本編第二部(完結済み)
「主、どうするのだ、これから」
「……どうしようね」
今この瞬間、藤と膝丸は万屋に来てから初めて、全く同じ気持ちを抱くことができた。
場所は、万屋通りの中にある喫茶店。暑い外から逃れるようとする利用者たちが避難所として使っているせいか、店内は少し騒がしい。
店の一角に据え付けられた窓際の机、そこで藤と膝丸は顔を見合わせて、そっくりの渋面を作っていた。
その理由を思い返し、二人は同時にため息を吐いた。
***
遡ること三十分ほど前。買い物を済ませて外に出た藤と膝丸は、イチと別れの挨拶を交わそうとしていた。
「じゃあ、僕たちはここで。お姉さんに喜んでもらえるといいね」
「はい。ありがとうございます」
イチがそう言った瞬間、ぐうううという、かなり大きな腹の虫が鳴く音が響いた。
膝丸は、反射的に非難がましい目で藤を見る。本丸内において腹の音が聞こえたときは、大体は藤が原因だからだ。
だが、今日ばかりは濡れ衣だと彼女は首を横に振る。
「ならば、誰があのような音を」
そこまで言いかけ、膝丸は消去法でそこにいるもう一人に視線をやる。
イチは、顔色一つ変えることなく、ぱちぱちと瞬きを繰り返して、彼らを見つめ返していた。その間にも、ぐうぐうと腹の音が響く。
「……あの、お腹空いてる?」
「この辺りは、きりきりとしています」
イチは帯の付近――即ち腹部を指さし、何てことのないように告げる。
「ちなみに、最後に物を食べたのは?」
「朝起きた後に、おにぎりをもらいました」
「そのあとは?」
イチは、ふるふると首を横に振る。今は、正午も過ぎてそろそろおやつの時刻が近い頃合いだ。朝に口にしたおにぎりなど、藤ならとうの昔に消化されてしまっている。
先ほど、呉服屋で帯留めを買う際に財布を手にしているのは見ていたため、お金がないから何も食べていないというわけではないはずだ。
「飲み物は、ちゃんと飲んでるよね?」
何だか危うさを覚えて、藤はおずおずと問う。果たして、イチはゆっくりと首を横に振ってみせた。藤が、ぎゅっと眉根を寄せたのは言うまでもない。
姉への贈り物については、あれほどまで強く執着していたのに、彼女は自身の飲食に関しては、まるで興味がないように藤には見えた。
八月の太陽の下、飲まず食わずでいれば倒れるのは必定だ。先ほどまでは、贈り物を探すという目標もあったが、ここで気が抜けたら体調を崩してしまうのではないか。
猛暑の中、具合が悪くなった場合、最悪死に至る可能性があるとは藤もよくよく知っている。
「……膝丸、ちょっと寄り道していい?」
藤の提案に、流石の膝丸も首を縦に振るしかなかった。
***
飲み物も食べ物も、ある程度摂取出来る場所として、藤は喫茶店を選んだ。そして、こうして今、膝丸と渋い顔をつきあわせているのである。
とはいえ、休憩という名目を打ち立てながら、藤はケーキバイキングをちゃっかり頼んでいた。せっかくだからと、イチは藤に促されてケーキを選びに席を立っており、今は側にいない。
「休憩が終わっても、何だかそこで別れていいのか不安になってきたよ」
「元々、たまたま出会った身だ。後は自分で何とかするだろう。三つ四つの童ではないのだから、俺たちが全て面倒を見る必要はない」
先ほどまで、ぴりぴりとした空気を漂わせていたとは思えないほど、今の二人はすんなりと会話ができた。
もっとも、それは別の悩みの種が浮上したからであり、決して問題が解決したからではない。
「うん。それはその通りなんだけど……何というかなあ」
「世間を知らぬ子供とて、ここに来たということは、帰る道ぐらいは分かっているのだろう」
「そうだね。でも、あの子……世間知らずとは、ちょっと違うと思う」
藤は、先に配膳されてきた紅茶に、だばだばとミルクと砂糖を注ぎ、ぐいと飲む。膝丸は彼女の様子を見て、信じられないものを目にしたような顔で見つめていたが、一旦沈黙を選んだ。
「僕も育った所が山奥だったから、すっごく世間知らずだったけど、それでもお腹が空いたら何か食べたいってお願いしたし、喉が渇いたら水を探してうろうろしてたよ」
だが、イチは自分の空腹や渇きをそのままにしていた。
何か当てがある様子もなく、かといって見ず知らずの相手にどうにかしてほしいと頼めないと思って、遠慮しているわけでもなさそうだった。
もし当てがあるのなら、藤たちが誘っても断っていたのだろう。遠慮していたなら、尚更だ。
けれども、彼女はすんなりと藤の誘いに乗り、今もこうして同席している。
「心配をかけて申し訳ないって思っている様子でも、なさそうだったしなあ」
「単に図々しいだけだろう」
「そういう傲慢さもあまり感じなくて……何か、こう、人形の世話をしているみたい」
藤の言葉を聞いて、膝丸はカップに伸ばしていた指をぴたりと止める。その表現が、あまりに言い得て妙だったからだ。
彼女が膝丸を見ていたときの視線は、膝丸が不愉快と感じる程度には無遠慮だった。加えて、自分よりも一回り以上大きい男に恫喝紛いの言葉をかけられても、表情一つ動かさなかった。
彼女が感情を見せたのは、姉に関する話題のことだけだった。まるで、それ以外のものが彼女の中には存在していないかのように。
(……そもそも、何故あの女は俺をじろじろ見ていたのだ?)
藤を観察していたのなら分かる。同世代の人間として、気になっていたのだろうと想像はつく。
だが、自分が見られる理由は、膝丸には想像がつかない。
まして、睨まれてもなお、藤が出てくるまでは注視し続けていた理由もだ。
判然としない行動の理由について、意味も無く思考を進めていく。そうしていれば、眼前の解決しなければならない問題から目を逸らせる。
心地よい現実逃避に膝丸が浸かっていると、
「あの」
声をかけられ、膝丸も藤も、ぐるりと振り返る。
そこには、ケーキを選びに行っていたはずのイチが、皿を持って戻ってきていた。しかし、彼女の手にある皿には、何も置かれていない。
「あれ、どうしたの。苦手なものしかなかった?」
「……何を選べば、良いのでしょうか」
冗談ではなく、彼女は本気で、何を選択すれば分からないと悩んでいるように見えた。
「え、と……好きなものを選べばいいんだよ」
当然、藤としても返す言葉が見つからず、それしか言えなかった。
イチは皿を見つめ、俯いてしまう。まるで難解な問題が解けずに、黒板の前に立ち尽くす幼い頃の自分のようだと、藤はふと思う。
「……好きなものは、私には、よくわからないんです。どうすれば、よいでしょうか」
「えー……もしかして、ケーキを見るのは初めて?」
イチは、おずおずと頷いた。途端に、藤の目が僅かに見開かれる。
だが、彼女は「信じられない」とか「ありえない」とは言わない。
それは、嘗て自分に向けられた言葉だと藤は知っている。
お前は世間知らずの無知な子供だと馬鹿にされるような言葉が、時に心を鋭く抉るのだと藤は既に学んでいた。
「じゃあ、僕が選んでくるね。膝丸、イチさんの様子を見ておいてくれるかな」
藤をイチを席に座らせると、彼女用に頼んでいたアイスティーをそっと前に滑らせる。琥珀色の液体の入った器を、イチはおずおずと手にとり、飲み始めた。
「あ、そうだ。膝丸、何か欲しいものはある?」
「俺は、この手の甘味については何も知らぬ。貴様の好きなようにするといい」
「はいはい。よし、じゃあ今度はイチさんの分も、僕が選んでこよう」
意気揚々とケーキが置かれている机に向かう藤。その足取りは羽が生えているかのように軽やかだ。
残された二人の間に漂っているのは、痛いほどの沈黙だった。店内にかけられた、ゆったりとした西洋風の音楽ばかりが、やたらと耳に強く響く。
ただ黙って待っていればいい。何も話す必要もない。そのようにも思えていた。
だが、彼女の行動に背中を押されるようにして、兄への土産を買ったという見方も、膝丸の中にはあった。
礼を言うほどの感謝はないものの、初対面の頃よりは多少は距離も縮まったと言えよう。だからこそ、先だって気になったことでも尋ねるかと、膝丸は口火を切る。
「君は、何故俺を見ていたのだ」
イチは、きょとんとした顔で膝丸を見つめ返している。
「あの呉服屋で、俺をやたらと見ていただろう。そんなに刀剣男士が珍しいか」
「とうけん……だん、し?」
彼女の拙い発音から察するに、どうやらイチは刀剣男士という存在については詳しく知らないようだ。
「とうけん、だんし……だから、膝丸様を見ていたのではありません」
聞かれた以上は答えようと思ってか、イチは視線を落としたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「膝丸様から、ずっと声が聞こえていました」
「声?」
「はい」
何を言っているのか分からず、膝丸の柳眉がぐっと寄せられる。
確かに藤と言葉を交わしてはいたが、それだって終始というわけではない。そもそも、膝丸はそこまで自分が多弁ではないと思っていた。
「聞いていると胸の奥がずきずきして、体の真ん中が空っぽになっていくような、お腹がぎゅうっと引き絞られるような、そんな声が聞こえていました」
イチは話しながらも、手首につけているものをそっと細い指で撫でる。それは、膝丸と同じ髪色をした石を連ねた、簡素な腕輪だった。
「その声と似たものを、私も持っていると感じました。私も、ずっと……胸が痛くて、立っているのに倒れているみたいな、ぐらぐらした気分で、なのに毎日は何事もないように、どんどん過ぎていって、何が何だか分からなくなってしまって」
彼女の拙い言葉の羅列。それは、ここ数日間の膝丸の気持ちを、一つずつ丁寧に拾い上げているかのような内容だった。
「ただ、私にはそれが何か分かりませんでした。なので、同じものを持っている方の声が聞こえて、それなら何か知っているのではないかと……それで、見ていました」
膝丸には全く理解し難い理由ではあったが、イチなりには筋の通った内容だったのだろう。彼女はそれ以上は語る必要がないと判断したのか、再び人形のように黙りこくってしまった。
「ならば、姉への贈り物というのは?」
あれだけ悩んでいたのだから、ただの口実というのはあり得ないだろうとは分かる。そのこと自体は疑っていない。
膝丸が気に掛けていたのは、イチが話した『声』――膝丸から聞いたという声を、イチもまた持っていると告げた点だ。
その声の内容は、間違いなく髭切について思い悩む膝丸の感情を的確に表している。ならば、姉と兄の違いはあれど、彼女も姉と何かあったのではないか。膝丸は、自然な流れでそのような推測を打ち立てていた。
(知った所で、どうということもないのだろうが)
同類相哀れむの言葉に沿うほど、自分は軟弱ではない。そう思ってはいても、聞かずにはいられなかった。
「姉さんの、ことは」
果たして、イチは辿々しい言葉で言葉を紡ぐ。感情の起伏が薄くなっている瞳には、今は明らかに無表情以外の色が今は宿っている。
「姉さんのことが、よく、分からなくなってしまって」
切りだした言葉は、そんな曖昧な内容から始まった。
「私は、姉さんが、好きです。顔を合わせた機会は殆どないけれど、部屋の向こうから時々声をかけてくれました。色んな、話を……私の知らない話を、たくさん、してくれました」
水滴をびっしりとつけたグラスに白い指を添え、とつとつと、ぽつぽつと、小さな唇が動く。
その言葉を聞きながら、膝丸も、この数ヶ月間に生まれた自身の思い出を辿る。
「今まで一度も、自分が姉だとは言っていなかったけれど、それでもこの人は家族だと分かりました」
――一目見た瞬間から、彼(あに)との間に何者にも代え難い繋がりがあると分かった。
「姉さんは、物知りで、私の持っていない沢山のものを持っていて」
――出会った直後から、彼の向ける視線の先には弟ではなく、見知らぬ主とやらがいた。
「私の知らない世界で、私の知らない人と出会って、その中で姉さんはいつも頑張っていたようでした」
――己がまだ碌に言葉を交わせていない同胞たちと、彼は彼だけの思い出を抱え、奮闘していた。
「だけど、あの日……突然、突き放されてしまったんです」
――どれだけ強く敬意を抱こうと、共に在りたいと願おうと、彼は不意に己の知らぬ場所へと行こうとする。
「姉さんは、私に怒っているようでした。でも、怒っているのに、悲しそうで、それを見ていると胸が痛かったんです」
――お前の隣にばかりはいられないと、そっと距離を置かれた。怒っているわけではなかったと思うが、それでも己が吐いた駄々は叱責で一喝されて、消し飛ばされた。
「それから、姉さんは私の部屋に来なくなってしまって、どんどん……姉さんが遠くなっていくような、気がしました」
――それから、声をかけていいのか分からなくなった。
「でも、この前、部屋の前に……帯の飾りが置いてあって、ごめんねって、紙に書いてあって」
――喧嘩をしたままになったわけではない。相手もこちらの理屈を理解しようとしてくれている。
どうすべきかという、道理は分かっているのに。
「もし、また会ったとして……そのとき、どうしたらいいかが、私には分からなくて」
――自分で自分の道を探す力もないと言えず、かと言ってみっともなく縋るような真似をして失望させたくもなく、立ち尽くしたままでいた。
「でも、忘れられないんです」
――だからといって、忘れられなかった。
弟の立ち位置を捨てれば、或いは二振で一つのモノであるという存在に固執しなければいいと頭では自覚しているのに、捨てきれなかった。
一人になれば、胸の辺りがずきずきと痛み、消えない傷が残っていると主張してくる。
ただ遠ざかる背中に手を伸ばすこともできず、追いかけることもできず、振り向いてくれたらと願うしかなかった。
そんな気持ちすら、浅ましい祈りに思えた。
だというのに、捨てられない。
自分の中にある思いに、見ないふりをしていられない。
「あの日から、ずっと胸が痛くて……だから、同じ痛みの声を持っている人に、これは何なのかと、尋ねてみたかったんです」
目の前に座る彼女の顔には、あからさまな苦難は表れていない。静まりかえった湖面のように、少女の表情はとても淡々としていた。
だからこそ、透き通ったガラス玉のような目の向こう側に揺れる思いが、透けて分かる。そこには鏡映しのように、膝丸に似た気持ちが込められていた。
「膝丸様は、知っていますか」
ただの娘に、わざわざ自らの傷を開いて見せるような真似をする必要はない。そのように切り捨ててしまっても良かった。
けれども、膝丸の口は動いてしまっていた。
「……君は、寂しいのだろう」
彼女曰く、側にやってきて、声をかけてくれたという姉。何かの弾みで意見を違えてしまい、故に姿を見せなくなってしまったらしい。
追いかける気力は、まだ振り絞れていなくとも、せめて彼女が向けてくれた謝辞と同じ何かを渡したいという気持ちばかり、芽生え、育っていく。
そんな不器用で、しかし切実な思いを、膝丸はたった一つの言葉で表した。
――寂しい、と。
「姉が、君の元に訪れなくなったことが……姉と向き合いたいのに、どう振る舞えばいいか分からないことが、寂しいと感じているのではないか」
自分では到底口にできない言葉を、他人のためなら簡単に形にできる。
こんなもの、ただの代償行為だとは、膝丸自身薄ら気がついていた。
姉妹関係で悩む妹の背中を押す。そうして、弟として兄の隣に居続けたいと願う自分の乾いた願いを、あたかも満たしているような気分に浸りたいだけだ。
「寂しい、ですか」
「ああ」
寂しい、という言葉をイチは何度も口の形で辿り、繰り返す。まるで、その単語を初めて聞いたかのような所作だ。
或いは、聞き覚えはあるものの、どのような心の機微かを知らず、改めて己の心に照らし合わせているかのようだった。
やがて、言葉の意味を全て刻んだのか。彼女は唇の動きをふと止め、膝丸と真正面から向き合い、
「では、膝丸様も『寂しい』ですか?」
彼女は問う。
自分と同じ声が聞こえたと告げた相手が、その声を寂しいと定義した。
ならば、声の持ち主も寂しいということだと、安直なまでの論拠を立てて、娘は膝丸に尋ねる。
「…………」
そんなものはないと、否定しようとした。
しかし、膝丸の心は目の前の娘の感情に同調をしてしまった。だから、間髪入れずの否定はできなかった。
藤に対するように、お前に分かるわけがないと、けんもほろろな態度をとれなかった。
「源氏の重宝は、寂しいなどという感情は持たない。持つべきではない」
代わりに口にしたのは、こうあるべきだという自分への理想。恐らく髭切に望まれているだろう、『膝丸』として見せるべき姿を彼は語る。
だが、
「……寂しいは、駄目なことですか」
彼女の純粋な疑問に、膝丸は答えられなかった。
「寂しいは、良くないことですか」
胸の内に巣くう、消えない傷の痛みを良くないものだと膝丸は定義している。だが、それは自分に限った話だ。目の前の娘は、源氏の重宝の矜持には何ら関係がない。
だというのに、こちらの一存で彼女は己の考えを決めてしまうのではないかと、思えてならなかった。
先だっての贈り物のときだってそうだ。膝丸が『兄に贈るべきではない』と言っただけで、彼女は己の決意を一瞬揺らがせていた。
単に優柔不断と表すのとは、また異なる。例えて言うなら、真っ白の紙にはどんな色も鮮やかに映し出してしまう。その様子に、彼女の感情の動きは似ていた。
徒に、白い紙を汚す必要はない。
「……君が、そのように思う分には、問題ないだろう」
だから、一概に決めつけられず、膝丸はどうにかこの答えを絞り出す。
イチは軽く瞳を伏せ、無言のままじっと考え込む。十数秒を経て、彼女の口は再び開いた。
「それなら、膝丸様は、どうして『寂しい』を持つべきではないのですか」
自分だけが許され、膝丸が許されない理由を、彼女は問う。
小さな子供が、際限なく『何故』を繰り返すかのように、少女もまた、何色にも染まっていない瞳で膝丸を見つめている。
「俺は源氏の重宝だ。兄者の隣に並び立つ物だ。故に、そのような情けない姿を見せられる立場ではない。兄者も、きっと……望まないはずだ」
「兄様は、膝丸様の『寂しい』が嫌いですか」
再びの沈黙。
今度は、膝丸が口を噤んでしまったが故に、生じた静寂だった。
問われても、膝丸は明瞭には答えられなかった。寂しいと吐露したとして、髭切がどのような反応を返すのか、答えが導き出せなかった。
「兄者はきっと、そんな俺には、幻滅するだろう」
あくまで仮定という形でしか、言葉にできなかった。
「膝丸様は、兄様のことをよく知っているのですね。私には……想像もできません」
「……いや、そのようなわけでは」
自分が兄をよく知っているなどと、今となっては口にするのも烏滸がましいように思えた。
膝丸にとって、髭切はこういう人物だろうという予想は今まであった。だが、あの夜の会話を経て、こうして日々を積み重ねる内に分からなくなっていった。
自分が思い描く髭切は、果たして単に都合の良い理想を夢想しているだけなのか。それとも共に過ごす兄の背中を見て、現実から打ち立てた希望的観測だったのか。
どちらにせよ、考えれば考えるほど、兄のことを然して詳しく知らないのではないか、という結論に胸が痛む。
何を好むのか。何を嫌うのか。
何を誇りとして感じ、何を愛おしいと思うのか。
何を疎み、何を蔑むのか。
弟に、どうしてほしいのか。
膝丸は、何も知らない。
(俺は、兄者に遠ざけられて傷ついたような気持ちになっていたが、実際は……何も知ろうともせず、自分の主張ばかりしていたのではないか)
ずぶずぶと泥に足をとられるような思考に嵌まりかけているとき、微かに甲高い音が響き、膝丸は顔を上げる。
それは、彼女が指先でグラスの表面をつついた音だった。
「何をしている」
「すみません。五月蠅かったでしょうか」
「いや、音の大小の問題ではない。何故つついているのだと聞いている」
話題を兄から遠ざけて、少しでも感情の安寧を得ようと膝丸は問う。イチは、透明なグラスを指先でなぞり、
「……透き通った器を見たのが、初めてなので、どのようなものか気になって触っていました」
淡々と、そのように答えた。
ふと、膝丸は彼女の指先――人差し指の爪に違和感を覚えた。どこかにぶつけでもしたのか、微かに黒ずんだ跡が見てとれる。
だが、膝丸がそれ以上爪先を気にするより先に、彼女はグラスを持ち上げて中の液体を口にした。と思うや否や、すぐに口を離して目を丸くする。
いったい何をしているのかと思いきや、飲み込んだ彼女は何度も瞬きを繰り返していた。
「不思議な味です」
ケーキを見るのは初めてだと話していたが、藤が注文した紅茶も、彼女にとっては未知の飲料だったらしい。再び不思議そうに、少女はゆっくりと琥珀色の液体を飲み始めた。
その様子を目にして、ふと膝丸は思い出す。
(顕現したばかりの頃の俺も、このような感じであったか)
夜に顕現した彼が最初に直面したのは、眠るという行為だ。
目を閉じたら意識が途切れ、次に目が覚めるときは朝になるという現象が理解できず、困惑する膝丸に髭切は眠りの作法を教えてくれた。
着物の着方も、普段どのように過ごしているのかも、箸の持ち方も、風呂の入り方も、掃除の仕方も、髭切が一つ一つ指南してくれた。
兄の手を煩わせまいと、慣れない行為のを体得して、すぐに一人で大抵のことはこなせるようになった。
兄に迷惑をかけるような弟であってはならない。そのように肝に銘じていたが故の行動だったが、
(ならば、俺がなかなか生活の作法に慣れず、兄者の手を煩わせたとして……兄者は俺に幻滅をしたのだろうか)
答えは、見つからないままだ。
ただ、髭切が自分に幻滅をしていたのなら、今このように半端な時機に悩まず済んだのだろうとは思う。
(逆に……兄者が俺の手を煩わせ続けたとしたら、俺は兄者を不甲斐ないと見捨てるのだろうか)
単なる思考遊びとして逆転させてみて、膝丸ははたと気が付く。
目の前の娘のように、髭切が一つ一つの物事に驚き、辿々しい手つきで理解しようとする様子を想像する。それを見て、自分は情けないと見下すだろうか。
答えは、明確に否だ。
髭切だから、見捨てないのとはまた違う。
弟として、兄を見捨てようとは思えない。それだけだ。
――『弟』が背中を守ってくれていると思えば、僕は全力で僕の選んだ道を歩いて行ける。
不意に、髭切の言葉が蘇る。自分は今、何か大切な物をつかみ取ろうとしているのではないかと、膝丸の中で何かが結びつきかけたときだった。
「膝丸様」
唐突に、彼女の声が割って入った。
「……何だ」
「ありがとうございます」
なぜ急に感謝されたのだろうかと、膝丸は顔を上げる。
「私の『寂しい』を見つけてくれて、教えてくれて、ありがとうございます。姉さんに、次に言葉を贈れるときは、私は……伝えて、みたいです」
姉と喧嘩をしてしまった妹は、それでも己の内に刻まれた傷跡を姉に見せると決めた。
対する自分はどうだろうかと、膝丸は問いかける。
自分は今何を抱え、兄とどう向き合いたいのか。
――僕は、君の気持ちの話をしにきている。
藤の声が蘇る。膝丸の感情を問うていた彼女の言葉が、今になって強く思い出される。
「……俺も、見つけ出せたようだ」
この数日間、胸の中に抱え続けていたものが、少しずつ解れていった気がする。絡まってもつれ合った感情の糸を、今日ばかりはゆっくりと、僅かなれど解いていけた。
その糸の一つ一つに名前をつけることはできない。しかし、一つだけはっきりと分かる感情もある。
それがきっと、『寂しい』なのだろう。
「それは、良いことですか」
「ああ」
少女――イチの問いに、膝丸は小さく頷き、応じる。
「それは、俺にとって、恐らく――良いことなのだろう」
***
席に藤が戻ってきたとき、膝丸はイチと話をするでもなく黙々と自分のコーヒーを飲んでいた。イチの方は、飲み干した紅茶を前にして、何やら興味深げにグラスを眺めている。
きっと二人の間には、さぞや気まずい沈黙があったのではないかと藤は思ったが、
(あれ、でも少し……違う、かも)
漂う空気が、微かに和らいでいる。
イチも膝丸も、表情や所作を見る限り、大きな変化はない。
だが、先ほどまで二人の周りに漂っていた沈鬱な空気が、払拭されているように見えた。
ともあれ、いつまでも沈黙を維持しておく必要もない。わざとらしく声をあげ、藤は自分が選んできたケーキを次々と並べていく。
膝丸は相変わらずの仏頂面だったが、差し出されたチョコレートケーキを押し返すような真似はしなかった。
対するイチは、繊細な宝石細工に似たショートケーキを前にして、瞬きを繰り返し続けていた。
「これを、食べるのですか」
「うん。甘くて美味しいよ。きっと、君も気に入ると思う。あ、もしかして甘い物は苦手?」
念のために尋ねると、イチはまるで難しい計算問題の解を問われたように、細い眉を寄せた。
「苦手……ではないように思います。恐らく、ですが」
「そっか。とりあえず、折角のバイキングなんだから、どんどん食べてよ。膝丸はもっと欲しい?」
せっかくだからと、山吹色に輝くミルクレープを寄せると、今度は押し返されてしまった。
「俺は、甘すぎる物は好かないようだ。君が食べるといいだろう」
膝丸としては、何気ない返答のつもりだった。だが、藤からの返答はない。
てっきり、菓子好きの藤は大喜びするのではないかと思っていた膝丸は、何事かと彼女を見やる。そして、鳩が豆鉄砲でも食ったかのように、目をまんまるにしている藤と相対した。
「……何だ、その顔は」
「いや、何というか、その」
妙にしまりのない顔で、暫く目を泳がせていた藤は、やがて意を決したように言う。
「『貴様』じゃなくて『君』って呼ばれたのは、初めてじゃないかなって思って」
彼女の言葉を聞いて、今度は膝丸が目を丸くする。
しかし、それ以上藤は言及をせずに、いそいそとソファに腰を下ろした。続いて、細いフォークを巧みに用いて、藤は目の前に座るイチへと食べ方の指南を始めている。美味しい、と声をあげている彼女の目に、きっと膝丸の狼狽は映っていないのだろう。
いや、わざと映さないようにしているのだと、膝丸は思う。変化に気が付いた藤は、下手に波風を立てず、静かに受け入れることを選んだに違いない。
(兄者に並び立つ者として相応しくなるにはどうすべきか、俺が何を望まれているのだろうか――と、そんなことばかり考えていた。だが、今は少し脇に置いてもよいのやもしれない)
そのように気持ちを少し切り替えたからこそ、藤に対する角の取れた態度が、自然に消えていったのだろう。
肩から力を抜いて彼女本人を見れば、藤が己の失態を見つめ直し、どうにかやり直そうと奮闘しているのは明らかなのだから。
「甘い物って言っても、色々種類があってね。和菓子も美味しいよ。ケーキとは違う甘さでね」
「そうなのですね。こっちは、何だか少し酸っぱいように思います」
「ああ、それはきっとレモンを使っているのかも」
どこか世間慣れしていないイチに、必死にあれこれと話題を振る藤。その二人の様子を眺めながら、膝丸は先ほど掴んだ一つの答えを改めて確かめる。
こうあるべきという鎧を剥ぎ取った下に埋もれていた、剥き出しの感情。
先の見えない道に放り出された不安、遠くなっていく背中に手を伸ばしていいかという逡巡。
何より、兄の隣に固執してはならないという思いから生まれた寂寥。
――寂しい、という思い。
今まで、兄に見せてはいけない、平時の通りでいなければと戒め続けていたが、笑みを浮かべる度に、己の首がゆっくりと絞まっていくかのようだった。
けれども今は、見せてもいいかもしれないと、僅かな緩みが心の隙間に生まれていた。
その瞬間、微かに首を絞めていた力が緩んだように思えた。
どうして、そんなに突然、頑なになっていた心が緩まったのか。答えは、先ほどのイチとの会話から派生した思考遊びの中にあった。
たとえ、髭切が膝丸に世話を焼かせるような部分があったとしても、弟として兄を見限ることは絶対にないと自分は言えた。
ならば同様に、髭切も兄として、自分を完全に見限ることはないのではないか。
(決して、都合の良い夢を見ているのではない。ただ、そのように――思えたのだ)
理由は、まだ己の中では掴めていない。けれども、既に自分は知っている気がした。
今まで執拗なまでに、『髭切にとって求められる膝丸』という像に固執しすぎて、見えなくなっていただけだ。
藤が最初に差し出してくれた、黒っぽい見た目のケーキを、フォークで切り取る。口にした一欠片は、ほろりと甘く、そして微かな苦みを残して喉の奥へと消えていった。
「……どうしようね」
今この瞬間、藤と膝丸は万屋に来てから初めて、全く同じ気持ちを抱くことができた。
場所は、万屋通りの中にある喫茶店。暑い外から逃れるようとする利用者たちが避難所として使っているせいか、店内は少し騒がしい。
店の一角に据え付けられた窓際の机、そこで藤と膝丸は顔を見合わせて、そっくりの渋面を作っていた。
その理由を思い返し、二人は同時にため息を吐いた。
***
遡ること三十分ほど前。買い物を済ませて外に出た藤と膝丸は、イチと別れの挨拶を交わそうとしていた。
「じゃあ、僕たちはここで。お姉さんに喜んでもらえるといいね」
「はい。ありがとうございます」
イチがそう言った瞬間、ぐうううという、かなり大きな腹の虫が鳴く音が響いた。
膝丸は、反射的に非難がましい目で藤を見る。本丸内において腹の音が聞こえたときは、大体は藤が原因だからだ。
だが、今日ばかりは濡れ衣だと彼女は首を横に振る。
「ならば、誰があのような音を」
そこまで言いかけ、膝丸は消去法でそこにいるもう一人に視線をやる。
イチは、顔色一つ変えることなく、ぱちぱちと瞬きを繰り返して、彼らを見つめ返していた。その間にも、ぐうぐうと腹の音が響く。
「……あの、お腹空いてる?」
「この辺りは、きりきりとしています」
イチは帯の付近――即ち腹部を指さし、何てことのないように告げる。
「ちなみに、最後に物を食べたのは?」
「朝起きた後に、おにぎりをもらいました」
「そのあとは?」
イチは、ふるふると首を横に振る。今は、正午も過ぎてそろそろおやつの時刻が近い頃合いだ。朝に口にしたおにぎりなど、藤ならとうの昔に消化されてしまっている。
先ほど、呉服屋で帯留めを買う際に財布を手にしているのは見ていたため、お金がないから何も食べていないというわけではないはずだ。
「飲み物は、ちゃんと飲んでるよね?」
何だか危うさを覚えて、藤はおずおずと問う。果たして、イチはゆっくりと首を横に振ってみせた。藤が、ぎゅっと眉根を寄せたのは言うまでもない。
姉への贈り物については、あれほどまで強く執着していたのに、彼女は自身の飲食に関しては、まるで興味がないように藤には見えた。
八月の太陽の下、飲まず食わずでいれば倒れるのは必定だ。先ほどまでは、贈り物を探すという目標もあったが、ここで気が抜けたら体調を崩してしまうのではないか。
猛暑の中、具合が悪くなった場合、最悪死に至る可能性があるとは藤もよくよく知っている。
「……膝丸、ちょっと寄り道していい?」
藤の提案に、流石の膝丸も首を縦に振るしかなかった。
***
飲み物も食べ物も、ある程度摂取出来る場所として、藤は喫茶店を選んだ。そして、こうして今、膝丸と渋い顔をつきあわせているのである。
とはいえ、休憩という名目を打ち立てながら、藤はケーキバイキングをちゃっかり頼んでいた。せっかくだからと、イチは藤に促されてケーキを選びに席を立っており、今は側にいない。
「休憩が終わっても、何だかそこで別れていいのか不安になってきたよ」
「元々、たまたま出会った身だ。後は自分で何とかするだろう。三つ四つの童ではないのだから、俺たちが全て面倒を見る必要はない」
先ほどまで、ぴりぴりとした空気を漂わせていたとは思えないほど、今の二人はすんなりと会話ができた。
もっとも、それは別の悩みの種が浮上したからであり、決して問題が解決したからではない。
「うん。それはその通りなんだけど……何というかなあ」
「世間を知らぬ子供とて、ここに来たということは、帰る道ぐらいは分かっているのだろう」
「そうだね。でも、あの子……世間知らずとは、ちょっと違うと思う」
藤は、先に配膳されてきた紅茶に、だばだばとミルクと砂糖を注ぎ、ぐいと飲む。膝丸は彼女の様子を見て、信じられないものを目にしたような顔で見つめていたが、一旦沈黙を選んだ。
「僕も育った所が山奥だったから、すっごく世間知らずだったけど、それでもお腹が空いたら何か食べたいってお願いしたし、喉が渇いたら水を探してうろうろしてたよ」
だが、イチは自分の空腹や渇きをそのままにしていた。
何か当てがある様子もなく、かといって見ず知らずの相手にどうにかしてほしいと頼めないと思って、遠慮しているわけでもなさそうだった。
もし当てがあるのなら、藤たちが誘っても断っていたのだろう。遠慮していたなら、尚更だ。
けれども、彼女はすんなりと藤の誘いに乗り、今もこうして同席している。
「心配をかけて申し訳ないって思っている様子でも、なさそうだったしなあ」
「単に図々しいだけだろう」
「そういう傲慢さもあまり感じなくて……何か、こう、人形の世話をしているみたい」
藤の言葉を聞いて、膝丸はカップに伸ばしていた指をぴたりと止める。その表現が、あまりに言い得て妙だったからだ。
彼女が膝丸を見ていたときの視線は、膝丸が不愉快と感じる程度には無遠慮だった。加えて、自分よりも一回り以上大きい男に恫喝紛いの言葉をかけられても、表情一つ動かさなかった。
彼女が感情を見せたのは、姉に関する話題のことだけだった。まるで、それ以外のものが彼女の中には存在していないかのように。
(……そもそも、何故あの女は俺をじろじろ見ていたのだ?)
藤を観察していたのなら分かる。同世代の人間として、気になっていたのだろうと想像はつく。
だが、自分が見られる理由は、膝丸には想像がつかない。
まして、睨まれてもなお、藤が出てくるまでは注視し続けていた理由もだ。
判然としない行動の理由について、意味も無く思考を進めていく。そうしていれば、眼前の解決しなければならない問題から目を逸らせる。
心地よい現実逃避に膝丸が浸かっていると、
「あの」
声をかけられ、膝丸も藤も、ぐるりと振り返る。
そこには、ケーキを選びに行っていたはずのイチが、皿を持って戻ってきていた。しかし、彼女の手にある皿には、何も置かれていない。
「あれ、どうしたの。苦手なものしかなかった?」
「……何を選べば、良いのでしょうか」
冗談ではなく、彼女は本気で、何を選択すれば分からないと悩んでいるように見えた。
「え、と……好きなものを選べばいいんだよ」
当然、藤としても返す言葉が見つからず、それしか言えなかった。
イチは皿を見つめ、俯いてしまう。まるで難解な問題が解けずに、黒板の前に立ち尽くす幼い頃の自分のようだと、藤はふと思う。
「……好きなものは、私には、よくわからないんです。どうすれば、よいでしょうか」
「えー……もしかして、ケーキを見るのは初めて?」
イチは、おずおずと頷いた。途端に、藤の目が僅かに見開かれる。
だが、彼女は「信じられない」とか「ありえない」とは言わない。
それは、嘗て自分に向けられた言葉だと藤は知っている。
お前は世間知らずの無知な子供だと馬鹿にされるような言葉が、時に心を鋭く抉るのだと藤は既に学んでいた。
「じゃあ、僕が選んでくるね。膝丸、イチさんの様子を見ておいてくれるかな」
藤をイチを席に座らせると、彼女用に頼んでいたアイスティーをそっと前に滑らせる。琥珀色の液体の入った器を、イチはおずおずと手にとり、飲み始めた。
「あ、そうだ。膝丸、何か欲しいものはある?」
「俺は、この手の甘味については何も知らぬ。貴様の好きなようにするといい」
「はいはい。よし、じゃあ今度はイチさんの分も、僕が選んでこよう」
意気揚々とケーキが置かれている机に向かう藤。その足取りは羽が生えているかのように軽やかだ。
残された二人の間に漂っているのは、痛いほどの沈黙だった。店内にかけられた、ゆったりとした西洋風の音楽ばかりが、やたらと耳に強く響く。
ただ黙って待っていればいい。何も話す必要もない。そのようにも思えていた。
だが、彼女の行動に背中を押されるようにして、兄への土産を買ったという見方も、膝丸の中にはあった。
礼を言うほどの感謝はないものの、初対面の頃よりは多少は距離も縮まったと言えよう。だからこそ、先だって気になったことでも尋ねるかと、膝丸は口火を切る。
「君は、何故俺を見ていたのだ」
イチは、きょとんとした顔で膝丸を見つめ返している。
「あの呉服屋で、俺をやたらと見ていただろう。そんなに刀剣男士が珍しいか」
「とうけん……だん、し?」
彼女の拙い発音から察するに、どうやらイチは刀剣男士という存在については詳しく知らないようだ。
「とうけん、だんし……だから、膝丸様を見ていたのではありません」
聞かれた以上は答えようと思ってか、イチは視線を落としたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「膝丸様から、ずっと声が聞こえていました」
「声?」
「はい」
何を言っているのか分からず、膝丸の柳眉がぐっと寄せられる。
確かに藤と言葉を交わしてはいたが、それだって終始というわけではない。そもそも、膝丸はそこまで自分が多弁ではないと思っていた。
「聞いていると胸の奥がずきずきして、体の真ん中が空っぽになっていくような、お腹がぎゅうっと引き絞られるような、そんな声が聞こえていました」
イチは話しながらも、手首につけているものをそっと細い指で撫でる。それは、膝丸と同じ髪色をした石を連ねた、簡素な腕輪だった。
「その声と似たものを、私も持っていると感じました。私も、ずっと……胸が痛くて、立っているのに倒れているみたいな、ぐらぐらした気分で、なのに毎日は何事もないように、どんどん過ぎていって、何が何だか分からなくなってしまって」
彼女の拙い言葉の羅列。それは、ここ数日間の膝丸の気持ちを、一つずつ丁寧に拾い上げているかのような内容だった。
「ただ、私にはそれが何か分かりませんでした。なので、同じものを持っている方の声が聞こえて、それなら何か知っているのではないかと……それで、見ていました」
膝丸には全く理解し難い理由ではあったが、イチなりには筋の通った内容だったのだろう。彼女はそれ以上は語る必要がないと判断したのか、再び人形のように黙りこくってしまった。
「ならば、姉への贈り物というのは?」
あれだけ悩んでいたのだから、ただの口実というのはあり得ないだろうとは分かる。そのこと自体は疑っていない。
膝丸が気に掛けていたのは、イチが話した『声』――膝丸から聞いたという声を、イチもまた持っていると告げた点だ。
その声の内容は、間違いなく髭切について思い悩む膝丸の感情を的確に表している。ならば、姉と兄の違いはあれど、彼女も姉と何かあったのではないか。膝丸は、自然な流れでそのような推測を打ち立てていた。
(知った所で、どうということもないのだろうが)
同類相哀れむの言葉に沿うほど、自分は軟弱ではない。そう思ってはいても、聞かずにはいられなかった。
「姉さんの、ことは」
果たして、イチは辿々しい言葉で言葉を紡ぐ。感情の起伏が薄くなっている瞳には、今は明らかに無表情以外の色が今は宿っている。
「姉さんのことが、よく、分からなくなってしまって」
切りだした言葉は、そんな曖昧な内容から始まった。
「私は、姉さんが、好きです。顔を合わせた機会は殆どないけれど、部屋の向こうから時々声をかけてくれました。色んな、話を……私の知らない話を、たくさん、してくれました」
水滴をびっしりとつけたグラスに白い指を添え、とつとつと、ぽつぽつと、小さな唇が動く。
その言葉を聞きながら、膝丸も、この数ヶ月間に生まれた自身の思い出を辿る。
「今まで一度も、自分が姉だとは言っていなかったけれど、それでもこの人は家族だと分かりました」
――一目見た瞬間から、彼(あに)との間に何者にも代え難い繋がりがあると分かった。
「姉さんは、物知りで、私の持っていない沢山のものを持っていて」
――出会った直後から、彼の向ける視線の先には弟ではなく、見知らぬ主とやらがいた。
「私の知らない世界で、私の知らない人と出会って、その中で姉さんはいつも頑張っていたようでした」
――己がまだ碌に言葉を交わせていない同胞たちと、彼は彼だけの思い出を抱え、奮闘していた。
「だけど、あの日……突然、突き放されてしまったんです」
――どれだけ強く敬意を抱こうと、共に在りたいと願おうと、彼は不意に己の知らぬ場所へと行こうとする。
「姉さんは、私に怒っているようでした。でも、怒っているのに、悲しそうで、それを見ていると胸が痛かったんです」
――お前の隣にばかりはいられないと、そっと距離を置かれた。怒っているわけではなかったと思うが、それでも己が吐いた駄々は叱責で一喝されて、消し飛ばされた。
「それから、姉さんは私の部屋に来なくなってしまって、どんどん……姉さんが遠くなっていくような、気がしました」
――それから、声をかけていいのか分からなくなった。
「でも、この前、部屋の前に……帯の飾りが置いてあって、ごめんねって、紙に書いてあって」
――喧嘩をしたままになったわけではない。相手もこちらの理屈を理解しようとしてくれている。
どうすべきかという、道理は分かっているのに。
「もし、また会ったとして……そのとき、どうしたらいいかが、私には分からなくて」
――自分で自分の道を探す力もないと言えず、かと言ってみっともなく縋るような真似をして失望させたくもなく、立ち尽くしたままでいた。
「でも、忘れられないんです」
――だからといって、忘れられなかった。
弟の立ち位置を捨てれば、或いは二振で一つのモノであるという存在に固執しなければいいと頭では自覚しているのに、捨てきれなかった。
一人になれば、胸の辺りがずきずきと痛み、消えない傷が残っていると主張してくる。
ただ遠ざかる背中に手を伸ばすこともできず、追いかけることもできず、振り向いてくれたらと願うしかなかった。
そんな気持ちすら、浅ましい祈りに思えた。
だというのに、捨てられない。
自分の中にある思いに、見ないふりをしていられない。
「あの日から、ずっと胸が痛くて……だから、同じ痛みの声を持っている人に、これは何なのかと、尋ねてみたかったんです」
目の前に座る彼女の顔には、あからさまな苦難は表れていない。静まりかえった湖面のように、少女の表情はとても淡々としていた。
だからこそ、透き通ったガラス玉のような目の向こう側に揺れる思いが、透けて分かる。そこには鏡映しのように、膝丸に似た気持ちが込められていた。
「膝丸様は、知っていますか」
ただの娘に、わざわざ自らの傷を開いて見せるような真似をする必要はない。そのように切り捨ててしまっても良かった。
けれども、膝丸の口は動いてしまっていた。
「……君は、寂しいのだろう」
彼女曰く、側にやってきて、声をかけてくれたという姉。何かの弾みで意見を違えてしまい、故に姿を見せなくなってしまったらしい。
追いかける気力は、まだ振り絞れていなくとも、せめて彼女が向けてくれた謝辞と同じ何かを渡したいという気持ちばかり、芽生え、育っていく。
そんな不器用で、しかし切実な思いを、膝丸はたった一つの言葉で表した。
――寂しい、と。
「姉が、君の元に訪れなくなったことが……姉と向き合いたいのに、どう振る舞えばいいか分からないことが、寂しいと感じているのではないか」
自分では到底口にできない言葉を、他人のためなら簡単に形にできる。
こんなもの、ただの代償行為だとは、膝丸自身薄ら気がついていた。
姉妹関係で悩む妹の背中を押す。そうして、弟として兄の隣に居続けたいと願う自分の乾いた願いを、あたかも満たしているような気分に浸りたいだけだ。
「寂しい、ですか」
「ああ」
寂しい、という言葉をイチは何度も口の形で辿り、繰り返す。まるで、その単語を初めて聞いたかのような所作だ。
或いは、聞き覚えはあるものの、どのような心の機微かを知らず、改めて己の心に照らし合わせているかのようだった。
やがて、言葉の意味を全て刻んだのか。彼女は唇の動きをふと止め、膝丸と真正面から向き合い、
「では、膝丸様も『寂しい』ですか?」
彼女は問う。
自分と同じ声が聞こえたと告げた相手が、その声を寂しいと定義した。
ならば、声の持ち主も寂しいということだと、安直なまでの論拠を立てて、娘は膝丸に尋ねる。
「…………」
そんなものはないと、否定しようとした。
しかし、膝丸の心は目の前の娘の感情に同調をしてしまった。だから、間髪入れずの否定はできなかった。
藤に対するように、お前に分かるわけがないと、けんもほろろな態度をとれなかった。
「源氏の重宝は、寂しいなどという感情は持たない。持つべきではない」
代わりに口にしたのは、こうあるべきだという自分への理想。恐らく髭切に望まれているだろう、『膝丸』として見せるべき姿を彼は語る。
だが、
「……寂しいは、駄目なことですか」
彼女の純粋な疑問に、膝丸は答えられなかった。
「寂しいは、良くないことですか」
胸の内に巣くう、消えない傷の痛みを良くないものだと膝丸は定義している。だが、それは自分に限った話だ。目の前の娘は、源氏の重宝の矜持には何ら関係がない。
だというのに、こちらの一存で彼女は己の考えを決めてしまうのではないかと、思えてならなかった。
先だっての贈り物のときだってそうだ。膝丸が『兄に贈るべきではない』と言っただけで、彼女は己の決意を一瞬揺らがせていた。
単に優柔不断と表すのとは、また異なる。例えて言うなら、真っ白の紙にはどんな色も鮮やかに映し出してしまう。その様子に、彼女の感情の動きは似ていた。
徒に、白い紙を汚す必要はない。
「……君が、そのように思う分には、問題ないだろう」
だから、一概に決めつけられず、膝丸はどうにかこの答えを絞り出す。
イチは軽く瞳を伏せ、無言のままじっと考え込む。十数秒を経て、彼女の口は再び開いた。
「それなら、膝丸様は、どうして『寂しい』を持つべきではないのですか」
自分だけが許され、膝丸が許されない理由を、彼女は問う。
小さな子供が、際限なく『何故』を繰り返すかのように、少女もまた、何色にも染まっていない瞳で膝丸を見つめている。
「俺は源氏の重宝だ。兄者の隣に並び立つ物だ。故に、そのような情けない姿を見せられる立場ではない。兄者も、きっと……望まないはずだ」
「兄様は、膝丸様の『寂しい』が嫌いですか」
再びの沈黙。
今度は、膝丸が口を噤んでしまったが故に、生じた静寂だった。
問われても、膝丸は明瞭には答えられなかった。寂しいと吐露したとして、髭切がどのような反応を返すのか、答えが導き出せなかった。
「兄者はきっと、そんな俺には、幻滅するだろう」
あくまで仮定という形でしか、言葉にできなかった。
「膝丸様は、兄様のことをよく知っているのですね。私には……想像もできません」
「……いや、そのようなわけでは」
自分が兄をよく知っているなどと、今となっては口にするのも烏滸がましいように思えた。
膝丸にとって、髭切はこういう人物だろうという予想は今まであった。だが、あの夜の会話を経て、こうして日々を積み重ねる内に分からなくなっていった。
自分が思い描く髭切は、果たして単に都合の良い理想を夢想しているだけなのか。それとも共に過ごす兄の背中を見て、現実から打ち立てた希望的観測だったのか。
どちらにせよ、考えれば考えるほど、兄のことを然して詳しく知らないのではないか、という結論に胸が痛む。
何を好むのか。何を嫌うのか。
何を誇りとして感じ、何を愛おしいと思うのか。
何を疎み、何を蔑むのか。
弟に、どうしてほしいのか。
膝丸は、何も知らない。
(俺は、兄者に遠ざけられて傷ついたような気持ちになっていたが、実際は……何も知ろうともせず、自分の主張ばかりしていたのではないか)
ずぶずぶと泥に足をとられるような思考に嵌まりかけているとき、微かに甲高い音が響き、膝丸は顔を上げる。
それは、彼女が指先でグラスの表面をつついた音だった。
「何をしている」
「すみません。五月蠅かったでしょうか」
「いや、音の大小の問題ではない。何故つついているのだと聞いている」
話題を兄から遠ざけて、少しでも感情の安寧を得ようと膝丸は問う。イチは、透明なグラスを指先でなぞり、
「……透き通った器を見たのが、初めてなので、どのようなものか気になって触っていました」
淡々と、そのように答えた。
ふと、膝丸は彼女の指先――人差し指の爪に違和感を覚えた。どこかにぶつけでもしたのか、微かに黒ずんだ跡が見てとれる。
だが、膝丸がそれ以上爪先を気にするより先に、彼女はグラスを持ち上げて中の液体を口にした。と思うや否や、すぐに口を離して目を丸くする。
いったい何をしているのかと思いきや、飲み込んだ彼女は何度も瞬きを繰り返していた。
「不思議な味です」
ケーキを見るのは初めてだと話していたが、藤が注文した紅茶も、彼女にとっては未知の飲料だったらしい。再び不思議そうに、少女はゆっくりと琥珀色の液体を飲み始めた。
その様子を目にして、ふと膝丸は思い出す。
(顕現したばかりの頃の俺も、このような感じであったか)
夜に顕現した彼が最初に直面したのは、眠るという行為だ。
目を閉じたら意識が途切れ、次に目が覚めるときは朝になるという現象が理解できず、困惑する膝丸に髭切は眠りの作法を教えてくれた。
着物の着方も、普段どのように過ごしているのかも、箸の持ち方も、風呂の入り方も、掃除の仕方も、髭切が一つ一つ指南してくれた。
兄の手を煩わせまいと、慣れない行為のを体得して、すぐに一人で大抵のことはこなせるようになった。
兄に迷惑をかけるような弟であってはならない。そのように肝に銘じていたが故の行動だったが、
(ならば、俺がなかなか生活の作法に慣れず、兄者の手を煩わせたとして……兄者は俺に幻滅をしたのだろうか)
答えは、見つからないままだ。
ただ、髭切が自分に幻滅をしていたのなら、今このように半端な時機に悩まず済んだのだろうとは思う。
(逆に……兄者が俺の手を煩わせ続けたとしたら、俺は兄者を不甲斐ないと見捨てるのだろうか)
単なる思考遊びとして逆転させてみて、膝丸ははたと気が付く。
目の前の娘のように、髭切が一つ一つの物事に驚き、辿々しい手つきで理解しようとする様子を想像する。それを見て、自分は情けないと見下すだろうか。
答えは、明確に否だ。
髭切だから、見捨てないのとはまた違う。
弟として、兄を見捨てようとは思えない。それだけだ。
――『弟』が背中を守ってくれていると思えば、僕は全力で僕の選んだ道を歩いて行ける。
不意に、髭切の言葉が蘇る。自分は今、何か大切な物をつかみ取ろうとしているのではないかと、膝丸の中で何かが結びつきかけたときだった。
「膝丸様」
唐突に、彼女の声が割って入った。
「……何だ」
「ありがとうございます」
なぜ急に感謝されたのだろうかと、膝丸は顔を上げる。
「私の『寂しい』を見つけてくれて、教えてくれて、ありがとうございます。姉さんに、次に言葉を贈れるときは、私は……伝えて、みたいです」
姉と喧嘩をしてしまった妹は、それでも己の内に刻まれた傷跡を姉に見せると決めた。
対する自分はどうだろうかと、膝丸は問いかける。
自分は今何を抱え、兄とどう向き合いたいのか。
――僕は、君の気持ちの話をしにきている。
藤の声が蘇る。膝丸の感情を問うていた彼女の言葉が、今になって強く思い出される。
「……俺も、見つけ出せたようだ」
この数日間、胸の中に抱え続けていたものが、少しずつ解れていった気がする。絡まってもつれ合った感情の糸を、今日ばかりはゆっくりと、僅かなれど解いていけた。
その糸の一つ一つに名前をつけることはできない。しかし、一つだけはっきりと分かる感情もある。
それがきっと、『寂しい』なのだろう。
「それは、良いことですか」
「ああ」
少女――イチの問いに、膝丸は小さく頷き、応じる。
「それは、俺にとって、恐らく――良いことなのだろう」
***
席に藤が戻ってきたとき、膝丸はイチと話をするでもなく黙々と自分のコーヒーを飲んでいた。イチの方は、飲み干した紅茶を前にして、何やら興味深げにグラスを眺めている。
きっと二人の間には、さぞや気まずい沈黙があったのではないかと藤は思ったが、
(あれ、でも少し……違う、かも)
漂う空気が、微かに和らいでいる。
イチも膝丸も、表情や所作を見る限り、大きな変化はない。
だが、先ほどまで二人の周りに漂っていた沈鬱な空気が、払拭されているように見えた。
ともあれ、いつまでも沈黙を維持しておく必要もない。わざとらしく声をあげ、藤は自分が選んできたケーキを次々と並べていく。
膝丸は相変わらずの仏頂面だったが、差し出されたチョコレートケーキを押し返すような真似はしなかった。
対するイチは、繊細な宝石細工に似たショートケーキを前にして、瞬きを繰り返し続けていた。
「これを、食べるのですか」
「うん。甘くて美味しいよ。きっと、君も気に入ると思う。あ、もしかして甘い物は苦手?」
念のために尋ねると、イチはまるで難しい計算問題の解を問われたように、細い眉を寄せた。
「苦手……ではないように思います。恐らく、ですが」
「そっか。とりあえず、折角のバイキングなんだから、どんどん食べてよ。膝丸はもっと欲しい?」
せっかくだからと、山吹色に輝くミルクレープを寄せると、今度は押し返されてしまった。
「俺は、甘すぎる物は好かないようだ。君が食べるといいだろう」
膝丸としては、何気ない返答のつもりだった。だが、藤からの返答はない。
てっきり、菓子好きの藤は大喜びするのではないかと思っていた膝丸は、何事かと彼女を見やる。そして、鳩が豆鉄砲でも食ったかのように、目をまんまるにしている藤と相対した。
「……何だ、その顔は」
「いや、何というか、その」
妙にしまりのない顔で、暫く目を泳がせていた藤は、やがて意を決したように言う。
「『貴様』じゃなくて『君』って呼ばれたのは、初めてじゃないかなって思って」
彼女の言葉を聞いて、今度は膝丸が目を丸くする。
しかし、それ以上藤は言及をせずに、いそいそとソファに腰を下ろした。続いて、細いフォークを巧みに用いて、藤は目の前に座るイチへと食べ方の指南を始めている。美味しい、と声をあげている彼女の目に、きっと膝丸の狼狽は映っていないのだろう。
いや、わざと映さないようにしているのだと、膝丸は思う。変化に気が付いた藤は、下手に波風を立てず、静かに受け入れることを選んだに違いない。
(兄者に並び立つ者として相応しくなるにはどうすべきか、俺が何を望まれているのだろうか――と、そんなことばかり考えていた。だが、今は少し脇に置いてもよいのやもしれない)
そのように気持ちを少し切り替えたからこそ、藤に対する角の取れた態度が、自然に消えていったのだろう。
肩から力を抜いて彼女本人を見れば、藤が己の失態を見つめ直し、どうにかやり直そうと奮闘しているのは明らかなのだから。
「甘い物って言っても、色々種類があってね。和菓子も美味しいよ。ケーキとは違う甘さでね」
「そうなのですね。こっちは、何だか少し酸っぱいように思います」
「ああ、それはきっとレモンを使っているのかも」
どこか世間慣れしていないイチに、必死にあれこれと話題を振る藤。その二人の様子を眺めながら、膝丸は先ほど掴んだ一つの答えを改めて確かめる。
こうあるべきという鎧を剥ぎ取った下に埋もれていた、剥き出しの感情。
先の見えない道に放り出された不安、遠くなっていく背中に手を伸ばしていいかという逡巡。
何より、兄の隣に固執してはならないという思いから生まれた寂寥。
――寂しい、という思い。
今まで、兄に見せてはいけない、平時の通りでいなければと戒め続けていたが、笑みを浮かべる度に、己の首がゆっくりと絞まっていくかのようだった。
けれども今は、見せてもいいかもしれないと、僅かな緩みが心の隙間に生まれていた。
その瞬間、微かに首を絞めていた力が緩んだように思えた。
どうして、そんなに突然、頑なになっていた心が緩まったのか。答えは、先ほどのイチとの会話から派生した思考遊びの中にあった。
たとえ、髭切が膝丸に世話を焼かせるような部分があったとしても、弟として兄を見限ることは絶対にないと自分は言えた。
ならば同様に、髭切も兄として、自分を完全に見限ることはないのではないか。
(決して、都合の良い夢を見ているのではない。ただ、そのように――思えたのだ)
理由は、まだ己の中では掴めていない。けれども、既に自分は知っている気がした。
今まで執拗なまでに、『髭切にとって求められる膝丸』という像に固執しすぎて、見えなくなっていただけだ。
藤が最初に差し出してくれた、黒っぽい見た目のケーキを、フォークで切り取る。口にした一欠片は、ほろりと甘く、そして微かな苦みを残して喉の奥へと消えていった。