本編第三部(完結済み)

 じわじわとやかましいぐらい鳴いているのは、アブラゼミだろうか。それとも、クマゼミというのだろうか。間に響く、妙に伸びやかな音はツクツクボウシだったかもしれない。以前、母に名前を教えてもらうまで、それぞれの蝉に適当な名前をつけていた日もあったなと、藤は思い返す。
 その蝉の大合唱を背景に、わあっと子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。今目の前を通り過ぎていったのは、桜色の髪をした少年だ。あどけない表情といい、五虎退に似てどこか控えめな走り方といい、彼が刀剣男士と知っていなかったら、ただの小学生の子供に見えていただろう。

「秋田、こっちだこっち!」
「はやく、ろーやのとびらをあけてほしいんだぞ!」

 牢屋と少年たちが言っているのは、庭の端に引かれた丸い線の中を指している。
 今彼らがやっているのは、藤が小豆に教えた『警察と泥棒』という遊びである。基本は鬼ごっこと同じだが、この遊びでは、逃げ回る泥棒は警察に捕まって『牢屋』に入れられた後も、他の泥棒にもう一度触れてもらうことで外に出られるという脱出方法が設けられている。
 先ほどから見ている限り、警察の数を最初に少なめにしたからか、泥棒が全体的に善戦しているようだ。
 秋田と呼ばれた少年は、慎重に周りの様子を窺いながら『牢屋』に近づくものの、

「さて、わたしのてをかいくぐって、なかまをたすけられるかな?」

 牢屋の見張り番に抜擢された小豆が、少年の前に立ち塞がっている。
 この時ばかりは、茶目っ気を僅かに残しつつも悪役然とした彼の振る舞いは、観戦しているだけの藤にも、どきどきさせるものがある。
 そんな一進一退の攻防を、懐かしさと、彼らに混ざって駆け回りたいという気持ちに挟まれながら眺めていると、

「ああいう遊びは、参加してみたいと思う方か?」

 落ち着いた青年の声に、藤ははっと我に返る。
 暫しの間、彼らに視線を奪われて、自分がどこにいるかを藤は失念してしまっていた。
 ここは、藤の本丸ではない。先日、膝丸と出かけたときにも出会い、更にその前にはお礼を言いに行くつもりが、八つ当たりめいた発言までしてしまった相手。
 先輩の審神者である煉の本丸に、藤は今、足を踏み入れ、お菓子を間に挟んで、軽い雑談をしていた。

「僕が小さい頃は、よく一人であちこち探検していたもので、何だか懐かしくなってしまって」

 下手に取り繕うよりは、素直に気持ちを話した方がいいと、藤も遊びに興じている彼らへの気持ちを語る。
 話している間にも小豆と向かい合っていた子供が、えいっと彼の脇を通り抜けようとしていた。

「小豆長光は、子供の面倒を見るのが得意な刀剣男士なんだな」
「すみません、勝手に遊びの時間にしてしまって」
「いやいや、あいつらがあんなに自由気ままに遊べてるのに、謝る必要なんてない。正直、最近顕現した謙信景光については、周りに馴染んでいないようだったから、俺もどうしたものかと、困っていたところなんだ」

 その謙信という名の少年は、今まさに『牢屋』の中で救世主たる仲間に声をかけている刀剣男士のことだった。
 応援をしている少年の姿を見ていると、彼が周りの空気に馴染めていなかったとは、とても思えなかっただろう。そういえば、元はどこか寂しげな様子の謙信を目にして、小豆があの遊びを提案していたようだったと、藤は思い出す。

(単なる鬼ごっこでもいいはずなのに、わざわざ警察と泥棒の追いかけっこにしたのは……僕に配慮してくれたのかな)

 そんな自惚れを抱いてもいいだろうか、と藤は少年たちに翻弄されている小豆を眺めながら思う。
 とはいえ、いつまでも小豆と子供たちを眺めているわけにもいかない。藤は改めて正面に向き直り、こほんと一つ咳払いをする。
 空調の効いた部屋に、い草の香りが心地よい畳の上には、綺麗に磨かれた机。床の間には、名前は知らないが趣のある掛け軸が一つ。きっと歌仙が見たら喜んでいたことだろう。
 もっとも、藤が今喜んでいるのは、目の前に並べられている水饅頭や水ようかんといったものの方である。
 先輩に世話になったお礼と、先日の詫びも兼ねて持ってきたのだが、彼は「気にしないでくれ」と言うばかりで、寧ろ藤たちが客としてもてなされる運びになってしまった。

(あまり遠慮ばかりしていると、逆に失礼だよね)

 そんな心持ちで、藤は水羊羹の一つを口に含む。ひんやりした甘みに頬を緩ませていると、

「主は甘い物を食べると、幸せそうな顔をするよねえ」

 横合いからの声に、藤の口角が不自然な形で固まることになってしまった。
 彼女の隣には、小豆と同じく本丸から供としてやってきた刀剣男士――髭切が座っている。戦装束の姿ではあるものの、楽な姿勢をとっているために、彼の佇まいは優雅というより長閑という言葉が似合っていた。

「甘味で幸せが得られるのは、よきことだな。主もこう見えて、自分の好物が出ると、目の色を変えるのだぞ」

 続けての返事は、机を挟んで髭切の眼前に座っている三日月宗近だ。以前目にしたときと変わらない美貌はそのままだが、今日は藤と同じく水饅頭を取り皿に置いているからか、美しさより愛嬌が目立つ。

「髭切、余計なことは言わなくていいからっ」
「三日月。客人の前でそういう話をされると、俺の立場としても困るんだが……」

 二人の審神者は、揃って自分の刀へと苦言を呈する。だが、苦情を言われた二人は、にこにこと笑うばかりである。

「と、とにかく……そう、最近、戦績の方はどうなんだ?」

 何度か軽く咳払いを挟んでから、煉は藤に無難な話題を持ちかける。
 茶飲み話としてはやや物騒な内容だが、審神者同士が出会ったからこそ、できる話とも言える。

「大きな変化はありません。出陣してもらうときは、正直その……いつも、ひやひやはするのですが、無理して身構えなくなったので、少し落ち着いて迎えられるようになったと思います」

 以前は、彼らが怪我をしていても、平然としているべきだと心を縛っていた。
 だが、自分が決めた在り方が己の心を苦しめているのなら、そんなものは捨ててしまえばいい。
 物吉が言ってくれた言葉が、今も藤ははっきりと覚えている。だから、彼女は素直に不安を感じつつ、彼らを待つようにしていた。

「それに、以前よりは本丸に残る刀剣男士がいて、そのおかげで少し気も紛れるというか」
「ああ、一人で待つのは、堪えるものがあるからな」
「煉さんも経験があるんですか?」
「最初から六振り以上を顕現できるような真似、できるように見えるか? 一振り一振り、顕現していくのには相応に時間をかけた。当然、一人での留守番も経験済みだ」

 昔を懐かしむように、彼は目を細める。その瞳の先には、きっと孤独な夜を過ごした頃の自分がいるのだろう。
 藤も、黒焦げの野菜炒めを腹に流し込んで、歌仙たちの帰還を待っていた日を、昨日のことのように思い出していた。

「怪我をして僕らが帰ると、主はいつも血相を変えて手入れをするんだよ」

 水羊羹を竹串ですーっと切り分けながら、ついでとばかりに髭切は話す。

「威厳がない主で申し訳ないけど、でもこればかりは慣れなくって」
「威厳はないかもしれないけれど、慣れないでいるのが主らしさなら、それでいいんじゃないかな?」
「うむ。血に慣れぬということは、平和な世で生きた証。人の死や、流れ出る血に慣れてしまうのも強さなら、それらに怯えながらも目を逸らさず対峙し続けているのも、強さだ。そうだろう、主?」
「……それは、一応俺を褒めていると、とっていいのか」
「なんだ、じじいの褒め言葉はいらないか?」

 照れ隠しなのか、煉は三日月を肘で軽く小突いた。先輩であり大人だと思っていた彼も、そういうやり取りを交わしていると、彼も自分と同じ審神者なのだと実感する。
 煉との間に感じていた、年齢の差や先輩に対する過剰な謙遜といった名前の壁は、藤の中でゆっくりと溶けていった。

「こう見えて、この主も昔は大層背伸びをしていてな。あれはそう、まだ主が二十になる前の話だったか」
「三日月、水羊羹のお代わり、貰ったらどうだ?」

 ややわざとらしいぐらい大きな声で、煉は取り皿に素早く水羊羹を竹串で運び入れる。
 再び、三日月がもぐもぐと甘味に舌鼓を打っている間に、審神者たちは刀剣たちの暴露話から退避する方向へ、話を持っていこうと決意した。

「そ、そうだ。煉さんは夏祭りには行くんですか?」
「夏祭り……ああ、万屋が主催しているアレか。行きたがる刀剣たちには、行かせようと思っている」
「楽しい夜になるといいですね」

 そこまで言って、藤はおや、と首を捻る。
 煉の発言には『刀剣たちには』とあったが、自分のことはそこに含まれていないように聞こえた。

「煉さんは、参加しないんですか?」

 批難ではなく、純然たる興味から藤は尋ねる。すると、今度は煉ではなく三日月が口を開いた。

「主は、あの手の祭事は子供が遊ぶ場だから、自分が行っても仕方ないだろうと言うのだ。俺からすれば、主も子供と大差ないのだがなあ」

 三日月の舌は、どうやら水羊羹程度では止まらなかったようだ。はっはっはと笑いながら、語られた内容を聞いて、藤はどう返そうかと一瞬悩む。
 藤としては、夏祭りは友人や家族同士で老若男女を問わず楽しむものであり、当然として子供だろうが大人だろうが関係ないのではと思っていた。
 しかし、煉の考えが三日月の語る通りなら、自分は年齢を弁えず子供っぽい考え方とをしていることになる。
 その気持ちの変化が顔に出てしまったのか、慌てたように煉は続ける。

「別に、子供しか行くべきじゃないと考えているわけじゃない。単に、俺個人としては、あそこは何というか……子供の時分に卒業を済ませた場所、という印象が強いんだ」
「僕の主は、寧ろ今でも童みたいにはしゃいでいるよね」

 祭りが近くなってきて浮き足立っている心情を、髭切に暴露され、藤は顔を赤くする。

「浴衣は全員分揃えるし、近所の祭りに行かせて、予行演習もしていたぐらいから」
「だって、せっかく行くのに、慣れてなくて楽しめなかったら悲しいじゃないか」
「うむ、遊ぶときは全力で遊ぶ。それは、俺たちとて変わらない。藤殿は良き主のようだ」

 三日月にも賛同を受けて、藤は無言でこくりと頷く。とはいえ、些か自分は子供っぽすぎるのだろうかと思う部分は、拭いきれなかった。

「楽しみを与える行事を、素直に満喫できるのは良いことだと俺も思う。俺は、ちょっと捻くれて育ってしまったせいだな」

 煉は苦笑いで場の空気を濁してから、三日月を軽く睨む。もっとも、三日月は大袈裟に眉を持ち上げて片手で小さく謝罪の意を示しただけだった。
 ひょっとしたら、三日月はこの青年に対して、童心に返って遊んでほしいと願っているのだろうか。
 藤は何となくそう考えたが、今は口を噤んだ。流石に、年上の相手に助言をするほど、図々しくはなれない。

「子供の頃は、夏祭りが何だか特別な行事みたいに思えましたよね」
「ああ。万屋の祭りは、年を重ねても変わらない独特の賑やかさがあるんだ。刀剣男士の中に紛れて遊ぶのは、別世界に紛れ込んだみたいで楽しかった」

 煉の昔話を聞いて、藤は首を傾げる。

「万屋の祭りに……もしかして、ずっと小さい頃から審神者を?」

 万屋の存在は、審神者や刀剣男士、あとはイチのように審神者の関係者ぐらいしか入れまいと藤は思っていた。
 更紗のように、子供の審神者がいるのなら、彼もその一人かと想像しての問いだったが、煉はゆっくりと首を横に振る。

「俺が審神者になったのは、もう少し大きくなってからだ。母が審神者……だったから、彼女の伝手で連れて行ってもらっただけだ」
「おお、そんな抜け道もあるんだね」

 髭切は素直に感心の声を漏らす。だが、煉は髭切とは対照的に、どこか苦々しい感情を浮かべていた。

「一度だけだったんだけどな。ただ……そのとき、祭りの会場で迷子になってしまったんだ。母に心配をかけて……多分、それからだろうな。ずっと子供のままではいられないって、思うようになった」

 迷子になって親に心配をかけた経験が、煉にとっては子供時代の卒業に繋がったのだろうと藤は推測する。
 人はいつまでも親に甘えてはいられない。そのように考えると、自分も山奥の村から立ち去った時、子供時代の『自分』を眠らせたのかもしれない。
 母におぶわれて安らぎ、父の不在を泣いて悲しみ、老人たちに鬼の子と慈しまれて無邪気に喜んでいた自分ではいられないのだ、と。

「俺たちには、分かりかねる感情だな。なあ、髭切」

 三日月に水を向けられ、髭切もすぐに「そうだね」と相槌を打つ。そんな彼らのやり取りを、藤ははっとした表情で見つめた。
 大人の姿として、あるいは子どもの姿として顕現する刀剣男士は、いつまで経っても成長しないと聞いている。だから、彼らには子供時代そのものが存在しない。
 子供の姿の五虎退が大人になる日はなく、大人の姿の髭切が幼かった日もない。
 彼らにとっては当たり前だが、自分とはあまりに違う存在だと気付かされる発言に、藤は口を噤む。
 だが、

「でも、主の童みたいな元気は、無理に捨てなくてもいいんじゃないかな。ご飯を沢山おかわりする所とか、アイスを盗み食いして歌仙に怒られるところとか。昨日は五虎退たちと山に入って、泥だらけになって帰ってきたね」
「髭切っ!!」

 真面目な話をしていたはずなのに、唐突に本丸内での様子を公開されて、藤は恥ずかしいやら、少し怒りを抱くやらで、顔を赤くする。もっとも、当の髭切はどこ吹く風だ。
 これは、もっと髭切に注意すべきだろうかと藤が身構えたとき、

「おーい、大将!!」

 不意に、縁側から一人の少年の声が聞こえた。
 揃ってそちらを向くと、真っ赤な髪の少年がぶんぶんと煉へと手を振っている。その後ろには小豆長光が控えていた。

「小豆さんが、近くに川が流れてるなら、川遊びはどうかって言っているんだ。大将たちも行かない?」

 少年は煉だけでなく、藤にも笑ってみせる。人なつっこい小型犬を思わせる愛嬌のある笑顔に、藤も思わず笑みを返した。

「主、行ってきてはどうだ。接客なら俺がしておこう。たまには、短刀たちと遊んでくるといい」

 三日月は優雅な笑みを浮かべながら、煉の背中をぽんと軽く押す。

「主も、顔が行きたいって言ってるよ」

 髭切に指摘され、藤は反射的に顔に手をやる。
 実際、川遊びは夏の遊びとして、藤が大いに好むものであった。先日も、物吉や五虎退、乱を引きつれて全身水浸しになって帰ってきたぐらいである。
 だが、だからといって招かれた先の本丸で、図々しく遊んでいいのかという迷いはある。
 しかし、助け船はすぐに煉から差し向けられた。

「小豆の主はあなただろう。それなら、あなたが同伴するのは何も不自然なことじゃない。それに、俺もそっちに行くのだから、刀は刀同士、審神者は審神者同士で帳尻が合っていいんじゃないか」

 藤がうずうずしている様子が伝わってきたのか、はたまた自分も涼しげな水場に赴くことに興味を抱いたのか、或いはその両方か。
 彼にそこまで言われたのなら、断る理由もなし。藤は髭切に簡単な注意を残して、縁側から庭へと降り立った。
 
 八月の太陽はギラギラと照り付けており、外に出ると多少の暑気は感じる。だが、それも藤の本丸に比べれば控えめな方だ。
 山間にある煉の本丸は、周りに木々が多いからか、都会にありがちの熱気からは解放されているらしい。
 玄関口に回り、靴をとって戻ってくると、出立の準備をしていたらしい小豆と、ばったり出くわした。

「あるじ、はなしはもういいのだろうか」
「うん。大事な話は最初に全部済ませちゃったから。短刀の子たちは?」
「みんな、さきにかわにいってしまったようだ。こどもたちは、たしょうのあつさも、ものとしていないらしい」
「子供は元気なのが一番だよ。はしゃいで、遊んで、疲れたら眠って、そうやって当たり前に過ごしていてほしい……なんて、刀剣男士の皆には言うべきじゃないのかもしれないけど」

 先ほど三日月が話したように、刀剣男士は成長しない。彼らには、幼い頃という概念そのものがない。
 けれども、子供の姿をしていたら、それは当然伸びやかに過ごしてほしいと願ってしまうものだ。

「ああ、わたしもそうおもう。あまいすいーつをみて、めをかがやかせているこどもたちをみていると、わたしもむねがあたたかくなる」

 刀剣男士としては不要な考えと否定されるかと思っていた藤は、小豆が全面的な同意を見せてくれたことに、僅かな驚きを浮かべる。

「あるじも、そうだぞ。あるじがうれしそうにしていると、わたしもうれしくなるのだから」
「僕は、小豆から見たら子供なの?」
「はは、さてどうだろうな」

 朗らかに笑いながら、小豆は藤の頭をぽすぽすと軽く撫でる。太陽の下で子供たちと駆け回っていたからか、そこからはお日様の香りがした。

「何でだろう。歌仙や髭切に子供扱いされると、ちょっとムッとするけど、小豆に子供扱いされるのは、何だか平気」
「それはまた、ふしぎだな。もっとも、こどもあつかいとはいえ……わたしは、あまいばかりではないのだぞ?」
「えっと……お手柔らかにお願いします」

 わざとらしいまでに、おどおどした様子を見せると、少し強面の表情を作って見せていた小豆はすぐに口元を緩め、朗らかな笑顔を浮かべた。

「だが、あるじはつねにじぶんをいましめている。わたしがなにかいうひつようはなさそうだ。さあ、そろそろいこう」

 小豆に促され、藤はこくこくと頷いて微笑む。背が高く、優しくもちょっぴり厳しい部分もある小豆の隣を、鼻歌交じりで藤は歩く。
 自分より背が高く、少し遠くに見える穏やかな視線。太陽の匂いのする人。がっしりとした体格は、力持ちの表れなのだろう。

(――もし、お父さんが生きていたら、こんな感じだったのかも)

 目を細め、ありえなかった未来を、藤はそっと目蓋の裏に思い描いた。

 ***

「随分と、気がそぞろのようだが?」

 突如、目の前の男――三日月宗近にそんな言葉を投げかけられ、湯呑みに伸ばしかけていた手を、ぴたりと止めた。

「何がだい?」
「髭切。お前のことだ。先ほどから主が出て行った門の方を、じーっと見つめているではないか」

 指摘されて、ようやく髭切は自分の視線を三日月宗近へと戻す。
 優美に微笑む彼の顔には、いったいどんな気持ちが潜んでいるのか。年の功か、それとも本人の性格のせいか。髭切の目からは、三日月宗近の感情が読み取れなかった。

「そんなに見ていたかな」
「主に執心するのは俺たち刀の性だ。それを止めろと言える立場ではないが、本分を忘れるほどのめり込めば、後悔するやもしれぬ。特に『髭切』という刀なら、なおさら」

 三日月の思わせぶりな発言に、髭切は手を膝の上に置き直して居住まいを正す。どうやら、ただの茶飲み話というわけではなさそうだ。

「僕なら、というのはどういう意味だい」
「髭切という刀剣男士を、俺は主に顕現されてから何度も目にしてきていた。彼らに共通して言えたこととしては、髭切という刀は総じて、自身の主が自分の仕えるに足る器を持つかどうか、推し量る側面が強いようだ」

 三日月に言われて、髭切は無言のまま改めて己を見つめ直す。
 確かに、顕現した時分は、藤の器を見定めようとはしていた。
 だが、鬼である己を斬ろうとした刀に対し、それが己の貫く正義だと信じているなら、斬ってもいいと彼女は言ってのけた。振り下ろされる刃を前に、恐怖を感じつつも退きはしなかった。
 その一連の流れを踏まえて、彼女は仕えるに足ると髭切は判断した。
 何より、髭切が一人で抱え込んでしまっていた、生まれたばかりの心についた傷を、彼女は追いかけて拾い上げてくれた。その点においてだけでも、髭切にとっては刀を捧げたい相手だと思えたのだ。
 弟の膝丸に問われたとしても、髭切は堂々と藤を自身の主と認めると宣言する心づもりでいた。

「僕は、主に対してもっと厳しく接するべきだと言いたいのかな」
「いいや。それは自身の考えに委ねるべき点だ。だが、だからこそ、俺はお前の目が気になる」
「僕の目?」
「藤殿を見守る、優しい目だ」

 それの何が気になるのかと、髭切は首を傾げる。

「主の一挙一動を語るお前の目はあまりに優しく、そして星のように輝いていた。だからこそ、俺は少し気がかりなのだ」
「何が、気がかりなのかな」
「その優しさが、良からぬ方に傾くのではないか、と」

 三日月と髭切以外、誰も居ない空間に、痛いほどの沈黙が下りる。あれほど五月蠅く鳴いていた蝉も、漂う空気に圧倒されて押し黙ってしまっているほどだ。

「良からぬ……?」

 だが、髭切には三日月が何を言いたいのかがさっぱり分からない。主のことを嬉々として語って、いったい何が良くないというのだろうか。
 自分がつけていた仮面を外し、皆の前で己の考えを明らかにして宣言してみせた藤。その日から、彼女は髭切が求めていた笑顔で笑うようになってくれた。
 彼女が咲かせる笑顔の花は、今は珍しいものでも何でもない。そんな当たり前が、堪らなく嬉しい。
 日常の何気ない一つ一つの出来事に顔を輝かせる彼女を見守る。そんな日々が愛おしい。
 その思いの、何がいけないのか。

「俺たち刀は、物であるからな。自分が一番、主に使われたいと思ってしまいがちだ。……まあ、つまり、あまり欲をかかない方がいいということだな」

 もっともらしい言葉を、三日月宗近は並べている。
 彼の意見も納得できるものではあったが、果たしてそれが三日月の心中を全て表しているのかは、髭切には分からなかった。

「承知しているつもりだよ。主は、皆の主だ。主のことを皆が受け入れてくれるようになって、皆が主の笑顔を見られるようになって、僕も嬉しいと思っている」

 そのはずなのに。
 ――何故だろう。
 どういうわけか、わけもなく胸が痛い。
 皆に笑いかけている主をふと想像したとき、心の奥が嫌な痛みを感じている。
 そんな痛みは忘れようと、髭切はぐいと湯呑みを呷った。
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