本編第二部(完結済み)

 喫茶店で飢えと渇きをいくらか満たした後、話の流れとして、本丸に当然戻るのだろうと膝丸は思っていた。
 しかし今、彼は何故か雑貨屋の棚の前で、所在なさげに立ち尽くしていた。彼の側には、いつもより幾らか多めに舌を動かしている主こと藤、そして行きずりの同行者であるイチがいる。
 当初の予定では、喫茶店を出た所でイチとは別れるはずだった。だが、この後も特に何か予定があるわけでもなく、待ち合わせ場所で時間が来るのを待っているつもりだった、とイチから聞いた藤は、

「それなら、ちょっと一緒に買い物に行こうよ」

 と、とんとん拍子で話をまとめて、手近な雑貨屋へと連れて行ったのである。

(寄り道せずに本丸に帰るべきではないのか……と尋ねてはみたが、何だか放っておけないの一点張りであったからな。これも、付き合いというやつか)

 藤に対する刺々しいまでの敵対感情は、今は膝丸自身でも驚くほどすんなりと落ち着いている。だから、彼は苦言以上の嫌味などは口にせず、藤の後ろに影法師の如く付き添っていた。
 彼女が本丸の主である以上、知らぬふりをするわけにはいかないからだ。今も、それとなく周囲に目をやって、不埒な輩がいないか警戒は続けている。

「きらきらしたものが、沢山あります」
「これも、見るのは初めて?」
「少しは目にした経験はありますが、こんなに沢山並んでいるのは初めてです」

 相変わらず、平坦な声で感想を述べながら、装飾品を眺めているイチ。彼女の隣で、藤は邪魔にならない程度にあれこれ説明をしている。
 藤が短刀の刀剣男士たちに世話を焼く姿を、膝丸は本丸で何度も見かけていた。だからこそ、きっと同じようにイチにも世話を焼いているのだろうと、彼は思っていた。
 その考えは半分正解ではあるが、半分は異なるとは、彼は知らない。

(何だか、昔の頃の僕みたいで、気になるんだよね)

 イチのように、あれもこれも分からないことばかりで戸惑っていた時期が、藤にもあった。山奥の村から救い出され、養護施設に預けられた直後の頃だ。
 無知を馬鹿にされた日もあったし、或いは憐れまれるような目で見つめられた日もあった。大きくなってからも、常識の相違と足並みを揃えるには、何度か失態と羞恥を繰り返さねばならなかった。
 だからこそ、今のイチを見ていると、つい手を差し伸べたくなってしまう。
 二人は、店の入り口近くにあったガラス細工の品を売っている一角から、続けて髪飾りやヘアピンが展示してある場所に向かう。

「あ、こっちの髪飾りは僕も持っているやつだ。五虎退が、クリスマスにくれたんだよね」

 もう半年以上前のこととは、未だに少し信じられない。まるで何年も前の出来事のようにも思えるし、或いはほんの数日前のようにも感じられる。
 時の流れというのは、ぐにゃぐにゃと蠢く波のようで、その時々によって長さを変えているのではと、疑いたくなるほどだ。

「僕に似合う物があるかは分からないけど……こういうのを見ていると、何だか楽しくなってくるよね」
「はい。何だか……胸の奥がふわふわして、温かくなるような気持ちです」
「イチさんも、何か買う?」

 どうやら、雑貨店に来るのもイチにとっては初めての経験だったらしいと、既に彼女の様子から藤は察している。
 記念に一つぐらい、小さな物を買っても罰は当たるまいと、それとなく誘ってみるものの、

「……私は、自分の持ち物を持ってはいけないと、言われていますので」

 妙に気になる言い回しに、藤も、後ろに立つ膝丸でさえも眉根を小さく寄せる。

「持って帰ったら、家の人が嫌な顔をするかな?」
「それは、試したことがないので分かりません」
「じゃあ、僕が選んで贈ったってことにしたら、どうかな。何か言われたら、僕の名前を出していいからさ」

 やや強引だろうかと思いながらも、藤は提案をしてみせる。これが心底嫌そうな顔をしていたり、困った顔をされていたりしたなら、藤もここまで押し切るような言い方はしなかった。
 だが、イチは表情こそ乏しいものの、その仕草から容易に推察できる程度には、並んでいる装飾品に対して、興味を抱いているという気持ちを露わにしていた。だからこそ、藤も気が付いたときには口を動かしていた。

「……藤様が、そうしたいと言ってくれるのでしたら」
「とっても贈り物をしたい気分だから、そこは気にしないで。どうせなら、そっちの腕輪と、色は合わせた方がいいかな」

 藤が指さしたのは、イチの細い腕に嵌まっている薄い緑色の石を連ねた腕輪だ。余分な装飾はなく、不揃いの大きな石が紐で結ばれただけの、非常に簡素な作りである。
 女性がつけるには、質素すぎるようにも思えたが、イチは大事そうに腕輪を指でさすり、そしてゆっくりと外した。

「これ、ですか」
「うん。綺麗な色だね。膝丸の髪の色にも似ている」
「お守りにするといいと、大伯父様から貰った品です。これをつけていれば、悪いものが寄ってこないそうです」

 掌に載せて、藤と、そして膝丸にも見えるように差し出すイチ。彼らに見せながらも、イチはきょろきょろと辺りを見渡していた。
 似たものがないか探しているのだろうかと、藤は彼女の行動の理由を想像する。もっとも、この翡翠色の腕輪と同じような品は、店にはなさそうだった。

「緑色に合わせてだから、贈り物も緑にするべきかな? 或いは反対の色?」

 膝丸に尋ねてみようかとも考えるが、乱や歌仙と違ってこの手の話題に彼は疎そうだ。
 万屋に来たときに比べれば、幾らか距離感は縮まっているようだが、無理に話を振って再び煙たがられてしまっては、元の木阿弥である。

「着物が薄い桃色だから、やっぱり緑の方が桜餅みたいで綺麗だよね」

 歌仙が聞いていたら、額に手を当てて「雅じゃない」と言っていただろうが、幸い今、ここに彼はいない。いそいそとめぼしいものがないか、藤は陳列されている物から見繕い始める。
 暫く指先を棚の上で迷わせてから、藤は二つの装飾品を手にとった。一つはきらきらと輝く緑の石がはまったブローチで、もう一つは薄緑の下地に薄らと桜がちりばめられた生地で作られた、リボン状の髪飾りだ。

「これとこれ、どっちにしようかな」

 藤としては、イチに選ばせるつもりではなかった。イチが何かを選ぶという行為をどうやら酷く不得手としているのは、喫茶店や呉服屋のやり取りで分かっていたことだからだ。
 だが、イチはぱちぱちと瞬きを数度繰り返し、髪飾りの方を指さした。

「そっちがいいの?」
「こちらの方が、私の所に行きたいと言っていました」
「ん?」

 藤は周りをきょろきょろと見渡してみても、店内に自分と膝丸以外の姿はない。膝丸は何も言葉を発していないし、何よりイチの言い方ではまるで、

「髪飾りが、話しているみたいに言うんだね」

 そういう考え方も素敵だと思う――と口を開きかけた藤を遮るように、

「はい。微かですが、声が聞こえました」

 イチは全く驚いた様子も見せずに、こくりと頷いてみせた。
 今度は、藤がぱちぱちと目蓋を素早く開閉させ、髪飾りとイチの間に、何度も視線を往復させる番となった。
 続けて、行き場のない視線を膝丸の方に向けると、

「先ほど、俺にも似たようなことを言っていたな。話をする前から、俺の声が聞こえていた、と」

 イチが喫茶店で話していた『膝丸の声』とやらの内容は、膝丸が抱え続けていた鬱鬱とした感情の澱を、的確に言い当てたものだった。
 膝丸自身が声を発したわけではないが、彼女は膝丸の内に響き渡る思いの吐露を、聞き取っていたとも解釈できる。
 果たして、イチはもう一度首を縦に振り、

「物言えぬ物たちの声を、私は無意識に聞いてしまうようなのです。先ほど、こちらの飾りの方からも、小さな声がしていました」
「すごい、そんなことができるなんて」

 イチは特に得意げにしていたわけではないが、藤からは素直に賞賛の言葉が飛び出ていた。本当にそんな芸当ができるのか、と疑おうなどという気持ちは最初からなかった。
 イチが、仮初めの誤魔化しをして、自分を飾り立てようとする性分でないとは、この数時間の間で藤も膝丸も察している。

「凄いとは言うが、君も似たようなものではないのか」

 膝丸が呆れたように、目を輝かせている藤に告げる。
 きょとんとしている彼女に、

「審神者は、物に込められた思いを励起させる者だろう。そちらの彼女と力の強弱はあれど、同じような力を持っていると言えるのではないか」
「ああ、そうか。なるほど。確かに」

 ぱちんと手を合わせて何度も頷く藤に、膝丸は一抹の不安を覚える。一方、イチの方も、今までの平坦な表情を微かに崩し、眉を持ち上げて目を丸くしている。

「審神者……様、なのですか?」
「あれ、審神者のことは知っているの?」

 藤に問われて、イチはおずおずと首を縦に振る。
 しかし、膝丸は僅かに目を眇めて、イチに対する小さな不審を抱いた。
 彼女は、刀剣男士という単語については知らないようだった。けれども、審神者という単語は、刀剣男士と深く結びついているものだ。審神者だけを知り、刀剣男士を知らないのは、何だかちぐはぐではないか。
 もっとも、彼が抱いた疑念に対する答えは、すぐに明らかになった。

「姉さんが『近々、私は審神者になる』と、以前私に話していました。家の者は『審神者という役目は、とても大事な仕事だから、邪魔をしてはいけない』と」

 そこまで言ってから、イチは不意にぺこっと頭を下げる。
 彼女の唐突なお辞儀は、まるでからくり人形が突如動いたかのような、ひどくぎこちないものだった。

「すみません。審神者様とは知らず、私のような者のために、手を煩わせてしまいました」
「そんな突然畏まらなくていいよ。審神者だからって、偉そうにするつもりもないし」
「ですが、審神者様は大層重要な役割を持っていて、忙しい方だと」
「それなりに忙しくはしているけど、困っている人を放って置いて家に帰るほど、忙しいわけじゃないよ」

 藤は人好きのされそうな笑顔を、さらっと顔に浮かべる。その表情は、夏の暑さを吹き飛ばすような涼しげなものだった。
 おずおずと顔を上げたイチは、笑顔に背中を圧されるかのようにこくりと頷く。

「それでは、あの……膝丸様も?」
「ううん。彼は刀の付喪神、刀剣男士だよ。物の声が聞こえるっていうのなら、膝丸が刀だから聞き取れたのかもね」
「そうだったのですね。人の姿をしているのに、声が聞こえていた理由が分かりました」

 迂闊に口を滑らせまいかと、膝丸はイチの様子を観察していた。もっとも、彼女は、喫茶店でした会話と同じ内容を藤に伝えるつもりはなさそうだった。再びきょろきょろと周りを見渡してから、イチは掌の上に載せていた腕輪を、そろりと腕に付け直している。

「……あの、藤様」

 イチが選んだ髪飾りを包んでもらおうと、会計窓口に向かいかけていた藤は、イチに呼び止められて足を止める。

「どうしたの?」
「審神者様になったら、家族に興味を持てないぐらいには、忙しいのでしょうか。家族が、嫌いになるぐらい、大変なのでしょうか」

 喫茶店の会話を聞いていない藤には、何故イチが唐突にそんなことを言い出したか、分からないようだった。
 だが、膝丸には、イチが何を言おうとしているのか、薄々予想できた。
 彼女の言葉によると、彼女の姉は審神者をしているらしい。そして、どういう理由があったのか、イチに怒りをぶつけた。
 イチの振る舞いから察するに、彼女の方から姉と衝突するとは考えづらい。恐らく、姉からの一方的なものだろう。
 姉がイチに投げつけた怒りの理由を、帯留めを渡してからイチの元にやってこない理由を、イチは『審神者になって忙しいから』という形で納得したがっているのではという推察は、そこまで突飛な内容ではない。

(嫌われている……と思うよりは、こちらの方が仕方ないと思える考え方ではあるからな)

 自分も、兄からあの日以上に辛辣な言葉を貰っていたら、似たようなことをしていたかもしれない。理由を求め、やむを得ない事情だから仕方ないと、己を丸め込まんとしていただろう。

「大丈夫。イチさんのお姉さんは、贈り物をしてくれたんだから。嫌いな人に、わざわざ贈り物はしないよ」

 事情は最後まで読み切れていなかったとしても、イチの透き通った水面のような瞳には、不安の色が驚くぐらいくっきりと滲み出ていた。その不安を見逃すような主ではないのだと、様子を見守っていた膝丸は知ることになる。
 身を軽く屈めて、藤はイチににっこりと微笑んでみせた。

「でも、伯父様は……姉さんが私の如き存在に興味を持てるような余裕はない、と」
「そのようなことが、あるわけがない」

 きっぱりと割って入った膝丸の声に、イチは顔を上げて驚いたような顔を見せる。

「何であろうと、君に何かを渡した。君に会おうとした。それなら、君に関心があるのだろう」

 半ば己に語り聞かせるように、膝丸は言う。

「俺は、たとえ何があろうと、兄者に会えて嬉しかった。兄者の考えを知ることができて……そこに、俺の意に意に沿わぬ部分があったとしても、知らぬよりかは兄者の意思を知れて有り難いと思った」

 重なり合った手が、徐々にずれていっていたと思い知らされたとしても、兄そのものをどうでもいいとは思えない。

(――ああ、そうか)

 膝丸は理解する。
 何故、自分の気持ちを髭切に曝け出したとしても、兄は己を見捨てないと確信めいた気持ちを抱けたのか。

(知りたいのだ。たとえ何であろうと、知らぬよりは知りたいと願うものなのだ。俺は兄者を、兄者はきっと、俺のことを)

 決定的な断裂を生むかもしれない。互いに傷をつけるだけかもしれない。
 しかし、言葉も交わさぬ内に、相手に遠慮をして身を引くなど、それでは主が以前踏んでいた轍をなぞっているようなものだ。
 故に、打ち明けることそのものを避けないでほしいと兄は願うに違いないと、今なら揺るがぬ信を掲げて膝丸は宣言できる。

「だから、君の姉も、君のことを知りたいと思っている部分があるはずだ」

 自分の背中を押すと同時に、膝丸は目の前にいる迷い人の背も押す。
 果たして、イチは彼の助言と藤の笑顔に励まされるように、ほんのりと微かに口元を緩め、ゆっくりと頷いてみせた。

 
 ***

 
 イチが、藤たちに教えた『家人との待ち合わせ場所』というのは、休憩場を兼ねて作られた小さな広場の入り口だった。これも何かの縁だからと、藤はついでに彼女を待ち合わせ場所まで送ることにして、今こうして彼女と共に、待ち人である者の姿を探していた。
 姉を審神者に持つ、世間知らずの少女。その姿は、藤には『深窓の令嬢』という印象を与えていた。それがいいことなのかはともかくとして、興味がないと言えば嘘になる。
 いったい、彼女を迎える家人とやらはどんな人なのか。
 一抹の好奇心を、できる限り抑えつつ待っていると、

「あっ」

 程なくして、イチは声をあげ、一点へと目をやった。
 その先には、にこにことした笑顔を貼り付けた、年配の男性が立っている。

「あの人が、お迎えの人?」
「え……と、約束をしていた人とは、違うのですが……家で、面倒を見てくれている人、です」

 ならば、家人であることには変わりあるまい。だが、彼女の挙動はどこか落ち着きがない。
 親に対する苦手意識のようなものだろうかと、藤は男性とイチを交互に見比べる。
 念のため膝丸の様子もそれとなく確認するが、彼はいつもと変わらない落ち着き払った態度をとっていた。少なくとも、害意を持っているような人間ではないのだろう。
 そんなことをしている内に、年配の男は三人の前にやってきた。

「おや? そちらの方々、もしやとは思いますが、これの付き添いをしてくれていたのですか?」

 やや芝居がかったような大袈裟な声音で、男は藤へと話しかける。
 自分の義父と同程度の年齢の人間に声をかけられ、少し気後れしてしまったが、藤はできる限り落ち着いた態度を心がけて、彼に向かい合った。

「お姉さんへの贈り物を探していたようなので、そのお手伝いをしていたんです。それから一緒に、この辺りをぐるっと見て回っていました」
「それはそれは。迷惑をかけてしまい、申し訳ありません。なにぶん、箱入りの物知らずで、世間知らずなくせに大人を困らせることばかり言うもので」
「いえ、そんなことはないです。話ができて楽しかったですよ」

 男の言葉は、独特の言い回しのせいか、やや粘着質な風に聞こえた。
 とはいえ、大人の見ず知らずの女性が、自分の娘の面倒を見てくれていたと聞けば、謙遜の言葉の一つや二つ、口に出てもおかしくないだろう。
 そう思ったときだった。

 ――この子、山奥で育ったから物知らずなのよ。だから変なこと言っても、大目に見てちょうだいね。

(……あれ、こんな言葉、誰に言われたんだろう)

 胸の奥が嫌なざわめきを覚え、藤は咄嗟に拳を微かに握る。
 膝丸が、それにイチがいる前で、自分が狼狽するわけにはいかないと、小さく呼吸を整え、

「イチさん、今日は楽しかったよ。ありがとう。よかったら連絡先、教えてもらえるかな。また一緒に出かけたり、話したりしてみたいって思ってるんだけど」

 更紗やスミレのときのように、連絡先を交換し損ねるのは御免だと、藤は率先して携帯端末を取り出す。

「え、と……」

 だが、イチは困ったように男性を見やる。すると、男性にこやかな笑顔を一ミリも崩さずに藤に向き直り、

「これには、携帯端末の類を持たせてないのですよ。すみませんが、何度も迷惑をかけるわけにもいきませんので、お気持ちだけということで」
「……そういうことでしたら」

 返事をしつつも、藤は自分の心臓が嫌な跳ね方をしていると気が付く。
 男が何かしたわけでもないのに、彼の言い回し、挙措の一つ一つを見るだけで、頭の片隅が痛んだような気がした。

(悪い人じゃないと思うんだけど、何だか違和感がある……気がする。それに)

 藤はちらりと背後にいる膝丸に視線をやってから、男へと視線を戻す。彼の視線は、先ほどからずっと藤に注がれていた。

(この人、一度も膝丸を見ていない)

 普通、自分の子供が二人の人間に付き添われて立っていたら、両方に挨拶をするものだろう。なのに、彼は徹底して藤にだけ言葉を投げかけ、膝丸には一瞥すらしていない。
 まるで、彼がそこにいないかのような、徹底的な拒絶。
 膝丸が刀剣男士であり、彼があまり他人に関わらない性分だから良かったが、もし普通の人間だったなら失礼とも取れる態度だ。

「では、我々はこの辺りで。色々と、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 出会ったときから浮かべていた笑顔は全く揺るがせずに、男はイチの背中に軽く手をやって促すと、そそくさとその場を立ち去っていった。
 残された藤は、名残惜しげにイチの背に手を振ることしかできない。小さくなっていく二人の背中を見送りながら、藤は唇を開く。

「……何だか、色々とこう、もやもやする……かも」
「そういうものか」
「うん。うまく言葉では言えないけれど」
「行きずりの者を、いちいち気に掛けても仕方あるまい。そろそろ帰るぞ」

 膝丸に促され、藤もまたイチたちへと背を向けて歩き出す。
 ここに来たときよりは、膝丸とは自然に言葉を交わせるようになった。それだけでも、十分過ぎるぐらい今日という日の価値はあった。そのように己に言い聞かせながら、藤はゆっくりと歩みを進め始める。
 だが、彼女は十歩もしないうちに足を止めることになる。正確には、彼女に付き従うように歩いていた膝丸が、突然立ち止まったからだ。

「膝丸?」

 藤の問いには答えず、膝丸は踵を返す。その向かう先には、先ほど別れたばかりの二人がいた。


 膝丸の耳は、人のそれよりは何倍も鋭い。人間なら雑踏の中で聞き分けが難しい声も、的確に拾うことができる。
 故に、彼は藤と話をしながらも、先ほどまで同行していた娘の声もついでに聞き取っていた。

「あの、叔父様。聞きたいことがあるのですが」

 先に口火を切ったのは、彼女の方だった。

「姉さんに、渡したい物があるのです。姉さんは……次は、いつ来てくれるか、知っていますか」

 早速選んだ贈り物を渡そうと、彼女が奮起している声だ。
 自分も兄に話をしに行こうと、膝丸も心を決める。きっと、兄も自分の意見を求めているだろうと思い――

「何度も言っておろう。彼女は大層忙しいのだから、お前のような者に構っている暇はないのだ、と」

 イチの家人とやらの声が、膝丸の耳にも届く。

「お前のような、家の足を引っ張ることしかできない者から贈り物をされても、彼女を困らせるだけなのだよ」

 姉さんに渡しても困らせてしまいますか、と問われた瞬間を膝丸は思い出す。兄に渡してよいものかと困惑した自分も、同時に自分の中に克明に描き出される。

「元より、彼女はお前に興味など持っていない。分かっておろう?」

 違う、と己の内側で声高に叫ぶ者がいる。
 姉が、妹に――兄が弟に興味を持たないわけがないのだ、と。

「まったく、ちょっと目を離した隙に、そのようなものを勝手に買ってきおって。物を持ってはならないと、いつも言っているだろうに」

 小さな悲鳴。同時に、包み紙が擦れる音。
 それが聞こえてきた瞬間、膝丸は足を止める。そして、そのまま踵を返した。
 言葉にできない衝動にその身を任せ、膝丸の足は二人へとずんずん突き進む。藤が後ろについてきているのに気付いても、彼女にわけを話すより早く、彼は一直線に彼らの元に向かい、

「何をしている、貴様」

 イチの前に立つ男は、今まさに彼女の手から贈り物が包まれた袋を取り上げようとしていた。
 その姿を見て、何か考えるより先に膝丸の手が動き、丁寧に飾り付けられたそれを取り返す。

「これは、我が主がそちらの娘のために、時間を割いて選んだものだ。それへの侮辱は、主への侮辱ととるぞ」

 何故、こんなにも自分が苛立っているのか。
 その理由は、膝丸にはもう分かっていた。
 決して、イチ個人を庇おうと思ったからではない。
 ――姉が妹に、兄が弟に興味を持つわけがない。
 ――足を引っ張ることしかできない者が贈り物をしても、贈られた側は困るだけ。
 折角膝丸の中で芽生え始めた萌芽を、イチと語ることで見つけ出した答えを、男はあまりにもはっきりと否定した。
 故に、苛立ちを覚えた。
 心がずれてしまった姉と兄。
 形は違えど、似たもの同士の弟と妹。
 仲間意識というほどの繋がりはなくても、それでもこんな風に思いを踏みにじられる様を見ていると、自分が否定されたように感じてしまう。だからこそ、当然の帰結として、怒りがわき上がる。
 だが、流石に大っぴらに口にするには憚られる。故に、今は主の立場を借りた。

「膝丸、いったいどうしたの」
「この者が、君の選んだ品を取り上げようとしていた」

 後からやってきた藤は、膝丸の言葉と剣呑な空気に小さく息を飲む。
 男を睨み付ける膝丸、困惑した様子のイチ、そして嫌悪で顔を歪める男。そんな三人の様子を素早く確認してから、

「あの、僕が選んだものが何か?」

 下手に出る様子は残したまま、微かに不信を覗かせて彼女は問う。すると、男はするりと表情を笑顔に変えた。

「いえ、当方の家の事情ですから、審神者様が気にするようなことではございませんよ」
「そうですか。ただ、それはイチさんがお姉さんのために選んだものです。ご家庭の都合もあるかとは思いますが、できれば直接本人の手で渡すように計らっていただけませんか」
「……しかし」
「お姉さんが、審神者だって聞きました。大層忙しくしているようですが、多忙だからと配慮されて贈り物を受け取れなかったのなら、きっとその方が悲しいです。少なくとも、僕なら、そう思います」

 家庭の事情に首を突っ込むものではないと承知しながらも、藤は口を動かし続ける。周りに迎合して、己の中にある正しさを封じるような真似はしないと、もう心に決めていた。

「もし、なかなか会えない家族から贈り物をされたら、僕は嬉しいです。きっと、イチさんのお姉さんも、そう思うのではないでしょうか。だから……お願いします」

 ぺこっと、藤は頭を下げる。
 そんな風に頭を下げさせ続けるわけにはいくまいと思ったからか、或いは藤の真摯な思いが届いたのか、男は観念したと言わんばかりに息を吐き、

「審神者として、寸暇を惜しんで励む彼女を困らせては、私が怒られてしまうでしょうが……まあ、甘んじて引き受けるのも、役割なのでしょう」

 何やら恩着せがましいことを口にしてから、彼は「好きにするといい」とイチに言い残して踵を返す。
 これ以上は関わらないという彼の気持ちの表れと受け取り、藤は膝丸に視線で促した。
 彼の手にあった包みをイチの手に戻すと、彼女はおずおずと頭を下げ、包みをぎゅっと抱きしめた。感情の起伏に乏しい顔には、それでも確かな安堵が滲んでいる。
 今度こそ、お互いに当たり障りのない別れの挨拶を交わし、それぞれ背を向けて歩き出した瞬間、

「――刀剣の付喪ごときが、偉そうに」

 耳奥に忍び込むようなねばっこい声に、膝丸は思わず足を止める。声の主は、誰と問うまでもなく、立ち去った男のものであろうとは明白だ。
 だが、ここまではっきりと聞こえていたにも拘わらず、藤は振り向く素振りも見せない。恐らく、彼女には聞こえていないのだろう。

(……何かの術でも用いたのか?)

 呪い師のたぐいなら、そのようなこともできるのだろう。
 ともあれ、これ以上耳をそばだてていても、続く声があるわけでもなさそうだ。膝丸は今度こそ意識を本丸に――そこにいる髭切に向き直し、藤の後を追って足を踏み出した。
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