本編第二部(完結済み)

 静かに鳴く虫の音だけが響く部屋で、膝丸は長く長く息を吐く。自分の中にある緊張、不安、心配などをまとめて外に追い出そうとするかのように。それでも次から次へと沸き立つ感情が、己の内側を満たしていく。
 心というものは、厄介な代物だ。だが、心があるからこそ、焼け付くような気持ちに急き立てられるまま、走ることもできる。敬意を言葉に変え、喜びを振る舞いに表せる。
 その分、苦しみも同じだけ生まれてしまうのも、致し方ないと言うべきなのだろう。

「兄者は、もう部屋にいるだろうか」

 万屋から帰り、夕餉を食べ、風呂に入る。そんな一連の日常的な動作の間、考えているのは部屋にある一本の扇子と、万屋で行動しているうちに芽生えた、一つの決意についてだった。
 髭切に渡そうと購入した扇子。そして、一緒に自分の中に燻り続けている考えを伝える。たったそれだけの行動だ。だが今の膝丸にとっては、それだけのことが、何体もの強敵と戦うのと同義となっていた。

「……寂しいというのは、良くないことではない」

 昼に語った言葉を、今一度辿る。己の感情について、誰の感情についても、きっと善悪も正誤もないのだと、改めて確かめる。

「俺が兄者の考えを知れて良かったと思えたように、兄者も知りたいと願っているはずだ」

 忙しいから会いたくない、などとは思わないだろう。みっともない姿を見せるなと、取り付く島もなくはね除けられることもないと信じたい。
 ただの願望ではある。
 だが、今は殊更に強くそう思えた。
 包装された扇子をそっと指先で包むように持つ。
 今頃、あの娘も姉に帯留めを渡しているのだろうか。
 淡々とした表情の裏で、姉への消えない思慕だけを燃やしていた子供。自分の半身を託すかのような、相手へのひたむきな気持ちは、きっと膝丸のものと同じはずだ。
 人の背中を押しておいて、自分だけ踏みとどまるわけにもいかない。言い出した以上、己もまた責をとるべきと、膝丸は立ち上がる。
 緊張は尽きない。不安はまだ足元に纏わり付いている。心配で、ぎりぎりと胸が痛む。
 それでも。

「……俺も、行こう」

 兄の元へ向かう足は、止まらない。

 ***

 板張りの廊下を、ぎしぎしと足音を立てながら膝丸は歩く。その先にあるのは髭切の部屋だ。
 顕現してすぐに、できれば髭切とは同室、難しくとも隣室が良いと膝丸は主張したが、生憎それは髭切本人に断られてしまった。
 思えば、あの日から膝丸と髭切の間には、小さなずれが生じていた。それでも髭切の隣にいることで、膝丸は安心を得ていた。

(だから、放り出されたら不安になったのだ。そんな姿は見せられぬと、不安などないかのように、兄者の望む弟の像から外れぬように振る舞ってはみた)

 けれども、理想像は描けても、心までが素直に従ってくれるわけではない。刀で斬るように、感情を綺麗に切り分けられない。
 どこに行けばいいか分からない不安も、兄の姿をつい目で追ってしまう執着も、主に対する八つ当たりも、結局は一つの感情に収束する。

(――寂しい)

 他にも多様な感情は折り重なっているが、たった一つだけ選ぶのなら、きっとこの気持ちだ。情けなくて、みっともなくて、馬鹿馬鹿しいと普段なら笑い飛ばしてしまいたくなるような、切々とした思いだ。
 言葉にするなら、ほんの四文字。だが、その四つの音が自分をこんなにも軋ませた。
 こんな気持ちは何かの間違いだと、全てに蓋をして笑おうとした。しかし、それは所詮誤魔化しにしかなり得なかった。

(だから、あの者は、俺が何をしたいか、何を思ったかをずっと尋ねていた)

 笑顔で己を誤魔化したときに生じる苦しみを、誰よりも味わってきた藤(あるじ)だからこそ、あのように問い続けていたのだろう。
 どれだけ追い払っても構い続けていた彼女に、感謝の念というほどまでは素直な気持ちは生まれないが、礼の言葉の一つぐらいは述べるべきかと、今なら思う。
 そうやって考え込んでいる内に、膝丸は兄の部屋の前に辿り着いた。す、と息を吐き、コンコンと柱を軽く叩く。
 返事は、すぐにあった。

「入っていいよ。誰かな」

 許可を出してから訪れた者の名を問うとは、髭切らしいと言うべきか。小さな苦笑いを浮かべてから、膝丸は襖を開く。
 果たして、寝間着用の薄い着物に着替えた髭切がそこにいた。
 だが、先客も彼の前に座っている。
 夕焼け色の髪をした小柄な女性――藤が、髭切に向かい合うようにして、楽な姿勢で腰を下ろしていた。

「じゃあ、髭切。僕はこの辺で帰るよ。膝丸も、夜更かししないようにね」

 膝丸を見るや否や、藤はぱっと立ち上がり、簡単な別れの挨拶を告げて、そそくさと部屋を後にする。まるで、膝丸が今から何を言おうとしているのか、分かっているかのようだった。
 藤が立ち去り、襖が閉まる軽い音の後は、しんと静まりかえった沈黙だけが残った。
 何はともあれ、膝丸は髭切の前に腰を下ろし、向かい合う。正面から兄と対峙するのは、あの夜以来だった。

「主と、万屋に行ったそうだね。先ほど、ここで主が話してくれたよ」
「ああ」
「浴衣は、いいものが見つかったのかい?」
「呉服屋の刀剣男士に、祭りまでに絶対間に合わせてみると請け負われた。刀の在り方も、色々あるのだな」
「そうだね。後、洋菓子を沢山食べられたと言っていたよ。弟は、甘い物は少し苦手そうだったって」

 他愛のない世間話が、二人の間で交わされる。髭切の言葉に不自然な部分は見られず、今までのぎこちなさが拭い去られたようだった。
 けれども、膝丸は気が付く。
 髭切の方も、まるでこちらを探るような視線を注いでいることに。それは、膝丸が何か言い出すのを、待っているようにも見えた。

「……兄者、実は渡したいものがある」

 会話が一区切りした頃を見計らい、膝丸は切り出す。微かに指先を躊躇わせ、意を決して膝丸は側に置いていた包みを髭切の前に差し出した。

「今日出かけた折、兄者へと思って購入した土産の品だ」

 たったそれだけの言葉を吐くだけで、心の臓が口から出るのではと思うほど緊張した。いらない、と言われるのではと、嫌な予感が心の隅からにじみ出すのを止められなかった。
 しかし、

「おお、弟から土産を貰う日が来るとはね。ありがとう」

 髭切は感謝の言葉と共に、包みを受け取ってくれた。彼の顔には、確かに柔らかな笑顔が浮かんでいる。兄の微笑を前にして、膝丸は心がどっと安堵で満たされていくのを、実感していく。

「それと、渡さねばならないものが、もう一つ。いや……物というよりは、言葉、だな」

 あるいは、心そのものと表すべきだろうか。
 居住まいを正し、背筋を伸ばし、膝丸は髭切に向かい合う。
 己と同じ琥珀色の双眸が、照明に揺られて淡く輝いているように見えた。

「先だっての夜、兄者は言ったな。俺の隣にばかりはいられない、と。俺を優先してばかりはいられない、それは兄者の望む道ではない、と」
「……そうだね。弟のことを、僕は大事にしたいと思っている。けれども、弟のためだけの刀では、僕はいられない。いいや、いたくないんだ」

 髭切が求める道の先には、主や本丸のための惣領として存在する『髭切』がある。
 だが、膝丸が望んだのは、髭切は片割れとして弟の隣にいるべきという道だ。わざわざ比較するまでもなく、その道が両立しないのは明白である。

「俺も、兄者の意向に沿いたいとは願っている。兄者の目指すべき道が、過ちでも間違いでもないと俺は思っている」

 進む道が違えど、善し悪しで判じるのならば、髭切のした選択は寧ろ善き道であるとすら感じている。
 だが、と膝丸は続ける。

「だが、それら全てを承知の上で、兄者に申し伝えたい言葉がある」

 喉の奥が微かに震えている。それでも、きっと何も知らないでいることを兄は望むまいと信じて、彼は口を開く。

「……俺は、兄者がいなくとも平気だとは、まだ言えぬ」

 本当は、そう言うべきだとは思っていたとしても、と膝丸は内心で付け足す。

「何事もなく万事一人で片付けられると、己自身で自らが進む道を選び取れると、兄者の望むような俺にはなれない。今もまだ、『二振一具』の姿が我らのあるべき姿ではと、考えている部分も残っているようにも思う」

 以前ほど強固に主張こそしていないが、染みついた考えは簡単には消えない。
 だからといって、今は二つの考えを戦わせたいわけではない。もとより、どちらが正しいというものでもないとは、あの夜に髭切も言っていた。
 正しくないものがあるとするなら、それはきっと、自分の考えを振りかざすあまり、相手の意見を押さえつけてしまうことだろう。あの、イチという娘の保護者を名乗った男のように。

「つまり、弟はやっぱり、僕が隣にいないのはおかしいと?」
「それは違う! ……いや、そうあってほしいとは、願う部分もあるのは認める。完全に否定できるほど、俺は物わかりは良くないようだ。だが、兄者が見つけた道の前に立ちはだかりたいわけではない。その気持ちも本当だ」

 兄の邪魔をしたくないからこそ、兄の意に添えない自分が隣にいても仕方ないと距離を置いたのだから、もとより邪魔をしようとは考えていない。
 妨害はしない。
 けれども、純粋に、単純に、知ってほしかった。

「ただ、俺は――寂しいと……思って、しまっている、ようだ」

 やや歯切れの悪い言い方となってしまったが、ようやく、膝丸は己の心に浮かんだ感情を言葉にする。

「だから、俺が、自分の道を確かなものとして見つけられるまでは……俺が兄者のように『こう在りたい』というはっきりとした目標が見いだせるまでは、兄者の隣にいなくとも平気だと言えるまでは――もう少し、兄者の隣にいたいと願うのを、許してほしい」

 ついに、言ってしまった。
 もし、これで「そんなことを伝えるな」と拒絶されたら、自分はどうすればいいのだろう。或いは、黙っておいてくれればよかったのに、とはね除けられたら。
 不安をぐっと飲み込んで、髭切の答えを膝丸は待つ。
 髭切はじっと膝丸を見つめるばかりで、なかなか返事をしなかった。目蓋の力を軽く抜き、僅かに伏せられた瞳に浮かぶ感情を、膝丸は読み取れない。
 まるまる一分は経っただろうか。ようやく髭切は目蓋を持ち上げ、膝丸を見据え、瞳を細め、

「……そうだね」

 まず相槌の言葉が返り、

「僕は、自分が間違った意見を持っているとは、今は思っていない。僕は僕の選んだ在り方を変えるつもりもない。だから、できるなら僕の考えを弟にも分かってもらいたいし、分かってもらえると期待していた」
「…………」

 一瞬、膝丸は目の前が真っ暗になったような気がした。握りしめた拳が、僅かに震えを伴い始める。

「でもね」

 しかし、言葉は続く。

「弟が言ったとおり、僕と弟は違うものだ。だから、分かってもらえるに違いないって、僕と考えを持つだろうって望んでも、その通りにならない可能性だってある」
「それは、俺が……未熟だからであり、」

 口を開きかけた膝丸を、髭切は片手で軽く制する。

「違うことは、悪いことじゃないよ。少なくとも僕は、そう思う。弟も、それについては同じ意見だから、僕の考えを否定まではしないんだろう?」

 膝丸は暫く考えた末、無言のまま、ゆっくりと頷く。
 兄と弟は同じ考えを持たなかった。だが、それぞれがそれぞれの行く道を間違っていると言わなかったのは、歴とした事実だ。

「違うからこそ、弟は僕の思い通りにはならない。僕も弟の思い通りにはなってあげられない。でも、そういうものでいいんだと僕は思うんだ。それを踏まえた上で、だけど」

 髭切はずりずりと座ったままの姿勢で、膝丸との距離を詰める。
 反射的に膝丸が身を固くしていると、ぽんぽんと肩に手を置かれた。恐る恐る顔を上げると、髭切と目が合う。随分と久しぶりに、こんな目をした兄と、正面から向かい合ったと膝丸は思った。

「僕は自分の考えにばかり気が向いていて、弟の気持ちをちゃんと見ていなかった。それなのに、一方的に受け入れてもらえるものと、期待ばかりを向けていた」

 申し訳なさそうに眉を下げ、髭切は言う。

「ごめんよ。膝丸の寂しさに気が付いてやれなくて」

 喉が引き攣れたような小さな音が、思わず膝丸の口から漏れた。何か言おうと思っているのに、唇の端から漏れ出るのは淡い呼吸音だけだ。
 無論、これで髭切が己の意見を翻すかと言われれば、そんなことはないだろうと承知している。膝丸も、そこまでは望んでいない。
 それでも、弟の気持ちを無碍にしないでくれた。
 たったそれだけのことが、今はとても嬉しい。胸の奥に涼やかな風が吹き渡ったかのような爽快感と、湯に浸かったような温かさが同時に溢れかえっていくかのようだ。
 髭切がその場にいなかったら、布団の上に寝転がって大きな安堵の息を吐きたくなるほどである。

「兄者が、謝罪する必要など……。俺の方こそ、兄者に負担をかけさせるような情けない姿を見せて、すまないと思っている」
「そこは謝る所じゃないよ。僕は、弟に負担をかけられたとは感じていないんだから。寧ろ嬉しいと思っているぐらいなんだ。自分の気持ちを僕に伝えていいって、弟が僕を信用してくれていたことが、ね」

 黙ったまま己の内にしまい込み、伝える価値すらない相手だと拒まれるよりはずっといい、と髭切は内心で言葉を足す。
 在りし日の主が、そうだった。彼女の場合は、積み重ねてきた年月が口を噤ませていたのだろうとは理解できるも、やはり信用に足る相手ではないと言われるようで、少しばかり腹も立ったし悲しくもなった。
 それに比べれば、こちらが問い詰めるまでもなく、弟は己の気持ちを自らの口で伝えてくれた。向けられた信頼には応えたいと、髭切も素直に己を省み、彼を追い詰めていた部分もあったのだと思い直すことができた。

「弟が僕の側にいないと寂しさを感じるなら、弟が平気だと思えるようになるまで僕の隣にいることを拒んだりはしない。流石にいつも一緒とはいかないかもしれないけれど、そこは我慢してもらうしかないかな」

 ぽんぽんと、再び肩が叩かれる。何気ない軽い触れあいが、今まで遠く感じていた分などなかったかのように、兄が側にいると膝丸にはっきりと教えてくれた。

「代わりと言ってはなんだけれど、もし僕が迷うようなら、弟の力を借りるかもしれない。あんな風に宣言しておいて今更、と思うかもしれないけれど、改めて頼んでいいかな」
「無論だ。元より、兄者はあの晩も、できる限り俺に配慮したいとも話していただろう。兄者と考えが異なっていたことにばかり気をとられ、兄者が俺にかけていた期待を、俺は見落としていたのだな」
「おや、気が付いてなかったのかい。それは、何だか僕も寂しくなってきたよ?」
「あ、いや、それは」

 動揺する膝丸を、髭切はくすくすと笑いながら眺める。自分がからかわれたと察して、膝丸は口をへの字に曲げたが、すぐにふっと口角を緩めた。

「不甲斐ない部分はあるが、改めてよろしく頼む」
「こちらこそ」

 髭切と膝丸は、どちらが切り出すまでもなく、同時に頭を下げていた。だが、流石に距離が近すぎたせいで、途中でごちんとぶつけてしまい、頭に走った痛みに二人揃って顔を歪める。そして、同時に二人は顔を見合わせ、ふっと張り詰めたものが切れたかのように、くつくつと低い笑い声を漏らし合った。
 ひとしきり笑いを交わし合った後、膝丸は笑いすぎて緩んだ頬を片手で整えつつ、

「兄者、頼みがある」

 生真面目な顔を取り戻した膝丸に、髭切は首を傾げて言葉の続きを待つ。

「兄者が過ごしてきた一年のことを――『主』のことを、教えてはくれないか」

 以前、膝丸が見聞きしてきた数ヶ月を髭切に問われて語ったのとは逆に、今度は膝丸の方から、髭切が過ごしてきた日々を話してくれと切り出した。
 今まで、彼は自分がいなかったときの髭切の様子を知りたいとは言い出さなかった。
 そんな彼の心境の変化に、髭切は微かに目を見開いて驚きを見せる。だが、余計な言葉は挟まずに、ゆっくりと首を縦に振るに留めた。

「そうだね、じゃあ、話が長くなるだろうから、今日は同じ部屋で寝ようか。いや、全部話すとしたら、寝る時間が残るかなあ」
「兄者、徹夜は流石に困る」
「冗談だよ。布団、用意するから少し待ってて」

 立ち上がった髭切は、膝丸の横を通り過ぎるとき、ぽんっと頭に手を置き、わしゃわしゃと撫でた。いつも主にしているのと同じ感覚でした行為だったが、膝丸は純粋に驚きの視線だけを送っている。

「弟がくれた贈り物、大事に使わせてもらうよ」

 土産への礼を改めて述べてから、髭切は押し入れの襖を開く。しまい込んでいた布団を手にかけながら、彼は思う。

(こればかりは、主が慧眼だったというべきなのだろうね。僕が見落としていたものを、主は気が付いていたようだったから)

 兄と弟であるがゆえに、盲目の信頼を膝丸に向けていた。結果、無自覚の期待で弟の感情を踏みにじりかけていた。
 先だって、藤が来たときに髭切に話した言葉が、今も耳の奥に残っている。

 ――膝丸は、膝丸なりの答えを見つけたみたいだから、ちゃんと聞いてあげて。それは、兄である君にしかできないことだと思うから。

 布団を敷くのを手伝おうと声をかける膝丸の顔に、この数日間目にしていた陰りはない。自分は、大事なものを失わずに済んだのだろう。
 布団の上で楽な姿勢で弟と向かい合った髭切は、さて何から話そうかと考える。

「そうだねえ。じゃあ、まずは僕が主と出会った直後の出来事なんだけど」

 とっぷりと更けていく夜の中、髭切は己が積み重ねてきた日々の欠片を、膝丸へと語って聞かせ続けたのだった。


 ***


 障子の隙間から差し込む明かりは、きっと月明かりだ。だから、今日は晴れているのだろう。外の明かりが入り込んできているということは、雨戸を閉め忘れてしまったのだろうか。
 そういえば、たとえどこにいようとも、同じ空の下で繋がっているという言葉があると、以前大伯父が話してくれた。
 それならば、今日会った者たちも、どこかで自分と繋がっているのだろうか。

「藤様と、膝丸様」

 口にするだけでも、昼間語らった二人の顔を思い出せる。彼女も彼も、今こうして同じ月明かりを目にしているのかもしれない。そう思うと、どういうわけか、胸の奥がしくしくと痛みを帯び始めた。
 今までは、何となくただ痛いと感じていただけだが、今日は彼に教えてもらったから、この痛みが何かが分かる。

「寂しい……でしたよね。そして、寂しいは悪いことではないと、聞きました」

 涼やかな緑を映したような髪をした、あの青年の中にもあった切々とした気持ち。彼も、もしかしたら誰かと喧嘩をしてしまったのかもしれない。自分と、姉のように。
 それなら、仲直りをできていたらと、娘は小さな部屋の片隅で願う。

「私も姉さんに渡したいのですが、すぐというわけにはいかないのでしょうね」

 振り向いた先にあるのは、小ぶりの文机。その上には、昼に藤と選んで買った帯留めの入った包みが置かれている。
 文机と、食事用の卓袱台。身支度を調えるための化粧台。それが、この部屋にある全てだ。それ以外の品は、いつも必要な時だけ持ち込まれ、すぐに運び出される。
 物の声を四方八方から聞き取ってしまう自分の体質を鑑みて、負担がかからないよう、家の者が取り計らってくれた結果だ。故に、物がない状態が、彼女にとっては当たり前となっていた。
 だからこそ、たった一つの帯留めだったとしても、これは自分が選んだものだという気持ちで、胸がいっぱいになる。更に言うなら、化粧台にそっと忍ばせた、藤がくれた髪飾りについても同じことが言える。
 見ているだけでも、今日という一日をありありと思い出せて、食べたことのなかったお菓子の甘さや、人の雑踏まで蘇ってくるかのようだった。

「次にお二人に会ったときは、何か私もお礼を――」

 そこまで言いかけ、自分は何も持っていないという現実に気がつき、娘はちくちくとした痛みが胸中に生まれていくのに気が付く。
 寂しい、とは少し違う。どちらかというなら、激しさは少ないが、体中にじんわりと広がる水のような感情だ。それに覆われたところで、四六時中そのことを考えるほどの強さはない。だが、きっと長く尾を引くのだろうとは感じている。
 今生まれた感情の名が、落胆や残念という言葉で表せるとは、娘は知らない。
 もやもやした気持ちを抱えながら、ほう、と一息吐いたときだった。
 コンコン、と柱をノックする音。許可の返事をすると、すっと襖が開いて、一人分の影を部屋に落とした。
 それが誰かを認めた瞬間、娘は丁寧に頭を下げる。

「そんな風にかしこまらないでください。一応、名義上としては家族なのですから」
「ですが、叔父様は」
「父が何を言おうと、気にしないでください。それより、今日は一人で出かけたそうですね」

 そろりと頭を上げると、ぼんやりとした間接照明が眼鏡をかけた男の姿を照らし出していた。男は照明の電源を入れると、改めて座り直す。

「すみません。どうしても、姉さんに……審神者様に、渡したいものがあったのです」
「聞いています。それより、私が尋ねたいのはあなたに同行していた人物の方です。何やら、審神者と刀剣男士と行動を共にしていたと、父は話していましたが」
「はい。藤様という方と、膝丸様という刀の……付喪神様でした」
「ただの鋼の付喪如きに、敬称をつける必要はありません」

 妙にとげとげしい語調に、娘はすかさず頭を下げて謝罪をする。
 自分は、彼や彼の父親に面倒を見てもらっている側の人間だ。ならば、彼らの機嫌を損ねるのは大変失礼だと、彼女は理解していた。

「そうですか。藤という審神者の世話になった、と。まさか、あなたが出会うことになるとは思いませんでしたが、しかしこれは好都合と言うべきなのでしょう」

 頭を下げたままなので表情は見えないが、娘の耳は彼が何だか喜んでいるように聞こえた。
 目の前の彼が、審神者に関係する仕事に就いているとは、娘も知っている。ならば、ひょっとしたら、藤は彼の知り合いなのかもしれない。

「世話になったのなら、彼女へは何かお礼をしなければいけませんね」
「はい。でも、私は藤様にも膝丸様にも、渡せるものを持っていません」
「なら、私が調達してきましょう。適当なお守りか、装飾品が妥当でしょうか」

 まさに天啓のような言葉に、娘は思わず顔を上げた。
 姉のこと以外では滅多に揺れ動かない彼女の感情が、うずうずと心地よい疼きに満たされていく。ちょうど、藤たちと過ごしていたときのように。

「それを、彼女に渡してください」
「ですが、叔父様が外出を許可してくれますか」
「父のことは気にしなくて構いません。行きたいというのなら、私の方で手は回しておきます」

 これは何かの奇跡が起きているのだろうかと、娘は目を何度か瞬かせる。しかし、どれだけ待っても夢から覚める様子はない。なら、紛れもなく、このやり取りは現実だ。

「ただ、逸って勝手に外を出歩かないように。あなたは物の声を聞き取るばかりでなく、良からぬあやかしにも目をつけられやすいのですから。無許可で外出して、妙なものを憑依させて帰ってこられても困ります」
「はい。分かっています」

 そのために、今日も大伯父から借りた魔除けの腕輪をつけて出かけていた。それでも、ちらほらと突き刺すような視線をどこからともなく投げかけられ、居心地の悪さは覚えたものだ。

(ですが、藤様の側にいるときは、嫌な感じがしませんでした。審神者様は、そのような力も持っているのでしょうか)

 ひとまず疑問は棚上げして、娘は目の前の彼が立ち去るまで何度も頭を下げ続けた。
 襖が閉まり、再び一人の世界に戻るも、今は胸の奥が心地よいうずうずとした気持ちで満たされている。わけもなく、部屋の中をぐるぐると歩き回りたくなるような、不思議な気持ちだ。

「次に会うときまでに、姉さんと仲直りできていたら……そうしたら、寂しいを教えてくれた膝丸様に、よいお知らせができます。贈り物を選んでくれた、藤様にも」

 自分が初めて体験する歓喜に打ち震えていた娘は、当然知らない。
 先ほどまでいた男が、かつて藤という審神者に『こんのすけ』という管狐の姿を借りて接触していたことを。
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