本編第三部(完結済み)
今日の本丸は、いつもより一層静かだった。本丸に人を招いているから、というのも理由の一つだ。
それ以外にも、静寂が保たれている理由はあるのだが、最たる理由が本丸の住人以外の人がいるからというのは明らかである。
「きょうは、みな、ぎょうぎよくしているのだな」
「は、はい。あるじさまが、頑張っていますので」
小豆が声をかけた先、五虎退がいつもの細い声を尚小さくして、こくこくと頷く。
二人は今、五虎退の部屋で小豆が用意した新作のお菓子を食べていた。夏にうってつけのすっきりした味わいが特徴的な、レモンシャーベットである。
「でも、お話が終わったら、ちょっとだけ挨拶できたらいいな……って思ってます。お世話にも、なったので」
迷子の彼女を保護した件だろうかと、小豆は首を傾げる。だが、それを言うなら、お世話になったではなく、お世話をした、のはずだ。
「実は、去年の師走の頃、僕があるじさまの贈り物を探しているときに、手伝ってもらったことがあるんです」
「おや、そうだったのか」
「はい。僕は、あるじさまが、審神者に就任した頃に買おうとしてた髪飾りをあげようって思ったんですけど……でも、お店に売ってあるものが、全く同じ髪飾りかどうか分からなくて、どうしようって悩んでたんです」
本当にこれが主が欲しがっていた品か判断がつけられず、五虎退が八方塞がりになっていたとき、やってきた菊理が五虎退に「これだ」と教えてくれたのだ。
懐かしい思い出として語る五虎退とは対照的に、小豆は不思議そうな表情を浮かべる。
「なぜ、かのじょは、あるじがほしいものだとわかったのだろうか」
「菊理さんは、何だか不思議な力を持っているみたいで……僕らみたいな〈物〉ではあるけれど、まだ喋られるほど力がない者たちを体に宿して、自分の体を通してお話してもらうことができるんです。それで、お店の棚さんに体を貸して、僕たちとお話させてくれたんです」
五虎退が教えてくれた内容に、小豆は目を丸くする。
藤も審神者として、刀剣男士を顕現するために物に宿った心を励起させる力は持っているが、それは長く伝えられた逸話や刀としての歴史があってのこと。万屋の店舗の陳列棚のような、逸話も来歴もほぼゼロと言っていい存在の言葉を拾い上げ、あまつさえ体を一時的に貸すなど、技術だけでできるものではあるまい。
そこまで考えて、小豆はふと思う。
(わたしのへやにある、れいのかんざし。かのうなら、かのじょのちからをかりて、かれにことばをとどけられないだろうか)
少年は夢の中に姿を見せ、ぼんやりとした足音や重みを感じさせることはあっても、姿らしい姿は持っていない。そのせいか、小豆がどれだけ彼に語りかけても、彼の耳にはっきりと届いてはいないようだった。
だが、もし対面で話ができる環境に置かれたなら、あの少年もこちらの言葉を理解できるかもしれない。そうすれば、彼も然るべき場所に向かって旅立てるのかもしれない。
「わたしも、あとでかのじょとはなしをしてみたいものだな」
彼女自身、決して恵まれた環境の子供ではないのだろう。そんな相手に協力してくれというのは、正直申し訳なさが先走る。
だが、今はそれでも、もう一人の迷える子供を救うために彼女の力を借りさせてほしい。
些かの申し訳なさを覚えながらも、小豆は決意を固めたのだった。
***
鍛刀の部屋に向かおうと、藤と歌仙が菊理を伴って廊下へ一歩踏み出た瞬間だった。
ぶーっと端末の振動する音に、藤だけでなくその場にいる全員が、音の発信源へと視線を落とした。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
菊理に軽く断りを入れてから、藤は端末を片手に二人から少し離れる。暫く言葉を交わし、やがて彼女は駆け足で戻ってきた。
「歌仙、少し代わってもらえる? 和泉守が、歌仙に意見を聞きたいって」
「僕にかい? 構わないが、きみは一人でいいのかい」
「鍛刀のことなら、刀剣男士がいても仕方ないでしょ。それより、今は和泉守の相談にのってあげて」
藤に促され、歌仙は菊理に一礼してから、端末を持って二人から離れていった。話し声が聞こえない所で、会話をするつもりなのだろう。
藤が振り返ると、菊理がやや意外そうに歌仙を見つめていた。その表情は、この本丸に来て初めて菊理が見せた、感情を含んだ表情だった。
「どうかしたの?」
「刀剣の付喪に、わざわざ何を相談しているのだろうと」
「ああ、今出陣中だから。出陣先の時代の様子についてなら、僕もある程度は答えられるけど、敵に対するこちらの布陣みたいな戦の話になると、歌仙の方が的確な助言ができるだろうと思ったんだ」
藤の言葉を受けて、不意に菊理はきゅっと唇を一文字に引いた。
正面から藤を見据える瞳には、先だっての波一つない水面のような静寂はない。あるのは、不安定に、しかし激しさを帯びて瞬く光だった。
「彼らが出陣しているというのに、あなたはここで私の研修をしていて、いいんですか」
「いや、いいも悪いもないよ。君の予定もあるでしょう。今回の出陣は、今朝決まったことだから、こっちの都合で君の予定を覆すのは失礼だと思って」
「出陣している彼らが、心配ではないの」
丁寧な口調が、不意に取り払われる。目の前の彼女の双眸に宿る光は、最早炎として燃え上がっているように、藤には感じられた。
「あんたは心配できる立場なんでしょ。彼らが、心配じゃないの」
「心配……ではあるよ」
できる先輩を演じるために、ここは心配ではないと言うべきかとも思った。
だが、下手な誤魔化しを菊理は望んでいないと判断し、虚飾や誤魔化しの一切を今は棚に上げる。
「いつだって心配してる。怪我をしていないか、大変な思いをしていないかって」
「嘘よ」
ぴしゃりと頬を打つような言葉を返され、藤は反射的に口を噤んだ。
「だったら、なんで、あんたは閉じこもったの。怪我をした刀剣たちは、あんたを頼ってたのに、あんたが来なくて怒ってたのに、何で肝心の主のあんたは逃げてるのよ。そんな奴が審神者なんて……ふざけないでよ」
突然の断崖に対して、言い訳ならいくらでもできた。
鬼の角のこと、自分の考え方のこと、上手く伝えられなくて行き違いに耐えきれなかったこと、自分を誤魔化す生活が苦痛だったこと。
だが、どれも言い訳だ。全てを理解してもらうなどとは、今すぐには難しいだろう。
「……その件については、菊理さんにも感謝してる。僕が間違いを犯した部分もあるって、自覚している。だから、今は挽回をさせてもらっているところで」
「挽回なんて、どうでもいい!」
彼女の言葉は藤を否定する言葉でもあったが、半ば衝動的に放たれた叫びでもあった。
「腹が立つ。あんたのその傲慢さに、腹が立つの。何なのよ、何でそんな平気な顔で審神者の仕事に戻ってこられるのよ!」
「僕が、傲慢?」
藤が聞き返すと、少女は指を突きつけ、更に吼える。
「そう、傲慢!! あんたが閉じこもったって聞いたときから、ずっと言いたかった! あれだけ刀たちに心配されて、私みたいにあれこれ悩まなくていい〈普通〉の立場にいるのに、何が嫌になったって言うのよ!!」
降り注ぐ言葉の雨が、ナイフの如く藤の心に突き刺さる。
それでも、藤はまだ何も言わずに、菊理の言葉の続きを待っていた。
「逃げ込んで、挙げ句大した咎めも受けずに、元の立場に戻れる。それが当たり前だと思っている傲慢さに腹が立つの!! 全てを投げ出して休む時間を持てたってことが、どれほど自由で恵まれているか、あんたはちっとも分かってない!!」
大した咎めがなかったわけじゃない、と言い返そうと思えばできた。
和泉守との関係は未だに修復中ではあるし、膝丸は髭切と仲違いをしかけた。自分の過ちのせいで、綱渡りをしている部分はそこかしこにある。
ただ、彼女が望む言葉はそれではないとも、承知していた。
「あんたには何のしがらみもないんだから、挽回するなんて当たり前でしょう! なのに、いちいち私は頑張ってますみたいなアピールをして、そんなことするから」
斬りつけるような言葉に対しても、藤は表情を崩さない。仮面をつけているのに慣れているからもあったが、その理由はもっと別にもあった。
(この子、多分、僕に向かって言っているわけじゃない)
ならば、誰に向かって話しているのかと言えば、それは流石に分からない。だが、少なくとも自分という個人に対しての言葉ではないと、藤は薄ら感じ取っていた。
「……あんたが頑張った分、私も頑張らないと、怒られてしまうようになったじゃない」
怒鳴られていたとしても、嫌味を言われてしまったとしても、自分ではない誰かへの言葉と思えば、頭は逆に冷えていく。
「私だって、あんたみたいに、鍛刀もできて、出陣中の刀剣男士がいても、怪我をしていようが何が起きていようが、平気な顔をしていられる奴になりたかった」
今は彼女に言わせるだけ言わせて、そこから話を進めようとまで算段を組み立てるぐらい、藤は冷静な自分を自覚していた。
目の前の少女の内で爆ぜた熱は、ある程度破裂し終わったからか、今は反動で静まりつつあるようだった。
「……あんたみたいに、刀剣の主という立場も、どうでもいいって投げ捨てられるような奴に、なりたかった」
「それは――」
それは、違う。
それだけは違う、と藤は口にしようとした。
どんな願望や夢を勝手に想像しようと自由だが、それだけは、と。
だが、
「ねえ、主」
背後からの声。穏やかで、優しくて、聞くだけで藤を安心させてくれるはずの声だった。
なのに今は、抜き身の刃のように鋭く、冷たい。
「廊下を歩いていたら、たまたま聞こえてしまったんだけど」
とん、という軽い足音が、今は床を踏み抜きかねない重みを持って響く。
自分に向けられているのではないのだろうが、背筋が凍るほどの殺気を藤はひしひしと感じていた。
「さっき、この人間、何て言った?」
落ち着いた、低い音。
激昂しているわけではない。怒鳴っているわけでもない。なのに、その一言は、とても――重い。
振り返る必要も無いとは分かっていたが、それでも藤は振り返る。彼女の視線の先には、想像通り、彼がいた。
髭切という刀剣男士が、そこにいた。
「審神者の立場や責任を放り出して、あんたたちの面倒を見なかったのに、素知らぬ顔で戻ってきた恥知らずな奴って言ったのよ」
主である藤ですら、冷や汗をだらだらとかき始めているというのに、菊理の言葉の鋭さは鈍りもしない。こうなってくると、最早内容そのものよりも、この一触即発の空気の方が神経に毒だった。
「主が僕らのことを、どうでもいいって思っていると、そう聞こえた気がするんだけど?」
「だって、そうでしょう。三ヶ月前、あんたたちを手入れしたのは誰よ。あんただって、そのとき怪我をしていたじゃない」
「そうだね。直してもらったことには感謝しているよ」
あの日、負傷した髭切を癒やしてくれたという事実が、このぎくしゃくした空気を解消してくれるのではと、藤が光明を見出しかけた瞬間、
「だからといって、今の君の発言を許すつもりはない」
「ちょっと、髭切」
「事実を元に主を糾弾するなら仕方ない。けれど、事実を知らずに批判するなら、それはただの中傷だ。そんな聞くに堪えない罵りを、黙って聞き流せと?」
声音こそ押さえられているものの、彼にしては珍しくひどく感情的な物言いだった。
普段なら、歌仙や物吉が言いそうな反論を、目の前の彼が口にしている。そんな彼に、藤は寧ろ違和感すら覚えていた。
「……何で、あんたは庇うのよ。あんたの手入れを投げ出したような不出来な主を、何で庇うのよ」
「僕の〈主〉だからね」
それは、単に役割から出た言葉ではないと、菊理も気が付いたようだった。
彼の放つ〈主〉という単語には、単純な主従の役割以上に、出会って一年の間に生まれた親愛の感情が詰まっていた。
髭切の言葉を受け、菊理は口を噤んで俯いてしまう。
激しく燃え盛った炎が、ふ、と消えてしまったかのように、静かな時間が流れる。
彼女を睥睨する髭切。黙ったままの菊理。二人の様子を、不安げに見守る藤。
夏の盛りであれほど五月蠅く鳴いていた蝉も、今はまるで水をうったように静まりかえっている。
「……私、だって」
間を置いてから、不意に、菊理の声がぽつぽつと漏れる。
「私だって、なりたかった」
小さな願望の塊が、辿々しく言葉になり、
「私だって、あんたみたいに、普通の審神者になりたかった!!」
叫ぶと同時に、菊理は踵を返して走り出す。
その先に何があるか、本丸に招かれた客人である彼女は知らないはずだ。だが、迷うことなく、足は進んでいく。
どんどん小さくなっていく菊理の背中を、すかさず藤は追いかけ始める。
(一人にしちゃ駄目だ)
それは、単に本丸の中をいたずらに彷徨わせてしまったら、迷子になってしまう――といった現実的な理由から生まれた気持ちではなかった。
(あの子は、僕だ)
あの冬の日、もう耐えられないと逃げ出した自分が、今遠ざかっていく背中と重なっていく。
藤は、自分の周りにいる刀剣男士を傷つける選択をした。だが菊理は、自分の前にいる〈自分より恵まれた誰か〉を傷つける選択をした。
その違いこそあれ、彼女の行き着いた袋小路は同じに思えてならなかった。
「待って!!」
もう数歩で、菊理に追いつく。そう思った矢先、
「おっと、しつれい」
曲がり角から姿を見せた青年――小豆長光に、勢いよく菊理がぶつかる。弾みで、派手に尻餅をついた菊理の頭を結っていた簪が、ばらばらと音を立てて何本も落ちた。
彼女に衝突した拍子に、小豆の手からも金色に光る何かを落下して、床を打つ甲高い音が辺りに響く。
「小豆、菊理さん、大丈夫!?」
藤が慌ててしゃがみ、菊理を助け起こそうとした瞬間、
「……置いて、いかないで」
絞り出すような、震えた声。
どうしたのかと、藤が菊理に体に触れようとすると、
「触んないで!!」
菊理が藤の手を払った音が、辺りに響き渡る。鋭くこちらを見据える瞳は、明らかに先程までの激しい炎を燃やした目だ。
だが、不意にその炎が歪む。瞳の奥に迸っていた熱が水をかけたように消え、代わりにどういうわけか、子供のあどけなさがちらちらと姿を覗かせる。
それは、彼女本人のものではないような気がした。
菊理の視線が、ふらりと藤から外れる。彼女の顔は、今は小豆に向けられていた。
「……きみは、もしや」
小豆もすぐに気が付く。あどけなさの残る、無垢で純粋すぎる瞳の輝きを、小豆はあの祭りの日から今まで何度も見てきた。
「――お父さん、お母さんっ」
最早、悲鳴に近い声と共に、菊理の細い手が小豆の服を掴む。
「僕を、置いていかないで……僕を、見てよ!!」
そこまで叫び終えた瞬間、がくりと彼女の体から力が抜ける。操り人形の糸を無理矢理切ったような崩れ落ちように、藤は血相を変えて彼女を支えた。そうでなかったら、少女は頭を強かに打っていただろう。
菊理の顔は蝋のように白く、額には幾らかの汗が浮かんでいる。少し肌に触れただけでも、彼女の体が酷い熱を帯びていると分かった。
「小豆、髭切。布団を用意して! 早く!!」
たとえいけ好かない相手のためだったとしても、髭切は主の命令に応じてくれるはずだ。藤の信頼に、果たして髭切はすぐに踵を返し、空き部屋に布団を運ぶ形で応えた。
だが、小豆は驚いた表情のまま、その場から微動だにしない。普段から、あまり動じる姿を見せない小豆が、これほどまでに狼狽する姿を藤は初めて見た。
「……小豆?」
「わたしは、そんな、いや、しかし……」
小豆の体を揺さぶると、彼は我に返ったように表情を引き締め直し、立ち上がる。髭切の手伝いに向かおうとした彼は、一度足を止め、
「あるじ、かのじょをやすませたあと、じかんをもらってもいいだろうか」
いつになく真剣な顔つきの彼に頼まれ、否と言う理由もなし。藤はすぐさま頷いた。
小豆も立ち上がり、髭切と一緒に寝床を用意しに行ってしまった。彼らの騒々しい音を耳の端で聞き取りながら、藤は気を失っている少女の様子を観察する。
熱が酷いなら、水を飲ませて冷やすべきか。それとも着物を脱がせるべきか。そんなことを考えていると、
「お父、さん。私を……見て、よ」
途切れ途切れに零れた声に、藤は思わず唇を噛んだ。
(……僕は、君の父親でも友人でも何でもない、ただ偶々知り合っただけの人だけれども)
それでも、今は彼女を見続けていたい。
脳裏によぎった歌仙の横顔は「またきみは、そういうことを」と苦笑い交じりで、小言を口にしているような気がした。
そんな彼に内心で謝罪しつつ、藤は寝床の準備が整うまでの数分間を、じりじりとした心持ちで待ち続けていた。
***
十分もしない内に、空き部屋は菊理を寝かせるための医務室へと変貌した。単純に布団を敷き、念のため救急箱を持ってきただけではあるが、いざというときに役立てそうなものが近くにあるだけ、ましと言えるだろう。
部屋の隅では、菊理が小さな寝息を漏らしながら眠っている。今は幾らか容態も落ち着いたようではあるが、未だ熱はあるようで、時折顔を歪めている。
流石に着ていた着物姿のままでは寝かせられなかったので、一度人払いをした後、藤は気絶した彼女の帯を解き、腰紐を緩めてやった。そのおかげか、布団の中で寝返りを打つ程度には動けるようで、今は氷枕に頭を載せて休んでいる。
菊理の介抱に一段落がついてから、藤は部屋の隅に移動させた机を間に挟み、改めて小豆に向き合う。
「それで、小豆。僕に話って?」
自分でも強張っていると思える声で、藤は問う。彼女の隣では、成り行き上とはいえ、髭切も控えていた。
「それは、彼女がこんな状態になった件と関係があるって考えてもいいんだよね」
そうでなければ、あの状況で切り出しはしないだろうと予測しての質問だった。予想に違わず、小豆はこくりと首を上下に振る。
「あるじは、おぼえているだろうか。あのまつりのひ、わたしが『まいごのこどもをみつけた』といったときのことを」
小豆に尋ねられて、藤は記憶の引き出しをまさぐり始める。
「そんな話もしていたかな。それが、今回のこの状態と関係あるの?」
「ああ。わたしは、たしかにそのこどもと、はなしをしていたはずだった。だが、きがついたときには、かれはきえ、このかんざしがおちていた」
小豆は自分の掌の上に置かれた、笹を模した飾りが結わえられている金色の簪を見せた。
複雑なつくりではないものの、笹の一つ一つには丁寧に葉脈の筋がつけられており、上等な品ではあるのだろうと予測できる。
「わたしは、それをもちかえった。おとしものなら、もちぬしをさがそうと、そのときはおもっていた。しかし、かえったひから、わたしはゆめをみるようになった」
小豆は語る。自分が、何度も訪れた子供部屋の情景。そして、小豆長光という刀剣男士を父親と呼び、遊びに誘う少年のことを。
最初は、害のない子供の幽霊か思念の類だろうと思い、彼が満足して自らいなくなるまでは、好きなように過ごさせてやろうと見守るつもりだった。年端もいかない子供を、ここにいるのは間違っていると追い出すような真似は、小豆にはできなかった。
「……だが、せんじつ、かれはわたしのへやを、かってにでていってしまった。ちょっとした、たんけんだったのかもしれないが、かれがあるじたちをおどろかせるのではと、わたしはきぐしていたのだ」
「そこまで分かっていて、どうして君はその童を斬らなかったんだい?」
髭切の物言いは、合理的且つ当然の疑問だ。まして、彼は鬼を斬ったとも言われる刀だ。幽霊や妖怪の存在を許すなど、到底彼には理解できないだろう。
だからこそ、と藤は首をゆっくりと横に振る。
「子供好きな小豆にとって、少し悪戯はしたとしても無力な子供を斬って追い出すなんてできなかった。そういう風に捉えていいかな?」
「ああ。あるじのいうとおりだ。おいだすべきだとも、おもっていた。だが……わたしには、かれをおいだすせんたくが、できなかった。かのじょにも、もうしわけないことをした」
恐らくは、その子供とやらの影響で未だに伏せっている菊理を見つめ、小豆は深々と頭を下げる。
ひとまずの経緯を理解し、藤は続いてどうするか――と思案する。
髭切も小豆も、主である自分の裁可を待っているのは承知している。正直、この手の善し悪しを決める判断をするのは、あまり好きではない。だが、好きではないというだけで、有耶無耶にするのも良くないとは、自分の立場も含めて弁えている。
小豆を責めるのは簡単だが、彼にも彼なりに考えがあってのことだとは、藤も承知していた。
間違っていると本人が既に理解していても、行動の発端となった言い分はできるだけ聞くべきだ――というのが、藤の考え方だ。故に、彼女は小豆の意見を心の中で反芻し、
「子供を泣かせたくなくて、その子が自分から納得して消えてくれるまで一緒にいてあげようって思う小豆の気持ちは、すごく優しくて良いものだね」
隣に座る髭切の横顔が僅かに強張っていると気付きながらも、藤はひとまずそこまで言い切った。続けて、間髪入れず「でも」と彼女は話す。
「でも、一人だと、どんどん狭い考えにはまってしまうこともある。害がないと小豆は思っていても、髭切みたいに警戒する人の意見も聞いてみたら、また違う見方ができたかもしれない」
過去の話をくどくどと説教していても仕方ない。ならば、先にこの先の話をしようと、藤は更に口を動かす。
「小豆の優しさは、僕もよく知っている。いつも、君が本丸の皆や僕のことを、すごく大事に見守ってくれているって分かってる」
そこで、一度言葉は途切れる。
あまりこういう大真面目な台詞は言いたくないな、と内心で思う自分が、藤の口を止めてしまっていた。
自分の優しさが、見当違いな優しさだったと指摘されるほど、嫌なものはないだろう。小豆長光の良心は、本来良心で報われるべきだったはずなのだから。それを裏切ったのは、彼に優しくされた子供であり、そして今から彼を裁く主である自分でもある。
(親切には親切を、優しさには優しさを――と言われて育ってはきたけれど、やっぱり難しいな)
今は亡い母の口癖を思い返し、益々口ごもってしまう。
このまま、曖昧な結論を出してしまおうかと、弱気な自分が心の片隅をつつき始めたときだった。
じっと、こちらを見つめる視線があることに、藤は気が付く。
誰あろう、それは正面からこちらを見据える小豆の視線でもあり、隣に控えている髭切からの視線でもあった。
片や、自らに下される裁定を静かに待つ刀の目。
片や、主としてどのような結論を下すのかを判じようとする刀の目。
彼らを裏切るような主人ではいたくないと、藤は決意の紐を硬く締め直す。
「だけど、小豆の優しさを悪事に使う人がいるかもしれないし、今回みたいに小豆の予想しない形で、誰かを傷つける結果になる場合もあるかもしれない。優しさは、柔らかくて温かいものだけを齎すわけじゃないってことは、覚えておいてくれると嬉しい。そして、君の優しさを、誰も傷つかない形で使えるように、僕にも協力させてほしい」
どうにかそこまで言い切り、藤は恐る恐る小豆の表情を伺う。
激昂されるか、或いは理解されない悲しみで嘆かれたらどうしよう――と思っていたが、小豆はどうやら伝えたい思いは汲み取ってくれたらしい。
一度深々と頷いてから、彼はゆっくりと頭を下げる。
「――しょうちした、わがあるじよ。じょげん、かんしゃするぞ」
重々しい物言いは、主人の言葉を真摯に受け止めた臣下としての姿勢を、明瞭に示したものだった。
小豆との話に一段落をつけた藤は、小豆が見せてくれた簪に改めて注目した。見た限りにおいては、怪しげな気配などはなく、菊理の髪を結わえていた簪とも大差はないように見える。
「こう、これを身につけると子供の霊が憑く……とか、そういう代物なのかな?」
「主、そんなに気安く触らない方がいいよ」
警戒した髭切は、すぐさま藤の手から簪を取り上げてしまう。彼は、簪を呪物か何かと思っているようで、眺める瞳は剣呑そのものだ。
「それで、その子供は何か話していたの?」
藤に訊かれ、小豆は先だって見た夢の内容を語る。父親の側にいたいと声を張り上げる少年と、彼から離れていく父と思しき男性。そして、逆巻く炎。
小豆が説明した光景を頭の中で反復しながら、藤は「置いていかないで」と呟いてみる。その言葉に含まれる切実な願いに似たものを、藤はつい先日聞いた覚えがあった。
「……たしか髭切が、この前そんなこと言ってたよね」
「え?」
「もっと一緒にいたいのに、どうして一人にしてしまうのか……みたいな言葉を、僕に言ってたよ。寝ぼけてたみたいだったから、寝言かと思ってたけど」
その言葉を聞いた瞬間、髭切はぱちぱちと瞬きをしてから、ふいっと藤から目を逸らしてしまった。それはまるで、知らない間に聞かれたくないことを聞かれていたと、気付いてしまったような姿に見えた。
「あるじ。それは、いつの話だろうか」
「えーっと……たしか」
藤が日付について答えると、小豆は「それは、かれがはじめてわたしのへやから、かってにぬけでたひだぞ」と教えてくれた。
「それを言うなら、主も寝ぼけ眼で似たような言葉を、僕に向かって口にしていたよ。『お父さん、行かないで』とか『お母さんが待っている』とか」
「え、そうなの?」
聞き間違いじゃないと髭切は言い張るものの、藤には全く身に覚えがなかった。
だが、彼が口にした単語や小豆が語ってくれた夢の内容は、和泉守を手入れしたときに見た夢と合致する、と内心で藤は確信していた。
不在の父を求めて、どこにいるのかと母に問う少年の姿。自分を置いていく父に、縋り付こうとする子供の背中。どれも、同一人物について語られていると考えて間違いないだろう。
「さっきも、菊理どのは、わたしをちちにみたてていた。おそらく、かのじょも、あのこどものえいきょうをうけたのだろう」
ましてや、五虎退の言うように物言わぬ者の声を引き出す才に長けている者なら、刀剣男士にまで影響を及ぼしていた少年の思いを、かなり強く受けてしまっても不思議ではない。
そこまで推測は打ち立てられた。ならば、次はどうするかを決めねばならない。
藤が口を開きかけたとき、小さな呻き声が部屋に響いた。か細いそれが誰の声かは、考えるまでもない。
藤はすぐさま立ち上がり、眠っている菊理の側に座る。次いで、小豆も藤の後ろに控えるように、腰を下ろした。
「あつい、あつい──」
氷枕の上で何度も寝返りを打ちながら、少女は譫言を口にする。すかさず、藤は布団の上に投げ出されていた菊理の手を取った。彼女の手は、自ら口にしている通り、再び熱を帯び始めている。
「待って、こんな、場所に……置いていかない、で」
「菊理さん、しっかりして。知らない誰かの気持ちに、引っ張られないで」
声が届いたのだろうか。さながら親の手に縋る子供の如く、藤に握られていた菊理の五指が、ゆっくりと握り返していく。
「僕は、君の家族でも何でもない。だけど、ただ君が心配な人として、君の側にいさせて」
祈るように声をかけてみても、彼女が目覚める様子はない。小豆の言うように、少年の思いを強く受け止めすぎているのなら、悲しみの記憶が彼女を良からぬ方向に引き留めてしまっているのかもしれない。
「こうなったら、なるべく早く壊すべきだ」
小豆たちの様子を伺いつつ、髭切は言い放つ。彼なら、その回答に至るだろうとは、藤も既に予想はできていた。
「かなしいことだが、ひとをきずつけるものをたすけてくれとは、わたしもいえない」
菊理の頭痛を受け取ろうかとでもいうように、少女の額に手を置きつつ、小豆も同意の頷きを返す。
ただ人に取り憑くだけならいざ知らず、取り憑いた人間を傷つけるような真似をするなら、流石の小豆も庇い立てはできなかった。
このまま、菊理が目を覚まさなかったら、彼女の刀剣男士たちへ何と釈明すればいいのか。体を持たない少年の願いを守るために、生きた人間を犠牲にはできない。それが、三人の出した結論だった。
「壊すのなら……髭切、頼んでもいい?」
藤が髭切に尋ねると、彼は一も二もなく頷いてみせた。
「いいよ。僕はそういう逸話を持つ刀だからね。じゃあ、久々にあやかし退治をしようかな」
立ち上がった髭切は、ばさりと肩にかけている上着を落とす。
光でできた桜の花びらが、辺りにふわふわと舞い、それらが全て空気に溶けて消える頃には、彼の服は出陣のときに纏う礼装めいた装束になっていた。
腰には、髭切の部屋に置かれていた刀も吊られている。戦闘中などの極度に集中力を使う状態ではないなら、刀を手元に引き寄せることなど、刀剣男士にとっては容易い。
元々、刀剣男士は刀が本体のようなものなのだから。
「じゃあ、どこの誰とも知らぬ童の霊よ。あるべき所に還ってもらおうか――!」
机に置いてあった簪を手にとり、宙空へ放る。次いで、髭切の抜き放った太刀が、落下する簪に向けて吸い込まれるように薙ぎ払った瞬間、
――キィンッ!!
金属同士がぶつかり合う、鋭い音が響く。
それは、簪が刀によって砕かれた音ではない。
「――っ!?」
思わず、髭切が息を飲み、小豆が目を瞠り、藤が菊理を握る手に力を込めた理由。
簪を守るように、刀を弾いた者が、突如三人の前に姿を見せた。
そこに、影はない。
そこに、人の器として得た厚みはない。
曖昧な蜃気楼の如き姿をしていたとしても、彼が何者であるかぐらいは、三人ともすぐに気が付く。
青銅色の髪に、片目を眼帯で覆い、金の瞳を持つ青年。纏う上着は、嘗ては黒かったのだろうが、今は部屋の向こう側が透けて見えた。
「――刀剣男士」
片手に刀を握った蜃気楼の青年を前にして、誰とも知れず呟いた声が、部屋の中に響き渡った。
それ以外にも、静寂が保たれている理由はあるのだが、最たる理由が本丸の住人以外の人がいるからというのは明らかである。
「きょうは、みな、ぎょうぎよくしているのだな」
「は、はい。あるじさまが、頑張っていますので」
小豆が声をかけた先、五虎退がいつもの細い声を尚小さくして、こくこくと頷く。
二人は今、五虎退の部屋で小豆が用意した新作のお菓子を食べていた。夏にうってつけのすっきりした味わいが特徴的な、レモンシャーベットである。
「でも、お話が終わったら、ちょっとだけ挨拶できたらいいな……って思ってます。お世話にも、なったので」
迷子の彼女を保護した件だろうかと、小豆は首を傾げる。だが、それを言うなら、お世話になったではなく、お世話をした、のはずだ。
「実は、去年の師走の頃、僕があるじさまの贈り物を探しているときに、手伝ってもらったことがあるんです」
「おや、そうだったのか」
「はい。僕は、あるじさまが、審神者に就任した頃に買おうとしてた髪飾りをあげようって思ったんですけど……でも、お店に売ってあるものが、全く同じ髪飾りかどうか分からなくて、どうしようって悩んでたんです」
本当にこれが主が欲しがっていた品か判断がつけられず、五虎退が八方塞がりになっていたとき、やってきた菊理が五虎退に「これだ」と教えてくれたのだ。
懐かしい思い出として語る五虎退とは対照的に、小豆は不思議そうな表情を浮かべる。
「なぜ、かのじょは、あるじがほしいものだとわかったのだろうか」
「菊理さんは、何だか不思議な力を持っているみたいで……僕らみたいな〈物〉ではあるけれど、まだ喋られるほど力がない者たちを体に宿して、自分の体を通してお話してもらうことができるんです。それで、お店の棚さんに体を貸して、僕たちとお話させてくれたんです」
五虎退が教えてくれた内容に、小豆は目を丸くする。
藤も審神者として、刀剣男士を顕現するために物に宿った心を励起させる力は持っているが、それは長く伝えられた逸話や刀としての歴史があってのこと。万屋の店舗の陳列棚のような、逸話も来歴もほぼゼロと言っていい存在の言葉を拾い上げ、あまつさえ体を一時的に貸すなど、技術だけでできるものではあるまい。
そこまで考えて、小豆はふと思う。
(わたしのへやにある、れいのかんざし。かのうなら、かのじょのちからをかりて、かれにことばをとどけられないだろうか)
少年は夢の中に姿を見せ、ぼんやりとした足音や重みを感じさせることはあっても、姿らしい姿は持っていない。そのせいか、小豆がどれだけ彼に語りかけても、彼の耳にはっきりと届いてはいないようだった。
だが、もし対面で話ができる環境に置かれたなら、あの少年もこちらの言葉を理解できるかもしれない。そうすれば、彼も然るべき場所に向かって旅立てるのかもしれない。
「わたしも、あとでかのじょとはなしをしてみたいものだな」
彼女自身、決して恵まれた環境の子供ではないのだろう。そんな相手に協力してくれというのは、正直申し訳なさが先走る。
だが、今はそれでも、もう一人の迷える子供を救うために彼女の力を借りさせてほしい。
些かの申し訳なさを覚えながらも、小豆は決意を固めたのだった。
***
鍛刀の部屋に向かおうと、藤と歌仙が菊理を伴って廊下へ一歩踏み出た瞬間だった。
ぶーっと端末の振動する音に、藤だけでなくその場にいる全員が、音の発信源へと視線を落とした。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
菊理に軽く断りを入れてから、藤は端末を片手に二人から少し離れる。暫く言葉を交わし、やがて彼女は駆け足で戻ってきた。
「歌仙、少し代わってもらえる? 和泉守が、歌仙に意見を聞きたいって」
「僕にかい? 構わないが、きみは一人でいいのかい」
「鍛刀のことなら、刀剣男士がいても仕方ないでしょ。それより、今は和泉守の相談にのってあげて」
藤に促され、歌仙は菊理に一礼してから、端末を持って二人から離れていった。話し声が聞こえない所で、会話をするつもりなのだろう。
藤が振り返ると、菊理がやや意外そうに歌仙を見つめていた。その表情は、この本丸に来て初めて菊理が見せた、感情を含んだ表情だった。
「どうかしたの?」
「刀剣の付喪に、わざわざ何を相談しているのだろうと」
「ああ、今出陣中だから。出陣先の時代の様子についてなら、僕もある程度は答えられるけど、敵に対するこちらの布陣みたいな戦の話になると、歌仙の方が的確な助言ができるだろうと思ったんだ」
藤の言葉を受けて、不意に菊理はきゅっと唇を一文字に引いた。
正面から藤を見据える瞳には、先だっての波一つない水面のような静寂はない。あるのは、不安定に、しかし激しさを帯びて瞬く光だった。
「彼らが出陣しているというのに、あなたはここで私の研修をしていて、いいんですか」
「いや、いいも悪いもないよ。君の予定もあるでしょう。今回の出陣は、今朝決まったことだから、こっちの都合で君の予定を覆すのは失礼だと思って」
「出陣している彼らが、心配ではないの」
丁寧な口調が、不意に取り払われる。目の前の彼女の双眸に宿る光は、最早炎として燃え上がっているように、藤には感じられた。
「あんたは心配できる立場なんでしょ。彼らが、心配じゃないの」
「心配……ではあるよ」
できる先輩を演じるために、ここは心配ではないと言うべきかとも思った。
だが、下手な誤魔化しを菊理は望んでいないと判断し、虚飾や誤魔化しの一切を今は棚に上げる。
「いつだって心配してる。怪我をしていないか、大変な思いをしていないかって」
「嘘よ」
ぴしゃりと頬を打つような言葉を返され、藤は反射的に口を噤んだ。
「だったら、なんで、あんたは閉じこもったの。怪我をした刀剣たちは、あんたを頼ってたのに、あんたが来なくて怒ってたのに、何で肝心の主のあんたは逃げてるのよ。そんな奴が審神者なんて……ふざけないでよ」
突然の断崖に対して、言い訳ならいくらでもできた。
鬼の角のこと、自分の考え方のこと、上手く伝えられなくて行き違いに耐えきれなかったこと、自分を誤魔化す生活が苦痛だったこと。
だが、どれも言い訳だ。全てを理解してもらうなどとは、今すぐには難しいだろう。
「……その件については、菊理さんにも感謝してる。僕が間違いを犯した部分もあるって、自覚している。だから、今は挽回をさせてもらっているところで」
「挽回なんて、どうでもいい!」
彼女の言葉は藤を否定する言葉でもあったが、半ば衝動的に放たれた叫びでもあった。
「腹が立つ。あんたのその傲慢さに、腹が立つの。何なのよ、何でそんな平気な顔で審神者の仕事に戻ってこられるのよ!」
「僕が、傲慢?」
藤が聞き返すと、少女は指を突きつけ、更に吼える。
「そう、傲慢!! あんたが閉じこもったって聞いたときから、ずっと言いたかった! あれだけ刀たちに心配されて、私みたいにあれこれ悩まなくていい〈普通〉の立場にいるのに、何が嫌になったって言うのよ!!」
降り注ぐ言葉の雨が、ナイフの如く藤の心に突き刺さる。
それでも、藤はまだ何も言わずに、菊理の言葉の続きを待っていた。
「逃げ込んで、挙げ句大した咎めも受けずに、元の立場に戻れる。それが当たり前だと思っている傲慢さに腹が立つの!! 全てを投げ出して休む時間を持てたってことが、どれほど自由で恵まれているか、あんたはちっとも分かってない!!」
大した咎めがなかったわけじゃない、と言い返そうと思えばできた。
和泉守との関係は未だに修復中ではあるし、膝丸は髭切と仲違いをしかけた。自分の過ちのせいで、綱渡りをしている部分はそこかしこにある。
ただ、彼女が望む言葉はそれではないとも、承知していた。
「あんたには何のしがらみもないんだから、挽回するなんて当たり前でしょう! なのに、いちいち私は頑張ってますみたいなアピールをして、そんなことするから」
斬りつけるような言葉に対しても、藤は表情を崩さない。仮面をつけているのに慣れているからもあったが、その理由はもっと別にもあった。
(この子、多分、僕に向かって言っているわけじゃない)
ならば、誰に向かって話しているのかと言えば、それは流石に分からない。だが、少なくとも自分という個人に対しての言葉ではないと、藤は薄ら感じ取っていた。
「……あんたが頑張った分、私も頑張らないと、怒られてしまうようになったじゃない」
怒鳴られていたとしても、嫌味を言われてしまったとしても、自分ではない誰かへの言葉と思えば、頭は逆に冷えていく。
「私だって、あんたみたいに、鍛刀もできて、出陣中の刀剣男士がいても、怪我をしていようが何が起きていようが、平気な顔をしていられる奴になりたかった」
今は彼女に言わせるだけ言わせて、そこから話を進めようとまで算段を組み立てるぐらい、藤は冷静な自分を自覚していた。
目の前の少女の内で爆ぜた熱は、ある程度破裂し終わったからか、今は反動で静まりつつあるようだった。
「……あんたみたいに、刀剣の主という立場も、どうでもいいって投げ捨てられるような奴に、なりたかった」
「それは――」
それは、違う。
それだけは違う、と藤は口にしようとした。
どんな願望や夢を勝手に想像しようと自由だが、それだけは、と。
だが、
「ねえ、主」
背後からの声。穏やかで、優しくて、聞くだけで藤を安心させてくれるはずの声だった。
なのに今は、抜き身の刃のように鋭く、冷たい。
「廊下を歩いていたら、たまたま聞こえてしまったんだけど」
とん、という軽い足音が、今は床を踏み抜きかねない重みを持って響く。
自分に向けられているのではないのだろうが、背筋が凍るほどの殺気を藤はひしひしと感じていた。
「さっき、この人間、何て言った?」
落ち着いた、低い音。
激昂しているわけではない。怒鳴っているわけでもない。なのに、その一言は、とても――重い。
振り返る必要も無いとは分かっていたが、それでも藤は振り返る。彼女の視線の先には、想像通り、彼がいた。
髭切という刀剣男士が、そこにいた。
「審神者の立場や責任を放り出して、あんたたちの面倒を見なかったのに、素知らぬ顔で戻ってきた恥知らずな奴って言ったのよ」
主である藤ですら、冷や汗をだらだらとかき始めているというのに、菊理の言葉の鋭さは鈍りもしない。こうなってくると、最早内容そのものよりも、この一触即発の空気の方が神経に毒だった。
「主が僕らのことを、どうでもいいって思っていると、そう聞こえた気がするんだけど?」
「だって、そうでしょう。三ヶ月前、あんたたちを手入れしたのは誰よ。あんただって、そのとき怪我をしていたじゃない」
「そうだね。直してもらったことには感謝しているよ」
あの日、負傷した髭切を癒やしてくれたという事実が、このぎくしゃくした空気を解消してくれるのではと、藤が光明を見出しかけた瞬間、
「だからといって、今の君の発言を許すつもりはない」
「ちょっと、髭切」
「事実を元に主を糾弾するなら仕方ない。けれど、事実を知らずに批判するなら、それはただの中傷だ。そんな聞くに堪えない罵りを、黙って聞き流せと?」
声音こそ押さえられているものの、彼にしては珍しくひどく感情的な物言いだった。
普段なら、歌仙や物吉が言いそうな反論を、目の前の彼が口にしている。そんな彼に、藤は寧ろ違和感すら覚えていた。
「……何で、あんたは庇うのよ。あんたの手入れを投げ出したような不出来な主を、何で庇うのよ」
「僕の〈主〉だからね」
それは、単に役割から出た言葉ではないと、菊理も気が付いたようだった。
彼の放つ〈主〉という単語には、単純な主従の役割以上に、出会って一年の間に生まれた親愛の感情が詰まっていた。
髭切の言葉を受け、菊理は口を噤んで俯いてしまう。
激しく燃え盛った炎が、ふ、と消えてしまったかのように、静かな時間が流れる。
彼女を睥睨する髭切。黙ったままの菊理。二人の様子を、不安げに見守る藤。
夏の盛りであれほど五月蠅く鳴いていた蝉も、今はまるで水をうったように静まりかえっている。
「……私、だって」
間を置いてから、不意に、菊理の声がぽつぽつと漏れる。
「私だって、なりたかった」
小さな願望の塊が、辿々しく言葉になり、
「私だって、あんたみたいに、普通の審神者になりたかった!!」
叫ぶと同時に、菊理は踵を返して走り出す。
その先に何があるか、本丸に招かれた客人である彼女は知らないはずだ。だが、迷うことなく、足は進んでいく。
どんどん小さくなっていく菊理の背中を、すかさず藤は追いかけ始める。
(一人にしちゃ駄目だ)
それは、単に本丸の中をいたずらに彷徨わせてしまったら、迷子になってしまう――といった現実的な理由から生まれた気持ちではなかった。
(あの子は、僕だ)
あの冬の日、もう耐えられないと逃げ出した自分が、今遠ざかっていく背中と重なっていく。
藤は、自分の周りにいる刀剣男士を傷つける選択をした。だが菊理は、自分の前にいる〈自分より恵まれた誰か〉を傷つける選択をした。
その違いこそあれ、彼女の行き着いた袋小路は同じに思えてならなかった。
「待って!!」
もう数歩で、菊理に追いつく。そう思った矢先、
「おっと、しつれい」
曲がり角から姿を見せた青年――小豆長光に、勢いよく菊理がぶつかる。弾みで、派手に尻餅をついた菊理の頭を結っていた簪が、ばらばらと音を立てて何本も落ちた。
彼女に衝突した拍子に、小豆の手からも金色に光る何かを落下して、床を打つ甲高い音が辺りに響く。
「小豆、菊理さん、大丈夫!?」
藤が慌ててしゃがみ、菊理を助け起こそうとした瞬間、
「……置いて、いかないで」
絞り出すような、震えた声。
どうしたのかと、藤が菊理に体に触れようとすると、
「触んないで!!」
菊理が藤の手を払った音が、辺りに響き渡る。鋭くこちらを見据える瞳は、明らかに先程までの激しい炎を燃やした目だ。
だが、不意にその炎が歪む。瞳の奥に迸っていた熱が水をかけたように消え、代わりにどういうわけか、子供のあどけなさがちらちらと姿を覗かせる。
それは、彼女本人のものではないような気がした。
菊理の視線が、ふらりと藤から外れる。彼女の顔は、今は小豆に向けられていた。
「……きみは、もしや」
小豆もすぐに気が付く。あどけなさの残る、無垢で純粋すぎる瞳の輝きを、小豆はあの祭りの日から今まで何度も見てきた。
「――お父さん、お母さんっ」
最早、悲鳴に近い声と共に、菊理の細い手が小豆の服を掴む。
「僕を、置いていかないで……僕を、見てよ!!」
そこまで叫び終えた瞬間、がくりと彼女の体から力が抜ける。操り人形の糸を無理矢理切ったような崩れ落ちように、藤は血相を変えて彼女を支えた。そうでなかったら、少女は頭を強かに打っていただろう。
菊理の顔は蝋のように白く、額には幾らかの汗が浮かんでいる。少し肌に触れただけでも、彼女の体が酷い熱を帯びていると分かった。
「小豆、髭切。布団を用意して! 早く!!」
たとえいけ好かない相手のためだったとしても、髭切は主の命令に応じてくれるはずだ。藤の信頼に、果たして髭切はすぐに踵を返し、空き部屋に布団を運ぶ形で応えた。
だが、小豆は驚いた表情のまま、その場から微動だにしない。普段から、あまり動じる姿を見せない小豆が、これほどまでに狼狽する姿を藤は初めて見た。
「……小豆?」
「わたしは、そんな、いや、しかし……」
小豆の体を揺さぶると、彼は我に返ったように表情を引き締め直し、立ち上がる。髭切の手伝いに向かおうとした彼は、一度足を止め、
「あるじ、かのじょをやすませたあと、じかんをもらってもいいだろうか」
いつになく真剣な顔つきの彼に頼まれ、否と言う理由もなし。藤はすぐさま頷いた。
小豆も立ち上がり、髭切と一緒に寝床を用意しに行ってしまった。彼らの騒々しい音を耳の端で聞き取りながら、藤は気を失っている少女の様子を観察する。
熱が酷いなら、水を飲ませて冷やすべきか。それとも着物を脱がせるべきか。そんなことを考えていると、
「お父、さん。私を……見て、よ」
途切れ途切れに零れた声に、藤は思わず唇を噛んだ。
(……僕は、君の父親でも友人でも何でもない、ただ偶々知り合っただけの人だけれども)
それでも、今は彼女を見続けていたい。
脳裏によぎった歌仙の横顔は「またきみは、そういうことを」と苦笑い交じりで、小言を口にしているような気がした。
そんな彼に内心で謝罪しつつ、藤は寝床の準備が整うまでの数分間を、じりじりとした心持ちで待ち続けていた。
***
十分もしない内に、空き部屋は菊理を寝かせるための医務室へと変貌した。単純に布団を敷き、念のため救急箱を持ってきただけではあるが、いざというときに役立てそうなものが近くにあるだけ、ましと言えるだろう。
部屋の隅では、菊理が小さな寝息を漏らしながら眠っている。今は幾らか容態も落ち着いたようではあるが、未だ熱はあるようで、時折顔を歪めている。
流石に着ていた着物姿のままでは寝かせられなかったので、一度人払いをした後、藤は気絶した彼女の帯を解き、腰紐を緩めてやった。そのおかげか、布団の中で寝返りを打つ程度には動けるようで、今は氷枕に頭を載せて休んでいる。
菊理の介抱に一段落がついてから、藤は部屋の隅に移動させた机を間に挟み、改めて小豆に向き合う。
「それで、小豆。僕に話って?」
自分でも強張っていると思える声で、藤は問う。彼女の隣では、成り行き上とはいえ、髭切も控えていた。
「それは、彼女がこんな状態になった件と関係があるって考えてもいいんだよね」
そうでなければ、あの状況で切り出しはしないだろうと予測しての質問だった。予想に違わず、小豆はこくりと首を上下に振る。
「あるじは、おぼえているだろうか。あのまつりのひ、わたしが『まいごのこどもをみつけた』といったときのことを」
小豆に尋ねられて、藤は記憶の引き出しをまさぐり始める。
「そんな話もしていたかな。それが、今回のこの状態と関係あるの?」
「ああ。わたしは、たしかにそのこどもと、はなしをしていたはずだった。だが、きがついたときには、かれはきえ、このかんざしがおちていた」
小豆は自分の掌の上に置かれた、笹を模した飾りが結わえられている金色の簪を見せた。
複雑なつくりではないものの、笹の一つ一つには丁寧に葉脈の筋がつけられており、上等な品ではあるのだろうと予測できる。
「わたしは、それをもちかえった。おとしものなら、もちぬしをさがそうと、そのときはおもっていた。しかし、かえったひから、わたしはゆめをみるようになった」
小豆は語る。自分が、何度も訪れた子供部屋の情景。そして、小豆長光という刀剣男士を父親と呼び、遊びに誘う少年のことを。
最初は、害のない子供の幽霊か思念の類だろうと思い、彼が満足して自らいなくなるまでは、好きなように過ごさせてやろうと見守るつもりだった。年端もいかない子供を、ここにいるのは間違っていると追い出すような真似は、小豆にはできなかった。
「……だが、せんじつ、かれはわたしのへやを、かってにでていってしまった。ちょっとした、たんけんだったのかもしれないが、かれがあるじたちをおどろかせるのではと、わたしはきぐしていたのだ」
「そこまで分かっていて、どうして君はその童を斬らなかったんだい?」
髭切の物言いは、合理的且つ当然の疑問だ。まして、彼は鬼を斬ったとも言われる刀だ。幽霊や妖怪の存在を許すなど、到底彼には理解できないだろう。
だからこそ、と藤は首をゆっくりと横に振る。
「子供好きな小豆にとって、少し悪戯はしたとしても無力な子供を斬って追い出すなんてできなかった。そういう風に捉えていいかな?」
「ああ。あるじのいうとおりだ。おいだすべきだとも、おもっていた。だが……わたしには、かれをおいだすせんたくが、できなかった。かのじょにも、もうしわけないことをした」
恐らくは、その子供とやらの影響で未だに伏せっている菊理を見つめ、小豆は深々と頭を下げる。
ひとまずの経緯を理解し、藤は続いてどうするか――と思案する。
髭切も小豆も、主である自分の裁可を待っているのは承知している。正直、この手の善し悪しを決める判断をするのは、あまり好きではない。だが、好きではないというだけで、有耶無耶にするのも良くないとは、自分の立場も含めて弁えている。
小豆を責めるのは簡単だが、彼にも彼なりに考えがあってのことだとは、藤も承知していた。
間違っていると本人が既に理解していても、行動の発端となった言い分はできるだけ聞くべきだ――というのが、藤の考え方だ。故に、彼女は小豆の意見を心の中で反芻し、
「子供を泣かせたくなくて、その子が自分から納得して消えてくれるまで一緒にいてあげようって思う小豆の気持ちは、すごく優しくて良いものだね」
隣に座る髭切の横顔が僅かに強張っていると気付きながらも、藤はひとまずそこまで言い切った。続けて、間髪入れず「でも」と彼女は話す。
「でも、一人だと、どんどん狭い考えにはまってしまうこともある。害がないと小豆は思っていても、髭切みたいに警戒する人の意見も聞いてみたら、また違う見方ができたかもしれない」
過去の話をくどくどと説教していても仕方ない。ならば、先にこの先の話をしようと、藤は更に口を動かす。
「小豆の優しさは、僕もよく知っている。いつも、君が本丸の皆や僕のことを、すごく大事に見守ってくれているって分かってる」
そこで、一度言葉は途切れる。
あまりこういう大真面目な台詞は言いたくないな、と内心で思う自分が、藤の口を止めてしまっていた。
自分の優しさが、見当違いな優しさだったと指摘されるほど、嫌なものはないだろう。小豆長光の良心は、本来良心で報われるべきだったはずなのだから。それを裏切ったのは、彼に優しくされた子供であり、そして今から彼を裁く主である自分でもある。
(親切には親切を、優しさには優しさを――と言われて育ってはきたけれど、やっぱり難しいな)
今は亡い母の口癖を思い返し、益々口ごもってしまう。
このまま、曖昧な結論を出してしまおうかと、弱気な自分が心の片隅をつつき始めたときだった。
じっと、こちらを見つめる視線があることに、藤は気が付く。
誰あろう、それは正面からこちらを見据える小豆の視線でもあり、隣に控えている髭切からの視線でもあった。
片や、自らに下される裁定を静かに待つ刀の目。
片や、主としてどのような結論を下すのかを判じようとする刀の目。
彼らを裏切るような主人ではいたくないと、藤は決意の紐を硬く締め直す。
「だけど、小豆の優しさを悪事に使う人がいるかもしれないし、今回みたいに小豆の予想しない形で、誰かを傷つける結果になる場合もあるかもしれない。優しさは、柔らかくて温かいものだけを齎すわけじゃないってことは、覚えておいてくれると嬉しい。そして、君の優しさを、誰も傷つかない形で使えるように、僕にも協力させてほしい」
どうにかそこまで言い切り、藤は恐る恐る小豆の表情を伺う。
激昂されるか、或いは理解されない悲しみで嘆かれたらどうしよう――と思っていたが、小豆はどうやら伝えたい思いは汲み取ってくれたらしい。
一度深々と頷いてから、彼はゆっくりと頭を下げる。
「――しょうちした、わがあるじよ。じょげん、かんしゃするぞ」
重々しい物言いは、主人の言葉を真摯に受け止めた臣下としての姿勢を、明瞭に示したものだった。
小豆との話に一段落をつけた藤は、小豆が見せてくれた簪に改めて注目した。見た限りにおいては、怪しげな気配などはなく、菊理の髪を結わえていた簪とも大差はないように見える。
「こう、これを身につけると子供の霊が憑く……とか、そういう代物なのかな?」
「主、そんなに気安く触らない方がいいよ」
警戒した髭切は、すぐさま藤の手から簪を取り上げてしまう。彼は、簪を呪物か何かと思っているようで、眺める瞳は剣呑そのものだ。
「それで、その子供は何か話していたの?」
藤に訊かれ、小豆は先だって見た夢の内容を語る。父親の側にいたいと声を張り上げる少年と、彼から離れていく父と思しき男性。そして、逆巻く炎。
小豆が説明した光景を頭の中で反復しながら、藤は「置いていかないで」と呟いてみる。その言葉に含まれる切実な願いに似たものを、藤はつい先日聞いた覚えがあった。
「……たしか髭切が、この前そんなこと言ってたよね」
「え?」
「もっと一緒にいたいのに、どうして一人にしてしまうのか……みたいな言葉を、僕に言ってたよ。寝ぼけてたみたいだったから、寝言かと思ってたけど」
その言葉を聞いた瞬間、髭切はぱちぱちと瞬きをしてから、ふいっと藤から目を逸らしてしまった。それはまるで、知らない間に聞かれたくないことを聞かれていたと、気付いてしまったような姿に見えた。
「あるじ。それは、いつの話だろうか」
「えーっと……たしか」
藤が日付について答えると、小豆は「それは、かれがはじめてわたしのへやから、かってにぬけでたひだぞ」と教えてくれた。
「それを言うなら、主も寝ぼけ眼で似たような言葉を、僕に向かって口にしていたよ。『お父さん、行かないで』とか『お母さんが待っている』とか」
「え、そうなの?」
聞き間違いじゃないと髭切は言い張るものの、藤には全く身に覚えがなかった。
だが、彼が口にした単語や小豆が語ってくれた夢の内容は、和泉守を手入れしたときに見た夢と合致する、と内心で藤は確信していた。
不在の父を求めて、どこにいるのかと母に問う少年の姿。自分を置いていく父に、縋り付こうとする子供の背中。どれも、同一人物について語られていると考えて間違いないだろう。
「さっきも、菊理どのは、わたしをちちにみたてていた。おそらく、かのじょも、あのこどものえいきょうをうけたのだろう」
ましてや、五虎退の言うように物言わぬ者の声を引き出す才に長けている者なら、刀剣男士にまで影響を及ぼしていた少年の思いを、かなり強く受けてしまっても不思議ではない。
そこまで推測は打ち立てられた。ならば、次はどうするかを決めねばならない。
藤が口を開きかけたとき、小さな呻き声が部屋に響いた。か細いそれが誰の声かは、考えるまでもない。
藤はすぐさま立ち上がり、眠っている菊理の側に座る。次いで、小豆も藤の後ろに控えるように、腰を下ろした。
「あつい、あつい──」
氷枕の上で何度も寝返りを打ちながら、少女は譫言を口にする。すかさず、藤は布団の上に投げ出されていた菊理の手を取った。彼女の手は、自ら口にしている通り、再び熱を帯び始めている。
「待って、こんな、場所に……置いていかない、で」
「菊理さん、しっかりして。知らない誰かの気持ちに、引っ張られないで」
声が届いたのだろうか。さながら親の手に縋る子供の如く、藤に握られていた菊理の五指が、ゆっくりと握り返していく。
「僕は、君の家族でも何でもない。だけど、ただ君が心配な人として、君の側にいさせて」
祈るように声をかけてみても、彼女が目覚める様子はない。小豆の言うように、少年の思いを強く受け止めすぎているのなら、悲しみの記憶が彼女を良からぬ方向に引き留めてしまっているのかもしれない。
「こうなったら、なるべく早く壊すべきだ」
小豆たちの様子を伺いつつ、髭切は言い放つ。彼なら、その回答に至るだろうとは、藤も既に予想はできていた。
「かなしいことだが、ひとをきずつけるものをたすけてくれとは、わたしもいえない」
菊理の頭痛を受け取ろうかとでもいうように、少女の額に手を置きつつ、小豆も同意の頷きを返す。
ただ人に取り憑くだけならいざ知らず、取り憑いた人間を傷つけるような真似をするなら、流石の小豆も庇い立てはできなかった。
このまま、菊理が目を覚まさなかったら、彼女の刀剣男士たちへ何と釈明すればいいのか。体を持たない少年の願いを守るために、生きた人間を犠牲にはできない。それが、三人の出した結論だった。
「壊すのなら……髭切、頼んでもいい?」
藤が髭切に尋ねると、彼は一も二もなく頷いてみせた。
「いいよ。僕はそういう逸話を持つ刀だからね。じゃあ、久々にあやかし退治をしようかな」
立ち上がった髭切は、ばさりと肩にかけている上着を落とす。
光でできた桜の花びらが、辺りにふわふわと舞い、それらが全て空気に溶けて消える頃には、彼の服は出陣のときに纏う礼装めいた装束になっていた。
腰には、髭切の部屋に置かれていた刀も吊られている。戦闘中などの極度に集中力を使う状態ではないなら、刀を手元に引き寄せることなど、刀剣男士にとっては容易い。
元々、刀剣男士は刀が本体のようなものなのだから。
「じゃあ、どこの誰とも知らぬ童の霊よ。あるべき所に還ってもらおうか――!」
机に置いてあった簪を手にとり、宙空へ放る。次いで、髭切の抜き放った太刀が、落下する簪に向けて吸い込まれるように薙ぎ払った瞬間、
――キィンッ!!
金属同士がぶつかり合う、鋭い音が響く。
それは、簪が刀によって砕かれた音ではない。
「――っ!?」
思わず、髭切が息を飲み、小豆が目を瞠り、藤が菊理を握る手に力を込めた理由。
簪を守るように、刀を弾いた者が、突如三人の前に姿を見せた。
そこに、影はない。
そこに、人の器として得た厚みはない。
曖昧な蜃気楼の如き姿をしていたとしても、彼が何者であるかぐらいは、三人ともすぐに気が付く。
青銅色の髪に、片目を眼帯で覆い、金の瞳を持つ青年。纏う上着は、嘗ては黒かったのだろうが、今は部屋の向こう側が透けて見えた。
「――刀剣男士」
片手に刀を握った蜃気楼の青年を前にして、誰とも知れず呟いた声が、部屋の中に響き渡った。