本編第三部(完結済み)
髭切と膝丸、それに小豆と藤の四人組もまた、縁日に紛れて一夜の非日常を謳歌していた。
先を行くのは主の藤だ。閉じこもっていた間に伸びた朝焼け色の髪は、乱の手によって一つに結い上げられていた。
本当はもっと豪華に結いたかったとは彼の談だが、あまり大袈裟にすることは藤自身が望まなかったのである。
先日、呉服屋で買った薄紫の浴衣を着た彼女の後ろを、背の高い三人がぞろぞろと並んでいく。
その姿は思わず笑い出したくなるような、どこかおかしさを交えた光景でもあった。
(膝丸の問題も、解決したみたいでよかった)
藤は縁日で人数分の綿飴を購入しつつ、横目で兄弟の様子をそっと窺う。
髭切と膝丸の関係については最大の懸念事項ではあったが、万屋に行った翌日から、二人の間にあったぎこちなさが薄まったことに藤は気が付いていた。
無論、髭切も弟に構ってばかりはいられないようで、時折は忙しくて手が離せないからと距離を置く場面もあった。
そんなとき、膝丸は決まって何か言いたそうな顔をしている。しかし、あまり我が儘を口にしてはいけないと、己の気持ちを適度に宥めているようだった。
いきなり遠くにはいけない。だが、突然突き放されても苦しい。膝丸は、どうやらその微妙な間(あわい)を行きつ戻りつしているようだ。
「はい、二人の綿飴。甘くて美味しいよ」
髭切と膝丸に綿飴を差し出すと、膝丸は昨年の髭切によく似た顔で驚きを見せた。口に含み、更に益々目を丸くしている。
彼の隣で、髭切は縁日に来た時から見せていた笑顔を、より一層深く浮かべている。これは、髭切が上機嫌である証拠とみて間違いないだろう。
「あるじ、こちらはどうだろうか」
「たこ焼き! うん、欲しい!」
小豆が差し出したたこ焼きを早速一口食べ、藤は顔中に笑みを広げる。
去年来たときは色々と考えることが多くてろくに味も感じられなかったが、今は素直に夏祭りを思い切り楽しめていた。
(夏祭りには……あまり良い思い出がなかったけど、でも今日を楽しい日にしたら、僕はきっと夏祭りをもっと好きになれそうだ)
藤にとって、以前の夏祭りで目にした光景は今でも胸に消えない傷跡を残している。
学生時代の淡い初恋が破れ去った日。それが祭りの当日であったために、その日から少し祭りが苦手になった。
特に、祭りで仲良く過ごしている恋人の姿を直視すると、その場から逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
けれども、今は仲間がいる。
あの日の初恋相手はいなくても、隣に自分を受け入れてくれた刀剣男士がいる。それだけで、藤の傷はゆっくりと癒えていくようだった。
「主は本当によく食べるよね。はい、こっちは要る? 僕も前に食べたんだけど、とっても美味しかったよ」
「焼きとうもろこし! 僕も好き!!」
髭切に差し出された、焦げ目のついた香ばしいトウモロコシに、藤は喜び勇んで齧り付いた。藤の真似をして、隣の膝丸もおっかなびっくり自分の分を口につけ、これで良いのかと目で尋ねている。
よく食べるよね、と呆れたような素振りを見せつつも、実際は髭切の方が主よりも嬉しそうに顔を綻ばせていた。ひな鳥に餌をやる親鳥のように、あれこれと買い与え、同行している小豆に嗜められるほどである。
「あるじは、やたいのごはんがだいすきのようだな。みていて、きもちがよくなるたべっぷりだ」
「うん。前は……その、色々あってちゃんと味わえてなかったから」
自分が苦手としている『夏祭りの恋人たち』の様子を目撃した上に、縁日の結界を抜けて迷子になって足を挫いたのだから、どれだけ厄が揃っているのだろうと我ながら嘆きたくなるほどだ。
藤の隣では、髭切がうんうんと我がことのように頷き、
「やっぱり、主は気分がそのまま食欲に出るんだよね。いっぱい食べているときは元気なとき。ちょっとしか食べてないときは、落ち込んでるときって感じで」
「胃袋で物を考えてるみたいな言い方しないでよ。事実では……あるけれど」
ストレスがたまると舌がダメになるらしい、とは藤も自覚していた。その点を踏まえると、今は絶好調と言えよう。
焼きとうもろこしから漂う、焦げた醤油独特の香ばしい匂いを口の中でも存分に味わい、歯で噛みつぶした粒から弾ける甘い汁を喉の奥に流し込む。まさに至福の瞬間だ。
「膝丸もちゃんと食べてる?」
「ああ。少し、慣れないものはあるが」
藤の言葉に対しても、膝丸は特に突っかかる様子もなく、答えてみせる。万屋に行った日から、彼から主に対する態度は軟化を見せていた。
「膝丸も小豆も、初めての縁日なんだから沢山食べて、沢山遊んでね」
「ああ。わたしはじゅうぶん、たのしませてもらっているぞ」
「俺はまだ楽しむ方法はよく分からぬが」
「じゃあ、弟。これはどうだい」
爪楊枝に刺されたたこ焼きが、不意に膝丸の口元に差し出される――というよりは、半ば押し込まれる。食べないわけにもいかず、膝丸は熱さの残るたこ焼きを、目を白黒させながら飲み込んだ。
微笑ましい兄弟のやりとりに、藤は目を細める。
自分に兄弟はいないが、家族とのやりとりとは、やはりこのように和やかなものであってほしいと望む気持ちはある。
二つ目のたこ焼きは落ち着いて味わえたようで、美味しいと感想を述べている膝丸の横顔はずっと明るい。
どうにか仕立てが間に合った、薄ら縞模様が入った紺の浴衣は、彼の薄緑の髪を綺麗に引き立てていた。
髭切も素直に弟との時間を楽しんでいるようだが、どういうわけか先ほどから、ちらちらとこちらに視線を送っている。
「髭切?」
たこ焼きを弟に与えながらも、ちらりと藤を見て、再び今度は弟に話しかける。そんな仕草を数度確認して、ふと藤はぴんとくるものを感じた。
静かに小豆の側に近寄り、ちょいちょいと彼の浴衣の裾を引く。
「ねえ、小豆。兄弟が仲良くしているのは、やっぱりいいよねえ」
「ああ、わたしもそうおもうぞ」
「だからさ、ちょっとの間だけ……あの二人を、二人きりにしてあげない?」
小豆は数度瞬きを繰り返してから、髭切と膝丸の様子を観察する。まだ屋台でのやり取りに慣れていない膝丸に、髭切は鯛焼きを買ってきて食べ方を教えていた。
口の周りに餡子をつけている弟に、声を殺して笑いかける髭切は実に楽しそうである。
あの二人が、つい先日までぎこちないやり取りを交わしていたことは小豆も知っている。だからこそ、できてしまっていた溝を今必死に埋めようと努力しているのだろうとも、容易に想像できた。
「兄弟水入らずの時間、今日ぐらいはあげてもいいかなって」
だから、先ほどから髭切は、無言で何度もこちらを見ているのではないか、と藤は考えていた。
本丸にいたら、否が応でも藤は髭切に頼る部分が出てくる。
膝丸だって兄を独占できないことは、先日の件で重々承知しているようではあるが、だったら尚更、家族の時間を作れるなら用意してあげたいと藤は思っていた。
小豆もこの意見には賛成のようで、大きく一度首肯する。
「そうだな。それなら、わたしはあるじのそばにいよう。あるじをひとりきりには、できないからな」
「うん。お願い」
藤は小豆の手を取ると、屋台の前で話している兄弟に呼びかける。
振り向いた髭切は、先ほど同様に物言いたげな視線を向けていた。彼の視線を受けて、やはり家族の時間を邪魔されたくないのだろうと藤は確信する。
「僕、小豆とそこら辺を見て回ってくるから、二人はゆっくり過ごしていていいよ。後で、高台で合流しよう」
「え、主。ちょっと、それは」
「大丈夫、もう迷子になったりはしないから! 小豆、行こう」
小豆と手を繋いだ藤は、空いた片手を二人に向けて振ってから、人混みの中に紛れ込んでしまった。
残された髭切は、側に立つ弟をちらと見てから、まずはゆっくり主へと手を振り返す。
「どうやら、気を遣わせてしまったようだな」
いくら顕現して日が浅いといえども、藤の行動がただの気紛れではないことぐらいは膝丸も察していた。
とはいえ、せっかく主がこうして兄弟の時間を用意してくれたのだ。ここはありがたく受け入れようと、膝丸は改めて髭切に向き直り、
「……兄者?」
髭切は、主の消えた雑踏をじっと見つめたまま、微動だにしていなかった。主に向けて振った手も、中途半端にあげたままになっている。
「何か気になる物でもあったのか」
軽く腕を掴むと、髭切は膝丸がようやく自分を見ていることに気が付いたような顔をしてみせた。
「ああ……いや、何でもないよ。そうだね。じゃあ、せっかくだから、僕らはゆっくり見て回ろうか」
膝丸は素直に頷いてみせたが、彼が新たな屋台を見つけて背を向けた隙に、髭切はもう一度藤が去って行った方向へと視線を送る。
誰もいないと、分かっているはずなのに。
***
もし、自分が迷子になったら何を感じるだろうか。
不安。混乱。焦燥。
きっとそんな感情が胸の中を渦巻いて、足が震えて動けなくなるだろう。焦って走りだして、益々皆から遠ざかってしまうかもしれない。だから、今は安心をさせるべきときだ。
そこまで考えた五虎退は、自分が拾ってきた迷子に対してはできる限り笑顔で接するよう努めた。
「い、今、乱兄さんと物吉さんが、お祭りの運営をしている人に、話をしに行きましたから……。ええと、これで、きっと大丈夫……です」
乱と物吉を夏祭りの運営を取り仕切っている詰め所へと送り出してから、五虎退は柘榴色の髪の娘と共に手近な喫茶スペースで休憩をとることを選んだ。
元々、外に向けてテラスとして開放している部分であったようで、そこなら座りながら外を一望しつつ、屋台の食べ物を食べるための机も確保できた。
机上には、次郎が持ってきてくれた焼きそばやお好み焼きなどの、屋台の名物が並んでいる。五虎退は冷めないうちにと手をつけ始めたが、少女は割り箸に触れようともしなかった。
彼女は、協力を買って出た五虎退に「お願いするわ」と言ってからは、ずっとだんまりを続けている。
「そういえば、アンタには色々と迷惑をかけたね。この前は本丸に手入れに来てもらったし、演練の時にはアタシたちの主がやらかしちまってるのを注意してもらったし」
「何よ。責めたいの?」
気楽な調子で話しかけた次郎へ、少女は棘のある返答をする。自分に向けられる言葉に対して、やけに強気な態度をとる姿は、主に教えてもらったハリネズミという生き物を彷彿させた。
「そういうわけじゃないさ。言っただろう? アンタには迷惑をかけたねって」
彼女の棘など意に介さず、次郎はからりと笑って言葉を続ける。
それが、次郎の持ち味だ。相手の態度に怯えず、笑顔のまま向き合う姿勢は五虎退には到底真似できない。
「別に……。迷惑かけられたなんて、思ってないわよ」
「おや、そうだったかい? 演練の時は、管理しているアンタに迷惑がかかる云々って聞こえた気がしたんだけどね」
「あれは」
「まあ、終わり良ければなんとやらってことかい? アンタが困ってないなら、何よりさ」
少女の目線が、いくらか横に泳ぐ。
迷惑がかからなかったから万事解決、というわけではなかったのだろうとは、その様子から察せられた。
だが、彼女は何も話さない。五虎退も次郎も、余所の本丸の審神者に根掘り葉掘り事情を聞けるほど、不躾な態度はとれない。
暫くの沈黙の後、次郎は笑顔と共に机の上に並べていたラムネを差し出した。
まずは一杯。
それが、次郎なりの社交術だ。
「ありがと」
少女はいくらか緊張を解いて、ラムネを手に取る。
真っ青の表面を暫く目を細めて見つめてから、彼女は夏の夜で火照った手でそっとラムネを包むように持った。
「あの、さ。刀の付喪である、あんた達に聞きたいんだけど」
「な、何でしょう?」
突然の問いに、五虎退はしゃんと背を伸ばした。
質問されているのは五虎退と次郎だが、回答次第では主の評判にも繋がると考えたからだ。
「刀にとって、その……こういう主って、どうなの」
随分と抽象的な質問に、次郎と五虎退は顔を見合わせる。
「こういうって、いうのは……?」
「だから、迷子になってるような、主とか……偉そうなのに、何もできない主、とか」
最後の方は殆ど掻き消えるような声だったが、二人はしっかりと聞き取っていた。
刀にとっての主についてなら、それこそ自分の刀剣男士に聞けばいいのではと思ったが、これは確かに素直に問える内容ではない。
藤なら、まず間違いなく心の中にしまい込んでしまうような問いだ。
「そ、それは……」
「アンタが、そういう主になりたくないって言うなら、そうならないようにすればいいだけじゃないかい?」
五虎退が何か言いかけるより先に、次郎は正面から少女を見据えて告げる。
「アタシはアンタの刀じゃないから、アンタがどういう主でいてほしいかって言える立場じゃない。でも、もしアタシの主が、何かになろうとして藻掻いているなら、アタシは全力で応援する」
彼の言葉に、五虎退は目を見開く。
次郎の激励は、目の前の少女に向けてだけの発言ではない。あの朝焼け色の髪を持つ、次郎の主である女性に向けてのものでもあった。
「たとえちょっとばかし迷子になったり、上手くいかないことがあったりしても、放っておきやしないさ」
次郎はニッと笑ってから、少女の頭に大きな手を載せる。弾みで、彼女の頭に結わえられた赤い簪の飾りが揺れた。
「……それなら、どうして」
そこまで彼女が呟きかけたときだ。
「あ、五虎退ー。次郎も! こんなところでどうしたの?」
聞き慣れた声が、次郎と五虎退の耳に響く。すぐさま、二人は顔を上げた。
彼らの視線の先、そこには両手に綿飴を持つ藤と、彼女の後ろに控える小豆長光が立っていた。
***
「兄者、これは何だ」
「これは、りんご飴だねえ。主から話は聞いていたけど、思った以上に大きいなあ」
「二つ、購入してもいいだろうか」
「もちろん。おーい、店主さん。二つお願いしていいかな」
屋台の店員からりんご飴を受け取り、髭切は膝丸へと差し出す。真っ赤につやつやと輝く果実に、膝丸はすっかり目を奪われていた。
嬉しそうな弟の横顔を眺めつつ、髭切は心の中で小さなため息を吐く。
弟と二人きりにしてあげよう、という主の気遣いそのものに不満は抱いていない。知らず知らずの間に、弟の気持ちを踏みにじっていたという罪悪感も、まだ残っている。
膝丸は普段は理知的で落ち着いているのに、兄のことに関すると自分を押さえ込みやすい部分があると、髭切も気が付いていた。丁度、藤が周りの人間に対して極端に遠慮をするのと同じように。
だから、あれから髭切も、弟の様子にはそれとなく注意するように気をつけていた。
そんな微妙に互いを気遣うような兄弟関係を、より円滑なものに変えてあげようと、藤が身を引いたのは分かる。
今だって、膝丸は素直に主の気遣いを受け取り、屋台のお菓子や料理に舌鼓を打ち、時に屋台の遊戯を興味深く眺めている。
(それは、いいことのはずなんだけどねえ)
弟も自分も、そこそこに楽しみ、祭りという非日常を満喫している。
そのはずなのに、と髭切はりんご飴にかぶりつきながら、もやもやとした胸の中の塊に意識を傾けた。
(主が側にいないと、落ち着かない……のかな)
何だかんだ言いながら、主が閉じこもって半年近く、彼女のことで悩まなかった日々はなかった。それが解消されて、逆に気持ちがそわそわしているのだろうか。
勿論、彼女に塞ぎ込んでほしいわけではない。花のように咲かせた笑顔を振りまきながら、日々を楽しそうに謳歌しているのを見守っているだけで、こちらも胸が弾むほどだ。
なのに、今は小さな曇りが消えてくれない。
藤が小豆の手をとり、人混みの中に去っていく姿を見た瞬間から、彼の中に生まれつつあった曇りは頑固な染みのようにこびりついて、離れてくれなくなっていた。
(あまり欲をかかない方がいい、だよね)
先日、三日月から受けた指摘を思い返す。
きっと、自分という刀は、刀として主に一番大切に扱われたがっているのだろう。髭切は自分の曇りに、一旦そのような結論を出す。
「兄者、こちらの冷たい氷菓子は食べるか?」
「かき氷だね。うん、貰おうかな。ああ、でもひとときに沢山食べてしまうと」
髭切の注意は少し遅かった。
口の中に広がる冷たさにすっかり気を良くした膝丸は、かき氷をさくさくと一気に口にしてしまった。そして、すぐにぎゅっと目を瞑って、しかめ面を浮かべる。きっと、あのキーンとする痛みを味わったのだろう。
「僕と同じ失敗をしているねえ」
「兄者も、このようなことをしていたのか?」
「去年の夏祭りにね。いやあ、懐かしいなあ」
些細な行動が、意外と自分と弟は似ているらしい。違う存在でも共通している部分はあるのだと、改めて確かめてから、髭切は自分のかき氷をゆっくりと口に含む。
ともあれ、今は心の中の曇りより、折角貰った弟との時間を満喫しようと決め、髭切はかき氷を食べ終えてから暫く屋台の遊戯を楽しんだ。
射的では使い慣れない銃という武器に、二人して首を傾げていた。
的当てでは、短刀の少年たちが好きそうなおもちゃが幾らか並べられており、兄に良いところを見せようと意気込んだ膝丸の玉が、的に突き刺さってしまった。
和やかな時間を十分に満喫して、そろそろ集合場所に向かう時間だろうかと思ったときだった。
「弟、誰か着いてきてないかい」
人混みを躱すように歩いている兄弟の足取りは、当然の流れとして蛇行したものになる。そんなうねうねとした足取りを辿るように、一人の人間の気配が追いかけてきていると髭切は察知していた。
「気配が漏れている様子から察するに、知り合いの類だろうか」
何か良からぬことを考えて追跡しているという割りには、隠れようとする素振りもない。ひょっとしたら、主の知人か誰かだろうかと、二人はわざと人が少ない道の端に寄って、足を止めた。
二人で息を合わせるまでもなく、同時に振り返り、そして兄弟はそれぞれ違う表情を浮かべる。
髭切は、きょとんとした戸惑いの顔。対して、膝丸は何かに気が付いたように、はっと目を見開いていた。
「君も来ていたのか」
「弟、知り合いかい?」
人混みから押し出されるようにして二人の目の前に姿を見せたのは、細い黒髪を一つに結い上げた少女だった。髭切にとっては赤の他人であるが、膝丸は彼女の顔に見覚えがあった。
「イチか?」
「あ……はい。そう、です」
走って追いかけてきたのか、彼女の息はすっかり上がっているようだった。
ただ、その頬の赤みは単に走ったからのものではなく、祭りに対する興奮もあるのではと髭切は思う。何故なら、藤が祭りに来た直後に見せた顔とよく似ていたからだ。
「この子、知っているの?」
「先日、俺と主が買い物に行ったとき、色々あって暫く行動を共にしていた。審神者の姉がいるらしい」
ふーん、と髭切は気のない返事をする。審神者の家族が万屋に来ることもあるのか、という程度の興味しか彼の中には湧かなかった。
「あの時はお世話になりました。藤様に選んでもらった帯の飾りも、無事に姉に渡せたと思います」
「そうか、それはよかった。俺の方も」
膝丸は一度髭切に目線をやってから、軽い咳払いを挟み、
「君のおかげで、兄者に俺が何を考えているかを伝えられた。感謝している」
髭切の知らない間に、どうやら膝丸は彼女から助言のようなものを受けたようだと、髭切は二人の会話から読み取る。てっきり主が弟の背中を押したのではと想像していたが、それだけではなかったらしい。
「今日は、藤様はいないのでしょうか」
「ああ。彼女は、別の場所で祭りを楽しんでいる。会場のどこかにいるかとは思うが」
「この中から見つけ出すのは、至難の業だろうね」
髭切も膝丸も意識をすれば主の大体の所在は掴めるが、目の前の子供にそれができるとは到底思えない。できたとしても、これだけの人混みをかき分けるのは容易ではあるまい。
「……そうですか」
「何か伝えたいことがあるなら、俺の方から言伝をしておくが」
おや、と髭切は少々意外そうに膝丸を見つめる。
主や政府の人間に対しては礼儀正しく接する彼ではあるが、ただ一度買い物に付き合っただけの人間に、ここまで親身に対応するのは髭切には普段とは違う振る舞いに思えた。
「実は、渡したい物があったのです」
「渡したい物?」
「はい。姉さんへの贈り物を選んでもらって、それに美味しい食べ物や飲み物をご馳走してくれました。私に、髪飾りまでくれました」
言いつつ、少女は髪に結ばれたリボン状の髪飾りを指さす。
どうやら、お人好しの藤は一度しか会ったことのない子供に贈り物までしたらしい。更紗や煉といった、見知った審神者に対してもお礼や贈り物を欠かさない彼女らしい行動だ。
(――あれ、どうしたんだろう)
恥ずかしげに俯きながら少女の髪に揺れる藤からの贈り物。それを見つめているだけで、不意に胸中の曇りがざわつく。
皆へのお土産や、無事を祈るためのお守りとは違う、友人としての特別な気持ちを込めたのであろう贈り物。
ただそれだけの品のはずなのに、いかなる理由か、髭切は拳を知らず握りしめていた。
自分が見ていない間に、藤が見知らぬ誰かと交流をしている。そうして、自分だけの世界を広げている。髭切の存在しない時間が、空間が、手の届かない所に生まれていく。
当たり前のことのはずなのに、何故かその事実が髭切の心を落ち着かないものへと変貌させていく。
「お礼の品を……渡したかったんです」
髭切のざわつきなどつゆ知らず、彼女は腕にぶら下げている巾着から、小さな紙袋を取り出す。二つの包みが、膝丸の大きな手の上に載せられた。
開けても良いかと膝丸が問うと、少女は片側の緑色の袋を指さして、そちらが膝丸の分だと教えてくれた。
「これは、随分と精緻な細工だな」
膝丸の手にあるのは、翡翠の玉をワイヤーが幾重にも取り囲んだ細工ものだった。根付けとして帯に挟めるように、重石に結わえてあるのも見て取れる。
藤の方も、恐らくは似たような細工が入っているのだろう。
「お守りの品だと、作ってくれた人が言っていました」
「そうか。これは、俺が預かって主に渡してもよいだろうか」
「はい。お願いします」
包みを丁寧に指の中にしまい込むように受け取り、自身の分を膝丸は早速帯に挟み、髭切へと見せた。涼やかな薄緑の石は、膝丸の髪によく合っていると髭切も頷き返す。
「そちらは、膝丸様の兄様ですか」
「弟が世話になったようだね。僕は髭切。よろしく」
簡単な名乗りをあげてから、髭切は軽く会釈をする。イチもつられるように、髭切にぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします。膝丸様は、髭切様のことを沢山知っていました。お兄さんに会えてよかったと、お兄さんの気持ちを知ることができてよかったと、私に話していました」
「へえ。それはまた、僕はそんな風に言われたことはなかったのになあ」
髭切がちらりと弟の方を見ると、彼は二人に背を向けて、ゲホゲホとわざとらしく咳を繰り返していた。
「ねえ、それは主からのものなんだよね」
髭切は、イチの髪を彩る薄緑のリボンを指さす。イチは頷いてから、静かに髭切を見つめる。だが、彼女の視線には微かな怯えが混じった。
イチが物の声を聞く才に長けていることを、髭切は当然知らない。
彼女が髭切の内にあるもやもやした曇りに気が付いているとは、髭切が知る由もない。そのため、彼はイチが見知らぬ人物と話すのが苦手なのだろうと解釈した。
「ごめんね、脅かしてしまったみたいだ。弟と仲良くしてくれてありがとう。それじゃあ」
そこで別れの挨拶を告げて、彼女から距離を置こうとしたときだった。
「おい、そこのお前ら。こいつと何をしている」
地の底から響くような深い声が、イチの背後から聞こえた。そこには、人混みをどうにか押しのけて姿を見せた、背の高い男が立っていた。
白金色の固そうな髪にヘアピンを何本か挟み、緋色の瞳を眼帯で隠している姿だけ見れば、一風変わった格好のただの人間にも見える。
だが、彼が纏う気配は、明らかに人のそれとは違う。濃紺の着流しに覆われた立派な体格からも、戦う者の風格が滲んでいる。
刀剣男士。
彼の正体を看破した瞬間、髭切は全身に微かな震えが走るのを感じた。
(僕は、彼を知っている……?)
自分がこの目で見た覚えはない。恐らくは刀としての縁があるのだろう。その縁を内側から辿り寄せ、髭切は眉を顰める。
髭切の中に刻まれ、目の前の男と繋がる物語。その中心には『鬼を斬った逸話』があった。
「彼女は俺たちの知り合いだ。貴様こそ何物だ」
髭切の代わりに、膝丸が鋭く誰何する。
「鬼丸国綱。この娘の保護者から、これの側にいるように言われた」
「審神者でもない彼女の護衛をしているというのか」
膝丸は、先日出会ったイチの保護者を思い出して、顔を顰める。あの男は、イチに対しても膝丸に対しても良い感情を見せていないようだった。
そんな人間から差し向けられた刀剣男士を前に、素直に友誼を結ぼうという気にはなれない。
「お前たちはこれから聞いたかも知れないが、これは人ならざる者の声を拾いやすい体質らしい。そのくせ、今日は審神者が年に一度集まる祭りだと聞いたら『行きたい』とおれの主にごねて、やむなくおれが付き添っているだけだ」
「君は確か……鬼が宿った器物を、人の手を借りずに勝手に動いて斬った逸話を持っているんだよね」
髭切は、絞り出すような低い声で目の前の彼に告げる。彼が思い出した縁を辿れば、目の前の刀剣男士の逸話に行き着くのは、そう難しくなかった。
「そんな君が近くに居るなら、なるほど、魔除けにはなるだろうね」
「お前たちでも、効果は変わらないだろうがな。おい、そこの薄緑の刀剣男士。おれに敵意を向けるのはやめろ。こんな所で一戦交えるつもりか」
「失礼。貴様個人に恨みがあるわけではないが、貴様の主はどうやら俺の目から見る限り人格者には見えなかったものでな」
「別の奴と勘違いをしていないか。おれは、主からお前に会ったといった話は聞いていないが」
しらばっくれるなと膝丸は言おうとしたが、視界の端でイチが小さく頷いているのを膝丸は捉える。鬼丸の言う通り、鬼丸の主と膝丸が警戒している『イチの保護者』は別人らしい。
「ともかく、用が済んだなら戻るぞ。あいつは年寄りのくせに落ち着きがない。おれの目が離れたら、どこで何をしているか、知れたものではない」
「はい、勝手にはぐれてすみませんでした」
イチは鬼丸にぺこりと頭を下げてから、名残惜しそうにこちらを見つめて、再びお辞儀をする。
恐らく、藤に会いたかったのだろうが、それが叶わなかったので残念に思っているのだろうと髭切も膝丸も推察する。
「それでは、また。どこかで」
「ああ。今度、主から文でも送らせよう」
「は、はい!」
イチはぱっと顔を輝かせると、頭を下げて人混みの中に消えていく。恐らく、鬼丸の主であり、保護者でもある者を見つけたのだろう。
「弟、文って言っていたけど、彼女の住んでいる場所を教えてもらっているのかい?」
「いいや。だが、審神者の姉を持つイチというあだ名の子供、と政府の者に訊けば分かるのではないか」
「さあ、どうだろう。秘密にしなきゃいけない義務もあるみたいだから、調べてくれるかなあ」
お人好しの担当官が、膝丸に詰め寄られて顔を青くしている図を想像して、髭切は苦笑いを浮かべる。
「ああ、そうだ。鬼丸とやら。君は、彼女の居場所を知っているのかい?」
護衛を任されるぐらいなら、その程度の情報を管理しているのではと髭切が問うと、
「知らないな」
大層つれない返事が返ってきた。続けて、
「そもそも、あれに文が届くわけがないだろ」
「何故だ」
「あれには、名がない」
鬼丸の言葉に、膝丸と髭切は目を瞬かせて、暫し思考を停止させる。
名前が違う、と言われれば、まだ膝丸は理解できた。
何せ『イチ』という呼び名は、名字をもじったあだ名であるのは、自己紹介をした折の様子から推察できたからだ。
だが、名がないというのはどういうことか。
「おれは、詳しい事情は把握していない。ともあれ余計な真似はするな。おれたちのような『物』が関わっても、どうしようもないことだ」
鬼丸は淡々と告げると、あとは好きにしろと言わんばかりに背を向けて雑踏の中へと消えていった。
残された髭切は柳眉を顰めて二人を見送り、膝丸は呆気にとられた顔で、人混みに紛れていく背中を眺めていた。
先を行くのは主の藤だ。閉じこもっていた間に伸びた朝焼け色の髪は、乱の手によって一つに結い上げられていた。
本当はもっと豪華に結いたかったとは彼の談だが、あまり大袈裟にすることは藤自身が望まなかったのである。
先日、呉服屋で買った薄紫の浴衣を着た彼女の後ろを、背の高い三人がぞろぞろと並んでいく。
その姿は思わず笑い出したくなるような、どこかおかしさを交えた光景でもあった。
(膝丸の問題も、解決したみたいでよかった)
藤は縁日で人数分の綿飴を購入しつつ、横目で兄弟の様子をそっと窺う。
髭切と膝丸の関係については最大の懸念事項ではあったが、万屋に行った翌日から、二人の間にあったぎこちなさが薄まったことに藤は気が付いていた。
無論、髭切も弟に構ってばかりはいられないようで、時折は忙しくて手が離せないからと距離を置く場面もあった。
そんなとき、膝丸は決まって何か言いたそうな顔をしている。しかし、あまり我が儘を口にしてはいけないと、己の気持ちを適度に宥めているようだった。
いきなり遠くにはいけない。だが、突然突き放されても苦しい。膝丸は、どうやらその微妙な間(あわい)を行きつ戻りつしているようだ。
「はい、二人の綿飴。甘くて美味しいよ」
髭切と膝丸に綿飴を差し出すと、膝丸は昨年の髭切によく似た顔で驚きを見せた。口に含み、更に益々目を丸くしている。
彼の隣で、髭切は縁日に来た時から見せていた笑顔を、より一層深く浮かべている。これは、髭切が上機嫌である証拠とみて間違いないだろう。
「あるじ、こちらはどうだろうか」
「たこ焼き! うん、欲しい!」
小豆が差し出したたこ焼きを早速一口食べ、藤は顔中に笑みを広げる。
去年来たときは色々と考えることが多くてろくに味も感じられなかったが、今は素直に夏祭りを思い切り楽しめていた。
(夏祭りには……あまり良い思い出がなかったけど、でも今日を楽しい日にしたら、僕はきっと夏祭りをもっと好きになれそうだ)
藤にとって、以前の夏祭りで目にした光景は今でも胸に消えない傷跡を残している。
学生時代の淡い初恋が破れ去った日。それが祭りの当日であったために、その日から少し祭りが苦手になった。
特に、祭りで仲良く過ごしている恋人の姿を直視すると、その場から逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
けれども、今は仲間がいる。
あの日の初恋相手はいなくても、隣に自分を受け入れてくれた刀剣男士がいる。それだけで、藤の傷はゆっくりと癒えていくようだった。
「主は本当によく食べるよね。はい、こっちは要る? 僕も前に食べたんだけど、とっても美味しかったよ」
「焼きとうもろこし! 僕も好き!!」
髭切に差し出された、焦げ目のついた香ばしいトウモロコシに、藤は喜び勇んで齧り付いた。藤の真似をして、隣の膝丸もおっかなびっくり自分の分を口につけ、これで良いのかと目で尋ねている。
よく食べるよね、と呆れたような素振りを見せつつも、実際は髭切の方が主よりも嬉しそうに顔を綻ばせていた。ひな鳥に餌をやる親鳥のように、あれこれと買い与え、同行している小豆に嗜められるほどである。
「あるじは、やたいのごはんがだいすきのようだな。みていて、きもちがよくなるたべっぷりだ」
「うん。前は……その、色々あってちゃんと味わえてなかったから」
自分が苦手としている『夏祭りの恋人たち』の様子を目撃した上に、縁日の結界を抜けて迷子になって足を挫いたのだから、どれだけ厄が揃っているのだろうと我ながら嘆きたくなるほどだ。
藤の隣では、髭切がうんうんと我がことのように頷き、
「やっぱり、主は気分がそのまま食欲に出るんだよね。いっぱい食べているときは元気なとき。ちょっとしか食べてないときは、落ち込んでるときって感じで」
「胃袋で物を考えてるみたいな言い方しないでよ。事実では……あるけれど」
ストレスがたまると舌がダメになるらしい、とは藤も自覚していた。その点を踏まえると、今は絶好調と言えよう。
焼きとうもろこしから漂う、焦げた醤油独特の香ばしい匂いを口の中でも存分に味わい、歯で噛みつぶした粒から弾ける甘い汁を喉の奥に流し込む。まさに至福の瞬間だ。
「膝丸もちゃんと食べてる?」
「ああ。少し、慣れないものはあるが」
藤の言葉に対しても、膝丸は特に突っかかる様子もなく、答えてみせる。万屋に行った日から、彼から主に対する態度は軟化を見せていた。
「膝丸も小豆も、初めての縁日なんだから沢山食べて、沢山遊んでね」
「ああ。わたしはじゅうぶん、たのしませてもらっているぞ」
「俺はまだ楽しむ方法はよく分からぬが」
「じゃあ、弟。これはどうだい」
爪楊枝に刺されたたこ焼きが、不意に膝丸の口元に差し出される――というよりは、半ば押し込まれる。食べないわけにもいかず、膝丸は熱さの残るたこ焼きを、目を白黒させながら飲み込んだ。
微笑ましい兄弟のやりとりに、藤は目を細める。
自分に兄弟はいないが、家族とのやりとりとは、やはりこのように和やかなものであってほしいと望む気持ちはある。
二つ目のたこ焼きは落ち着いて味わえたようで、美味しいと感想を述べている膝丸の横顔はずっと明るい。
どうにか仕立てが間に合った、薄ら縞模様が入った紺の浴衣は、彼の薄緑の髪を綺麗に引き立てていた。
髭切も素直に弟との時間を楽しんでいるようだが、どういうわけか先ほどから、ちらちらとこちらに視線を送っている。
「髭切?」
たこ焼きを弟に与えながらも、ちらりと藤を見て、再び今度は弟に話しかける。そんな仕草を数度確認して、ふと藤はぴんとくるものを感じた。
静かに小豆の側に近寄り、ちょいちょいと彼の浴衣の裾を引く。
「ねえ、小豆。兄弟が仲良くしているのは、やっぱりいいよねえ」
「ああ、わたしもそうおもうぞ」
「だからさ、ちょっとの間だけ……あの二人を、二人きりにしてあげない?」
小豆は数度瞬きを繰り返してから、髭切と膝丸の様子を観察する。まだ屋台でのやり取りに慣れていない膝丸に、髭切は鯛焼きを買ってきて食べ方を教えていた。
口の周りに餡子をつけている弟に、声を殺して笑いかける髭切は実に楽しそうである。
あの二人が、つい先日までぎこちないやり取りを交わしていたことは小豆も知っている。だからこそ、できてしまっていた溝を今必死に埋めようと努力しているのだろうとも、容易に想像できた。
「兄弟水入らずの時間、今日ぐらいはあげてもいいかなって」
だから、先ほどから髭切は、無言で何度もこちらを見ているのではないか、と藤は考えていた。
本丸にいたら、否が応でも藤は髭切に頼る部分が出てくる。
膝丸だって兄を独占できないことは、先日の件で重々承知しているようではあるが、だったら尚更、家族の時間を作れるなら用意してあげたいと藤は思っていた。
小豆もこの意見には賛成のようで、大きく一度首肯する。
「そうだな。それなら、わたしはあるじのそばにいよう。あるじをひとりきりには、できないからな」
「うん。お願い」
藤は小豆の手を取ると、屋台の前で話している兄弟に呼びかける。
振り向いた髭切は、先ほど同様に物言いたげな視線を向けていた。彼の視線を受けて、やはり家族の時間を邪魔されたくないのだろうと藤は確信する。
「僕、小豆とそこら辺を見て回ってくるから、二人はゆっくり過ごしていていいよ。後で、高台で合流しよう」
「え、主。ちょっと、それは」
「大丈夫、もう迷子になったりはしないから! 小豆、行こう」
小豆と手を繋いだ藤は、空いた片手を二人に向けて振ってから、人混みの中に紛れ込んでしまった。
残された髭切は、側に立つ弟をちらと見てから、まずはゆっくり主へと手を振り返す。
「どうやら、気を遣わせてしまったようだな」
いくら顕現して日が浅いといえども、藤の行動がただの気紛れではないことぐらいは膝丸も察していた。
とはいえ、せっかく主がこうして兄弟の時間を用意してくれたのだ。ここはありがたく受け入れようと、膝丸は改めて髭切に向き直り、
「……兄者?」
髭切は、主の消えた雑踏をじっと見つめたまま、微動だにしていなかった。主に向けて振った手も、中途半端にあげたままになっている。
「何か気になる物でもあったのか」
軽く腕を掴むと、髭切は膝丸がようやく自分を見ていることに気が付いたような顔をしてみせた。
「ああ……いや、何でもないよ。そうだね。じゃあ、せっかくだから、僕らはゆっくり見て回ろうか」
膝丸は素直に頷いてみせたが、彼が新たな屋台を見つけて背を向けた隙に、髭切はもう一度藤が去って行った方向へと視線を送る。
誰もいないと、分かっているはずなのに。
***
もし、自分が迷子になったら何を感じるだろうか。
不安。混乱。焦燥。
きっとそんな感情が胸の中を渦巻いて、足が震えて動けなくなるだろう。焦って走りだして、益々皆から遠ざかってしまうかもしれない。だから、今は安心をさせるべきときだ。
そこまで考えた五虎退は、自分が拾ってきた迷子に対してはできる限り笑顔で接するよう努めた。
「い、今、乱兄さんと物吉さんが、お祭りの運営をしている人に、話をしに行きましたから……。ええと、これで、きっと大丈夫……です」
乱と物吉を夏祭りの運営を取り仕切っている詰め所へと送り出してから、五虎退は柘榴色の髪の娘と共に手近な喫茶スペースで休憩をとることを選んだ。
元々、外に向けてテラスとして開放している部分であったようで、そこなら座りながら外を一望しつつ、屋台の食べ物を食べるための机も確保できた。
机上には、次郎が持ってきてくれた焼きそばやお好み焼きなどの、屋台の名物が並んでいる。五虎退は冷めないうちにと手をつけ始めたが、少女は割り箸に触れようともしなかった。
彼女は、協力を買って出た五虎退に「お願いするわ」と言ってからは、ずっとだんまりを続けている。
「そういえば、アンタには色々と迷惑をかけたね。この前は本丸に手入れに来てもらったし、演練の時にはアタシたちの主がやらかしちまってるのを注意してもらったし」
「何よ。責めたいの?」
気楽な調子で話しかけた次郎へ、少女は棘のある返答をする。自分に向けられる言葉に対して、やけに強気な態度をとる姿は、主に教えてもらったハリネズミという生き物を彷彿させた。
「そういうわけじゃないさ。言っただろう? アンタには迷惑をかけたねって」
彼女の棘など意に介さず、次郎はからりと笑って言葉を続ける。
それが、次郎の持ち味だ。相手の態度に怯えず、笑顔のまま向き合う姿勢は五虎退には到底真似できない。
「別に……。迷惑かけられたなんて、思ってないわよ」
「おや、そうだったかい? 演練の時は、管理しているアンタに迷惑がかかる云々って聞こえた気がしたんだけどね」
「あれは」
「まあ、終わり良ければなんとやらってことかい? アンタが困ってないなら、何よりさ」
少女の目線が、いくらか横に泳ぐ。
迷惑がかからなかったから万事解決、というわけではなかったのだろうとは、その様子から察せられた。
だが、彼女は何も話さない。五虎退も次郎も、余所の本丸の審神者に根掘り葉掘り事情を聞けるほど、不躾な態度はとれない。
暫くの沈黙の後、次郎は笑顔と共に机の上に並べていたラムネを差し出した。
まずは一杯。
それが、次郎なりの社交術だ。
「ありがと」
少女はいくらか緊張を解いて、ラムネを手に取る。
真っ青の表面を暫く目を細めて見つめてから、彼女は夏の夜で火照った手でそっとラムネを包むように持った。
「あの、さ。刀の付喪である、あんた達に聞きたいんだけど」
「な、何でしょう?」
突然の問いに、五虎退はしゃんと背を伸ばした。
質問されているのは五虎退と次郎だが、回答次第では主の評判にも繋がると考えたからだ。
「刀にとって、その……こういう主って、どうなの」
随分と抽象的な質問に、次郎と五虎退は顔を見合わせる。
「こういうって、いうのは……?」
「だから、迷子になってるような、主とか……偉そうなのに、何もできない主、とか」
最後の方は殆ど掻き消えるような声だったが、二人はしっかりと聞き取っていた。
刀にとっての主についてなら、それこそ自分の刀剣男士に聞けばいいのではと思ったが、これは確かに素直に問える内容ではない。
藤なら、まず間違いなく心の中にしまい込んでしまうような問いだ。
「そ、それは……」
「アンタが、そういう主になりたくないって言うなら、そうならないようにすればいいだけじゃないかい?」
五虎退が何か言いかけるより先に、次郎は正面から少女を見据えて告げる。
「アタシはアンタの刀じゃないから、アンタがどういう主でいてほしいかって言える立場じゃない。でも、もしアタシの主が、何かになろうとして藻掻いているなら、アタシは全力で応援する」
彼の言葉に、五虎退は目を見開く。
次郎の激励は、目の前の少女に向けてだけの発言ではない。あの朝焼け色の髪を持つ、次郎の主である女性に向けてのものでもあった。
「たとえちょっとばかし迷子になったり、上手くいかないことがあったりしても、放っておきやしないさ」
次郎はニッと笑ってから、少女の頭に大きな手を載せる。弾みで、彼女の頭に結わえられた赤い簪の飾りが揺れた。
「……それなら、どうして」
そこまで彼女が呟きかけたときだ。
「あ、五虎退ー。次郎も! こんなところでどうしたの?」
聞き慣れた声が、次郎と五虎退の耳に響く。すぐさま、二人は顔を上げた。
彼らの視線の先、そこには両手に綿飴を持つ藤と、彼女の後ろに控える小豆長光が立っていた。
***
「兄者、これは何だ」
「これは、りんご飴だねえ。主から話は聞いていたけど、思った以上に大きいなあ」
「二つ、購入してもいいだろうか」
「もちろん。おーい、店主さん。二つお願いしていいかな」
屋台の店員からりんご飴を受け取り、髭切は膝丸へと差し出す。真っ赤につやつやと輝く果実に、膝丸はすっかり目を奪われていた。
嬉しそうな弟の横顔を眺めつつ、髭切は心の中で小さなため息を吐く。
弟と二人きりにしてあげよう、という主の気遣いそのものに不満は抱いていない。知らず知らずの間に、弟の気持ちを踏みにじっていたという罪悪感も、まだ残っている。
膝丸は普段は理知的で落ち着いているのに、兄のことに関すると自分を押さえ込みやすい部分があると、髭切も気が付いていた。丁度、藤が周りの人間に対して極端に遠慮をするのと同じように。
だから、あれから髭切も、弟の様子にはそれとなく注意するように気をつけていた。
そんな微妙に互いを気遣うような兄弟関係を、より円滑なものに変えてあげようと、藤が身を引いたのは分かる。
今だって、膝丸は素直に主の気遣いを受け取り、屋台のお菓子や料理に舌鼓を打ち、時に屋台の遊戯を興味深く眺めている。
(それは、いいことのはずなんだけどねえ)
弟も自分も、そこそこに楽しみ、祭りという非日常を満喫している。
そのはずなのに、と髭切はりんご飴にかぶりつきながら、もやもやとした胸の中の塊に意識を傾けた。
(主が側にいないと、落ち着かない……のかな)
何だかんだ言いながら、主が閉じこもって半年近く、彼女のことで悩まなかった日々はなかった。それが解消されて、逆に気持ちがそわそわしているのだろうか。
勿論、彼女に塞ぎ込んでほしいわけではない。花のように咲かせた笑顔を振りまきながら、日々を楽しそうに謳歌しているのを見守っているだけで、こちらも胸が弾むほどだ。
なのに、今は小さな曇りが消えてくれない。
藤が小豆の手をとり、人混みの中に去っていく姿を見た瞬間から、彼の中に生まれつつあった曇りは頑固な染みのようにこびりついて、離れてくれなくなっていた。
(あまり欲をかかない方がいい、だよね)
先日、三日月から受けた指摘を思い返す。
きっと、自分という刀は、刀として主に一番大切に扱われたがっているのだろう。髭切は自分の曇りに、一旦そのような結論を出す。
「兄者、こちらの冷たい氷菓子は食べるか?」
「かき氷だね。うん、貰おうかな。ああ、でもひとときに沢山食べてしまうと」
髭切の注意は少し遅かった。
口の中に広がる冷たさにすっかり気を良くした膝丸は、かき氷をさくさくと一気に口にしてしまった。そして、すぐにぎゅっと目を瞑って、しかめ面を浮かべる。きっと、あのキーンとする痛みを味わったのだろう。
「僕と同じ失敗をしているねえ」
「兄者も、このようなことをしていたのか?」
「去年の夏祭りにね。いやあ、懐かしいなあ」
些細な行動が、意外と自分と弟は似ているらしい。違う存在でも共通している部分はあるのだと、改めて確かめてから、髭切は自分のかき氷をゆっくりと口に含む。
ともあれ、今は心の中の曇りより、折角貰った弟との時間を満喫しようと決め、髭切はかき氷を食べ終えてから暫く屋台の遊戯を楽しんだ。
射的では使い慣れない銃という武器に、二人して首を傾げていた。
的当てでは、短刀の少年たちが好きそうなおもちゃが幾らか並べられており、兄に良いところを見せようと意気込んだ膝丸の玉が、的に突き刺さってしまった。
和やかな時間を十分に満喫して、そろそろ集合場所に向かう時間だろうかと思ったときだった。
「弟、誰か着いてきてないかい」
人混みを躱すように歩いている兄弟の足取りは、当然の流れとして蛇行したものになる。そんなうねうねとした足取りを辿るように、一人の人間の気配が追いかけてきていると髭切は察知していた。
「気配が漏れている様子から察するに、知り合いの類だろうか」
何か良からぬことを考えて追跡しているという割りには、隠れようとする素振りもない。ひょっとしたら、主の知人か誰かだろうかと、二人はわざと人が少ない道の端に寄って、足を止めた。
二人で息を合わせるまでもなく、同時に振り返り、そして兄弟はそれぞれ違う表情を浮かべる。
髭切は、きょとんとした戸惑いの顔。対して、膝丸は何かに気が付いたように、はっと目を見開いていた。
「君も来ていたのか」
「弟、知り合いかい?」
人混みから押し出されるようにして二人の目の前に姿を見せたのは、細い黒髪を一つに結い上げた少女だった。髭切にとっては赤の他人であるが、膝丸は彼女の顔に見覚えがあった。
「イチか?」
「あ……はい。そう、です」
走って追いかけてきたのか、彼女の息はすっかり上がっているようだった。
ただ、その頬の赤みは単に走ったからのものではなく、祭りに対する興奮もあるのではと髭切は思う。何故なら、藤が祭りに来た直後に見せた顔とよく似ていたからだ。
「この子、知っているの?」
「先日、俺と主が買い物に行ったとき、色々あって暫く行動を共にしていた。審神者の姉がいるらしい」
ふーん、と髭切は気のない返事をする。審神者の家族が万屋に来ることもあるのか、という程度の興味しか彼の中には湧かなかった。
「あの時はお世話になりました。藤様に選んでもらった帯の飾りも、無事に姉に渡せたと思います」
「そうか、それはよかった。俺の方も」
膝丸は一度髭切に目線をやってから、軽い咳払いを挟み、
「君のおかげで、兄者に俺が何を考えているかを伝えられた。感謝している」
髭切の知らない間に、どうやら膝丸は彼女から助言のようなものを受けたようだと、髭切は二人の会話から読み取る。てっきり主が弟の背中を押したのではと想像していたが、それだけではなかったらしい。
「今日は、藤様はいないのでしょうか」
「ああ。彼女は、別の場所で祭りを楽しんでいる。会場のどこかにいるかとは思うが」
「この中から見つけ出すのは、至難の業だろうね」
髭切も膝丸も意識をすれば主の大体の所在は掴めるが、目の前の子供にそれができるとは到底思えない。できたとしても、これだけの人混みをかき分けるのは容易ではあるまい。
「……そうですか」
「何か伝えたいことがあるなら、俺の方から言伝をしておくが」
おや、と髭切は少々意外そうに膝丸を見つめる。
主や政府の人間に対しては礼儀正しく接する彼ではあるが、ただ一度買い物に付き合っただけの人間に、ここまで親身に対応するのは髭切には普段とは違う振る舞いに思えた。
「実は、渡したい物があったのです」
「渡したい物?」
「はい。姉さんへの贈り物を選んでもらって、それに美味しい食べ物や飲み物をご馳走してくれました。私に、髪飾りまでくれました」
言いつつ、少女は髪に結ばれたリボン状の髪飾りを指さす。
どうやら、お人好しの藤は一度しか会ったことのない子供に贈り物までしたらしい。更紗や煉といった、見知った審神者に対してもお礼や贈り物を欠かさない彼女らしい行動だ。
(――あれ、どうしたんだろう)
恥ずかしげに俯きながら少女の髪に揺れる藤からの贈り物。それを見つめているだけで、不意に胸中の曇りがざわつく。
皆へのお土産や、無事を祈るためのお守りとは違う、友人としての特別な気持ちを込めたのであろう贈り物。
ただそれだけの品のはずなのに、いかなる理由か、髭切は拳を知らず握りしめていた。
自分が見ていない間に、藤が見知らぬ誰かと交流をしている。そうして、自分だけの世界を広げている。髭切の存在しない時間が、空間が、手の届かない所に生まれていく。
当たり前のことのはずなのに、何故かその事実が髭切の心を落ち着かないものへと変貌させていく。
「お礼の品を……渡したかったんです」
髭切のざわつきなどつゆ知らず、彼女は腕にぶら下げている巾着から、小さな紙袋を取り出す。二つの包みが、膝丸の大きな手の上に載せられた。
開けても良いかと膝丸が問うと、少女は片側の緑色の袋を指さして、そちらが膝丸の分だと教えてくれた。
「これは、随分と精緻な細工だな」
膝丸の手にあるのは、翡翠の玉をワイヤーが幾重にも取り囲んだ細工ものだった。根付けとして帯に挟めるように、重石に結わえてあるのも見て取れる。
藤の方も、恐らくは似たような細工が入っているのだろう。
「お守りの品だと、作ってくれた人が言っていました」
「そうか。これは、俺が預かって主に渡してもよいだろうか」
「はい。お願いします」
包みを丁寧に指の中にしまい込むように受け取り、自身の分を膝丸は早速帯に挟み、髭切へと見せた。涼やかな薄緑の石は、膝丸の髪によく合っていると髭切も頷き返す。
「そちらは、膝丸様の兄様ですか」
「弟が世話になったようだね。僕は髭切。よろしく」
簡単な名乗りをあげてから、髭切は軽く会釈をする。イチもつられるように、髭切にぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします。膝丸様は、髭切様のことを沢山知っていました。お兄さんに会えてよかったと、お兄さんの気持ちを知ることができてよかったと、私に話していました」
「へえ。それはまた、僕はそんな風に言われたことはなかったのになあ」
髭切がちらりと弟の方を見ると、彼は二人に背を向けて、ゲホゲホとわざとらしく咳を繰り返していた。
「ねえ、それは主からのものなんだよね」
髭切は、イチの髪を彩る薄緑のリボンを指さす。イチは頷いてから、静かに髭切を見つめる。だが、彼女の視線には微かな怯えが混じった。
イチが物の声を聞く才に長けていることを、髭切は当然知らない。
彼女が髭切の内にあるもやもやした曇りに気が付いているとは、髭切が知る由もない。そのため、彼はイチが見知らぬ人物と話すのが苦手なのだろうと解釈した。
「ごめんね、脅かしてしまったみたいだ。弟と仲良くしてくれてありがとう。それじゃあ」
そこで別れの挨拶を告げて、彼女から距離を置こうとしたときだった。
「おい、そこのお前ら。こいつと何をしている」
地の底から響くような深い声が、イチの背後から聞こえた。そこには、人混みをどうにか押しのけて姿を見せた、背の高い男が立っていた。
白金色の固そうな髪にヘアピンを何本か挟み、緋色の瞳を眼帯で隠している姿だけ見れば、一風変わった格好のただの人間にも見える。
だが、彼が纏う気配は、明らかに人のそれとは違う。濃紺の着流しに覆われた立派な体格からも、戦う者の風格が滲んでいる。
刀剣男士。
彼の正体を看破した瞬間、髭切は全身に微かな震えが走るのを感じた。
(僕は、彼を知っている……?)
自分がこの目で見た覚えはない。恐らくは刀としての縁があるのだろう。その縁を内側から辿り寄せ、髭切は眉を顰める。
髭切の中に刻まれ、目の前の男と繋がる物語。その中心には『鬼を斬った逸話』があった。
「彼女は俺たちの知り合いだ。貴様こそ何物だ」
髭切の代わりに、膝丸が鋭く誰何する。
「鬼丸国綱。この娘の保護者から、これの側にいるように言われた」
「審神者でもない彼女の護衛をしているというのか」
膝丸は、先日出会ったイチの保護者を思い出して、顔を顰める。あの男は、イチに対しても膝丸に対しても良い感情を見せていないようだった。
そんな人間から差し向けられた刀剣男士を前に、素直に友誼を結ぼうという気にはなれない。
「お前たちはこれから聞いたかも知れないが、これは人ならざる者の声を拾いやすい体質らしい。そのくせ、今日は審神者が年に一度集まる祭りだと聞いたら『行きたい』とおれの主にごねて、やむなくおれが付き添っているだけだ」
「君は確か……鬼が宿った器物を、人の手を借りずに勝手に動いて斬った逸話を持っているんだよね」
髭切は、絞り出すような低い声で目の前の彼に告げる。彼が思い出した縁を辿れば、目の前の刀剣男士の逸話に行き着くのは、そう難しくなかった。
「そんな君が近くに居るなら、なるほど、魔除けにはなるだろうね」
「お前たちでも、効果は変わらないだろうがな。おい、そこの薄緑の刀剣男士。おれに敵意を向けるのはやめろ。こんな所で一戦交えるつもりか」
「失礼。貴様個人に恨みがあるわけではないが、貴様の主はどうやら俺の目から見る限り人格者には見えなかったものでな」
「別の奴と勘違いをしていないか。おれは、主からお前に会ったといった話は聞いていないが」
しらばっくれるなと膝丸は言おうとしたが、視界の端でイチが小さく頷いているのを膝丸は捉える。鬼丸の言う通り、鬼丸の主と膝丸が警戒している『イチの保護者』は別人らしい。
「ともかく、用が済んだなら戻るぞ。あいつは年寄りのくせに落ち着きがない。おれの目が離れたら、どこで何をしているか、知れたものではない」
「はい、勝手にはぐれてすみませんでした」
イチは鬼丸にぺこりと頭を下げてから、名残惜しそうにこちらを見つめて、再びお辞儀をする。
恐らく、藤に会いたかったのだろうが、それが叶わなかったので残念に思っているのだろうと髭切も膝丸も推察する。
「それでは、また。どこかで」
「ああ。今度、主から文でも送らせよう」
「は、はい!」
イチはぱっと顔を輝かせると、頭を下げて人混みの中に消えていく。恐らく、鬼丸の主であり、保護者でもある者を見つけたのだろう。
「弟、文って言っていたけど、彼女の住んでいる場所を教えてもらっているのかい?」
「いいや。だが、審神者の姉を持つイチというあだ名の子供、と政府の者に訊けば分かるのではないか」
「さあ、どうだろう。秘密にしなきゃいけない義務もあるみたいだから、調べてくれるかなあ」
お人好しの担当官が、膝丸に詰め寄られて顔を青くしている図を想像して、髭切は苦笑いを浮かべる。
「ああ、そうだ。鬼丸とやら。君は、彼女の居場所を知っているのかい?」
護衛を任されるぐらいなら、その程度の情報を管理しているのではと髭切が問うと、
「知らないな」
大層つれない返事が返ってきた。続けて、
「そもそも、あれに文が届くわけがないだろ」
「何故だ」
「あれには、名がない」
鬼丸の言葉に、膝丸と髭切は目を瞬かせて、暫し思考を停止させる。
名前が違う、と言われれば、まだ膝丸は理解できた。
何せ『イチ』という呼び名は、名字をもじったあだ名であるのは、自己紹介をした折の様子から推察できたからだ。
だが、名がないというのはどういうことか。
「おれは、詳しい事情は把握していない。ともあれ余計な真似はするな。おれたちのような『物』が関わっても、どうしようもないことだ」
鬼丸は淡々と告げると、あとは好きにしろと言わんばかりに背を向けて雑踏の中へと消えていった。
残された髭切は柳眉を顰めて二人を見送り、膝丸は呆気にとられた顔で、人混みに紛れていく背中を眺めていた。