本編第二部(完結済み)

 翌日の昼、藤は約束通り膝丸を連れて万屋の大通りを歩いていた。
 土壇場で断られる可能性も危惧していたが、そこはやはり髭切の弟と評すべきか。彼は、通すべき義は弁えている人物だったらしい。
 万屋の通りは、八月の昼という気候もあってか、人通りは少ない。正直に感想を述べるなら、かなり暑い。朝にすればよかったと、藤は内心で己の無計画さを恨んでいた。

「膝丸、大丈夫?」
「何がだ」
「いや、その格好」

 今更何をか況んやとも思うが、膝丸は戦装束の黒の礼服に似たような姿で来ていた。長袖に長ズボン、おまけに膝丈まであるブーツとなれば、見ているこちらの方が暑いと感じるほどだ。

「……心頭滅却すれば火もまた涼しというだろう」
「暑いんだね」

 返事はなかったが、無言が何よりも雄弁な肯定だった。できる限り日陰を飛び移るようにして、藤は目当ての呉服屋へと足を急ぐ。
 距離にして、三十分もかからない位置ではある。だが、この暑さに辟易しているのは何も膝丸だけではない。藤も、薄手の半袖シャツに膝丈のズボンという軽装であるにも拘わらず、既に喉の渇きを覚えていた。

「少し休憩しようか。喉、渇いちゃった」

 膝丸はあからさまに不服そうな表情を顔に出していたが、黙って藤が買った飲み物を受け取っていた。
 木陰の下に置かれたベンチには、室内から外に吐き出された空調の残滓が纏わり付いている。おかげで、外ではあるが、幾らかの涼しさは感じられた。

「くーっ、やっぱり暑い夏は冷たい飲み物だね」
「…………」

 購入したアイスティーを半分ほど飲み干して、藤は目を細める。一方、膝丸は無言のまま、よく冷えたほうじ茶を飲んでいた。
 表情こそほぼ変わっていないが、ほっと漏れた息は暑気から逃れて安堵している様子がありありと伝わる。

「今から行く所、僕の浴衣を買った場所なんだけど、そこでいいかな」
「好きにしたらよいだろう」

 どうでもいい、という感情が透けて見えるような言い方だ。実際、そう思っている部分もあるのだろうし、無理に引っ張り出している自覚は持っているので、藤はそれ以上は深く口を挟まなかった。
 膝丸と二人で、外に出かけている。こんなときに何を話せばいいか、藤には皆目見当がつかない。
 これがまだ和泉守なら、幾らか肩の荷を下ろせる。彼はこちらの器をはかるような目で見てはいるものの、態度自体は気さくな兄貴分だからだ。

(膝丸の好きなものとか、僕も詳しく知らないからな……)

 共通の話題といえば髭切のことになるが、軽率に出す話題でもないとは藤も承知している。暫く冷えた飲み物で喉を潤し、無言の時間をどう過ごそうか悩んでいると、

「おや、こんな所で奇遇だな」

 声をかけられ、藤はぎゅんと首をそちらに向けた。この気まずい沈黙を打破してくれるなら、今は誰であれ大歓迎だ。
 果たして、突如振り向かれて驚いた顔をした青年が、そこにいた。
 陽光を浴びた、紫紺の髪。見ていると吸い込まれそうな黄金の目をした彼は、

「煉、さん?」
「ああ。藤殿、元気そうで何よりだ」

 彼の言葉が、単なる社交辞令ではないとは藤も分かっている。髭切と口論をしたあの日、直前まで藤は煉の元に出かけて、彼に懇々と諭されてしまっていた。
 当時は反発心の塊のような返事をしてしまい、その件についてはメールで謝罪していたが、改めて対面すると申し訳なさで胃が縮む思いがする。

「あの、先日は……色々と迷惑をかけてすみませんでした」
「気にしないでくれ。俺だって、そっちの事情も気にせずに色々と言い過ぎたと、後から反省していたぐらいなんだ。三日月にも、散々言われてしまった」

 煉が差し出した手の向こう側には、三日月宗近が悠然とした様子で立っている。
 相変わらず、見ているだけで惚れ惚れするような美しい顔の持ち主だが、彼の手にある生クリームたっぷりのほうじ茶ラテが幻想的な雰囲気を一挙に現実へと引き戻していた。

「また、日を改めてお邪魔させていただきます。その、迷惑になったお詫びとかを持って」
「ああ、俺もいい茶を見つけたんだ。軽い茶会と行こうじゃないか」
「はっはっは、その時は俺も混ぜてくれ」

 気さくな調子を崩さない煉に、頭を下げる藤。鷹揚に笑う三日月宗近。それらの様子を、膝丸は自分の世界から切り離して眺めていた。
 審神者として良き主になろうと奮闘している彼女と、それを見守る先輩たち。きっと髭切がいたら、何てこともなく彼らの会話に混ざっていくのだろう。主を支える、良き刀として。
 だが、膝丸にはどうしたらいいか分からない。兄の真似をして主を支えるべきか、それとも突き放した態度をとり続ければいいのか。
 所在なさげに、膝丸は冷えた茶の表面を眺める。揺れた琥珀色の液体は、眉根を寄せた己の顔を写すばかりだ。

「困りごとか?」

 不意に声をかけられ、膝丸は弾かれたように顔を上げる。見れば、三日月を瞳に宿した眉目秀麗な青年――三日月宗近が、こちらを見下ろしていた。

「……別に、そちらが気にするようなことではない」

 適当な言葉でお茶を濁し、膝丸は練習を重ねた薄い笑顔を顔に貼り付ける。だが、三日月は何やら意味ありげに笑ってみせ、

「そうか。うむ、まあ、その調子なら、あちらの者がきっと放ってはおかぬだろう」

 三日月が示した先には、審神者の青年と話している藤の姿があった。何もかもを見透かしたような態度に、膝丸の笑顔が僅かに歪む。

「さて、俺たちはそろそろ行くとしよう。主、長話に若者を付き合わせてはいかんぞ」
「俺はそこまで年寄りじゃないぞ、三日月。藤殿、また本丸に来たときにゆっくり話そう」

 軽い別れの挨拶を交わしてから、煉と三日月はその場を後にする。彼らの後ろ姿を、藤はほうっと息を吐いて見守っていた。
 年相応の落ち着きを持った審神者と、それに伴う刀剣男士。彼らのようにならねば、とは思わない。だが、彼らのようにごく自然に呼吸を合わせられるような関係にはなりたい、と願う。
 自分にとっての最善を目指そうと、藤はぐいっとアイスティーを一息で飲み干した。


 ***


 休憩を挟んで、更に十分ほど歩いてから、ようやく藤は目的地の万屋を視界に収めた。真夏ということもあってか、今は人影すらろくにない。

「膝丸は、どんな色が好き?」

 膝丸は答えない。聞こえていないわけではなく、こちらの話に応じたくないのだろうという気持ちは、態度からありありと滲み出ている。
 ただ、彼自身、どうしたらよいのか悩んでいるのだろう。視線だけは、ちらちらと藤に向けて注がれていた。

「髭切は、赤とか金の菊を敷き詰めたみたいな柄の浴衣を、去年は着てたんだよ」

 思い切って髭切の話題を出すと、膝丸の眉間の皺が二割増しになった。

「……貴様が、好きなものを選べばいいと、先ほども言っただろう」

 声から滲み出ているのは、明瞭な苛立ち。
 だが、それは藤を主として認められないから吐き出した怒りではなく、どちらかというともっと分かりやすい八つ当たりのように、藤には感じられた。
 振り上げた拳をどこに向けて振り下ろせばいいか見当をつけられず、自分が怒っているのか悲しいのかも定かではなく、ただ周囲に蟠った気持ちをぶつけたい。だけど、本当に手をあげるわけにもいかない。
 故に、自分にとって認められない藤にだけ、こうしてわざと不愉快な態度をとり続けている。そんな、声のない主張を聞き取ったような気がした。

「僕の好きなものじゃなくて、膝丸が好きなものを選んでくれると嬉しいな」

 当たり障りのない返事をしつつ、藤は考え続ける。
 どうすれば、押しつけがましくない態度をとれるだろうか。どんな言葉を投げかければ、彼の内側に溜まってしまった感情の糸を解きほぐしてあげられるだろうか。
 八つ当たりをして膝丸の気が済むのなら、それでもいい。ただ、彼の感情はもっと別の相応しい形で出すべきなのではと思ってしまう。
 そんな疑念が顔に出てしまったのだろうか。膝丸と視線がぱちりと合う。
 数秒、見つめ合い、やがて膝丸の方が視線を逸らす。
 まるで、刀で断ち切るような、明瞭な拒絶だった。

(気まずいなあ……)

 いくら覚悟を決めていても、ここまであからさまな態度をとられれば、藤も一瞬躊躇する。
 気を取り直して、それとなく通りに並ぶ店に関する話題など振ってみるも、反応は梨の礫だ。それもそのはず、膝丸の心は目の前の光景など全く捉えていなかった。
 頭の中にあるのは、髭切との関係をどうするのか、ということばかり。どうすべきかは分かっているのに、上手く態度に繋げられない自分への苛立ちばかりが募っていく。
 昨日も今日も、本丸にいるときも、ここ数日はそればかりをどうしても考えてしまう。

(主が悪いわけでもなければ、兄者の考えが誤っているわけでもない。正しくないのは、このように子供の如く駄々を捏ねている俺の方だ。だから)

 だから、未練がましい気持ちを捨ててしまえばいいだけのこと。頭では承知している。兄が己の道を決めている以上、そこを邪魔するのは自分の本意でもない。
 分かっている。
 分かっているのに、胸が痛い。
 膝丸の理性は、あの夜の日に確かに兄の意見の正当性を飲み込んだはずだ。
 なのに、どうして胸の奥がこんなにも痛い?

「ねえ、膝丸。この前の話だけど」
「何だ」

 藤に声をかけられ、膝丸は無作法にならないぎりぎりのラインで、素っ気ない返答をする。
 ぴたりと、彼女の足が止まる。見れば、丁度呉服屋の看板が目に入った。どうやら、目的地に到着したらしい。
 けれども、藤は看板には目もくれず、膝丸をじっと見つめている。

「昨日の話の続きだけど、膝丸は、今のままで……いいって思ってるの」

 彼女なりに心を決めて、こちらに向かい合っている。それは、目をみれば分かる。
 だが、他ならぬ兄が選んだ者から敵に塩を送るような言葉を聞かされて、膝丸の感情は一瞬炎のように燃え上がった。
 この激情は、正しくない。そんなものは八つ当たりにしかならないと承知しているのに、膝丸は一瞬気色ばみ、彼女を睨んでしまった。

「良いも悪いもない。それが、兄者にとって正しいことなら、俺はそれを尊重する」
「髭切の考えを尊重したいって気持ちは、君にとって正しいことで、だから従うの?」
「ああ」

 己の考えを問われれば、理路整然と回答はできる。
 別に髭切だからという理由で、盲目的に慕っているわけではない。膝丸も、頭の中で何度も問い直し、その上で納得せねばならないと判断したのだから。

「それでも、君は僕に対して怒っているように見えるし、髭切にどう接すればいいか悩んでいるように見える」
「……昨晩も言っただろう。俺が未熟ゆえに、感情をうまく整理できぬだけだ。不愉快に思うなら、遠ざけておけばいい。貴様が、主として俺を対等に扱おうとしている努力は認める。だが、今は貴様に対して、臣下としてとるべき態度をとれないのだ」

 己が悪いのだと、何度も藤に向けて主張する。そうやって自分を否定しておけば、感情を波立たせなくて済む。
 
「膝丸の感情は、僕にぶつければ全部解決することなの?」

 しかし、問われて、彼は押し黙ってしまう。

「それで済むなら、いくらでもそうしてくれればいいよ。君が笑って全部流せるほど、どうでもいいことなのなら、それでもいい。でも、君にとってそうじゃないように、僕には見える」

 どうでもいい、と笑い飛ばせないからこそ、彼の笑顔は物吉が見抜いてしまうほど、作り笑顔の域から出ないのだろうから。

「君は、髭切が正しいってことに囚われすぎて、色々見落としてるように見える。髭切が正しい部分もあるのかもしれないけど、でも」
「……ならば、貴様は兄者が間違いを犯していると言いたいのか?」
「髭切だって、間違えるときはあると僕は思う。彼の理屈は、一面においては正しい。でも」
「なら、何を間違っていると言いたい!」

 これ以上は、感情を抑えねばならないと膝丸自身思っていた。しかし、破裂する激情は到底鎮めきれない。

「兄者の言に誤りなどない! 貴様のような鬼には、到底分からぬだろうがな!!」

 藤の目が一瞬見開かれる。開きかけた彼女の唇は、わなわなと震えていた。
 言わなくてもいい言葉だったと、言葉にしてから膝丸はすぐ気付く。だが、時既に遅し。
 彼女自身、鬼という存在の偏見にあれほど悩んでいたと知っていたのに。
 鬼でありながら髭切に支えられている者が分かったような口を利くという状況に、感情が先走ってしまった。
 彼女を、意図的に傷つけようという意思はない。けれども、染みのように残っている黒々とした感情は、彼女がどんな反応を示すかを待ってしまっていた。
 しかし、浅い深呼吸をいくつか挟み、それでも藤は瞳を揺らさず、膝丸を見据えている。

「僕は鬼である自分を選んだ。だけど、それは髭切の行動が何もかも正しいかどうかの判断とは、また別の話だ」

 彼女がもし泣いたり怒ったりするようなら、申し訳ないと感じて、多少気を遣えたかもしれない。けれども、今の彼女は怖じ気づく様子すら見せず、膝丸を見つめ続けている。
 これでは、自分が余計惨めに感じられてしまう。
 一触即発の空気が、辺りに緊張感を齎す。夏だというのに、どこかひんやりとしているとすら思いかけた頃、

「お客様がた」

 空気以上にもっと冷えた声が、二人の間に割り込んできた。
 気付かない内に、店の扉が開いている。どうやら店員が外に出てきていたらしい。
 さらりとしたボブヘアの黒髪を靡かせた眉目秀麗な店員は、しかしその顔の裏に鬼面をひそませ、こう言った。

「喧嘩をしたいのなら、よそでやってくれないかな?」


 ***


 結局、藤が平謝りをして、ついでに膝丸も頭を下げたため、店員も怒りの矛先をおさめてくれた。
 この店員は刀剣男士だったらしく、並々ならぬ殺気を正面きってぶつけられてしまったら、流石の膝丸も閉口するしかなかった。
 そして膝丸は今、別の理由で口を噤まなければならなかった。測量用の小さな一室で、彼は全身の測量をされていたからである。
 先ほどのやり取りは一旦棚に上げ、気を取り直して、藤は当初の目的である浴衣の購入をしようと店員に相談を持ちかけた。もっとも、膝丸としては、背丈と裄が合っている適当な既製品を買って、さっさと済ませようと思っていた。
 しかし、彼の気に入る品がすぐに見つからず、躊躇している様子を見た店員に「生地から仕立てましょうか」と押し切られたのである。

「祭りまで、そこまで時間はないはずだぞ。間に合うのか?」
「間に合うかどうかではなく、絶対間に合わせるので、ご安心を」

 測量を進めつつ、にこりと微笑んだのは、先ほど膝丸と藤を注意した黒髪の青年だった。

「君の主からも『膝丸が気に入る品を用意したい』と押し切られてしまったよ。好きな物を着た方が楽しいだろうから、と」

 そう言われても、膝丸としては着るものに、そこまで思い入れを込める理由が見当たらない。ともあれ、今は黙って店員に指図されるがまま、膝丸はその場に立ち尽くしていた。

「はい、もう大丈夫だよ。やはり、太刀の刀剣男士は大きいね。ああ、でも君はまだ顕現して日が浅そうだ」
「話した覚えはないが、何故分かる?」
「君には、膝丸という存在以外の要素が、まったく混ざっていないからだよ」

 どういう意味か分からず、膝丸は小首を傾げる。

「刀剣男士は、多かれ少なかれ、周りにいる人間や環境の影響を受けるものなんだ。僕も、それなりに主の影響は受けているよ。それに比べると、君は『膝丸』でしかない。どんな環境で過ごし、どんな人と暮らしているのかが、まだ君の中から読み取れない」

 本丸に完全に溶け込めていない今の状態を指摘されたような気がして、膝丸は店員から顔を逸らしてしまう。

「俺は……俺以外の存在になるつもりはない」

 兄と同じ道を行けないとはっきり示されたとき、髭切は膝丸に「お前の隣には僕以外の者が入る余地はないのか」と尋ねた。
 そんなもの、いるわけがないと考えていた。多少影響は受けるにしても、己の隣に立つのは髭切以外考えられなかった。

「それで君が良いと思うのなら、それもまた一つの在り方だろうね。ああ、でも喧嘩はしないでもらおうか。暴力沙汰になったら、追い出さないといけなくなってしまうからね」

 くすりと笑って見せる店員。一見華奢で細い体つきと柔らかな物腰によって油断をしてしまいそうになるが、彼の瞳には冷たい刃の光がちらほらと見えていた。
 恐らく、積み重ねてきた経験は膝丸よりは上だろう。

「ああ、それと。お客様に聞きたかったのだけれど」

 店員がふと顔を上げ、測量部屋の窓の向こうを指さす。

「先ほどから時々こちらを見ていたようなんだけど、君の知り合いかな?」

 そこには、藤と同じくらいの背丈の、小さな人影が見えた。


 ***


(……なんだ、あれは)

 藤が乱へお土産を買うと言うので、膝丸は計測を終えてから店の片隅の椅子に腰掛けて、見るともなしに店内を見渡していた。
 だが、自分に注がれ続けている視線に気付かなかったわけではない。
 最初こそ、外にいる人影は店内をただ観察しているだけなのではと思ったが、視線は明らかにずっと膝丸を見据えていた。
 窓越しからも分かる、癖のない真っ黒の黒髪に透き通った翡翠色の瞳。垢抜けない子供のような空気が残っているところから察するに、藤よりいくらか年下なのだろう。
 八月の暑い盛りだというのに、淡い桃色の着物をきっちりと着ている。呉服屋に来ているのだから、さもありなんと言うべきか。

(刀剣男士が珍しいのか?)

 万屋に来たばかりのものなら、そういうこともあるのだろう。だからと言って、じろじろと見られるのはあまり嬉しくない。ただでさえ、藤と一悶着あった後なので、今は外界から余計な刺激を受けたくはなかった。
 わざと相手と視線が合わないように明後日の方向に目をやって、膝丸はただただ、藤の買い物が終わるのを待った。
 十分ほど経った頃、視界に影が落ちる。視線をあげれば、藤が真っ赤な玉簪を持って立っていた。

「膝丸。遅くなってごめん。あとは、会計を済ませるだけだから」
「そうか」

 彼女の手で、林檎のような真っ赤な玉をつけた簪が揺れる。乱への土産と言っていたから、これは乱に送られるのだろう。向日葵の花のような髪色をした彼には、よく似合うに違いない。

「そうだ。膝丸は何か欲しいものはある?」
「ない」
「お土産は?」
「それなら、兄者に――」

 そこまで言いかけて、膝丸は押し黙ってしまう。
 主が乱に送るように、初めての万屋で、初めて自分で選んだ品を、兄に渡してみたいと、一瞬思った。こんなものがあった、こんな時間を過ごした、と話してみたいと考えた。
 だが、思い出してしまう。
 ――僕は、膝丸と一緒の道だけを歩きたいわけじゃない。
 そんな風に宣言されている以上、土産一つを贈ることすら、髭切に対して迷惑になるのではないかと思ってしまう。
 贈り物をするなど、まるでここにいてほしいと、特別扱いをしてくれと強請っているようではないか。

「……いや、いい」
「膝丸、本当にそれでいいの?」

 店内であるため、藤の声は絞られていたが、あのやり取りの延長から出た問いかけだとは、膝丸も承知していた。

「構わぬと言っている。第一、俺は兄者が何を好むかも知らない」

 自ら口にして、改めて気が付く。
 兄について、自分は知らないことが多すぎる。何もかも分かったつもりではいたけれど、自分は髭切の何を知っていると言うのだろう。
 髭切が過ごしてきた、自分がいなかった頃の一年すら、未だに直視できていないというのに。己の知らない兄を知れば知るほど、彼との距離が遠ざかるような気がして、聞けずじまいになっているのに。
 そのくせ、隣にはいたいなどと烏滸がましいにも程がある。

「…………あのさ、膝丸やっぱり」
「この話は終わりだ」
「でも」
「終わりでいいのだ。何度も言っているだろう。貴様は主としての責務で、俺に気遣っている。それは確かに良きことなのだとは承知している。だが、もういい」
「よくないよ」
「もういいと俺が言っている。俺は、これでいい。兄者に言われたように、俺は俺の行く道をさっさと見つけ出すべきなのだろう」

 道が分からなくても、共につれて行けないと言われたのなら、そうするしかない。口にすれば、諦めに似た空虚さに胸が埋まっていくが、少しずつ納得はできた――気がした。
 一方、藤としては、たとえ何度拒絶されようと、接触を繰り返し続けるつもりではあった。
 嘗ての髭切がそうしてくれたように、自分も彼のために考え続け、彼が目を背けていることについて、腹を割って話したいと望んでいた。しかし、藤は髭切ほど強引に詰め寄る豪胆さは、まだ持ち合わせていない。
 結果、膝丸は藤の視線から逃げるように、外へと出て行ってしまった。
 扉を開けて万屋の通りへと一歩足を踏み出した膝丸は、暑すぎる夏の光に思わず口を歪める。だが、流石に再び店内に戻るような真似はできず、蝉時雨の煩わしさをじっと耐えていようとした。

(……あの女、まだいたのか)

 呉服店にいる自分へと、視線を送り続けていた少女が、こちらを見つめている。
 呉服屋のショーウインドウの前、日傘もささずに立っている娘は、無機質な瞳で膝丸の動きを目で追っていた。

「何だ、先ほどから人の顔をじろじろと。店の中にいるときから見ていただろう。気付いていないとでも思っていたのか」

 先だっての藤のやりとりのせいで、感情がささくれだってしまっている。
 だからといって、見知らぬ子供にあたるものではないと分かっているのに、ついつい声に棘が残ってしまう。
 一方、少女は刺々しい声を向けられたにも拘わらず、怯えすら見せない。まるで人形のような振る舞いは、いっそ不気味とすら言えた。

「言いたいことがあるなら、言ったらどうだ」

 ――膝丸の方で言いたい気持ちがあるって言うなら、髭切は聞くつもりはあるみたいだよ。
 不意に、昨日のやり取りを思い出してしまい、膝丸は奥歯を噛み締める。そうしないと、自分でも制御のできない感情で、誰彼構わず当たってしまいそうだった。
 少女は押し黙ったまま、微かに目を伏せた。威圧的な態度で赤の他人に恐怖を感じさせるなど、到底褒められた振る舞いではない。冷静な自分と感情的な自分に翻弄されて、膝丸が内心困り果てていると、

「膝丸、お待たせ。買ってきたよ……って、あれ、どうしたの」

 店から出てきた藤は、眼前の光景を見て唖然としてしまった。
 それも当然だろう。片や、怒りと自分への羞恥で複雑な感情を顔に浮かべている膝丸。片や、表情の乏しい顔でじっと膝丸を見つめている少女。何が起きたのかなどと、いくら藤でも想像はできない。

(膝丸が僕以外の誰かを泣かせるような真似は、さすがにしないと思うんだけど)

 自分に対しては辛辣な態度をとるが、膝丸自身は誠実で実直な性格だと藤は捉えていた。その信頼があるからこそ、彼女は一概に膝丸を『考えなしの迷惑な者』とは思えないのだ。

「知り合いの子?」
「そんなわけがないだろう。この者は、店の中にいる時から、じろじろとこちらを見てきていたのだ。気がついていなかったのか」

 平静を装いながらも、膝丸の言葉には幾らかの気まずさのようなものが垣間見える。どうやら、何もなかった、ということでもなさそうだと、藤は考えの軌道修正をしておく。

「簪選びと膝丸のことで頭がいっぱいだったから、見られてるなんて気付かなかったなあ。えーっと僕や膝丸に何か用があるの? それともこの店に?」

 年下の無口な子供というと、ついつい更紗を思い出してしまい、藤は小さな子供に話しかけるように柔らかな声音で声をかける。
 すると、今まで彫像のように口を開かなかった少女が、ゆるりと顔を動かし、藤に向き直った。

(綺麗な子だなあ)

 化粧すら施していないのに、どこか人の目を惹きつける魅力がある顔立ちをしている。
 目の覚めるような美人とは少し違う。
 例えるなら、素朴だが目を留めてしまう一輪の野の花に似た印象を道行く人に与えるような少女だと、藤は思っていた。
 以前も、どこかで誰かに対して同じ印象を抱いたなと思いを馳せそうになるが、今は一旦その件は脇に置く。

「困っていることがあるなら、相談にのるよ」

 なるべく気さくな調子で尋ねると、少女は「あの」と小さな声を発した。

「あの、このお店に、これと同じようなものはありますか」

 少女は、自分の帯の中心部分を指さして尋ねる。そこには、白い椿が描かれた陶製の帯留めがあった。

「売ってるんじゃないかな。何なら、聞いてこようか? 同じ柄のやつでいいかな」

 彼女は、ゆるゆると首を横に振る。

「これは……姉さんから貰ったもので、その、お礼の品を」

 まるで、初めて誰かと話すかのような拙い喋り方だと、側にいた膝丸は感じていた。
 少女の声は細く掠れていて、やや聞き取りづらい。それでも、藤は相手の目をじっと見つめ、熱心に彼女の言葉に耳を傾けている。

「お礼の品を、用意したいのですが……何がいいか、分からないのです」
「なるほどね。それならお店の人に手伝ってもらえないか相談してみるよ」

 年若い娘には、この手の店に入るのには勇気が必要なのだろう。藤はそのように相手の経緯を想像し、店へと向かいかけたが、

「え?」

 くい、と袖を引かれて踏みとどまらざるを得なくなった。

「あなたさまが、選んでくれませんか」

 まさか、呉服屋から出てきた同年代ということから、その道のベテランと勘違いされているのではないかと、藤は慌てる。

「僕、着物のことなんか全然詳しくないし、どんな柄とかどんなものがいいとか知らないよ?」
「いいんです」

 少女は唇をきゅっと噛んで、言葉にならない声を微かに漏らしてから言う。

「あなたさまは、姉さんに、似ているから」

 感情の起伏に乏しかった少女の顔に、その時僅かに憂いの色が混じった。

(あれ、この顔)

 どこかで見たことがあると藤は思い、すぐに既視感の原因に気がつく。
 彼女の顔は、背後に立つ膝丸の顔にそっくりだった。


 ***


 あまりに突然の展開ではあったが、とりあえず店先の暑いところで話すよりはと、藤は彼女を店の中に案内した。無論、膝丸も二人に同行している。
 呉服屋に入るのが初めてなのか、少女は物珍しげに辺りを見渡していた。

「本当に、僕が選んじゃっていいのかな。家族からの贈り物なら、それがどんなものだって、きっと喜ぶと思うよ?」

 言いながら、藤はちらりと膝丸を見やる。こちらの言葉は届いているはずなのだが、膝丸は二人に背を向けて適当な品に興味を持った素振りを見せていた。

「いいんです。選ぶのは、私には……難しいですから」
「まあ、親しいからこそ、どれも似合う気がして目移りするってのはあるかもね」

 だからと言って、見ず知らずの人に「選んでください」と頼むのはどうなのだろう、とは思ったが、藤はそこまでは言わなかった。優柔不断であることは、別に悪ではない。

「僕の名前は藤。あっちは膝丸。君の名前はなんていうの?」

 一年前に比べると、審神者としての名前もするすると口にできた。できる限り萎縮させないように、少しだけ声の調子を高めにして、藤は少女に問いかける。

「私の名前……?」

 しかし、彼女は暫く悩むような素振りを見せた。
 審神者のように、表向きに名前を公表できない職に就いているのだろうか。藤は急かすでもなく、少女の答えを待つ。やがて、数秒を挟んでから、

「名字は、一ノ瀬……と、言います。名前は、その」
「言えないならいいよ。えっと、じゃあ……一ノ瀬さん、でいいかな」
「それなら、イチ……と呼んでもらえますか」
「わかった。イチさんね」

 名字で呼ばれ慣れていないのだろうかと疑問には思うが、藤はとりあえず細かいことは一旦まとめて棚に上げた。
 本人が呼ばれたい名前で呼ぶのが一番だ、という藤自身の心情も、その中には含まれていた。

「それで、お姉さんへの贈り物だっけ」
「はい」

 家族への贈り物を、行きずりの親切にしてくれた人に選んでもらう。考えるまでもなく、突拍子もない不躾な行動だ。
 まだ、店員に声をかけるのを手伝ってほしいと言われた方が理解がしやすい。
 しかし、頼まれた以上は、知らないふりをして投げ出す真似もできない。

(それに、やっぱり何だか……ね)

 表情に乏しい顔つきは、口が利けず感情を表に出せない知り合いの子供を思い出させてしまう。彼女も上手く人とのやり取りができずに、苦労していたらしいとは、以前聞いていた。
 加えて、イチと名乗る少女の目に宿る感情は、自分の背後に立っている薄緑の髪を持った青年の瞳とよく似ている。だから、つい放っておけないと思ってしまうのだろう。

「この帯につけているものと同じようなやつでいいの? 髪飾りとかじゃなくて?」
「はい。姉さんがどういうものを欲しがるのか、私には……分かりませんので」

 藤は、思わず声を漏らしかけた。
 ――第一、俺は兄者が何を好むかも知らない。
 先だって膝丸が口にした言葉と同じことを、少女も口にしていたからだ。

「それでも、贈りたいんだね」
「はい」

 嬉しそうに頷くわけでもなく、更紗のように瞳の奥で感情を瞬かせるでもなく、彼女は冷えた石のように静まりかえった表情で淡々と答えた。
 だというのに、彼女の目の奥には誰かへの深い思慕の感情が垣間見えている。

「……やっぱり、似ているなあ」
「あの、それは……?」

 思わず口をついて出てしまった言葉を、イチの耳は拾ってしまったらしい。彼女に問われて、藤は曖昧な笑みを浮かべ、膝丸の方にちらりと視線を送る。
 背後で知らぬふりをしていた膝丸も、流石に無視しきれなかったのだろうか。じろりと睨むように見返すと、

「俺は兄者に何か贈るつもりはない。そのような真似をしても、兄者を困らせるだけだと分かっている」

 間髪入れず、棘が混ざった言葉が飛んできて、藤は思わず肩を竦めた。
 姉への贈り物を探す妹らしき少女を手伝うついでに、店にいる時間を延ばしていれば、膝丸も髭切に何か渡そうと考え直してくれるかもしれない。そういった好意の受け渡しがあれば、兄弟の関係改善に一役買ってくれる可能性が芽生えるのではないか。
 藤はそのように考えていたのだが、生憎そう簡単に物事は進んでくれそうにはなかった。

「兄様が、いるのですか」

 同じ年上の兄弟を持つ者が気になるのか、藤ではなく今度はイチが膝丸へと問う。

「ああ」
「兄様には、何も贈らないことの方が正しいのですか」

 その問いを聞いて、流石に余計なことを言っただろうかと膝丸もちらと思う。
 自分と兄の問題は、藤も知っている事柄なので、特に気にせず対話をしてしまった。だが、この娘にとっては、年上の兄姉には弟妹から贈り物などするものではない、と聞こえたらしい。

「……俺と兄者の場合の話だ。君には関係ない」

 先だって、己の苛立ちをぶつけてしまった負い目もある。膝丸はぶっきらぼうに返事をしてから、これ以上は関わるまいと彼女らへ背を向けた。
 やがて、無視を決め込んだ膝丸を見て、イチも気を取り直したのだろう。お願いします、と藤に頼む声が背後から聞こえてきた。


 ***


 二人の娘たちが、帯留めの売り場で悩んでいるのを尻目に、膝丸は男性ものの小物売り場の前で、再び立ち尽くしていた。
 ――何も贈らないことの方が、正しいのですか。
 先ほどの問いが、耳の奥でまだ響いている。
 正しい、正しくないなどと、本来なら一概に言ってよいものではないと、膝丸も承知している。
 だが、少なくとも、この『膝丸』があの『髭切』に何か贈るのは間違っているのではと、考えてしまう。そうして悩んでいる間にも、耳は勝手に音を拾っていく。

「お姉さんの好きな花とか、分かる?」

 尋ねているのは、藤の声だ。
 藤は、親しく接しようと決めた相手には、物怖じしない部分がある。つっけんどんな態度をとっている膝丸にも、積極的に接するのがいい例だ。

「えーっと……それなら、よく着ている着物とかは?」

 何やら雲行きが怪しいらしい。藤の声に戸惑いが混ざっている。様子が気になって、少し振り返ってみると、イチがふるふると首を横に振っているのが見えた。

「え、ええと……そ、そうだ! 好きな色とか」

 再び、首を横に振っている。
 どうやら、イチは膝丸に負けず劣らず、自分の血縁の趣味嗜好について全く知らないらしい。
 それでも、彼女はなお選ぼうとしている。その心がどこから生まれるのか、膝丸には分かるような気がした。

「じゃあ、これを貰ったとき、どんな格好してたの?」
「白っぽい着物を着ていました。でも、こんな格好は嫌だと、以前話していました」
「それなら、白い色は避けようか」

 藤が手に持っていた何かを棚に戻すのが見える。恐らく、それは白の飾りだったのだろう。
 あちらこちらと視線を飛ばしている藤とは対照的に、イチはちらちらと一定の方向に視線を向けている。何か気になる品でもあるのだろうかと、膝丸もつい彼女の視線を辿る。

「お姉さんは、僕に似ているって言ってたけど、どんな人なの?」

 趣味嗜好が分からないならと、藤は姉の人となりから探ろうとしたらしい。
 知らない人間に贈り物をするなどと、面倒だと投げ出してもいいはずなのに律儀なものだと、膝丸は感心半分呆れ半分で彼女らの様子を見守る。

「姉さんは……何でもできる人、です」

 イチの返事に、藤も膝丸も、思わず目を見開く。
 藤は、惑いも照れもなく姉を褒める彼女の姿に、素直に驚いていた。一方、膝丸は、

(――兄者の言に誤りなどないと、俺は言った)

 何もかもが完璧にできると、思っているわけではない。
 だが、どこかで、兄には全てお見通しなのではないかと考えている部分もある。膝丸の知らない事柄を当然のように把握し、柔軟に受け止め、行動に移す。
 それを端的に表現するなら「何でもできる人」という単語を膝丸は選ぶだろう。

「花の名前を知っています。季節の変化が何故起きるのかも、知っています。私の知らない場所のことも、知らない世界のことも、たくさん、たくさん知っています」

 訥々と語る少女の声には、抑揚が薄い。まるで絡繰り人形が喋っているようだ。
 なのに、彼女の声に僅かに滲む喜色を、膝丸の耳は聞き漏らさなかった。

「海の話をしてくれました。山の話をしてくれました。庭の様子を教えてくれました。寒い場所では、外が真っ白になると言っていました。暑い日に聞こえる音は、蝉だと教えてくれました。雨があがると虹が見えるのだと話していました」

 自分の知らない知識を知る姉について、妹たる者は起伏の乏しい声に喜びを混ぜて語る。
 自分の知らない知識を見せた兄を前に、弟たる自分は狼狽しかできなかったというのに。

「僕、その人に、そんなに似てるかな?」

 藤が苦笑いを交えながら、軽く頭を手で掻く。
 彼女自身、イチが言うような『何でもできる人』などとは自分のことを捉えていないからだろう。

「はい。姉さんも、しゃがんでいた私に声をかけるとき、屈んでくれました」

 耳を傾け、相手の目を見るように藤はイチへと話しかけた。その所作を見た瞬間、彼女は藤を『似ている』と判断したのだと語る。
 ただ、屈んだだけの何気ない動作だ。
 だが、それだけの仕草こそが、イチにとっては人の心を感じ取る、一つの重要な要素になっているらしい。

「じゃあ、僕が君のお姉さんになったつもりで、頑張って探そうかな」

 見ず知らずとはいえ、いっそ無防備なぐらいに己の感情の片鱗を曝け出すイチを、藤は放っておけないと判断したのだろう。
 息巻く彼女は、再び顎に指を当てて悩み始める。その間にも、イチの視線は先ほどと同じ方向へと注がれている。

(あれは……赤い花か?)

 人間より視力のいい膝丸は、当然イチが何を見ているのかも分かっていた。彼女の視線の先にあるのは、最初に見せた帯留めと対のような、真っ赤な椿の帯留めだ。
 藤も、膝丸と同じように気が付いたのだろう。彼女も赤い椿の帯留めとイチの様子を数度見比べている。
 だが、イチの方は相変わらず、淡々とした視線を注いでいるだけで、これにしたい、とは言わない。選ぶのが苦手という言葉は、どうやら本当のようだ。

「それ、いいよね。僕も気に入ってるんだ。じゃあ、それにしようかな」

 藤は、まるで自分が見つけ出したかのように、自然な所作でイチの視線の先にあった品を掬い上げる。そうすれば、彼女が決められるだろうと思ってのことだろう。
 案の定というべきか、イチはこくりと頷いてみせた。笑いかける藤に釣られるようにして、ほんの少しだけ彼女の目が細められる。
 それは、藤への同意を見せるために浮かべた表情でもあったのだろう。
 だが、彼女の瞳の奥にある気持ちは別の者に向けられていると、膝丸には分かった。
 恐らく、姉とやらに渡す己を想像して生まれた笑みだ、と。

(……喜ぶ、のだろうか)

 きっと、彼女の中には喜ぶ姉の姿があるのだろう。
 それなら、自分はどうなのだろうか。
 髭切が困ってしまうかもしれないと考え、動き出せずにいる。兄の往く道を妨げる邪魔者でいたくないと、土産一つ買うのを躊躇してしまう。

(喜ぶかもしれないと、考えて良いのだろうか)

 万屋で過ごした一日を、語って聞かせても良いだろうか。
 未だに感情の整理すらつけられない未熟者であっても、できることなら弟を特別扱いしたいとは思っていると語った兄の言葉を、拠り所にしても良いだろうか。
 そんな煩悶を胸に秘めたまま、ふと気が付いたときには、膝丸の手には一本の扇子があった。
 広げてみると、そこにはススキの穂を彷彿させる鳥の子色から、淡く白へと移り変わる様子が、一羽の白鳩と共に描かれていた。色合いが誰を指しているものかについては、言うまでもない。
 買うか、買わないか。
 贈るか、贈らないか。
 再び、二人の少女たちへと目をやる。
 黒髪の娘に微笑みかける藤は、初めて膝丸が彼女を目にしたときの様子が嘘のように、己の信じる道を突き進み、悩む者へと躊躇せずに手を差し伸べている。
 そして、出会ったばかりの少女の方は、相変わらず表情は乏しい。だというのに、丁寧に包装された包みを見る目には、明らかに希望が垣間見えている。
 自分が選んだ者が、きっと姉を喜ばせてくれると信じている目。
 その目に、やっかみを抱いていたのかもしれない。
 だが、彼女の瞳に抱かれた光は、確かに膝丸の背を押した。

「……すまない、これも包んでもらえるか」

 扇子を手に、彼は一歩を踏み出していた。
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