本編第三部(完結済み)
ぽかぽかと降り注ぐ陽光はとても温かく、目を細めて体を委ねているだけでも、うとうとしてくる。
だから、今は側でゆらゆらと揺れている揺り椅子に座る誰かの膝に頭を預け、しゃがみこんだ自分も一緒になって身を任せて揺られている。
枕よりも硬く、けれどお日様の匂いと温かな気配。
いつまでも、こうして揺られていたいと願っていると、頭を撫でる手が自分をそっと包み込んでくれた。
「……お、かあ、さん」
躊躇いよりも早く、するりと口から言葉が出る。母親を呼び慕う声と同時に、そういえばもう一人、と思いつくものがあった。
お母さんがいるなら、お父さんもいるものだ。誰かにそんなことを言われた。
お父さんがいないなんて変なんだよ、と意地悪な発言をされて、体の奥がかーっと熱くなった。
変じゃないと言い張った末に取っ組み合いをしたが、すぐに何度も頭を殴られ、腹を蹴られ、痛さで泣き出してしまった。
言い返せない自分が情けなくて、悔しくて、逃げ帰ってきて――そうして今、こうして母親に慰められていたのだと思い出す。
「お母さん、どうして僕にはお父さんがいないの」
ゆらゆらと揺れていた揺り椅子が、ぴたりと止まった気がした。
口にしてから、しまった、と直感で悟ってしまった。
聞いてはいけないことだったのだと理解すると同時に、それでも聞きたいという気持ちが頭を覗かせる。揺れ動く二つの感情の間で行きつ戻りつしていると、
「……お父さんは、ちょっと遠くで仕事をしているの。お父さんは忙しい人だから」
どこか遠くを見つめながら、彼女は呟く。
「すぐに、帰ってきてくれますよ。あなたが良い子にしていたら、きっとすぐに……」
夢を見ているかのように、薄らと揺蕩う声が徐々に遠くなっていく。
***
「……して、お父さん、は」
「――い、おい! 大丈夫か、あんた!!」
耳を割るような大きな声にはっとして、藤は顔を上げる。がくがくと体を揺さぶられた瞬間、布団の上に座っている和泉守の姿が視界に飛び込んだ。
露わになった上体に巻かれた包帯、顔に貼り付けられた絆創膏、鍛え上げられた上腕を覆うガーゼには、薄らと赤が滲んでいる。
今日の朝、出陣に赴いた刀剣男士達が昼前に帰ってきて、それからずっと手入れに勤しんでいたのだと、寝ぼけた頭が理解した瞬間、腹の底から一気に吐き気がこみ上げてきて藤は咄嗟に口を押さえた。
自分の側に置いてあった資材は、幾らか残ったままだ。
以前、更紗に教えてもらったように、資材を手入れの力へと変換して、刀剣男士に与える手法をとるようにはしているものの、まだ全てを万事上手くこなすことは難しい。そのせいか、手入れ後の体調不良も依然として続いていた。
「だ、だいじょう、ぶ」
「大丈夫って顔してねえのに、大丈夫なんてこと言うんじゃねえ。手入れしたかと思ったら、いきなり居眠りし始めやがって、こっちの肝が先に冷えたんだからな」
「あはは……何か、変な夢見てたみたい」
揺り椅子に揺られている母親の膝に縋り、父親はどこかと尋ねる子供の夢だ。どう考えても自分の夢ではない、と藤もようやく目覚め始めた頭で結論を出す。
父が早逝した身ではあるが、藤の母はあのようにぼかした返事はしなかったし、そもそも揺り椅子などというものは、故郷の山奥には存在していなかった。
「和泉守。怪我は、全部治った?」
「おう。そっちは問題ねえ」
「なら、よかった。僕は部屋で休むから……」
立ち上がろうとした藤は、体中の血がごっそりと無くなったような気だるさのせいで、そのまま横倒しになりかける。咄嗟に和泉守が藤の体を支え、頭を打たないように静かに寝かせた。
「全然よくねえじゃねえか。ったく、やせ我慢したところで、後で之定に怒られるだけだぞ」
「……じゃあ、内緒にしておいてくれると、嬉しいなあ」
「減らず口だけは一丁前だな、あんたは」
主として認めないと言いながらも、和泉守は決して藤を粗雑に扱うわけではない。藤が相応に頑張ろうという姿を見せるなら、彼もその分だけ刀として主に仕える姿勢で応えてくれる。
二人の関係は、いつしかそのような奇妙な信用で結ばれるようになっていた。
和泉守は手入れのために巻かれていた包帯を取り払い、代わりに青ざめた顔の藤を担ぎ上げる。
俵担ぎは頭に血が上って気持ち悪くなるから、勘弁してほしい――などと言う暇もなく、藤の体はあっという間に自室の寝台へと移動していた。冷房をつけっぱなしにしておいたおかげで、夏特有の蒸し暑さには悩まされずに済んだ。
「それで、他に何かしてほしいことはあるか」
「今は、特にないよ。これくらいなら、寝ていたらそのうち収まるから」
返事をしつつも、藤は胃の中のものを追い出そうとするかのような吐き気を抑えるため、口元を手で塞ぐ。
気分の悪さこそあれど、実際に吐くに至る場合は殆どなかったのだが、万が一の危惧はしておかなければならないのが厄介な所だ。
「一応、洗面器は用意しておいてやるよ。あった方が気が休まるとか、前に言ってただろ」
「うん。お願い」
要望は特にない、と言った矢先のお使いになってしまったが、和泉守は余計な言葉は挟まずに素直に引き受けてくれた。
彼の背中が部屋の襖から消えていくのを見送っていると、
「お、髭切じゃねえか。あいつ、手入れの後だから、あんたも様子を見ておいてくれよ。また無茶して、そこらで倒れちゃかなわねえからな」
和泉守と入れ違いで姿を見せたのは、彼の言葉が示した通り、髭切だった。彼は出陣の部隊には含まれておらず、今日は本丸の掃除と畑の手入れをしていただけのはずだ。
部屋に入ってきた彼は、手近な椅子を引き寄せて主の隣に腰を下ろす。
「手入れのときは、やっぱり顔色が悪くなってしまうんだね。今日は休んでいないといけないよ」
「流石にこの状態で、突然はしゃいだりしないよ」
あはは、と笑うと、髭切もつられたように微笑んでくれた。夏祭りの終わった直後から、髭切が度々藤へと視線を送っていることに、彼女自身も気がついていた。
彼の言うとおり、長らく自分を気に掛けてくれたから、その影響が依然として残っているのだろう。自分が平穏に日常を過ごす姿を見せて、少しでも髭切を安心させねばとは思うが、どうにも侭ならないものだ。
夏祭りからまだ一週間と経っていないのに、この体たらくである。
「ねえ、主」
「どうかしたの?」
顔を横に向けて、髭切を布団の中から見上げる。彼は笑ってこそいるものの、何か思い悩んでいるようにも見えた。
「何だか、最近、少しもやもやっとするんだ」
「……嫌なことでもあったの?」
髭切が顕現した直後、自分の内に抱えた苛々や怒りを上手く外に出せずに事態が拗れた件については、藤もしっかりと記憶している。
だが、髭切はゆっくりと首を横に振る。
「特に嫌なことがあったわけじゃないよ。弟とも仲良くやっているし、主も楽しく過ごしているみたいだから、僕が気にするような出来事は何もないはずなんだけどね」
「それでも、もやもやするんだね。いつ、もやもやしたかって分かる?」
「最近なら、和泉守が主を運んでいる姿を見たとき、かなあ」
最近どころか、つい先ほどの出来事に、藤はぱちぱちと数度瞬きを繰り返す。
「和泉守の運び方が気になったの?」
「うーん、どうだろう」
髭切にしては、珍しく煮え切らない態度だ。彼自身、答えがはっきりしていないようで、判然としない言葉を弄び続けている。
「髭切の手入れで倒れたときは、今度は髭切が運んでくれる? そうしたら、もやもやするかどうか、分かるんじゃない?」
「そうだね。ああ、でも、今話しているときは、寧ろすっきりしているんだ」
「そっか。それなら、よかったのかな」
言葉を交わしながら、微かな眠気を覚えて藤は顔に手をやる。
人という生き物は、疲れているときに横になると眠くなるようにできているらしい。藤も例に漏れず、程よい眠気が目蓋の上を彷徨い始めていると感じ始めていた。
「主、眠るのかい」
「寝てばかりいたら、夜が寝られなくなるから、起きていたいんだけどなあ」
「無理はしない方がいいよ。主の母君の子守歌、歌おうか?」
「あのねえ、僕はそこまで子供じゃないよ」
このままだと眠ってしまうからと、布団から上体を起こし、藤は抗議をする。
こんな有様では、いつまで経っても髭切は主のことを意識し続けて、他の楽しみを見いだせなくなってしまう。髭切が気遣ってくれるのは嬉しいが、主は一人でも大丈夫だと言う所を見せねばと、彼女は不調の体に鞭を打つ。
だが、手入れの後遺症の一つでもある、底冷えするような寒気に体を包まれ、藤はぶるりと震えてしまった。
「おや、寒いのかい? じゃあ、これを貸してあげるよ」
髭切は普段から肩にかけている上着を脱ぎ、藤の背にかける。外で作業をしていた名残か、彼の上着からは太陽の優しい匂いがしていた。
「ありがとう。でも、あまり僕のことばかり構ってないで、仕事が終わったなら好きに過ごしてきていいよ」
「好きに過ごしているよ? 僕は主のために何かするのは、好きだと感じているんだけどなあ。それとも、主には迷惑なのかい」
善意を押しつけすぎずに、自らの引き際を問う姿は、嘗て主を追い詰めた経緯を反省したが故に、生まれた行動なのだろう。髭切の意図が、藤には手にとるように分かった。
「迷惑じゃないけど、髭切のしたいことをする時間を僕が奪うのは、僕の本意じゃないから」
「僕のやりたいことが主の看病なんだから、そこは気にしないでもらいたいな。僕が何をしたいかは、僕が決める。そういうものでしょう?」
そんな風に言いくるめられては、藤も言い返す言葉がない。寧ろ、無理をしない方がいいからと、髭切の手で布団に逆戻りさせられてしまった。
「それで、主。他に何か要望はあるかな」
布団の中に入れば、体調不良の上に無理をしたつけが回ってきたのか、少し目眩がした。なのに、お腹は一丁前に小腹が空いたと主張してくる。
「……それなら、膝丸にプリン作ってって、頼んでおいてくれる? プリンができるまで、僕は休んでるからさ」
「プリン? ああ……確か、この前、作っていたお菓子だね」
「膝丸は、美味しいプリンを作るのが上手だからね。つるっとしたものなら、食べられると思うんだ」
「じゃあ、僕はちょっと弟のところに行ってくるから、主は休んでいるんだよ」
手袋に包まれた彼の手が、頭を撫でていく。まるで魔法の手に触れたかのように、じんわりと目蓋が重くなり、藤の瞳はゆっくりと閉ざされていった。
太陽の匂いがする彼の上着に包まれ、彼の手に撫でられ、心地よい眠気に浸り、すぐに藤は浅い眠りについた。
主が寝付いたのを確認してから、髭切は暫し神妙な顔で藤の寝顔を見ていた。
周りを警戒する必要もない、安心しきった寝顔だ。そして、この穏やかな寝顔は髭切だけでなく、他のどの刀剣男士も目にできるものなのだろう。
彼女は、本丸の者を信頼し、ここが心落ち着ける場所と定めている。そのこと自体は、何も悪いことではない。
「……分かっているつもり、なんだけどなあ」
主が皆の前で嬉しそうに笑う度に、心の片隅がじりじりと痛む。
和泉守が主を運んでいる姿を横目に見たとき、体の内側が不意に強く熱を帯びた。突如生まれた衝動の赴くままに行動したら、きっと自分は取り返しのつかない行動をとってしまうだろうと理解していた。
それは、主の望むことではない。まして、惣領の刀であり、主を導くと決めた『物』がとるべき行動ではない。
贔屓されたいと願うのは、物であるなら避けられないものだと、鶴丸も三日月も口にしてはいた。けれど、
(その優しさが、良からぬ方向へ働かぬように……だよね。三日月宗近、君の言うとおりだ)
自分の特別扱いを望むだけならいい。要望を口にするのも、許容範囲の内だろう。ただ、そのために他人や主を傷つけるのは許されない愚行だ。
弟を見習った方がいいかもしれないと、髭切は苦笑する。彼は、兄への献身的な思いを、自分の中で上手く整理をつけているようだから。
「弟に、プリンを作ってほしいって頼まないと」
ひとまず己の気持ちをぎゅっと押し込めて、髭切は席を立とうとする。だが、彼は立ち上がりかけたまま、静止せざるをえなくなってしまった。
「……主?」
何故なら、寝ているはずの主の手が、しっかりと髭切の服の袖を掴んでいたからだ。閉じていた目は薄ら開き、目蓋の隙間からは藤色の瞳がちらりと見える。
「主、無理に起きなくても――」
「お、とう、さん……行っちゃ、やだ……」
「え?」
寝言だろうか、と髭切は首を傾げる。その間にも、彼女の唇は確かに声を漏らしていた。
「おかあ、さんが……待ってる……よ。一緒に、いこ……」
「僕は、主の父君じゃないよ」
そっと藤の指を引き剥がし、髭切は彼女の腕を布団の中に戻す。気が付けば、藤の瞳は再び閉ざされ、ううんと寝言を呟きつつ、寝返りを打ってしまった。
「そんな、もういない者じゃなくて」
僕を、頼ってほしい。
そこまで口にしかけて、髭切は何を言っているんだと内心で自嘲する。
主が、今は亡い家族に対して深い思慕を抱いているのは、共に里帰りをして知っている。それなのに、主の気持ちを踏みにじる言葉を、自分は口にしかけたのだ。
――完全に人でない存在になってしまったら、人の心が分からなくなる。そうして、いつか大事にしたいものまで壊してしまいそうだ。
以前、本丸に来ていた狐の姿をしていた半神の言葉が、不意に髭切の頭に蘇り、彼は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
自分はまだ人の心を知る『物』だと主張するかのように。
***
膝丸が作るプリンは、お菓子作りが得意な小豆が作るもよりは少々形が悪い。しかし、その分甘みが強い。
小豆は、どんな者の舌にも合うように用意するが、膝丸はプリンを強請る本人――即ち、藤の好みに合わせて作るからだと、食べる本人は推測していた。
一時間ほどの軽い睡眠をとった後、藤は布団から上体を起こして、プリンをもぐもぐと食べていた。歌仙が見たら行儀が悪いと言うだろうが、生憎彼は夕餉作りに奔走していて、今は厨にいる。
「そういえば、これを持ってきたとき、膝丸と一緒に髭切もいたけど、まだ僕のことを気に掛けているのかな」
膝丸曰く、兄が後ろでうろうろしていて、プリンを作っているときも落ち着かなかったと愚痴をこぼしていた。もっとも、当の本人は、素知らぬ顔で配膳のお供をしている始末だ。
「そんなに僕は頼りなく見えるかな。確かに、髭切に頼らないと分からないことも多いけれど、同じくらい自分で解決できるように努力してるつもりなんだけどな」
邪険に扱うのも気の毒だが、自由に羽を伸ばす時間の大切さを彼に知ってもらう必要もありそうだと、藤は考える。その間にも手は休むことなく、甘いプリンを口へと運んでいた。
皿の上に載せられていたそれを完食し終えて、ようやく気だるさや頭痛も引いた頃かと思ったときだった。
「あるじ、すこしよいだろうか」
コンコンと、襖の柱をノックする音。
どうぞ、と返事をすると、小豆長光が部屋に入ってきた。彼の手には、皆が共同で使っている、大きな板状の端末があった。
「小豆、どうしたの」
「せいふのたんとうかんから、れんらくがあったのだ。いま、でられるだろうか」
「うん。いいよ」
電話越しであると承知していても、藤は寝癖を手ぐしで簡単に整え、ぴしゃぴしゃと頬を張る。何事も形から入るのが肝心だ。
「もしもし、藤です」
「ああ、審神者様。ご無沙汰しています、担当官の富塚です。今はお休み中だと刀剣男士の方から伺っておりましたが、お体の具合はいかがでしょうか」
「そんなに大したものじゃありません。ちょっと、夏バテしちゃったみたいです」
本丸の皆には、手入れの際に起きる体の不調は教えていたが、さすがに担当官の富塚には、この件については打ち明け切れていない。
手入れをすると、力を使い過ぎて体調を崩しやすい、といった程度のぼやけた言い回しで誤魔化していた。
「無理はしないでくださいね。審神者様が倒れてしまいますと、上司だけではなく、あなたのお父さまにまで怒られてしまうので」
口調こそ畏まったものではあるが、富塚はわざと明るい語調で藤に話しかけていた。なるべく深刻に受け取らないように、気を遣ってくれているのだろう。
富塚は、藤の養父の後輩にあたる人であるとは、初対面の頃に聞いていた。この度の引きこもり騒動の概要も養父には伝わっていたようで、時間差でいくつか娘の身を案じる手紙も送られてきている。
返事は書いたものの、未だに遠くにいる一人娘が心配なのだろうとは、藤も薄々想像がついていた。
「それで、僕に連絡って何でしょうか」
本題に移るように藤が持ちかけると、小さな咳払いの後に富塚の声が返ってきた。
「今日は折り入って相談がありまして。実は、審神者様に研修の講師を頼みたいんだ」
「……僕が、研修?」
「研修の、講師の方だね」
二度言われても、依然として藤は耳にした単語を消化しきれていなかった。
「あの、僕はまだ、審神者として就任してようやく一年経ったばかりで、教えられることなんて何もないと思うのですが」
謙遜ではなく、心の底から藤はそのように考えていた。
加えて言うなら、就任期間の内、六ヶ月ほどは離れに閉じこもって悶々と頭を抱えながら暮らしていた期間となるのだから、審神者の仕事をしていた期間はもっと短い。
「私も、君を推薦してきた者にはそのように伝えたんだが、新人同士なら気も合うだろうからと、押し切られてしまったんだ。指導してもらいたい審神者様の方は、私の同僚の佐伯という者が担当をしているんだが、どうにも持て余し気味みたいでね」
「ああ、かのじょのことか」
「小豆、その人と知り合いなの?」
話を聞いていた小豆は、藤が閉じこもっていた間に本丸にやってきた担当官について、簡単に説明する。気の強そうな女性だったと、藤にはぼかした表現で話したものの、
(かのじょは、じぶんがただしいとおもったことを、まっすぐにつたえるじんぶつだったからな)
反りが合わない審神者の担当をしているのなら、相応の衝突も免れないだろうと、小豆は内心で苦笑いを浮かべていた。
「研修というからには、何かを教えるんですよね。でも、具体的に何を教えればいいんでしょう。それに、僕は二十歳になったばかりの若輩者です。年上の審神者様の場合、気分を害されるのではないでしょうか」
「年齢については、大丈夫だと思うよ。何せ、相手は今年でやっと十五歳だそうだからね」
その年齢の若さを聞いて、藤は思わず目を見開く。
藤自身、十九の誕生日を迎える年――即ち、高等学校を卒業してから審神者になったという点では、比較的若い部類にあたるだろうと客観的に自身を捉えていたが、それ以上に年若い審神者もいるものらしい。
「その審神者さんの名前は?」
「名前は……たしか、そう、菊理という名だったよ」
富塚が告げた名を耳にした瞬間、藤と小豆は揃って顔を見合わせた。
「この名前に、聞き覚えはあるだろうか」
「……あります。でも、彼女は」
彼女は、僕のことをあまり好いているようには見えませんでした。
そう言いたかったが、告げ口めいた発言は流石に気が引けてしまい、藤は言葉の途中で口を噤んだ。
「……それで、彼女は何を僕から学びたいのでしょうか。僕自身、審神者になる前に、一ヶ月ほど座学と実習を教えられただけなので、大した内容は話せないと思うんです」
「彼女に、鍛刀について指導してほしいと依頼主は要請していたようだ。こればかりは、言葉で教えるより勘で実施している者も多いそうだから、勿論君が難しいと思うなら断ってもらっても構わない」
言われて、藤は再び悩み始める。鍛刀に関してならば、彼女は確かに「やろう」と思い立った日には、すぐに成功していた。
それが当たり前だと思い込んでいたが、スミレは鍛刀を苦手としていると話していたのを聞いていたので、実際はそう簡単な物ではないらしい。
「審神者様も知っていると思うが……鍛刀は、この世界にいない何かに働きかけ、こちらに引き寄せる儀式の一つだと言われている。俗に〈神降ろし〉という単語が表現としては近いらしい。だからこそ、この世ではない者に強く働きかける力が求められるのだが、これだけは霊力の有無だけではどうにもならない、というのが通説だ」
富塚の話す内容は、藤も就任前に教えられた事項だった。
刀剣男士の本体である刀は、元々本丸で打たれたものではない。元となった刀の逸話から生じた付喪神の分け御霊を、資材という供物を捧げる形で呼び寄せている――という手順になっているらしい。
藤も最初は、あまりの非現実さに面食らったが、実際は「こっちに来てほしい」と願うだけであっさりと顕現できたので、この手のことで悩んだ試しは一度もなかった。
「いくら霊力豊富で多彩な術式を操れる審神者様でも、鍛刀についてだけは、こちらの世の道理が通じぬ世界に繋がるための波長が合わないと、上手くいかないのだそうだ」
「そういうものなんですね。……すみません、僕は鍛刀はいつも全部勘でやっているんですが、それでも本当に大丈夫でしょうか」
それに、と藤はおずおずと付け加える。
「僕は、最近鍛刀をしていないので……。以前は、数ヶ月に一度はしておくようにと指導を受けていたのですが」
「おや、そうだったのかい?」
驚いたような富塚の声に、どうやらあの指導は、こんのすけの――ひいては、管狐の裏で糸を引いている人間の私的な指示だったのだろうと、藤は確信した。
何故、そのような要望を出されたのかは、今となっては分からない。歌仙の一件以来、こんのすけは全く姿を見せなくなって久しかった。
「道理で、随分と早いペースで鍛刀をしていたんだね。ただ、そちらの本丸の住居では、今ぐらいの人数が丁度いいんじゃないだろうか」
富塚の指摘したことについては、事実だ。
この本丸の広さでは、刀剣男士の人数がこれ以上増えると、部屋数が足りなくなってしまう。その点は、藤の懸念事項の一つでもあった。
「仰る通り、多くて一人か二人だと思っています」
「それなら急がなくても構わないよ。必要な刀剣男士を見極めて、それに見合う資材を捧げるのも審神者様の役割なのだから」
富塚から、許しの言葉を得て、藤は内心でほっとする。
新しい刀剣男士が顕現したら、自身の持つ特徴や考え方について話をしなくてはならない。
しかし、角の話を新たな仲間に打ち明ける心の余裕を作るのには、もう少し時間が欲しいと藤は思っていた。
和泉守に、まだ主として認められていないという現状を踏まえても、新たな仲間が加わるには時期尚早と言えるだろう。
「研修について、日取りは追って説明するよ。無論、断るというのならそれでも構わないんだが」
「……引き受けさせてください。僕で何ができるか分かりませんが」
菊理という少女が、夏祭りのときに見せた危うい様子と、打って変わった取り澄ましたような態度。それに、彼女の帯にあった帯留めや、イチについて膝丸が話していた「名がない」と告げていたことなどが、ちらちらと頭の片隅をよぎる。
素知らぬふりをしても良いとは、百も承知している。人違いなら、それでもいい。
けれども、あの子供が自分のように仮面をつけたまま苦しんでいるのなら。
(……僕が助けたい、なんて言うのは傲慢なんだろうな。単に、僕は過去の自分を助けたいだけなんだろうから)
そんな心からの善行ではなかったとしても、助けられた側にとっては変わりないと、髭切には背中を押された。だから、今度もまた、と彼女は小さく頷く。
富塚と簡単な別れの挨拶を交わして通話を終えてから、藤は小豆の方をちらりと見やった。
「あの子のこと、小豆も少し気にしていたよね」
「ああ。……もちろん、あるじのいうとおり、かのじょがわたしにきにされたがるかは、わたしにはわからないが」
「うん。何か思う所があって、僕を指名したのは確かだろうから。その話だけでもできたらいいな」
単純に、先輩に相談をしたいというだけなら、それでいい。話を聞いてくれる友人がいなくて、自分に白羽の矢が立ったのなら、素直に応じたいとも思えた。
けれども、もしそれだけではないのなら。
彼女がこちらを睨みつけた理由が、今回の訪問に絡んでいるのなら。
「一筋縄じゃ、いかないかもなあ……」
こんなことなら、家庭教師の体験でもしておくべきだったかと、藤は天井を仰いだのだった。
***
藤が研修の講師に選ばれたという報告は、その日の夕餉の折に皆に知れ渡ることになった。
別に隠しておくつもりではないが、『先生』や『講師』という本来なら縁遠い呼称で呼ばれるのは、藤にとっては面はゆいものであり、結果として今日の夕餉はなかなか喉を通ってくれなかった。それでも、夕餉のおかずである鮎の塩焼きを二尾は平らげたのだから、どこが緊張しているんだかと歌仙には苦笑いされた。
お腹も十分満たされたところで、藤は自室に向かう。目を瞑ってでもたどり着けるほどに慣れ親しんだ廊下の先、本丸の奥にある自室の前に立ってから、
「……あの、髭切。いつまでついてくるの?」
「うん?」
藤は振り返り、呆れたような声で髭切に言う。
その本人は、何を指摘されているのか分からないという顔で、藤を見つめていた。
「夜は自由時間でしょ? 髭切は、自分のやりたいことをしていていいんだよ」
「僕のやりたいことは、主の側にいることだよ」
「僕はこれからちょっと電話するから、髭切に構ってあげられないんだけど」
言いながら、これではまるで子供をあしらう母親のような言い方だなと、藤は苦笑いする。
「それでもいいんだ。主の側に今はいたいんだけど、だめかな」
「それは、別にいいよ。でも、どうしたの。僕のことを四六時中気にしなくても、僕は大丈夫だよ。隠し事もしていないし、辛い気持ちになってもいない」
「うん、分かってる。そういう主を、僕が近くで見ていたいだけなんだ」
幸せそうな主の姿を近くで見ていたら、自分の中に生まれたもやもやとした気持ちも消える――とまでは直接言わなかったものの、髭切の考えを言葉として表すなら、そのようになっただろう。
自分が良からぬ考えに取り憑かれる前に、主が何を望んでいるかを、主の側にいることでよりはっきりと把握する。
それが、現時点で髭切の導き出した答えだった。
「まあ、髭切がいいなら、自由にしていいと思うけど」
返事をしつつ、藤は自室に入る。開けっぱなしになっていた窓からは、夜の少し冷えた夏の空気が滑り込んでカーテンを揺らしていた。網戸越しには、光に寄せられていくつかの虫が、ひらひらと舞っているのが見える。
「こういうのを見てると、夏の風物詩って感じがするよね」
「そうだねえ。それで、主はどこに電話するの?」
「ん、とね。煉さんの所に」
髭切は必死に記憶の棚を漁り、その名は以前、藤が世話になった先輩の審神者の名だと思い出した。
「今度、研修の講師をするって話になったでしょ。煉さんなら、何かいい知恵を貸してくれるんじゃないかって頼んだら、電話かけてくれていいって」
「ふーん、そうなんだ」
髭切は適当な相槌を打ちながら、卓袱台の前に座る藤の斜め後ろに腰を下ろす。そうすると、端末の画面も藤の背中もよく見えた。
彼女が通話の準備を始めているのを見つめながら、髭切は再びもやもやとした気持ちが生まれていくのを感じる。
(主がこんなに近くにいて、主の側に控えている刀剣男士は僕だけなのに、僕は何を気にしているんだろうね)
贔屓されているかどうかと考えれば、現状はもっとも物として優遇されていると言ってもいい。それにも関わらず、言い知れない不愉快な感情が、彼の中を行きつ戻りつしていた。
そうこうしている間にも、通話の準備が整い、宙空に表示された画面に一人の青年が映し出される。向こうも自室にいたようで、彼の後ろには三日月宗近が控えていた。
「夜分遅くにすみません。少し聞きたいことがありまして」
「メールでもあったが、研修の件だろう? しかし、随分と突然だな」
「ええ。僕も未だにちょっと、実感がなくて。僕より年下の、同性の審神者だから、まだよかったといいますか」
「だからこそ、かもしれないな。なかなか、同性の同年代で気心の知れた仲になる審神者を見つけるのは難しいんだ」
まして、刀剣男士は男性である以上、女性ならではの話はしづらい。
そのため、女性の審神者が同性の知り合いを見つけたら、なるべく繋がりを保とうとするのは不思議ではないと、煉は語る。
そのまま、藤と煉は研修についての話に移っていった。彼が団体で受けたことのある研修について説明し、藤は役に立ちそうな話の詳細を聞き出しては、メモをとっている。
そんな彼女の様子を、髭切は何を言うでもなくじっと見守っていた。
人間同士でしか分からない話題があるようで、髭切にはさっぱり見当もつかない内容で、藤は時々笑い、時々懐かしそうに目を細めた。
(……ああ、何だかやっぱり変だ)
主の望みは、研修とやらで自分の後輩を教え導く立派な存在になることだろうとは、真剣なやり取りからも想像できる。
鍛刀について、手入れについて、本丸の運営について。
演練で見知らぬ相手に嫌がらせをされたときの対処法、時々開かれる大規模演習の概要、本丸に迷い込む幽霊の類がいたらどうすればいいか、といったことまで。
髭切としても、主が優秀な指導者になるのは喜ばしいと感じている。
なのに、心が――痛い。
藤が声をあげて笑う度に、自分の口の端から笑みが消えていく。主がこんなにも充実した日々を送っているのに、心が痛むのは何故なのか。
(主。こっちを向いて)
思わず、声が出そうになる。
無論、喉の奥に自分の要望は押さえ込み――しかし、とん、と誰かに背中を押されたように、押し込めたはずの衝動が再び湧き上がっていく。
(こっちを向いて、置いていかないで、僕はもっと)
頭の隅で、自分ではない誰かが、何かに縋ろうとして泣いている姿がよぎっていく。
一緒に行こう、一人にしないで、待っている人もいるのにどうして来てくれないの。
得体の知れない何かの気配がじんわりと広がり、さざ波だっていた気持ちを大きく揺さぶる。
髭切は、このどうしようもない衝動を抑えるため、必死に拳を握りしめていた。
自分の後ろで髭切が耐え忍んでいるとも知らず、藤は煉との対話を楽しんでいた。
彼は年こそ藤より上ではあったが、こちらを気遣いながら話を合わせてくれるので、藤も気負わずに団欒を続けることができた。
「煉さんは、いつから審神者をしていたんですか?」
「俺は高校に入学するか、それとも審神者になるかって訊かれて、こっちを選んだんだ」
「主がまだ二十歳になる前は、それはそれはもう、酷く子供じみていてなあ」
後ろに座っている三日月が挟んだ言葉のせいで、落ち着き払った大人の顔をしていた煉の顔が歪み、年相応の青さが覗いた表情を見せる。
苦々しい顔で三日月を小突いた彼は、咳払いと共に仕切り直そうとするものの、
「大抵のことは一人でできると言い張って、やたらにこにこと大人びた態度をとったと思っていたら、仮面一枚剥がせば俺たちに翻弄されるただの童であったというわけだ」
「あのなあ、三日月!! お前達が、無理をせず何でも相談して、好きなように振る舞えって言ったんじゃないか!」
「うむ、これを人は『遅すぎる反抗期』と表現するそうだな。いや、何も悪いことではないぞ」
悪いことではないが、煉にとっては恥ずかしい内容だったらしい。
彼は三日月をどうにか画面外へ追いやろうと肘で押しのけようと奮闘したが、体格のいい彼は頑として居座り続けていた。
「年の割に、こやつは随分と大人しい子供であったからな。今も、なかなか素直に甘えようとはせん。そのせいで、友人も少ないのだ。だから藤殿、また暇なときは話をしてやってくれ」
年下の自分に対して、まるで十にもならない子供の相手を促すような三日月の言い方に、藤はどういった返事をすればいいか悩み、とりあえず笑顔を返した。
煉も観念したようで、長々とため息を吐いて諦めの様子を見せていた。
「三日月の言うことは話半分に聞いておいてくれ。ともあれ、また分からないことがあったらいつでも相談にはのる」
そうして簡単な別れの挨拶を告げつつ、藤は通話の終了ボタンを押す。
最後の最後まで「子供の頃に、甘えん坊は卒業したって言っただろう」などと三日月と言い合う声が、スピーカー越しにも聞こえていた。
「僕も、もう何年かしたら、あんな感じで落ち着いて話しているときに、髭切に混ぜっ返されたりするのかなあ。ねえ、髭切。……髭切?」
振り返った藤は、髭切が俯いたまま動かない様子に首を傾げる。軽く肩に手をかけ、揺さぶると、
「うわっ!?」
不意に、腕をしっかりと捕まえられ、藤は驚愕の声を漏らす。ここまで勢いよく触れられたのは、髭切が真剣にこちらと向き合おうとしたのに、自分が逃げようとしたときだけのはずだ。
「どうしたの?」
まさか、ずっとお喋りしている間、待たされていることが不愉快だったのだろうか。
恐る恐る顔を近づけると、突然彼は首を上に向けたため、正面を向いた髭切の瞳と目が合ってしまった。
その眼差しを見つめて、藤は思わず小さく息を飲む。
「……髭切、だよね?」
自分でも何を言っているのかと、藤自身も思う。
だが、普段から大人びた様子を見せ、つかみ所のない振る舞いをとっている彼には似つかわしくない必死さが、今目にしている髭切の瞳に宿っていた。
まるで、子供が親に必死にしがみつこうとするかのような、あどけなさも交えた真摯な心。振りほどくことも憚られるような視線に、藤が戸惑っていると、
「わっ」
がくりと、髭切の上体が傾ぎ、彼に半ばのしかかられるような姿勢になる。
辛うじて倒れるような有様にはならなかったが、突如力を抜いてもたれかかられて、藤は目を丸くしていた。
もしや、具合が悪いのかと心配になりかけたとき、
「……もっと、一緒にいたいのに、どうして行っちゃうの?」
耳元で聞こえた声に、藤はどきりとする。
それは、髭切が自分に甘えたようなことを言ったから――ではない。
直感が、これは彼の言葉とは何か違うと藤に訴えている。髭切の口を借りて、勝手に誰かが話しているような違和感がここにはある、と。
同時に、今日の昼、手入れをしている最中にうたた寝した折、夢に見た光景を藤は思い出す。
母に縋る、誰とも知らない子供の夢。甘えたくて仕方が無い盛りの子供が、父を求めて不安がる後ろ姿が、今の髭切と重なって見えた。
「髭切、しっかりして。目を覚まして」
軽く彼の背を叩くと、服越しに彼の体がびくりと揺れたのが分かる。
続けて、藤の体にかかっていた彼の重みが剥がれていき、まるで夢から覚めたような顔で、髭切は藤を見つめていた。
「……ごめん、少しうとうとしていたみたい。何かあったの?」
「いや、それは」
先程の妙な様子について話そうかと悩み、藤は一旦その件は棚に上げることにした。自分でも何が起きたのか、正直整理ができていないからだ。
昼間の夢がただの作り話のものなのか、それとも何かを暗示しているのかすらも、はっきりとしない。単に、髭切が寝ぼけていた可能性だって十分にあり得る。
「眠いのなら、寝ておいた方がいいよ。畑当番で疲れているんじゃない?」
「そうだね。主の部屋で横になるのも邪魔になるだろうから、自室に戻るよ」
適当な誤魔化しを、髭切は信じてくれたらしい。素直に立ち上がり、彼は藤に就寝の挨拶をしてから、部屋を後にする。
残された藤は、暫く部屋の中心に座ったまま、先程起きた出来事について考えていた。
「髭切に限って、あんなことを言うとは思えないし、それに昼間見た夢に似ているような気がする」
ならば、この本丸に――あるいは髭切個人に、何か起きているのだろうか。順当に考えればそのはずだ、と藤は考えを進めていく。
「さっき、煉さんも本丸に幽霊が忍び込む話とかしていたから、その手の類の何か……だったりして」
丁度、季節は夏だ。お盆も先日過ぎた頃ではあるものの、怪談噺には事欠かない時期である。背筋に寒いものを覚えて、藤はぶるりと震えた
そんなことを考え始めると、些細な家鳴りや遠くで聞こえる話し声も恐ろしく感じてしまう。座っているのも何だか落ち着かなくて、藤が思わず立ち上がったときだった。
――たったった
畳を駆ける、小さな足音。
部屋を通り過ぎていくそれに、藤は一瞬聞き間違いではないかと、引き攣った笑みを浮かべる。
だが、開け放たれた襖へと近づいた足音は、そのままぎしぎしと廊下の板を軋ませながら去って行く。
(……もし、また髭切に何かするつもりなら、それは流石に許せない)
慌てて目に見えない何かの後を追いかけると、板の軋みは髭切の部屋を通り過ぎて、更に奥へと向かった。
数部屋分の襖を行き過ぎてから、足音はぴたりと止む。足音が止まった部屋の襖は開いたままになっており、丁度夕涼みをしている住人の姿がよく見えた。
「……小豆?」
部屋の主――小豆長光が、突如顔を覗かせた藤を前に、少しばかり驚いたような顔をしてみせていた。
「どうしたのだ、あるじ。わたしにようじだろうか」
「えっと、さっきこの部屋に、誰か来なかった?」
まさか、足音だけ響くような怪奇現象が起きなかったかとは問いづらい。藤の言葉を聞き、しかし小豆はゆっくりと首を横に振る。
「……いいや、だれもきていないぞ」
「そう、なんだ。ごめん、変なこと言って。邪魔したね」
ぺこっと頭を下げてから、藤は部屋から立ち去る。
彼女が背を向けた小豆の部屋、その片隅にある花瓶に、見慣れない小さな金笹の簪が新たに挿されているとは、藤は気が付かなかった。
だから、今は側でゆらゆらと揺れている揺り椅子に座る誰かの膝に頭を預け、しゃがみこんだ自分も一緒になって身を任せて揺られている。
枕よりも硬く、けれどお日様の匂いと温かな気配。
いつまでも、こうして揺られていたいと願っていると、頭を撫でる手が自分をそっと包み込んでくれた。
「……お、かあ、さん」
躊躇いよりも早く、するりと口から言葉が出る。母親を呼び慕う声と同時に、そういえばもう一人、と思いつくものがあった。
お母さんがいるなら、お父さんもいるものだ。誰かにそんなことを言われた。
お父さんがいないなんて変なんだよ、と意地悪な発言をされて、体の奥がかーっと熱くなった。
変じゃないと言い張った末に取っ組み合いをしたが、すぐに何度も頭を殴られ、腹を蹴られ、痛さで泣き出してしまった。
言い返せない自分が情けなくて、悔しくて、逃げ帰ってきて――そうして今、こうして母親に慰められていたのだと思い出す。
「お母さん、どうして僕にはお父さんがいないの」
ゆらゆらと揺れていた揺り椅子が、ぴたりと止まった気がした。
口にしてから、しまった、と直感で悟ってしまった。
聞いてはいけないことだったのだと理解すると同時に、それでも聞きたいという気持ちが頭を覗かせる。揺れ動く二つの感情の間で行きつ戻りつしていると、
「……お父さんは、ちょっと遠くで仕事をしているの。お父さんは忙しい人だから」
どこか遠くを見つめながら、彼女は呟く。
「すぐに、帰ってきてくれますよ。あなたが良い子にしていたら、きっとすぐに……」
夢を見ているかのように、薄らと揺蕩う声が徐々に遠くなっていく。
***
「……して、お父さん、は」
「――い、おい! 大丈夫か、あんた!!」
耳を割るような大きな声にはっとして、藤は顔を上げる。がくがくと体を揺さぶられた瞬間、布団の上に座っている和泉守の姿が視界に飛び込んだ。
露わになった上体に巻かれた包帯、顔に貼り付けられた絆創膏、鍛え上げられた上腕を覆うガーゼには、薄らと赤が滲んでいる。
今日の朝、出陣に赴いた刀剣男士達が昼前に帰ってきて、それからずっと手入れに勤しんでいたのだと、寝ぼけた頭が理解した瞬間、腹の底から一気に吐き気がこみ上げてきて藤は咄嗟に口を押さえた。
自分の側に置いてあった資材は、幾らか残ったままだ。
以前、更紗に教えてもらったように、資材を手入れの力へと変換して、刀剣男士に与える手法をとるようにはしているものの、まだ全てを万事上手くこなすことは難しい。そのせいか、手入れ後の体調不良も依然として続いていた。
「だ、だいじょう、ぶ」
「大丈夫って顔してねえのに、大丈夫なんてこと言うんじゃねえ。手入れしたかと思ったら、いきなり居眠りし始めやがって、こっちの肝が先に冷えたんだからな」
「あはは……何か、変な夢見てたみたい」
揺り椅子に揺られている母親の膝に縋り、父親はどこかと尋ねる子供の夢だ。どう考えても自分の夢ではない、と藤もようやく目覚め始めた頭で結論を出す。
父が早逝した身ではあるが、藤の母はあのようにぼかした返事はしなかったし、そもそも揺り椅子などというものは、故郷の山奥には存在していなかった。
「和泉守。怪我は、全部治った?」
「おう。そっちは問題ねえ」
「なら、よかった。僕は部屋で休むから……」
立ち上がろうとした藤は、体中の血がごっそりと無くなったような気だるさのせいで、そのまま横倒しになりかける。咄嗟に和泉守が藤の体を支え、頭を打たないように静かに寝かせた。
「全然よくねえじゃねえか。ったく、やせ我慢したところで、後で之定に怒られるだけだぞ」
「……じゃあ、内緒にしておいてくれると、嬉しいなあ」
「減らず口だけは一丁前だな、あんたは」
主として認めないと言いながらも、和泉守は決して藤を粗雑に扱うわけではない。藤が相応に頑張ろうという姿を見せるなら、彼もその分だけ刀として主に仕える姿勢で応えてくれる。
二人の関係は、いつしかそのような奇妙な信用で結ばれるようになっていた。
和泉守は手入れのために巻かれていた包帯を取り払い、代わりに青ざめた顔の藤を担ぎ上げる。
俵担ぎは頭に血が上って気持ち悪くなるから、勘弁してほしい――などと言う暇もなく、藤の体はあっという間に自室の寝台へと移動していた。冷房をつけっぱなしにしておいたおかげで、夏特有の蒸し暑さには悩まされずに済んだ。
「それで、他に何かしてほしいことはあるか」
「今は、特にないよ。これくらいなら、寝ていたらそのうち収まるから」
返事をしつつも、藤は胃の中のものを追い出そうとするかのような吐き気を抑えるため、口元を手で塞ぐ。
気分の悪さこそあれど、実際に吐くに至る場合は殆どなかったのだが、万が一の危惧はしておかなければならないのが厄介な所だ。
「一応、洗面器は用意しておいてやるよ。あった方が気が休まるとか、前に言ってただろ」
「うん。お願い」
要望は特にない、と言った矢先のお使いになってしまったが、和泉守は余計な言葉は挟まずに素直に引き受けてくれた。
彼の背中が部屋の襖から消えていくのを見送っていると、
「お、髭切じゃねえか。あいつ、手入れの後だから、あんたも様子を見ておいてくれよ。また無茶して、そこらで倒れちゃかなわねえからな」
和泉守と入れ違いで姿を見せたのは、彼の言葉が示した通り、髭切だった。彼は出陣の部隊には含まれておらず、今日は本丸の掃除と畑の手入れをしていただけのはずだ。
部屋に入ってきた彼は、手近な椅子を引き寄せて主の隣に腰を下ろす。
「手入れのときは、やっぱり顔色が悪くなってしまうんだね。今日は休んでいないといけないよ」
「流石にこの状態で、突然はしゃいだりしないよ」
あはは、と笑うと、髭切もつられたように微笑んでくれた。夏祭りの終わった直後から、髭切が度々藤へと視線を送っていることに、彼女自身も気がついていた。
彼の言うとおり、長らく自分を気に掛けてくれたから、その影響が依然として残っているのだろう。自分が平穏に日常を過ごす姿を見せて、少しでも髭切を安心させねばとは思うが、どうにも侭ならないものだ。
夏祭りからまだ一週間と経っていないのに、この体たらくである。
「ねえ、主」
「どうかしたの?」
顔を横に向けて、髭切を布団の中から見上げる。彼は笑ってこそいるものの、何か思い悩んでいるようにも見えた。
「何だか、最近、少しもやもやっとするんだ」
「……嫌なことでもあったの?」
髭切が顕現した直後、自分の内に抱えた苛々や怒りを上手く外に出せずに事態が拗れた件については、藤もしっかりと記憶している。
だが、髭切はゆっくりと首を横に振る。
「特に嫌なことがあったわけじゃないよ。弟とも仲良くやっているし、主も楽しく過ごしているみたいだから、僕が気にするような出来事は何もないはずなんだけどね」
「それでも、もやもやするんだね。いつ、もやもやしたかって分かる?」
「最近なら、和泉守が主を運んでいる姿を見たとき、かなあ」
最近どころか、つい先ほどの出来事に、藤はぱちぱちと数度瞬きを繰り返す。
「和泉守の運び方が気になったの?」
「うーん、どうだろう」
髭切にしては、珍しく煮え切らない態度だ。彼自身、答えがはっきりしていないようで、判然としない言葉を弄び続けている。
「髭切の手入れで倒れたときは、今度は髭切が運んでくれる? そうしたら、もやもやするかどうか、分かるんじゃない?」
「そうだね。ああ、でも、今話しているときは、寧ろすっきりしているんだ」
「そっか。それなら、よかったのかな」
言葉を交わしながら、微かな眠気を覚えて藤は顔に手をやる。
人という生き物は、疲れているときに横になると眠くなるようにできているらしい。藤も例に漏れず、程よい眠気が目蓋の上を彷徨い始めていると感じ始めていた。
「主、眠るのかい」
「寝てばかりいたら、夜が寝られなくなるから、起きていたいんだけどなあ」
「無理はしない方がいいよ。主の母君の子守歌、歌おうか?」
「あのねえ、僕はそこまで子供じゃないよ」
このままだと眠ってしまうからと、布団から上体を起こし、藤は抗議をする。
こんな有様では、いつまで経っても髭切は主のことを意識し続けて、他の楽しみを見いだせなくなってしまう。髭切が気遣ってくれるのは嬉しいが、主は一人でも大丈夫だと言う所を見せねばと、彼女は不調の体に鞭を打つ。
だが、手入れの後遺症の一つでもある、底冷えするような寒気に体を包まれ、藤はぶるりと震えてしまった。
「おや、寒いのかい? じゃあ、これを貸してあげるよ」
髭切は普段から肩にかけている上着を脱ぎ、藤の背にかける。外で作業をしていた名残か、彼の上着からは太陽の優しい匂いがしていた。
「ありがとう。でも、あまり僕のことばかり構ってないで、仕事が終わったなら好きに過ごしてきていいよ」
「好きに過ごしているよ? 僕は主のために何かするのは、好きだと感じているんだけどなあ。それとも、主には迷惑なのかい」
善意を押しつけすぎずに、自らの引き際を問う姿は、嘗て主を追い詰めた経緯を反省したが故に、生まれた行動なのだろう。髭切の意図が、藤には手にとるように分かった。
「迷惑じゃないけど、髭切のしたいことをする時間を僕が奪うのは、僕の本意じゃないから」
「僕のやりたいことが主の看病なんだから、そこは気にしないでもらいたいな。僕が何をしたいかは、僕が決める。そういうものでしょう?」
そんな風に言いくるめられては、藤も言い返す言葉がない。寧ろ、無理をしない方がいいからと、髭切の手で布団に逆戻りさせられてしまった。
「それで、主。他に何か要望はあるかな」
布団の中に入れば、体調不良の上に無理をしたつけが回ってきたのか、少し目眩がした。なのに、お腹は一丁前に小腹が空いたと主張してくる。
「……それなら、膝丸にプリン作ってって、頼んでおいてくれる? プリンができるまで、僕は休んでるからさ」
「プリン? ああ……確か、この前、作っていたお菓子だね」
「膝丸は、美味しいプリンを作るのが上手だからね。つるっとしたものなら、食べられると思うんだ」
「じゃあ、僕はちょっと弟のところに行ってくるから、主は休んでいるんだよ」
手袋に包まれた彼の手が、頭を撫でていく。まるで魔法の手に触れたかのように、じんわりと目蓋が重くなり、藤の瞳はゆっくりと閉ざされていった。
太陽の匂いがする彼の上着に包まれ、彼の手に撫でられ、心地よい眠気に浸り、すぐに藤は浅い眠りについた。
主が寝付いたのを確認してから、髭切は暫し神妙な顔で藤の寝顔を見ていた。
周りを警戒する必要もない、安心しきった寝顔だ。そして、この穏やかな寝顔は髭切だけでなく、他のどの刀剣男士も目にできるものなのだろう。
彼女は、本丸の者を信頼し、ここが心落ち着ける場所と定めている。そのこと自体は、何も悪いことではない。
「……分かっているつもり、なんだけどなあ」
主が皆の前で嬉しそうに笑う度に、心の片隅がじりじりと痛む。
和泉守が主を運んでいる姿を横目に見たとき、体の内側が不意に強く熱を帯びた。突如生まれた衝動の赴くままに行動したら、きっと自分は取り返しのつかない行動をとってしまうだろうと理解していた。
それは、主の望むことではない。まして、惣領の刀であり、主を導くと決めた『物』がとるべき行動ではない。
贔屓されたいと願うのは、物であるなら避けられないものだと、鶴丸も三日月も口にしてはいた。けれど、
(その優しさが、良からぬ方向へ働かぬように……だよね。三日月宗近、君の言うとおりだ)
自分の特別扱いを望むだけならいい。要望を口にするのも、許容範囲の内だろう。ただ、そのために他人や主を傷つけるのは許されない愚行だ。
弟を見習った方がいいかもしれないと、髭切は苦笑する。彼は、兄への献身的な思いを、自分の中で上手く整理をつけているようだから。
「弟に、プリンを作ってほしいって頼まないと」
ひとまず己の気持ちをぎゅっと押し込めて、髭切は席を立とうとする。だが、彼は立ち上がりかけたまま、静止せざるをえなくなってしまった。
「……主?」
何故なら、寝ているはずの主の手が、しっかりと髭切の服の袖を掴んでいたからだ。閉じていた目は薄ら開き、目蓋の隙間からは藤色の瞳がちらりと見える。
「主、無理に起きなくても――」
「お、とう、さん……行っちゃ、やだ……」
「え?」
寝言だろうか、と髭切は首を傾げる。その間にも、彼女の唇は確かに声を漏らしていた。
「おかあ、さんが……待ってる……よ。一緒に、いこ……」
「僕は、主の父君じゃないよ」
そっと藤の指を引き剥がし、髭切は彼女の腕を布団の中に戻す。気が付けば、藤の瞳は再び閉ざされ、ううんと寝言を呟きつつ、寝返りを打ってしまった。
「そんな、もういない者じゃなくて」
僕を、頼ってほしい。
そこまで口にしかけて、髭切は何を言っているんだと内心で自嘲する。
主が、今は亡い家族に対して深い思慕を抱いているのは、共に里帰りをして知っている。それなのに、主の気持ちを踏みにじる言葉を、自分は口にしかけたのだ。
――完全に人でない存在になってしまったら、人の心が分からなくなる。そうして、いつか大事にしたいものまで壊してしまいそうだ。
以前、本丸に来ていた狐の姿をしていた半神の言葉が、不意に髭切の頭に蘇り、彼は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
自分はまだ人の心を知る『物』だと主張するかのように。
***
膝丸が作るプリンは、お菓子作りが得意な小豆が作るもよりは少々形が悪い。しかし、その分甘みが強い。
小豆は、どんな者の舌にも合うように用意するが、膝丸はプリンを強請る本人――即ち、藤の好みに合わせて作るからだと、食べる本人は推測していた。
一時間ほどの軽い睡眠をとった後、藤は布団から上体を起こして、プリンをもぐもぐと食べていた。歌仙が見たら行儀が悪いと言うだろうが、生憎彼は夕餉作りに奔走していて、今は厨にいる。
「そういえば、これを持ってきたとき、膝丸と一緒に髭切もいたけど、まだ僕のことを気に掛けているのかな」
膝丸曰く、兄が後ろでうろうろしていて、プリンを作っているときも落ち着かなかったと愚痴をこぼしていた。もっとも、当の本人は、素知らぬ顔で配膳のお供をしている始末だ。
「そんなに僕は頼りなく見えるかな。確かに、髭切に頼らないと分からないことも多いけれど、同じくらい自分で解決できるように努力してるつもりなんだけどな」
邪険に扱うのも気の毒だが、自由に羽を伸ばす時間の大切さを彼に知ってもらう必要もありそうだと、藤は考える。その間にも手は休むことなく、甘いプリンを口へと運んでいた。
皿の上に載せられていたそれを完食し終えて、ようやく気だるさや頭痛も引いた頃かと思ったときだった。
「あるじ、すこしよいだろうか」
コンコンと、襖の柱をノックする音。
どうぞ、と返事をすると、小豆長光が部屋に入ってきた。彼の手には、皆が共同で使っている、大きな板状の端末があった。
「小豆、どうしたの」
「せいふのたんとうかんから、れんらくがあったのだ。いま、でられるだろうか」
「うん。いいよ」
電話越しであると承知していても、藤は寝癖を手ぐしで簡単に整え、ぴしゃぴしゃと頬を張る。何事も形から入るのが肝心だ。
「もしもし、藤です」
「ああ、審神者様。ご無沙汰しています、担当官の富塚です。今はお休み中だと刀剣男士の方から伺っておりましたが、お体の具合はいかがでしょうか」
「そんなに大したものじゃありません。ちょっと、夏バテしちゃったみたいです」
本丸の皆には、手入れの際に起きる体の不調は教えていたが、さすがに担当官の富塚には、この件については打ち明け切れていない。
手入れをすると、力を使い過ぎて体調を崩しやすい、といった程度のぼやけた言い回しで誤魔化していた。
「無理はしないでくださいね。審神者様が倒れてしまいますと、上司だけではなく、あなたのお父さまにまで怒られてしまうので」
口調こそ畏まったものではあるが、富塚はわざと明るい語調で藤に話しかけていた。なるべく深刻に受け取らないように、気を遣ってくれているのだろう。
富塚は、藤の養父の後輩にあたる人であるとは、初対面の頃に聞いていた。この度の引きこもり騒動の概要も養父には伝わっていたようで、時間差でいくつか娘の身を案じる手紙も送られてきている。
返事は書いたものの、未だに遠くにいる一人娘が心配なのだろうとは、藤も薄々想像がついていた。
「それで、僕に連絡って何でしょうか」
本題に移るように藤が持ちかけると、小さな咳払いの後に富塚の声が返ってきた。
「今日は折り入って相談がありまして。実は、審神者様に研修の講師を頼みたいんだ」
「……僕が、研修?」
「研修の、講師の方だね」
二度言われても、依然として藤は耳にした単語を消化しきれていなかった。
「あの、僕はまだ、審神者として就任してようやく一年経ったばかりで、教えられることなんて何もないと思うのですが」
謙遜ではなく、心の底から藤はそのように考えていた。
加えて言うなら、就任期間の内、六ヶ月ほどは離れに閉じこもって悶々と頭を抱えながら暮らしていた期間となるのだから、審神者の仕事をしていた期間はもっと短い。
「私も、君を推薦してきた者にはそのように伝えたんだが、新人同士なら気も合うだろうからと、押し切られてしまったんだ。指導してもらいたい審神者様の方は、私の同僚の佐伯という者が担当をしているんだが、どうにも持て余し気味みたいでね」
「ああ、かのじょのことか」
「小豆、その人と知り合いなの?」
話を聞いていた小豆は、藤が閉じこもっていた間に本丸にやってきた担当官について、簡単に説明する。気の強そうな女性だったと、藤にはぼかした表現で話したものの、
(かのじょは、じぶんがただしいとおもったことを、まっすぐにつたえるじんぶつだったからな)
反りが合わない審神者の担当をしているのなら、相応の衝突も免れないだろうと、小豆は内心で苦笑いを浮かべていた。
「研修というからには、何かを教えるんですよね。でも、具体的に何を教えればいいんでしょう。それに、僕は二十歳になったばかりの若輩者です。年上の審神者様の場合、気分を害されるのではないでしょうか」
「年齢については、大丈夫だと思うよ。何せ、相手は今年でやっと十五歳だそうだからね」
その年齢の若さを聞いて、藤は思わず目を見開く。
藤自身、十九の誕生日を迎える年――即ち、高等学校を卒業してから審神者になったという点では、比較的若い部類にあたるだろうと客観的に自身を捉えていたが、それ以上に年若い審神者もいるものらしい。
「その審神者さんの名前は?」
「名前は……たしか、そう、菊理という名だったよ」
富塚が告げた名を耳にした瞬間、藤と小豆は揃って顔を見合わせた。
「この名前に、聞き覚えはあるだろうか」
「……あります。でも、彼女は」
彼女は、僕のことをあまり好いているようには見えませんでした。
そう言いたかったが、告げ口めいた発言は流石に気が引けてしまい、藤は言葉の途中で口を噤んだ。
「……それで、彼女は何を僕から学びたいのでしょうか。僕自身、審神者になる前に、一ヶ月ほど座学と実習を教えられただけなので、大した内容は話せないと思うんです」
「彼女に、鍛刀について指導してほしいと依頼主は要請していたようだ。こればかりは、言葉で教えるより勘で実施している者も多いそうだから、勿論君が難しいと思うなら断ってもらっても構わない」
言われて、藤は再び悩み始める。鍛刀に関してならば、彼女は確かに「やろう」と思い立った日には、すぐに成功していた。
それが当たり前だと思い込んでいたが、スミレは鍛刀を苦手としていると話していたのを聞いていたので、実際はそう簡単な物ではないらしい。
「審神者様も知っていると思うが……鍛刀は、この世界にいない何かに働きかけ、こちらに引き寄せる儀式の一つだと言われている。俗に〈神降ろし〉という単語が表現としては近いらしい。だからこそ、この世ではない者に強く働きかける力が求められるのだが、これだけは霊力の有無だけではどうにもならない、というのが通説だ」
富塚の話す内容は、藤も就任前に教えられた事項だった。
刀剣男士の本体である刀は、元々本丸で打たれたものではない。元となった刀の逸話から生じた付喪神の分け御霊を、資材という供物を捧げる形で呼び寄せている――という手順になっているらしい。
藤も最初は、あまりの非現実さに面食らったが、実際は「こっちに来てほしい」と願うだけであっさりと顕現できたので、この手のことで悩んだ試しは一度もなかった。
「いくら霊力豊富で多彩な術式を操れる審神者様でも、鍛刀についてだけは、こちらの世の道理が通じぬ世界に繋がるための波長が合わないと、上手くいかないのだそうだ」
「そういうものなんですね。……すみません、僕は鍛刀はいつも全部勘でやっているんですが、それでも本当に大丈夫でしょうか」
それに、と藤はおずおずと付け加える。
「僕は、最近鍛刀をしていないので……。以前は、数ヶ月に一度はしておくようにと指導を受けていたのですが」
「おや、そうだったのかい?」
驚いたような富塚の声に、どうやらあの指導は、こんのすけの――ひいては、管狐の裏で糸を引いている人間の私的な指示だったのだろうと、藤は確信した。
何故、そのような要望を出されたのかは、今となっては分からない。歌仙の一件以来、こんのすけは全く姿を見せなくなって久しかった。
「道理で、随分と早いペースで鍛刀をしていたんだね。ただ、そちらの本丸の住居では、今ぐらいの人数が丁度いいんじゃないだろうか」
富塚の指摘したことについては、事実だ。
この本丸の広さでは、刀剣男士の人数がこれ以上増えると、部屋数が足りなくなってしまう。その点は、藤の懸念事項の一つでもあった。
「仰る通り、多くて一人か二人だと思っています」
「それなら急がなくても構わないよ。必要な刀剣男士を見極めて、それに見合う資材を捧げるのも審神者様の役割なのだから」
富塚から、許しの言葉を得て、藤は内心でほっとする。
新しい刀剣男士が顕現したら、自身の持つ特徴や考え方について話をしなくてはならない。
しかし、角の話を新たな仲間に打ち明ける心の余裕を作るのには、もう少し時間が欲しいと藤は思っていた。
和泉守に、まだ主として認められていないという現状を踏まえても、新たな仲間が加わるには時期尚早と言えるだろう。
「研修について、日取りは追って説明するよ。無論、断るというのならそれでも構わないんだが」
「……引き受けさせてください。僕で何ができるか分かりませんが」
菊理という少女が、夏祭りのときに見せた危うい様子と、打って変わった取り澄ましたような態度。それに、彼女の帯にあった帯留めや、イチについて膝丸が話していた「名がない」と告げていたことなどが、ちらちらと頭の片隅をよぎる。
素知らぬふりをしても良いとは、百も承知している。人違いなら、それでもいい。
けれども、あの子供が自分のように仮面をつけたまま苦しんでいるのなら。
(……僕が助けたい、なんて言うのは傲慢なんだろうな。単に、僕は過去の自分を助けたいだけなんだろうから)
そんな心からの善行ではなかったとしても、助けられた側にとっては変わりないと、髭切には背中を押された。だから、今度もまた、と彼女は小さく頷く。
富塚と簡単な別れの挨拶を交わして通話を終えてから、藤は小豆の方をちらりと見やった。
「あの子のこと、小豆も少し気にしていたよね」
「ああ。……もちろん、あるじのいうとおり、かのじょがわたしにきにされたがるかは、わたしにはわからないが」
「うん。何か思う所があって、僕を指名したのは確かだろうから。その話だけでもできたらいいな」
単純に、先輩に相談をしたいというだけなら、それでいい。話を聞いてくれる友人がいなくて、自分に白羽の矢が立ったのなら、素直に応じたいとも思えた。
けれども、もしそれだけではないのなら。
彼女がこちらを睨みつけた理由が、今回の訪問に絡んでいるのなら。
「一筋縄じゃ、いかないかもなあ……」
こんなことなら、家庭教師の体験でもしておくべきだったかと、藤は天井を仰いだのだった。
***
藤が研修の講師に選ばれたという報告は、その日の夕餉の折に皆に知れ渡ることになった。
別に隠しておくつもりではないが、『先生』や『講師』という本来なら縁遠い呼称で呼ばれるのは、藤にとっては面はゆいものであり、結果として今日の夕餉はなかなか喉を通ってくれなかった。それでも、夕餉のおかずである鮎の塩焼きを二尾は平らげたのだから、どこが緊張しているんだかと歌仙には苦笑いされた。
お腹も十分満たされたところで、藤は自室に向かう。目を瞑ってでもたどり着けるほどに慣れ親しんだ廊下の先、本丸の奥にある自室の前に立ってから、
「……あの、髭切。いつまでついてくるの?」
「うん?」
藤は振り返り、呆れたような声で髭切に言う。
その本人は、何を指摘されているのか分からないという顔で、藤を見つめていた。
「夜は自由時間でしょ? 髭切は、自分のやりたいことをしていていいんだよ」
「僕のやりたいことは、主の側にいることだよ」
「僕はこれからちょっと電話するから、髭切に構ってあげられないんだけど」
言いながら、これではまるで子供をあしらう母親のような言い方だなと、藤は苦笑いする。
「それでもいいんだ。主の側に今はいたいんだけど、だめかな」
「それは、別にいいよ。でも、どうしたの。僕のことを四六時中気にしなくても、僕は大丈夫だよ。隠し事もしていないし、辛い気持ちになってもいない」
「うん、分かってる。そういう主を、僕が近くで見ていたいだけなんだ」
幸せそうな主の姿を近くで見ていたら、自分の中に生まれたもやもやとした気持ちも消える――とまでは直接言わなかったものの、髭切の考えを言葉として表すなら、そのようになっただろう。
自分が良からぬ考えに取り憑かれる前に、主が何を望んでいるかを、主の側にいることでよりはっきりと把握する。
それが、現時点で髭切の導き出した答えだった。
「まあ、髭切がいいなら、自由にしていいと思うけど」
返事をしつつ、藤は自室に入る。開けっぱなしになっていた窓からは、夜の少し冷えた夏の空気が滑り込んでカーテンを揺らしていた。網戸越しには、光に寄せられていくつかの虫が、ひらひらと舞っているのが見える。
「こういうのを見てると、夏の風物詩って感じがするよね」
「そうだねえ。それで、主はどこに電話するの?」
「ん、とね。煉さんの所に」
髭切は必死に記憶の棚を漁り、その名は以前、藤が世話になった先輩の審神者の名だと思い出した。
「今度、研修の講師をするって話になったでしょ。煉さんなら、何かいい知恵を貸してくれるんじゃないかって頼んだら、電話かけてくれていいって」
「ふーん、そうなんだ」
髭切は適当な相槌を打ちながら、卓袱台の前に座る藤の斜め後ろに腰を下ろす。そうすると、端末の画面も藤の背中もよく見えた。
彼女が通話の準備を始めているのを見つめながら、髭切は再びもやもやとした気持ちが生まれていくのを感じる。
(主がこんなに近くにいて、主の側に控えている刀剣男士は僕だけなのに、僕は何を気にしているんだろうね)
贔屓されているかどうかと考えれば、現状はもっとも物として優遇されていると言ってもいい。それにも関わらず、言い知れない不愉快な感情が、彼の中を行きつ戻りつしていた。
そうこうしている間にも、通話の準備が整い、宙空に表示された画面に一人の青年が映し出される。向こうも自室にいたようで、彼の後ろには三日月宗近が控えていた。
「夜分遅くにすみません。少し聞きたいことがありまして」
「メールでもあったが、研修の件だろう? しかし、随分と突然だな」
「ええ。僕も未だにちょっと、実感がなくて。僕より年下の、同性の審神者だから、まだよかったといいますか」
「だからこそ、かもしれないな。なかなか、同性の同年代で気心の知れた仲になる審神者を見つけるのは難しいんだ」
まして、刀剣男士は男性である以上、女性ならではの話はしづらい。
そのため、女性の審神者が同性の知り合いを見つけたら、なるべく繋がりを保とうとするのは不思議ではないと、煉は語る。
そのまま、藤と煉は研修についての話に移っていった。彼が団体で受けたことのある研修について説明し、藤は役に立ちそうな話の詳細を聞き出しては、メモをとっている。
そんな彼女の様子を、髭切は何を言うでもなくじっと見守っていた。
人間同士でしか分からない話題があるようで、髭切にはさっぱり見当もつかない内容で、藤は時々笑い、時々懐かしそうに目を細めた。
(……ああ、何だかやっぱり変だ)
主の望みは、研修とやらで自分の後輩を教え導く立派な存在になることだろうとは、真剣なやり取りからも想像できる。
鍛刀について、手入れについて、本丸の運営について。
演練で見知らぬ相手に嫌がらせをされたときの対処法、時々開かれる大規模演習の概要、本丸に迷い込む幽霊の類がいたらどうすればいいか、といったことまで。
髭切としても、主が優秀な指導者になるのは喜ばしいと感じている。
なのに、心が――痛い。
藤が声をあげて笑う度に、自分の口の端から笑みが消えていく。主がこんなにも充実した日々を送っているのに、心が痛むのは何故なのか。
(主。こっちを向いて)
思わず、声が出そうになる。
無論、喉の奥に自分の要望は押さえ込み――しかし、とん、と誰かに背中を押されたように、押し込めたはずの衝動が再び湧き上がっていく。
(こっちを向いて、置いていかないで、僕はもっと)
頭の隅で、自分ではない誰かが、何かに縋ろうとして泣いている姿がよぎっていく。
一緒に行こう、一人にしないで、待っている人もいるのにどうして来てくれないの。
得体の知れない何かの気配がじんわりと広がり、さざ波だっていた気持ちを大きく揺さぶる。
髭切は、このどうしようもない衝動を抑えるため、必死に拳を握りしめていた。
自分の後ろで髭切が耐え忍んでいるとも知らず、藤は煉との対話を楽しんでいた。
彼は年こそ藤より上ではあったが、こちらを気遣いながら話を合わせてくれるので、藤も気負わずに団欒を続けることができた。
「煉さんは、いつから審神者をしていたんですか?」
「俺は高校に入学するか、それとも審神者になるかって訊かれて、こっちを選んだんだ」
「主がまだ二十歳になる前は、それはそれはもう、酷く子供じみていてなあ」
後ろに座っている三日月が挟んだ言葉のせいで、落ち着き払った大人の顔をしていた煉の顔が歪み、年相応の青さが覗いた表情を見せる。
苦々しい顔で三日月を小突いた彼は、咳払いと共に仕切り直そうとするものの、
「大抵のことは一人でできると言い張って、やたらにこにこと大人びた態度をとったと思っていたら、仮面一枚剥がせば俺たちに翻弄されるただの童であったというわけだ」
「あのなあ、三日月!! お前達が、無理をせず何でも相談して、好きなように振る舞えって言ったんじゃないか!」
「うむ、これを人は『遅すぎる反抗期』と表現するそうだな。いや、何も悪いことではないぞ」
悪いことではないが、煉にとっては恥ずかしい内容だったらしい。
彼は三日月をどうにか画面外へ追いやろうと肘で押しのけようと奮闘したが、体格のいい彼は頑として居座り続けていた。
「年の割に、こやつは随分と大人しい子供であったからな。今も、なかなか素直に甘えようとはせん。そのせいで、友人も少ないのだ。だから藤殿、また暇なときは話をしてやってくれ」
年下の自分に対して、まるで十にもならない子供の相手を促すような三日月の言い方に、藤はどういった返事をすればいいか悩み、とりあえず笑顔を返した。
煉も観念したようで、長々とため息を吐いて諦めの様子を見せていた。
「三日月の言うことは話半分に聞いておいてくれ。ともあれ、また分からないことがあったらいつでも相談にはのる」
そうして簡単な別れの挨拶を告げつつ、藤は通話の終了ボタンを押す。
最後の最後まで「子供の頃に、甘えん坊は卒業したって言っただろう」などと三日月と言い合う声が、スピーカー越しにも聞こえていた。
「僕も、もう何年かしたら、あんな感じで落ち着いて話しているときに、髭切に混ぜっ返されたりするのかなあ。ねえ、髭切。……髭切?」
振り返った藤は、髭切が俯いたまま動かない様子に首を傾げる。軽く肩に手をかけ、揺さぶると、
「うわっ!?」
不意に、腕をしっかりと捕まえられ、藤は驚愕の声を漏らす。ここまで勢いよく触れられたのは、髭切が真剣にこちらと向き合おうとしたのに、自分が逃げようとしたときだけのはずだ。
「どうしたの?」
まさか、ずっとお喋りしている間、待たされていることが不愉快だったのだろうか。
恐る恐る顔を近づけると、突然彼は首を上に向けたため、正面を向いた髭切の瞳と目が合ってしまった。
その眼差しを見つめて、藤は思わず小さく息を飲む。
「……髭切、だよね?」
自分でも何を言っているのかと、藤自身も思う。
だが、普段から大人びた様子を見せ、つかみ所のない振る舞いをとっている彼には似つかわしくない必死さが、今目にしている髭切の瞳に宿っていた。
まるで、子供が親に必死にしがみつこうとするかのような、あどけなさも交えた真摯な心。振りほどくことも憚られるような視線に、藤が戸惑っていると、
「わっ」
がくりと、髭切の上体が傾ぎ、彼に半ばのしかかられるような姿勢になる。
辛うじて倒れるような有様にはならなかったが、突如力を抜いてもたれかかられて、藤は目を丸くしていた。
もしや、具合が悪いのかと心配になりかけたとき、
「……もっと、一緒にいたいのに、どうして行っちゃうの?」
耳元で聞こえた声に、藤はどきりとする。
それは、髭切が自分に甘えたようなことを言ったから――ではない。
直感が、これは彼の言葉とは何か違うと藤に訴えている。髭切の口を借りて、勝手に誰かが話しているような違和感がここにはある、と。
同時に、今日の昼、手入れをしている最中にうたた寝した折、夢に見た光景を藤は思い出す。
母に縋る、誰とも知らない子供の夢。甘えたくて仕方が無い盛りの子供が、父を求めて不安がる後ろ姿が、今の髭切と重なって見えた。
「髭切、しっかりして。目を覚まして」
軽く彼の背を叩くと、服越しに彼の体がびくりと揺れたのが分かる。
続けて、藤の体にかかっていた彼の重みが剥がれていき、まるで夢から覚めたような顔で、髭切は藤を見つめていた。
「……ごめん、少しうとうとしていたみたい。何かあったの?」
「いや、それは」
先程の妙な様子について話そうかと悩み、藤は一旦その件は棚に上げることにした。自分でも何が起きたのか、正直整理ができていないからだ。
昼間の夢がただの作り話のものなのか、それとも何かを暗示しているのかすらも、はっきりとしない。単に、髭切が寝ぼけていた可能性だって十分にあり得る。
「眠いのなら、寝ておいた方がいいよ。畑当番で疲れているんじゃない?」
「そうだね。主の部屋で横になるのも邪魔になるだろうから、自室に戻るよ」
適当な誤魔化しを、髭切は信じてくれたらしい。素直に立ち上がり、彼は藤に就寝の挨拶をしてから、部屋を後にする。
残された藤は、暫く部屋の中心に座ったまま、先程起きた出来事について考えていた。
「髭切に限って、あんなことを言うとは思えないし、それに昼間見た夢に似ているような気がする」
ならば、この本丸に――あるいは髭切個人に、何か起きているのだろうか。順当に考えればそのはずだ、と藤は考えを進めていく。
「さっき、煉さんも本丸に幽霊が忍び込む話とかしていたから、その手の類の何か……だったりして」
丁度、季節は夏だ。お盆も先日過ぎた頃ではあるものの、怪談噺には事欠かない時期である。背筋に寒いものを覚えて、藤はぶるりと震えた
そんなことを考え始めると、些細な家鳴りや遠くで聞こえる話し声も恐ろしく感じてしまう。座っているのも何だか落ち着かなくて、藤が思わず立ち上がったときだった。
――たったった
畳を駆ける、小さな足音。
部屋を通り過ぎていくそれに、藤は一瞬聞き間違いではないかと、引き攣った笑みを浮かべる。
だが、開け放たれた襖へと近づいた足音は、そのままぎしぎしと廊下の板を軋ませながら去って行く。
(……もし、また髭切に何かするつもりなら、それは流石に許せない)
慌てて目に見えない何かの後を追いかけると、板の軋みは髭切の部屋を通り過ぎて、更に奥へと向かった。
数部屋分の襖を行き過ぎてから、足音はぴたりと止む。足音が止まった部屋の襖は開いたままになっており、丁度夕涼みをしている住人の姿がよく見えた。
「……小豆?」
部屋の主――小豆長光が、突如顔を覗かせた藤を前に、少しばかり驚いたような顔をしてみせていた。
「どうしたのだ、あるじ。わたしにようじだろうか」
「えっと、さっきこの部屋に、誰か来なかった?」
まさか、足音だけ響くような怪奇現象が起きなかったかとは問いづらい。藤の言葉を聞き、しかし小豆はゆっくりと首を横に振る。
「……いいや、だれもきていないぞ」
「そう、なんだ。ごめん、変なこと言って。邪魔したね」
ぺこっと頭を下げてから、藤は部屋から立ち去る。
彼女が背を向けた小豆の部屋、その片隅にある花瓶に、見慣れない小さな金笹の簪が新たに挿されているとは、藤は気が付かなかった。