本編第二部(完結済み)
本丸生活において休暇というものは、明確には存在しない。
しかし、先日から遠出をしたり、バーベキュー大会を開いたりと、何かと非日常が重なっていたので、平凡な日常が退屈に感じられる――などということは、藤にはなかった。
元々、彼女はそこまでイベントが大好きというわけではない。ああいうのは、たまにやるから楽しいのだ。
朝起きて、畑に水やりをして、朝ごはんを食べる。
一時期は歌仙も大量のお代わりを許容してくれているが、最近はまた厳しい歌仙に戻ってしまった。もっとも、味覚が戻ってきてご飯が美味しいと伝えるたび、食べ過ぎ注意と言いながらも大盛りにしてくれるので、そこまで不満は感じていない。
歌仙兼定といえば、結局、彼が負傷した一件については、有耶無耶にされてしまったが、担当官の富塚よりも更に偉い立場の人から、丁寧なお詫びの言葉は貰った。今は、それで溜飲を下げるしかあるまい。
出陣の連絡があれば、先の件もあるので、慎重に中身を吟味して部隊を編成する。まだまだ未熟なところは、戦慣れしている歌仙や髭切の意見を取り入れていた。彼らは場数を踏んだためか、よい助言者となってくれている。
そうやって、審神者としての日常業務をこなしつつ、夏の日は緩やかに過ぎていく――はずだった。
「……これは、絶対何かあったよね」
ある日の昼下がり、畑仕事をしている膝丸を見つめながら、藤はぽつりと呟いた。
先刻、髭切は膝丸に声をかけに行こうとしていた。二人で兄弟水入らずの時間を過ごしているのかと思いきや、膝丸は髭切の接近を察知すると、それとなく拒絶するかのように背を向けてしまったのだ。
髭切も彼の仕草に気がついたのか、近づくのをやめて縁側に戻ってきてしまった。
「そもそも、今日は午前の畑仕事としか頼んでないのに、膝丸はずーっと畑にいるんだよね」
つまり、彼は用もないのに畑に居座り続けているとも言える。まるで、兄と対面するのを避けるかのように。
髭切と膝丸のぎこちない関係は、藤が本丸で過ごすようになってから時たま目についていたが、ここ数日はより際立っているように思えた。以前は膝丸から声をかけようとする素振りを見せていたのに、近頃は逆に全く髭切に近寄ろうとしない。
喧嘩でもしたのか。それとも、膝丸の方で何か負い目でも感じているのか。どちらにせよ、放っておいていい問題ではないと藤は捉えていた。
「髭切。ちょっといい?」
縁側から廊下へとあがり、部屋へ戻ろうとするところの髭切を捕まえ、藤は彼に問いかける。
「何だい、主」
「話があるんだけど……膝丸のことで」
膝丸の名前を出した瞬間、髭切の顔に、珍しく揺らぎが生じた。何かあったのではという疑惑は、その瞬間に確信へと変わった。
***
夏の日差しは魔物だ。どれだけ帽子で日除けをしたところで、熱気はじわじわと彼を蝕んでいく。
流れ落ちる汗を手の甲で拭い、膝丸は畑の小さな雑草を毟り取っていた。本来なら、もう少し伸びてから取り除けばいいような代物だ。
だが、畑に居続けたい膝丸は、急務ではない作業であったとしても、そこにやることがある限り延々と行い続けていた。
(本丸にいては、兄者と顔を合わせてしまう)
自分と弟では、進む道に対する考え方が違うのだと、言われてしまった。
弟だけの兄ではいられない、と告げられてしまった。
その瞬間から、膝丸は自分がどこに立ち、どこに向かいたいのかすら、見えなくなっているような気がした。
髭切の考えていることも、理解できないわけではない。
それに、自分とて、あのような感情的な言葉で兄を縛ろうなどとは思っていない。
先だっての発言は、振り返ってみれば暴論であると思える部分もある。けれども、同時に髭切に隣にいてもらいたいという気持ちだけは変わらない。
ならば、結局のところ、自分はいったいどうしたいのだろうか。
「――――っ」
喉が詰まり、息ができなくなるような感覚。口を塞がれたわけでも、呼吸を止めているわけでもないのに、いくら空気を取り入れても息苦しさがなくならない。
すぅっと息を吸い、はぁっと吐き出す。呼吸を強く意識することで、どうにか常の状態に戻れたが、腹の中に残るもやもやとした気持ちは消えない。
「膝丸さん」
ふと、背後から声がして、彼はゆっくりと振り返る。
見れば、頭ひとつ分ほど下の位置に、小麦色の癖っ毛がゆらゆらと揺れていた。この本丸の物吉貞宗だ。
「今日の畑仕事は、もう大丈夫ですよ。あとは、お日様に任せましょう」
まさに太陽のような笑みを浮かべて、物吉は膝丸に水の入ったグラスを差し出す。一人で野良仕事を続ける膝丸を目にして、見るに見かねて声をかけたのだろう。
「……ああ、そうだな」
こちらを見つめる物吉の視線は、気遣わしげなものだ。彼は、周りの空気を読んで、怒りや悲しみといった負の空気はできる限り良い方向へ変えようと、意識して振る舞う部分がある。
自分も、知らず知らずの間に暗澹たる空気を周囲に撒き散らしていたのかもしれないと、膝丸は内心で彼に謝罪する。
これは、髭切(あに)と膝丸(おとうと)の問題だ。ならば、他者に対して不安を抱かせてなどいけない。
口角に力を込め、目を細める。そうすれば、笑顔の形になるのだとは、膝丸はもう知っていた。
「すぐに戻る。世話をかけた」
「……いえ」
笑いかけてみせたのに、物吉は何かに気がついたようにハッとした後に、細い眉をギュッと寄せる。
「膝丸さん、ボクの気のせいかもしれませんが」
「どうした」
「……何かありましたか」
内心で、ぎくりとした。
上手く誤魔化せていたはずだと思えるくらいに、自分の作り出した笑顔には自信があった。
兄にああ言われてしまった以上、他の仲間にはせめて迷惑をかけまいと、鏡を前にして修練もいくらか重ねたぐらいだ。
膝丸は知らない。
彼より、もっと長く、上手に作り笑いを続けてきた者(あるじ)が、一年間彼らの前で笑顔の仮面を被り続けていたことを。
結果、物吉は嘘の笑顔を見抜くのが、とても上手くなっていることを。
***
髭切と膝丸は、ひょっとしたら喧嘩をしたのではないか。
藤はそのように当たりをつけて、髭切に問いかけてみせた。そして、彼女の予想は強ち的外れとも言えなかった。
「僕と弟では、目指したい在り方が違うって話をしたんだよ」
髭切の部屋で膝をつき合わせ、藤に問い詰められ、髭切は暫しの逡巡を経て語り始めた。
最初、髭切は藤に話すのは如何なものかと悩みはした。髭切と膝丸という兄弟同士の間に生まれた考えの相違だから、というのも理由の一つだ。
まして、源氏の重宝として、二振一具として生み出された彼らと、一つの個として成立している藤とでは、そもそもの出発点が違う。故に、彼女に話しても理解できないのでは――とも思っていた。
だが、藤はこの本丸における主人であり、髭切が刀を捧げた主でもある。
円滑に本丸を運営する役割を、藤(あるじ)は担っている。ならば、二振りの間で生じてしまった不和についても、順を追って説明すべきだと髭切は考え直した。
「弟は、二振一具として、僕は弟の傍らにいるべき存在だと主張した。弟が想像していた髭切の在り方は、片割れの一振りの傍らに常にあるものだったのだろうね」
仲の良い兄弟として、いつまでも共に在りたい。そんな膝丸の願いの破片を、藤は髭切の言葉から汲み取っていた。
顕現した直後から、膝丸は髭切によく声をかけている。
同じ兄弟である五虎退と乱藤四郎も、仲は良さそうにしているが、あそこまで熱心に側にいようとはしていなかった。
「……僕が、髭切を取っちゃったから、膝丸を不安にさせちゃったのかな」
髭切の言葉を受けて、藤はそのように考える。
顕現した直後、不安定な藤の心理状況を案じていた髭切は、膝丸の制止を振り切り、毎日のように藤の元を訪れていた。
主の役割を果たせと膝丸に叱られたのも、記憶に新しい。何やら、真剣を用いた一騎打ちまでしたとも聞いていた。
それもこれも、藤は己が不甲斐ないから怒りを買っているのではと思っていた。
だが、どうやらそれだけではなく、不甲斐ない主が髭切を横取りしているような形であったというのも、膝丸の苛立ちを加速させていたらしい。
「でも、弟も主のことは一応、認めているみたいだよ。まだ、何もかもをよしとは、できないようだったけどね」
「そうなんだ。ただ、僕は膝丸の口からその言葉が聞けるようになるまで、頑張りたいな。今も、彼には主と呼んでもらってはいないもの」
髭切の口を通じて賞賛を得たとしても、藤はぬか喜びしない。彼に認めてもらえるよう、精進を惜しまないでいようと決意する。
「それで、髭切の目指したい在り方は、膝丸とはどう違うの?」
「僕は、主を支えられる刀でありたい。そう願っている」
藤は、その名と同じ薄藤色の瞳を見開く。
「歌仙、五虎退、物吉、次郎、乱、小豆に堀川に、和泉守。それに、弟も。皆を率いる刀でありたい。僕は、惣領の刀だから」
透き通った黄金にも似た琥珀色の瞳が、藤の双眸と視線をぶつけ合う。思わず息を飲むほどに清冽で、同時に真剣な炎を内に秘めた眼差しだった。
「だから、僕は弟のためだけの髭切ではいられない。勿論、僕にとって弟は大事な存在だし、背中を守ってくれるなら、これ以上心強いものはいない。そう伝えてはいたんだけどね」
髭切は「困ったなあ」と言わんばかりに、肩を竦めてみせる。その仕草を目にして、藤は微かな違和感を覚えた。
「弟は、一応理解はしてくれたみたいなんだけど、あれ以来ちょっと考え込んじゃっているようなんだよね」
「そりゃまあ、髭切のことを凄く気にしているみたいだったからね。だけど、髭切はそれで良かったとしても、膝丸は本当に良いと思っているのかな」
「うーん、でもね、僕は自分の考えを弟のために曲げることはできない。君も、それは分かるよね」
柔らかな語調に隠れて、髭切の言葉には確固たる信念が混ざっている。だからこそ、藤も迂闊に「膝丸のために意志を曲げろ」とは言えなかった。
何より、他人のために己の考えを曲げてしまったら、それは藤と同じように最終的に己を傷つけるだけの行為に変じてしまう。結果、誰も笑えない結末になるとは、先だって身にしみて理解したばかりだ。
「膝丸にも、そう言ったの?」
「うん。僕は弟と同じ考えを持てない。弟の考えは否定しないけれど、弟の考えに賛同して寄り添うことはできない。それでも、僕が弟を大事だと思う気持ちは、今も昔も変わらないつもりだよ」
「それで、膝丸は納得したんだね」
「……納得はしてない、かな」
そこで初めて、髭切は僅かに口ごもり、視線を庭へとやった。恐らく膝丸が、独りで庭仕事をしている場所へと。
「でも、僕の弟だもの。僕がずっと隣にいなくても、弟は独りで歩く力をちゃんと持っている。今はまだ、それに気が付いていないだけで、いずれ僕以外にも大事な者や守りたい者ができるんじゃないかな」
髭切にとっての、本丸での面々や主のように。歌仙にとっての、日々の営みのように。それぞれが、刀であった頃の逸話とは少し異なる何かを、こうして得ている。
膝丸もそのうち、そんな大事な何かを見出せば、兄の隣に固執しなくなるだろう。髭切は、そのように考えていた。
だが、藤は髭切の言い分を全て聞き、眉を思い切り寄せ、酷い頭痛がしているような顔をしていた。
そこまで変な主張だっただろうかと、髭切は首を傾げてみるも、答えは出ない。
主のように、己の考え方を胸に秘め、他人に流されずに意見を主張した。なるべく弟を傷つけないように、彼でも納得できる正しい言葉を選んで口にしたつもりだ。
「……僕は、何かおかしなことを言っただろうか」
原因が判然とせず、首を傾げながら髭切は問う。藤は「あー」だの「うー」だの、しばらく曖昧な声を漏らしてから、
「言ってないよ。君の言葉は、多分、君なりの正しさに裏打ちされた、真っ直ぐで嘘偽りのない言葉だろうって僕にも分かる。それに、僕も髭切が弟にかかりきりだったら、結構困ってしまうもの」
髭切は、この本丸において、古参の部類に入る。
顕現してから一年、という月日の差は、まだ成立してから一年と少ししか経っていない本丸において、それほどまでに大きい。
戦闘においては、同じく古参の五虎退や物吉が、先陣を切って偵察をする役回りを担っている以上、部隊長として仲間を鼓舞し、あるいは後方で全体を見渡して指揮をとる役は髭切や歌仙にしか、今の時点では任せられない。
戦闘面以外でも、髭切の穏やかで人当たりの良い人柄は、新人の緊張を程よく解きほぐしてくれる。
畑仕事についての知識は、藤の一夏の指導が花開き、今や本丸の中では藤に続いて作物に詳しくなりつつある。
だからこそ、髭切が弟にかかりきりになってしまったら、何かと不都合な面が出てくるとは藤も承知している。
「髭切の考えは、髭切なりに正しくて、膝丸も僕が見た限り、髭切の考えに沿おうとしているんだと思う」
髭切の方を見やっては、視線を逸らす膝丸の姿を思い出す。何かを言おうとして、言えずに口を閉ざす彼の姿は、兄に相応しくないと主に食ってかかっていた姿とは、まるで違う。
故に、膝丸も膝丸で心境の変化があったのだろうとは想像できる。髭切の言い分を落ち着いて聞けるぐらいに、俯瞰した考え方を得たのは間違いない。
だが、と同時に彼女は思う。
「でもさ、膝丸の気持ちは、その正しさとは別の所にあるんじゃないかな?」
「弟の気持ちが、別のところに?」
「うん。髭切は本丸のことを大事にしたいと考えている。膝丸は、僕が言うのも変かもしれないけど、刀の逸話通り、いつも二振りでいたいのかな。でも、それは本丸の運営としては正しくなくて、膝丸も承知している」
「承知しているのなら、どうして弟は僕にあんな態度をとるのだろうね」
「……承知していても、気持ちが別のところにあるからだと思うよ」
髭切は藤の言葉を聞いても、首を傾げたままでいる。
「顕現したばかりのとき、髭切は僕を斬ろうとして歌仙に怒られた。髭切としては、歌仙の言い分はもっともだと思っていたけど、自分の正しさも聞いてくれていいじゃないかって気持ちになった。今回もそれと同じなんじゃない?」
「……ああ、つまり、弟も自分の主張をもっと聞いてほしいって思っているのかなあ」
「それもあるかもだけど、それよりも単純に――」
遠目から、じっと髭切を見つめている膝丸の様子。その姿を端的に表す言葉を、藤は知っている。
「膝丸は、寂しいんじゃないの?」
髭切は、藤の言葉を聞き、大きな瞳を暫くぱちぱちと瞬かせた。数秒を経て、彼はふっと口元に笑みを覗かせ、
「まさか」
笑いながら、彼は否定した。
「弟は、僕と同じ源氏の重宝だよ。いくら主でも、それは弟のことを甘く見すぎているんじゃないかな」
「でも、髭切だって弟がいなかった時、寂しそうにしていたじゃないか」
心の中に空白があると、髭切は語っていた。だからこそ、その空白を埋める手伝いがしたいと、藤は髭切に約束を持ちかけたのだ。
「僕はもう顕現している。弟が顕現したときには、兄である僕が既にいたのだから、僕が感じたような空っぽの気持ちになるはずがないよ」
意地悪や冗談で言っているわけではないのだと、すぐに藤は気がつく。髭切は悪気など全く感じずに、純粋に弟を信じている。
己の考えの正しさを全て分かって受け止めてくれる、と。そうでなくても、理解をして頷いてくれるだろう、と。
無邪気なまでの素直な信頼。それこそが、先ほど感じた違和感なのだろう。
「うーん、突然違う考えを突きつけられて、狼狽えてしまったのかな。でも、弟は愚かではないから、ちゃんと分かってくれると思うんだ」
膝丸は愚か者ではないと、藤も知っている。
手合わせの姿も、日々の仕事に取り組む姿も、彼自身の誠実さが常に全身から表れている。
その彼が唯一取り乱したのは、兄のことだった。怪我をした髭切の手入れを藤が拒んだ時、膝丸は激昂していた。
逃げ出した主を追いかけ、持ち主のせいで他人に哀れまれるような存在に自分たちを貶めるなと怒鳴った時も、言葉の端々に兄への思いを感じ取れた。
だからこそ、それほどまでに敬意と親愛を込めてきた存在に、生きる道が違うと言われたら、どれほどの衝撃か。
お前の考えを受け入れられないと、はね除けられたら、何と思うだろうか。
「……側にいても、寂しいって感じることはあるよ」
寧ろ側にいるからこそ、己と異なる道を歩む姿を目の当たりにすればするほど、より強く寂しいと感じるのではなかろうか。
鬼でありたいという生き方を胸に秘めていた藤が、鬼という存在から自分を遠ざけようとする歌仙たちを目の当たりにして、胸が痛くなったのと同じように。
「そうかなあ。僕には、ちょっとよく分からないのだけれど、主が言うならそうなのかもね」
髭切は、藤がどれだけ語っても、理解できていないようだった。
彼が、この一年で多くを得たからもあるのだろう。
本丸での日々。主との生活。
それら全てを束ねている髭切が、己なりの正しさを以て膝丸に告げた言葉は、どれほど大局から見て正しかったとしても、膝丸にとっては重荷としかならなかっただろう。
正しさは時に傲慢な刃にもなると、藤は知っている。
それこそ、嫌になるほどに。
「でも、本当にそうなのなら」
髭切は、目を伏せて嘗ての己を思う。
自分の中にあった、消えない空白の塊。弟を目にした瞬間から、あの空白は埋まっていた。
だが、もし、膝丸の胸には兄を目にしても消えない空っぽの場所があるのだとしたら、それはとても――辛いだろう。
「本当に、寂しいと思っているのなら、どうして直接僕に言ってくれないんだろうね」
こんなに近くにいるのだから、声をかけてくれればいいのにと、髭切は呟く。
(……言いたくても、言えないんじゃないかな)
藤は、無言のままに膝丸の視線が訴えてきていた感情を思い浮かべる。
兄に対する深い尊敬の念、そして同時に遠慮するような感情。藤には兄弟姉妹はいないが、親しい相手が自分と違う考えを語って聞かせていたら、気を遣って一歩退いてしまう。
丁度、かつての己と刀剣男士たちのように。
「僕は、主にとっても良き刀になりたい。それ以外のことはどうでもいい。そう思いたいんだけど――どうしてだろうね。弟のことを、どうでもいいとは思えないんだ」
「それは、当たり前だよ」
藤は膝の上に組んだ指に視線を落とし、
「だって、家族なんだもの」
***
刀剣男士の兄弟とは、具体的にどういう関係なのか。この問いに対する答えについては、藤は答えを持っていなかった。
そもそも、自分にも兄弟姉妹がいなかった藤には、兄と弟の問題については門外漢だからだ。故に、藤は本丸にいる兄弟を持つ刀剣男士に、それぞれの関係性を尋ねることにした。
「うーん……ボクの場合は、五虎退は大事な弟というより、親しい友達に近いかな? あ、でも、物吉とすっごく仲良くしているときは、ボクが兄なんだぞって気持ちにはちょっぴりなったよ」
「え、そうだったんですか……!? ぼ、僕は、乱兄さんは、その……ほっとできる場所だって、思ってます……。あの、決してあるじさまといると緊張するというわけでなくて」
乱は五虎退と肩を並べて、太陽のように朗らかな笑みを浮かべて見せた。一方、五虎退は乱の発言に驚きを見せている。まさか、物吉に兄の座を奪われると乱が思っていたとは、想像もしていなかったらしい。
五虎退は五虎退なりに、主とは違う安らぎの場として、乱の存在を認識しているようだった。くすぐったそうに笑う彼の顔は、確かに他の刀剣男士と話しているときとは、少し違う。
「和泉守を、兄弟と感じたことはないね。刀としての系列に繋がりはあるようだけれど、彼には雅さの何たるかがまだ兼ね備わっていないようだ」
「オレも、之定を見て兄貴だ何だととは思わねえなぁ。人間の感覚で言うなら……あー、何だ。家族でもないけど、多少近い所にいる奴があっただろ」
「親戚?」
「そう、それだ」
和泉守と歌仙の意見は、あまり参考にはならなかった。彼らは同じ『兼定』の号を冠しているものの、実際の感覚は遠縁の親戚程度の間柄らしい。
どれも、髭切と膝丸の言う明瞭な兄弟の繋がりとは違う。
乱と五虎退も、あくまで友達の延長線上の感覚に近いようで、己の生き方まで互いに作用するような結びつきは見られなかった。
髭切と膝丸の間に生じた問題について、夕飯を終えてから藤がうんうんと自室で頭を抱えていると、コンコンと柱を叩く音がした。
「どうぞ、開いてるよ」
そろそろと動いた襖の向こうには、物吉が立っている。お風呂上がりのためか、いつもの癖毛はぺたりと撫でつけられ、活動的な彼をいくらか大人しく見せていた。
「どうしたの、物吉。そんな深刻そうな顔で」
物吉は、いつも笑顔を振りまいて、皆の幸せを引き出そうとする少年だ。だからこそ、彼自身がこんな風に沈鬱な顔をしているときは、何か大きな悩み事を抱えているのだろうと、藤は推察する。
「あの……膝丸さんのことで相談があるんです」
切り出された事柄に、藤も表情を引き締める。どうやら、膝丸の態度にぎこちなさが出てきている件については、皆の知れ渡るところとなっていたようだ。
「膝丸に、何かあったの?」
「お昼に会ったときから、少しあれ、と思っていたんですが……。さっきお風呂で一緒になった際に、見間違えじゃないってわかったんです」
「見間違え?」
「膝丸さん、他の皆が話しかけたり、髭切さんが通りかかったりするとき、いつも笑っているんです。でもその笑い方が……昔の主様によく似ているんです」
口ごもりながらも、物吉は自分の所感をはっきりと説明する。この上ないぐらい正確な彼の表現は、事態を的確に表していた。
藤が常に浮かべ続けていた笑顔の仮面。誰かのためを理由にして、剥がすことを拒んでいた仮面が、今は膝丸の顔を覆っていると物吉は言っている。
「一見すると、平気そうには見えるんです。ですけど、多分何か悲しいことを考えているんじゃないかって、ボクは思いました」
まるで自分が痛みを覚えているかのように、物吉は胸に手をやり、ぎゅっと服を掴む。
「勿論、兄の髭切さんがいるのだから、ボクが出る幕なんてないんだろうって、最初はそう考えたんですけど。でも、黙っていて手遅れになるのはもう嫌なんです」
嘘の笑顔に騙されたフリをして、目を閉じるのは嫌だと、物吉は言う。
幸せを運びたい相手は、何も主だけではない。本丸の皆が笑顔でいることが、物吉の何よりの願いだった。
「……そうだね。家族の問題だからって、勝手な口出しは控えた方がいいのかもしれないとは思っていたけれど……このまま待っていても、やっぱりどうにもならないよね」
弟のことを、どうでもいいことにはできない、と髭切は言っていた。どうして僕に何も話してくれないのだろうと、彼は困っているようだった。
とはいえ、髭切が膝丸に声をかけても、彼は頑なになるだけだろう。以前の藤と髭切の間にあったように、正面から衝突し合うのも一つの手ではあるのだろうが、
(これはきっと、己の正しさを掲げるだけじゃ解決しない問題だ)
それに、折角出会った兄弟が、何度も衝突するのは正直気の毒にも思う。彼らの間に生じた摩擦の原因については、一端を自分が担ってしまっているという責任も、藤の中にはあった。
どうせぶつかってしまうかもしれないなら、膝丸が敬愛している兄とではなく、自分が先にぶつかるべきだと感じるほどに。
膝丸への苦手意識がなくなったかと言えば、素直には頷けない。必要最低限以上の会話はしていないし、仲良くしろとこちらが求められる立場でもないとは分かっている。
だが、見ない振りはもうできない。腹を括って、藤は膝丸の部屋に向かう決意をした。
***
善は急げの言葉通り、物吉が帰ってから、藤は小走りで本丸の中程にある膝丸の部屋へと足を進めた。
髭切の部屋からは一部屋分離れており、そのこともきっと膝丸にとっては悩みを加速させる原因だったのだろうと推察する。
コンコンと柱を軽く叩くと、すぐに返事はあった。幸いまだ起きていたらしい。
「失礼しまーす……」
恐る恐る襖を開くと、果たして膝丸はそこにいた。
風呂上りの濡れた薄緑の髪が無造作に耳にかけられており、普段隠れている片目があらわになっている。そのような姿でいると、彼はよく兄に似ていると気付かされる。
「貴様か。何の用だ」
だが、髭切とは似ても似つかぬ棘の混じった声に、藤の心臓はぎゅっと縮まりかけた。
和泉守のようにこちらの器をはかるような態度ではない、はなから拒絶を露わにした振る舞いは、正直予想以上に緊張を強いてくる。
「あの、さ。髭切のこと、なんだけど」
それでも、ここに来た理由を思い返して、藤は口を動かす。だが、髭切の名を聞いて、膝丸の眉間の皺は益々深くなっていった。
「膝丸、髭切のことで最近悩んでいるように見えて」
「気のせいだろう。俺と兄者は、仲の良い兄弟のままだ」
藤が言い終えるより先に、膝丸が彼女の言葉を遮る。しかし、仲が良いと主張する彼の言葉そのものが、何かの祈りのように藤には聞こえた。
丁度、藤が以前まで何でもないと言い張り続けたように。そうであってほしいと、諦念を抱きながら僅かな希望を求めて捧げられた言葉として、藤は膝丸の発言を受け取る。
「髭切から話は聞いてる。君と髭切の間に考え方の違いが出てきてしまっていて、髭切は君の考え方に応えられないって言っていた。それでも、膝丸も、いつしか自分の考えを受け入れてくれるだろうって。でも、肝心の膝丸本人はどう思っているのか、僕はそれが気になっていた」
「…………」
沈黙、そのあとにため息。
それが指す意味を、ため息をついた膝丸本人は明確に理解している。
あの日の晩に語り合った内容は、兄弟間だけの問題として膝丸は見なしていた。だが、兄は主にことの経緯を話してしまったらしい。
別に、誰にも言うなとも約束したわけでもない。なのに、自分は無意識に特別扱いされることを、望んでいたのだ。
そんなあさましい己の欲望に、気がつかされたが故に出たため息だった。
「もし、だけど……膝丸の方で打ち明けたい気持ちが別にあるって言うなら、髭切は聞くつもりはあるみたいだよ。直接上手く言えないなら、僕の方から話を」
「余計な真似をするな」
刀で斬りつけるような鋭い語気に、藤は口を止めざるを得なかった。
目の前にいる刀剣男士は自分の刀剣男士であり、危害を加える存在ではないと自覚はしている。けれども、夜用に絞られた灯りの下でぎらぎらと輝く彼の瞳は、獲物を見つけた蛇のような剣呑さを湛えていた。
「兄者は、顕現して日が浅い俺よりも広い知見を持っている。だから、兄者がそれが良いというのなら、あとは納得できない俺の未熟さの問題だ。兄者や……本丸の面々を困らせてしまっているのなら、そのようなことがないように努める。主の貴様には、それで十分だろう」
藤がわざわざこうしてやってきた理由は、本丸の空気を乱すなと注意しに来たのだろうと、膝丸は推察していた。
主として、本丸運営のために邁進する。それが悪いこととは思わない。寧ろ、良いことだ。
大局的に見れば、彼女は良き審神者になろうと努力しているだけだ。それなら、頑なに拒絶している自分の方が、却って悪者と言える。
だから、これはただの未熟な我が儘だと、膝丸は己の気持ちに名前をつける。
切って捨てるべき、悪しき感情である、と。
「兄者にはまだまだ及ばぬだろうが、本丸の和を乱すのは俺も望む所ではない」
「……そう言ってもらえるのは嬉しいけど、僕は、そういう話をしにここに来たわけじゃないんだ」
「なら、何の話をしにきた」
話の向き先が変わり、膝丸は再び鎮めようとした苛立ちの炎が燃え盛り始めたことを自覚する。
髭切に相談をされ、髭切が支えたいと願う存在。自分が望んだ立場を、兄が捨てた原因。
それを前にして、いくら自分が間違っているとはいえ、冷静で居続ける方が無理というものだ。
その態度が、顔にも出てしまっていたのだろう。藤が僅かに身を固くするのが、膝丸の目からも見てとれた。
しかし、彼女は退こうとしない。
適当な言葉で誤魔化そうとしない。
「僕は、君の気持ちの話をしにきている」
藤にとっては、膝丸の怒りが滲み出たような視線は、正直気持ちのよいものではない。だからといって、こんな状況で逃げようなどとは、はなから考えていない。
睨み付けられたぐらいで、何だと言うのだ。
(髭切なんて、僕を殺そうとしてきたんだから)
彼を顕現した直後のやりとりを思えば、少し睨まれるくらい、どうということはない。瞳に力を込めて見つめ返すと、逆に膝丸の方がたじろいだようだった。
「膝丸は何を思ったのか。僕はそれを知りたいし、髭切も多分知りたがっている。何が正しいとか間違ってるとかじゃなくて、君の気持ちが――心が、何をしたいと叫んでいるのかを」
小難しい理屈など、今は問題にする必要はない。ただ、己の全てが、感情の赴くままに吐き出した叫びだけを知りたい。
自分に聞かせなくてもいいと藤は思っていた。それこそ、家族の問題なのだから二人の間の秘密にしても構わない。
髭切は、膝丸の気持ちは自分と同じものになるのだろうと、楽観視している節がある。それを膝丸は信頼と思いたいのかもしれないが、信頼のあまりに当人の心を挫いてしまっては本末転倒だ。
髭切の信に応じようとして、膝丸が折れてしまうのは藤の望む所ではない。たとえ、それも結局、嘗ての自分と似た道を選んだ者を見捨てられないという、救済の代償行為だったとしても。
「……なるほど、貴様はそう考えているのか」
果たして、膝丸は――笑っていた。笑顔の残骸のようなものを、唇の端に浮かべていた。
「だが、俺の意見は先ほど言ったことが全てだ。それに、貴様が俺と兄者の何を知ると言うのだ。分かるわけがなかろう」
それは、拒絶であると同時に、そうでなければいけないと願うような言葉に聞こえた。
たとえ、兄弟の間にできた距離が大きくなったとしても。
ずれてしまった二振一具だったとしても。
他人に、簡単に理解されたくはない。
理解されてしまっては、自分と髭切の間にある兄弟関係が唯一無二のものでなくなってしまう。
そんな、他者の浸食を恐れる、威嚇めいた発言だ。
「俺はもう休む。話が終わったなら出て行ってもらえるか」
これ以上は梃子でも動かないと示すような発言に、藤は唇を噛む。ここまで徹底的に腹の内を見せてくれないとは、彼女も思っていなかった。
あるいは、髭切の弟ということで、勝手に自分が親近感を覚えていたのかもしれない。そのような甘さを見抜かれたのだろうか。
(僕も、人の態度に文句を言える立場ではないんだろうけど。髭切も、こんな気持ちだったんだろうし)
どれだけ揺さぶっても、君には関係ないと拒絶した。分かるわけがないと、勝手に相手を悪者にして遠ざけた。
身に覚えがありすぎて、胸の奥が痛むぐらいだ。けれども、それは良くないことだとも、自分の身で体験したからこそ言える。
とはいえ、膝丸の表向きの建前も一応は筋が通っている。もう夜も遅く、寝る時間なのにいつまでも部屋に居座るのは、端的に言えば単なる邪魔だ。
「……膝丸」
「何だ」
「明日、時間もらっていい?」
膝丸の顔は雄弁に「良くない」と告げていたが、藤は無視する。
「そろそろ夏祭りの時期でしょ。でも膝丸だけ、浴衣の準備できてないから、買いに行こうと思って」
唐突な話の切り替えだったが、藤が外出を機に話をしたいのだとは膝丸も読めていた。
「それは、兄者と行くと言っただろう」
「今この状況で行けるの?」
「…………」
沈黙を「行けない」の回答と受け取り、藤は言葉を続ける。
「だから、僕と一緒に万屋に行こう。そして、浴衣を買おう」
「断る。別に、着替えをせずとも夏祭りとやらには行けるのだろう」
「一人だけ浴衣なしだったら、まるで君を虐めているみたいじゃないか。それとも、そんな風に本丸のことを捉えているの?」
「そのようなつもりはない。そんなに悪目立ちさせたくないというのなら、俺は本丸に残る」
「膝丸っ」
藤と膝丸の間に火花が飛び散る。
夏祭りなど、所詮は息抜き以上の価値はないのだから、どうでもいいではないかと膝丸は捉えていた。先だっても、髭切と歌仙以外の面々で出かけてみたものの、結局何が楽しかったのかは分からずじまいだ。
だが、藤としては、膝丸が一人残ればそれで良しなどとは到底思えない。行った面々だって、残された彼のことが気になるだろう。
「……じゃあ、もうお願いはしない」
ようやく観念したかと膝丸がため息をつきかけた刹那、
「これは主としての命令。僕は明日、正午過ぎに万屋に向かう。供は膝丸。来たくなかったら来なくていい。ただ、君が来なければ、僕は一人で行くからね」
供――要するに護衛の任を放棄すれば、膝丸は守るべき主を放置して危険に晒したことになる。そんな無責任な行動を彼はとれまいと踏んでの命令だ。
そこには、膝丸という刀剣男士が持つ矜持に対する藤からの確かな信頼がある。それを読み取れないほど、膝丸も耄碌はしていない。
残念ながら、癪に障るぐらいに、分かってしまう。
「……承知した。出かける前に声をかけてくれれば、ついていく。これでいいのだろう」
「うん。じゃあ、お願いね」
藤は手早く返事をして、おやすみという言葉と共に部屋を後にする。
残された膝丸は、長く長く息を吐き出して、天井を見上げた。そのまま、後ろに倒れてしまいたいほど、力が自分の中から抜けていくのが分かる。
「俺が何を思っているか――」
上手く言葉にはできない。兄の側にいたいのは、信念からなのか、存在がそのように定義されていたからか、それとも単に――。
「いや、これ以上考えるのは兄者への負担となるだけだ。兄者は兄者の道を往く。俺もまた自分の道を進めばいい……はずだ」
兄のいない道を、歩めばいい。
二つで一つなのではなく、一つと一つとして歩めばいい。
言葉の意味も、どうすべきかも分かっている。
しかしやはり、得体の知れない息苦しさは膝丸の中からは消えてくれなかった。
しかし、先日から遠出をしたり、バーベキュー大会を開いたりと、何かと非日常が重なっていたので、平凡な日常が退屈に感じられる――などということは、藤にはなかった。
元々、彼女はそこまでイベントが大好きというわけではない。ああいうのは、たまにやるから楽しいのだ。
朝起きて、畑に水やりをして、朝ごはんを食べる。
一時期は歌仙も大量のお代わりを許容してくれているが、最近はまた厳しい歌仙に戻ってしまった。もっとも、味覚が戻ってきてご飯が美味しいと伝えるたび、食べ過ぎ注意と言いながらも大盛りにしてくれるので、そこまで不満は感じていない。
歌仙兼定といえば、結局、彼が負傷した一件については、有耶無耶にされてしまったが、担当官の富塚よりも更に偉い立場の人から、丁寧なお詫びの言葉は貰った。今は、それで溜飲を下げるしかあるまい。
出陣の連絡があれば、先の件もあるので、慎重に中身を吟味して部隊を編成する。まだまだ未熟なところは、戦慣れしている歌仙や髭切の意見を取り入れていた。彼らは場数を踏んだためか、よい助言者となってくれている。
そうやって、審神者としての日常業務をこなしつつ、夏の日は緩やかに過ぎていく――はずだった。
「……これは、絶対何かあったよね」
ある日の昼下がり、畑仕事をしている膝丸を見つめながら、藤はぽつりと呟いた。
先刻、髭切は膝丸に声をかけに行こうとしていた。二人で兄弟水入らずの時間を過ごしているのかと思いきや、膝丸は髭切の接近を察知すると、それとなく拒絶するかのように背を向けてしまったのだ。
髭切も彼の仕草に気がついたのか、近づくのをやめて縁側に戻ってきてしまった。
「そもそも、今日は午前の畑仕事としか頼んでないのに、膝丸はずーっと畑にいるんだよね」
つまり、彼は用もないのに畑に居座り続けているとも言える。まるで、兄と対面するのを避けるかのように。
髭切と膝丸のぎこちない関係は、藤が本丸で過ごすようになってから時たま目についていたが、ここ数日はより際立っているように思えた。以前は膝丸から声をかけようとする素振りを見せていたのに、近頃は逆に全く髭切に近寄ろうとしない。
喧嘩でもしたのか。それとも、膝丸の方で何か負い目でも感じているのか。どちらにせよ、放っておいていい問題ではないと藤は捉えていた。
「髭切。ちょっといい?」
縁側から廊下へとあがり、部屋へ戻ろうとするところの髭切を捕まえ、藤は彼に問いかける。
「何だい、主」
「話があるんだけど……膝丸のことで」
膝丸の名前を出した瞬間、髭切の顔に、珍しく揺らぎが生じた。何かあったのではという疑惑は、その瞬間に確信へと変わった。
***
夏の日差しは魔物だ。どれだけ帽子で日除けをしたところで、熱気はじわじわと彼を蝕んでいく。
流れ落ちる汗を手の甲で拭い、膝丸は畑の小さな雑草を毟り取っていた。本来なら、もう少し伸びてから取り除けばいいような代物だ。
だが、畑に居続けたい膝丸は、急務ではない作業であったとしても、そこにやることがある限り延々と行い続けていた。
(本丸にいては、兄者と顔を合わせてしまう)
自分と弟では、進む道に対する考え方が違うのだと、言われてしまった。
弟だけの兄ではいられない、と告げられてしまった。
その瞬間から、膝丸は自分がどこに立ち、どこに向かいたいのかすら、見えなくなっているような気がした。
髭切の考えていることも、理解できないわけではない。
それに、自分とて、あのような感情的な言葉で兄を縛ろうなどとは思っていない。
先だっての発言は、振り返ってみれば暴論であると思える部分もある。けれども、同時に髭切に隣にいてもらいたいという気持ちだけは変わらない。
ならば、結局のところ、自分はいったいどうしたいのだろうか。
「――――っ」
喉が詰まり、息ができなくなるような感覚。口を塞がれたわけでも、呼吸を止めているわけでもないのに、いくら空気を取り入れても息苦しさがなくならない。
すぅっと息を吸い、はぁっと吐き出す。呼吸を強く意識することで、どうにか常の状態に戻れたが、腹の中に残るもやもやとした気持ちは消えない。
「膝丸さん」
ふと、背後から声がして、彼はゆっくりと振り返る。
見れば、頭ひとつ分ほど下の位置に、小麦色の癖っ毛がゆらゆらと揺れていた。この本丸の物吉貞宗だ。
「今日の畑仕事は、もう大丈夫ですよ。あとは、お日様に任せましょう」
まさに太陽のような笑みを浮かべて、物吉は膝丸に水の入ったグラスを差し出す。一人で野良仕事を続ける膝丸を目にして、見るに見かねて声をかけたのだろう。
「……ああ、そうだな」
こちらを見つめる物吉の視線は、気遣わしげなものだ。彼は、周りの空気を読んで、怒りや悲しみといった負の空気はできる限り良い方向へ変えようと、意識して振る舞う部分がある。
自分も、知らず知らずの間に暗澹たる空気を周囲に撒き散らしていたのかもしれないと、膝丸は内心で彼に謝罪する。
これは、髭切(あに)と膝丸(おとうと)の問題だ。ならば、他者に対して不安を抱かせてなどいけない。
口角に力を込め、目を細める。そうすれば、笑顔の形になるのだとは、膝丸はもう知っていた。
「すぐに戻る。世話をかけた」
「……いえ」
笑いかけてみせたのに、物吉は何かに気がついたようにハッとした後に、細い眉をギュッと寄せる。
「膝丸さん、ボクの気のせいかもしれませんが」
「どうした」
「……何かありましたか」
内心で、ぎくりとした。
上手く誤魔化せていたはずだと思えるくらいに、自分の作り出した笑顔には自信があった。
兄にああ言われてしまった以上、他の仲間にはせめて迷惑をかけまいと、鏡を前にして修練もいくらか重ねたぐらいだ。
膝丸は知らない。
彼より、もっと長く、上手に作り笑いを続けてきた者(あるじ)が、一年間彼らの前で笑顔の仮面を被り続けていたことを。
結果、物吉は嘘の笑顔を見抜くのが、とても上手くなっていることを。
***
髭切と膝丸は、ひょっとしたら喧嘩をしたのではないか。
藤はそのように当たりをつけて、髭切に問いかけてみせた。そして、彼女の予想は強ち的外れとも言えなかった。
「僕と弟では、目指したい在り方が違うって話をしたんだよ」
髭切の部屋で膝をつき合わせ、藤に問い詰められ、髭切は暫しの逡巡を経て語り始めた。
最初、髭切は藤に話すのは如何なものかと悩みはした。髭切と膝丸という兄弟同士の間に生まれた考えの相違だから、というのも理由の一つだ。
まして、源氏の重宝として、二振一具として生み出された彼らと、一つの個として成立している藤とでは、そもそもの出発点が違う。故に、彼女に話しても理解できないのでは――とも思っていた。
だが、藤はこの本丸における主人であり、髭切が刀を捧げた主でもある。
円滑に本丸を運営する役割を、藤(あるじ)は担っている。ならば、二振りの間で生じてしまった不和についても、順を追って説明すべきだと髭切は考え直した。
「弟は、二振一具として、僕は弟の傍らにいるべき存在だと主張した。弟が想像していた髭切の在り方は、片割れの一振りの傍らに常にあるものだったのだろうね」
仲の良い兄弟として、いつまでも共に在りたい。そんな膝丸の願いの破片を、藤は髭切の言葉から汲み取っていた。
顕現した直後から、膝丸は髭切によく声をかけている。
同じ兄弟である五虎退と乱藤四郎も、仲は良さそうにしているが、あそこまで熱心に側にいようとはしていなかった。
「……僕が、髭切を取っちゃったから、膝丸を不安にさせちゃったのかな」
髭切の言葉を受けて、藤はそのように考える。
顕現した直後、不安定な藤の心理状況を案じていた髭切は、膝丸の制止を振り切り、毎日のように藤の元を訪れていた。
主の役割を果たせと膝丸に叱られたのも、記憶に新しい。何やら、真剣を用いた一騎打ちまでしたとも聞いていた。
それもこれも、藤は己が不甲斐ないから怒りを買っているのではと思っていた。
だが、どうやらそれだけではなく、不甲斐ない主が髭切を横取りしているような形であったというのも、膝丸の苛立ちを加速させていたらしい。
「でも、弟も主のことは一応、認めているみたいだよ。まだ、何もかもをよしとは、できないようだったけどね」
「そうなんだ。ただ、僕は膝丸の口からその言葉が聞けるようになるまで、頑張りたいな。今も、彼には主と呼んでもらってはいないもの」
髭切の口を通じて賞賛を得たとしても、藤はぬか喜びしない。彼に認めてもらえるよう、精進を惜しまないでいようと決意する。
「それで、髭切の目指したい在り方は、膝丸とはどう違うの?」
「僕は、主を支えられる刀でありたい。そう願っている」
藤は、その名と同じ薄藤色の瞳を見開く。
「歌仙、五虎退、物吉、次郎、乱、小豆に堀川に、和泉守。それに、弟も。皆を率いる刀でありたい。僕は、惣領の刀だから」
透き通った黄金にも似た琥珀色の瞳が、藤の双眸と視線をぶつけ合う。思わず息を飲むほどに清冽で、同時に真剣な炎を内に秘めた眼差しだった。
「だから、僕は弟のためだけの髭切ではいられない。勿論、僕にとって弟は大事な存在だし、背中を守ってくれるなら、これ以上心強いものはいない。そう伝えてはいたんだけどね」
髭切は「困ったなあ」と言わんばかりに、肩を竦めてみせる。その仕草を目にして、藤は微かな違和感を覚えた。
「弟は、一応理解はしてくれたみたいなんだけど、あれ以来ちょっと考え込んじゃっているようなんだよね」
「そりゃまあ、髭切のことを凄く気にしているみたいだったからね。だけど、髭切はそれで良かったとしても、膝丸は本当に良いと思っているのかな」
「うーん、でもね、僕は自分の考えを弟のために曲げることはできない。君も、それは分かるよね」
柔らかな語調に隠れて、髭切の言葉には確固たる信念が混ざっている。だからこそ、藤も迂闊に「膝丸のために意志を曲げろ」とは言えなかった。
何より、他人のために己の考えを曲げてしまったら、それは藤と同じように最終的に己を傷つけるだけの行為に変じてしまう。結果、誰も笑えない結末になるとは、先だって身にしみて理解したばかりだ。
「膝丸にも、そう言ったの?」
「うん。僕は弟と同じ考えを持てない。弟の考えは否定しないけれど、弟の考えに賛同して寄り添うことはできない。それでも、僕が弟を大事だと思う気持ちは、今も昔も変わらないつもりだよ」
「それで、膝丸は納得したんだね」
「……納得はしてない、かな」
そこで初めて、髭切は僅かに口ごもり、視線を庭へとやった。恐らく膝丸が、独りで庭仕事をしている場所へと。
「でも、僕の弟だもの。僕がずっと隣にいなくても、弟は独りで歩く力をちゃんと持っている。今はまだ、それに気が付いていないだけで、いずれ僕以外にも大事な者や守りたい者ができるんじゃないかな」
髭切にとっての、本丸での面々や主のように。歌仙にとっての、日々の営みのように。それぞれが、刀であった頃の逸話とは少し異なる何かを、こうして得ている。
膝丸もそのうち、そんな大事な何かを見出せば、兄の隣に固執しなくなるだろう。髭切は、そのように考えていた。
だが、藤は髭切の言い分を全て聞き、眉を思い切り寄せ、酷い頭痛がしているような顔をしていた。
そこまで変な主張だっただろうかと、髭切は首を傾げてみるも、答えは出ない。
主のように、己の考え方を胸に秘め、他人に流されずに意見を主張した。なるべく弟を傷つけないように、彼でも納得できる正しい言葉を選んで口にしたつもりだ。
「……僕は、何かおかしなことを言っただろうか」
原因が判然とせず、首を傾げながら髭切は問う。藤は「あー」だの「うー」だの、しばらく曖昧な声を漏らしてから、
「言ってないよ。君の言葉は、多分、君なりの正しさに裏打ちされた、真っ直ぐで嘘偽りのない言葉だろうって僕にも分かる。それに、僕も髭切が弟にかかりきりだったら、結構困ってしまうもの」
髭切は、この本丸において、古参の部類に入る。
顕現してから一年、という月日の差は、まだ成立してから一年と少ししか経っていない本丸において、それほどまでに大きい。
戦闘においては、同じく古参の五虎退や物吉が、先陣を切って偵察をする役回りを担っている以上、部隊長として仲間を鼓舞し、あるいは後方で全体を見渡して指揮をとる役は髭切や歌仙にしか、今の時点では任せられない。
戦闘面以外でも、髭切の穏やかで人当たりの良い人柄は、新人の緊張を程よく解きほぐしてくれる。
畑仕事についての知識は、藤の一夏の指導が花開き、今や本丸の中では藤に続いて作物に詳しくなりつつある。
だからこそ、髭切が弟にかかりきりになってしまったら、何かと不都合な面が出てくるとは藤も承知している。
「髭切の考えは、髭切なりに正しくて、膝丸も僕が見た限り、髭切の考えに沿おうとしているんだと思う」
髭切の方を見やっては、視線を逸らす膝丸の姿を思い出す。何かを言おうとして、言えずに口を閉ざす彼の姿は、兄に相応しくないと主に食ってかかっていた姿とは、まるで違う。
故に、膝丸も膝丸で心境の変化があったのだろうとは想像できる。髭切の言い分を落ち着いて聞けるぐらいに、俯瞰した考え方を得たのは間違いない。
だが、と同時に彼女は思う。
「でもさ、膝丸の気持ちは、その正しさとは別の所にあるんじゃないかな?」
「弟の気持ちが、別のところに?」
「うん。髭切は本丸のことを大事にしたいと考えている。膝丸は、僕が言うのも変かもしれないけど、刀の逸話通り、いつも二振りでいたいのかな。でも、それは本丸の運営としては正しくなくて、膝丸も承知している」
「承知しているのなら、どうして弟は僕にあんな態度をとるのだろうね」
「……承知していても、気持ちが別のところにあるからだと思うよ」
髭切は藤の言葉を聞いても、首を傾げたままでいる。
「顕現したばかりのとき、髭切は僕を斬ろうとして歌仙に怒られた。髭切としては、歌仙の言い分はもっともだと思っていたけど、自分の正しさも聞いてくれていいじゃないかって気持ちになった。今回もそれと同じなんじゃない?」
「……ああ、つまり、弟も自分の主張をもっと聞いてほしいって思っているのかなあ」
「それもあるかもだけど、それよりも単純に――」
遠目から、じっと髭切を見つめている膝丸の様子。その姿を端的に表す言葉を、藤は知っている。
「膝丸は、寂しいんじゃないの?」
髭切は、藤の言葉を聞き、大きな瞳を暫くぱちぱちと瞬かせた。数秒を経て、彼はふっと口元に笑みを覗かせ、
「まさか」
笑いながら、彼は否定した。
「弟は、僕と同じ源氏の重宝だよ。いくら主でも、それは弟のことを甘く見すぎているんじゃないかな」
「でも、髭切だって弟がいなかった時、寂しそうにしていたじゃないか」
心の中に空白があると、髭切は語っていた。だからこそ、その空白を埋める手伝いがしたいと、藤は髭切に約束を持ちかけたのだ。
「僕はもう顕現している。弟が顕現したときには、兄である僕が既にいたのだから、僕が感じたような空っぽの気持ちになるはずがないよ」
意地悪や冗談で言っているわけではないのだと、すぐに藤は気がつく。髭切は悪気など全く感じずに、純粋に弟を信じている。
己の考えの正しさを全て分かって受け止めてくれる、と。そうでなくても、理解をして頷いてくれるだろう、と。
無邪気なまでの素直な信頼。それこそが、先ほど感じた違和感なのだろう。
「うーん、突然違う考えを突きつけられて、狼狽えてしまったのかな。でも、弟は愚かではないから、ちゃんと分かってくれると思うんだ」
膝丸は愚か者ではないと、藤も知っている。
手合わせの姿も、日々の仕事に取り組む姿も、彼自身の誠実さが常に全身から表れている。
その彼が唯一取り乱したのは、兄のことだった。怪我をした髭切の手入れを藤が拒んだ時、膝丸は激昂していた。
逃げ出した主を追いかけ、持ち主のせいで他人に哀れまれるような存在に自分たちを貶めるなと怒鳴った時も、言葉の端々に兄への思いを感じ取れた。
だからこそ、それほどまでに敬意と親愛を込めてきた存在に、生きる道が違うと言われたら、どれほどの衝撃か。
お前の考えを受け入れられないと、はね除けられたら、何と思うだろうか。
「……側にいても、寂しいって感じることはあるよ」
寧ろ側にいるからこそ、己と異なる道を歩む姿を目の当たりにすればするほど、より強く寂しいと感じるのではなかろうか。
鬼でありたいという生き方を胸に秘めていた藤が、鬼という存在から自分を遠ざけようとする歌仙たちを目の当たりにして、胸が痛くなったのと同じように。
「そうかなあ。僕には、ちょっとよく分からないのだけれど、主が言うならそうなのかもね」
髭切は、藤がどれだけ語っても、理解できていないようだった。
彼が、この一年で多くを得たからもあるのだろう。
本丸での日々。主との生活。
それら全てを束ねている髭切が、己なりの正しさを以て膝丸に告げた言葉は、どれほど大局から見て正しかったとしても、膝丸にとっては重荷としかならなかっただろう。
正しさは時に傲慢な刃にもなると、藤は知っている。
それこそ、嫌になるほどに。
「でも、本当にそうなのなら」
髭切は、目を伏せて嘗ての己を思う。
自分の中にあった、消えない空白の塊。弟を目にした瞬間から、あの空白は埋まっていた。
だが、もし、膝丸の胸には兄を目にしても消えない空っぽの場所があるのだとしたら、それはとても――辛いだろう。
「本当に、寂しいと思っているのなら、どうして直接僕に言ってくれないんだろうね」
こんなに近くにいるのだから、声をかけてくれればいいのにと、髭切は呟く。
(……言いたくても、言えないんじゃないかな)
藤は、無言のままに膝丸の視線が訴えてきていた感情を思い浮かべる。
兄に対する深い尊敬の念、そして同時に遠慮するような感情。藤には兄弟姉妹はいないが、親しい相手が自分と違う考えを語って聞かせていたら、気を遣って一歩退いてしまう。
丁度、かつての己と刀剣男士たちのように。
「僕は、主にとっても良き刀になりたい。それ以外のことはどうでもいい。そう思いたいんだけど――どうしてだろうね。弟のことを、どうでもいいとは思えないんだ」
「それは、当たり前だよ」
藤は膝の上に組んだ指に視線を落とし、
「だって、家族なんだもの」
***
刀剣男士の兄弟とは、具体的にどういう関係なのか。この問いに対する答えについては、藤は答えを持っていなかった。
そもそも、自分にも兄弟姉妹がいなかった藤には、兄と弟の問題については門外漢だからだ。故に、藤は本丸にいる兄弟を持つ刀剣男士に、それぞれの関係性を尋ねることにした。
「うーん……ボクの場合は、五虎退は大事な弟というより、親しい友達に近いかな? あ、でも、物吉とすっごく仲良くしているときは、ボクが兄なんだぞって気持ちにはちょっぴりなったよ」
「え、そうだったんですか……!? ぼ、僕は、乱兄さんは、その……ほっとできる場所だって、思ってます……。あの、決してあるじさまといると緊張するというわけでなくて」
乱は五虎退と肩を並べて、太陽のように朗らかな笑みを浮かべて見せた。一方、五虎退は乱の発言に驚きを見せている。まさか、物吉に兄の座を奪われると乱が思っていたとは、想像もしていなかったらしい。
五虎退は五虎退なりに、主とは違う安らぎの場として、乱の存在を認識しているようだった。くすぐったそうに笑う彼の顔は、確かに他の刀剣男士と話しているときとは、少し違う。
「和泉守を、兄弟と感じたことはないね。刀としての系列に繋がりはあるようだけれど、彼には雅さの何たるかがまだ兼ね備わっていないようだ」
「オレも、之定を見て兄貴だ何だととは思わねえなぁ。人間の感覚で言うなら……あー、何だ。家族でもないけど、多少近い所にいる奴があっただろ」
「親戚?」
「そう、それだ」
和泉守と歌仙の意見は、あまり参考にはならなかった。彼らは同じ『兼定』の号を冠しているものの、実際の感覚は遠縁の親戚程度の間柄らしい。
どれも、髭切と膝丸の言う明瞭な兄弟の繋がりとは違う。
乱と五虎退も、あくまで友達の延長線上の感覚に近いようで、己の生き方まで互いに作用するような結びつきは見られなかった。
髭切と膝丸の間に生じた問題について、夕飯を終えてから藤がうんうんと自室で頭を抱えていると、コンコンと柱を叩く音がした。
「どうぞ、開いてるよ」
そろそろと動いた襖の向こうには、物吉が立っている。お風呂上がりのためか、いつもの癖毛はぺたりと撫でつけられ、活動的な彼をいくらか大人しく見せていた。
「どうしたの、物吉。そんな深刻そうな顔で」
物吉は、いつも笑顔を振りまいて、皆の幸せを引き出そうとする少年だ。だからこそ、彼自身がこんな風に沈鬱な顔をしているときは、何か大きな悩み事を抱えているのだろうと、藤は推察する。
「あの……膝丸さんのことで相談があるんです」
切り出された事柄に、藤も表情を引き締める。どうやら、膝丸の態度にぎこちなさが出てきている件については、皆の知れ渡るところとなっていたようだ。
「膝丸に、何かあったの?」
「お昼に会ったときから、少しあれ、と思っていたんですが……。さっきお風呂で一緒になった際に、見間違えじゃないってわかったんです」
「見間違え?」
「膝丸さん、他の皆が話しかけたり、髭切さんが通りかかったりするとき、いつも笑っているんです。でもその笑い方が……昔の主様によく似ているんです」
口ごもりながらも、物吉は自分の所感をはっきりと説明する。この上ないぐらい正確な彼の表現は、事態を的確に表していた。
藤が常に浮かべ続けていた笑顔の仮面。誰かのためを理由にして、剥がすことを拒んでいた仮面が、今は膝丸の顔を覆っていると物吉は言っている。
「一見すると、平気そうには見えるんです。ですけど、多分何か悲しいことを考えているんじゃないかって、ボクは思いました」
まるで自分が痛みを覚えているかのように、物吉は胸に手をやり、ぎゅっと服を掴む。
「勿論、兄の髭切さんがいるのだから、ボクが出る幕なんてないんだろうって、最初はそう考えたんですけど。でも、黙っていて手遅れになるのはもう嫌なんです」
嘘の笑顔に騙されたフリをして、目を閉じるのは嫌だと、物吉は言う。
幸せを運びたい相手は、何も主だけではない。本丸の皆が笑顔でいることが、物吉の何よりの願いだった。
「……そうだね。家族の問題だからって、勝手な口出しは控えた方がいいのかもしれないとは思っていたけれど……このまま待っていても、やっぱりどうにもならないよね」
弟のことを、どうでもいいことにはできない、と髭切は言っていた。どうして僕に何も話してくれないのだろうと、彼は困っているようだった。
とはいえ、髭切が膝丸に声をかけても、彼は頑なになるだけだろう。以前の藤と髭切の間にあったように、正面から衝突し合うのも一つの手ではあるのだろうが、
(これはきっと、己の正しさを掲げるだけじゃ解決しない問題だ)
それに、折角出会った兄弟が、何度も衝突するのは正直気の毒にも思う。彼らの間に生じた摩擦の原因については、一端を自分が担ってしまっているという責任も、藤の中にはあった。
どうせぶつかってしまうかもしれないなら、膝丸が敬愛している兄とではなく、自分が先にぶつかるべきだと感じるほどに。
膝丸への苦手意識がなくなったかと言えば、素直には頷けない。必要最低限以上の会話はしていないし、仲良くしろとこちらが求められる立場でもないとは分かっている。
だが、見ない振りはもうできない。腹を括って、藤は膝丸の部屋に向かう決意をした。
***
善は急げの言葉通り、物吉が帰ってから、藤は小走りで本丸の中程にある膝丸の部屋へと足を進めた。
髭切の部屋からは一部屋分離れており、そのこともきっと膝丸にとっては悩みを加速させる原因だったのだろうと推察する。
コンコンと柱を軽く叩くと、すぐに返事はあった。幸いまだ起きていたらしい。
「失礼しまーす……」
恐る恐る襖を開くと、果たして膝丸はそこにいた。
風呂上りの濡れた薄緑の髪が無造作に耳にかけられており、普段隠れている片目があらわになっている。そのような姿でいると、彼はよく兄に似ていると気付かされる。
「貴様か。何の用だ」
だが、髭切とは似ても似つかぬ棘の混じった声に、藤の心臓はぎゅっと縮まりかけた。
和泉守のようにこちらの器をはかるような態度ではない、はなから拒絶を露わにした振る舞いは、正直予想以上に緊張を強いてくる。
「あの、さ。髭切のこと、なんだけど」
それでも、ここに来た理由を思い返して、藤は口を動かす。だが、髭切の名を聞いて、膝丸の眉間の皺は益々深くなっていった。
「膝丸、髭切のことで最近悩んでいるように見えて」
「気のせいだろう。俺と兄者は、仲の良い兄弟のままだ」
藤が言い終えるより先に、膝丸が彼女の言葉を遮る。しかし、仲が良いと主張する彼の言葉そのものが、何かの祈りのように藤には聞こえた。
丁度、藤が以前まで何でもないと言い張り続けたように。そうであってほしいと、諦念を抱きながら僅かな希望を求めて捧げられた言葉として、藤は膝丸の発言を受け取る。
「髭切から話は聞いてる。君と髭切の間に考え方の違いが出てきてしまっていて、髭切は君の考え方に応えられないって言っていた。それでも、膝丸も、いつしか自分の考えを受け入れてくれるだろうって。でも、肝心の膝丸本人はどう思っているのか、僕はそれが気になっていた」
「…………」
沈黙、そのあとにため息。
それが指す意味を、ため息をついた膝丸本人は明確に理解している。
あの日の晩に語り合った内容は、兄弟間だけの問題として膝丸は見なしていた。だが、兄は主にことの経緯を話してしまったらしい。
別に、誰にも言うなとも約束したわけでもない。なのに、自分は無意識に特別扱いされることを、望んでいたのだ。
そんなあさましい己の欲望に、気がつかされたが故に出たため息だった。
「もし、だけど……膝丸の方で打ち明けたい気持ちが別にあるって言うなら、髭切は聞くつもりはあるみたいだよ。直接上手く言えないなら、僕の方から話を」
「余計な真似をするな」
刀で斬りつけるような鋭い語気に、藤は口を止めざるを得なかった。
目の前にいる刀剣男士は自分の刀剣男士であり、危害を加える存在ではないと自覚はしている。けれども、夜用に絞られた灯りの下でぎらぎらと輝く彼の瞳は、獲物を見つけた蛇のような剣呑さを湛えていた。
「兄者は、顕現して日が浅い俺よりも広い知見を持っている。だから、兄者がそれが良いというのなら、あとは納得できない俺の未熟さの問題だ。兄者や……本丸の面々を困らせてしまっているのなら、そのようなことがないように努める。主の貴様には、それで十分だろう」
藤がわざわざこうしてやってきた理由は、本丸の空気を乱すなと注意しに来たのだろうと、膝丸は推察していた。
主として、本丸運営のために邁進する。それが悪いこととは思わない。寧ろ、良いことだ。
大局的に見れば、彼女は良き審神者になろうと努力しているだけだ。それなら、頑なに拒絶している自分の方が、却って悪者と言える。
だから、これはただの未熟な我が儘だと、膝丸は己の気持ちに名前をつける。
切って捨てるべき、悪しき感情である、と。
「兄者にはまだまだ及ばぬだろうが、本丸の和を乱すのは俺も望む所ではない」
「……そう言ってもらえるのは嬉しいけど、僕は、そういう話をしにここに来たわけじゃないんだ」
「なら、何の話をしにきた」
話の向き先が変わり、膝丸は再び鎮めようとした苛立ちの炎が燃え盛り始めたことを自覚する。
髭切に相談をされ、髭切が支えたいと願う存在。自分が望んだ立場を、兄が捨てた原因。
それを前にして、いくら自分が間違っているとはいえ、冷静で居続ける方が無理というものだ。
その態度が、顔にも出てしまっていたのだろう。藤が僅かに身を固くするのが、膝丸の目からも見てとれた。
しかし、彼女は退こうとしない。
適当な言葉で誤魔化そうとしない。
「僕は、君の気持ちの話をしにきている」
藤にとっては、膝丸の怒りが滲み出たような視線は、正直気持ちのよいものではない。だからといって、こんな状況で逃げようなどとは、はなから考えていない。
睨み付けられたぐらいで、何だと言うのだ。
(髭切なんて、僕を殺そうとしてきたんだから)
彼を顕現した直後のやりとりを思えば、少し睨まれるくらい、どうということはない。瞳に力を込めて見つめ返すと、逆に膝丸の方がたじろいだようだった。
「膝丸は何を思ったのか。僕はそれを知りたいし、髭切も多分知りたがっている。何が正しいとか間違ってるとかじゃなくて、君の気持ちが――心が、何をしたいと叫んでいるのかを」
小難しい理屈など、今は問題にする必要はない。ただ、己の全てが、感情の赴くままに吐き出した叫びだけを知りたい。
自分に聞かせなくてもいいと藤は思っていた。それこそ、家族の問題なのだから二人の間の秘密にしても構わない。
髭切は、膝丸の気持ちは自分と同じものになるのだろうと、楽観視している節がある。それを膝丸は信頼と思いたいのかもしれないが、信頼のあまりに当人の心を挫いてしまっては本末転倒だ。
髭切の信に応じようとして、膝丸が折れてしまうのは藤の望む所ではない。たとえ、それも結局、嘗ての自分と似た道を選んだ者を見捨てられないという、救済の代償行為だったとしても。
「……なるほど、貴様はそう考えているのか」
果たして、膝丸は――笑っていた。笑顔の残骸のようなものを、唇の端に浮かべていた。
「だが、俺の意見は先ほど言ったことが全てだ。それに、貴様が俺と兄者の何を知ると言うのだ。分かるわけがなかろう」
それは、拒絶であると同時に、そうでなければいけないと願うような言葉に聞こえた。
たとえ、兄弟の間にできた距離が大きくなったとしても。
ずれてしまった二振一具だったとしても。
他人に、簡単に理解されたくはない。
理解されてしまっては、自分と髭切の間にある兄弟関係が唯一無二のものでなくなってしまう。
そんな、他者の浸食を恐れる、威嚇めいた発言だ。
「俺はもう休む。話が終わったなら出て行ってもらえるか」
これ以上は梃子でも動かないと示すような発言に、藤は唇を噛む。ここまで徹底的に腹の内を見せてくれないとは、彼女も思っていなかった。
あるいは、髭切の弟ということで、勝手に自分が親近感を覚えていたのかもしれない。そのような甘さを見抜かれたのだろうか。
(僕も、人の態度に文句を言える立場ではないんだろうけど。髭切も、こんな気持ちだったんだろうし)
どれだけ揺さぶっても、君には関係ないと拒絶した。分かるわけがないと、勝手に相手を悪者にして遠ざけた。
身に覚えがありすぎて、胸の奥が痛むぐらいだ。けれども、それは良くないことだとも、自分の身で体験したからこそ言える。
とはいえ、膝丸の表向きの建前も一応は筋が通っている。もう夜も遅く、寝る時間なのにいつまでも部屋に居座るのは、端的に言えば単なる邪魔だ。
「……膝丸」
「何だ」
「明日、時間もらっていい?」
膝丸の顔は雄弁に「良くない」と告げていたが、藤は無視する。
「そろそろ夏祭りの時期でしょ。でも膝丸だけ、浴衣の準備できてないから、買いに行こうと思って」
唐突な話の切り替えだったが、藤が外出を機に話をしたいのだとは膝丸も読めていた。
「それは、兄者と行くと言っただろう」
「今この状況で行けるの?」
「…………」
沈黙を「行けない」の回答と受け取り、藤は言葉を続ける。
「だから、僕と一緒に万屋に行こう。そして、浴衣を買おう」
「断る。別に、着替えをせずとも夏祭りとやらには行けるのだろう」
「一人だけ浴衣なしだったら、まるで君を虐めているみたいじゃないか。それとも、そんな風に本丸のことを捉えているの?」
「そのようなつもりはない。そんなに悪目立ちさせたくないというのなら、俺は本丸に残る」
「膝丸っ」
藤と膝丸の間に火花が飛び散る。
夏祭りなど、所詮は息抜き以上の価値はないのだから、どうでもいいではないかと膝丸は捉えていた。先だっても、髭切と歌仙以外の面々で出かけてみたものの、結局何が楽しかったのかは分からずじまいだ。
だが、藤としては、膝丸が一人残ればそれで良しなどとは到底思えない。行った面々だって、残された彼のことが気になるだろう。
「……じゃあ、もうお願いはしない」
ようやく観念したかと膝丸がため息をつきかけた刹那、
「これは主としての命令。僕は明日、正午過ぎに万屋に向かう。供は膝丸。来たくなかったら来なくていい。ただ、君が来なければ、僕は一人で行くからね」
供――要するに護衛の任を放棄すれば、膝丸は守るべき主を放置して危険に晒したことになる。そんな無責任な行動を彼はとれまいと踏んでの命令だ。
そこには、膝丸という刀剣男士が持つ矜持に対する藤からの確かな信頼がある。それを読み取れないほど、膝丸も耄碌はしていない。
残念ながら、癪に障るぐらいに、分かってしまう。
「……承知した。出かける前に声をかけてくれれば、ついていく。これでいいのだろう」
「うん。じゃあ、お願いね」
藤は手早く返事をして、おやすみという言葉と共に部屋を後にする。
残された膝丸は、長く長く息を吐き出して、天井を見上げた。そのまま、後ろに倒れてしまいたいほど、力が自分の中から抜けていくのが分かる。
「俺が何を思っているか――」
上手く言葉にはできない。兄の側にいたいのは、信念からなのか、存在がそのように定義されていたからか、それとも単に――。
「いや、これ以上考えるのは兄者への負担となるだけだ。兄者は兄者の道を往く。俺もまた自分の道を進めばいい……はずだ」
兄のいない道を、歩めばいい。
二つで一つなのではなく、一つと一つとして歩めばいい。
言葉の意味も、どうすべきかも分かっている。
しかしやはり、得体の知れない息苦しさは膝丸の中からは消えてくれなかった。