本編第三部(完結済み)
待ち合わせの高台に向かう途中、先を行く主より少し後ろを歩きながら、小豆は先程のやり取りや言葉を振り返っていた。
顕現して早数ヶ月。小さな子供たちを喜ばせたいという気持ちは、顕現した当初から当然のように持っているものであり、後から知ったところでは、それは社会において当然の道徳と見做されている感情のようだった。
ならば、この時代において、子供たちは幸せな時間を享受しているのだろうと漠然と思っていたが、実際はそうでもないという現実を直視してしまった。
だからといって、感情的に行動するような真似はしない。小豆にとって、自分の立場はあくまで藤の刀剣男士であるからだ。
(せめて、わたしをたよるこどもたちのてを、わたしはまよわずにとってあげたい)
全ては守れなくても、自分を頼る者の手は取ろう。自分の近くで泣いている子供には、駆けよってあげよう。
小豆がそのように決めたとき、まるで彼の決意に応じるかのように、小豆の双眸は一人の小さな影を捉えた。
人だかりから少し外れた場所に立つ、不安げに辺りを見渡す少年。先だってのように、刀剣男士とはぐれた迷子だろうか。
「あるじ、すまないがさきにいっていてもらえるか」
目的地の高台はすぐ側だ。向かい側からは、髭切と膝丸の姿も確認している。護衛の任から少し外れても問題あるまい。
「どうしたの?」
「たいしたことではない。わたしもすぐにむかう。髭切、あるじをたのむ!」
髭切に藤の護衛を託してから、小豆は人混みをかき分けて狼狽えている少年の元へと向かう。背が高い小豆は、難なく彼の元に辿り着くことができた。
小豆は少年を驚かせないように慎重に近づき、
「こんばんは」
少し屈んで目線を合わせながら、少年に向かい合う。すると、彼は突如声をかけられたためか、びくりと肩を跳ねさせてから、小豆に向き直った。
「え、ええと……あの」
提灯飾りの下、少年の容姿がゆっくりと露わになる。癖の多い紫紺の髪に、提灯の輝きと同じくらい鮮やかな金色の瞳が特徴的な、十歳ぐらいの子供だった。浴衣は無地の紺色であり、年の割には少し大人びた佇まいをしている。
「こわがらなくてもいい。わたしは、きみのみかたなのだから。なにか、こまっていることがあるのかい?」
できるだけ声の速度を落として、小豆は少年を見つめながら問う。その仕草を見て、少年も落ち着いたようだった。何度か深呼吸を挟んでから、彼はじーっと小豆を凝視する。
相手が信用できるかを慎重に探るような瞳は、しかし小豆の姿を頭の天辺からつま先まで確認し終えるや否や、微かな歓喜をよぎらせた。
「も、もしかして……だけど」
まるでずっと探し続けていた何かをようやく見つけ出したかのように、彼の顔が喜色に染まり、
「あなたが、僕のお父さん?」
彼は無邪気さを露わにした声で、小豆へと尋ねる。
「いや、わたしは……」
しかし、この言葉には流石の小豆も素直には頷けなかった。
何をどう勘違いしたのか、少年は自分を父と思っている様だとは理解する。だが、無論小豆にとっては初耳の内容であり、誰かの父親になった覚えなどない。
「やっぱりそうだ! お母さんがずっと言ってたんだ。きっと一目見れば、お父さんだって分かるよって!」
しかし、小豆の狼狽など無視して、少年は無邪気に笑いかける。星のように輝く彼の金の瞳を前にすると、違うと否定するのも憚られてしまった。
「お母さんも、お父さんに会いたがってたんだよ。どうして会いに来てくれないの?」
「もうしわけないのだが、わたしはきみのちちおやではなく」
「お父さんに会ったら、やりたいことがいっぱいあったんだ! ねえ、もうお父さんは、どこかに行ったりしないよね?」
小豆の中にある刀剣男士としての理性は、妙なことを口にする子供の目を覚まさせてやるべきだと訴えている。
しかし、彼の心の柔らかな部分――優しさと表せる部分は、少年の純真無垢な期待への裏切りに抵抗を覚えていた。
「お母さんは、僕がお父さんによく似ているって言っていたんだ。お父さんの目から見たらどうかな?」
促され、小豆長光は改めて少年を見つめる。落ち着きがない態度ばかり見せていたが、彼の瞳の奥には微かに大人びた気配もあった。
年不相応に背伸びをしていたが、父親を見つけて、ようやく相応の笑顔を浮かべるようになったのだろう。そのような経緯が透けて見えるからこそ、小豆は彼を拒みかねていた。
果たして、何と答えるべきだろうか。
彼が躊躇していたときだった。
「小豆ー、どこに行っちゃったのー。花火始まるよー」
自分を探す主の声に、小豆は慌てて立ち上がる。髭切と歌仙につれられて、きょろきょろと周りを確認しながらこちらに近づいてくる藤の姿はすぐに目に入った。
「あるじ、こちらだ! じつは、まいごになったこどもがいたんだ」
小豆の呼び声に気が付いたのだろう。藤たちは真っ直ぐに小豆の元へやってきた。
「小豆、さっき迷子がどうこうって聞こえたけど」
「ああ、こどもが」
「子供? どこに子供がいるんだい?」
歌仙に聞かれ、「すぐそこに」と足元を指さしかけて、小豆は目を丸くする。
彼の足元であれほど無邪気にはしゃいでいた少年はおらず、代わりにきらりと光るものが落ちていた。
拾い上げてみると、それはどうやら簪のようだった。笹を模した葉が飾りとなっており、振ると本物の葉が揺れたように涼やかな音を立てた。
(かれが、おとしたのだろうか)
ぐるりと周りを見渡してみるも、どれだけ目を凝らしても先程の少年は見つからない。
これ以上は、皆に迷惑をかけられないと、小豆は捜索を中断して藤たちに合流する方を優先した。
***
藤たちが合流場所に決めていた高台には、彼女の本丸の面々が勢揃いしていた。穴場とは聞いていたものの、実際は祭りの会場の外れにあるというだけで、今年は藤たち以外の利用者もちらほらといる。
既に何発か打ち上がった花火が、祭りで賑わう人々の上に七色の光を降らせている。初めて花火を見る刀剣男士たちは、興奮で目を丸くし、二度目となる者たちはいくらか落ち着いた様子を見せていた。その落ち着いた面々の内の一人である髭切に、藤はこっそりと近寄る。
「髭切、膝丸とはどうだった?」
気を遣って彼ら兄弟を二人きりにしたのだから、二人が楽しい時間を過ごせていてほしいと願いつつ藤は問う。ベンチに腰を下ろしていた髭切は、近づいた藤を見かけると、大層嬉しそうに微笑みかけた。
「弟と祭りを見て回るのって、わくわくするものなんだね。去年は、余所の弟に声をかけて、別の僕に怒られてしまったこともあったなあって、ちょっと思い出していたところだよ」
「あれ、そうだったの」
そういえば藤には話していなかったか、と髭切は思い返す。
違う本丸の膝丸に手を伸ばしかけ、別の髭切から凍りついた眼差しで見られた挙げ句に、威嚇めいた言葉を吐きかけられてから、もう一年経つ。
「髭切も、弟が取られたら怒りそうだものね」
「そうだねえ。それに主でも同じじゃないかな」
「僕も、自分の刀剣男士が持っていかれそうになったら、そりゃ怒るよ」
髭切は数度ぱちぱちと瞬きをしてから、適当な相槌を打った。
主を誰かが連れて行ってしまったら、髭切は怒る――という意味合いだったのだが、どうやら藤は違う意味で取ってしまったらしい。
訂正して場をぎこちなくさせても仕方なしと、髭切は本来の言いたかった内容については口にしなかった。
「ああ、そうだ。弟といえば面白いことがあってね」
髭切がくすくすと何やら楽しげに笑うのを見て、藤も身を乗り出す。彼が指さす先には、高台の隅で耳を両手で覆い、目を丸くしている膝丸の姿が見えた。
「何してるの、あれ」
「花火の試射をしていただろう? すっかり驚いてしまったみたいで、ずっと耳を塞いでいるんだ。和泉守や堀川は敵襲と勘違いして、ちょっと騒ぎになっていたんだよ」
花火の打ちあがる音は、彼らの耳には砲の発射音として聞こえていたらしい。そのせいで和泉守たちは、すわ敵襲かと身構えていたようだ。
「ねえ、主。主は小豆とどこに行っていたの?」
「僕はねえ。ええっと」
そこまで藤が話しかけたとき、
「やあやあ、二人とも! ようやく会えたな!」
鶴丸の声が、突如二人の間に割って入る。驚いて顔を向ければ、そこには夜でもよく見える白い髪の青年と、彼に抱かれている更紗がこちらに向かってやってきていた。
二人の様子を目にして、藤はぱっと表情を明るくする。
「更紗ちゃん! それに鶴丸さんも! 髭切、ちょっと行ってくるね」
素早くベンチから立ち上がり、藤は早足で鶴丸たちのもとに駆け寄る。その背中へと、髭切は手を伸ばしかけたが、当然藤が気付くわけもなかった。
「ねえ、主」
一年前、人混みに紛れる弟へと伸ばした手。
そして今、主へと伸ばした手。
どちらも届くことはなく、髭切の声は打ち上げられた花火によってかき消されてしまった。
互いの近況を軽く話し終えてから、藤はベンチに腰を下ろして更紗たちと花火観賞を楽しんでいた。
色とりどりの花火が、三人の顔の上に極彩色の光の花を、ぱっと咲かせては消えていく。去年も見たものではあったが、当時の藤の心中はどん底を彷徨っていたので、彼女は新鮮な気持ちで夏の風物詩を満喫していた。
今日の更紗は、鶴丸以外の供を連れていないようで、鶴丸はどこか疲れた様子で、屋台から買ってきた少し冷めた料理を食べている。子供のお守りを一人でするのは、それなりの負担だったのだろう。
更紗自身は相変わらずの無表情であったが、彼女の瞳の奥は花火に負けず劣らず光り輝いている。
暫く、花火が打ち上がる度にぱちぱちと手を叩き、花火見物に興じていた彼女は、不意に藤の方を向き直り、彼女の額付近をずいと指さした。
「更紗ちゃん?」
続けて、今度は自分の額を指し示す。それから、首を捻ってみせる。
彼女の仕草を見て、藤は更紗が何を言いたいかを察した。
「角をどうして隠しているのかって、訊きたいの?」
こくこくと頷く更紗に、藤はどう答えようかと考える。
角のことを打ち明けた日から、本丸の中で額の角は隠さずに過ごしている。だが、政府との仲介役をしている担当の富塚と会話するときや、近所に出かけるような場合は、欠かさずに布を巻いていた。
人は、自分たちとは違うものを奇異の目で見る。たとえ本丸の刀剣男士が認めてくれても、世界中が自分を『普通』として受け入れるわけではないと、藤も承知していた。だから、今日も彼女は無用な騒動を避けるために、角を隠す布を巻いて、ここにいる。
「悪い目立ち方をしても嫌だから、今日は見えないようにしているんだ」
更紗は残念そうに俯き、持ち歩いているメモに鉛筆を走らせた。
『きれいなのに』
「褒めてくれるのはすごく嬉しいよ。ありがとう。でも、皆が皆、綺麗だって思ってくれるわけじゃないだろうから。それもきっと大事な誰かの考えの一つだし、無理にそこにぶつかろうとも僕は思わない」
全ての人間に、自分の考えを理解して、賛同してもらうなどと言うのは、到底不可能だ。
誰かに押しつけるわけでもなく、かといって否定されるのを黙って受け入れるのでもない。程よく距離を置き、絶対に譲れない芯を抱えながら付き合いを深めていく。そういう形で世界と向き合う方法を、藤はようやく選ぶことができた。
『むりに ぶつからない ?』
「大事な人には分かってほしいって、考えはするけれどね。でも、僕と関係のない人が心穏やかに過ごしたいって思うのも嘘じゃない。それなら、僕をよく知らない人、関係を持つわけでもない人の気持ちを、いたずらに荒らすのは、僕の方が無作法者になるかなって」
こくりと更紗も頷く。更紗自身も、思う所はあるのだろう。
『だけど まわりが ほうってくれなかったら ?』
「その時は信頼できる人に助けてもらう。例えば」
「主なら俺だな」
不意に、隣で黙って話を聞いていた鶴丸が声をあげる。
「主が困ってるなら、俺は何でもする。昔からの約束なのさ」
「鶴丸さんは、更紗ちゃんの騎士さんだね」
「だろう? 大船に乗ったつもりで任せてほしいね」
鶴丸はわざとおどけたふりをして、藤と更紗に笑いを誘ってみせる。
藤は鶴丸の剽軽な仕草に笑みを零していたが、更紗はじーっと鶴丸を眺めていた。彼女の瞳の奥にどんな気持ちが潜んでいるのかは、生憎花火の光が隠してしまった。
「それじゃあ、藤殿なら誰に助けてもらうんだ?」
「そうだねえ。それなら」
「そういう話なら、僕が主を助けるよ」
不意に藤の背後から響いた声に、藤は「わっ」と驚きの声をあげて振り返る。声から予想はしていたが、そこには髭切が立っていた。
流れるような所作でひょいと藤の隣に腰掛け、髭切は自らこそ頼もしい味方だと言わんばかりに、藤に笑いかけてみせる。
「そ、それなら……髭切にお願いしようかな。でも、随分と熱烈な売り込みだね」
「そりゃあ、主の刀として負けていられないもの」
「もしかして、歌仙に対抗してるの? 僕はどっちも頼りになるって思ってるんだけど」
どちらがより頼りになるといった優劣をつけるのは、正直厳しい。それを言うなら、五虎退や物吉といった他の面々に対しても同じ内容が言える。
困ったときに、自分が素直に頼れる相手がこんなに増えるとは、昔の自分はまるで想像していなかっただろう。
(昔は何か困った出来事があったら、大体おじさんかおばさんに相談していたような……あれ、そうだったっけ)
自分を引き取った養父母は、鬼の件はさておくとしても、養い子に対して親切に接してくれた。学校生活の悩みは、二人に真っ先に相談した――その筈だ。
だが、途中から誰かに悩みを打ち明けようと思い至る場面が、ふつりと途切れる。一人で大抵のことをこなせるぐらい、順応していったからか。それとも。
(昔の話だから、忘れちゃったのかな)
今はそれよりも、目の前で瞳を輝かせ、期待を込めた眼差しを送っている髭切への返答が先だ。花火の光もあって、普段より金色の光を帯びて見える瞳は、自分からの確約を待っているに違いない。
「髭切のこともすっごく頼りにしてるよ。ありがとう」
彼に隠し事をするような真似は、もうするつもりはない。そんな気持ちを込めて、藤は髭切の手の上に自分の手を重ねる。
掌越しに、互いの熱が行き交っていく。ただそれだけのことを、髭切は満足そうな顔で受け入れていた。
「髭切は、随分と藤殿にちょっかいを出すんだな。惣領刀としては、主の一番は譲れないってところか?」
鶴丸が半ば茶化すような声音で、髭切に声をかける。対する髭切は、鶴丸の語調に反して、大真面目に考え込む素振りを見せていた。
「譲らないのは、欲張りかな?」
先日、三日月に指摘された内容を思い出して、髭切は逆に鶴丸へ問いかける。
鶴丸は意表を突かれたように、やや目を丸くして髭切を見つめ返した。二人の間に、一瞬の緊張が生まれる。
「……俺たちは物だからな。そういう欲張りな所も、ちょっとはあるんじゃないか?」
先に緊張の糸を解いたのは、鶴丸の方だった。彼はぱしぱしと髭切の肩を叩き、ちょっとした冗談を言い合うような雰囲気に戻していく。
「やっぱりそうなんだね。そんなわけだから、主、これからも僕を贔屓してくれると嬉しいな」
「頼りにしているって言ったのに、それじゃ不満?」
まるで、じゃれついてくる子犬のような態度に、藤は思わず苦笑する。その見た目もあって、髭切のことをついつい成熟した大人と思いがちだが、存外子供のような一面も彼の中に隠れているらしい。
「不満ってわけじゃあないけどね。ねえ、主は」
「おお、兄者。こんな所にいたのか。君もいたのなら、話が早い」
髭切の言葉を遮るように聞こえてきたのは、膝丸の声だ。ようやく花火には慣れたようで、もう耳は塞いでいなかった。
俺たちはこれで、と言い残して去る鶴丸たちに、簡単な別れの挨拶を述べてから、藤は膝丸に向き直る。
「僕に何か用かな、膝丸」
「ああ。先日万屋で会った、イチという者がいただろう。実は、彼女から、君に帯留めと髪飾りのお礼がしたいと言われてな」
「え、彼女も来てたんだ。それなら、会いたかったな」
そこまで口にしてから、ふと藤はここに来る前に出会った、菊理と名乗った審神者を思い出す。
少し前に、イチが姉への贈り物として買った帯留めを、彼女は浴衣の帯につけていた。
無論、提灯灯りの下で一瞬見ただけなので、必ず同じとは言えない。だが、年齢はイチとは大して変わらないように見えたので、ひょっとしたらという気持ちもあった。
(だから、何かするってわけじゃないけれど……。あれから、上手く仲直りできたのかな)
偶然とはいえ、知り合ってしまった以上は無視もしづらい。次に会ったときは、状況を見てそれとなく聞いてみてもいいかもしれないと、藤は一旦考えを保留する。
「それで、彼女の様子はどうだった?」
「護衛として、刀剣男士と行動と共にしていたが、息災のようだったぞ。それと、君へのお礼の品を預かっている」
膝丸は藤の手の上に、小さな包みを置く。すかさず藤が中を覗くと、そこには薄い桜色の玉にワイヤーを幾重にも絡めたストラップがあった。
携帯端末につけられるように細い紐がついている様子から察するに、膝丸と違って現代機器を持ち歩く藤に合わせて用意したのだろう。
「いいのかな、こんなに綺麗なものを貰っちゃって。僕、別に大したことしてないのに」
「本人が良いと言ったのだから、気にする必要はあるまい」
「お礼の手紙でも出そうかな。膝丸、彼女から連絡先とかは聞いてない?」
「実は、それなのだが」
膝丸は、鬼丸国綱が去り際に口にしていた「彼女には名がない」という発言を、藤にも伝える。
何かの隠喩かと彼から尋ねられても、藤にも現代風の言い回しも含めて、そんな隠喩はないはずだとしか言えなかった。
「一応、僕の方でも富塚さんに訊いてみるよ」
一旦、この件については結論を出し、藤はストラップを携帯端末につける。以前、裏山で髭切から貰った鉄の欠片と加えて、二つ目の飾りがゆらゆらと揺れていた。
満足げにそれらを眺めていると、くいっと浴衣の裾が引っ張られた感じがした。首を横に向けると、隣で座っていた髭切が、藤の浴衣の裾を片手でベンチに抑えている。
まるで、こっちとも話をしようと言わんばかりに。
「髭切?」
問いかけても、彼はふいっと今度は視線を逸らしてしまう。さながら、気紛れな猫のようだ。
(髭切、実は思った以上に構われたがるタイプなのかな)
別に、膝丸が邪魔をしたわけでもあるまいし、本丸に戻れば毎日顔を合わす関係だ。それとも夏祭りを見回っている間に何かあったのだろうか。
ともあれ、上手く口にできないことがあるのなら、それとなく話題を振るのも主の役目だろう。花火から髭切へと視線を戻し、藤は浴衣の裾を抑えたままの髭切の手に、自分の手を載せる。
これには、流石の髭切もすぐに振り向いてくれた。
「どうしたの、主」
「どうしたはこっちの台詞だよ。今日はやけにちょっかいを出してくるなあって思ったんだけど、何かあったの?」
「別に何もないよ。ただ、君と離れている間も、ついつい君のことを考えてしまっているなあって気が付いたんだ。ここ数ヶ月ずっとそうしていたから、癖になっているのかなあ」
「……その節は、大変お世話になりました」
離れに閉じこもってから半年近く、髭切は主が何故閉じこもったのかを拙い経験から推測しようと頑張ってくれていた。
藤も経緯については承知しているが故に、彼にその話題を出されると、申し訳なさで少し胃が痛む思いがした。
「すぐには難しいかもしれないけれど、もう僕のことで頭をいっぱいにしていなくても大丈夫だから。たまには、自分の好きなことだけ考えていてもいいよ」
気楽に行こう、と藤は軽く髭切の背を叩いてから、終幕を飾るために何発も打ち上げられた金の花火に歓声をあげる。
空から降り注ぐ金色の光を浴びて、文字通り輝く横顔を見つめ、髭切はぽつりと呟く。
「……僕には、やっぱり少し難しいな」
どれだけ頑張ってみても、彼女の笑顔が髭切の中から消えることはなかった。
***
どんな祭りにも、始まりがあれば終わりがある。
この夏最高の思い出を象徴するかのような金の花火が夜に溶けていくと、辺りはしーんと静まりかえった闇に包まれたようだった。
けれども、これで全てが終わったわけではない。家に帰るまでが遠足という言葉通り、小豆は食べた料理の片付けを済ませ、仲間がはぐれていないことを確認していく。
「五虎退、乱、物吉、堀川。きょうはたのしめただろうか」
「は、はい。色々ありましたけど、すっごく楽しかったです!」
「去年以上に、今年は盛り上がりましたね! おかげで、お祭りの中から沢山の幸せを貰いました!」
去年、祭りを体験していた五虎退と物吉は、以前の祭りと比べて今年の盛り上がりはそれ以上だったと確信していた。
対する堀川と乱は、今年が初体験ということもあってか、先輩たち以上に興奮がまだ顔の端に残っていた。
「こんなに楽しいなら、毎日祭りがあればいいのに」
「確かに、何度でも行きたくなるよね。でも、僕は兼さんが大はしゃぎしちゃうから、一年に一度でいいかな」
唇を尖らせる乱を、堀川は堀川なりのやり方で慰める。
「皆、気をつけて階段は降りるんだよ。去年、主が落ちかけたからね」
「ちょっと、その話は出さないでよ!」
歌仙が少年たちに呼びかけ、揃って「はーい」という声が返ってくる。不服そうな声は、主のもので間違いないだろう。
念のため、先を行く子供たちの後ろをそれとなく注意しながら、小豆は歩いて行く。響く足音は、それぞれの特徴があって耳を傾ければ誰がどの足音か分かるような気がした。
自分の前をいく軽快な音は乱。少し甲高く石畳を打つのは、堀川の下駄の音。物吉の足音は静かに擦るようで、五虎退のものは不規則で、やや乱れている。それに、自分の周りを跳ね回るような下駄の音は――
「うん?」
目の前を歩く子供たちの頭は四つ分。だが、今確かに、小豆の耳は五つ目の足音を拾い上げた。
思わず、階段の途中で振り返る。しかし、そこには誰もいない。もう一度耳を傾けてみても、先ほどの賑やかな足音は聞こえない。
「……きのせい、だろうか」
首を傾げる彼の浴衣の帯には、金笹の簪が揺れていた。
顕現して早数ヶ月。小さな子供たちを喜ばせたいという気持ちは、顕現した当初から当然のように持っているものであり、後から知ったところでは、それは社会において当然の道徳と見做されている感情のようだった。
ならば、この時代において、子供たちは幸せな時間を享受しているのだろうと漠然と思っていたが、実際はそうでもないという現実を直視してしまった。
だからといって、感情的に行動するような真似はしない。小豆にとって、自分の立場はあくまで藤の刀剣男士であるからだ。
(せめて、わたしをたよるこどもたちのてを、わたしはまよわずにとってあげたい)
全ては守れなくても、自分を頼る者の手は取ろう。自分の近くで泣いている子供には、駆けよってあげよう。
小豆がそのように決めたとき、まるで彼の決意に応じるかのように、小豆の双眸は一人の小さな影を捉えた。
人だかりから少し外れた場所に立つ、不安げに辺りを見渡す少年。先だってのように、刀剣男士とはぐれた迷子だろうか。
「あるじ、すまないがさきにいっていてもらえるか」
目的地の高台はすぐ側だ。向かい側からは、髭切と膝丸の姿も確認している。護衛の任から少し外れても問題あるまい。
「どうしたの?」
「たいしたことではない。わたしもすぐにむかう。髭切、あるじをたのむ!」
髭切に藤の護衛を託してから、小豆は人混みをかき分けて狼狽えている少年の元へと向かう。背が高い小豆は、難なく彼の元に辿り着くことができた。
小豆は少年を驚かせないように慎重に近づき、
「こんばんは」
少し屈んで目線を合わせながら、少年に向かい合う。すると、彼は突如声をかけられたためか、びくりと肩を跳ねさせてから、小豆に向き直った。
「え、ええと……あの」
提灯飾りの下、少年の容姿がゆっくりと露わになる。癖の多い紫紺の髪に、提灯の輝きと同じくらい鮮やかな金色の瞳が特徴的な、十歳ぐらいの子供だった。浴衣は無地の紺色であり、年の割には少し大人びた佇まいをしている。
「こわがらなくてもいい。わたしは、きみのみかたなのだから。なにか、こまっていることがあるのかい?」
できるだけ声の速度を落として、小豆は少年を見つめながら問う。その仕草を見て、少年も落ち着いたようだった。何度か深呼吸を挟んでから、彼はじーっと小豆を凝視する。
相手が信用できるかを慎重に探るような瞳は、しかし小豆の姿を頭の天辺からつま先まで確認し終えるや否や、微かな歓喜をよぎらせた。
「も、もしかして……だけど」
まるでずっと探し続けていた何かをようやく見つけ出したかのように、彼の顔が喜色に染まり、
「あなたが、僕のお父さん?」
彼は無邪気さを露わにした声で、小豆へと尋ねる。
「いや、わたしは……」
しかし、この言葉には流石の小豆も素直には頷けなかった。
何をどう勘違いしたのか、少年は自分を父と思っている様だとは理解する。だが、無論小豆にとっては初耳の内容であり、誰かの父親になった覚えなどない。
「やっぱりそうだ! お母さんがずっと言ってたんだ。きっと一目見れば、お父さんだって分かるよって!」
しかし、小豆の狼狽など無視して、少年は無邪気に笑いかける。星のように輝く彼の金の瞳を前にすると、違うと否定するのも憚られてしまった。
「お母さんも、お父さんに会いたがってたんだよ。どうして会いに来てくれないの?」
「もうしわけないのだが、わたしはきみのちちおやではなく」
「お父さんに会ったら、やりたいことがいっぱいあったんだ! ねえ、もうお父さんは、どこかに行ったりしないよね?」
小豆の中にある刀剣男士としての理性は、妙なことを口にする子供の目を覚まさせてやるべきだと訴えている。
しかし、彼の心の柔らかな部分――優しさと表せる部分は、少年の純真無垢な期待への裏切りに抵抗を覚えていた。
「お母さんは、僕がお父さんによく似ているって言っていたんだ。お父さんの目から見たらどうかな?」
促され、小豆長光は改めて少年を見つめる。落ち着きがない態度ばかり見せていたが、彼の瞳の奥には微かに大人びた気配もあった。
年不相応に背伸びをしていたが、父親を見つけて、ようやく相応の笑顔を浮かべるようになったのだろう。そのような経緯が透けて見えるからこそ、小豆は彼を拒みかねていた。
果たして、何と答えるべきだろうか。
彼が躊躇していたときだった。
「小豆ー、どこに行っちゃったのー。花火始まるよー」
自分を探す主の声に、小豆は慌てて立ち上がる。髭切と歌仙につれられて、きょろきょろと周りを確認しながらこちらに近づいてくる藤の姿はすぐに目に入った。
「あるじ、こちらだ! じつは、まいごになったこどもがいたんだ」
小豆の呼び声に気が付いたのだろう。藤たちは真っ直ぐに小豆の元へやってきた。
「小豆、さっき迷子がどうこうって聞こえたけど」
「ああ、こどもが」
「子供? どこに子供がいるんだい?」
歌仙に聞かれ、「すぐそこに」と足元を指さしかけて、小豆は目を丸くする。
彼の足元であれほど無邪気にはしゃいでいた少年はおらず、代わりにきらりと光るものが落ちていた。
拾い上げてみると、それはどうやら簪のようだった。笹を模した葉が飾りとなっており、振ると本物の葉が揺れたように涼やかな音を立てた。
(かれが、おとしたのだろうか)
ぐるりと周りを見渡してみるも、どれだけ目を凝らしても先程の少年は見つからない。
これ以上は、皆に迷惑をかけられないと、小豆は捜索を中断して藤たちに合流する方を優先した。
***
藤たちが合流場所に決めていた高台には、彼女の本丸の面々が勢揃いしていた。穴場とは聞いていたものの、実際は祭りの会場の外れにあるというだけで、今年は藤たち以外の利用者もちらほらといる。
既に何発か打ち上がった花火が、祭りで賑わう人々の上に七色の光を降らせている。初めて花火を見る刀剣男士たちは、興奮で目を丸くし、二度目となる者たちはいくらか落ち着いた様子を見せていた。その落ち着いた面々の内の一人である髭切に、藤はこっそりと近寄る。
「髭切、膝丸とはどうだった?」
気を遣って彼ら兄弟を二人きりにしたのだから、二人が楽しい時間を過ごせていてほしいと願いつつ藤は問う。ベンチに腰を下ろしていた髭切は、近づいた藤を見かけると、大層嬉しそうに微笑みかけた。
「弟と祭りを見て回るのって、わくわくするものなんだね。去年は、余所の弟に声をかけて、別の僕に怒られてしまったこともあったなあって、ちょっと思い出していたところだよ」
「あれ、そうだったの」
そういえば藤には話していなかったか、と髭切は思い返す。
違う本丸の膝丸に手を伸ばしかけ、別の髭切から凍りついた眼差しで見られた挙げ句に、威嚇めいた言葉を吐きかけられてから、もう一年経つ。
「髭切も、弟が取られたら怒りそうだものね」
「そうだねえ。それに主でも同じじゃないかな」
「僕も、自分の刀剣男士が持っていかれそうになったら、そりゃ怒るよ」
髭切は数度ぱちぱちと瞬きをしてから、適当な相槌を打った。
主を誰かが連れて行ってしまったら、髭切は怒る――という意味合いだったのだが、どうやら藤は違う意味で取ってしまったらしい。
訂正して場をぎこちなくさせても仕方なしと、髭切は本来の言いたかった内容については口にしなかった。
「ああ、そうだ。弟といえば面白いことがあってね」
髭切がくすくすと何やら楽しげに笑うのを見て、藤も身を乗り出す。彼が指さす先には、高台の隅で耳を両手で覆い、目を丸くしている膝丸の姿が見えた。
「何してるの、あれ」
「花火の試射をしていただろう? すっかり驚いてしまったみたいで、ずっと耳を塞いでいるんだ。和泉守や堀川は敵襲と勘違いして、ちょっと騒ぎになっていたんだよ」
花火の打ちあがる音は、彼らの耳には砲の発射音として聞こえていたらしい。そのせいで和泉守たちは、すわ敵襲かと身構えていたようだ。
「ねえ、主。主は小豆とどこに行っていたの?」
「僕はねえ。ええっと」
そこまで藤が話しかけたとき、
「やあやあ、二人とも! ようやく会えたな!」
鶴丸の声が、突如二人の間に割って入る。驚いて顔を向ければ、そこには夜でもよく見える白い髪の青年と、彼に抱かれている更紗がこちらに向かってやってきていた。
二人の様子を目にして、藤はぱっと表情を明るくする。
「更紗ちゃん! それに鶴丸さんも! 髭切、ちょっと行ってくるね」
素早くベンチから立ち上がり、藤は早足で鶴丸たちのもとに駆け寄る。その背中へと、髭切は手を伸ばしかけたが、当然藤が気付くわけもなかった。
「ねえ、主」
一年前、人混みに紛れる弟へと伸ばした手。
そして今、主へと伸ばした手。
どちらも届くことはなく、髭切の声は打ち上げられた花火によってかき消されてしまった。
互いの近況を軽く話し終えてから、藤はベンチに腰を下ろして更紗たちと花火観賞を楽しんでいた。
色とりどりの花火が、三人の顔の上に極彩色の光の花を、ぱっと咲かせては消えていく。去年も見たものではあったが、当時の藤の心中はどん底を彷徨っていたので、彼女は新鮮な気持ちで夏の風物詩を満喫していた。
今日の更紗は、鶴丸以外の供を連れていないようで、鶴丸はどこか疲れた様子で、屋台から買ってきた少し冷めた料理を食べている。子供のお守りを一人でするのは、それなりの負担だったのだろう。
更紗自身は相変わらずの無表情であったが、彼女の瞳の奥は花火に負けず劣らず光り輝いている。
暫く、花火が打ち上がる度にぱちぱちと手を叩き、花火見物に興じていた彼女は、不意に藤の方を向き直り、彼女の額付近をずいと指さした。
「更紗ちゃん?」
続けて、今度は自分の額を指し示す。それから、首を捻ってみせる。
彼女の仕草を見て、藤は更紗が何を言いたいかを察した。
「角をどうして隠しているのかって、訊きたいの?」
こくこくと頷く更紗に、藤はどう答えようかと考える。
角のことを打ち明けた日から、本丸の中で額の角は隠さずに過ごしている。だが、政府との仲介役をしている担当の富塚と会話するときや、近所に出かけるような場合は、欠かさずに布を巻いていた。
人は、自分たちとは違うものを奇異の目で見る。たとえ本丸の刀剣男士が認めてくれても、世界中が自分を『普通』として受け入れるわけではないと、藤も承知していた。だから、今日も彼女は無用な騒動を避けるために、角を隠す布を巻いて、ここにいる。
「悪い目立ち方をしても嫌だから、今日は見えないようにしているんだ」
更紗は残念そうに俯き、持ち歩いているメモに鉛筆を走らせた。
『きれいなのに』
「褒めてくれるのはすごく嬉しいよ。ありがとう。でも、皆が皆、綺麗だって思ってくれるわけじゃないだろうから。それもきっと大事な誰かの考えの一つだし、無理にそこにぶつかろうとも僕は思わない」
全ての人間に、自分の考えを理解して、賛同してもらうなどと言うのは、到底不可能だ。
誰かに押しつけるわけでもなく、かといって否定されるのを黙って受け入れるのでもない。程よく距離を置き、絶対に譲れない芯を抱えながら付き合いを深めていく。そういう形で世界と向き合う方法を、藤はようやく選ぶことができた。
『むりに ぶつからない ?』
「大事な人には分かってほしいって、考えはするけれどね。でも、僕と関係のない人が心穏やかに過ごしたいって思うのも嘘じゃない。それなら、僕をよく知らない人、関係を持つわけでもない人の気持ちを、いたずらに荒らすのは、僕の方が無作法者になるかなって」
こくりと更紗も頷く。更紗自身も、思う所はあるのだろう。
『だけど まわりが ほうってくれなかったら ?』
「その時は信頼できる人に助けてもらう。例えば」
「主なら俺だな」
不意に、隣で黙って話を聞いていた鶴丸が声をあげる。
「主が困ってるなら、俺は何でもする。昔からの約束なのさ」
「鶴丸さんは、更紗ちゃんの騎士さんだね」
「だろう? 大船に乗ったつもりで任せてほしいね」
鶴丸はわざとおどけたふりをして、藤と更紗に笑いを誘ってみせる。
藤は鶴丸の剽軽な仕草に笑みを零していたが、更紗はじーっと鶴丸を眺めていた。彼女の瞳の奥にどんな気持ちが潜んでいるのかは、生憎花火の光が隠してしまった。
「それじゃあ、藤殿なら誰に助けてもらうんだ?」
「そうだねえ。それなら」
「そういう話なら、僕が主を助けるよ」
不意に藤の背後から響いた声に、藤は「わっ」と驚きの声をあげて振り返る。声から予想はしていたが、そこには髭切が立っていた。
流れるような所作でひょいと藤の隣に腰掛け、髭切は自らこそ頼もしい味方だと言わんばかりに、藤に笑いかけてみせる。
「そ、それなら……髭切にお願いしようかな。でも、随分と熱烈な売り込みだね」
「そりゃあ、主の刀として負けていられないもの」
「もしかして、歌仙に対抗してるの? 僕はどっちも頼りになるって思ってるんだけど」
どちらがより頼りになるといった優劣をつけるのは、正直厳しい。それを言うなら、五虎退や物吉といった他の面々に対しても同じ内容が言える。
困ったときに、自分が素直に頼れる相手がこんなに増えるとは、昔の自分はまるで想像していなかっただろう。
(昔は何か困った出来事があったら、大体おじさんかおばさんに相談していたような……あれ、そうだったっけ)
自分を引き取った養父母は、鬼の件はさておくとしても、養い子に対して親切に接してくれた。学校生活の悩みは、二人に真っ先に相談した――その筈だ。
だが、途中から誰かに悩みを打ち明けようと思い至る場面が、ふつりと途切れる。一人で大抵のことをこなせるぐらい、順応していったからか。それとも。
(昔の話だから、忘れちゃったのかな)
今はそれよりも、目の前で瞳を輝かせ、期待を込めた眼差しを送っている髭切への返答が先だ。花火の光もあって、普段より金色の光を帯びて見える瞳は、自分からの確約を待っているに違いない。
「髭切のこともすっごく頼りにしてるよ。ありがとう」
彼に隠し事をするような真似は、もうするつもりはない。そんな気持ちを込めて、藤は髭切の手の上に自分の手を重ねる。
掌越しに、互いの熱が行き交っていく。ただそれだけのことを、髭切は満足そうな顔で受け入れていた。
「髭切は、随分と藤殿にちょっかいを出すんだな。惣領刀としては、主の一番は譲れないってところか?」
鶴丸が半ば茶化すような声音で、髭切に声をかける。対する髭切は、鶴丸の語調に反して、大真面目に考え込む素振りを見せていた。
「譲らないのは、欲張りかな?」
先日、三日月に指摘された内容を思い出して、髭切は逆に鶴丸へ問いかける。
鶴丸は意表を突かれたように、やや目を丸くして髭切を見つめ返した。二人の間に、一瞬の緊張が生まれる。
「……俺たちは物だからな。そういう欲張りな所も、ちょっとはあるんじゃないか?」
先に緊張の糸を解いたのは、鶴丸の方だった。彼はぱしぱしと髭切の肩を叩き、ちょっとした冗談を言い合うような雰囲気に戻していく。
「やっぱりそうなんだね。そんなわけだから、主、これからも僕を贔屓してくれると嬉しいな」
「頼りにしているって言ったのに、それじゃ不満?」
まるで、じゃれついてくる子犬のような態度に、藤は思わず苦笑する。その見た目もあって、髭切のことをついつい成熟した大人と思いがちだが、存外子供のような一面も彼の中に隠れているらしい。
「不満ってわけじゃあないけどね。ねえ、主は」
「おお、兄者。こんな所にいたのか。君もいたのなら、話が早い」
髭切の言葉を遮るように聞こえてきたのは、膝丸の声だ。ようやく花火には慣れたようで、もう耳は塞いでいなかった。
俺たちはこれで、と言い残して去る鶴丸たちに、簡単な別れの挨拶を述べてから、藤は膝丸に向き直る。
「僕に何か用かな、膝丸」
「ああ。先日万屋で会った、イチという者がいただろう。実は、彼女から、君に帯留めと髪飾りのお礼がしたいと言われてな」
「え、彼女も来てたんだ。それなら、会いたかったな」
そこまで口にしてから、ふと藤はここに来る前に出会った、菊理と名乗った審神者を思い出す。
少し前に、イチが姉への贈り物として買った帯留めを、彼女は浴衣の帯につけていた。
無論、提灯灯りの下で一瞬見ただけなので、必ず同じとは言えない。だが、年齢はイチとは大して変わらないように見えたので、ひょっとしたらという気持ちもあった。
(だから、何かするってわけじゃないけれど……。あれから、上手く仲直りできたのかな)
偶然とはいえ、知り合ってしまった以上は無視もしづらい。次に会ったときは、状況を見てそれとなく聞いてみてもいいかもしれないと、藤は一旦考えを保留する。
「それで、彼女の様子はどうだった?」
「護衛として、刀剣男士と行動と共にしていたが、息災のようだったぞ。それと、君へのお礼の品を預かっている」
膝丸は藤の手の上に、小さな包みを置く。すかさず藤が中を覗くと、そこには薄い桜色の玉にワイヤーを幾重にも絡めたストラップがあった。
携帯端末につけられるように細い紐がついている様子から察するに、膝丸と違って現代機器を持ち歩く藤に合わせて用意したのだろう。
「いいのかな、こんなに綺麗なものを貰っちゃって。僕、別に大したことしてないのに」
「本人が良いと言ったのだから、気にする必要はあるまい」
「お礼の手紙でも出そうかな。膝丸、彼女から連絡先とかは聞いてない?」
「実は、それなのだが」
膝丸は、鬼丸国綱が去り際に口にしていた「彼女には名がない」という発言を、藤にも伝える。
何かの隠喩かと彼から尋ねられても、藤にも現代風の言い回しも含めて、そんな隠喩はないはずだとしか言えなかった。
「一応、僕の方でも富塚さんに訊いてみるよ」
一旦、この件については結論を出し、藤はストラップを携帯端末につける。以前、裏山で髭切から貰った鉄の欠片と加えて、二つ目の飾りがゆらゆらと揺れていた。
満足げにそれらを眺めていると、くいっと浴衣の裾が引っ張られた感じがした。首を横に向けると、隣で座っていた髭切が、藤の浴衣の裾を片手でベンチに抑えている。
まるで、こっちとも話をしようと言わんばかりに。
「髭切?」
問いかけても、彼はふいっと今度は視線を逸らしてしまう。さながら、気紛れな猫のようだ。
(髭切、実は思った以上に構われたがるタイプなのかな)
別に、膝丸が邪魔をしたわけでもあるまいし、本丸に戻れば毎日顔を合わす関係だ。それとも夏祭りを見回っている間に何かあったのだろうか。
ともあれ、上手く口にできないことがあるのなら、それとなく話題を振るのも主の役目だろう。花火から髭切へと視線を戻し、藤は浴衣の裾を抑えたままの髭切の手に、自分の手を載せる。
これには、流石の髭切もすぐに振り向いてくれた。
「どうしたの、主」
「どうしたはこっちの台詞だよ。今日はやけにちょっかいを出してくるなあって思ったんだけど、何かあったの?」
「別に何もないよ。ただ、君と離れている間も、ついつい君のことを考えてしまっているなあって気が付いたんだ。ここ数ヶ月ずっとそうしていたから、癖になっているのかなあ」
「……その節は、大変お世話になりました」
離れに閉じこもってから半年近く、髭切は主が何故閉じこもったのかを拙い経験から推測しようと頑張ってくれていた。
藤も経緯については承知しているが故に、彼にその話題を出されると、申し訳なさで少し胃が痛む思いがした。
「すぐには難しいかもしれないけれど、もう僕のことで頭をいっぱいにしていなくても大丈夫だから。たまには、自分の好きなことだけ考えていてもいいよ」
気楽に行こう、と藤は軽く髭切の背を叩いてから、終幕を飾るために何発も打ち上げられた金の花火に歓声をあげる。
空から降り注ぐ金色の光を浴びて、文字通り輝く横顔を見つめ、髭切はぽつりと呟く。
「……僕には、やっぱり少し難しいな」
どれだけ頑張ってみても、彼女の笑顔が髭切の中から消えることはなかった。
***
どんな祭りにも、始まりがあれば終わりがある。
この夏最高の思い出を象徴するかのような金の花火が夜に溶けていくと、辺りはしーんと静まりかえった闇に包まれたようだった。
けれども、これで全てが終わったわけではない。家に帰るまでが遠足という言葉通り、小豆は食べた料理の片付けを済ませ、仲間がはぐれていないことを確認していく。
「五虎退、乱、物吉、堀川。きょうはたのしめただろうか」
「は、はい。色々ありましたけど、すっごく楽しかったです!」
「去年以上に、今年は盛り上がりましたね! おかげで、お祭りの中から沢山の幸せを貰いました!」
去年、祭りを体験していた五虎退と物吉は、以前の祭りと比べて今年の盛り上がりはそれ以上だったと確信していた。
対する堀川と乱は、今年が初体験ということもあってか、先輩たち以上に興奮がまだ顔の端に残っていた。
「こんなに楽しいなら、毎日祭りがあればいいのに」
「確かに、何度でも行きたくなるよね。でも、僕は兼さんが大はしゃぎしちゃうから、一年に一度でいいかな」
唇を尖らせる乱を、堀川は堀川なりのやり方で慰める。
「皆、気をつけて階段は降りるんだよ。去年、主が落ちかけたからね」
「ちょっと、その話は出さないでよ!」
歌仙が少年たちに呼びかけ、揃って「はーい」という声が返ってくる。不服そうな声は、主のもので間違いないだろう。
念のため、先を行く子供たちの後ろをそれとなく注意しながら、小豆は歩いて行く。響く足音は、それぞれの特徴があって耳を傾ければ誰がどの足音か分かるような気がした。
自分の前をいく軽快な音は乱。少し甲高く石畳を打つのは、堀川の下駄の音。物吉の足音は静かに擦るようで、五虎退のものは不規則で、やや乱れている。それに、自分の周りを跳ね回るような下駄の音は――
「うん?」
目の前を歩く子供たちの頭は四つ分。だが、今確かに、小豆の耳は五つ目の足音を拾い上げた。
思わず、階段の途中で振り返る。しかし、そこには誰もいない。もう一度耳を傾けてみても、先ほどの賑やかな足音は聞こえない。
「……きのせい、だろうか」
首を傾げる彼の浴衣の帯には、金笹の簪が揺れていた。