本編第三部(完結済み)
何度も何度も、暗闇の中で願いを唱えてきた。
これほどまでに強く懇願したのは、今までの短い人生において一度もなかっただろう。
なのに、いつまで経ってもその瞬間は訪れない。彼を呼び出したときに聞こえたような、こちらの呼びかけに応じる声がない。
それでも一縷の希望を込めて、薄らと目を開く。
眼前にあったのは炎が燃え盛る炉だけであり、白布の上に剥き出しの刃はない。
「……今日もだめ」
束ねていた髪をおろし、彼女はため息を吐く。
薄暗い鍛刀用の部屋は、風通しが悪く蒸し暑い。幾ら薄手とはいえ、着物姿で籠もっていたせいで、じっとりと汗も掻いている。タオルを置いていないかと辺りを見渡すが、あるのは資材ばかりだ。
ともあれ、一度外に出なければいけない。ずっと水も飲まずに集中していたせいで、頭も少し痛くなっている気がした。
がらりと戸を開き、そこで足を止める。目の前に立っているのは、真っ赤な目の彼だ。
「何の用?」
ろくに仲間も呼び出せない主を、笑いに来たのだろうか。
せめて馬鹿にされないようにと、自分でも険のあると思う顔つきで睨み付けると、彼は困ったような顔で、
「あのさ。根詰めるのもいいけど……ちょっと出かけない? 今日、祭りがあるって蜂須賀が教えてくれたんだ」
何を言っているのかと、思わず眉をぴんと吊り上げる。
彼女の帯の上では、真っ赤な椿の帯留めが夕日を受けて輝いていた。
***
行き交う人がもたらすのは、木々の葉擦れよりも複雑な音の並び。あちこちに吊された提灯に点された明かりは、鮮やかな光で夜の世界を色づかせている。
並び立つ屋台は、ある者にとっては初めて目にした光景であり、ある者にとっては一年前と変わらない景色だった。
だが、彼らは等しく心を弾ませ、いつもより少し大股で混雑した大通りを行く。
「こりゃすげえなあ。あの神社でやっていた祭りとは、広さも店の種類もまるで別もんみてえだ!!」
和泉守の感嘆に、歌仙はこっそりと同意の頷きを送る。
一年ぶりに見た景色だというのに、胸中から沸き立つ興奮を意識せずにはいられない。
ただ、一年前と明らかに違う点もある。
たとえば、隣にいるのが和泉守と堀川であり、主や物吉たちではないというのが顕著な違いだろう。
「すごいね、兼さん! こんなに沢山の審神者さんや刀剣男士たちが集まってるなんて、何だかわくわくするよ!」
本丸では礼儀正しい少年という顔をよく見せている堀川も、今日ばかりは見た目相応に無邪気にはしゃいでいる。
下駄を鳴らして、先ほどからあちらこちらと足を動かしており、見ているだけでも忙しないことこの上ない。
「おーい、之定! ぼさっと突っ立ってないで、早く行かねえと何もかもなくなっちまうぞ!」
「まったく、きみたちはもう少し夏祭りの風情を感じないか!!」
「そんなもん、歩いて感じりゃいいだろうが!」
和泉守の威勢の良い声に引っ張られるようにして、歌仙も後を追う。
今日は、万屋の夏祭りが行われる日だ。多くの刀剣男士と審神者が、周りの目を気にせずに、祭りという空気を純粋に楽しめる特別な時間である。
戦いとは無縁の催し物であり、本来の刀剣男士の役割からは大きく逸脱しているのだろう。だが、この一夜の楽しみを疎むものは殆どいない。
藤の本丸でも、万屋の祭りには全員参加していた。
誰か残った方がいいかと担当の富塚に打診してみたが、藤の本丸は規模も小さいためか、特に待機の必要はないと許可はあっさりと下りた。
「やれやれ、なんで僕が彼らのお守り役なんだろうね」
「すみません、歌仙さん。兼さんが、きっととてもはしゃぐと思いますけど、僕もちゃんと見てますから」
藤の本丸では、祭りが初参加の刀剣男士と、それ以外の刀剣男士という組み合わせで屋台を巡るようにと、予め主によって指示を受けていた。
所定の時刻になった頃に、去年も訪れた高台に集合して、花火観賞としゃれ込んでから帰宅するという段取りにしたと、彼女は得意満面で語っていた。
そんな理由から、歌仙は有り難くも堀川と和泉守を見守る役を任ぜられたのである。
堀川が事前に注意していたように、和泉守はあちらへふらふら、こちらへふらふらと、興味のある屋台にすぐ引き寄せられるので、歌仙は主の様子を心配する余裕すらなかった。
「おーい、之定! 国広! こっちにトウキビの焼いたやつがあるぞ!!」
ぶんぶんと手を振っていたかと思いきや、三人分を確保して戻ってきたと思ったら、
「こいつぁ、前の祭りにもあったやつだな。雲みたいに軽いくせに甘くもあるなんて、変な飴だな」
お次は綿飴を器用にも三つ持って、それぞれに差し出していく。
歌仙は和泉守兼定という刀剣男士に対して、豪快な気質はあるものの、主に対応する態度から察するに、誠実で誇り高い部分も兼ね備えている者と見做していた。
だが、
(訂正しなければならないだろうね。彼はほとんど子供ではないか!)
目を離せば、興味の赴くまま、勝手気ままに足を向ける和泉守を、堀川と一緒になって和泉守は必死に追いかけ回す。
堀川は『自称相棒』というだけあって、人混みをひょいひょいとかき分けて、難なく和泉守に追従していた。
対する歌仙は、体格の良さが災いして、長い黒髪と臙脂の浴衣を見失わないようにするだけでも精一杯だ。
和泉守が五軒目の屋台で得たたこ焼きを持って帰ったとき、歌仙はすぐさま和泉守の腕をがしりと捕まえ、
「和泉守、少し待つんだ。僕は、こんなに、たくさん、すぐには、食べられない」
一句一句を明確に区切りながら、歌仙は和泉守の次なる出陣を必死に止めた。歌仙の片手にはまだ食べ終えていない綿飴がふわふわと揺れている。
豪放磊落な和泉守のことだ。ひょっとして話を聞かないのではと歌仙は危惧していたが、
「そうか、悪ぃな。オレばかりはしゃぎすぎちまってよ」
意外にも、すんなりと彼は引き下がった。どうやら、自分がはしゃいでいた自覚はあったらしい。
屋台からは少し離れ、休憩用の広場を見つけて歌仙たちはそこに腰を下ろす。周りを見渡すと、提灯の幻想的な光に包まれた広場では、刀剣男士や審神者が思い思いの姿でひとときの祭りを楽しんでいた。
彼らの様子を眺めつつ、歌仙は綿飴を口に含む。雲のような食感なのに、その味は砂糖という不思議なお菓子だ。
今頃、主もこれを食べているのだろうと、歌仙はようやく彼女に思いを馳せられた。
(……迷子になっていないといいが)
ここに来てすぐに、縁日に目移りした藤が早速姿を眩ませたのは記憶に新しい。
幸い、十分もしないうちに見つけ出すことはできたが、歌仙としては去年の騒動を思い出して肝が冷えた心地だった。
そんなに心配せずとも、主の居場所は意識すれば辿れる。分かってはいるのだが、ついつい気にしてしまう歌仙の様子を見て、次郎太刀には「過保護だねえ」と笑われてしまった。
「おーい、之定。これも食ってみるといいぞ。中に何だかよく分からねえもんが入ってるが、とにかくうめえからな」
和泉守が差し出したのは、ころころと丸い玉が幾つか転がった紙皿だ。
小麦色に焼けた表面に、少し濃い色の調味料と、青のりがぱらぱらとかけられているこの料理の名を、歌仙はもう知っている。
「おや、たこ焼きか。どれ、僕も一つ貰おうかな」
歌仙は浴衣の袖を片手で押さえ、球状の表面に楊枝を突き刺す。かりっとした表面を歯で包むように割ると、中からとろりとした具と和泉守曰く『よく分からないもの』もといタコが姿を見せた。
ごくりとたこ焼きを飲み下してから、改めて歌仙は目の前に座る青年を見つめる。
自分と同じ翡翠色の瞳に、歌仙では持ち得ない野性的な光が爛々と輝いている。だが、決して粗暴なだけではなく、相棒の堀川や本丸の仲間とはよくやっているようだ。
「きみは……こんなに、はしゃいでみせる刀剣男士だったんだね。てっきり、主への態度がああだから、もっと思慮深い性格の持ち主かとも思っていたが」
口にしてから、この言い方は良くなかっただろうかと歌仙は考え直す。これではまるで、彼を責めているかのようにも聞こえる。
「あー……まあ、あいつはな。ちっと別枠だ。上手く言えねえんだけどよ」
「兼さんは『自分の主に当たる奴のことは、適当にしたくねえんだ』って言ってましたよ」
「あっ、てめえ、国広!」
堀川は和泉守の言葉に合わせて、それらしく腕組みをして物々しい顔つきをしてみせる。彼の仕草は、的確に和泉守兼定という人物を表していた。
対する和泉守は、堀川の物真似が気に入らなかったようで、彼を拳で軽く小突いてみせる。笑顔で受け流している堀川の様子から察するに、彼らのじゃれ合いはいつものことなのだろう。
「つまり、和泉守。きみにとって、主の行いは、その……まだ許せることではないと?」
「許すか許さないかで言えば、許すことなんてこれからもねえだろうな。少なくともオレの中じゃ、そういうことになりそうだ」
それは、事実上の決別なのではと歌仙が思うより早く、「でもな」と和泉守の言葉が後を続く。
「許せねえことなんて、いくらでもこれからあるだろうさ。オレの中に刻まれた逸話にも、そんな思い出はごまんと残ってる。その上で『それでもついていきたい、アンタを主としたい』と思うかどうかだろ。オレはそう考えてるが?」
何もかもを許せる善人になどなれないと、士道に生きた刀は言う。だからと言って、一つの過ちで全てを決めるわけでもないという彼の考えが透けて見えるようだった。
「その意味じゃあ、あいつはまだまだだな。あれがしてきたことと、これからしていくこと。秤にかけて、どっちが傾くかってところだ」
「兼さんは、本当に回りくどい言い方をするよね」
堀川は真面目くさった様子の和泉守にくすりと笑いかけてから、気を揉んだ様子の歌仙に向けて、
「兼さんは慎重に考えていきたいって思っているだけなんですよ。主さんが気を緩めないかっていうよりは、一人ぐらいは厳しく見てやってないと、本来はどう在りたかったのかも忘れてしまうかもしれないからって」
「徒に主へ緊張を強いている、というわけではないようだね」
「はい。皆さんとは少し違う道標になっている、というだけですよ」
手を取り声をかけるだけが、誰かの助けになることではない。遠くから見守り、程よい緊迫感を与えるのも助けの一つになる。
和泉守の振る舞いはそういうものなのだろうと、歌仙は理解した。
「それじゃあ、堀川。きみはどうなんだい」
綿飴を食べ終えた歌仙は、先ほどから笑顔で和泉守の解説に甘んじている堀川に問う。
堀川国広という刀は顕現した直後から本丸に馴染み、溶け込んでいた。和泉守や膝丸のような反発もなく、小豆のように悲しげに見守るでもなく、彼は自然に、違和感を覚えさせずに本丸の一員となった。
だから、たまに歌仙は忘れかけてしまう。堀川も、主に拒絶された刀であったということを。
「僕は……うん、そういう主さんなら仕方ないんだろうなあって、最初はそう思っていたんですけど」
諦念を混ぜて、彼は言う。
こんな本丸に来た以上は、仕方ない。自分はきっと貧乏くじを引いたのだろうけれど、それも仕方ない。
仕方ないを積み上げ、良かった所だけを拾い上げ、そして堀川は不和を撒き散らさずに、水のように染みこむ日々を選んだ。
「ただ、今の主さんを見ていて、僕は主さんに顕現してもらえてよかったと思ってますよ。元気で、明るくて、毎日が楽しそうで、この前も一緒に川遊びに行きましたから」
清水の中で、歓声をあげながら仲間と遊ぶのは楽しかった。子供のようにはしゃぐ主と一緒に泳いだり水を掛け合ったり、服をずぶ濡れにして和泉守に笑われたのも堀川にとってはいい思い出だ。
でも、と彼は思わず呟く。
「僕は、主さんにとってどんな刀でいたらいいんだろうって、主さんは僕をどう思っているのかなって……ちょっと、考えちゃったときもありました」
物吉や五虎退と比べると、堀川と藤の距離はまだぎこちない。
主に信頼されているのか、そして自分は主を信頼していると言えるのか。答えは、どちらからも出ていないままだ。
「でもよ、国広。この前、あいつからお守りを貰ってただろう?」
和泉守はプラスチック容器に入った焼きそばを割り箸で解しながら、堀川に言う。
「何か、昔拾ってきた木の種か何かを入れてるそうじゃねえか」
「それなら兼さんだって、貰ってたよね」
「そうだけどよ。とにかくオレがお前に言いたいのは、お守りを渡してくれたっつーことは、あいつはお前をそれなりに大事にしたいって思ってるってことじゃねえか?」
澄んだ沢と同じ色をした堀川の瞳が、静かに見開かれる。
自分でも気付かない間に、少しだけとはいえ距離は縮まっていたのだと知り、彼の顔に小さな驚きが広がった。
「そうだね、兼さん。……うん、僕も同じような気持ちになれたら嬉しい、かな」
諦めの境地で接するのではなく、心底から好ましいと感じて主の隣にいたいと堀川は願う。背中を押すように、歌仙も静かに頷いて見せた。
「さあ、飯も食ったし、次は何か遊戯に手を出してみてえな。五虎退から聞いたんだが、魚を掬う遊びがあるんだろ?」
気持ちを切り替えるように、和泉守は膝を打って提案する。驚くほどあっさりと、彼は周りの空気を入れ替えることに長けていた。
戦場でも、きっと硬軟を使い分けて場の空気を支配するのだろうと、歌仙は和泉守の強さを改めて感じる。
「金魚掬いはよしてもらえないか。育てる場所がないのだから、金魚のほうが気の毒だ」
「その心配は無用だぜ。この万屋の金魚は、みんな式神の一種だからな。掬ったところで一日もすれば消えてしまうようになってる」
突如横合いから声をかけられ、歌仙はそちらへと顔を向ける。視線の先には、夜闇の中でもぼうっと浮き上がる白い髪の青年が、こちらへ手を振っていた。
波間を羽ばたく鶴という派手な模様の浴衣に、腕には小さな少女を抱えている姿は、去年と全く変わらない。
藤の知り合いでもある審神者の娘、更紗の刀剣男士である鶴丸国永だ。
「鶴丸、それに更紗嬢も。きみたちも来ていたんだね」
「おう、歌仙。一週間ぶりぐらいか? いやあ、今年も万屋の屋台は盛況だから、きみたちには会えないかと思ったぞ?」
「おや、きみはそんなに僕らの主に会いたかったのかい」
「主の方がな。藤殿に挨拶するまで帰らないとお冠だ」
歌仙は、視線を鶴丸の腕の中にいる彼女に向ける。更紗の頬は愛らしくふっくらと膨れていた。どうやら、鶴丸と喧嘩でもしたらしい。
「今日はこの後、きみたちが去年教えてくれた高台に向かうつもりなんだ。花火の時間に来れば、会えると思うよ」
「そうか! それなら、その頃にまた邪魔させてもらおうか」
鶴丸はからからと笑い、よかったなと更紗に微笑みかけた。更紗も無表情ではあるものの、こくりと頷いてみせる。
「そういえば、藤殿は最近どうなんだ? 何か困ってたりしないか?」
ふと、鶴丸に尋ねられて、歌仙は「そうだねえ」と一拍置いてから、
「いつも通りだよ。最近は、膝丸と髭切が少しぎくしゃくしていたようだったから、仲介役を買って出ていたね。あの二人も、ようやく落ち着いたみたいだ」
「夏って暑くて大変なのに、主さんはむしろ元気ですよね。僕も見習わないといけないって思ってます」
歌仙と堀川の語る藤の近況を聞き、鶴丸はうむうむと笑顔で頷いてから、
「髭切と、ねえ。仲が良いんだな」
「彼も本丸に来て一年経つから、何かと相談しやすいんだろう」
そこまで言ってから、歌仙は観察するような視線で鶴丸を見つめる。先ほどの鶴丸の言葉に、一瞬含むものを感じ取ったからだ。
だが、肝心の鶴丸はいつもと変わらない様子で微笑むと、
「相談相手がいるなら、この前みたいなことにはもうならないだろうな。いやあ、よかったよかった」
ニッと人なつっこそうな笑みを浮かべてから、ひらひらと手を振って彼はその場を後にした。気にしすぎだろうかと歌仙が視線を鶴丸から外すと、
「……あいつ」
「和泉守?」
警戒するような和泉守の声に、反射的に歌仙は声をかける。
「いいや、何でもねえ。之定、国広、じゃあ次は金魚掬いとやらに行こうじゃねぇか!」
同行する二人を先導するように、和泉守は二人を追い抜いて歩き出す。その視線の先には、小さくなっていく白い背中が見えた。
「……あの野郎。何か、探ろうとしてたな」
自分一人だけでも警戒はしておくかと、和泉守は心中で静かに決意を固めたのだった。
***
物吉と五虎退は今日に限り、ある大任を任されていた。
それは、次郎と乱と共に祭りを満喫するという任務だ。
とはいえ、先に近所の夏祭りでそれなりに経験を積んできた二人は、大きな問題を起こすこともなく祭りに馴染んでいる。
昨年、髭切がふらりと消えたときに訪れた狼狽と比べれば、今は落ち着いて程々に楽しめていると言えよう。
「んー! これでお酒があったら、言うことなしなんだけどねえ!」
屋台で売られていた牛串を頬張りながら、次郎は少し残念そうに言う。今回の祭りでは、酒で羽目を外すものが出てこないように、アルコール類の販売は行っていないようだった。
「お酒はここにはありませんね。でも美味しいご飯なら沢山在りますから」
「そうかい? じゃあ、どんどん食べていこうか! ほら、物吉も!」
次郎から渡された牛串を受け取った物吉は、代わりに持っていた烏賊焼きを次郎に差し出す。その隣で乱は鈴カステラを数個頬張っていた。
「ボク好みの、可愛いものも沢山あるんだよね。さっき、五虎退が飴細工を作ってもらってたよね?」
「は、はい。僕の虎くんたちを……ちょっとだけ」
五虎退の手には、白く艶々と輝く猫の子を模した飴があった。薄らと入った黒の縞が、それが虎の子であることを教えてくれている。今は半分ほど舐めたり囓ったりしたせいで、原型は少し崩れていた。
「あ、あるじさまと、ボール掬いもしたんです。あるじさま、いっぱい、いーっぱい掬ってました」
五虎退のもう片方の手には、白いビニール袋に入ったカラフルな球が収まっている。去年の約束通り、藤は五虎退と一緒にボール掬いに興じ、その戦果は今彼に預けられている。
「いいなー。ボクも後であるじさんと遊んでもらおうっと。あ、五虎退、見て! あっちにお面が売ってる!」
ぴょんと跳ねた乱は、弾む足取りをそのままにお面を売っている屋台へと駆け寄る。
そこには、外の世界で人気のキャラクターものから、定番の狐面、猫面までもがずらりと並んでいた。乱は「どれにしようかな」とうきうきした様子で指をあちこち彷徨わせてから、
「これにしようっと。あるじさんにもお土産で買ってあげたいな~」
お面選びで暫くかかりそうな乱を一旦物吉に任せて、五虎退は次郎の側に駆け寄る。
去年の髭切のようにはぐれてしまってはいけないと、五虎退は数歩先にある背の高い背中をじっと見つめていた。
「あ、待ってください、わあっ。押さないで、ください~……」
だが、五虎退の背丈は小さく、次郎は大きい。次郎の歩幅に追いつこうと頑張れば頑張るほど、彼は人混みの波と戦わねばならなくなり、そしてあえなく敗北した。
雑踏から弾き出されるようにして脇道に抜け出た五虎退は、
「あいたっ」
今度は何か質量のあるものにぶつかってしまう。
屋台の備品だったらどうしようと、慌てて五虎退は周りを見渡し――血相を変えた。
そこには、しゃがみこんでいる人影があった。
気分が悪くて蹲っていたのだとしたら、そんな人にぶつかるなんて一大事だと、五虎退は顔を真っ青にして、
「あ、ああああの!! だだっ、だい、大丈夫ですか!?」
慌てすぎるあまり、言葉すらしどろもどろになりながら、五虎退は身動きすらしない人物に問う。
果たして、その人物はゆっくりと顔を上げ、
「あ!」
「あっ」
同時に、驚きの声が揃う。
ゆらゆらと揺れる提灯の下で、鈍く輝く柘榴色の髪。きりりとつり上がった蒼の瞳。
どこかで見たことがある、と思う必要すらない。
「演練の時に、あるじさまを怒ってた人……」
「ちょっと、それは謝ったでしょ!」
すっくと立ち上がったのは一人の少女だ。五虎退が言うように、以前演練で藤を叱り飛ばし、その後はクリスマスの頃に五虎退たちと再会していた。最近は、手入れを放棄していた藤の代わりに、本丸の仲間の傷を癒やしに来てくれたことが記憶に新しい。
その少女は、いつもはおろしている髪を簪でまとめているせいか、前に会ったときよりすっきりした雰囲気を纏っていた。
着ている白百合の浴衣も、彼女を大人びて見せている。だが、猛抗議する様には、年相応の子供っぽさが覗いていた。
「あの、ぶつかってしまって、ごめんなさい」
「ああ、それは……別に、いいのよ」
だが、どういう理由だろうか。
五虎退が謝ると、彼女はすぐに先ほどまでのつんけんした様子を収めてしまった。礼儀を意識した振る舞いというよりは、まるでかき消された蝋燭のように、元気が抜け落ちてしまっている。
気のせいだろうか。提灯に照らされた彼女の目元は、どこか赤くなっているようにも見えた。
「五虎退、どうかしたんですか。って、あっ!!」
立ち止まって話し込んでいる五虎退に気が付いた物吉は、話し相手が誰かを察知して思わず声をあげる。。
「ええと……この前、本丸に来て手入れをしてくれた人ですよね」
「そんなこともしたわね。あんた達の主が引っ込んでたから、手入れをしてくれって頼まれたんだっけ。……あの後どうなったの?」
どういう理由か、素っ気なく問う少女の態度の裏には、ちらりほらりとこちらへの興味が覗いている。単なる好奇心とは違うようだが、何はともあれ、今は問われた以上答えないというわけにもいかず、物吉が回答を買って出た。
「はい。あの後、主様も戻ってきて、今は以前よりも楽しく過ごせています」
「――そう」
まただ、と五虎退は気が付く。
今まで会ったのは三度だが、三度とも常に彼女の中には燃え盛る炎のような苛烈さがあった。だが、今はまるで水でも被せたように鎮まっている。
彼女が着ている白百合の浴衣も、これまで目にしてきた彼女にはまず似合わないだろうが、眼前にいる意気消沈とした彼女が纏うには相応しいもののように見えてしまうほどだ。
「おやおや、五虎退。いったいどうしたんだい、こんな所で立ち止まって」
「五虎退、あるじさんのお面を買ってきたよー……って、この子、誰? どっかで見たことがあるような気がするんだけど」
次郎と乱も集まってきて、見知らぬ刀剣男士に囲まれたせいか、彼女は俯いたまま押し黙ってしまった。
乱はともかく、次郎は上背のせいで無自覚に相手に圧迫感を与えてしまう場合もある。
できる限り彼女を萎縮させまいと、五虎退はぎこちないながらも笑顔を浮かべてみせた。五虎退の不格好な笑みにつられて、少女の頬にも小さな笑みが揺れたのを確かめてから、
「あの、この前一緒にいた刀剣男士の方は、どこにいるんですか?」
五虎退が覚えている限り、少女はいつも藤色の髪をした山吹色の鎧を纏う刀剣男士を側に控えさせていた。だが、今の彼女の側には彼の姿はない。
「……今日は来てない」
「じゃあ、他の誰かと一緒ではないんですか?」
今度は沈黙が返ってきた。
先ほどまで蹲っていた様子に加え、泣きはらしたような目元の腫れ。更に、この意気消沈した様子。
もしかして、と五虎退は一つの結論を導き出す。
「あの、ひょっとしたら、迷子……ですか?」
彼女のことだから、迷子などという不名誉な発言を聞いたら、事実はともかく強がってみせるのではないかと思っていた。
しかし、五虎退の予想に反して、彼女は静かに頷いてみせる。
唇を噛み、胸の内側から湧き上がる何かを押さえつけようとしているのに、上手く取り繕えていない。そんな様子は、在りし日に主が浮かべ続けていた仮面の笑顔を五虎退に彷彿させる。
だからだろう。彼の細く白い手は、いつの間にか少女の手をとっていた。
「も、もし、よかったらですけど……僕がお手伝いして、それで、一緒に来た人と合流できるようにします。この前、皆の手入れを、あるじさまの代わりにしてくれましたから」
彼女は暫く迷う素振りを見せていたが、やがて静かに頷いた。
白百合の浴衣を締めている帯の上では、真っ赤な椿の帯留めが、提灯の光の下で光っていた。
これほどまでに強く懇願したのは、今までの短い人生において一度もなかっただろう。
なのに、いつまで経ってもその瞬間は訪れない。彼を呼び出したときに聞こえたような、こちらの呼びかけに応じる声がない。
それでも一縷の希望を込めて、薄らと目を開く。
眼前にあったのは炎が燃え盛る炉だけであり、白布の上に剥き出しの刃はない。
「……今日もだめ」
束ねていた髪をおろし、彼女はため息を吐く。
薄暗い鍛刀用の部屋は、風通しが悪く蒸し暑い。幾ら薄手とはいえ、着物姿で籠もっていたせいで、じっとりと汗も掻いている。タオルを置いていないかと辺りを見渡すが、あるのは資材ばかりだ。
ともあれ、一度外に出なければいけない。ずっと水も飲まずに集中していたせいで、頭も少し痛くなっている気がした。
がらりと戸を開き、そこで足を止める。目の前に立っているのは、真っ赤な目の彼だ。
「何の用?」
ろくに仲間も呼び出せない主を、笑いに来たのだろうか。
せめて馬鹿にされないようにと、自分でも険のあると思う顔つきで睨み付けると、彼は困ったような顔で、
「あのさ。根詰めるのもいいけど……ちょっと出かけない? 今日、祭りがあるって蜂須賀が教えてくれたんだ」
何を言っているのかと、思わず眉をぴんと吊り上げる。
彼女の帯の上では、真っ赤な椿の帯留めが夕日を受けて輝いていた。
***
行き交う人がもたらすのは、木々の葉擦れよりも複雑な音の並び。あちこちに吊された提灯に点された明かりは、鮮やかな光で夜の世界を色づかせている。
並び立つ屋台は、ある者にとっては初めて目にした光景であり、ある者にとっては一年前と変わらない景色だった。
だが、彼らは等しく心を弾ませ、いつもより少し大股で混雑した大通りを行く。
「こりゃすげえなあ。あの神社でやっていた祭りとは、広さも店の種類もまるで別もんみてえだ!!」
和泉守の感嘆に、歌仙はこっそりと同意の頷きを送る。
一年ぶりに見た景色だというのに、胸中から沸き立つ興奮を意識せずにはいられない。
ただ、一年前と明らかに違う点もある。
たとえば、隣にいるのが和泉守と堀川であり、主や物吉たちではないというのが顕著な違いだろう。
「すごいね、兼さん! こんなに沢山の審神者さんや刀剣男士たちが集まってるなんて、何だかわくわくするよ!」
本丸では礼儀正しい少年という顔をよく見せている堀川も、今日ばかりは見た目相応に無邪気にはしゃいでいる。
下駄を鳴らして、先ほどからあちらこちらと足を動かしており、見ているだけでも忙しないことこの上ない。
「おーい、之定! ぼさっと突っ立ってないで、早く行かねえと何もかもなくなっちまうぞ!」
「まったく、きみたちはもう少し夏祭りの風情を感じないか!!」
「そんなもん、歩いて感じりゃいいだろうが!」
和泉守の威勢の良い声に引っ張られるようにして、歌仙も後を追う。
今日は、万屋の夏祭りが行われる日だ。多くの刀剣男士と審神者が、周りの目を気にせずに、祭りという空気を純粋に楽しめる特別な時間である。
戦いとは無縁の催し物であり、本来の刀剣男士の役割からは大きく逸脱しているのだろう。だが、この一夜の楽しみを疎むものは殆どいない。
藤の本丸でも、万屋の祭りには全員参加していた。
誰か残った方がいいかと担当の富塚に打診してみたが、藤の本丸は規模も小さいためか、特に待機の必要はないと許可はあっさりと下りた。
「やれやれ、なんで僕が彼らのお守り役なんだろうね」
「すみません、歌仙さん。兼さんが、きっととてもはしゃぐと思いますけど、僕もちゃんと見てますから」
藤の本丸では、祭りが初参加の刀剣男士と、それ以外の刀剣男士という組み合わせで屋台を巡るようにと、予め主によって指示を受けていた。
所定の時刻になった頃に、去年も訪れた高台に集合して、花火観賞としゃれ込んでから帰宅するという段取りにしたと、彼女は得意満面で語っていた。
そんな理由から、歌仙は有り難くも堀川と和泉守を見守る役を任ぜられたのである。
堀川が事前に注意していたように、和泉守はあちらへふらふら、こちらへふらふらと、興味のある屋台にすぐ引き寄せられるので、歌仙は主の様子を心配する余裕すらなかった。
「おーい、之定! 国広! こっちにトウキビの焼いたやつがあるぞ!!」
ぶんぶんと手を振っていたかと思いきや、三人分を確保して戻ってきたと思ったら、
「こいつぁ、前の祭りにもあったやつだな。雲みたいに軽いくせに甘くもあるなんて、変な飴だな」
お次は綿飴を器用にも三つ持って、それぞれに差し出していく。
歌仙は和泉守兼定という刀剣男士に対して、豪快な気質はあるものの、主に対応する態度から察するに、誠実で誇り高い部分も兼ね備えている者と見做していた。
だが、
(訂正しなければならないだろうね。彼はほとんど子供ではないか!)
目を離せば、興味の赴くまま、勝手気ままに足を向ける和泉守を、堀川と一緒になって和泉守は必死に追いかけ回す。
堀川は『自称相棒』というだけあって、人混みをひょいひょいとかき分けて、難なく和泉守に追従していた。
対する歌仙は、体格の良さが災いして、長い黒髪と臙脂の浴衣を見失わないようにするだけでも精一杯だ。
和泉守が五軒目の屋台で得たたこ焼きを持って帰ったとき、歌仙はすぐさま和泉守の腕をがしりと捕まえ、
「和泉守、少し待つんだ。僕は、こんなに、たくさん、すぐには、食べられない」
一句一句を明確に区切りながら、歌仙は和泉守の次なる出陣を必死に止めた。歌仙の片手にはまだ食べ終えていない綿飴がふわふわと揺れている。
豪放磊落な和泉守のことだ。ひょっとして話を聞かないのではと歌仙は危惧していたが、
「そうか、悪ぃな。オレばかりはしゃぎすぎちまってよ」
意外にも、すんなりと彼は引き下がった。どうやら、自分がはしゃいでいた自覚はあったらしい。
屋台からは少し離れ、休憩用の広場を見つけて歌仙たちはそこに腰を下ろす。周りを見渡すと、提灯の幻想的な光に包まれた広場では、刀剣男士や審神者が思い思いの姿でひとときの祭りを楽しんでいた。
彼らの様子を眺めつつ、歌仙は綿飴を口に含む。雲のような食感なのに、その味は砂糖という不思議なお菓子だ。
今頃、主もこれを食べているのだろうと、歌仙はようやく彼女に思いを馳せられた。
(……迷子になっていないといいが)
ここに来てすぐに、縁日に目移りした藤が早速姿を眩ませたのは記憶に新しい。
幸い、十分もしないうちに見つけ出すことはできたが、歌仙としては去年の騒動を思い出して肝が冷えた心地だった。
そんなに心配せずとも、主の居場所は意識すれば辿れる。分かってはいるのだが、ついつい気にしてしまう歌仙の様子を見て、次郎太刀には「過保護だねえ」と笑われてしまった。
「おーい、之定。これも食ってみるといいぞ。中に何だかよく分からねえもんが入ってるが、とにかくうめえからな」
和泉守が差し出したのは、ころころと丸い玉が幾つか転がった紙皿だ。
小麦色に焼けた表面に、少し濃い色の調味料と、青のりがぱらぱらとかけられているこの料理の名を、歌仙はもう知っている。
「おや、たこ焼きか。どれ、僕も一つ貰おうかな」
歌仙は浴衣の袖を片手で押さえ、球状の表面に楊枝を突き刺す。かりっとした表面を歯で包むように割ると、中からとろりとした具と和泉守曰く『よく分からないもの』もといタコが姿を見せた。
ごくりとたこ焼きを飲み下してから、改めて歌仙は目の前に座る青年を見つめる。
自分と同じ翡翠色の瞳に、歌仙では持ち得ない野性的な光が爛々と輝いている。だが、決して粗暴なだけではなく、相棒の堀川や本丸の仲間とはよくやっているようだ。
「きみは……こんなに、はしゃいでみせる刀剣男士だったんだね。てっきり、主への態度がああだから、もっと思慮深い性格の持ち主かとも思っていたが」
口にしてから、この言い方は良くなかっただろうかと歌仙は考え直す。これではまるで、彼を責めているかのようにも聞こえる。
「あー……まあ、あいつはな。ちっと別枠だ。上手く言えねえんだけどよ」
「兼さんは『自分の主に当たる奴のことは、適当にしたくねえんだ』って言ってましたよ」
「あっ、てめえ、国広!」
堀川は和泉守の言葉に合わせて、それらしく腕組みをして物々しい顔つきをしてみせる。彼の仕草は、的確に和泉守兼定という人物を表していた。
対する和泉守は、堀川の物真似が気に入らなかったようで、彼を拳で軽く小突いてみせる。笑顔で受け流している堀川の様子から察するに、彼らのじゃれ合いはいつものことなのだろう。
「つまり、和泉守。きみにとって、主の行いは、その……まだ許せることではないと?」
「許すか許さないかで言えば、許すことなんてこれからもねえだろうな。少なくともオレの中じゃ、そういうことになりそうだ」
それは、事実上の決別なのではと歌仙が思うより早く、「でもな」と和泉守の言葉が後を続く。
「許せねえことなんて、いくらでもこれからあるだろうさ。オレの中に刻まれた逸話にも、そんな思い出はごまんと残ってる。その上で『それでもついていきたい、アンタを主としたい』と思うかどうかだろ。オレはそう考えてるが?」
何もかもを許せる善人になどなれないと、士道に生きた刀は言う。だからと言って、一つの過ちで全てを決めるわけでもないという彼の考えが透けて見えるようだった。
「その意味じゃあ、あいつはまだまだだな。あれがしてきたことと、これからしていくこと。秤にかけて、どっちが傾くかってところだ」
「兼さんは、本当に回りくどい言い方をするよね」
堀川は真面目くさった様子の和泉守にくすりと笑いかけてから、気を揉んだ様子の歌仙に向けて、
「兼さんは慎重に考えていきたいって思っているだけなんですよ。主さんが気を緩めないかっていうよりは、一人ぐらいは厳しく見てやってないと、本来はどう在りたかったのかも忘れてしまうかもしれないからって」
「徒に主へ緊張を強いている、というわけではないようだね」
「はい。皆さんとは少し違う道標になっている、というだけですよ」
手を取り声をかけるだけが、誰かの助けになることではない。遠くから見守り、程よい緊迫感を与えるのも助けの一つになる。
和泉守の振る舞いはそういうものなのだろうと、歌仙は理解した。
「それじゃあ、堀川。きみはどうなんだい」
綿飴を食べ終えた歌仙は、先ほどから笑顔で和泉守の解説に甘んじている堀川に問う。
堀川国広という刀は顕現した直後から本丸に馴染み、溶け込んでいた。和泉守や膝丸のような反発もなく、小豆のように悲しげに見守るでもなく、彼は自然に、違和感を覚えさせずに本丸の一員となった。
だから、たまに歌仙は忘れかけてしまう。堀川も、主に拒絶された刀であったということを。
「僕は……うん、そういう主さんなら仕方ないんだろうなあって、最初はそう思っていたんですけど」
諦念を混ぜて、彼は言う。
こんな本丸に来た以上は、仕方ない。自分はきっと貧乏くじを引いたのだろうけれど、それも仕方ない。
仕方ないを積み上げ、良かった所だけを拾い上げ、そして堀川は不和を撒き散らさずに、水のように染みこむ日々を選んだ。
「ただ、今の主さんを見ていて、僕は主さんに顕現してもらえてよかったと思ってますよ。元気で、明るくて、毎日が楽しそうで、この前も一緒に川遊びに行きましたから」
清水の中で、歓声をあげながら仲間と遊ぶのは楽しかった。子供のようにはしゃぐ主と一緒に泳いだり水を掛け合ったり、服をずぶ濡れにして和泉守に笑われたのも堀川にとってはいい思い出だ。
でも、と彼は思わず呟く。
「僕は、主さんにとってどんな刀でいたらいいんだろうって、主さんは僕をどう思っているのかなって……ちょっと、考えちゃったときもありました」
物吉や五虎退と比べると、堀川と藤の距離はまだぎこちない。
主に信頼されているのか、そして自分は主を信頼していると言えるのか。答えは、どちらからも出ていないままだ。
「でもよ、国広。この前、あいつからお守りを貰ってただろう?」
和泉守はプラスチック容器に入った焼きそばを割り箸で解しながら、堀川に言う。
「何か、昔拾ってきた木の種か何かを入れてるそうじゃねえか」
「それなら兼さんだって、貰ってたよね」
「そうだけどよ。とにかくオレがお前に言いたいのは、お守りを渡してくれたっつーことは、あいつはお前をそれなりに大事にしたいって思ってるってことじゃねえか?」
澄んだ沢と同じ色をした堀川の瞳が、静かに見開かれる。
自分でも気付かない間に、少しだけとはいえ距離は縮まっていたのだと知り、彼の顔に小さな驚きが広がった。
「そうだね、兼さん。……うん、僕も同じような気持ちになれたら嬉しい、かな」
諦めの境地で接するのではなく、心底から好ましいと感じて主の隣にいたいと堀川は願う。背中を押すように、歌仙も静かに頷いて見せた。
「さあ、飯も食ったし、次は何か遊戯に手を出してみてえな。五虎退から聞いたんだが、魚を掬う遊びがあるんだろ?」
気持ちを切り替えるように、和泉守は膝を打って提案する。驚くほどあっさりと、彼は周りの空気を入れ替えることに長けていた。
戦場でも、きっと硬軟を使い分けて場の空気を支配するのだろうと、歌仙は和泉守の強さを改めて感じる。
「金魚掬いはよしてもらえないか。育てる場所がないのだから、金魚のほうが気の毒だ」
「その心配は無用だぜ。この万屋の金魚は、みんな式神の一種だからな。掬ったところで一日もすれば消えてしまうようになってる」
突如横合いから声をかけられ、歌仙はそちらへと顔を向ける。視線の先には、夜闇の中でもぼうっと浮き上がる白い髪の青年が、こちらへ手を振っていた。
波間を羽ばたく鶴という派手な模様の浴衣に、腕には小さな少女を抱えている姿は、去年と全く変わらない。
藤の知り合いでもある審神者の娘、更紗の刀剣男士である鶴丸国永だ。
「鶴丸、それに更紗嬢も。きみたちも来ていたんだね」
「おう、歌仙。一週間ぶりぐらいか? いやあ、今年も万屋の屋台は盛況だから、きみたちには会えないかと思ったぞ?」
「おや、きみはそんなに僕らの主に会いたかったのかい」
「主の方がな。藤殿に挨拶するまで帰らないとお冠だ」
歌仙は、視線を鶴丸の腕の中にいる彼女に向ける。更紗の頬は愛らしくふっくらと膨れていた。どうやら、鶴丸と喧嘩でもしたらしい。
「今日はこの後、きみたちが去年教えてくれた高台に向かうつもりなんだ。花火の時間に来れば、会えると思うよ」
「そうか! それなら、その頃にまた邪魔させてもらおうか」
鶴丸はからからと笑い、よかったなと更紗に微笑みかけた。更紗も無表情ではあるものの、こくりと頷いてみせる。
「そういえば、藤殿は最近どうなんだ? 何か困ってたりしないか?」
ふと、鶴丸に尋ねられて、歌仙は「そうだねえ」と一拍置いてから、
「いつも通りだよ。最近は、膝丸と髭切が少しぎくしゃくしていたようだったから、仲介役を買って出ていたね。あの二人も、ようやく落ち着いたみたいだ」
「夏って暑くて大変なのに、主さんはむしろ元気ですよね。僕も見習わないといけないって思ってます」
歌仙と堀川の語る藤の近況を聞き、鶴丸はうむうむと笑顔で頷いてから、
「髭切と、ねえ。仲が良いんだな」
「彼も本丸に来て一年経つから、何かと相談しやすいんだろう」
そこまで言ってから、歌仙は観察するような視線で鶴丸を見つめる。先ほどの鶴丸の言葉に、一瞬含むものを感じ取ったからだ。
だが、肝心の鶴丸はいつもと変わらない様子で微笑むと、
「相談相手がいるなら、この前みたいなことにはもうならないだろうな。いやあ、よかったよかった」
ニッと人なつっこそうな笑みを浮かべてから、ひらひらと手を振って彼はその場を後にした。気にしすぎだろうかと歌仙が視線を鶴丸から外すと、
「……あいつ」
「和泉守?」
警戒するような和泉守の声に、反射的に歌仙は声をかける。
「いいや、何でもねえ。之定、国広、じゃあ次は金魚掬いとやらに行こうじゃねぇか!」
同行する二人を先導するように、和泉守は二人を追い抜いて歩き出す。その視線の先には、小さくなっていく白い背中が見えた。
「……あの野郎。何か、探ろうとしてたな」
自分一人だけでも警戒はしておくかと、和泉守は心中で静かに決意を固めたのだった。
***
物吉と五虎退は今日に限り、ある大任を任されていた。
それは、次郎と乱と共に祭りを満喫するという任務だ。
とはいえ、先に近所の夏祭りでそれなりに経験を積んできた二人は、大きな問題を起こすこともなく祭りに馴染んでいる。
昨年、髭切がふらりと消えたときに訪れた狼狽と比べれば、今は落ち着いて程々に楽しめていると言えよう。
「んー! これでお酒があったら、言うことなしなんだけどねえ!」
屋台で売られていた牛串を頬張りながら、次郎は少し残念そうに言う。今回の祭りでは、酒で羽目を外すものが出てこないように、アルコール類の販売は行っていないようだった。
「お酒はここにはありませんね。でも美味しいご飯なら沢山在りますから」
「そうかい? じゃあ、どんどん食べていこうか! ほら、物吉も!」
次郎から渡された牛串を受け取った物吉は、代わりに持っていた烏賊焼きを次郎に差し出す。その隣で乱は鈴カステラを数個頬張っていた。
「ボク好みの、可愛いものも沢山あるんだよね。さっき、五虎退が飴細工を作ってもらってたよね?」
「は、はい。僕の虎くんたちを……ちょっとだけ」
五虎退の手には、白く艶々と輝く猫の子を模した飴があった。薄らと入った黒の縞が、それが虎の子であることを教えてくれている。今は半分ほど舐めたり囓ったりしたせいで、原型は少し崩れていた。
「あ、あるじさまと、ボール掬いもしたんです。あるじさま、いっぱい、いーっぱい掬ってました」
五虎退のもう片方の手には、白いビニール袋に入ったカラフルな球が収まっている。去年の約束通り、藤は五虎退と一緒にボール掬いに興じ、その戦果は今彼に預けられている。
「いいなー。ボクも後であるじさんと遊んでもらおうっと。あ、五虎退、見て! あっちにお面が売ってる!」
ぴょんと跳ねた乱は、弾む足取りをそのままにお面を売っている屋台へと駆け寄る。
そこには、外の世界で人気のキャラクターものから、定番の狐面、猫面までもがずらりと並んでいた。乱は「どれにしようかな」とうきうきした様子で指をあちこち彷徨わせてから、
「これにしようっと。あるじさんにもお土産で買ってあげたいな~」
お面選びで暫くかかりそうな乱を一旦物吉に任せて、五虎退は次郎の側に駆け寄る。
去年の髭切のようにはぐれてしまってはいけないと、五虎退は数歩先にある背の高い背中をじっと見つめていた。
「あ、待ってください、わあっ。押さないで、ください~……」
だが、五虎退の背丈は小さく、次郎は大きい。次郎の歩幅に追いつこうと頑張れば頑張るほど、彼は人混みの波と戦わねばならなくなり、そしてあえなく敗北した。
雑踏から弾き出されるようにして脇道に抜け出た五虎退は、
「あいたっ」
今度は何か質量のあるものにぶつかってしまう。
屋台の備品だったらどうしようと、慌てて五虎退は周りを見渡し――血相を変えた。
そこには、しゃがみこんでいる人影があった。
気分が悪くて蹲っていたのだとしたら、そんな人にぶつかるなんて一大事だと、五虎退は顔を真っ青にして、
「あ、ああああの!! だだっ、だい、大丈夫ですか!?」
慌てすぎるあまり、言葉すらしどろもどろになりながら、五虎退は身動きすらしない人物に問う。
果たして、その人物はゆっくりと顔を上げ、
「あ!」
「あっ」
同時に、驚きの声が揃う。
ゆらゆらと揺れる提灯の下で、鈍く輝く柘榴色の髪。きりりとつり上がった蒼の瞳。
どこかで見たことがある、と思う必要すらない。
「演練の時に、あるじさまを怒ってた人……」
「ちょっと、それは謝ったでしょ!」
すっくと立ち上がったのは一人の少女だ。五虎退が言うように、以前演練で藤を叱り飛ばし、その後はクリスマスの頃に五虎退たちと再会していた。最近は、手入れを放棄していた藤の代わりに、本丸の仲間の傷を癒やしに来てくれたことが記憶に新しい。
その少女は、いつもはおろしている髪を簪でまとめているせいか、前に会ったときよりすっきりした雰囲気を纏っていた。
着ている白百合の浴衣も、彼女を大人びて見せている。だが、猛抗議する様には、年相応の子供っぽさが覗いていた。
「あの、ぶつかってしまって、ごめんなさい」
「ああ、それは……別に、いいのよ」
だが、どういう理由だろうか。
五虎退が謝ると、彼女はすぐに先ほどまでのつんけんした様子を収めてしまった。礼儀を意識した振る舞いというよりは、まるでかき消された蝋燭のように、元気が抜け落ちてしまっている。
気のせいだろうか。提灯に照らされた彼女の目元は、どこか赤くなっているようにも見えた。
「五虎退、どうかしたんですか。って、あっ!!」
立ち止まって話し込んでいる五虎退に気が付いた物吉は、話し相手が誰かを察知して思わず声をあげる。。
「ええと……この前、本丸に来て手入れをしてくれた人ですよね」
「そんなこともしたわね。あんた達の主が引っ込んでたから、手入れをしてくれって頼まれたんだっけ。……あの後どうなったの?」
どういう理由か、素っ気なく問う少女の態度の裏には、ちらりほらりとこちらへの興味が覗いている。単なる好奇心とは違うようだが、何はともあれ、今は問われた以上答えないというわけにもいかず、物吉が回答を買って出た。
「はい。あの後、主様も戻ってきて、今は以前よりも楽しく過ごせています」
「――そう」
まただ、と五虎退は気が付く。
今まで会ったのは三度だが、三度とも常に彼女の中には燃え盛る炎のような苛烈さがあった。だが、今はまるで水でも被せたように鎮まっている。
彼女が着ている白百合の浴衣も、これまで目にしてきた彼女にはまず似合わないだろうが、眼前にいる意気消沈とした彼女が纏うには相応しいもののように見えてしまうほどだ。
「おやおや、五虎退。いったいどうしたんだい、こんな所で立ち止まって」
「五虎退、あるじさんのお面を買ってきたよー……って、この子、誰? どっかで見たことがあるような気がするんだけど」
次郎と乱も集まってきて、見知らぬ刀剣男士に囲まれたせいか、彼女は俯いたまま押し黙ってしまった。
乱はともかく、次郎は上背のせいで無自覚に相手に圧迫感を与えてしまう場合もある。
できる限り彼女を萎縮させまいと、五虎退はぎこちないながらも笑顔を浮かべてみせた。五虎退の不格好な笑みにつられて、少女の頬にも小さな笑みが揺れたのを確かめてから、
「あの、この前一緒にいた刀剣男士の方は、どこにいるんですか?」
五虎退が覚えている限り、少女はいつも藤色の髪をした山吹色の鎧を纏う刀剣男士を側に控えさせていた。だが、今の彼女の側には彼の姿はない。
「……今日は来てない」
「じゃあ、他の誰かと一緒ではないんですか?」
今度は沈黙が返ってきた。
先ほどまで蹲っていた様子に加え、泣きはらしたような目元の腫れ。更に、この意気消沈した様子。
もしかして、と五虎退は一つの結論を導き出す。
「あの、ひょっとしたら、迷子……ですか?」
彼女のことだから、迷子などという不名誉な発言を聞いたら、事実はともかく強がってみせるのではないかと思っていた。
しかし、五虎退の予想に反して、彼女は静かに頷いてみせる。
唇を噛み、胸の内側から湧き上がる何かを押さえつけようとしているのに、上手く取り繕えていない。そんな様子は、在りし日に主が浮かべ続けていた仮面の笑顔を五虎退に彷彿させる。
だからだろう。彼の細く白い手は、いつの間にか少女の手をとっていた。
「も、もし、よかったらですけど……僕がお手伝いして、それで、一緒に来た人と合流できるようにします。この前、皆の手入れを、あるじさまの代わりにしてくれましたから」
彼女は暫く迷う素振りを見せていたが、やがて静かに頷いた。
白百合の浴衣を締めている帯の上では、真っ赤な椿の帯留めが、提灯の光の下で光っていた。