本編第三部(完結済み)

 燃え盛る炎は、全身を飲み込むのではないかと思うほどだった。地上でゆらゆらと揺らめく炎とは対照的に、空に揚がる煙はどこまでも黒い。
 だが、赤々と夜を照らす光は、残念ながら本丸を壊していると示す灯りでもあった。
 誰が火を放ったのかと疑問を抱き、そのあまりに愚かすぎる問いに自嘲する。そんなもの明白だ。

「時間遡行軍……!」

 自分が隠れている植え込みの向こう、ちらりと見える黒い影の正体を誰よりもよく知っている。審神者になってからずっと、戦い続けてきた者だ。
 だが、彼らと相まみえる戦場は、いつも過去だった。あくまで自分は本丸でただ待っていればよいだけだった。
 しかし、今は違う。
 戦場は目の前であり、自分は遡行軍にとって敵陣の大将だ。獲るべき首だ。
 己がどんな位置に立たされているかを認識した瞬間、背筋にぞくりと冷たい汗が流れ落ちる。己を探す殺人鬼たちが、目と鼻の先にいると知れば、誰だって冷静ではいられまい。
 かつて、戦の時代を生きた指揮官たちも、似たような気持ちを味わったのだろうか。
 この現実から逃げるように、そんな逃避染みた思考を続けていると、がさりと立木の葉が揺れた。

「――――っ!!」

 敵がきた。そう思い、恐怖で身を固くした瞬間、

「ああ、よかった! 主、無事だったんだね」
「主、怪我はないか!?」

 姿を見せたのは、青銅色の髪をした上背の高い青年だった。スーツに似たジャケットとズボンのおかげで、彼はすっかり夜の闇に溶け込んでいる。
 彼の隣には、海の青を写し取ったような髪色の少年が立っていた。こちらは、青年とは対照的に真っ白の上着に短いズボンの出で立ちだったが、そのどちらもが煤で黒く汚れている。

「光忠、それに太鼓鐘! 皆は大丈夫なの? 敵は、まだいるの?」

 冷静な問いを投げかけながらも、内心で自分は強い安堵を感じていた。
 何故なら、光忠と呼んだ刀剣男士は、密かに自分が懸想をしている相手でもあるからだ。
 無論、こんなときにそんな浮ついた話をするつもりはない。それでも、彼がくれた笹の簪が小さな音を立てる度に、自分が彼に励まされているような気がした。

「敵はまだかなり残っている。僕もすぐに加勢に行かないと。でも、先に主を転移装置で逃がさないと」
「さっき操作したわ。だけど、駄目だったの。きっと、あいつらが壊してしまったのよ」
「……そうなると、後は本丸の外に逃げるしかないね。貞ちゃん、主の護衛を頼めるかい?」
「任せてくれよ、みっちゃん!」

 どん、と拳を胸に当てて太鼓鐘は二つ返事で請け負う。知己である彼らのやり取りを見ていると、今が危難のまっただ中であることを忘れそうになってしまう。

「今ならまだ、敵の目は室内に向いている。急ごう、主」

 光忠に手を引かれ、夜の庭を駆ける。
 今まで彼とは手を繋ぐ機会もなかったのに、今日に限ってこんなにもあっさりと手を繋げてしまった。本来なら胸を弾ませ、恥じらいと喜びで打ち震えたい所なのに、状況が状況だけに全く嬉しいと感じられない。
 不意を打たれないように、太鼓鐘が先行して素早く辺りを確認し、手招きをして裏口の木戸を開いてくれた。その先にある森林は、一寸先も曖昧な闇に包まれている。
 山林奥深くに建てられたこの本丸は、本丸から外へと出る事態を想定されていない。
 移動は転送装置を経由するのが主流であり、今のような有事の際は、暗い山道を駆け下りることになる。

「外からは攻めにくい場所だけど、そういうのって大体逃げる側も苦労するんだよね」
「だから隠し通路を作るべきだって、前に話したじゃないか」

 軽口をたたき合う太鼓鐘と光忠。主を怖がらせまいと、わざと彼らが普段通りに振る舞ってくれているのだろう。

「主、さあ早く」

 光忠に促され、煤だらけになった体で木戸の奥へと体を滑り込ませる。本丸の敷地を囲う壁の向こうへと無事に抜けだせたと思いきや、太鼓鐘がすぐにその後を追ってきた。
 しかし、続く足音はない。振り返ると、炎に照らされた空と光忠の金色の瞳がよく見えた。

「光忠は、一緒に来てくれないの」

 気付けば、震えた声でそんな弱音を吐いていた。
 だが、光忠は困ったように笑うだけでゆっくりと首を横に振る。

「……なら、これを持っていって」

 髪に挿していた笹の簪を抜き取り、彼へと差し出す。驚いた様子の彼に向かって、願うように、臆病な自分の口が動く。

「必ず、あなたの手で返しに来て。約束よ」
「ああ、約束だよ。必ず、君の元へ帰ってみせる」

 ゆっくりと、木戸の扉が閉まる。急ごう、と太鼓鐘に促され、彼に手を引かれ、山道を駆け下りる。
 本丸はどんどん遠くなっていく。彼の声も、彼の姿も、彼の温もりも、ずっと向こうへと――。


 ***


 陽炎のように生まれ出た青年に、流石に髭切も瞬時面食らった。だが、青年はそれ以上の行動はせず、ただゆっくりと首を横に振る。
 あたかも、この簪を壊してくれるな、と伝えるかのように。

「あ……」

 藤が何か言うよりも先に、青年の影は空気に溶けるように、消えていく。まるで、夏が見せた幻であるかのようだ。

「童の幽霊以外にも、何だか厄介なものが憑いているみたいだね」

 髭切は気を取り直して、机の上に落ちた簪を拾い上げる。たとえ、何が出てこようとも、髭切は主に託された命をこなすつもりだった。
 そこにどんな謂われがあろうと、何が宿っていようと、主や本丸の者を害すような者の存在を許すわけにはいかない。
 こんどは宙に投げず、片手に持った簪に向けて太刀を振り下ろそうと、彼が柄を握り直した瞬間、

「あ、待って!!」
「まつんだ、きみ!!」

 小豆と藤の声、続けて布団をはね除ける荒っぽい衣擦れの音。
 阿が起きたのかと思うより早く、髭切は己の腕に誰かが飛びついてきたと気が付く。それは、先程まで布団の中で眠っていた菊理だった。

「壊さないで、壊さないで!! それは、お母さんに返してって、頼まれたの!!」
「……っ!!」

 腕にしがみつく菊理の力自体は、大したものではない。振りほどくのは容易だ。
 だが、今の髭切は片手に太刀を持っている状態であり、そんな姿勢で無理に振りほどけば、うっかり怪我をさせる可能性もある。

「ああ、もう……っ」

 やむを得ず、髭切は太刀を床に投げ捨てるように置く。子供が駄々を捏ねるかの如く、がくがくと揺さぶられていて、これ以上は太刀を持っているだけでも危険と判断してのことだった。

「菊理さん! それ以上、その子になっちゃ駄目!!」

 藤もすかさず立ち上がり、菊理を髭切から引き剥がそうとする。刀剣男士の膂力では傷つけてしまうかもしれないが、藤ならその心配もない。やや乱暴な扱いになってしまうが、流石にこれは勘弁してもらうしかない。
 自分の着物が乱れるのも構わず、藤は菊理の体にしがみつき、力強く引っ張る。菊理の柘榴色の髪がばさりと揺れ、その隙間から彼女の蒼い瞳が覗いた。
 ぱちりと、視線が合う。
 瞳には依然として子供の気配が宿っていたが、同時にそこには彼女自身の諦念の気持ちも見え隠れしていた。

「……別に、もうどうだっていい」

 もみ合う音に紛れて、小さな声が藤の耳に届く。
 その言葉を、藤は誰よりもよく知っていた。

「どうだって……よくないっ!!」

 勢いよく引っ張ったおかげか、菊理の腕が髭切から離れる。強かに藤は尻餅をついてしまったが、菊理は藤が下敷きになったおかげで体を打たずに済んだようだった。
 己の体の痛みなど忘れて、藤は菊理の肩を掴み、正面から向き合う。

「どうだっていいなら、あんなことを僕には言わないでしょっ!」

 嘗て、髭切に自分が言った言葉を、髭切が自分に返した言葉を、今度は目の前の少女に向けて届ける。
 それでも、彼女の瞳に光は戻ってこない。
 どうすればいい。一体何を伝えればいい。
 思考を回転させていると、ふと足元に落ちている携帯端末が視界に飛び込んできた。
 端末には、先日の夏祭りの際に膝丸から貰った飾りが揺れている。それは、誰から貰ったものだと彼は言っただろうか。
 菊理の帯には、どんな帯留めがつけられていただろうか。

「君がいなくなったら、妹さんはどうなるの!?」

 叩きつけるように、言葉をぶつける。
 すると、菊理の目が大きく見開かれた。
 内側に閉ざされていた彼女の想いが、炎となって、再び双眸に宿るのが、藤の目にも見てとれた。


 ***


 視界が揺らぎ、自分という認識が曖昧になっていく。手足や体という輪郭がぼけて、違う誰かの中に溶けていく感覚は、いつだって好きになれない。
 気をつけなければ、『自分』が誰かも分からなくなっていってしまう。

 ――菊理さん、しっかりして。

 聞き馴染みのない声。だけれども、知ってはいる声。
 声の主のおかげで、自分の名前は思い出せた。
 菊理――たしか、そんな名だった。
 同時に、声の相手が誰かも思い出してしまう。気に入らないと噛みつき、傷つけるような言葉を無数にぶつけた相手だ。
 そこまでどうにか『自分』を取り戻し、苦々しい気持ちに胸が苦しくなる。こんな感情を抱くぐらいなら、このまま名も知らない『誰か』の気持ちに押し流されてしまおうか。
 そんな投げやりな思考をしたせいか、ずるずると景色が切り替わり、自分が別の何かに引き込まれていくのを感じる。

「これを、君のお母さんに渡してもらえるだろうか」

 続いて聞こえたのは、先程も耳にした刀剣男士の声だった。いつのまにか、燃え盛る本丸は消えて無くなっていた。代わりに、縁日の灯りがほうぼうを照らす、お祭りの会場の只中へと場面が移り変わっている。
 そんな中、黒地の浴衣に笹を描いた浴衣を纏った青年が、小さな十ほどの子供に金色の簪を差し出していた。
 ただそれだけの光景だったが、自分は彼の姿に違和感を覚えた。青銅色の髪に、金色の瞳。眼帯で隠された片目。そして――。

(あわせが、逆……)

 そこまで思った瞬間、子供が甲高い声をあげて泣き出した。お父さん行かないで、と何度も繰り返しているのにも拘わらず、彼は少年の手を解いて去って行く。
 瞬きをした瞬間、再度場面が切り替わったのが分かる。今度も同じ縁日会場ではあったが、登場人物が違っていた。先程の子供は、男ではなく、母親と思しき女性に抱きしめられていた。

「どこに行ってたの! あなたまでいなくなったら、私、もう……どうすれば……」
「……ごめんなさい、お母さん」

 涙を流す母親に抱かれるがままになっていた少年の瞳からは、気弱なおどおどとした気配がゆっくりと消えていく。
 代わりに、彼の目には小さな炎が宿った。
 それは、決意の証だ。
 自分の母親は決して強い女性ではなく、泣くこともあれば不安がることもあるのだと理解したが故の輝きだった。
 甘えん坊の自分に別れを告げ、父に代わって母を守る男になると、彼は彼なりに決意したのだろう。

(……どうして、どいつもこいつも、そんな風に強くなれるのかしら)

 藤も、この子供も、顔を上げて己に課した決断に真正面から向き合っている。
 自分には到底無理だ。精々、そっぽを向いて臍を曲げることしかできない。
 暗く沈んだ考えに包まれていきかけたとき、遠くから声がした。

「本当はもっと、一緒にいたい」

 その声は、先程、あれほど確かに決意を露わにした子供の声だった。
 決意とは裏腹に、彼は甘えを口にしている。年相応に、親に縋りたいとねだっている。少年声に呼応するように、徐々に『菊理』という存在もぼけていく。

「お母さんに振り向いて欲しい。僕の名前を呼んで欲しい」

 ――お父さん、私を見てよ。審神者の子供じゃなくて、ただの『私』を見てよ。

「お父さんに会いたい。会って、話したいことがあるんだ」

 ――私だって、話したい。今はいないお母さんに、会って話がしたい。

 そう思った瞬間、より強く『自分』に少年が入り込んでいく。自分が少年なのか、少年が自分なのか、曖昧になっていく。

 ――菊理さん! それ以上、その子になっちゃ駄目!!

 いいじゃないか。自分がここにいたって、どうしようもない。刀剣たちも、ほとほと愛想を尽かしているだろう。
 鍛刀もできない。他人に対する態度も悪い。挙げ句、祭りでは迷子になって迷惑までかけてしまったのだから。

 ――どうだっていいなら、あんなことを僕には言わないでしょっ!

 八つ当たりをされた相手だというのに、やけに彼女は自分にしつこく絡んでくる。自分より年上だからだろうか。それとも、家の顔色を窺っているのだろうか。
 どうせ、彼女も自分に興味があるわけではないだろうに。
 斜に構えてしまった己には、どんな言葉を投げかけられても、深い穴に投げ込まれた石のように空しく響くだけだった。
 けれど、

 ――君がいなくなったら、妹さんはどうなるの!?

 その言葉に、思わず息を呑んだ。
 障子を挟んで言葉を交わした日を、思い出した。
 彼女に八つ当たりをしたとき、久しぶりに顔を合わせた日を思い出した。
 本丸に帯留めが届けられ、帯に巻いた日を思い出した。

(……馬鹿みたい)

 こんなにも全て放り出したいと思っているのに。
 たったそれだけの言葉で、あの辛くてどうしようもない場所へと、自分は帰ろうとしてしまうのだ。


 ***


「……どうして、あんたがそんなことを言うのよ」

 項垂れたまま、菊理は低い声音で藤に問う。少し不機嫌そうではあるが、その言葉はまさしく菊理本人の言葉でもあった。

「よかったぁ……」

 菊理の声を聞いて、藤は安堵のあまり、思わず長く息を漏らす。
 このまま帰ってこなかったらどうしようかと冷や冷やしていたが、無事に菊理の意識を取り戻すことができたようだ。

「髭切、菊理さんも無事みたいだから、早くそれを壊して」

 藤は菊理の片手をぎゅっと握りながら、髭切に頼む。再び、少女の意識や体が簪に宿る子供に奪われてしまっては、元も子もない。

「待って」

 だが、被害者でもある本人から、二人へと制止の声がかけられた。彼女は、髭切が掴んでいる簪を見つめて、ゆっくりと首を横に振る。

「これ、相当色んな思念が籠もってる物よ。元々は審神者の持ち物だったみたいだけど……それに加えて、簪を渡した刀剣男士、簪を預かった子供――それに多分、簪自身の思いも混ざってる」

 乱れた着物を整えながら、菊理は動揺を一切見せずに朗々とした声で説明する。しかし、彼女の声音は先だっての迷子のときのように、心労で僅かに揺れてもいた。

「無理に破壊したら、中の思念がどんな形で外に出るか分からない」
「でも、何をしてなくても、さっきも菊理さんに取り憑いていたし、僕や髭切も何だか影響を受けているみたいだけど。それでも壊さない方がいいの?」
「この簪には、本丸が襲われたときの情景まで宿ってたって言っても?」

 菊理の説明を受けて、藤は反射的に息を呑む。本丸が襲われる、という深刻な意味合いを持つ単語を、突如突きつけられたからだ。

「もし壊したら、きっとあんたの本丸にも悪い影響が出ると思う」
「どうして、そこまで言い切れるんだい?」

 助言を受け、一旦は太刀を収めた髭切が菊理に向けて尋ねる。先だっての主への暴言をまだ許していないのか、彼の視線は未だ険しい。

「私は〈イチ〉の家系――つまり、言葉を持たぬ者たちの思いを体に降ろして、代わりに語ることを生業にしていた巫女や神官たちの末裔よ。こういう悪い思い出を宿した物品の相手をした経験者の話を、聞いたことがあるの」

 髭切に睥睨されながらも、菊理は臆せず言葉を並べる。
 凄みすら感じる彼の眼差しを相手に、一歩も退かない様子は、髭切が顕現した直後に相対した藤にも似ていた。あるいは、それが審神者の素質というものなのかもしれない。

「だから、できるならこの簪は持ち主に返した方がいいわ。そうじゃないと、在るべき場所に収まらなかった思いが、またどこかで溢れかえってしまう」
「そういうわけらしいけど、主はどうしてほしい?」

 藤がそれでも破壊を願うのなら、髭切は躊躇無く壊すつもりだった。判断を託された藤は、小豆と髭切、そして菊理をそれぞれ見つめてから、

「菊理さん、この簪は今は何ともなさそうだけど、また誰かに取り憑いたり、何か起こしたりしそうかは分かる?」
「今のところは、落ち着いていると思うわ。そこの刀剣男士に壊されかけたことが、余程怖かったみたいね。何だか怯えている気配なら、こうしているだけでも伝わってくる」

 藤には全く分からないが、菊理には簪の恐怖が分かるらしい。
 先日、膝丸と共に出会ったイチと名乗った少女も、同様のことを話していたので、適当なことを言っているわけではないのだろう。

「それなら、今は髭切が見張っておいてくれる?」
「いいよ。でも、主に何かしそうなら、そのときは」
「うん、分かってる」

 本丸が襲撃された記憶を宿した簪を壊す、というのは何やら縁起が悪いとは思うが、こればかりは背に腹は代えられない。自分の身に何か起きてからでは、縁起が悪い云々では済まないとは、藤も承知していた。

「菊理さん、色々と教えてくれてありがとう。君には、何だか嫌な思いをさせてしまっていたみたいなのに」
「……色々、迷惑かけたみたいだから。その詫びよ」

 詫びと言いつつも、菊理は挑みかかるような視線で、藤をじっと見つめる。睨むというには敵意は薄く、しかしただ見ているにしては感情がこもりすぎている。
 二人の審神者の間に降り積もる沈黙に、髭切も小豆も割って入ることはできずに、ただただ言葉の続きを待っていた。

「……本丸が、燃えていたの。そのとき、側には眼帯をつけた刀剣男士と、白い服を着た刀剣男士がいた」
「え?」
「その簪に宿る何かが、私が乗り移ったとき、見えてた光景のことよ。もし持ち主を探すなら、手がかりになるでしょ」

 どうやら彼女は、憑依された際に見た記憶を語ってくれているらしいと、藤は気が付く。それも彼女なりの詫びの仕方なのだろう。

「遡行軍に襲われて、本丸が燃えてた。簪を持ってた審神者は、送ってくれた刀剣男士に、お守り代わりにそれを渡したみたい。その審神者、女の人だったんだけど、そいつのことが好きだったみたいね」

 さらりと告げた言葉に、藤は素早く数度瞬きをする。
 菊理が言葉に込めた意味合いは、明らかに恋愛の意味が含まれていると察したからだ。
 本丸の襲撃を直面した審神者が、簪に宿した思いの一端。それは、藤が苦手としている恋愛に絡んだものでもあったようだ。
 いったい、どんな表情を浮かべればいいか悩み、結局彼女は素知らぬ風を装うことにした。

「それで、どうなったの?」
「さあ。その後、簪を託された刀剣男士が、『母親に返すように』って簪を子供に預けてたわ。それから、迷子になってた子供が母親に見つかって……」

 自分が見てきた記録を菊理はざっと説明し終え、これで用は済んだと言わんばかりに口を閉ざす。
 聞かされた内容としては、本丸の崩壊以外の目新しい情報はない。だが、藤の記憶には妙に引っかかる部分があった。

(……夏祭りで迷子になって、母親に叱られたって話、最近どこかで聞いた気がするんだけどな)

 ありふれた祭りの一幕ではあるのだろうが、本丸の焼失よりも気に掛かる内容ではあった。しかし、どれだけ記憶の棚を漁っても、答えは出そうになかった。

「教えてくれてありがとう。何とか持ち主を探せないか、頑張ってみるよ」
「だが、みつけられなかったら、あるじはどうするのだ?」

 小豆の心配はもっともだった。
 そのときは、やはり破壊するしかないのだろうか。野放しにしておくのは、不確定要素が多すぎるとは藤も感じていた。

「それなら、うちの家の連中に頼めば、失せ物探しぐらいならやってくれると思うわ」

 そこに助け船を出したのは、またしても菊理だった。三人の視線を一身に浴びながら、菊理は背筋を伸ばしたまま、自らの提案を補足する。

「さっきも言ったように、物の言葉を聞くのがうちの家系の仕事だから。政府経由で、今もそういう仕事はしているみたいだし、依頼すればやってくれるんじゃない?」
「そうなんだ。ありがとう、教えてくれて」

 これで、破壊以外の道筋を見つけることができた。感謝の念を込めて、藤が微笑みかけると、菊理はすっと藤から視線を逸らしてしまった。
 その仕草は、嫌っている相手からお礼を言われたからというよりは、素直な謝礼にどう返せばいいか分からずに困っているように見えた。

「それで、これからどうするの? 研修の続きとやらを、やるのかい?」

 話を仕切り直して、髭切は藤に尋ねる。元々は、そんな話があったからこそ、菊理は藤の本丸を訪れていた。
 簪の一件で有耶無耶になってしまったが、どうしようかと菊理に視線を送ると、彼女は「今からでもいいわよ」と言ってみせた。
 だが、反論は思いがけない所からやってきた。

「あるじ、菊理どのはつかれているようだ。あまり、むりをさせないほうが、いいのではないか」
「別に、私は疲れてなんか」
「かおいろは、さきほどより、よくなっているが、ひろうはかくしきれていないぞ。いまは、やすむべきときだ」
「私は審神者なの。休みなんて必要ないわ」

 小豆の言葉を聞いて、藤はそっと菊理の顔色を慎重に窺ってみる。
 簪の呪縛から解放されて、血の気こそ戻ってはいるものの、倦怠感が今もどことなく漂っている。現に、今からでもいいと言いながら、菊理は立ち上がろうとしない。すぐさま立つのも辛いのではないかと、藤は勘ぐっていた。

「きみはさにわかもしれない。しかし、そのまえに、わたしからみたら、ひとりのこどもだ」
「私の刀剣男士でもない奴が、私のことに口を挟まないでくれる?」

 菊理からすれば、余所の刀剣男士が主でもない審神者に対して、ここまで身を案じる理由が想像できないのだろう。精一杯、一人前になろうとする審神者に対し、この対応は失礼にもなるのではないかと、小豆も理解はしている。
 だが、自分の優しさが誰かを傷つけるかもしれないと踏まえた上で、小豆はこの優しさが菊理には必要だと判断していた。
 小豆からの視線が自分に向けられたと気がつき、藤は今度は深く頷き返す。藤も、このときばかりは、小豆と同意見だった。
 審神者としての矜持は大事にしてあげたいが、彼女の体調の前では今は一旦棚に上げておくべきだろう。ただ、素直に休憩を促したところで、菊理が従うとも思えなかった。

「菊理さんはやる気いっぱいみたいだけど、僕、ちょっと疲れちゃったからさ。少し休んでから、研修の話をするってことでいいかな?」

 だから、藤は自分の疲労を理由として提示する。研修の講師である藤が休むといえば、菊理も必然的に休まざるを得ない。
 菊理は、何か言いたげに藤をじっと見つめていたが、結局諦めて整えていた姿勢を僅かに崩した。

「小豆、何か冷たいお菓子でも用意してもらえる? できれば、二人分」
「もちろん。ちょうど、五虎退とたべていたものがあったのだ。すぐによういしよう」

 小豆はすぐさま立ち上がり、部屋を後にする。だが、依然として髭切はその場に残り続けていた。
 彼の瞳は、今は菊理に向けて注がれている。また彼女が藤を傷つけるようなことを言わないかと、警戒しているのだろう。

「髭切も、ちょっと別の部屋に行っててくれる?」
「でも、主」
「僕なら大丈夫だから。気になるなら、部屋を出てすぐの所にいてもいいよ」

 髭切の眉間には、彼らしくない小さな皺が出来上がっていた。しかし、主のお願いを優先するべきと考えたのだろう。彼もまた、菊理へと警戒する様子を一度見せてから、部屋を立ち去っていった。
 残された二人の間に、何とも言い難い気まずい沈黙が生まれる。

「えーっと……」

 何か話の取っ掛かりがあればいいが、と藤が視線をあちこち彷徨わせていると、

「ちょっといい?」
「え?」

 藤が何か答えるより先に、菊理は藤ににじり寄り、その腰に手を回した。
 藤が慌てふためいている間に、ぐっと帯が引き締められ、緩みかけていた帯紐がしっかりと結び直される。どうやら、着崩れを直してくれていたらしい。

「あ、ありがとう」

 藤がお礼を言うも、菊理はそっぽを向いたまま、何一つ答えない。
 けれども、出会ったときよりも今の方が、彼女との距離が近づいたのではないか。そのように感じられ、藤は口の端に笑みを浮かべたのだった。
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