男士の主は……もう、今は審神者ではありません」
きっぱりと否定され、藤は瞬時息が詰まったような心地に襲われた。予想はしていても、焼け落ちた本丸が審神者に残す傷跡を改めて意識させられた衝撃は大きかった。
「ならば、いまはどこですごしているのだろうか」
審神者ではない、と言うことは、亡くなってはいないということだ。そこに一縷の希望を託して、小豆は店主に尋ねる。
しかし、店主は視線を泳がせるばかりで、一向に口を開こうとしてくれない。
「……もしかして、ご病気なんですか?」
「病気……ええ、そうかもしれませんね」
彼女は皺の寄った手を何度も組み直し、やがて意を決したように問う。
「その簪を、彼女に返しに行くつもりですか?」
「はい。そうしないと、もっと良くないことが起きてしまうかもしれませんので」
「……なら、教えておくべきなのでしょうね。彼女は確かに、少し病を抱えています。ですが、それは体の病ではありません」
年をとった者だけが持つ、独特の落ち着いた瞳が藤を正面から捉える。
「彼女は、心を病んでしまったのです。あの夜、彼女は本丸にいる刀剣男士を全て失いました。共に逃亡を手伝った刀剣男士も、彼女を逃がすために囮になったと聞いています」
一夜にして全てをその手から零れ落とした女性は、自身を取り巻く崩壊を受け止めきれなかった。
結果、壊れてしまった彼女の心は、本丸は壊滅などしていない、皆も折れていないと信じ込むことにした。
彼女の瞳には、今はもういないはずの刀剣男士たちが、今も映り続けているのだと、女性は語った。
「子供が授かってからも、その子供が生まれてからも、自分は本丸から一時的に少し離れて暮らしているだけだと、思い続けていました」
「それは……じゃあ、その子も?」
「いえ、不安定な彼女に子供を任せ続けられないと、政府が彼女の家に家政婦という形で、教導役を紛れ込ませていたようです。政府としても、審神者の血筋は確保しておきたかったのでしょう」
それは、審神者の血を引く者の子供は審神者になりやすいからだろうか、と藤は予想する。
ふと、菊理の血を吐くような叫びが、頭の片端でこだました。審神者という立場が持つ社会的地位の重さや希少さは、時に子供であろうと容赦なく、彼らを大人の世界に引きずり込んでしまうようだ。
「聡明な子でしたからね。母親の心が不安定なことを悟っていて、それとなく支えていたようです。この店にも、小さい頃は何度か顔を見せていました。今は、彼もまた審神者になっているようですよ」
そこまで話し終えてから、店主はほぅっと息を吐いた。
彼女自身、この話を語るのは、決して楽なことではなかったのだろう。
だが、そこまで多くのことを聞いていると、同時に素朴なとある疑問が胸中に生まれる。
「あなたは、どうしてそこまで、そのさにわについてくわしいのだ?」
審神者でもない、ただの万屋の店員に過ぎない女性が、ただの客である審神者の女性に何故そこまで詳しいのか。
不思議に思って尋ねると、彼女は昔を懐かしむように目を細め、
「……彼女は、私の友人だったのですよ」
どこか泣いているような声で、それだけ呟いた。
***
店主は、簪の持ち主だった女性の住所については知らなかったが、代わりに息子の本丸に繋がる電話番号を教えてくれた。それが、彼女が唯一知る、簪の持ち主に繋がる手がかりでもあった。
店を出た藤は、少し西に傾いた夏の日差しを浴びながら、長く息を吐き出す。ともすれば、脳裏に描いていた燃え盛る本丸の残滓と、そこで起きた悲劇の欠片に引きずり込まれそうな気がした。
「なにはともあれ、あのしょうねんはいきて、おおきくせいちょうした。それだけは、すくいといえるだろう」
「そうだね。お父さんが刀剣男士だったから、お父さんをずっと探してたのかな」
母親と燭台切光忠は一体何があったのか、藤は敢えて考えないようにしていた。
刀剣男士と人間の間に、人と同じような関係が生まれるのか。そこに主従以上の、友誼や家族以上の関係が生まれ得るのかについて考えると、この出来事について余計な私情を差し挟んでいるような気分になる。それこそ、彼女には酷く不謹慎な気持ちに思えた。
だから、今は一旦、それについては思考の外に押しやる。代わりに、彼女はもう一つ気になっていた事柄について、口にする。
「……戦いって、怖いものなんだね」
仲間や家だけでなく、そこで暮らす人々の心も壊されていくのだと、藤は痛感していた。
あの本丸を襲撃した時間遡行軍は、刀剣男士たちだけを折った。しかし、結果として、審神者であった女性の心は崩壊した。彼女の子供は、壊れた母の元で過ごす生活を余儀なくされた。
その暮らしは、決して平穏と一言で表せるものではなかっただろう。
藤とて、一般的に『普通』と呼ばれる環境では育たなかった身だ。だが、少なくとも母は『今』を生きていた。
既に存在しない幻に固執する親と生活を共にする日々は、子供をどんな風に歪めてしまうのだろうか。それは、藤の想像の域を遙かに超えていた。
「だからこそ、こどもたちがわらってくらせるように、わたしたちがいるのだ。れきしをかえられたら、こわれる『もの』すら、そんざいしなくなってしまうのだから」
「小豆の言う通りだ。僕らが守っているものって、きっとそういう『当たり前』なんだろうね」
そして己の当たり前でもあるのだろうと、藤は心の中で付け足す。本丸での日々がいつまでも続くと思っている自分は、菊理が指摘したように、少し傲慢だったのかもしれない。
あの閉じこもっていた間に、もし本丸が襲われたら――ということを、ちらとも考えなかった藤には、返す言葉がなかった。
「あるじ」
だが、暗い考えに沈み込む前に、小豆はぽんと藤の頭に手を置く。
「あるじがなやんだじかんも、ひとしく、だいじなじかんだ。むろん、われらがたたかいのただなかにいるのは、たしかだが、それはあるじのこころを、むししていいりゆうにしてはいけない」
「……うん。えへへ、やっぱり小豆って何だかお父さんみたい。優しくて温かくて、ちょっとだけ厳しくてさ」
陽だまりが差しこんだように、温もりを感じさせる視線に、藤は心の闇がさぁっと取り払われるような心地になった。
不安は完全に消せなくとも、今はひたすら自分の成すべきことを愚直に続けるしかないと思えた。
「よしっ、じゃあ早速、その息子さんに電話してみるよ」
気を取り直して、藤は携帯端末に教えてもらった電話番号を入力する。短い呼び出し音の後に、ぷつっと接続音がした。
小豆にも聞こえるように、藤はスピーカーで音が外に出るように設定してから、
「もしもし。突然すみません」
呼びかけてみるも、なかなか返事がない。受話器の向こうでは、何やらごちゃごちゃと話している声が響いている。
暫くやり取りが続いたかと思いきや、
「あー……ここをこうして、これでよいのか。うむ、繋がっているようだな」
ゆったりとした話し方に、独特の落ち着きのある声音。それは藤も知っている刀剣男士――三日月宗近の声だった。どうやら、息子の本丸には三日月宗近が顕現しているらしい。
「して、おぬしの名は何と?」
「あ、僕は藤っていいます。審神者をしていて、この連絡先の審神者さんと話がしたいんですけど、今、そちらにいますか?」
「すまんな。主は今、帰省中だ。それと、藤殿。久しいなあ。髭切は息災か?」
「髭切は元気にしてますけど……って、えっ?」
あまりにいつも通りの返答に、藤も平時の口調で返してしまいかけた。だが、途中から彼女も違和感に気が付き、思わず上ずった声が口から飛び出る。
「えっと、三日月さん……ですよね。もしかして、僕のことを知っているんですか?」
「うむ。俺は三日月宗近。煉という審神者の、刀剣男士だ」
まるまる一分間、藤は絶句した。
自身の手に持つ携帯端末を凝視し、小豆と目を合わせ、再び端末に視線を戻す。
そして、
「え――――っ!?」
「何を突然驚いた声を出しておるのかは知らんが、元気そうで何よりだ。何事も、健康が一番だからな」
「いやいや、ちょっと待ってください! ということは、簪の持ち主の息子さんって……煉さん?」
簪を巡る出来事について、全く知らない三日月に対して、藤は簡単にことの経緯を説明した。
夏祭りで簪を拾ったこと、拾ったその日から何やら子供にまつわる異変が起きたこと、その簪がどうやら複雑な経緯を経ているらしいこと、できれば元の持ち主に返したいと思っていること。
そんな突拍子もない話を、三日月は黙って聞いてくれていた。やがて、藤が話し終えたのを確かめてから、
「そこまで事態について詳しいのなら、おぬしの方から直接、主の実家に行ってはくれんか」
「でも、今は帰省中なんでしょう? ご家族と一緒に過ごしているのなら、邪魔をしない方が」
「いや、寧ろ行ってやってほしいのだ。そして、藤殿の手から主のご母堂に、その簪とやらを返してやってほしい」
三日月の口ぶりから察するに、彼も心を壊した審神者――つまり煉の母親の様子を知っているようだった。
親子水入らずとはいえ、今はない過去に執着している母親と共に時を過ごすのは、たとえ大人の彼であっても大変なことだろう。
「僕でよければ……大したことはできないかもしれませんが」
「うむ。それだけでよい。主も気晴らしになるだろう」
三日月は煉の実家の住所を伝えてから、
「藤殿、以前俺たちの本丸に来たとき、主と何やら話をしていただろう? その際、何か言っていなかったか」
三日月に尋ねられて、藤はじっと考え込む。煉とは他愛ない雑談や仕事の話はしていたが、込み入った事情を語り合う場面はなかったはずだ。
だが、順々に辿っていくうちに、藤は思い出した。
その言葉は、自分でも正直心の内に押し込めたい、ひどく身勝手なやり取りをしてしまったときの発言だった。
即ち、笑顔の仮面をまだつけていた折に、藤が彼に、不在の本丸の面倒を見てくれた礼をしに行った日の出来事だ。
相対した煉は、感情を揺らすまいと意地を張る藤に、こう言った。
――あなたは昔の俺に似ている。物心ついた頃合いから親に嘘を強要されていたせいか、俺も相手の望む形に収まろうとする癖がある。
あのときは、自分のことで頭がいっぱいだったが、今こうして簪に纏わる話や母親の話を聞かされ、藤の頭の中で一本の線が繋がっていく。
「……少し、聞いていました」
「そうか。なら、後は任すとしよう」
「任されるようなことが、僕にできるとは思えないのですが」
「それでいい。何かを変えようなどと大それたことは思わなくていい。ただ、終止符が必要なのだ。何事にもな」
三日月はそれだけ言うと、通話を切断してしまった。残された藤は、携帯端末を片手に小豆を見つめる。
「あるじ、わたしにいくのか?」
「……うん。お願いされちゃったから。それに……小豆は、ここに宿っていた男の子に、お父さんって言われたんだよね。一緒にいてって頼んだんだよね」
「ああ。かれは、わたしにあまえたいようだった」
「それって、つまり、煉さんのそういう……子供としての気持ちが、ここに残っているのかなって思って」
以前、祭りで菊理と別れた後に、小豆が語った言葉を思い出す。
小豆は、子供のままでいられない菊理を可哀想だと感じていた。そして、大人になろうとするのはいいが、無理に己の中の子供を否定するものではないと話していた。
もし、本当に心中に宿る子供の自分を否定してしまったのなら。その気持ちは、一体どこに行くのだろう。答えは、今握っている簪にあるように彼女には思えた。
「かれもまた、こどものままでいられず、むりにせのびをしていたということか」
「そうかもしれないって、僕は思う」
夏祭りで迷子になった子供の話を菊理が語ったとき、妙に引っかかった理由が今なら分かった。
それは、祭りに行くか行かないかという話を煉に持ちかけた際の、彼の返答を思い出したからだ。
幻の中に生き、子の不在に狼狽する母の姿を見て、少年は大人にならねばと否が応でも気付かされたのだろう。
「祭りのときに、子供の煉さんは光忠さんから簪を渡されてたって話してたよね。それって、どういうことだと小豆は思う?」
「光忠がいきていたとは、かんがえにくい。おそらく、わたしのかんがえがただしければ、かれは……ゆうれいとよべるそんざいだったのではないだろうか」
「簪を返せなかったのが心残りで、万屋に来た主の子供に託したって経緯だったのかな。それなら、主本人に渡せばよかっただろうに」
そうしたら、幻の夢から煉の母も覚めていたかもしれない。
だが、裏を返せば、そんな繊細な心を持つ者を現実に放り出して、今度こそ完全に心を壊してしまう可能性を危惧したのかもしれない。
だとしたら、今、彼女に返すべきなのかも考えを改める必要があるのではないかと、藤の中に躊躇が芽生える。
けれども、彼女の胸中には、笑顔の仮面で相対していたときに見せた青年の顔もよぎっていく。
表情一つ変えず、藤と同じ仮面をつけていた彼は、誰のために何のためにそうしていたのか。
今なら、分かる気がした。
「……決断は、煉さんに任せるよ。今は、これがあることを彼に教えに行きたい」
これは最早、自分が善し悪しを決めていい問題ではない。
結論の先送りになってしまうかもしれないが、今の藤に出せる答えはそれだけだった。
金の笹が揺れた簪を手に持って、店員である青年が言う。彼の言葉を聞いて、藤と小豆は思わず顔を見合わせた。
「その刀剣男士の名前は?」
勢い込んで尋ねる藤に、青年はカウンターに仕舞ってあったカタログを取り出して、広げてみせた。
数ページめくった先で、彼は一人の青年を指さす。
青銅色の髪に、片目を眼帯で隠した、整った顔立ちをした刀剣男士が写真の中で佇んでいた。金色に輝く瞳は、さながらとろりと溶けた蜂蜜のように優しげだ。
「彼の名前は、燭台切光忠。太刀の刀剣男士だよ」
研修から数日後、藤は小豆と共に簪の持ち主捜しを始めていた。
菊理の言葉を信じるならば、簪の最初の持ち主は審神者の女性だ。その後、彼女の手から刀剣男士の手に渡り、刀剣男士は彼女の息子である少年に託した。
経緯はどうあれ、審神者がこの手の小物を買う場合、大抵は万屋で購入することが多い。ならば、と藤はとある呉服屋へと顔を出していた。以前、膝丸と共に立ち寄ったあの店だ。
そして、簪を渡されていた刀剣男士について、今まさに教えてもらったのである。
「燭台切光忠なら、どの刀剣男士もこの簪を持っているんですか?」
「大体の燭台切光忠は、一緒に貰う場合が多いようだね。お世話になっている主が女性なら、尚更そうするんじゃないかな」
刀剣男士の名が分かっただけでも、進歩ではあるのだろう。だが、人間と違い、名前が判明したところで持ち主自体が誰かはっきりするわけではない。何故なら、刀剣男士は、同じ名前、同じ姿の個体が複数存在するからだ。
「燭台切光忠は、すごく珍しい刀剣男士……とかじゃないですよね」
「そうだね。彼は顕現には比較的応えてくれやすいと聞いているよ。人当たりのいい青年だから、政府でも働いている個体がいるそうだ」
「それならば、ほんまるがやけおちたさにわについては、しっているだろうか」
燭台切光忠だけを辿っても、答えに至らないと判断した小豆は、今度は別方向から探りを入れる。
「本丸が焼け落ちた? 穏やかな話ではなさそうだね」
「いつのころかはわからないが、どうやら、このかんざしのもちぬしがいたほんまるは、じかんそこうぐんにおそわれたようなのだ」
「あまり楽しい話ではないのですが……これについて、何か知っていますか? どうしても、持ち主を探したいんです」
藤に問われ、店員も思案の素振りを見せるが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「僕も、ここで働き始めてからまだ数年しか経っていないからね。店主なら何か知っているかもしれないから、聞いてきてあげよう」
店の奥へと向かった店員に向けて、藤はぺこりと頭を下げる。店と関係のあることかどうかも定かではないのに、親身になって接してくれるだけでも、既に十分過ぎるぐらいだ。いくらお礼を言っても足りないほどである。
「……見つかるといいな」
「だが、あるじ。わたしのすいそくだが、おそらく、その光忠というとうけんだんしは、すでに」
「うん。多分……折れちゃったんだよね」
もし彼が存命だったなら、自らの手で主に簪を返しにいくだろう。だが、彼は夏祭りに遊びに来ていた、審神者の子供に渡した。
簪の持ち主である女性が、襲撃の後も審神者を続けていたかは定かではないが、少なくとも燭台切光忠は、彼女の本丸には戻ってこなかったに違いない。
「男の子の方は、無事に生きているといいんだけど」
「ゆうれいのようにもおもえたが、菊理どのは『しねん』ということばをつかっていただろう? きっと、かれのおもいがやどっただけ……とわたしはしんじたい」
恋心を抱いていたであろう刀剣男士は永久に失われ、あまつさえ、自らの子供まで亡くなっていたら。
そんな結末を想像してしまうと、たとえ持ち主を見つけても、いったいどんな顔をして渡しに行けばいいか分からなくなってしまいそうだった。
「……あのさ、小豆。こんなことを言うのは、不謹慎かもしれないけれど」
藤は整然とした店内を眺め、こくりと唾を呑む。
何てことの無い、平穏な日常。混乱も暴力も程遠い、平和な世界が店の外にも続いている。
けれど、と藤は思う。
思わずにはいられなかった。
「僕らの居場所は、あんなにあっさり、壊れるんだね」
菊理が語って聞かせてくれた光景を、藤は今日まで何度も頭の中に思い描いた。
帰ってこない仲間を待ちながら過ごす日々を、心に描き出した。それは酷く空虚で、悲しく、寂しいものに思えた。
想像でもこれほど胸が痛くなるのなら、実際にその体験をした人の心は、どれほどの痛みを感じるのだろうか。
そして、そんな寒々しい日々は、藤が暮らす日常と隣り合わせの場所にあるのだ。
「あるじのへいおんがこわれぬよう、わたしたちがこうしてそばにいる。あの燭台切光忠も、きっとおなじきもちで、かのじょのそばにいたのだろう」
「…………うん」
ただ強く信じるだけでは、守れないこともある。燭台切光忠とあの審神者の女性も、恐らくそうだったのだろう。
単なる運の巡り合わせや、ちょっとしたボタンの掛け違いのような行き違いで、あっという間に平穏は崩壊する。
「だから、せめて、これだけでもちゃんと返してあげたいなって思うんだ。どうして、あの男の子があんなにお父さんを探しているのかも、僕には何だか分かる気がする」
きっと、彼の母親の心はまだ本丸のどこかに残されている。故に、本丸を知らない子供であっても、彼は彼なりに母を案じて、彼女の望む者を見つけ出そうとしているのではないか。或いは、本丸に囚われる母を解放しようとしているのか。
沢山の思いが複雑に絡み合って、解けないままになっている。藤にはそう思えてならなかった。
「お待たせしました、お客様。松井から話は聞きました。焼けた本丸の燭台切光忠が持っていた簪……その持ち主を探してるそうですね」
草履が床を擦る音。続けて、姿を見せたのは初老の女性だった。以前、歌仙に藤の着物とあわせて、あれこれ購入を勧めていた店主その人だった。
「はい、この簪の持ち主のことを、何かご存じですか」
「ええ。よく覚えています。その簪は、彼女の燭台切光忠が、ここで浴衣を仕立てたときにあわせて購入していったもので、間違いないでしょう。ただ、あの刀剣男士の主は……もう、今は審神者ではありません」
きっぱりと否定され、藤は瞬時息が詰まったような心地に襲われた。予想はしていても、焼け落ちた本丸が審神者に残す傷跡を改めて意識させられた衝撃は大きかった。
「ならば、いまはどこですごしているのだろうか」
審神者ではない、と言うことは、亡くなってはいないということだ。そこに一縷の希望を託して、小豆は店主に尋ねる。
しかし、店主は視線を泳がせるばかりで、一向に口を開こうとしてくれない。
「……もしかして、ご病気なんですか?」
「病気……ええ、そうかもしれませんね」
彼女は皺の寄った手を何度も組み直し、やがて意を決したように問う。
「その簪を、彼女に返しに行くつもりですか?」
「はい。そうしないと、もっと良くないことが起きてしまうかもしれませんので」
「……なら、教えておくべきなのでしょうね。彼女は確かに、少し病を抱えています。ですが、それは体の病ではありません」
年をとった者だけが持つ、独特の落ち着いた瞳が藤を正面から捉える。
「彼女は、心を病んでしまったのです。あの夜、彼女は本丸にいる刀剣男士を全て失いました。共に逃亡を手伝った刀剣男士も、彼女を逃がすために囮になったと聞いています」
一夜にして全てをその手から零れ落とした女性は、自身を取り巻く崩壊を受け止めきれなかった。
結果、壊れてしまった彼女の心は、本丸は壊滅などしていない、皆も折れていないと信じ込むことにした。
彼女の瞳には、今はもういないはずの刀剣男士たちが、今も映り続けているのだと、女性は語った。
「子供が授かってからも、その子供が生まれてからも、自分は本丸から一時的に少し離れて暮らしているだけだと、思い続けていました」
「それは……じゃあ、その子も?」
「いえ、不安定な彼女に子供を任せ続けられないと、政府が彼女の家に家政婦という形で、教導役を紛れ込ませていたようです。政府としても、審神者の血筋は確保しておきたかったのでしょう」
それは、審神者の血を引く者の子供は審神者になりやすいからだろうか、と藤は予想する。
ふと、菊理の血を吐くような叫びが、頭の片端でこだました。審神者という立場が持つ社会的地位の重さや希少さは、時に子供であろうと容赦なく、彼らを大人の世界に引きずり込んでしまうようだ。
「聡明な子でしたからね。母親の心が不安定なことを悟っていて、それとなく支えていたようです。この店にも、小さい頃は何度か顔を見せていました。今は、彼もまた審神者になっているようですよ」
そこまで話し終えてから、店主はほぅっと息を吐いた。
彼女自身、この話を語るのは、決して楽なことではなかったのだろう。
だが、そこまで多くのことを聞いていると、同時に素朴なとある疑問が胸中に生まれる。
「あなたは、どうしてそこまで、そのさにわについてくわしいのだ?」
審神者でもない、ただの万屋の店員に過ぎない女性が、ただの客である審神者の女性に何故そこまで詳しいのか。
不思議に思って尋ねると、彼女は昔を懐かしむように目を細め、
「……彼女は、私の友人だったのですよ」
どこか泣いているような声で、それだけ呟いた。
***
店主は、簪の持ち主だった女性の住所については知らなかったが、代わりに息子の本丸に繋がる電話番号を教えてくれた。それが、彼女が唯一知る、簪の持ち主に繋がる手がかりでもあった。
店を出た藤は、少し西に傾いた夏の日差しを浴びながら、長く息を吐き出す。ともすれば、脳裏に描いていた燃え盛る本丸の残滓と、そこで起きた悲劇の欠片に引きずり込まれそうな気がした。
「なにはともあれ、あのしょうねんはいきて、おおきくせいちょうした。それだけは、すくいといえるだろう」
「そうだね。お父さんが刀剣男士だったから、お父さんをずっと探してたのかな」
母親と燭台切光忠は一体何があったのか、藤は敢えて考えないようにしていた。
刀剣男士と人間の間に、人と同じような関係が生まれるのか。そこに主従以上の、友誼や家族以上の関係が生まれ得るのかについて考えると、この出来事について余計な私情を差し挟んでいるような気分になる。それこそ、彼女には酷く不謹慎な気持ちに思えた。
だから、今は一旦、それについては思考の外に押しやる。代わりに、彼女はもう一つ気になっていた事柄について、口にする。
「……戦いって、怖いものなんだね」
仲間や家だけでなく、そこで暮らす人々の心も壊されていくのだと、藤は痛感していた。
あの本丸を襲撃した時間遡行軍は、刀剣男士たちだけを折った。しかし、結果として、審神者であった女性の心は崩壊した。彼女の子供は、壊れた母の元で過ごす生活を余儀なくされた。
その暮らしは、決して平穏と一言で表せるものではなかっただろう。
藤とて、一般的に『普通』と呼ばれる環境では育たなかった身だ。だが、少なくとも母は『今』を生きていた。
既に存在しない幻に固執する親と生活を共にする日々は、子供をどんな風に歪めてしまうのだろうか。それは、藤の想像の域を遙かに超えていた。
「だからこそ、こどもたちがわらってくらせるように、わたしたちがいるのだ。れきしをかえられたら、こわれる『もの』すら、そんざいしなくなってしまうのだから」
「小豆の言う通りだ。僕らが守っているものって、きっとそういう『当たり前』なんだろうね」
そして己の当たり前でもあるのだろうと、藤は心の中で付け足す。本丸での日々がいつまでも続くと思っている自分は、菊理が指摘したように、少し傲慢だったのかもしれない。
あの閉じこもっていた間に、もし本丸が襲われたら――ということを、ちらとも考えなかった藤には、返す言葉がなかった。
「あるじ」
だが、暗い考えに沈み込む前に、小豆はぽんと藤の頭に手を置く。
「あるじがなやんだじかんも、ひとしく、だいじなじかんだ。むろん、われらがたたかいのただなかにいるのは、たしかだが、それはあるじのこころを、むししていいりゆうにしてはいけない」
「……うん。えへへ、やっぱり小豆って何だかお父さんみたい。優しくて温かくて、ちょっとだけ厳しくてさ」
陽だまりが差しこんだように、温もりを感じさせる視線に、藤は心の闇がさぁっと取り払われるような心地になった。
不安は完全に消せなくとも、今はひたすら自分の成すべきことを愚直に続けるしかないと思えた。
「よしっ、じゃあ早速、その息子さんに電話してみるよ」
気を取り直して、藤は携帯端末に教えてもらった電話番号を入力する。短い呼び出し音の後に、ぷつっと接続音がした。
小豆にも聞こえるように、藤はスピーカーで音が外に出るように設定してから、
「もしもし。突然すみません」
呼びかけてみるも、なかなか返事がない。受話器の向こうでは、何やらごちゃごちゃと話している声が響いている。
暫くやり取りが続いたかと思いきや、
「あー……ここをこうして、これでよいのか。うむ、繋がっているようだな」
ゆったりとした話し方に、独特の落ち着きのある声音。それは藤も知っている刀剣男士――三日月宗近の声だった。どうやら、息子の本丸には三日月宗近が顕現しているらしい。
「して、おぬしの名は何と?」
「あ、僕は藤っていいます。審神者をしていて、この連絡先の審神者さんと話がしたいんですけど、今、そちらにいますか?」
「すまんな。主は今、帰省中だ。それと、藤殿。久しいなあ。髭切は息災か?」
「髭切は元気にしてますけど……って、えっ?」
あまりにいつも通りの返答に、藤も平時の口調で返してしまいかけた。だが、途中から彼女も違和感に気が付き、思わず上ずった声が口から飛び出る。
「えっと、三日月さん……ですよね。もしかして、僕のことを知っているんですか?」
「うむ。俺は三日月宗近。煉という審神者の、刀剣男士だ」
まるまる一分間、藤は絶句した。
自身の手に持つ携帯端末を凝視し、小豆と目を合わせ、再び端末に視線を戻す。
そして、
「え――――っ!?」
「何を突然驚いた声を出しておるのかは知らんが、元気そうで何よりだ。何事も、健康が一番だからな」
「いやいや、ちょっと待ってください! ということは、簪の持ち主の息子さんって……煉さん?」
簪を巡る出来事について、全く知らない三日月に対して、藤は簡単にことの経緯を説明した。
夏祭りで簪を拾ったこと、拾ったその日から何やら子供にまつわる異変が起きたこと、その簪がどうやら複雑な経緯を経ているらしいこと、できれば元の持ち主に返したいと思っていること。
そんな突拍子もない話を、三日月は黙って聞いてくれていた。やがて、藤が話し終えたのを確かめてから、
「そこまで事態について詳しいのなら、おぬしの方から直接、主の実家に行ってはくれんか」
「でも、今は帰省中なんでしょう? ご家族と一緒に過ごしているのなら、邪魔をしない方が」
「いや、寧ろ行ってやってほしいのだ。そして、藤殿の手から主のご母堂に、その簪とやらを返してやってほしい」
三日月の口ぶりから察するに、彼も心を壊した審神者――つまり煉の母親の様子を知っているようだった。
親子水入らずとはいえ、今はない過去に執着している母親と共に時を過ごすのは、たとえ大人の彼であっても大変なことだろう。
「僕でよければ……大したことはできないかもしれませんが」
「うむ。それだけでよい。主も気晴らしになるだろう」
三日月は煉の実家の住所を伝えてから、
「藤殿、以前俺たちの本丸に来たとき、主と何やら話をしていただろう? その際、何か言っていなかったか」
三日月に尋ねられて、藤はじっと考え込む。煉とは他愛ない雑談や仕事の話はしていたが、込み入った事情を語り合う場面はなかったはずだ。
だが、順々に辿っていくうちに、藤は思い出した。
その言葉は、自分でも正直心の内に押し込めたい、ひどく身勝手なやり取りをしてしまったときの発言だった。
即ち、笑顔の仮面をまだつけていた折に、藤が彼に、不在の本丸の面倒を見てくれた礼をしに行った日の出来事だ。
相対した煉は、感情を揺らすまいと意地を張る藤に、こう言った。
――あなたは昔の俺に似ている。物心ついた頃合いから親に嘘を強要されていたせいか、俺も相手の望む形に収まろうとする癖がある。
あのときは、自分のことで頭がいっぱいだったが、今こうして簪に纏わる話や母親の話を聞かされ、藤の頭の中で一本の線が繋がっていく。
「……少し、聞いていました」
「そうか。なら、後は任すとしよう」
「任されるようなことが、僕にできるとは思えないのですが」
「それでいい。何かを変えようなどと大それたことは思わなくていい。ただ、終止符が必要なのだ。何事にもな」
三日月はそれだけ言うと、通話を切断してしまった。残された藤は、携帯端末を片手に小豆を見つめる。
「あるじ、わたしにいくのか?」
「……うん。お願いされちゃったから。それに……小豆は、ここに宿っていた男の子に、お父さんって言われたんだよね。一緒にいてって頼んだんだよね」
「ああ。かれは、わたしにあまえたいようだった」
「それって、つまり、煉さんのそういう……子供としての気持ちが、ここに残っているのかなって思って」
以前、祭りで菊理と別れた後に、小豆が語った言葉を思い出す。
小豆は、子供のままでいられない菊理を可哀想だと感じていた。そして、大人になろうとするのはいいが、無理に己の中の子供を否定するものではないと話していた。
もし、本当に心中に宿る子供の自分を否定してしまったのなら。その気持ちは、一体どこに行くのだろう。答えは、今握っている簪にあるように彼女には思えた。
「かれもまた、こどものままでいられず、むりにせのびをしていたということか」
「そうかもしれないって、僕は思う」
夏祭りで迷子になった子供の話を菊理が語ったとき、妙に引っかかった理由が今なら分かった。
それは、祭りに行くか行かないかという話を煉に持ちかけた際の、彼の返答を思い出したからだ。
幻の中に生き、子の不在に狼狽する母の姿を見て、少年は大人にならねばと否が応でも気付かされたのだろう。
「祭りのときに、子供の煉さんは光忠さんから簪を渡されてたって話してたよね。それって、どういうことだと小豆は思う?」
「光忠がいきていたとは、かんがえにくい。おそらく、わたしのかんがえがただしければ、かれは……ゆうれいとよべるそんざいだったのではないだろうか」
「簪を返せなかったのが心残りで、万屋に来た主の子供に託したって経緯だったのかな。それなら、主本人に渡せばよかっただろうに」
そうしたら、幻の夢から煉の母も覚めていたかもしれない。
だが、裏を返せば、そんな繊細な心を持つ者を現実に放り出して、今度こそ完全に心を壊してしまう可能性を危惧したのかもしれない。
だとしたら、今、彼女に返すべきなのかも考えを改める必要があるのではないかと、藤の中に躊躇が芽生える。
けれども、彼女の胸中には、笑顔の仮面で相対していたときに見せた青年の顔もよぎっていく。
表情一つ変えず、藤と同じ仮面をつけていた彼は、誰のために何のためにそうしていたのか。
今なら、分かる気がした。
「……決断は、煉さんに任せるよ。今は、これがあることを彼に教えに行きたい」
これは最早、自分が善し悪しを決めていい問題ではない。
結論の先送りになってしまうかもしれないが、今の藤に出せる答えはそれだけだった。