短編置き場
ねんねんころりよ おころりよ
おひいはよい子だ ねんねしな
遠く、近く、揺蕩うように女性の声が聞こえる。
懐かしく、それでいて聞いていると胸の奥が締め付けられるような声。心の底を温めてくれながらも、その温もりはもう二度と手に入らないことをどこかで知っている。そのことが、とても悲しい。
ゆらりゆらりと波間に揺られるように、意識は浮き沈みする。
そのまま眠りに落ちていきたいのに、薄らと開いてしまった瞼から光が差し込んでしまった。沈みかけていた意識は覚醒へと傾き、彼女はゆっくり目を開く。
茫漠とした景色は、やがて見慣れた部屋の天井に変わる。波間を揺れていたような曖昧な感覚は、柔らかな布団に包まれた感触に変化する。微かに聞こえていた柔らかい女性の声は、温かではあるものの低い男性のものになっていた。
首を微かに動かせば、いまだ焦点の合わない視界に誰かの影が入り込んでいた。
「お、かあ──さん?」
「僕の名前は、髭切だよ。でも、それを新しい名前にしてほしいっていうなら、また名前を変えてもいいよ」
「待って。変なこと言って、これ以上頭痛の種を増やさないで」
ガバリと起き上がったこの部屋の主は、続いて盛大にくしゃみをした。ぶるりと体を震わせて、布団の中に逆戻りする。
起きたはずみで額から転げ落ちた濡れタオルを、傍の髭切が拾い上げて額に載せ直してくれた。
「まだ治らないみたいだねえ」
「風邪だからね。一日二日じゃ治らないよ──っくしゅん」
言いつつ、彼女は大きなくしゃみをもう一つする。布団の中から覗く顔は、仄かに赤かった。
夜遅くまで遠征任務に出ていた部隊を待つために、玄関で一夜を過ごした無理が祟って風邪で倒れたのはほんの一日前のこと。それから、彼女は自室の寝台から動けずにいた。一夜明けていくらか熱は下がったものの、倦怠感は依然健在だ。
「ところで、髭切は何でここにいるの? 歌仙は?」
倒れてからしばらくは髭切が付添をしてくれていたものの、目を覚ましたあとは歌仙が看病を引き継いでいた。
本丸の初期刀である彼は、主の体調不良に関しても過不足のない対応をしてくれる。今回もてっきり歌仙が全てしてくれるものかと思いきや、肝心の彼の姿は見当たらない。
「僕が看病をするから、歌仙には本丸の切り盛りをしてほしいと言ったんだよ」
「へ、へえ……」
主が寝込んでいる今、本丸の運営を初期刀が代行するのは何も不自然なことではない。寧ろありがたいぐらいである。
問題は、髭切がこの手のことに対して全く手馴れているように見えないという所だろう。
肝心の本人はいうと、やる気満々というのが漂う気配からにじみ出ていた。主が風邪で倒れたことを見たことがない彼は珍しく狼狽えていたようだったが、一晩経って落ち着いたらしい。
「昨日は凄く心配そうにしていたけれど、もう平気なの?」
「病そのものを僕が斬ることはできなくても、主の病が早く治るような手伝いならできると思ったんだ」
にこりと微笑む様子に他意はなさそうだった。不安がないわけではないが、今は彼に任せてみようと主は思い直す。
「じゃあ、まずは」
ぐー。
早速口火を切った主の意気込みを無碍にするように、無情な腹の虫の音が音高く部屋に響き渡った。
「ありゃ、お腹がすいてたんだね。ちょっと待ってて」
弁解の余地もなく、髭切は部屋を出ていってしまった。
看病される側としては嬉しくはあるが、目を覚まして早々に食事をねだるというのは食いしん坊にもほどがある。自分の胃袋でありながら、あまりに欲望に忠実すぎるのはどうかと彼女は誰とも知れないため息をついた。
ため息をついた弾みに、寝台の陰から白いものが飛び出ていることに気が付いて、彼女は体を起こしてそちらに目を落とす。
そこには、丸めたタオルが積み重ねられていた。すっかり温くなってしまっているこれらは、どうやら今まで彼が交換してくれていた痕跡のようだ。
「……まったく、健気なんだものなあ」
布団の中に潜り込み直しながら、彼女は自分の額に載せられているタオルをちょんちょんと触れて微笑んだ。
三十分ほど経った頃、「お待たせ」という声と共に髭切が再び部屋に姿を見せた。彼はお盆を抱えており、その上には湯気を立ち上らせた茶碗があった。
「熱くなっているだろうからね。冷ましてから食べないと、火傷するよ」
「うん。気を付ける」
寝台横の文机に置かれたお盆──その上に置かれた匙に手を伸ばそうとして、彼女はぴたりと固まった。折しも、髭切も同じように匙を掴もうとしていたからである。
「えっと、どういうつもり?」
「熱くなってるから、冷まそうかと思って。歌仙が『主はお腹がすくとすぐにがっつくから、君が冷ますといいよ』って言っていたんだ」
「がっつかないから、自分で冷ますよ。子供扱いしなくていいから」
歌仙め、余計なことを──内心で初期刀を呪いながら、主はお盆を膝の上にのせる。茶碗の上で小さな山を作っているのは、どうやら卵粥のようだった。
つやつやと光る黄金色に匙を入れ、そっと掬い上げる。何度か息を吹きかけて、湯気が落ち着いてから口の中に滑り込ませると、出汁の旨みと卵の味がじわりと広がった。
この味から察するに、粥自信を用意したのは歌仙だろう。にこにこ笑いながらこちらを見ている髭切は、きっとそれを持ってきただけだ。だが、敢えてそのことに言及しようとは思わない。
「美味しいよ。ありがとう」
「よかった。ご飯を食べている主は、やっぱり一番主らしい感じがして安心するよ」
自分が作ったわけではなくても我がことのように喜ぶ髭切の姿を見て、彼女もつられて思わず口元に笑みを浮かべる。
髭切の様子は、母親の看病をする幼い頃の自分によく似ていた。何をしたらいいか分からず、周りの大人にやり方を聞いて、母親に褒められると無邪気に喜んでいた頃の自分に。
「他には何をしてあげればいいのかな。主は何かしてほしいことある?」
褒められるのが嬉しくて、自分のおかげで元気な姿になってくれるのが何よりの喜びになって、お手伝いを自ら買って出る。
背の高い男性と幼い自分とでは見た目にも大きな差があるはずなのに、やっていることはあまりにも似通っていた。粥を口に含みながらも、ついつい笑ってしまう。
「食べ終わるまで待っててね。食べ終わったら、お皿を返してきてもらうから」
「うん。その後は何をすればいい?」
「僕はまた寝るから今は大丈夫だよ。起きたときに声をかけるね」
主のために何かしたいとうずうずしている青年を宥め、彼に見守られながら主は十分ほどかけて茶碗を空にした。
先に頼んだ通り、髭切に茶碗とお盆を返しに行ってもらい、その間に彼女は再び布団の中に沈み込む。
お腹が満たされ、風邪で失われた体力は眠りを求めていた。うつらうつらと船を漕ぎ、意識が眠りの海に沈みかけようとした時。
スーッと襖の開く音を耳にして、彼女は薄らと瞼を開いた。
寝台のそばにやってきて腰掛けたのは、お盆を持って出て行ったはずの髭切だった。
「まだ寝てるから、しばらく好きにしてていいよ。病人のそばにいてもつまらないでしょう」
「気にしないよ。僕がここに居たいからこうしているだけだからね。それに、主は僕がいると安心するんだよね」
そういえば、昨日悪夢を見て飛び起きたときに、側にいた彼に向かってそんなことを言ってしまったなと彼女は思い返す。
ちらりと彼の瞳を見つめると、穏やかに微笑んでいるだけに見えて、しっかりとした意思がその中には潜んでいた。こうなってしまえば何を言っても髭切は動いてくれないだろう。今の彼にとって、何よりも優先される事項が主の看病というわけだ。
「だからって、じっと見られると寝にくいんだけど」
目を離したらどこかに行ってしまうとでも思っているのか、髭切の視線はずっと主に注がれていた。いくら神経の太い方だと自負している彼女であっても、ここまでまじまじと見つめられていては眠るものも眠れない。
「じゃあ、寝やすいように何をしたらいい?」
「だからじっと見なければ──って言っても、聞かないよね」
言いかけたものの、言葉の途中で髭切が少しばかり不安を滲ませたため、彼女は言葉を途中で打ち切った。眠ってしまった主が再び目覚めるのか不安だと彼が言ってから、まだ一日も経っていない。そんなことが起きるはずはないと頭で分かっていても、どこかで心配が残っているのだろう。
「でも、寝やすいようにできることなんて」
言いかけて、彼女は口を閉ざす。先ほど目を覚ます前に聞こえてきた優しげな歌声が、彼女の耳の奥で静かに蘇る。
「それなら、子守唄──歌ってくれる?」
彼女のささやかな願いを聞いて、しかし髭切はきょとんとした顔をしてみせる。
「僕が起きる前に歌っていたの、髭切だよね?」
「ああ……主を見ていたら、何となく口をついて出てきてしまったんだよね」
「小さい頃に聞いていた子守唄に、似ていた気がして。何でだろうね。君が知っているわけないのに」
「不思議なこともあるものだね」
いつも通りに些細な疑問を気にすることなく、髭切は緩やかな笑みを見せる。彼女も、それに応えるように彼とそっくりの笑顔を浮かべた。
寝かしつけるために髭切がぽんぽんと頭を優しく撫でると、くすぐったそうに彼女は体を縮こませる。
他愛のない小さなふれあいの後、やがて彼女は力を抜いてゆっくりと瞼を閉じた。
主を眠りに誘うために、髭切は柔らかな声音で記憶の端にある歌を口ずさむ。
ねんねんころりよ おころりよ
おひいはよい子だ ねんねしな
おひいのお守りは どこへ行った
お角を生やして 山へ行った
山のめぐみに 何もろうた
狭野方の花に あけびの実
すうすうという穏やかな寝息をたてて眠っている彼女を見て、髭切は目を細める。いつもよりも一層優しげな笑顔は、ただの刀が浮かべるにはあまりに人間に近いものだった。
「早く、よくなって欲しいね」
そっと手を伸ばし、彼女の頬に触れる。まだ少しばかり高い熱が、じわりと彼の手に伝わってきた。
「……んん」
不意にむずがるような声をあげて、布団から姿を見せた主の手が彼の手を掴む。離れるのを嫌がるような無意識の所作に、髭切は微かに目を丸くした。
彼女を起こすまいと声はあげず、しかし無理に引き剥がすこともなく、主が目を覚ますまで彼は手を握られていた。