本編第三部(完結済み)

 きゃらきゃらと笑う子供の声に、小豆長光はふっと意識を浮上させる。
 周りを見渡すと、そこは見慣れない子供部屋だった。しかし、ここは既に現実ではないと小豆は知っている。

(また、このゆめをみているのだな)

 厳密に、これを夢と言ってしまっていいのかは分からない。だが、眠ってから頭の中で見ている光景という意味では、夢と表現して良いだろうと小豆は思っていた。
 夏祭りから帰ってきたその日の晩から、小豆は毎日のように、この子供部屋に招かれていた。
 子供向けの小さめの寝台に、勉強机が一つ。通学用の鞄が机にはかけられており、部屋の主がまだ年端もいかぬ少年だと教えてくれている。

「お父さん! 遊びに来てくれたんだ!!」

 そして、部屋の主である少年が、扉を開けてやってくるのがいつもの流れだった。
 部屋の中にいる小豆を父と呼ぶのは、年の頃は七つか八つの少年だ。夜を思わせる少し癖の多い紫紺の髪に、浮き世離れした黄金色の瞳は、今は星のように輝いている。
 何をして遊ぼう、と少年はいつも部屋に置かれた棚や机をまさぐり、様々な玩具を取り出しては小豆を誘っていた。
 おはじき、お手玉、だるま落としといった古風な遊びから、双六のように時間のかかるもの、或いは読み聞かせを強請ることもある。今日の彼は、けん玉を見つけ出して、小豆の元へとやってきていた。
 だが、今日ばかりは、小豆はゆっくりと首を横に振る。

「……お父さん?」
「ほんとうは、もっとはやく、わたしはきみにいうべきだったのだろうな」

 一週間近く、小豆はこの子供の戯れに付き合い続けていた。少年の無邪気な笑顔の前で、彼を邪険に扱うのは小豆には至難の業だった。
 彼が何者かは、薄々小豆も察してはいる。祭りの時に拾った簪と、あの日に聞き取った足音。加えて、自室に戻ってからも、小さな子供がいるような気配を何度か覚えたなら、薄ら予測をたてられる。
 ――幽霊。あるいは、残留思念の類か。
 そこまで推察ができていて、それでも害がないのならと小豆は彼の滞在を黙認していた。

(いや、きっとわたしは、わたしのせいで、かれがなきだすすがたを、みたくなかったのだ)

 子供を慈しみ、大事にしたいと願ってしまうが故に、たとえここに留まり続けるのが正しくない存在だと承知していても、小豆は見逃してやりたいと思ってしまった。
 しかし、と小豆はこの子供を留めようと考える自分から、目を逸らす。

「きみは、わたしのへやからでて、あるじのもとにいったのだろう。わたしは、きみとあそんであげられるが、まわりにめいわくをかけてはいけないよ」

 今日の昼前から、小豆の部屋から子供の気配が喪失していた。てっきり、十分小豆と遊んだから、満足して自分のあるべき所に帰ったのかと思っていた。
 だが、実態はそうではなかった。
 藤が『誰か来なかったか』と尋ねてくる少し前、小豆は部屋に戻ってきた子供の気配に気が付いていた。そして、彼が勝手に歩き出し、本丸の中を彷徨い始めたということも、容易に想像がついた。

「遊びに行っちゃだめなの? だって、お父さんは僕と遊んでくれるよね」
「……わたしは、できるならきみのきがすむまで、あそんであげるつもりだ。だけど、きみはまんぞくしたら、いくべきばしょにいかなくてはいけないとも、おもっている」
「どこに、僕は行けばいいの?」

 少年の顔がくしゃりと歪む。
 きっと彼は、泣き虫な子供だったのだろう。涙を必死に堪えているものの、涙腺は決壊寸前のようだった。

「僕は、お父さんとお母さんの所にいたいよ」

 父と母を求め、平穏な暮らしを願う幼子。その思いは、何一つ間違っていない、無垢で叶えるべきものだと小豆も承知している。
 けれども、言わねばならない言葉があると、小豆も既に分かっていた。
 今のままでは、いずれ少年は小豆の部屋から飛び出て、本丸を散策するようになるだろう。そうなれば、小豆が夢の中で彼に巻き込まれているように、周りに何かが起きてしまうのは必定だ。
 もし、彼を他の刀剣男士が見つけて、少年を怪しいものとして切り捨ててしまったら。
 いや、それ以上に、主が彼から影響を受けて困るようなことがあったら。
 刀として、それを許容するわけにはいかない。
 だから、彼は決意する。

「わたしは……きみのちちおやではない」

 少年が無邪気に信じる幻想を、まず小豆自身が打ち砕く。
 そうしたら、彼も自身の置かれた状況を理解してくれるのではと願ってのことだった。
 今にも溢れんばかりだった少年の涙は、小豆の言葉が決定打となって、ぽろぽろと零れ落ちていく。その涙を見ているだけで胸が痛むものの、今の小豆は前言を撤回するつもりはなかった。

「嫌だ、僕のお父さん、僕を置いていかないで」
「きみがさびしいのは、わたしもわかっている。けれど、わたしはきみのちちおやにはなれないのだ」

 小豆が諭すように言い含めても、少年はわあわあと泣くばかりだ。お父さん、お父さんと求める声は小豆の言葉を理解しているのかも怪しい。
 どうしたものかと、何か解決策を求めるように周りを見渡して、小豆は目を見開く。
 今まで長閑な子供部屋の様相を呈していた周囲の光景が、不意にぐにゃりと歪んだ。まるで、舞台の背景を入れ替えるように、世界が瞬きした瞬間に切り替わる。
 穏やかな昼下がりの子供部屋は跡形もなく消え失せ、代わりに周囲は、小豆も見た覚えがある夏祭りの光景に変化していた。

「ここは、よろずやだろうか。かれはどこに?」

 周りを見渡すと、少年はすぐに見つかった。夢の中だというのに、妙に質量のある人影をどうにかかき分け、小豆は彼へと近づこうとする。
 その途中、小豆は彼が誰かと話しているのだと気が付いた。
 しかし、肝心の話し相手の顔は判然としない。まるで、黒いもやが張り付いているかのように、顔の部分だけ曖昧になっている。
 夜の闇に溶け込みそうな、黒地に笹をあしらった柄の浴衣を纏った相手は、体格からして男性だろうと判断できた。
 彼は、少年の目線に合わせるようにしゃがんでから、少年へと何かを手渡している。

(あれは……かんざし?)

 祭りの提灯に一瞬照らされたそれは、金色に光る笹飾りのついた簪だった。少年は、目の前の男へと必死に何かを話している。
 雑踏のざわめきのせいで、少年の声ははっきりと聞こえなかったが、小豆には彼が「置いていかないで」と言っているように聞こえた。
 男は、踵を返して少年からどんどん離れていく。弾かれるようにして、小豆は彼の後を追いかけた。

「まってくれ!!」

 小豆が声を張り上げた瞬間、雑踏が電源を落とした機械の如く、ぴたりと動きを止めた。全てが静止した世界で、小豆と男だけが、意思を持って見つめ合っている。
 だが、彼の顔は相変わらずもやに包まれていて、はっきりとしない。しかし、同時に小豆はどこかで懐かしさのような、得体の知れない繋がりを彼から感じ取ってもいた。

「……きみは、かれのちちおやなのだろうか」

 男は答えなかった。回答を待たず、小豆は更に続ける。

「それなら、きみがかれのそばにいるべきだ。わたしでは、かわりにしかならない。もし、それがむりだとしても、かれにおしえるべきだ」

 父親が、あるいは少年本人が、もしくはその両方が既にこの世の者ではないことを。
 再び沈黙。
 今度は、口火を切ったのは男の方だった。

「彼はもう知っているよ。いいや、知りすぎているくらいだ」

 初めて、男は声を発した。彼の声は幼子をあやすかのように、優しく、しかしどこか乾いた諦めを含んだ声だった。

「ただ、彼はたまに忘れてしまうようなんだ。だから、君の方から、彼に教えてあげてくれないかな」

 一体何を、と思うより早く。突如ゴウッと音がして、世界が真っ赤に染まった。
 否、それは、炎だった。
 男も、世界も、何もかもが炎に巻かれていく。まるで紅い舌のような炎は、男の体を舐めるように覆い――


 はっと目を覚ましたとき、小豆の瞳は自室の天井を見つめ、障子から差し込む陽光に目を細めていた。
 上体を起こして周りを確認してみても、あの炎の余韻はどこにもない。あれも夢の中の出来事だったのだろう。

(あるいは、かつておきた、げんじつのことだろうか)

 あの少年は、最後に見た炎によって父親と離ればなれになったのだろうか。だとしたら、あんまりな別れ方だと、小豆は嘆息する。
 甘えん坊の少年が、父親と思しき男に追いすがる背中は、とても小さかった。いじらしくも切実な思いを宿した彼の姿を思い出すと、

(きみはここにいるべきではない、というべきなのだろうが)

 背中に小さな重みを感じながらも、小豆はゆっくりと首を横に振ってしまったのだった。

 ***

「今日は、研修の日なんだろう?」

 自分にとって、幼い頃からの付き合いのある刀に呼びかけられて、反射的に無言で頷いた。
 正直、行きたいとは思っていないものの、わざわざ用意して「もらった」手前、行かないと言える立場ではないと、重々承知していた。

「本当に、俺たちはついていかなくていいんだね」
「ええ。刀の付喪をぞろぞろ連れて行って、どうするというの」

 できるだけ、感情を殺した声で素っ気なく答える。そうすれば、物わかりのいい彼は、無言で引き下がってくれた。
 代わりに差し出されたのは、今日着ていく着物だった。蒸し暑い季節に合わせて、裏地がない単の着物だ。
 その色は、目の覚めるような赤。白でも桃色でもない、この苛烈で情熱的な色が、いつしか自分は好きになっていた。

「主、俺、ついていきたいなあ」

 顔を見せたのは、自分が赤を纏う切っ掛けになった刀だ。
 臙脂色の着物に、真っ赤なマフラーを首に巻いている。暑くないのだろうかとは思っていたが、そんなことを聞ける仲ではないのが現状だ。

「いらないって言ってるでしょ」

 これまた、自分でもつれないと思う返答を口から発する。それが、求められている審神者の姿であるが故に、自分が口にできる言葉は、いつもこうなってしまう。

「必要になったら、いつでも頼りにしてくれていいからね」
「……そんな風に気安く話しかけないでって、何遍言ったら分かるの」

 以前は、これだけで彼はすぐに引き下がってしまっていた。明らかに傷ついた顔をして、それを必死に笑顔で覆い隠して、背を向けていた。
 けれども、最近の彼はめげずにこちらを見つめている。真っ赤な珊瑚のような瞳で、猫のようにつり上がった目つきの彼は、人なつこく微笑んですらみせていた。
 着替えるから、と彼を追い出し、姿見の前で着物の丈を調整して、ぎゅっと紐で締める。
 強すぎて少し苦しくなってしまったものの、固い結び目が自分の心を益々固くしてくれるような気がして、つい力一杯紐を引っ張ってしまった。


 研修に行くように、と父から連絡があったのは、祭りから帰って数日後のことだった。
 本丸にわざわざ直接やってきた彼は、親子の温かい交流ではなく、要件だけを突きつけてきた。その姿は、政府の担当官以上に仕事人のようだった。

「政府からの報告にもあったが、お前の鍛刀の成績が芳しくないというのが、先日の親族会議でも話題にのぼってしまってな。審神者に就任して半年、最初の刀を顕現して一年が経ったのに、お前の娘は一体何をやっているんだ――と当主に言われてしまった」

 そのように切り出されて、自分は唇を噛むことしかできなかった。
 数ヶ月前までは、父もここまであからさまに厳しい態度はとってはいなかった。無論、遠回しに「しっかりやれ」とは忠告は受けていたものの、そこには遠回しにする程度の配慮はあった。
 だが、今はその配慮すらも消え失せている。

「今回の審神者の出来が悪い、とも言われてしまってな。まだ年若いからという声もあったが、いつまでも若さを理由にするのも難しい。何せ、お前の母親はお前と同じ年頃で、より多くの刀剣男士を顕現しているというのは、知っているだろう」

 またその話か、と思わず拳をきつく握る。
 母のことを話題に出されると、心がささくれだって、大きな声で叫びたくなってしまう。
 流石にそんな真似はできないから、今は代わりに奥歯をぐっと噛み締めて、湧き上がる衝動を堪えていた。

「元々、彼女を私の妻として迎えたのは、審神者の血を我が分家に取り入れるため。それなのに娘のお前がこれでは、私たちも立つ瀬がない」
「……すみません」

 自分の家が、俗に言う旧家のお金持ちらしいとは、小さいときから知っていた。綺麗な服もあったし、広い庭も、大きな個室も与えられていた。
 けれど、どうしてお金持ちになっているのかについては、幼い頃は流石に想像もできなかった。何か偉い仕事をしているのだろうと、無邪気に想像していた。実際、それは当たらずも遠からずだったと言えよう。

「我々の家の者は、その多くが霊的なものに干渉する力を受け継いでいる。古き神々の言葉を聞き、彼らを自らの身に宿した我々は、たとえ迫害を受けようと穢れを遠ざけ、その血を繋いできた」
「そして、時の政府の方々が私たちを必要とした」
「然り。だが、審神者と呼ばれる者の才を持つ者は、我々の中でも決して多くない。無論、当世を生きる者たちよりは生まれる確率は幾らか高いとは言え、その血は貴重だ」

 審神者になれる力を持つ者は、彼の言う通り、この国に住まう者の数からすれば僅かだ。民間人の中から今でも必死に探し出してはいるようだが、それでも強力な力を備えた審神者となると限られてくる。
 しかし、父や自分が生まれ育った家の血は、審神者が産まれやすい血統として、政府から認識されている。当然、政府はその家の者と協力的な関係を築こうとする。
 具体的には、一定の地位を約束したり、或いは――金銭の類をやり取りしたり。
 そんな裏取り引きは汚い、と思うほど子供ではないつもりだった。家の者たちを守るために、本家の人間とやらが奮闘したのだろうとも想像がつく。
 結果、審神者という〈成果物〉を差し出すような仕組みが、公然としてまかり通るようになったとしても、仕方ないと言えよう。
 理屈は分かっている。
 いや、分かっているつもりだった。

「刀剣男士などという、血塗れたあやかし崩れを使役しなければならないのは悍ましいことだが、そんな汚れ仕事も、お前なら引き受けてくれると皆が期待しているのだよ」
「……承知しています」

 しかし、この家において、刀剣男士の立場や審神者の立場は決して高くない。彼らの信仰と刀剣男士の存在が、相容れぬものだからだ。
 故に、父とは親子の縁こそあるものの、彼が自分を実際の所どう思っているのか、と疑ってしまう部分もあった。

「そこで、だ。お前の従兄弟から、丁度いいから先達から研修を受けてみてはどうか、と話があった」
「研修、ですか?」

 流石にこれは寝耳に水だったので、思わず鸚鵡返しで尋ねてしまった。

「ああ。審神者に就任してから欠かすことなく、顕現を続けているという同年代の審神者から、教えを乞うたらという話だ。ちょうど、就任時期も近いと聞いている。同じ新人同士、何かコツでもあるなら、教えてもらった方がお前にも良かろうと思ったのだろう」
「それは、どんな方ですか」
「確か、名前は……藤、と名乗っているそうだ。お前の従兄弟が、以前担当をしていた審神者だな」

 握る拳に、力が入る。
 それは、先日夏祭りで会ったあの女性の名だろう。
 演練会場で規則違反を犯していたのを、八つ当たりじみた形で叱り飛ばしたことは、今も記憶に残っている。そして、藤が自分の都合で閉じこもり、手入れまで投げ出していたことも。

「本丸の業務から逃げ出して、私が手入れを手伝った方ですよね? そのような方から、教えてもらうようなことはないと思いますが」

 無性に腹が立った。
 自分が父から咎めを受けている一方で、あの女が従兄弟や父から一目置かれているこの状況も。
 そんな相手に頭を下げて、教えに乞わなくてはならないような弱い自分にも。
 何もかもに、腹が立った。
 何もかもが、嫌いになってきた。

「しかし、閉じこもっていた間も、鍛刀は毎回成功している。顕現が少々難しい付喪も何振りか従えている。そんな新人に、我が一族から輩出したものが劣る、という状況は外聞が悪すぎる」

 ああそうですか――と内心で斜に構えた自分が、気のない返事をする。もっとも、流石に声には出せなかった。

「それに、お前の鍛刀の成績が芳しくないのも事実だ。刀の付喪如き、降ろしてくることなど容易いというのなら、私の前で今すぐ顕現を試してみるがいい」

 できないだろう、という答えが透けて見える言葉だった。
 元々負けん気の強い性格の自分は、この挑発に容易くのり――そして、案の定顕現に失敗した。
 何も顕現しない鍛刀部屋の炉を前にして、父の嘆息する声だけがやけに大きく聞こえた。

「研修については、あちらの担当官にも連絡をしておく。なるべく近い日付を用意できるように、掛け合っておこう」

 今の自分は、首を縦に振ることしか許されていない。だから、彼女は人形のように首肯した。
 最後に簡単な別れの挨拶を交わしているとき、ふと自分の目に帯につけていた帯飾りが目に入る。同時に、今小物入れにしまっている、真っ赤な椿の帯留めのことも。

「……あの子、元気にしていますか」

 故に、つい気になって尋ねてしまった。

「誰のことかね」
「あの子です。……妹の」

 だが、父親の顔はその瞬間、今まで以上に石のように硬くなってしまった。表情という表情を全て刮ぎ落としたような顔で、

「お前に、妹などいない。お前の母親は、お前だけを産み、早々に亡くなった。いつも言っているだろう」

 それは、常と変わらない返答でもあった。その取り付く島もない態度が、逆に特に変わったことはないと教えてくれた。
 奇妙な安堵と、僅かな胸の痛みを抱えて、自分は小さく頷くそうしてそれ以上何か言葉を差し挟む暇も無く、審神者としての力を高めてこいと、研修に送り出されることになってしまった。


 帯紐を取り出し、今日は何をつけようかと一瞬だけ悩む。いっそ何もなくてもいいかと思ったが、整理された小物入れの中で、一際輝く真っ赤な椿が目に入った。

 ――姉さん。

 障子越しに聞いていた、幼い子供の声を思いだす。
 まるでひな鳥のように、障子一枚挟んだ向こう側で、彼女はいつも素直にこちらの言葉に耳を傾けていた。
 ひどいことを言ってしまったのに、彼女は今でも愚直に己を慕ってくれる。だが、今はその真っ白な気持ちが少し痛い。
 真紅の椿の帯留めを帯紐に通し、きゅっと結ぶ。季節外れになってしまうが、構うものか。
 姿見の前に立つ自分の帯の上、小さく光る椿を見つめて、少女はようやく口元をほんの少しだけ緩めた。

 ***

 曰く、政府にも繋がりがあるような、名家の血筋を引くお嬢様。
 曰く、大きな本丸の中で、実家譲りの絢爛豪華な調度品に囲まれて暮らしている。
 そんな情報を頭の片隅で繰り返しつつ、藤はもう暫くしたらやってくる『菊理』という名の審神者に思いを馳せた。
 先だっての情報は、研修の日取りとともに富塚が教えてくれたものだ。どうやら、藤を推薦してくれたのは、その名家側の人物らしい。

「僕、そんなに偉い人に名前が通っていたんだ」
「僕らの成績が、それだけ認められているのだろう。寧ろ、誇るべきことだと僕は思うよ」

 言いつつも、歌仙は姿見の前に立つ藤の癖毛を一本一本整えていく。だが、彼女の頑固な癖毛は、歌仙がどう頑張ってもほうぼうにはみ出していた。

「とりあえず、歌仙は講師の刀として、余計なことは言わないように」
「余計な口を滑らせるのはいつもきみの方じゃないか? ほら、背筋を伸ばさないと、美しく見えないよ」

 歌仙に促されて、藤は背筋を伸ばす。
 今の彼女は、以前歌仙がクリスマスの贈り物として持ってきた反物を仕立てた着物を身につけていた。薄藤色の絽の着物は、夏の暑い時期でも涼しく過ごせるような織り方をされているので、着ていても蒸し暑さからは幾らか逃れられる。

「僕は何を教えればいいのかな。鍛刀以外の気になることとか、向こうから言ってくれないと想像もつかないからなあ」
「ならば聞くが、きみは知らない審神者のところに行って、あれもこれも教えてくださいと言えるかい?」
「……言えない」
「なら、聞き出すのはきみの役割だろう」

 確かに歌仙の言う通りだと、藤はこくこくと頷く。向こうの方が教えを乞う側なのに、こちらが情けない姿を見せるわけにはいかない。まして、相手は年下だ。
 薄く化粧の施された頬を軽くぴしゃぴしゃと張り、気持ちを引き締める。乱の手腕により、今の自分はほんの少しだけ大人っぽく見えるはずだと、己を鼓舞した。
 気合いを入れ直すのを待っていたかのように、端末がぶーっと振動して転送装置の起動を教えてくれる。いよいよだと、藤はごくりと唾を呑んだ。

 
 菊理と名乗った審神者の少女と、藤や彼女の刀剣男士が出会ったのは、まだ四度。そのうち、藤が顔を見たのは二度だけだ。
 一度目は、演練の最中に叱られたとき。二度目は、夏祭りで菊理が自分の刀剣男士とはぐれていたとき。
 前者も後者も、彼女は年相応の幼さを僅かに見せていた。
 一度目は、自分こそが正しいという気持ちを持つが故の子供らしい傲慢さとして。
 二度目は、知らない場所で迷子になって抱いた不安をはね除けようとする虚勢として。
 しかし今の菊理を目にした歌仙は、ともすれば藤よりも大人びた態度をとろうと振る舞っているようだと感じていた。

「今日は、わざわざ私のために時間を割いていただき、ありがとうございます」

 藤に案内されて辿り着いた先の応接室で、彼女は粛々と頭を下げる。
 身に纏う着物も、藤のように『着られている』のではなく、普段から着ているものの風格が漂っている。
 長い柘榴色の髪の毛は、きっちりと結い上げられ、数本の簪で一分の隙も無く纏められていた。ただ、その執拗な押さえ方は、やや偏執的にも感じられた。

「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。あ、お茶も飲んでもらっていいから」

 対する藤は、どうやら自然体で振る舞うことを選んだらしいと、歌仙は悟る。
 余計な口を挟まないようにと言われた手前、歌仙は万が一、菊理が藤に害を成そうとしたときの護衛に徹していた。しかし、恐らくそれも不要のようだと、歌仙は内心で思う。
 菊理の態度は、深窓の令嬢そのものであり、荒々しい感情をこちらに向けてくるとは到底思えなかった。

「お気遣い、ありがとうございます。では」

 菊理は一度頭を下げてから、湯呑みの中の冷たいお茶を飲む。
 室内とはいえ、夏の高温多湿が完全に防げるわけでもない。遠慮して断り続けたら、自分が倒れると判断したのだろう。
 湯呑みが机に置かれたのを確かめてから、藤は人好きのされそうな笑顔を菊理に向ける。

「改めて、自己紹介させてください。僕は藤。審神者としての経歴は、まだ一年と三ヶ月です。こっちが初期刀の歌仙兼定。どうぞよろしく」

 お互いに頭を下げてから、菊理はちらりと歌仙を見つめる。その蒼の瞳は、宝石をはめ込んだように無機質で、歌仙はぎくりとする。

(……まるで、以前の主みたいだ)

 顔つきも表情もまるで違うのに、歌仙は菊理の様子から在りし日の藤を思い出していた。笑顔のまま、己の感情全てを押さえ込んでいた主の姿が、菊理と重なっていく。

「私は菊理。どうぞ、よろしくお願いします」

 菊理の返答は、ひどく簡素だった。彼女の声は、静まりかえった池に投げ込まれた石のように、ゆっくりと空気に波紋を広げて溶け込んでいった。

「菊理さんの本丸は、この本丸より広いのかな」
「はい。恐らくは、二倍か三倍ほどの広さの建物を預からせていただいてます」
「それはすごいね。本丸には、どんな刀剣男士がいるの?」
「蜂須賀虎徹。加州清光。秋田藤四郎」

 刀剣男士の名を読み上げる彼女の語調は、まるで帳簿を朗読しているかのように、感情の波が一切沈められていた。
 演練先で出会った審神者や、藤が個人的に交流を持つ審神者は、自身の刀剣男士に語るとき、幾らかの気持ちがそこに込められる。
 刀の名を口にすれば、当然彼らの姿を脳裏に描き、彼らとの間に生まれたやり取りや感情まで思い出してしまうものだ。故に、語られる言葉には気持ちが宿る。

(ただ、彼女からは何も伝わらない。興味がないというより……意図的に押さえているようだね)

 その理由までは、歌仙には分からない。ただ、この手の反応は、歌仙にはどうしても主を思い起こさせてしまう。
 菊理はこちらに教えを乞いにきている立場なのだから、そこまで気を遣う必要もないと思えば、その通りなのだろう。主が気にしないで、教えるべき内容を教えて終わりにするなら、歌仙も口を挟むつもりはない。

(だが、主のことだからね。また、何か言い出すんじゃないかな)

 髭切の一件のときも、あれだけ彼の気持ちを引き出そうとしていた主だ。奉仕精神豊か――言い換えれば、お節介な主が何か行動に出るのではと、歌仙は僅かに心を身構えさせる。
 そうしている間にも、藤と菊理の団欒は夏祭りの話に移行していた。

「あの後、花火は見た? すっごく綺麗だったんだよ」
「はい。少しだけなら」
「万屋の夏祭りに行ったのは、あれが初めてなの?」
「いいえ。何度か行ったことはあります」

 決して無視をしているわけではないのだが、返答は壁に投げたボールが跳ね返ってくるような、淡泊すぎるものだった。
 藤の横顔を見れば、彼女も困惑と躊躇を混ぜたような顔になっている。恐らく、思い切って菊理の態度について言及するか、それとも触れずにいるか、悩んでいるのだろう。
 そして、動いたのは菊理の方が先だった。

「あの、そろそろ鍛刀についての教導を、お願いしてもいいでしょうか」

 湯呑みの茶が半分ほど無くなった頃、菊理は自ら本題に入った。
 元々指導されにきているのだから、彼女の要望は正しい。これには、流石に藤も首を縦に振るしかなかった。

「そうだね。じゃあ、鍛刀部屋に行こうか。あ、でももし他に訊きたいことがあるのなら、先にここで聞くけども」
「ありません。鍛刀のことだけ、お願いします」

 藤なりの気遣いは、呆気なく菊理にはね除けられた。
 ならば、これ以上拘泥していても仕方なし。藤は座布団から腰を上げ、鍛刀部屋に続く渡り廊下への障子を開く。

「主。どうするつもりだい」

 歌仙は藤の元に近寄り、声を潜めて問う。
 彼は敢えて『何を』とは言わなかったが、これだけの言葉で藤も大体察したらしい。一度、首肯を返してから、

「僕なりに、やるだけやらせてくれる?」
「相手は、それを不愉快に思うかもしれない」
「それでもいい。怒られたなら、そのときは謝る。僕のせいで本丸の評判が下がったらごめんね、歌仙」
「気にしないさ。きみの我が儘は今更だ」

 好きなようにやるといい、と歌仙は軽く藤の背中を叩いた。
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