本編第三部(完結済み)
厨に一度戻った小豆が用意してくれたのは、檸檬の酸っぱさが程よいアクセントになったシャーベットだった。
ガラスの器から伝わる冷たさに、藤は歓喜の声を思わずあげたが、菊理に見られていることに気が付き、慌てて居住まいを正す。
二人の様子に配慮して、小豆も氷菓子を持ってきてからすぐに立ち去ってしまったので、残ったのは二人だけになってしまった。
暫くは、スプーンがガラスの器にぶつかる、涼やかな音だけが静まりかえった空間に響いた。
何か話そうと藤は自分なりに思案してみるも、頭は依然として空回りするばかりだ。
(一度時間は挟んだとはいえ、彼女は僕に対して良い感情は持っていないようだったし、あまり僕の方からあれこれ言える立場でもないだろうし)
どうしたものかと、菊理へとそれとなく視線を彷徨わせ、藤はそれを見つける。彼女の帯に巻かれた帯紐を飾る、真っ赤な椿の帯留めを。
「……あのさ。菊理さんって、妹さんがいるよね?」
半ば断定的に尋ねたのは、先程呼びかけたときの菊理の反応を思い出したからだった。
菊理はスプーンを動かしていた手を止め、探るような視線でこちらを見つめ返した。
「何で、あんたが、あの子のことを知ってるの?」
「実は、先日万屋でたまたま会って」
膝丸と出会った際の出来事を伝えている間、菊理は静まりかえった瞳でじっと藤を凝視していた。
夏祭りでも膝丸が彼女に再会した、という話まで終えてから、菊理は長く息を吐いた。
それは、あたかも彼女の中にあった多くの感情を、全部どこかへと流してしまったように見えた。
一分ほどの間を置いて、菊理はぽつりと呟く。
「あの子、友達なんていないだろうから。あんたと、その膝丸って刀剣男士。できるなら、あの子と仲良くしてあげて」
目線は決して藤に合わさず、俯いたまま菊理は藤へと頼む。
言葉の抑揚こそ抑えられた平坦なものだったが、そこにはありふれた家族の願いが込められていた。
その返答だけで、菊理がイチと名乗った少女の姉であると藤にも分かった。
「イチさんは、お姉さんのこと、すごく尊敬しているみたいだったよ。だけど、忙しくなって、あまり会えなくて、それが不安みたいで……。だから、僕より、菊理さんが会いに行ってあげた方が、喜ぶと思うんだけど」
言いながらも、出過ぎた言葉だっただろうかと藤は不安を覚える。正面に座る菊理が、俯いたままぴくりともしないからだ。
再度の沈黙。水を打ったような静けさの後、
「……私、あんたのそういう所、嫌い」
唐突に、ぐさりと突き刺さった言葉に、藤は思わず顔を歪める。
先だってのように、感情を爆発させた言葉ではない。だが、だからこそ静かに、確実に、言葉の刃先が藤の心に届いた。
「正しいことを、すらすらと言える所。優しい言葉を、見ず知らずの嫌な奴にでもかけられる所。他人を助けたいと、素直に思える所」
「僕は、そんなにいい奴じゃないよ。君も知ってるでしょ。僕が、本丸を放り出して逃げたこと」
「知ってるわよ。今でもむかついてる。だけど」
だけど、と言葉が繰り返される。
「あんたを見てる刀剣たちは、あんたを信じてるみたいだった。甘やかしてるわけじゃなくて、仕方ないって諦めてるわけでもなくて、あんたならきっと正しい答えを見つけるって」
普段から彼らの隣にいる藤には当たり前すぎて、特段意識もしていなかった事柄を、菊理は汲み取っていたようだ。
「だから、あんたの刀たちを見てたら、あんたが悪い奴じゃないってのも分かったの。……分かってたのよ、最初から、そんなことぐらい」
そろりと、菊理は顔を上げる。柘榴色の髪の下、夏の海を思わせる瞳が、藤を捉えていた。
怒りと、焦りと、諦めと、不安。
それら全ての感情を混ぜ込み、一緒くたになった瞳はまるで、
(迷子になった、子供みたいだ)
きっと、以前の自分もそんな瞳で髭切に縋ったのだろう。
夢の中で、「私を助けて」と彼に願ったのだろう。
髭切は、その願いに応えてくれた。ならば、助けられた自分は、今何をするべきなのだろうか。
「……私は、あの子に会いたくないの」
逡巡している間に、話は藤から菊理の妹へと戻ったようだ。
会いたくないという菊理の姿に、藤は一瞬、兄への接し方に悩む膝丸の横顔を藤は思い出す。
「会えない、じゃなくて、会いたくない、なんだね」
「……自分より、審神者の才能があるような奴のところに、会いに行きたいなんて思うわけがないじゃない」
「イチさんにも、審神者の才能が?」
言葉を持たぬ物たちに宿る思いを励起させる力は、以前イチが話した「物の気持ちが分かる」力と似通っている。あの時も膝丸が指摘していたように、それは審神者と似た才と言い換えてもいいだろう。
「私は、鍛刀が上手くできない。それで、あんたの所に教わりに行けって父さんに言われたの。だけど、あの子はきっと難なくこなせる。それぐらい、才能という点では秀でているから」
「だから、会いたくない?」
「だって、そうでしょ。むかつくのよ、あの子の顔を見てると! なのに、どれだけ八つ当たりしても、あの子は私のことを恨みもしないで、姉さん姉さんって馬鹿みたいに慕って!!」
不意に爆ぜた感情の爆弾に、しかし藤はもう動じなかった。
先程自分に向けられた『嫌い』という言葉も、髭切と出会う前に向けられた暴言の数々も、妹への怒りの言葉も。
それらの言葉をぶつける相手は、目の前にいる藤という審神者にでもなければ、優秀な妹に対してでもないと分かっていた。
「私は、あの子が嫌いなの! あんたみたいに、自分が恵まれているってことも知らずに、のうのうと生きてる無神経な奴も! 誰の目も気にせずに正しいことを言えて、どんなときも他人に優しくできて、困ってる奴にすぐに手を差し伸べられるような、そんな奴が嫌いなの!!」
どん、と拳で机を叩く音が、部屋に響く。ガラスの器に載せられたスプーンが、甲高い音を立てて揺れた。
瞬間、襖ががたりと音をたてる。だが、藤はすかさず、
「大丈夫、来なくていいから」
その向こうにいる彼へ――髭切へ、制止の言葉を投げかけた。
ふーっ、ふーっと、息の漏れる音。声を荒らげた反動で、菊理の食いしばった歯から発せられた音は、獣のそれに似ていた。
「……でも、本当に、嫌いなのは」
燃え盛った炎が、静まりかえる最後の瞬間。ぱちりと爆ぜた火花のように漏れた言葉を、
「それ以上は、言わなくていい」
藤は、そっと封じ込めた。
「それ以上、自分で自分を傷つけないで」
言ってしまったら、自分が益々嫌になってしまう。
そうして、自分が自分の首を絞めることが当たり前になったら、いつか取り返しのつかないぐらい己を壊してしまう。
嘗ての自分を思い出して、藤は菊理が発しかけた言葉を己の言葉で塞いだ。
「でもね。君が妹のことを嫌いって言っても、イチさんはお姉さんの君のことが好きみたいだったし」
まるで先程のやり取りがなかったかのように、藤は溶けかけのシャーベットをそろりとスプーンで掬う。甘くて、だけれど少し酸っぱい味が、渇いた喉をゆっくりと潤してくれた。
「それに、僕も君が嫌いになったりはしてないから」
「………………あっ、そ」
返答があって、藤は内心ほっとした。
このまま心を完全に閉ざしてしまったらどうしようと、不安には思っていたからだ。
だが、菊理の心はまだ動いている。だから、手を差し伸べる余地は残っている。
「でも、ちょっと傷つきはしたかな。僕は、そういう風に見られていたんだなって」
「普通、こういうとき、自分は傷ついてないって言うもんじゃないの」
「自分の気持ちに嘘はつかないよう、気をつけているんだ。ぐさっときたのは事実だもの」
「なのに、嫌いにならないなんて、変な奴」
嫌いの次は変な奴か、と藤は苦笑する。だが、背を向けられるよりかは、変な奴ぐらいの方がいいのかもしれない。
「そんなこと言ったの、あんたが初めてよ」
気を取り直してか、スプーンを再び手に持った彼女は、シャーベットへと視線を落としながら言葉を続ける。頑なにこちらを見ないのは、多少気まずいとは感じているからだろうか。
残り僅かのシャーベットを全て口に含み終え、ごくりと飲み干してから、藤は言葉を紡ぐ。
「きっと、菊理さんの刀剣男士も、そう思っているんじゃないかな」
「………………」
「どうして、あんな風によそよそしい態度をとっているのかは、僕は知らないけども。でも刀剣男士たちって、皆いい人たちばかりだから」
「知ってるわ、そんなことぐらい」
うん、と藤は小さく頷いて言葉を待つ。
初めて会ったときから、彼女は刀剣男士たちに対して、どこか距離を作っていた。
それがあるべき主従の姿と言われれば、そうなのかもしれない。だが、今の彼女には格式張った主従よりも、剥き出しの心同士をぶつけ合うような存在が必要な気がしてならなかった。
「……私の家、それなりに大きい家ってことは知ってる?」
「一応は。富塚さんが――僕の担当さんが、教えてくれた」
突然話題が切り替わった理由が何なのか。
針鼠のように、触れる者全てを傷つけようとしていた心に変化が生まれたのならいいが、と思いながらも、藤は聞き手に回る。
「ただ、考え方は古いというか、昔から変わってないの。刀剣男士なんていう、最近人間が形を与えた付喪神は、尊敬に値しない物なんですって。頭を下げるのも馬鹿らしい、対等に扱う必要もない。何故なら、単なる人殺しの道具だから」
「それは……そんなことない。皆、ちゃんと心があって、悲しんだり、苦しんだり、こうして暮らす日々を楽しんでもいる」
菊理自身が思っているわけではないと承知していても、思わず藤は反論してしまう。
遠征に出かけた際、その時代で死ななくてはならない人を見殺しにした五虎退は、泣きじゃくりながら己に課せられた使命について悩んだ。物吉貞宗も歌仙兼定も、歴史の正しさとは何かと苦悩を抱いた。
だからこそ、彼らが単なる物だとか、人殺しの道具などとは言われたくなかった。あのこんのすけに反感を抱いたのも、根本的な部分は刀剣男士に対する考えの違いが起因している。
「菊理さんは、どう思っているの」
「……私が彼らと暢気に仲良くしていたら、父さんからも親戚連中からも、私は白い目で見られる。母さんがそうだったもの。……私は、それに耐えられない」
「だから、ああして他人行儀な態度をとっているのかな」
夏祭りのとき、菊理を探してやってきた加州清光は、心底から彼女の身を案じていた。だが、彼に対する菊理の態度は、実に素っ気なかった。
彼女が言うには、その理由は本人の問題ではなく、周りの環境が原因であるようだ。
菊理は頷かなかったが、それが最早答えのようなものだった。
(あれこれ悩まなくていい、普通の審神者になりたかった……って言ってたのは、そういうことなんだね)
菊理が見せてくれた事情の一端を聞いて、藤は改めて、あの慟哭めいた批難の言葉たちを思い出す。
全てを投げ出して休む時間も持てず、刀剣男士に相談する関係も築けず、周りからの目が自分の一挙一動に注目している。そんな状況は、真綿で首を絞められているのと同じと言えよう。
(だから、僕が傲慢――か)
彼女の視点から見たら、何やら込み入った事情に縛られてもいない者が、個人的な事情で閉じこもっているのは傲慢に見えただろう。
だが、それでも藤は、自分が逃避した理由が彼女に比べたら小さな悩みとは微塵も思っていなかった。
悩みの大小など比較するものではないし、比較自体ができないものだと、藤はもう知っている。
「……鍛刀の研修、そろそろ始めてくれない? あんたの休憩、長すぎよ」
「それもそうだね。といっても、ちょっとしたコツを話すだけになっちゃうけど」
「それでもいいわよ。聞いた話を、あとで報告する必要があるから、何も聞かないで帰るよりはましってだけ」
菊理はひらひらと手を振って、来たときに比べてみたら、随分と気楽な調子で答える。あのときの格式張った態度は、いったいどこにいったのだろうと思うほどだ。
「そういえば、もう、丁寧な言葉は使わないんだね」
「言ったでしょ。私、あんたのこと、嫌いなの」
帯を締め直すから、と言い残して、藤が解いて布団の隣に置いていた帯を菊理は手に取る。
手早く着物を整える菊理を横目に見ながら、藤は苦笑いを零した。
***
鍛刀の部屋に二人揃って籠もり、藤は菊理に鍛刀のコツについて、あれこれ説明をしてみた。
だが、結論から言うと、藤は自分が致命的に説明下手であると認識してしまう羽目になった。
そもそも、鍛刀自体が感覚に頼る作業であるために、口で説明しても「ぐーっと力を入れて、何だか光るものをがしっと掴む」といった曖昧な説明になってしまうのも、已む無しと言えよう。
しかし、流石にこの解説には、菊理も明らかに呆れの表情を見せていた。
「あんた、よくそれで、研修の講師をやるなんて引き受けたわね」
「……僕も今、そう思っているところ」
何回目かの分かりづらい説明を経て、藤はがっくりと肩を落とした。そうはいっても、菊理も菊理なりに藤の不明瞭な説明を飲み込んで、鍛刀に取り組もうとはしていた。
最後には、菊理と一緒に藤も手を合わせ、普段鍛刀をしているときのように、炉に火を灯して意識を集中させてもみた。だが、結果は芳しくなかった。
「僕が普段やっているときと、何だか違うなあ。刀剣男士へのお願いが、壁みたいなものに邪魔されてる気がする」
「いっつもそうよ。でも、おかげで少し分かった気もするから、今日はこれでいいわ」
教えられる側の生徒に切り上げの時機を指定されるのも、あべこべのような気もするが、もういいと言われた以上、引き留める理由もない。
藤も軽く頷き返して、鍛刀部屋の戸を開いた。窓が小さい鍛刀部屋にいたせいで、差し込んだ夏の日差しが殊更眩しく感じられる。
目蓋の裏に突き刺さるような光に目を細めていると、何やら騒々しい足音や声が廊下中に響いていた。足音をたてて目の前を通り過ぎる五虎退に、何事かと藤は問う。
「あ、あるじさま! 出陣していた皆さんが、帰ってきました! 中傷二名、軽傷一名だそうです!」
五虎退の報告を聞いて、藤は咄嗟に力一杯唇を噛んだ。拳をぎゅっと握りしめ、極力顔色を変えまいとする。
以前のように、感情を無理に抑えつけこそしなかったものの、ともすれば乱れようとする気持ちを精一杯抑える必要はまだあった。
「……あんたって、子供みたいに無責任に逃げ出したこともある癖に、そういう所は大人なのね」
「え?」
「そうやって、負傷の知らせを聞いても、顔色を変えないでいられる所」
隣に立つ菊理に指摘され、藤は自分の顔に手をやる。触っただけでも分かるほど、頬の筋肉は強張っていた。
「皆が初めて出陣して、怪我して帰ってきた日のこと、まだ覚えてるわ。私は……みっともないぐらいに、取り乱しかけた。私が怪我したとき以上に、ずっと頭の中がぐちゃぐちゃになった。そんなことは、私は許されていないはずなのに」
研修のときも、その前のときも見せなかった、静かな声音。そこには、彼女からの藤に対する尊敬の気持ちが僅かに宿っていた。
しかし、藤は静かに首を横に振る。
「そうでもしないと、主としての体面が保てないから、そうしてるだけだよ」
「でも、私にはできない」
「怪我をした皆を労ったら、それも仲良くしてるって思われるから?」
部屋を出ながら、藤が問うと、菊理はゆっくりと頷いた。
先だってのように、感情を無闇矢鱈とぶつけることこそしなくなったが、熾火のように鎮まった瞳は、それはそれで何だか彼女らしくないと藤には思えた。
出陣した彼らを、温かく出迎えてやれない。それは、藤にも身に覚えのある事柄でもあった。
就任直後は、戦いを当たり前として受け入れる彼らを前にして、動じてはならないと己を強く戒めたものだ。
今も、殊更に大袈裟に騒ぎ立てたりはしない。けれども、心配の形はそれ以外にもあるはずだ。
そこまで思い至って、藤は小さく息を呑む。
(もしかして、そういうことなのかな)
何かを思いついたような節の藤を、菊理は怪訝そうに覗き込む。そんな彼女へと、藤はにっこりと微笑んでみせた。
「君が鍛刀できない理由が、何となく分かった気がする」
「は?」
「出陣先で怪我をして帰ってきても、君は刀剣男士を労えない。その結果、皆が悲しい気持ちになるって分かっていても」
藤もできる限り感情を抑える努力はしていたが、日々の態度が態度だったために、怪我について全く心配されていないとまでは、皆も思っていないようだった。寧ろ、無理をしていると見抜かれていた節すらある。
だが、菊理は違う。
日頃から、他人行儀のよそよそしい態度をとり、挙げ句傷だらけの姿を見ても顔色一つ変えなければ、主に嫌われていると刀剣男士が誤解してもおかしくない。
たとえ、菊理本人の気持ちがそうではなかったとしても。
「だから、そんな風に悲しむ刀剣男士がこれ以上生まれないように、君は新たな刀剣男士が来るのを無意識の内に拒んでいるんじゃないかって」
「……何よ、私のせいって言いたいの?」
反駁しつつも、菊理の瞳の奥にはひょっとしたら、という気持ちが覗いている。少なくとも、彼女にも思い当たる節はあるのだろう。
「何となく、そうじゃないかって思っただけ。今は、出陣させてるの?」
「……顕現している人数が少ないから、簡単な任務をごく稀に貰っているだけ」
「そっか。もし、人手が必要になったら、相談してくれていいから」
戦術的な観点から見ると、早く顕現させて戦力を増強した方がいいとは、戦の素人である藤ですら分かる。
だが、今彼女にとって相応しい言葉は、そんな現実的な助言ではないとも承知している。
だから、必要なときに貸せる手はあるよ、と藤は言外に伝える。いざというとき、掴めると信じられる助けの手は、多ければ多い方がいいだろう。
「ほんと、あんたって」
変な奴、という言葉は、少女が漏らした小さな息の中に溶けて、消えていった。
***
出陣から帰ってきた藤の刀剣男士たちと入れ替わるように、菊理は本丸を後にした。小豆にぶつかった際に落としてしまった簪を片手に持ち、息を整えて転送装置をくぐれば、そこには見慣れた本丸の庭が広がっている。
だが、見慣れているとはいえ、未だにこの本丸で心を落ち着けられた試しがない。ここは、菊理にとっては広い監獄のように思えてならなかった。
「主、おかえりー。研修どうだった?」
そんな監獄の中でも、鮮やかに咲く花のような者たちがいる。気楽な調子で菊理に話しかける刀剣男士──加州清光もその一人だ。
猫のようにつり上がった目蓋の内側、真っ赤なルビーの如き目がこちらをじっと見つめている。
――きっと、菊理さんの刀剣男士も、そう思っているんじゃないかな。
どれだけ辛辣な言葉を投げかけられて、傷ついたとしても、嫌いにはならない。彼らは皆、いい人たちだから。
何の衒いもなく、素直な気持ちを口にできるあの審神者に対して、今は怒る気にもならなかった。憤怒や嫉妬の炎を渦巻かせる気力も、残っていなかった。
自分の八つ当たりに、他人を巻き込んだ罪悪感。それは、何も知らずに姉を案じる妹に対して、醜い妬みの言葉をぶつけた後に感じたものと同じ感情だった。
「主、ちょっと着崩れしてない?」
だが、気落ちするこちらの気持ちに反して、加州は別のことが気になっていたようだった。遠慮無く歩み寄ってきた彼は、じっと菊理の様子を観察している。
「ほら、こっちの帯、出かけるときよりずれてる。鍛刀の研修に行ってたんだよね、何か向こうであったの?」
いつもは気楽な調子で話しかける彼が、ひどく真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
その眼差しが、どれほど真っ直ぐ自分を見てくれていたか。
知っていたはずなのに、改めて相対すると、じんわりと目蓋の奥が熱くなる。
己に憑依していた子供の気持ちが、まだどこかに残っていたのだろうか。自分という『子供』を置き去りにせず、心の底から案じてくれる彼の姿を目にして、菊理の心の内に硬く封じていたものに、僅かに罅が走った。
「主、もしかして何か酷い目に遭ったの?」
「別に、そんなことはないわよ」
「だって、結ってた髪も落ちてるし、帯だって乱れてる。ねえ、本当に何があったの?」
菊理の内側で揺れる心を、加州は違う意味で読み取ってしまったらしい。あの気丈な主が動揺するほど、辛い出来事が降りかかったのではないかと、彼は考えているようだった。
「帯は、私が解いたのを結び直したから、ちょっと乱れただけ」
「何で、研修で帯が解けるわけ?」
加州の目に、剣呑な光が宿る。
普段聞いたこともないぐらい、ずっと低くて心の芯を冷えさせる声音。表情にこそ出さなかったが、菊理の方が彼の声に内心驚いてしまったほどだ。
「……主、今日ばかりは正直に話して。ことと次第によっちゃ、俺、殴り込みに行くよ」
「ちょっと待って。あんた、何か勘違いしてない?」
「安心して。俺、乱闘には慣れてるからさ。ほら、こう見えても、俺って新撰組の刀だったわけだから」
「だから、別にそういうのじゃないのよ!」
ぶんぶんと首を横に振る菊理の腕を、加州はがしりと掴む。その力強さに、菊理はびくりとして、思わず動きを止めた。
痛みは感じるほどの強さはないものの、微かに力を込められた手には、彼が主である少女をどれほど気遣っているかが、痛いほど伝わってきた。
「主、泣きそうな顔してる。そんな顔、俺は初めて見た。どうしたのさ、主」
あんなに他人行儀な態度をとっていたのに、それでもこの刀の付喪神は、愚直なまでに己のことを案じてくれている。主、主と何度も呼びかけてくれている。
審神者としても半人前で、人間としても褒められた所などない自分に、なお手を差し伸べてくれている。
(見限られてるって、嫌われてるって思ってた)
新たな仲間も呼べない。疲れて帰ってきた彼らを、労ってやることもできない。
愛想がなくて、どこか怒ったような口ぶりでしか応対した試ししかない。二言目には、気安く接するなと彼らをはね除けてきた。
それが、家の者にとって望まれるべき審神者の姿だからと、刀剣男士たちの気持ちを蔑ろにしてきた。
審神者になった直後に至っては、家人たちの影響もあったとはいえ、彼らを見下していた所すらあった。
だというのに。
――たとえちょっとばかし迷子になったり、上手くいかないことがあったりしても、放っておきやしないさ。
夏祭りで迷子になったとき、藤の刀剣男士が言ってくれた言葉の意味が、今になってはっきりとした形を帯び始める。
あれは模範的な回答でもなければ、特別な主人を持ったから言えた言葉でもない。
刀剣男士は、主を信じたいと願う。
ただ、それだけなのだ。
「…………加州」
主を選べない彼らが、憐れだと口にした日もあった。
主に逃げられた藤の本丸の刀剣男士に告げた言葉ではあったが、あれは同時に、不甲斐ない己にぶつけた言葉でもあった。
でも、たとえ憐れな『物』に見えても、彼らは菊理の側にいることを選んだ。こんな『何もない』自分に、刀は寄り添い続けてくれていた。
本当は、今すぐにでも己の不甲斐なさを曝け出し、頭を垂れたかった。他人に怒りをぶつける形でしか交流できず、力を持つ者に頭を下げる自分が、惨めで浅ましい生き物に思えた。
けれども、彼らに頭を垂れる姿を見せたら、何か取り返しのつかない出来事が始まるような恐れも感じていた。
だから、菊理はたった一つの言葉だけを告げる。
「……心配してくれて、ありがと」
優しすぎるぐらい優しい神様に送れる言葉は、ただそれだけだった。
「当たり前じゃん。俺、主の刀なんだからさ」
加州は何てことのない調子で応えると、素早く菊理の身だしなみを確認する。
どうにかこうにか誤解を解いたあと、加州は居住まいを正してから、微笑みながらこう告げた。
「おかえり、主」
その言葉を、菊理は久しぶりに聞いたような気がした。
***
「すみません、主さん。僕の分まで、手入れをしてもらって」
「当たり前のことで謝らなくてもいいよ。堀川の傷を癒やす方が、今は大事」
「でも、主さん。顔色が悪いですよ。無理しないで、手入れが終わったら休んでくださいね」
堀川に指摘され、藤は頬に手をやる。彼の言うとおり、確かに幾らか血の気は引いているようだ。とはいえ、今更驚く必要もない。手入れをしたときに起きる、いつもの後遺症だ。
菊理を見送ってから、藤は着物からいつもの服に着替えて、帰還してきた刀剣男士たちの手入れを始めていた。傷が深くて一刻を争うといった事態ではなかったが、それでも怪我は怪我だ。
手入れを求めている刀剣男士がいるのだから、放置しておけるわけがない。
「……うん。これが終わったら、休憩はちゃんととるよ」
「必ずですよ。休まないと、僕も兼さんも怒りますからね」
相槌を打ちながら、藤は堀川の腕に巻いていた包帯を解く。先だってまで、そこにざっくりと刻まれていた傷跡は、今は跡形も無く消えていた。
傷が消えた代わりに、先程まで藤の近くに置いてあった、鍛刀のために使用する資材も跡形もなく消え失せている。
刀を作り出すのに用いられる資材――玉鋼や冷却水――は、刀を直す用途にも用いられる。それらの物品が内に秘めた、修復の力を汲み出して刀剣男士に注ぐことで、藤が直接力を注がなくても彼らの傷を癒やせるようになっている。
その方が体の負担も少ないので、藤は時間があるときはこの手法をとるようにしていた。それでも、後遺症の影響をゼロにはできず、彼女の顔は障子紙のように白くなっている。
「主さん、僕が部屋まで運びましょうか?」
「あー……それなら、髭切、呼んできてもらえる?」
「髭切さんを、ですか?」
どうしてわざわざそんなことを、と首を傾げる堀川。彼としては当然の疑問だ。
「髭切に、今度運ぶときは自分が運びたいって言われていたんだ」
堀川には単純な要望しか伝えていないが、無論ただ運びたいという髭切の願望だけが理由ではない。
先日、和泉守に部屋へと担ぎ込まれた際、髭切は何だか気になることがあると口にしていたのを、彼女は覚えていた。
和泉守と同じことを髭切がしたなら、彼の内に残る何かが解消するのではないかと彼に提案していたので、いい機会だと考えたのだ。
「じゃあ、髭切さんを呼んできますから、主さんは動いちゃだめですよ。兼さんだって、主はいっつも無茶をするって怒ってましたからね」
「うん。待ってるから。……ああ、そうだ。堀川」
部屋を後にしようと小走りで襖に向かっていた堀川は、急制動をかけてくるりと振り返る。弾みで、彼の戦装束についている紅い紐がぐるんと宙に弧を描いた。
「突然の質問になっちゃうんだけど……堀川は、僕のこと、どう思ってる?」
言葉通り、あまりに唐突な質問に、堀川は大きな空色の瞳をぱちくりとさせた。
「和泉守が何て言ってたとか、和泉守がこう思うからってのは、いつも沢山教えてくれるけど、あまり堀川自身が何を思ってるか、聞いたことがなかったな……って」
「僕も……主さんのことは、心配してますよ」
堀川は口早にそれだけを答えると、何故だか焦ったような素振りで部屋から出て行った。
残された藤は、頭痛を覚えながらも、ぱたりと座布団の上に倒れる。目眩までし始めたのか、天井がぐるぐると回っているように見えた。
「菊理さんに、言われたからかなあ……」
周りの目など気にせずに、身勝手にも本丸を飛び出して、いけしゃあしゃあと素知らぬ顔で本丸に戻ってくる。
それを傲慢と指摘されれば、その通りなのではないかと思う節もある。自分に一切非はないと言い張れるほど、己の正しさで全てを押しのけられるとは藤も考えていなかった。
「皆が何て考えているかは、あのときに聞いた言葉が全てだとは思っていたんだけど」
和泉守は未だこちらを裁くような目で、己の主として相応しいかを伺い続けている。小豆は、ありがたいことに、最初から今に至るまで彼の優しさを貫き続けている。
膝丸は兄の件もあってか、辛辣な態度をとり続けていたが、兄との和解を経て、藤の態度についても見直してくれているらしい。
「でも、堀川は……ちょっと、見えづらい気がしたんだよね」
出会ったときから、堀川は和泉守と一緒にいた。だから、堀川は和泉守に追従しているものだと藤も思っていた。
けれども、和泉守は和泉守で、堀川は堀川だ。和泉守が主かどうかを見定めようとしているからといって、堀川もそうだとまでは言い切れない。実はとっくに見限っている可能性だって、ゼロではないだろう。
(まだまだ、頑張らないとなあ)
自分の腕で己の目を隠すようにして、藤はぐるぐると回る視界を薄闇で覆い隠す。
ぐらぐらと揺れる意識の中、乾いた瞳をした少女の横顔がよぎった。彼女は本丸の仲間と、今頃何を話しているのだろう。それとも、今までと同じように、刀剣男士たちをはね除けているのだろうか。
菊理のように、周りからの期待を一身に背負った経験は藤にはない。故に、彼女の負う重荷の辛さは、到底想像できない。
代わりに菊理も、己の根幹たる当たり前だと信じていた個性を、当然のように否定された経験はないだろう。人の血に焦がれてしまい、人と異なる自分の生き方に悩んだ日など、彼女にはなかったに違いない。
(でも、たとえ僕らの生きてきた道が違ったとしても……子供みたいに、自分の気持ちを素直に伝えたり甘えたりするのって、難しいよ)
先だっての夢で見た少年のように、母に縋るような真似は、大人になればなるほど困難になる。だからこそ、それでも甘えていいと言ってくれる、小豆長光が持つような優しさが、きっと菊理には必要なのだろう。
あれやこれやと思考を遊ばせていると、すっと襖が開く音がした。
「主、寝ているのかい?」
少し重みのある足音が誰のものか、藤は既によく知っている。
「起きてるよ、髭切。堀川に教えてもらったの?」
「うん。よかった、起こしてしまうのは申し訳ないと思っていたんだ。じゃあ、ちょっと失礼するね」
寝転がっている自分の背中と膝の裏に手が差し込まれ、ひょいと抱えあげられる。和泉守のような乱暴な持ち上げ方ではなく、歌仙のように気安さと同時に少しの粗雑さも感じられる抱え上げ方でもない。
頭が動かないように腕を絶妙な角度で固定し、体に負荷をかけまいと意識した抱え方だと、藤はぼんやりする意識の中でも気が付いていた。
「主は軽いねえ。何だか羽でも抱えているみたいだよ」
頭上から声が降ってくる。よくよく考えてみれば、今、自分は横抱きにされているらしい。本来なら不安定な姿勢であるはずなのに、刀剣男士の体格が良いからだろうか、ちっともぐらぐらした感じはなかった。
「主、さっきの着物、もう脱いじゃったんだね」
「着物に血がついたら、歌仙が怒りそうだったから」
「主によく似合っていたから、もっと見ていたかったんだけどなあ」
目眩と頭痛で朦朧とした意識の中であったため、藤は髭切の言葉をぼんやりとした思考で拾い上げていた。
そんな状況であっても、似合っていたという言葉に、ほんの少しだけ、心の片隅が小さく跳ねる。自分では着物を着るというより、着物に着られているようなものではないかと思っていたが、髭切の目からはよく『似合っていた』らしい。
「主、何だか嬉しそうな顔をしているね」
「……そう? そう、かも」
「うん。でも、ちゃんと休まないといけないよ」
どうやら、話している間に部屋に到着したらしい。腕の中から降ろされ、代わりに心地よいシーツの感触が、優しく藤を迎えてくれた。
髭切の腕から伝わっていた熱が遠くなり、藤は一抹の寂しさを覚えながらも、彼からそっと身を離した。
「ねえ、髭切」
「どうしたんだい?」
「もやもやは、無くなった?」
「……うん。今はもう、すっかり」
「それなら……よかった」
それだけ呟くと、藤はゆっくりと目蓋を閉じた。研修に加えて、菊理とのやり取りや簪の事件にまで巻き込まれて、体が疲れ切ってしまったのだろう。
泥のような眠りに引きずられながらも、藤はどこか遠くで子供が泣いている声を聞いていた。見えてもいないはずなのに、藤にはそれが、あの少年が泣きじゃくっているように聞こえてならなかった。
(君のことも、君がいるべき場所に、ちゃんと返してあげるから)
だから、泣かないで。
小さな祈りを捧げながら、藤はずるずると眠りの中に引きずり込まれていった。
ガラスの器から伝わる冷たさに、藤は歓喜の声を思わずあげたが、菊理に見られていることに気が付き、慌てて居住まいを正す。
二人の様子に配慮して、小豆も氷菓子を持ってきてからすぐに立ち去ってしまったので、残ったのは二人だけになってしまった。
暫くは、スプーンがガラスの器にぶつかる、涼やかな音だけが静まりかえった空間に響いた。
何か話そうと藤は自分なりに思案してみるも、頭は依然として空回りするばかりだ。
(一度時間は挟んだとはいえ、彼女は僕に対して良い感情は持っていないようだったし、あまり僕の方からあれこれ言える立場でもないだろうし)
どうしたものかと、菊理へとそれとなく視線を彷徨わせ、藤はそれを見つける。彼女の帯に巻かれた帯紐を飾る、真っ赤な椿の帯留めを。
「……あのさ。菊理さんって、妹さんがいるよね?」
半ば断定的に尋ねたのは、先程呼びかけたときの菊理の反応を思い出したからだった。
菊理はスプーンを動かしていた手を止め、探るような視線でこちらを見つめ返した。
「何で、あんたが、あの子のことを知ってるの?」
「実は、先日万屋でたまたま会って」
膝丸と出会った際の出来事を伝えている間、菊理は静まりかえった瞳でじっと藤を凝視していた。
夏祭りでも膝丸が彼女に再会した、という話まで終えてから、菊理は長く息を吐いた。
それは、あたかも彼女の中にあった多くの感情を、全部どこかへと流してしまったように見えた。
一分ほどの間を置いて、菊理はぽつりと呟く。
「あの子、友達なんていないだろうから。あんたと、その膝丸って刀剣男士。できるなら、あの子と仲良くしてあげて」
目線は決して藤に合わさず、俯いたまま菊理は藤へと頼む。
言葉の抑揚こそ抑えられた平坦なものだったが、そこにはありふれた家族の願いが込められていた。
その返答だけで、菊理がイチと名乗った少女の姉であると藤にも分かった。
「イチさんは、お姉さんのこと、すごく尊敬しているみたいだったよ。だけど、忙しくなって、あまり会えなくて、それが不安みたいで……。だから、僕より、菊理さんが会いに行ってあげた方が、喜ぶと思うんだけど」
言いながらも、出過ぎた言葉だっただろうかと藤は不安を覚える。正面に座る菊理が、俯いたままぴくりともしないからだ。
再度の沈黙。水を打ったような静けさの後、
「……私、あんたのそういう所、嫌い」
唐突に、ぐさりと突き刺さった言葉に、藤は思わず顔を歪める。
先だってのように、感情を爆発させた言葉ではない。だが、だからこそ静かに、確実に、言葉の刃先が藤の心に届いた。
「正しいことを、すらすらと言える所。優しい言葉を、見ず知らずの嫌な奴にでもかけられる所。他人を助けたいと、素直に思える所」
「僕は、そんなにいい奴じゃないよ。君も知ってるでしょ。僕が、本丸を放り出して逃げたこと」
「知ってるわよ。今でもむかついてる。だけど」
だけど、と言葉が繰り返される。
「あんたを見てる刀剣たちは、あんたを信じてるみたいだった。甘やかしてるわけじゃなくて、仕方ないって諦めてるわけでもなくて、あんたならきっと正しい答えを見つけるって」
普段から彼らの隣にいる藤には当たり前すぎて、特段意識もしていなかった事柄を、菊理は汲み取っていたようだ。
「だから、あんたの刀たちを見てたら、あんたが悪い奴じゃないってのも分かったの。……分かってたのよ、最初から、そんなことぐらい」
そろりと、菊理は顔を上げる。柘榴色の髪の下、夏の海を思わせる瞳が、藤を捉えていた。
怒りと、焦りと、諦めと、不安。
それら全ての感情を混ぜ込み、一緒くたになった瞳はまるで、
(迷子になった、子供みたいだ)
きっと、以前の自分もそんな瞳で髭切に縋ったのだろう。
夢の中で、「私を助けて」と彼に願ったのだろう。
髭切は、その願いに応えてくれた。ならば、助けられた自分は、今何をするべきなのだろうか。
「……私は、あの子に会いたくないの」
逡巡している間に、話は藤から菊理の妹へと戻ったようだ。
会いたくないという菊理の姿に、藤は一瞬、兄への接し方に悩む膝丸の横顔を藤は思い出す。
「会えない、じゃなくて、会いたくない、なんだね」
「……自分より、審神者の才能があるような奴のところに、会いに行きたいなんて思うわけがないじゃない」
「イチさんにも、審神者の才能が?」
言葉を持たぬ物たちに宿る思いを励起させる力は、以前イチが話した「物の気持ちが分かる」力と似通っている。あの時も膝丸が指摘していたように、それは審神者と似た才と言い換えてもいいだろう。
「私は、鍛刀が上手くできない。それで、あんたの所に教わりに行けって父さんに言われたの。だけど、あの子はきっと難なくこなせる。それぐらい、才能という点では秀でているから」
「だから、会いたくない?」
「だって、そうでしょ。むかつくのよ、あの子の顔を見てると! なのに、どれだけ八つ当たりしても、あの子は私のことを恨みもしないで、姉さん姉さんって馬鹿みたいに慕って!!」
不意に爆ぜた感情の爆弾に、しかし藤はもう動じなかった。
先程自分に向けられた『嫌い』という言葉も、髭切と出会う前に向けられた暴言の数々も、妹への怒りの言葉も。
それらの言葉をぶつける相手は、目の前にいる藤という審神者にでもなければ、優秀な妹に対してでもないと分かっていた。
「私は、あの子が嫌いなの! あんたみたいに、自分が恵まれているってことも知らずに、のうのうと生きてる無神経な奴も! 誰の目も気にせずに正しいことを言えて、どんなときも他人に優しくできて、困ってる奴にすぐに手を差し伸べられるような、そんな奴が嫌いなの!!」
どん、と拳で机を叩く音が、部屋に響く。ガラスの器に載せられたスプーンが、甲高い音を立てて揺れた。
瞬間、襖ががたりと音をたてる。だが、藤はすかさず、
「大丈夫、来なくていいから」
その向こうにいる彼へ――髭切へ、制止の言葉を投げかけた。
ふーっ、ふーっと、息の漏れる音。声を荒らげた反動で、菊理の食いしばった歯から発せられた音は、獣のそれに似ていた。
「……でも、本当に、嫌いなのは」
燃え盛った炎が、静まりかえる最後の瞬間。ぱちりと爆ぜた火花のように漏れた言葉を、
「それ以上は、言わなくていい」
藤は、そっと封じ込めた。
「それ以上、自分で自分を傷つけないで」
言ってしまったら、自分が益々嫌になってしまう。
そうして、自分が自分の首を絞めることが当たり前になったら、いつか取り返しのつかないぐらい己を壊してしまう。
嘗ての自分を思い出して、藤は菊理が発しかけた言葉を己の言葉で塞いだ。
「でもね。君が妹のことを嫌いって言っても、イチさんはお姉さんの君のことが好きみたいだったし」
まるで先程のやり取りがなかったかのように、藤は溶けかけのシャーベットをそろりとスプーンで掬う。甘くて、だけれど少し酸っぱい味が、渇いた喉をゆっくりと潤してくれた。
「それに、僕も君が嫌いになったりはしてないから」
「………………あっ、そ」
返答があって、藤は内心ほっとした。
このまま心を完全に閉ざしてしまったらどうしようと、不安には思っていたからだ。
だが、菊理の心はまだ動いている。だから、手を差し伸べる余地は残っている。
「でも、ちょっと傷つきはしたかな。僕は、そういう風に見られていたんだなって」
「普通、こういうとき、自分は傷ついてないって言うもんじゃないの」
「自分の気持ちに嘘はつかないよう、気をつけているんだ。ぐさっときたのは事実だもの」
「なのに、嫌いにならないなんて、変な奴」
嫌いの次は変な奴か、と藤は苦笑する。だが、背を向けられるよりかは、変な奴ぐらいの方がいいのかもしれない。
「そんなこと言ったの、あんたが初めてよ」
気を取り直してか、スプーンを再び手に持った彼女は、シャーベットへと視線を落としながら言葉を続ける。頑なにこちらを見ないのは、多少気まずいとは感じているからだろうか。
残り僅かのシャーベットを全て口に含み終え、ごくりと飲み干してから、藤は言葉を紡ぐ。
「きっと、菊理さんの刀剣男士も、そう思っているんじゃないかな」
「………………」
「どうして、あんな風によそよそしい態度をとっているのかは、僕は知らないけども。でも刀剣男士たちって、皆いい人たちばかりだから」
「知ってるわ、そんなことぐらい」
うん、と藤は小さく頷いて言葉を待つ。
初めて会ったときから、彼女は刀剣男士たちに対して、どこか距離を作っていた。
それがあるべき主従の姿と言われれば、そうなのかもしれない。だが、今の彼女には格式張った主従よりも、剥き出しの心同士をぶつけ合うような存在が必要な気がしてならなかった。
「……私の家、それなりに大きい家ってことは知ってる?」
「一応は。富塚さんが――僕の担当さんが、教えてくれた」
突然話題が切り替わった理由が何なのか。
針鼠のように、触れる者全てを傷つけようとしていた心に変化が生まれたのならいいが、と思いながらも、藤は聞き手に回る。
「ただ、考え方は古いというか、昔から変わってないの。刀剣男士なんていう、最近人間が形を与えた付喪神は、尊敬に値しない物なんですって。頭を下げるのも馬鹿らしい、対等に扱う必要もない。何故なら、単なる人殺しの道具だから」
「それは……そんなことない。皆、ちゃんと心があって、悲しんだり、苦しんだり、こうして暮らす日々を楽しんでもいる」
菊理自身が思っているわけではないと承知していても、思わず藤は反論してしまう。
遠征に出かけた際、その時代で死ななくてはならない人を見殺しにした五虎退は、泣きじゃくりながら己に課せられた使命について悩んだ。物吉貞宗も歌仙兼定も、歴史の正しさとは何かと苦悩を抱いた。
だからこそ、彼らが単なる物だとか、人殺しの道具などとは言われたくなかった。あのこんのすけに反感を抱いたのも、根本的な部分は刀剣男士に対する考えの違いが起因している。
「菊理さんは、どう思っているの」
「……私が彼らと暢気に仲良くしていたら、父さんからも親戚連中からも、私は白い目で見られる。母さんがそうだったもの。……私は、それに耐えられない」
「だから、ああして他人行儀な態度をとっているのかな」
夏祭りのとき、菊理を探してやってきた加州清光は、心底から彼女の身を案じていた。だが、彼に対する菊理の態度は、実に素っ気なかった。
彼女が言うには、その理由は本人の問題ではなく、周りの環境が原因であるようだ。
菊理は頷かなかったが、それが最早答えのようなものだった。
(あれこれ悩まなくていい、普通の審神者になりたかった……って言ってたのは、そういうことなんだね)
菊理が見せてくれた事情の一端を聞いて、藤は改めて、あの慟哭めいた批難の言葉たちを思い出す。
全てを投げ出して休む時間も持てず、刀剣男士に相談する関係も築けず、周りからの目が自分の一挙一動に注目している。そんな状況は、真綿で首を絞められているのと同じと言えよう。
(だから、僕が傲慢――か)
彼女の視点から見たら、何やら込み入った事情に縛られてもいない者が、個人的な事情で閉じこもっているのは傲慢に見えただろう。
だが、それでも藤は、自分が逃避した理由が彼女に比べたら小さな悩みとは微塵も思っていなかった。
悩みの大小など比較するものではないし、比較自体ができないものだと、藤はもう知っている。
「……鍛刀の研修、そろそろ始めてくれない? あんたの休憩、長すぎよ」
「それもそうだね。といっても、ちょっとしたコツを話すだけになっちゃうけど」
「それでもいいわよ。聞いた話を、あとで報告する必要があるから、何も聞かないで帰るよりはましってだけ」
菊理はひらひらと手を振って、来たときに比べてみたら、随分と気楽な調子で答える。あのときの格式張った態度は、いったいどこにいったのだろうと思うほどだ。
「そういえば、もう、丁寧な言葉は使わないんだね」
「言ったでしょ。私、あんたのこと、嫌いなの」
帯を締め直すから、と言い残して、藤が解いて布団の隣に置いていた帯を菊理は手に取る。
手早く着物を整える菊理を横目に見ながら、藤は苦笑いを零した。
***
鍛刀の部屋に二人揃って籠もり、藤は菊理に鍛刀のコツについて、あれこれ説明をしてみた。
だが、結論から言うと、藤は自分が致命的に説明下手であると認識してしまう羽目になった。
そもそも、鍛刀自体が感覚に頼る作業であるために、口で説明しても「ぐーっと力を入れて、何だか光るものをがしっと掴む」といった曖昧な説明になってしまうのも、已む無しと言えよう。
しかし、流石にこの解説には、菊理も明らかに呆れの表情を見せていた。
「あんた、よくそれで、研修の講師をやるなんて引き受けたわね」
「……僕も今、そう思っているところ」
何回目かの分かりづらい説明を経て、藤はがっくりと肩を落とした。そうはいっても、菊理も菊理なりに藤の不明瞭な説明を飲み込んで、鍛刀に取り組もうとはしていた。
最後には、菊理と一緒に藤も手を合わせ、普段鍛刀をしているときのように、炉に火を灯して意識を集中させてもみた。だが、結果は芳しくなかった。
「僕が普段やっているときと、何だか違うなあ。刀剣男士へのお願いが、壁みたいなものに邪魔されてる気がする」
「いっつもそうよ。でも、おかげで少し分かった気もするから、今日はこれでいいわ」
教えられる側の生徒に切り上げの時機を指定されるのも、あべこべのような気もするが、もういいと言われた以上、引き留める理由もない。
藤も軽く頷き返して、鍛刀部屋の戸を開いた。窓が小さい鍛刀部屋にいたせいで、差し込んだ夏の日差しが殊更眩しく感じられる。
目蓋の裏に突き刺さるような光に目を細めていると、何やら騒々しい足音や声が廊下中に響いていた。足音をたてて目の前を通り過ぎる五虎退に、何事かと藤は問う。
「あ、あるじさま! 出陣していた皆さんが、帰ってきました! 中傷二名、軽傷一名だそうです!」
五虎退の報告を聞いて、藤は咄嗟に力一杯唇を噛んだ。拳をぎゅっと握りしめ、極力顔色を変えまいとする。
以前のように、感情を無理に抑えつけこそしなかったものの、ともすれば乱れようとする気持ちを精一杯抑える必要はまだあった。
「……あんたって、子供みたいに無責任に逃げ出したこともある癖に、そういう所は大人なのね」
「え?」
「そうやって、負傷の知らせを聞いても、顔色を変えないでいられる所」
隣に立つ菊理に指摘され、藤は自分の顔に手をやる。触っただけでも分かるほど、頬の筋肉は強張っていた。
「皆が初めて出陣して、怪我して帰ってきた日のこと、まだ覚えてるわ。私は……みっともないぐらいに、取り乱しかけた。私が怪我したとき以上に、ずっと頭の中がぐちゃぐちゃになった。そんなことは、私は許されていないはずなのに」
研修のときも、その前のときも見せなかった、静かな声音。そこには、彼女からの藤に対する尊敬の気持ちが僅かに宿っていた。
しかし、藤は静かに首を横に振る。
「そうでもしないと、主としての体面が保てないから、そうしてるだけだよ」
「でも、私にはできない」
「怪我をした皆を労ったら、それも仲良くしてるって思われるから?」
部屋を出ながら、藤が問うと、菊理はゆっくりと頷いた。
先だってのように、感情を無闇矢鱈とぶつけることこそしなくなったが、熾火のように鎮まった瞳は、それはそれで何だか彼女らしくないと藤には思えた。
出陣した彼らを、温かく出迎えてやれない。それは、藤にも身に覚えのある事柄でもあった。
就任直後は、戦いを当たり前として受け入れる彼らを前にして、動じてはならないと己を強く戒めたものだ。
今も、殊更に大袈裟に騒ぎ立てたりはしない。けれども、心配の形はそれ以外にもあるはずだ。
そこまで思い至って、藤は小さく息を呑む。
(もしかして、そういうことなのかな)
何かを思いついたような節の藤を、菊理は怪訝そうに覗き込む。そんな彼女へと、藤はにっこりと微笑んでみせた。
「君が鍛刀できない理由が、何となく分かった気がする」
「は?」
「出陣先で怪我をして帰ってきても、君は刀剣男士を労えない。その結果、皆が悲しい気持ちになるって分かっていても」
藤もできる限り感情を抑える努力はしていたが、日々の態度が態度だったために、怪我について全く心配されていないとまでは、皆も思っていないようだった。寧ろ、無理をしていると見抜かれていた節すらある。
だが、菊理は違う。
日頃から、他人行儀のよそよそしい態度をとり、挙げ句傷だらけの姿を見ても顔色一つ変えなければ、主に嫌われていると刀剣男士が誤解してもおかしくない。
たとえ、菊理本人の気持ちがそうではなかったとしても。
「だから、そんな風に悲しむ刀剣男士がこれ以上生まれないように、君は新たな刀剣男士が来るのを無意識の内に拒んでいるんじゃないかって」
「……何よ、私のせいって言いたいの?」
反駁しつつも、菊理の瞳の奥にはひょっとしたら、という気持ちが覗いている。少なくとも、彼女にも思い当たる節はあるのだろう。
「何となく、そうじゃないかって思っただけ。今は、出陣させてるの?」
「……顕現している人数が少ないから、簡単な任務をごく稀に貰っているだけ」
「そっか。もし、人手が必要になったら、相談してくれていいから」
戦術的な観点から見ると、早く顕現させて戦力を増強した方がいいとは、戦の素人である藤ですら分かる。
だが、今彼女にとって相応しい言葉は、そんな現実的な助言ではないとも承知している。
だから、必要なときに貸せる手はあるよ、と藤は言外に伝える。いざというとき、掴めると信じられる助けの手は、多ければ多い方がいいだろう。
「ほんと、あんたって」
変な奴、という言葉は、少女が漏らした小さな息の中に溶けて、消えていった。
***
出陣から帰ってきた藤の刀剣男士たちと入れ替わるように、菊理は本丸を後にした。小豆にぶつかった際に落としてしまった簪を片手に持ち、息を整えて転送装置をくぐれば、そこには見慣れた本丸の庭が広がっている。
だが、見慣れているとはいえ、未だにこの本丸で心を落ち着けられた試しがない。ここは、菊理にとっては広い監獄のように思えてならなかった。
「主、おかえりー。研修どうだった?」
そんな監獄の中でも、鮮やかに咲く花のような者たちがいる。気楽な調子で菊理に話しかける刀剣男士──加州清光もその一人だ。
猫のようにつり上がった目蓋の内側、真っ赤なルビーの如き目がこちらをじっと見つめている。
――きっと、菊理さんの刀剣男士も、そう思っているんじゃないかな。
どれだけ辛辣な言葉を投げかけられて、傷ついたとしても、嫌いにはならない。彼らは皆、いい人たちだから。
何の衒いもなく、素直な気持ちを口にできるあの審神者に対して、今は怒る気にもならなかった。憤怒や嫉妬の炎を渦巻かせる気力も、残っていなかった。
自分の八つ当たりに、他人を巻き込んだ罪悪感。それは、何も知らずに姉を案じる妹に対して、醜い妬みの言葉をぶつけた後に感じたものと同じ感情だった。
「主、ちょっと着崩れしてない?」
だが、気落ちするこちらの気持ちに反して、加州は別のことが気になっていたようだった。遠慮無く歩み寄ってきた彼は、じっと菊理の様子を観察している。
「ほら、こっちの帯、出かけるときよりずれてる。鍛刀の研修に行ってたんだよね、何か向こうであったの?」
いつもは気楽な調子で話しかける彼が、ひどく真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
その眼差しが、どれほど真っ直ぐ自分を見てくれていたか。
知っていたはずなのに、改めて相対すると、じんわりと目蓋の奥が熱くなる。
己に憑依していた子供の気持ちが、まだどこかに残っていたのだろうか。自分という『子供』を置き去りにせず、心の底から案じてくれる彼の姿を目にして、菊理の心の内に硬く封じていたものに、僅かに罅が走った。
「主、もしかして何か酷い目に遭ったの?」
「別に、そんなことはないわよ」
「だって、結ってた髪も落ちてるし、帯だって乱れてる。ねえ、本当に何があったの?」
菊理の内側で揺れる心を、加州は違う意味で読み取ってしまったらしい。あの気丈な主が動揺するほど、辛い出来事が降りかかったのではないかと、彼は考えているようだった。
「帯は、私が解いたのを結び直したから、ちょっと乱れただけ」
「何で、研修で帯が解けるわけ?」
加州の目に、剣呑な光が宿る。
普段聞いたこともないぐらい、ずっと低くて心の芯を冷えさせる声音。表情にこそ出さなかったが、菊理の方が彼の声に内心驚いてしまったほどだ。
「……主、今日ばかりは正直に話して。ことと次第によっちゃ、俺、殴り込みに行くよ」
「ちょっと待って。あんた、何か勘違いしてない?」
「安心して。俺、乱闘には慣れてるからさ。ほら、こう見えても、俺って新撰組の刀だったわけだから」
「だから、別にそういうのじゃないのよ!」
ぶんぶんと首を横に振る菊理の腕を、加州はがしりと掴む。その力強さに、菊理はびくりとして、思わず動きを止めた。
痛みは感じるほどの強さはないものの、微かに力を込められた手には、彼が主である少女をどれほど気遣っているかが、痛いほど伝わってきた。
「主、泣きそうな顔してる。そんな顔、俺は初めて見た。どうしたのさ、主」
あんなに他人行儀な態度をとっていたのに、それでもこの刀の付喪神は、愚直なまでに己のことを案じてくれている。主、主と何度も呼びかけてくれている。
審神者としても半人前で、人間としても褒められた所などない自分に、なお手を差し伸べてくれている。
(見限られてるって、嫌われてるって思ってた)
新たな仲間も呼べない。疲れて帰ってきた彼らを、労ってやることもできない。
愛想がなくて、どこか怒ったような口ぶりでしか応対した試ししかない。二言目には、気安く接するなと彼らをはね除けてきた。
それが、家の者にとって望まれるべき審神者の姿だからと、刀剣男士たちの気持ちを蔑ろにしてきた。
審神者になった直後に至っては、家人たちの影響もあったとはいえ、彼らを見下していた所すらあった。
だというのに。
――たとえちょっとばかし迷子になったり、上手くいかないことがあったりしても、放っておきやしないさ。
夏祭りで迷子になったとき、藤の刀剣男士が言ってくれた言葉の意味が、今になってはっきりとした形を帯び始める。
あれは模範的な回答でもなければ、特別な主人を持ったから言えた言葉でもない。
刀剣男士は、主を信じたいと願う。
ただ、それだけなのだ。
「…………加州」
主を選べない彼らが、憐れだと口にした日もあった。
主に逃げられた藤の本丸の刀剣男士に告げた言葉ではあったが、あれは同時に、不甲斐ない己にぶつけた言葉でもあった。
でも、たとえ憐れな『物』に見えても、彼らは菊理の側にいることを選んだ。こんな『何もない』自分に、刀は寄り添い続けてくれていた。
本当は、今すぐにでも己の不甲斐なさを曝け出し、頭を垂れたかった。他人に怒りをぶつける形でしか交流できず、力を持つ者に頭を下げる自分が、惨めで浅ましい生き物に思えた。
けれども、彼らに頭を垂れる姿を見せたら、何か取り返しのつかない出来事が始まるような恐れも感じていた。
だから、菊理はたった一つの言葉だけを告げる。
「……心配してくれて、ありがと」
優しすぎるぐらい優しい神様に送れる言葉は、ただそれだけだった。
「当たり前じゃん。俺、主の刀なんだからさ」
加州は何てことのない調子で応えると、素早く菊理の身だしなみを確認する。
どうにかこうにか誤解を解いたあと、加州は居住まいを正してから、微笑みながらこう告げた。
「おかえり、主」
その言葉を、菊理は久しぶりに聞いたような気がした。
***
「すみません、主さん。僕の分まで、手入れをしてもらって」
「当たり前のことで謝らなくてもいいよ。堀川の傷を癒やす方が、今は大事」
「でも、主さん。顔色が悪いですよ。無理しないで、手入れが終わったら休んでくださいね」
堀川に指摘され、藤は頬に手をやる。彼の言うとおり、確かに幾らか血の気は引いているようだ。とはいえ、今更驚く必要もない。手入れをしたときに起きる、いつもの後遺症だ。
菊理を見送ってから、藤は着物からいつもの服に着替えて、帰還してきた刀剣男士たちの手入れを始めていた。傷が深くて一刻を争うといった事態ではなかったが、それでも怪我は怪我だ。
手入れを求めている刀剣男士がいるのだから、放置しておけるわけがない。
「……うん。これが終わったら、休憩はちゃんととるよ」
「必ずですよ。休まないと、僕も兼さんも怒りますからね」
相槌を打ちながら、藤は堀川の腕に巻いていた包帯を解く。先だってまで、そこにざっくりと刻まれていた傷跡は、今は跡形も無く消えていた。
傷が消えた代わりに、先程まで藤の近くに置いてあった、鍛刀のために使用する資材も跡形もなく消え失せている。
刀を作り出すのに用いられる資材――玉鋼や冷却水――は、刀を直す用途にも用いられる。それらの物品が内に秘めた、修復の力を汲み出して刀剣男士に注ぐことで、藤が直接力を注がなくても彼らの傷を癒やせるようになっている。
その方が体の負担も少ないので、藤は時間があるときはこの手法をとるようにしていた。それでも、後遺症の影響をゼロにはできず、彼女の顔は障子紙のように白くなっている。
「主さん、僕が部屋まで運びましょうか?」
「あー……それなら、髭切、呼んできてもらえる?」
「髭切さんを、ですか?」
どうしてわざわざそんなことを、と首を傾げる堀川。彼としては当然の疑問だ。
「髭切に、今度運ぶときは自分が運びたいって言われていたんだ」
堀川には単純な要望しか伝えていないが、無論ただ運びたいという髭切の願望だけが理由ではない。
先日、和泉守に部屋へと担ぎ込まれた際、髭切は何だか気になることがあると口にしていたのを、彼女は覚えていた。
和泉守と同じことを髭切がしたなら、彼の内に残る何かが解消するのではないかと彼に提案していたので、いい機会だと考えたのだ。
「じゃあ、髭切さんを呼んできますから、主さんは動いちゃだめですよ。兼さんだって、主はいっつも無茶をするって怒ってましたからね」
「うん。待ってるから。……ああ、そうだ。堀川」
部屋を後にしようと小走りで襖に向かっていた堀川は、急制動をかけてくるりと振り返る。弾みで、彼の戦装束についている紅い紐がぐるんと宙に弧を描いた。
「突然の質問になっちゃうんだけど……堀川は、僕のこと、どう思ってる?」
言葉通り、あまりに唐突な質問に、堀川は大きな空色の瞳をぱちくりとさせた。
「和泉守が何て言ってたとか、和泉守がこう思うからってのは、いつも沢山教えてくれるけど、あまり堀川自身が何を思ってるか、聞いたことがなかったな……って」
「僕も……主さんのことは、心配してますよ」
堀川は口早にそれだけを答えると、何故だか焦ったような素振りで部屋から出て行った。
残された藤は、頭痛を覚えながらも、ぱたりと座布団の上に倒れる。目眩までし始めたのか、天井がぐるぐると回っているように見えた。
「菊理さんに、言われたからかなあ……」
周りの目など気にせずに、身勝手にも本丸を飛び出して、いけしゃあしゃあと素知らぬ顔で本丸に戻ってくる。
それを傲慢と指摘されれば、その通りなのではないかと思う節もある。自分に一切非はないと言い張れるほど、己の正しさで全てを押しのけられるとは藤も考えていなかった。
「皆が何て考えているかは、あのときに聞いた言葉が全てだとは思っていたんだけど」
和泉守は未だこちらを裁くような目で、己の主として相応しいかを伺い続けている。小豆は、ありがたいことに、最初から今に至るまで彼の優しさを貫き続けている。
膝丸は兄の件もあってか、辛辣な態度をとり続けていたが、兄との和解を経て、藤の態度についても見直してくれているらしい。
「でも、堀川は……ちょっと、見えづらい気がしたんだよね」
出会ったときから、堀川は和泉守と一緒にいた。だから、堀川は和泉守に追従しているものだと藤も思っていた。
けれども、和泉守は和泉守で、堀川は堀川だ。和泉守が主かどうかを見定めようとしているからといって、堀川もそうだとまでは言い切れない。実はとっくに見限っている可能性だって、ゼロではないだろう。
(まだまだ、頑張らないとなあ)
自分の腕で己の目を隠すようにして、藤はぐるぐると回る視界を薄闇で覆い隠す。
ぐらぐらと揺れる意識の中、乾いた瞳をした少女の横顔がよぎった。彼女は本丸の仲間と、今頃何を話しているのだろう。それとも、今までと同じように、刀剣男士たちをはね除けているのだろうか。
菊理のように、周りからの期待を一身に背負った経験は藤にはない。故に、彼女の負う重荷の辛さは、到底想像できない。
代わりに菊理も、己の根幹たる当たり前だと信じていた個性を、当然のように否定された経験はないだろう。人の血に焦がれてしまい、人と異なる自分の生き方に悩んだ日など、彼女にはなかったに違いない。
(でも、たとえ僕らの生きてきた道が違ったとしても……子供みたいに、自分の気持ちを素直に伝えたり甘えたりするのって、難しいよ)
先だっての夢で見た少年のように、母に縋るような真似は、大人になればなるほど困難になる。だからこそ、それでも甘えていいと言ってくれる、小豆長光が持つような優しさが、きっと菊理には必要なのだろう。
あれやこれやと思考を遊ばせていると、すっと襖が開く音がした。
「主、寝ているのかい?」
少し重みのある足音が誰のものか、藤は既によく知っている。
「起きてるよ、髭切。堀川に教えてもらったの?」
「うん。よかった、起こしてしまうのは申し訳ないと思っていたんだ。じゃあ、ちょっと失礼するね」
寝転がっている自分の背中と膝の裏に手が差し込まれ、ひょいと抱えあげられる。和泉守のような乱暴な持ち上げ方ではなく、歌仙のように気安さと同時に少しの粗雑さも感じられる抱え上げ方でもない。
頭が動かないように腕を絶妙な角度で固定し、体に負荷をかけまいと意識した抱え方だと、藤はぼんやりする意識の中でも気が付いていた。
「主は軽いねえ。何だか羽でも抱えているみたいだよ」
頭上から声が降ってくる。よくよく考えてみれば、今、自分は横抱きにされているらしい。本来なら不安定な姿勢であるはずなのに、刀剣男士の体格が良いからだろうか、ちっともぐらぐらした感じはなかった。
「主、さっきの着物、もう脱いじゃったんだね」
「着物に血がついたら、歌仙が怒りそうだったから」
「主によく似合っていたから、もっと見ていたかったんだけどなあ」
目眩と頭痛で朦朧とした意識の中であったため、藤は髭切の言葉をぼんやりとした思考で拾い上げていた。
そんな状況であっても、似合っていたという言葉に、ほんの少しだけ、心の片隅が小さく跳ねる。自分では着物を着るというより、着物に着られているようなものではないかと思っていたが、髭切の目からはよく『似合っていた』らしい。
「主、何だか嬉しそうな顔をしているね」
「……そう? そう、かも」
「うん。でも、ちゃんと休まないといけないよ」
どうやら、話している間に部屋に到着したらしい。腕の中から降ろされ、代わりに心地よいシーツの感触が、優しく藤を迎えてくれた。
髭切の腕から伝わっていた熱が遠くなり、藤は一抹の寂しさを覚えながらも、彼からそっと身を離した。
「ねえ、髭切」
「どうしたんだい?」
「もやもやは、無くなった?」
「……うん。今はもう、すっかり」
「それなら……よかった」
それだけ呟くと、藤はゆっくりと目蓋を閉じた。研修に加えて、菊理とのやり取りや簪の事件にまで巻き込まれて、体が疲れ切ってしまったのだろう。
泥のような眠りに引きずられながらも、藤はどこか遠くで子供が泣いている声を聞いていた。見えてもいないはずなのに、藤にはそれが、あの少年が泣きじゃくっているように聞こえてならなかった。
(君のことも、君がいるべき場所に、ちゃんと返してあげるから)
だから、泣かないで。
小さな祈りを捧げながら、藤はずるずると眠りの中に引きずり込まれていった。