短編置き場

 春の足音はまだ少し遠く、鶯の鳴き声はまだ聞こえない時期のある日の昼下がり。
 この本丸の初期刀である歌仙兼定は、憤懣やるかたなしと言う顔をして縁側に腰掛けていた。彼の膝には、今晩使うサヤエンドウが積まれたザルが置かれている。

「主の勝手な行動も、まったく程々にしてほしいものだね」
「今度は何をしていたの」

 彼の隣で歌仙の作業をじっと見ているのは、歌仙同様本丸の古参にあたる髭切だ。

「遠征の帰りを玄関で待っているうちに、寝こけていたんだよ。彼らは帰りが遅くなるからもう寝るようにと言ったのに、そして本人も『分かった』と言っていたにも関わらずね」
「彼女らしいよねえ」
「らしいよねえ、じゃないよ。まったく」

 本丸に課せられる任務も刀剣男士の人数が増えるごとに増していく一方であり、都合上帰りが遅くなることも少なくない。
 その度に彼らが帰ってくるまで主が起きていたら身が持たないと何度も歌仙は言っているのだが、どうにも主である彼女には効き目が薄い。昨日は本丸の新人である者たちも多数混ざっていたからというのも、理由の一つではあったのだろう。

「それで、主は朝からずっと寝ているの?」

 空を見上げれば、太陽はとうの昔に中天を過ぎている。時刻で言えば、そろそろおやつの時間が近い頃だ。朝から寝ているのなら起きてくる頃合いだろう。
 はたして噂をすれば影がさすという言葉通り、ペタペタという軽い足音が聞こえた。二人してそちらを向けば、そこには朱け色の髪にその人物の名の通り藤色の瞳の人物が立っていた。
 誰だと思うまでもない。この本丸の主──藤である。

「起きたんだね、主。あまり夜更かしをすると生活のバランスが崩れるよ」
「うん」

 歌仙の小言などどこ吹く風とばかりに、彼女は気のない返事をする。

「おはよう、主」
「……うん」

 続く髭切にも生返事をしながら、藤は歌仙たちに近づ──こうとして、ぐらりと体を傾げさせる。

「主!?」

 正面から倒れ込みかけた藤の体を、咄嗟に立ち上がった歌仙が支える。彼の膝からザルが転げ落ちて、鮮やかな緑が地面にばらまかれた。

「……あーあ。歌仙、サヤエンドウ落ちちゃったよ」
「そんなことはいいから! 一体どうしたんだい!?」
「あー……実は、風邪、ひいたかも」

 少し赤くなった顔で、藤はへにゃりと力なく笑う。次いで、くしゅんという小さなくしゃみが彼女の口をついて飛び出た。

「昨晩寒かったのに、寝巻きだけで玄関にいたからだよ」
「だろうねえ。平気だと思ったのだけど」
「平気じゃないからそうなったんだろう。まったく」

 歌仙は慣れた手つきで藤の額と首元に手を軽く当て、熱をはかる。常よりかは、少しばかり高いようだ。しかし、当の本人は悪寒がするのか小さく震えていた。

「髭切。主を部屋に連れて行ってくれないかな。僕は看病の準備をするから」

 藤を廊下の柱に凭れ掛けさせてから振り返った歌仙は、そこにいる髭切の様子がおかしいことに気がつく。
 彼は目を丸くして、その場に釘づけになったように不自然な姿勢のまま硬直していた。

「髭切?」
「あ、うん。ごめんね。ちょっとぼーっとしていて」

 はっと我に返った髭切は軽く首を横に何度か振る。立ち上がった彼は、くしゃくしゃになった紙のように力なく手足を投げ出している藤を躊躇うことなく抱え上げる。所謂、お姫様抱っこである。
 普段なら下ろせと言われている所だったが、抱かれている本人の方も今日ばかりは熱と格闘中で文句を言う気はなさそうだった。

「…………」

 腕の中で体重を預けてぐったりしている主に、髭切はじっと目を落とす。普段浮かべている笑みも鳴りを潜め、何かを考え込んでいるかのようだった。薄目を開けた藤は、彼と視線を交叉させるものの口を開く余裕はなかった。

「主を部屋に連れていったら、何枚か布団をかけておいてくれるかい。暖かくしておかないと、余計具合が悪くなるからね」
「歌仙は──どうしたらいいのか分かるんだね」
「二度目だからだよ。前も裏山に遊んできた帰りに雨でずぶ濡れになって、寝込んでいたことがあるんだ」
「どれぐらいで治るものなの」
「前回と同じなら、二日もすればけろりとしているはずだよ。主は体力だけはあるからね」

 そこまで答えて、歌仙は髭切の様子が少しおかしいことに気がつく。ここまで根掘り葉掘り聞くことは、普段の彼ならあまりしないはずだ。
 よくよく見れば、いつもは飄々としていて穏やかな笑みを浮かべている彼が、分かりやすいくらいの動揺を顔に浮かべていた。

「髭切。そんな顔をしなくても、すぐに良くなるよ。主が元気になった時に、君が落ち込んでいたら主も困るだろう」

 歌仙のフォローを耳にして、ようやく髭切はぎこちなく頷いた。
 主を部屋に連れて行く彼の背中を見送りながら、歌仙は困ったように息を吐く。

「あれでは、部屋から出て行ったほうがいいというのは──聞かないだろうね」


***



 暗い。
 何も見えない闇の中を、体中に重りをつけて歩いているような気怠さが全身を覆っている。
 ふと肩にヒヤリと冷たい感触が走った。思わず悲鳴をあげようとしたのに、声は全く口から出てこない。
 これは、夢だ。現実でこんなことは、ありえない。
 分かっているのに、冷え切った何かは体中に纏わりついている。振りほどくこともできず、じわじわと熱を奪う何かに侵食されていく。手を掴まれ、足を掴まれ、口を塞がれ、目を塞がれる。
 意識がどんどん遠くなっていく。自分というものがなくなっていく。
 声を出さなくては。そうしなければ、誰も気づいてくれない。
 誰か、誰か──。

「────っ!」

 枯れた声は息をのむ音だけ発した。途端、冷たい空気が乾いた喉に一気に流れ込み、彼女は咳き込む。
 得体の知れない怖気は引き、黒の視界が一息の間に晴れていく。涙まじりの瞳に映ったのは、見慣れた自室の天井だ。

「嫌な夢、だったなぁ……」

 言葉を口にして、ようやく意識を覚醒させた自覚を得る。同時に頭の横からぐりぐりと錐でもねじ込んだような痛みが走り、藤は顔を顰めた。

「風邪、ひいたんだっけ」

 昨晩からの記憶を掘り返して、藤は自分の慢心に嘆息した。せめて毛布にくるまって帰りを待つべきだっただろうか。
 全身の気怠さは、夢でも現実でも変わらない。喉や鼻の異常がない代わりに、今回は発熱という形で症状が出てしまったのだろう。
 部屋の中は灯りが落とされて、カーテンの隙間から漏れ出る月明かり以外に部屋を照らすものはない。
 起こした体にぞくりと寒気を覚える。先ほどの夢を思い出して、言い知れない恐怖に身を竦ませ、

「主、起きたの?」
「わぁ!?」

 寝台のすぐそばから聞こえた声に、素っ頓狂な悲鳴をあげた。
 寝台のふちからひょこりと現れたのは、白金色の髪とブラウンの瞳の青年だ。彼の顔を見て、藤は全身を巡っていた緊張が緩やかに解けていくことに気が付く。

「びっくりした……お化けかと思った」
「お化けじゃないよ? とにかく──よかった。目を覚ましたんだね」

 ほぅと、青年──髭切の口から安堵の息が漏れる。常日頃は落ち着いて自分のペースを崩さない彼にしては珍しく、やや大げさなものに藤には見えた。

「主も起きたことだから、歌仙を呼んでくるね」

 すっくと立ち上がって藤に笑いかけてから、髭切は踵を返す。
 何てことのない所作を見て、けれども藤は微かに眉を顰める。出会った頃なら特に気にしようともしないで流していたが、今は彼の些細な所作の一つでもそう簡単に見過ごしたりはしない。

「髭切。待って」

 声をかけると、彼は部屋の襖の前で足を止めて振り返った。

「こっちこっち」

 寝台から滑り降りるのも億劫なので、手招きをして髭切を誘う。彼は大人しく再び主の元にやってきた。

「どうしたの、主」
「何か心配事でもあるんじゃないの?」

 まだ熱が残っている手で、手袋に包まれた髭切の片手を取る。直に熱が伝わっていかないのが、今は少しもどかしい。

「うーん、特にはないつもりなんだけれど」

 髭切は寝台の端に腰掛けて、自分を呼んだ主と顔を見合わせる。
 髭切と顔を合わせながら、藤は目を眇めて彼の様子を窺う。整った顔は先ほどからずっと笑顔を浮かべており、こちらを安心させようとする意思が感じられる。
 だからこそ、藤は問いを続けることを選んだ。彼が見せる笑顔の中でも、今の笑顔は本心を見せまいとする類のものだと気が付いたからだ。

「じゃあ、どうして僕の部屋にいたの? 歌仙のことだから、きっと立ち入り禁止にするって言ったと思うんだよね」

 他の刀剣男士の姿や気配を部屋の近くで感じないのは、そのせいだということは藤は気が付いていた。
 裏を返せば、髭切が眠る主の側に居続けたというのは、どうしても居たいと言い張ったからのはずだ。
 藤の想像通りだからか、髭切は少しばかりばつの悪そうな顔をして彼女から目を逸らした。

「──主がちゃんと目を覚ますのか、気になってしまって」

 続く言葉は流石に藤の予想の範囲外のものであり、彼女は何度か瞬きを繰り返す。
 藤に向き直った髭切の表情は、自分自身の言葉に対して何より己が困惑を抱いていることをありありと示していた。
 ただの冗談やごまかしで言っているわけではないことは、纏う空気が伝えている。彼は、どこまでも真剣だった。

「主を傷つける敵なら、何でも斬れると思っていたんだよね。でも主が倒れたあの時、僕に斬れるものは何もなかった。なのに、主は辛そうで──でも、僕は何もできなかったなあって」
「……髭切」
「歌仙は凄いね。僕よりずっとしっかりしていた。流石、惣領が最初に選んだ刀だけあるよ」

 普段の彼なら絶対に見せない不安げな表情に、藤は言葉を失う。
 自嘲気味に吐き出された彼の言葉は、刀としてではなく、個としての無力を嘆くものに聞こえた。主の病を憂うことしかできない、もどかしい気持ちが形になったものだった。
 髭切の目は、再び藤から逸らされて膝の上に落ちる。合わせる顔がないとばかりに、彼は俯いてしまった。
 けれども、藤は彼の自分を責めるような言葉をそのままにはしない。

「何もできなかったことなんて、ないよ」

 首をぶんぶんと振って、彼女は髭切に触れていた手に少し力をこめる。熱のせいで力が入らず、いつものように強く握られないのが歯がゆい。

「側にいてくれて僕は嬉しかった。怖い夢を見た後だったから、君がいてくれて安心したよ」

 彼の指をそっと撫でながら、彼女は続ける。

「だから、髭切はちゃんと僕のためにしてくれたことがあるんだよ。それは、誇ってくれていい」

 手袋に包まれた大きな彼の手は、藤の手を握り返そうとはしなかった。まだ、彼の中に不安が残っていることを示すかのように、彼はぴくりとも動かない。
 藤は下から覗き込むようにして、彼と目を合わせようとした。

「まだ、何か気になることがあるの?」

 髭切は顔を背けるのをやめて、再び主である彼女の目を見つめ返す。
 反射的に彼女の問いに答えようとして、しかし、彼は開きかけた唇を閉ざす。
 主が倒れるのを見た瞬間、浮かび上がったものを彼女に伝えたい。
 抱えているものを口にして、楽になってしまいたい。
 けれども言葉にしてしまったら、考えてしまったことが現実になってしまうような気がして、それもまた恐ろしくもある。
 常の自分からは程遠い、まとまりのない思考がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
 だが、同時に確かなことは一つだけあった。
 ──それは、曖昧な誤魔化しで彼女を騙したくないということ。
 そこまで思考が行き着けば、驚くほど素直に言葉は口から飛び出していた。

「────主が、いなくなるかと思ったんだ」

 まだ熱の残る彼女の額に、額をコツンとぶつける。
 主から伝わる熱は、風邪のせいで常より暖かい。その暖かさが、今は愛おしくもあり、怖くもある。
 この熱が彼女がそこにいることを伝え、この熱が彼女を奪っていくような気がした。
 不意の接触に藤は身を引こうとしたようだったが、髭切は彼女の肩を掴んで離れさせなかった。

「主が動かなくなって、このまま目を覚まさないんじゃないかって。どれだけ待っても、何年待っても、動かなくって、このまま冷たくなってしまうんじゃないかって」

 歌仙に言われて抱え上げた藤の体は、髭切にとってはとても軽いものだった。壊れやすい繊細な細工ものを持ったようだった。
 今まで何度も触れてきたというのに、彼女が刀剣男士と異なる者だということを、あの時に痛感させられてしまった。

「たかが風邪ぐらいで、そんな大げさな……」

 言いかけて、藤は口をつぐむ。
 彼の真摯な不安は、聞いたこともない絞り出すような彼の声が如実に表していた。
 物には縁遠い『病』という存在に恐怖する姿は、人と彼が違うものなのだということを嫌でも藤に思い出させる。朦朧とした意識の中でも、髭切が驚愕に囚われていたことを彼女はしっかりと覚えていた。
 あの瞬間、人の形をした『物』は気が付いてしまったのだ。
 主が自分たちと違い、病という目に見えない存在によって倒れてしまうものだということに。
 そして、彼女を蝕む内なる敵に対して、己にできることは何もないのだということに。
 ただの刀であったなら、気づくこともなかったのだろう。大事な者を失うということが、どれほどの空虚を生み出すのかということに。
 藤が髭切にかける言葉を探しているうちに、彼の方がそっと額を離した。

「ごめんね。らしくないことを言ってしまったよ」

 にこりと微笑む彼の顔は、いつもの髭切だ。
 そのいつも通り過ぎる笑顔を見て、藤はムッと眉を顰めた。髭切の手に沿わせていた手をあげ、パンッと彼の頬を熱の残る両手で挟む。

「無理して笑うんじゃないの」

 髭切の心配は、簡単に払拭できるものではない。ならば、せめて主の自分の前だけでは不安を顕にしてもいい。
 言外にそのような意味を込めて、藤はじっと彼の瞳を見つめる。彼は観念したように、少しだけ笑顔に憂いを滲ませた。
 そんな不安を抱えた青年の姿をした付喪神の様子を見て、藤はいつもより赤い顔にふっと優しげな微笑を浮かべる。

「僕は風邪でくたばるほど、繊細な奴じゃないよ。それに、病が斬れなくても君は僕を沢山守ってくれている。今はそれだけでいいんだ」

 言ってから、髭切の頭を抱えるようにして、ぐいと自分の首元に寄せる。不意をつかれたこともあって、彼はその顔を藤の首元に埋めることになった。
 首筋から感じる熱、そして続く小さな鼓動。
 目の前にいる人が生きていることを確かに伝える証明が、髭切にもはっきりと伝わる。

「僕は、ここにいるよ。だから安心して」

 まるで小さな子供を宥めるように、藤は何度も彼の背中をさする。

「……うん」

 くぐもって聞こえる声は、いつも聞き慣れている声のはずなのに、まるで幼子が泣きじゃくった後のように聞こえた。
 そうして歌仙が様子を見に来るまで、微かに響く主の命の音を彼は聞き続けていた。
 この音が、永遠に続けばいいのにと、願いながら。
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