本編第二部(完結済み)
「藤さん、この前会った時より元気な顔になってる。よかったあ」
「そ、そうかな」
「そうだよ。モニター越しでも、ばっちり分かっちゃうぐらい。何か、いいことあった?」
勢いよく話しかけてくる相手に、藤はどうしたものかと悩み、少しばかり目線を逸らす。
自室にて、文机の前に腰掛けている藤。机上には、携帯端末が置かれている。そこからホログラムとして表示されている画面には、黒いショートヘアの女性が映し出されていた。
一年前に演練で出会ってから、何かと藤を気に掛けてくれている、女性の先輩審神者――スミレが、こうして藤の様子を気にして、わざわざ連絡してくれたのである。
「いいこと……あった、かな。うん。思った以上に、いいことが」
本丸の皆に、自分の考えを打ち明けて、辿々しさは残るものの受け入れてくれたこと。
乱に薦められて、少しだけ可愛らしい服装にも抵抗が無くなったこと。
里帰りをして、思いがけなく自分が歩んできた軌跡に触れられたこと。
何もかもが良かったとは言い切れないが、以前よりは前に進めたという実感はあった。
「なら、よかった! 藤さんが元気になったなら、私も嬉しい!」
スミレは、素直に喜びの言葉だけを藤に届けてくれる。深くこちらについて尋ねずに、必要なときに必要な笑顔と他愛ないお喋りをくれる。
少々、お節介が過ぎる、と思った日もあった。出会ってすぐの頃、彼女の助言に対して、暗い感情を抱いてしまったぐらいだ。
だが、言葉に対してどう捉えるかは、そのときの気持ちにもよる。あのときは、たとえどれだけ素晴らしい格言を聞いていたとしても、全て悪いようにとっていただろう。
「最近、そっちの加州たちはどうなの?」
「清光は、相変わらずだよ。自分の後輩を可愛がるのに忙しいって感じ」
「後輩っていうと、誰?」
「この前、やっと顕現に成功した子! 蛍丸って名前でね、大太刀を扱うのに短刀の子たちみたいに背丈は小さめなの」
近況を話し合うだけの会話は、やがて二転三転していく。
万屋にできたお勧めの甘味処は知っているかな。
本丸で咲いている綺麗な花があるの。
その花の名前、今度調べてみるよ。
清光が安定と言い合いをしていて、喧嘩両成敗でおやつは抜きにしたの。
こっちは乱が次郎と装飾品は何が一番綺麗かってことで、言い合いをしていてね。和泉守を捕まえて髪の毛をいじり回していた。
そんな他愛のない会話で驚き、笑い、いいなあ、と無邪気な羨望を覗かせる。そうして、三十分ほど喋った頃だろうか。
「そうだ。藤さんは夏祭りって知ってる? 今度、万屋でやるんだ! 実は、去年誘おうと思ったんだけど、気が付いたのがぎりぎりになっちゃって、言い出せなかったんだよね」
去年も行っていたと言おうか悩み、藤はすんでの所で口を閉ざした。
あの日、スミレと、彼女に寄り添う清光を――仲睦まじい恋人たちの姿を目にして、ひどく動揺した瞬間は、そうそう簡単に忘れられない。
かつての苦い思い出が蘇り、苦しい思いをしたなどと聞かされても、スミレだって嬉しくはないだろう。
「夏祭りの話は、僕も知っているよ。皆が行きたがっているから、準備もしているんだ。でも、近くの神社に参加しただけでも迷子になったって話していたから、あまり動き回れないかも」
遠回しに一緒には行けないと伝えると、スミレにはその思いがちゃんと届いたようだ。それなら仕方ない、とすぐに折れてくれた。
実際のところは、彼らが寄り添っている姿を見たら自分がどうなってしまうか、まだ心の整理がついていなかったからなのだが、それこそ蛇足というものだ。
「毎年、すごい人だものね。私もはぐれそうになったこと、何度かあるから。蛍丸は初めてだから、私もちょっと心配なんだ」
「そうだね、僕も……」
小豆長光や堀川国広、乱藤四郎はあれで結構しっかりしている。だが、和泉守は楽しい気持ちが溢れかえると、己の興味が赴くままに行動してしまう節がある。不安要素を挙げるなら、そこだろう。
(そういえば……膝丸の浴衣、結局準備できていないんじゃないかな)
神社の夏祭りは、皆揃って浴衣を着ていったようだが、膝丸だけは内番でも使用している私服姿で出かけていた。髭切と浴衣を仕立てに行くと言っていたが、あの様子ではまだ行けていないのだろう。
「そうだ。藤さんは、最近顕現はしたの?」
「ううん。どうしようかなって、悩んでいるところ」
スミレが、こちらの様子を窺うように尋ねてきているのは、閉じこもっていた時期の様子を踏まえているからだろう。以前のような空元気を見せなくなったとはいえ、無理はしていないかと心配してくれているようだ。
「政府の人からは、定期的に鍛刀をしなきゃいけないって言われてはいたんだけど」
「あれ、そうなの? 私の担当の人は、無理のない範囲でっていつも言っているよ。顕現をすることで、最初は呼びかけにくかった刀剣男士と出会うセンスみたいなものは磨かれるけど、逆に疲れてしまうかもしれないからって」
「え、そうなの?」
新しい出会いには、はじめましての嬉しさと同時に、拭えない不安を藤に与えていく。鬼である話を一から伝えるのは、拒絶と隣り合わせの彼女としては、普通以上に緊張を強いられてしまう。
それでも、それが審神者としての仕事ならばと思っていたが、どうやら顕現をし続けなければいけないわけではないらしい。今までとは、まるで違う考えに、藤は目を白黒とさせていた。
「気になるなら、藤さんの担当をしてくれている人に聞いてみるといいよ。そりゃ、全くしないっていうのは、外聞が良くないけど、審神者次第なところもあるからさ。無理に増やさない方がいいって思うなら、藤さんは今いる刀剣男士たちと、関係を深めればいいんじゃない?」
それもそうか、と藤は思い直す。
未だに和泉守からは一度も主と呼ばれていないし、膝丸とは彼の方から断絶されているようなものだ。お世辞にも、関係を深めているとは言い難い。
スミレにお礼を述べたとき、折良くコンコンと襖の柱を叩く音が響いた。
「誰か来たみたいだ。そろそろ切るね」
「はーい。またね!」
別れの挨拶を告げてから、藤は部屋を開けてもいいよと伝える。
あの夜に自分の気持ちを話してからすぐ、藤は自室にだけは勝手に入ってこないように皆に頼んでいた。
もっとも、刀剣男士たちにとって、プライベートという概念は未だ薄く、理解はしきれていないようだった。だが、主が嫌がる行為はしたくないと、今はノックの習慣にも従ってくれている。
「あるじさーん! 準備できたって!」
柱の陰から顔を出したのは、乱だ。同時に、庭の方からは窓越しでも分かるほど、隠しきれない喧騒が聞こえてくる。
「ボク、もうお腹空いちゃって! ね、早く早く!」
「僕も待ち遠しかったよ。ごめんね、準備あまり手伝ってなくて」
「何言ってるの、今日はあるじさんの夏休み最後の日なんだから。ゆっくりして!」
乱に引っ張られて、縁側から藤は庭へと下りる。そこには、バーベキュー用の鉄網とコンロが、でんと設置されていた。
***
夏休み最後に、皆でちょっとした宴を開こう。そんな話が出たのは、ほんの一週間ほど前のことだ。
里帰りと合わせて少し長めの休暇を取り続けていた藤にとって、この日は丁度休みの最終日にあたる。せっかくだから、何か大がかりに皆で遊びたいと、藤はあれこれ頭を悩ませてみた。
その結果、バーベキューとプチ花火大会をしようという結論に至ったのだ。聞き慣れない遊びに、本丸の刀剣男士たちほぼ全員が興味津々となり、準備を手伝ってくれた。
「主。肉ばかり食べていてはいけないよ。ほら、野菜も食べるんだ」
「分かっているよ、歌仙。あ、和泉守。そっちの肉がもう焦げそうになってる。取っちゃっていいよ」
「おう、そのまま取っていいのか?」
「うん。熱いから気をつけてね」
藤が和泉守と言葉を交わしている間にも、彼女の皿にひょいひょいと焼かれた肉が積まれていく。その横からは、歌仙が野菜を詰め込んでいた。初期刀と主による、絶妙な連携である。
「そんなにたくさん、一度に食べられるのかい? 夏といえど、冷めては美味しくないよ」
「僕だけが食べると思っているんでしょ。いくらなんでも、この量を一人で食べないよ」
藤は縁側に向かい、そこに置かれている予備の割り箸を手に取る。そして、彼女は縁側に腰掛けている小さな影の元にやってきた。
「こんばんは。今日は来てくれてありがとう、更紗ちゃん」
藤が話しかけた少女――更紗は、無言でこくりと頷く。
今日のバーベキュー大会に、お世話になった人たちを誘いたい。藤のその提案に、歌仙たちはすぐに賛成してくれた。
そこで、何かと世話になっているのに、お礼らしいお礼もできていないから、来たい人はみんな来てもいい、と藤はほうぼうに連絡をしていた。
とはいえ、実際に招待を受けてくれたのは、更紗と彼女の護衛である鶴丸だけだ。
スミレは、自分は何もしていないよと謙遜の言葉と共に断っていた。代わりに、先だってのように通信で藤の快復を喜んでくれた。
煉も同様に、藤が添えた謝罪の文面をやんわりと受け止めるに留めていた。彼にこそ色々と迷惑をかけてしまったのにと、藤は申し訳なさで胃が縮む思いがしていた。それとなく食い下がってみたところ、どうやら予定があったようで、結局日を改めて菓子折りを持って藤が訪れることで、話はまとまった。
「こっちが肉で、こっちが野菜ね。まだ熱いから気をつけて。調味料は軽くつけておいたから、味は染みこんでると思うよ」
藤は山盛りの肉と野菜を載せられたプラスチックの容器を、更紗と自分の間に置く。彼女はこくんと頷いて、ぱちんと手を合わせた。
「いただきまーす」
藤も食前の挨拶を高らかに済ませ、二人は肉や野菜に箸を延ばす。万が一汚れてもいいように、更紗はベージュのサマーワンピースに紙ナプキンを首にぐるりと巻いている。藤も、シンプルなTシャツ姿だ。
「うん、肉も丁度焼けていて美味しい! 野菜も、いい火加減だね」
味覚が戻ってきてから、藤はよく食べるようになっていた。流石に更紗の前でがっつくような真似はしないが、箸は生き物のように機敏に動いている。
更紗も、負けじと無言ではあるものの、素早く箸を動かし、野菜の山を崩している。美味しいのか、何度か瞳の奥に輝きが見えた。それが嬉しいという気持ちの表れだと、藤はもう知っている。
一通り食べ終えてから、藤はふと箸を止め、更紗に向き直った。
「更紗ちゃん。改めて、この前は色々と……ごめんね」
更紗も藤が何か言おうとしているのを察知してか、手を休めて藤の言葉を待っていた。
「更紗ちゃんが真剣に心配していたのに、僕はちゃんと向き合わなかった。君に分かるわけがないって、誤魔化そうとした」
喋れない身でありながら、彼女は真摯に藤の思いに耳を傾け、藤が作り上げた笑顔を否定した。
関係ないと放っていてもよかったのに、この子供は友達として我が身のように心配していた。それに対して、自分の態度は不誠実だったと、今ならはっきりと言える。
更紗は、暫く考え込むような素振りを見せてから、傍らに置いていたメモに文字を綴り始めた。
『ふじ げんき なった だから いい』
「でも」
『わたしも たくさん いっぱい いたいこと いった』
おたがいさま、と続いた文字を見て、藤はもう一度「ごめんなさい」と頭を下げる。更紗も、無言でぺこりと頭を下げ返した。
顔を上げた藤に、更紗は軽く小首を傾げてみせる。その顔は、相変わらずぴくりとも動かない無表情ではあったが、藤の目には微笑んでいる少女の姿が、確かに見えていた。
「あのとき、ちゃんと言えなかったことなんだけど、今話してもいいかな?」
更紗は、こくりと頷く。藤は彼女の肯定を待ってから、己の額に巻かれた薄紫の布へと指をかけた。
結び目を緩め、しゅるりと布が解ける。ずれた布からは、額に生えた薄緑の角が顔を見せ、夜気に触れた。
向かい合う更紗の丸い瞳が、ますます大きく見開かれる。まるで、今にも零れ落ちそうなビー玉のような目だった。
「僕は、鬼なんだ。ずっと、鬼として生きてきた。今までも――できるなら、これからもそうしたいと僕は思っている」
更紗は、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、眉一つ動かさずに角を見つめていた。
山間の向こうに消えていく夕日。
その日最後の光に照らされ、浮かび上がるは、皐月の緑を彷彿させる不可思議な角。
小さな唇は、音もなく、一つの形を作る。
――きれい、と。
幼子の、たった三文字の言葉。
それを耳ではなく、心で聞いた瞬間、藤の瞳から一滴、涙がこぼれ落ちた。
『ふじ つの きれい』
更紗はメモを手にとって、改めて藤へ角の感想を綴ってみせる。屈託の無い笑顔が、目の前の少女に浮かんでいるように見えた。
「……怖くないの?」
少女は、首を横に振る。
「変だって、思わない?」
彼女は、もう一度否定してみせる。そうして、更紗は鉛筆を握り、ぎゅっぎゅと心を文字へと変える。
『ともだち えらんだ きもち わたし だいじ したい。ふじも だいじ してあげて』
「……そうだね。本当に、それだけのことなのに」
自分の思いを、気持ちを、心に刻んだ生き様を、他ならぬ己が抱きしめてあげてほしいと、目の前の子供は言う。
藤よりもいくつも年下に見えるのに、彼女はこうして物事の本質を突いたような言葉を、何の衒いも無く示してくれる。そんな『友達』の言葉が、今は有り難かった。
「僕も、更紗ちゃんが大事にしたいものがあるなら、大事にしてあげたいな」
『ふじ もう だいじ してる』
首を傾げると、更紗は自分の胸をぽんぽんと叩いた。子供らしい、もみじのような柔らかな手は、彼女の胸ではなくその奥にある――心を、示していた。
『わたしの こえ きいてる。わたしの こころ みみ かたむけてる。わたし すごく うれしい』
「……それは、その、ただそうしてあげたいなって思っただけで、そんな当たり前のこと」
『でも だいじな あたりまえ』
そこで文字を書く手を止め、彼女はまだ残っている野菜へと手をつける。彼女の自由奔放な仕草は、在りし日の夏祭りに邂逅した際の様子を藤に思い出させた。
スミレと加州が寄り添う姿を見るのが辛くて、その痛みを誰にも打ち明けられなくて、逃げ出した。そんなとき、走り出していた藤が彼女にぶつかったからこそ、今こうして共に過ごしている。
「更紗ちゃんは、最初から僕が無理していたって思ってたんだね。何だか、僕の方が年上のつもりだったのに、色々負けた気分だなあ」
口寂しくなってつまんだ人参は、少し苦かった。恐らく、炙りすぎたのだろう。
『ふじの かお つる すこし にてたから』
更紗はそこで鉛筆を止め、再び取ってきてもらった肉を囓り始めた。ふっくらとした頬にソースの茶色い染みがつく。気が付いた藤は、ハンカチの端でそっと染みを拭い取った。
「僕が、鶴丸さんに?」
『つる いっぱい たたかって けがして いやなこともして それで わたし たすけてる。でも つる くるしいは いわない。ほかの みんなも あまり』
語る言葉を探しているかのように、更紗は辿々しい手つきで文字を綴る。小さな手は、メモと箸を何度も行き来していた。
『わたし くるしい いうのは だめじゃない おもう』
だから、気づけたのだと更紗は言外に――文字外に伝える。
多くの感情を押し殺して、人も刀剣男士も生きている。それは誰かのためかもしれないが、手段と目的をひっくり返しては本末転倒だ。今なら、実感を持ってそう言い切れる。
彼女は、幼い身でありながらも、鶴丸たちと過ごす内にその当たり前を、強く自覚したのだろう。
『それと わたし ふじより としうえ』
「またまた、そんな冗談言っちゃって」
思わず飛び出してきた可愛らしい冗句に、藤はくすくすと笑う。もっとも、この反応はお気に召さなかったようで、更紗はぷぅっと頬を膨らませていた。
「よっ。今日は、誘ってくれてありがとうな」
そこに、件の鶴丸国永が姿を見せた。普段は白の着物を着ていることが多い彼も、今日ばかりは紺地の浴衣姿だ。
彼は藤の角を見て、軽く片眉をあげてみせたが、余計な言及はせずににっこりと笑いかけるに留めていた。その対応を目にして、改めて彼らは人の大人よりも達観した思考を持っていると、藤は思う。
「どういたしまして。鶴丸さんにも、僕がいない間に歌仙が世話になったみたいで、助かりました。色々と、迷惑かけてすみませんでした」
「はっはっは、そんな風に頭を下げる必要はないさ。困っている友人は、助けるものだろう?」
豪快に笑い飛ばしつつ、鶴丸は手に持っていた焼きトウモロコシにかぶりつく。その姿は、どこから見ても気の良い普通のお兄さんにしか見えない。
更紗が語ったように、自分の痛みを笑顔で誤魔化した経歴があるようには、到底思えなかった。
「おう。あんたが、そっちのが話していた鶴丸国永か」
鶴丸を見かけて声を掛けてきたのは、和泉守兼定だ。今日はバーベキューを満喫するためか、長い髪の毛を一つに纏めている。
『そっちの』呼ばわりされているのは藤だ。彼はまだ、彼女を主とは呼ばない。
「ああ。噂の鶴丸国永様だ。以後、お見知り置きを」
「之定の所に何度か来てたよな。書類仕事の方は熟練らしいが、こっちはどうなんだ?」
和泉守は、まくし上げた袖から露わになった自身の腕をぱしぱしと叩く。彼の顔には、明らかに挑戦的な笑みが浮かんでいた。
「演練であった時は、お手並み拝見といこうじゃねえか」
「いいねえ。藤殿の本丸とは一度試合をしてみたかったんだ」
互いに好敵手を見つけた喜びを、惜しむことなく顔に浮かべている。その様は、縄張りの境目で牽制し合う狼を彷彿させた。
「それなら、今度演練する? 最近は、個人戦しか申し込んでいなかったから、団体戦もやっておいた方がいいかとは思っていたんだ」
「そりゃ楽しみだな。空いている日はあるか?」
「特に予定が詰まっているわけではないから、僕は大丈夫だよ」
すぐさま藤が答え、それならばと鶴丸は二、三の日取りを伝える。その中の日付から、妥当なものを選び、二人の間で段取りがあっという間についた。
和泉守は満足そうに頷き、藤へと微かに口角を吊り上げてみせる。彼らの間に、ぱっと見ただけで分かるような明瞭な隔たりはない。
だが、彼は一度も彼女を主と呼びはしなかった。
(和泉守に、主として認めてもらえるような自分になりたい。でも、自分の無理のない範囲で進めていく。すぐに、できることじゃないのだろうけれど)
和泉守にとっては、藤という存在は、嘗ての逃避を許されるような存在であるとは、まだ見えていないのだろう。だが、彼の態度も仕方ないと藤は思う。求められているのは、詭弁ではなく、明瞭な結果だけだ。
「和泉守、ちょっといいかな」
「おう、何だ」
「あの……最近、膝丸と話したことある?」
和泉守と藤の間には、確かに溝ができている。けれども、全く喋らないわけではない。先ほどのような雑談なら、日常でも何度か交わしている。
だが、膝丸と藤の間では、そもそも会話が成立していなかった。声をかけても「急用ではないなら後にしてくれ」と距離を置かれている状況は継続中だ。
それならば、同じような立場の和泉守なら何か知っているのではないか。そんな希望を抱いて、藤は彼に質問していた。
「話したこと? まあ、何度かあるけどよ。そんなにしょっちゅうってわけでもねえな」
「何だか、最近いつも一人でいるような気がして。髭切も、弟の側にずっといるわけにもいかないって言って、あまり話していないみたいだし」
「膝丸なあ。あいつぁ、なんつーかな」
皿に載せていた肉を齧り、飲み込んでから和泉守は続ける。
「どうすりゃいいのか、延々と悩んで、悩みすぎて迷路の中にいるみたいになってるような、そんな気がすんだよ」
「……僕のせいかな」
「何でも、自分の責任にすりゃいいってもんじゃねえぞ。まあ、オレも何もかもを知ってるわけじゃねえが」
和泉守の視線は、縁側の端に腰掛けて、肉を咀嚼している髭切に向けられる。
先に食事を終えた乱が、今から始まる花火大会に誘っているようだが、もう少し食べたいからと断っているようだ。
「それに対して、あれだろう?」
和泉守が、それとなく顎でしゃくった先には、膝丸が立っている。彼の視線は、どこからどう見ても、熱心に髭切へと注がれていた。
髭切がふと顔を上げた瞬間、膝丸はすぐさま顔を逸らしてしまう。話しかけたいという気持ちは明らかなのに、膝丸本人が髭切に接触するのを控えているようにしか見えない。
結局、小豆に声をかけられ、膝丸は彼との話題に夢中であるかのように笑い始めた。その笑顔は、到底自然なものとは言えない。
「ま、あんたにとっちゃ、あいつもオレと同じで、付き合いにくい奴かもしれないけどよ」
「別に、僕は和泉守が付き合いにくいとまでは、思ってないよ」
きょとんした顔で藤に言われ、和泉守もそっくりの顔で彼女に向かい合う。
「だって、和泉守って気さくな兄貴分って感じじゃん。堀川も慕っているし、他の皆も君を頼りにしている。だから、君はいい奴なんだよ」
いい奴だからこそ、いい加減な態度を見過ごせなかったのだろうと今なら分かる。和泉守の性格を知れば知るほど、あの当時の自分は彼の神経を逆なでするだけだったという理解を深めていく。
「どうしたら君に認めてもらえるかなって、僕は少し深めに悩んでしまうだけ。それだけだよ」
「――ああ、そうだな」
和泉守の口元に、弧がつり上がる。髭切や歌仙とは違う、威勢の良い堂々とした笑みだ。
「オレはあんたのそういうところは、嫌いじゃないって思うくらいにはなった。ただ、それで何もかも認めたわけじゃねえからな」
藤は、目をまんまるに見開く。
そんな言葉を言われると思っていなかったという、驚きまじりの喜びの表情だった。
「……ありがとう」
「礼を言うのは早ぇーよ」
謝礼は退けられたが、悪い気はしない。藤は少し緩む頬を必死に押さえて、残された肉に夢中な振りをした。
***
和泉守と藤のやりとりを眺めながら、鶴丸は考える。
(まあ、今のところ、あいつが懸念しているようなことはなさそうか)
この本丸にいる刀剣男士を、彼は金に光る瞳を眇めて観察していた。思い返すのは、先日、政府の庁舎に赴いた際に行ったやりとりだ。
(特別な契りを交わすつもりがあるってやつは、こう……もう少しギラギラしているからな)
鶴丸は、知っている。
彼はかつて、政府の刀として扱われていた時期がある。しかも、各本丸の視察を行い、問題なく運営が行われているか確認する、監査官という職だ。
あの男が話しているような事態も、今まで何度か目にしている。そういうとき、刀剣男士たちの目には、もっと俗物的な欲が宿る。
独り占めしたい。
どこかに隠してしまいたい。
自分以外のものには触れないで欲しい。
老若男女関係なく、主に対して強い思慕を持つ刀剣男士は、独特の顔つきを見せる。外敵に対する警戒の姿勢を、露骨に表す。
だが、少なくともこの本丸にはそのような顔をしているものはいない。
「これからも、少し顔を出した方が良さそうだな」
小声とはいえ、考えを口にしてしまったからだろうか。不意に、隣に座る彼女によって袖が引かれた。
振り返れば、更紗が不安げな顔で――表情こそ変わらないが、目では不安を訴えてこちらを見ている。
『つる?』
口の形だけで尋ねる更紗に、鶴丸は笑いかける。
「何でもないさ。藤殿には、これからも健やかに元気でいてほしいと思う。本当に、そう願っているんだ」
そうすれば更紗は、きっと喜んでくれる。友達が笑う姿を目にしただけで、彼女はあんなにも嬉しそうに目を輝かせるのだから。
ひょっとしたら、いつか更紗の顔から失われてしまった表情が取り戻せるかもしれない。凍り付いた顔に、花が綻ぶような笑みが浮かぶ姿を見られるかもしれない。
「きみが笑うためなら、俺はなんでもする。なんでも、な」
それに、これは何も更紗のためだけではない。藤のためでもあると、鶴丸は内心で己を納得させる。
刀剣男士と契りを結ぶのは、刀剣男士の手入れをするだけで体調を崩すような彼女には、間違いなく負担になるだろうから。
そうして、己に呼びかけている鶴丸は知らない。
その目が、自分が藤の刀剣男士たちにないかと探していた、『ギラギラした目』になっているということに。
***
縁側の端で、小豆が用意してくれたバーベキューの肉と野菜を、もりもりと囓りつつ、髭切は夏の庭を眺める。
主は、友人の審神者である少女と何やら楽しげに話している。そこに割り込んで入るものではないと、髭切なりに一応の遠慮をしていた。
正直な気持ちを述べるなら、主の側にいると自分は落ち着くのだから、もっと主の隣にいたいとは思う。とはいえ、場の空気を読むぐらいのことは髭切もする。
(それに、弟が来ると思ったんだけどねえ)
主に言われたこともあり、弟がこちらにやってくるのなら、彼と話をしようとも考えていた。
だが、彼は予想に反してバーベキュー大会が始まってから、一度も髭切に声をかけていない。今は、短刀の子供たちと花火に興じているようだ。
(避けられちゃっている? 主といるから? うーん、それも違うよねえ)
すっきりしない感情を抱えながら、髭切は箸を進める。そのとき、
「やあ、久しぶり」
縁側に、ひょいとふわふわの毛並みの生き物が姿を見せる。ふさふさの尾に見慣れた栗毛の姿。
間違いない。去年の冬、更紗が訪れたときに連れてきた子狐だ。見た目に反して、彼らは人に化けることができるぐらいの力を持つあやかしだと、髭切は既に知っている。
「ああ、またお前。何の用?」
彼らは、やたら忠告めいた言葉を髭切に投げかけていた。その内容を、ふと髭切は思い出す。
山の中で自分が行き会ったもの。そして、狐が言った言葉。
「君たちが言いたかったこと、今なら何となく分かる気がするよ」
「へえ、そりゃ意外だね。頭の固い刀の神様にはわかるまいと思ってたよ」
小狐が紙皿に載せていた肉に鼻面を近づけてきたので、髭切はすぐさま取り上げる。主の友人はこの狐と仲が良いようだが、髭切まで彼と仲良くするつもりはなかった。
「君達は、なんでもかんでもあやかしで括るな、と言った。それと、主を誘ったのはあやかしじゃない、とも」
「ああ、そんなことも言ったね」
「あれは、どこかの山の神だと、気がついていたんだね」
それなら、そう言えばいいものを。
髭切が些か剣呑さの残る目つきで狐を睨むも、狐は物怖じせずに髭切を見つめ返していた。
「まあ、大体はね。俺とは同類みたいな存在だから」
「つまり、お前たちも山の神ってこと? とても、そうは見えないけれど」
「半分正解で、半分不正解。でも、そっちが何を理解したとしても、俺はやっぱり、人とそうでない存在は袂を分かつべきだと思うよ。神様だろうが妖怪だろうが、ね」
狐は、髭切と縁側の反対側にいる藤たちの方を交互に見つめる。
「僕たちも、彼女に関わるなと言いたいのかな。君たちにそんなことを言われる筋合いはないと思うんだけど」
「関わって、必ず良い結果を彼女に齎せると、君たちは確信を持って言えるの?」
問われて、髭切は唇を閉ざす。
他ならぬ、自分たちの振る舞いが主を追い詰めていたと知ったのは、ついこの前の話だ。よかれと思ってという免罪符は、神の傲慢ではないかと狐は問うている。
「神様だから、彼女を追い詰めるわけじゃない。僕らには、心がある。だから、そういう間違いもする。神だろうが人だろうが変わらない。単に、それだけの話だよ」
「ただ、神は反省をしない」
「しているよ。歌仙も他の皆も」
あの夜に見た歌仙の顔を思い出せば、彼が反省していないなどと、碌に関わってもいない外野に言われたくないと髭切は思う。
彼だって、この本丸の仲間だ。髭切にとっては、肩を並べる同胞でもある。
「これからも、必ず己を省みられると、君たちはそう言えるのかな」
「随分と絡んでくるねえ。何故、そこまで僕らに関わるのかな」
「神様に弄ばれた上に、捨てられて、人に虐げられて、行き場をなくした人を身内で知っているからね。放っておけないんだよ」
話しすぎたと思ったのか、ふん、と栗毛の狐は鼻を前足で掻く。その仕草はたまに庭に来る野良猫が、不機嫌そうなときにする素振りによく似ていた。
「大丈夫だよ。僕らは、彼女を弄んだ上で捨てたりはしない。それに、主が行き場を無くしたと言うなら、主が笑っていられる場所をここに作るだけだから」
自分で口に出すことで、それは一つの決意となる。
そうだ。彼女が笑える場所が外の世界になくなったとしても、自分たちがここに作ればいい。彼女の帰る場所になればいい、と。
「――本当にそんなこと、できるのかな。あいつもそうだけどさ」
栗毛の狐は、ふいと鶴丸の方に鼻を向ける。
「あいつは、更紗のためなら何でもする奴だよ。彼女が笑えるようになるために、本丸を作り上げ、守っていると言っても過言ではない」
「あの鶴丸国永が?」
膝をつき合わせて長時間喋り合うような間柄ではないが、彼が更紗に対して真剣に向き合っているのは分かる。それは、どうやら単なる主への敬慕とは異なるらしい。
「刀の神が、人の居場所を本当に作れるのか。お手並み拝見だね」
栗毛の狐は、言いつつも髭切の皿へとぴょんとジャンプする。しかし、負けじと髭切も皿を高く掲げて、狐に取られまいとした。
結局つまみ食いし損ねた栗毛の狐は、ふんと鼻を鳴らして去って行った。だが、黒毛の子狐は立ち去らない。そういえば、彼とは全く話をしていないと思っていると、
「色々、あいつが迷惑をかけてすまない」
ペコリと、黒狐は頭を下げた。
「へえ、君って喋れたんだ」
「喋れる。ただ、あいつが大体代わりに喋るから、黙っているだけだ」
「彼の口はよく回るねえ。さすが化け狐」
「否定はしない。あいつは嫌がるだろうが」
栗毛の狐より、こちらの方が自分たちに対する評価を正しくしているらしい。彼は暫し足元に視線を落として、考える素振りを見せていた。
「お前は、山の神とやらに会ったのか」
「恐らく分け御霊ではあったけど、一応ね。話もしたよ。もう主には手を出さないとか言っていたかな。同じことがあったら次はないと言われたけれど、僕は同じ過ちを繰り返すつもりもない」
「その言葉、話半分に聞いておいた方がいい」
黒狐は警戒を露わにしながら、髭切へと言葉を投げかける。それは、髭切への警戒ではなく、髭切が対話したという超常の存在への警戒だった。
「人ではないものの考えなど、秋の空より気まぐれだ。お前がもし人の心を理解できるようになったというのなら、今度は人でない存在の心が分からなくなってくる。あれは、何を考えているか分からないくらいが、ちょうどいい」
「ご忠告どうもありがとう。ところで、君たちは人でなさそうだけど、だからあの山にいた者とかの気持ちが分かるってことかな」
「さあ。どちらかというと、自分は、人に近い方だと思いたいがな」
黒狐は、花火を持ってはしゃいでいる更紗と、それを見守る藤を見つめる。彼につられて、髭切も庭に広がる夏の一幕を眺める。
鶴丸が更紗の側に付き添い、小豆が冷たいアイスを短刀の子供たちに振る舞っている。藤もすぐさま、彼らに交ざってご相伴に与っていた。
賑やかで、人と人の温もりを感じる光景。どんな者よりも、主の笑顔はいっとう輝いてみえると髭切は思う。
「完全に人でない存在になってしまったら、人の心が分からなくなる。そうして、いつか大事にしたいものまで壊してしまいそうだ。僕はそれが恐ろしい。そちらもじゃないか?」
軽く尻尾を振り、別れの挨拶を済ませてから黒狐は去っていく。残された髭切は、眼前に広がる光景と、己の手を交互に見比べる。
今はそこに本体である刀はない。だが、常にこの手は武器を握る手だった。そう、思っていた。
だけれど、差し伸べた手に触れた主の手は柔らかく、温かかった。それを包む己の指も、きっと優しいものだっただろう。できるなら、そうありたいと願う。
刀で在り続けたら、主の手を握れなくなるのだろうか。
では、人になったら、己の力はどうなるのか。刀でなくなったら、自分は一体何になるのだろう。
(たとえ僕が何だとしても、僕は主の隣にいたいんだ)
刀であると同時に、あの笑顔を理解し、守り、隣に並び立てる者でありたい。主が率いる本丸において、惣領である彼女が持つに相応しい己になりたい。
それは、髭切にとって矛盾しない道だった。
自分が向かうべき道筋がはっきりとしていく。その清々しさに満足して、彼は大きく一つ頷いた。
惣領の刀であり、主の刀であることを望む彼はまだ気付いていない。
自分の傍らにある、もう一振(おとうと)の抱く心に。
「そ、そうかな」
「そうだよ。モニター越しでも、ばっちり分かっちゃうぐらい。何か、いいことあった?」
勢いよく話しかけてくる相手に、藤はどうしたものかと悩み、少しばかり目線を逸らす。
自室にて、文机の前に腰掛けている藤。机上には、携帯端末が置かれている。そこからホログラムとして表示されている画面には、黒いショートヘアの女性が映し出されていた。
一年前に演練で出会ってから、何かと藤を気に掛けてくれている、女性の先輩審神者――スミレが、こうして藤の様子を気にして、わざわざ連絡してくれたのである。
「いいこと……あった、かな。うん。思った以上に、いいことが」
本丸の皆に、自分の考えを打ち明けて、辿々しさは残るものの受け入れてくれたこと。
乱に薦められて、少しだけ可愛らしい服装にも抵抗が無くなったこと。
里帰りをして、思いがけなく自分が歩んできた軌跡に触れられたこと。
何もかもが良かったとは言い切れないが、以前よりは前に進めたという実感はあった。
「なら、よかった! 藤さんが元気になったなら、私も嬉しい!」
スミレは、素直に喜びの言葉だけを藤に届けてくれる。深くこちらについて尋ねずに、必要なときに必要な笑顔と他愛ないお喋りをくれる。
少々、お節介が過ぎる、と思った日もあった。出会ってすぐの頃、彼女の助言に対して、暗い感情を抱いてしまったぐらいだ。
だが、言葉に対してどう捉えるかは、そのときの気持ちにもよる。あのときは、たとえどれだけ素晴らしい格言を聞いていたとしても、全て悪いようにとっていただろう。
「最近、そっちの加州たちはどうなの?」
「清光は、相変わらずだよ。自分の後輩を可愛がるのに忙しいって感じ」
「後輩っていうと、誰?」
「この前、やっと顕現に成功した子! 蛍丸って名前でね、大太刀を扱うのに短刀の子たちみたいに背丈は小さめなの」
近況を話し合うだけの会話は、やがて二転三転していく。
万屋にできたお勧めの甘味処は知っているかな。
本丸で咲いている綺麗な花があるの。
その花の名前、今度調べてみるよ。
清光が安定と言い合いをしていて、喧嘩両成敗でおやつは抜きにしたの。
こっちは乱が次郎と装飾品は何が一番綺麗かってことで、言い合いをしていてね。和泉守を捕まえて髪の毛をいじり回していた。
そんな他愛のない会話で驚き、笑い、いいなあ、と無邪気な羨望を覗かせる。そうして、三十分ほど喋った頃だろうか。
「そうだ。藤さんは夏祭りって知ってる? 今度、万屋でやるんだ! 実は、去年誘おうと思ったんだけど、気が付いたのがぎりぎりになっちゃって、言い出せなかったんだよね」
去年も行っていたと言おうか悩み、藤はすんでの所で口を閉ざした。
あの日、スミレと、彼女に寄り添う清光を――仲睦まじい恋人たちの姿を目にして、ひどく動揺した瞬間は、そうそう簡単に忘れられない。
かつての苦い思い出が蘇り、苦しい思いをしたなどと聞かされても、スミレだって嬉しくはないだろう。
「夏祭りの話は、僕も知っているよ。皆が行きたがっているから、準備もしているんだ。でも、近くの神社に参加しただけでも迷子になったって話していたから、あまり動き回れないかも」
遠回しに一緒には行けないと伝えると、スミレにはその思いがちゃんと届いたようだ。それなら仕方ない、とすぐに折れてくれた。
実際のところは、彼らが寄り添っている姿を見たら自分がどうなってしまうか、まだ心の整理がついていなかったからなのだが、それこそ蛇足というものだ。
「毎年、すごい人だものね。私もはぐれそうになったこと、何度かあるから。蛍丸は初めてだから、私もちょっと心配なんだ」
「そうだね、僕も……」
小豆長光や堀川国広、乱藤四郎はあれで結構しっかりしている。だが、和泉守は楽しい気持ちが溢れかえると、己の興味が赴くままに行動してしまう節がある。不安要素を挙げるなら、そこだろう。
(そういえば……膝丸の浴衣、結局準備できていないんじゃないかな)
神社の夏祭りは、皆揃って浴衣を着ていったようだが、膝丸だけは内番でも使用している私服姿で出かけていた。髭切と浴衣を仕立てに行くと言っていたが、あの様子ではまだ行けていないのだろう。
「そうだ。藤さんは、最近顕現はしたの?」
「ううん。どうしようかなって、悩んでいるところ」
スミレが、こちらの様子を窺うように尋ねてきているのは、閉じこもっていた時期の様子を踏まえているからだろう。以前のような空元気を見せなくなったとはいえ、無理はしていないかと心配してくれているようだ。
「政府の人からは、定期的に鍛刀をしなきゃいけないって言われてはいたんだけど」
「あれ、そうなの? 私の担当の人は、無理のない範囲でっていつも言っているよ。顕現をすることで、最初は呼びかけにくかった刀剣男士と出会うセンスみたいなものは磨かれるけど、逆に疲れてしまうかもしれないからって」
「え、そうなの?」
新しい出会いには、はじめましての嬉しさと同時に、拭えない不安を藤に与えていく。鬼である話を一から伝えるのは、拒絶と隣り合わせの彼女としては、普通以上に緊張を強いられてしまう。
それでも、それが審神者としての仕事ならばと思っていたが、どうやら顕現をし続けなければいけないわけではないらしい。今までとは、まるで違う考えに、藤は目を白黒とさせていた。
「気になるなら、藤さんの担当をしてくれている人に聞いてみるといいよ。そりゃ、全くしないっていうのは、外聞が良くないけど、審神者次第なところもあるからさ。無理に増やさない方がいいって思うなら、藤さんは今いる刀剣男士たちと、関係を深めればいいんじゃない?」
それもそうか、と藤は思い直す。
未だに和泉守からは一度も主と呼ばれていないし、膝丸とは彼の方から断絶されているようなものだ。お世辞にも、関係を深めているとは言い難い。
スミレにお礼を述べたとき、折良くコンコンと襖の柱を叩く音が響いた。
「誰か来たみたいだ。そろそろ切るね」
「はーい。またね!」
別れの挨拶を告げてから、藤は部屋を開けてもいいよと伝える。
あの夜に自分の気持ちを話してからすぐ、藤は自室にだけは勝手に入ってこないように皆に頼んでいた。
もっとも、刀剣男士たちにとって、プライベートという概念は未だ薄く、理解はしきれていないようだった。だが、主が嫌がる行為はしたくないと、今はノックの習慣にも従ってくれている。
「あるじさーん! 準備できたって!」
柱の陰から顔を出したのは、乱だ。同時に、庭の方からは窓越しでも分かるほど、隠しきれない喧騒が聞こえてくる。
「ボク、もうお腹空いちゃって! ね、早く早く!」
「僕も待ち遠しかったよ。ごめんね、準備あまり手伝ってなくて」
「何言ってるの、今日はあるじさんの夏休み最後の日なんだから。ゆっくりして!」
乱に引っ張られて、縁側から藤は庭へと下りる。そこには、バーベキュー用の鉄網とコンロが、でんと設置されていた。
***
夏休み最後に、皆でちょっとした宴を開こう。そんな話が出たのは、ほんの一週間ほど前のことだ。
里帰りと合わせて少し長めの休暇を取り続けていた藤にとって、この日は丁度休みの最終日にあたる。せっかくだから、何か大がかりに皆で遊びたいと、藤はあれこれ頭を悩ませてみた。
その結果、バーベキューとプチ花火大会をしようという結論に至ったのだ。聞き慣れない遊びに、本丸の刀剣男士たちほぼ全員が興味津々となり、準備を手伝ってくれた。
「主。肉ばかり食べていてはいけないよ。ほら、野菜も食べるんだ」
「分かっているよ、歌仙。あ、和泉守。そっちの肉がもう焦げそうになってる。取っちゃっていいよ」
「おう、そのまま取っていいのか?」
「うん。熱いから気をつけてね」
藤が和泉守と言葉を交わしている間にも、彼女の皿にひょいひょいと焼かれた肉が積まれていく。その横からは、歌仙が野菜を詰め込んでいた。初期刀と主による、絶妙な連携である。
「そんなにたくさん、一度に食べられるのかい? 夏といえど、冷めては美味しくないよ」
「僕だけが食べると思っているんでしょ。いくらなんでも、この量を一人で食べないよ」
藤は縁側に向かい、そこに置かれている予備の割り箸を手に取る。そして、彼女は縁側に腰掛けている小さな影の元にやってきた。
「こんばんは。今日は来てくれてありがとう、更紗ちゃん」
藤が話しかけた少女――更紗は、無言でこくりと頷く。
今日のバーベキュー大会に、お世話になった人たちを誘いたい。藤のその提案に、歌仙たちはすぐに賛成してくれた。
そこで、何かと世話になっているのに、お礼らしいお礼もできていないから、来たい人はみんな来てもいい、と藤はほうぼうに連絡をしていた。
とはいえ、実際に招待を受けてくれたのは、更紗と彼女の護衛である鶴丸だけだ。
スミレは、自分は何もしていないよと謙遜の言葉と共に断っていた。代わりに、先だってのように通信で藤の快復を喜んでくれた。
煉も同様に、藤が添えた謝罪の文面をやんわりと受け止めるに留めていた。彼にこそ色々と迷惑をかけてしまったのにと、藤は申し訳なさで胃が縮む思いがしていた。それとなく食い下がってみたところ、どうやら予定があったようで、結局日を改めて菓子折りを持って藤が訪れることで、話はまとまった。
「こっちが肉で、こっちが野菜ね。まだ熱いから気をつけて。調味料は軽くつけておいたから、味は染みこんでると思うよ」
藤は山盛りの肉と野菜を載せられたプラスチックの容器を、更紗と自分の間に置く。彼女はこくんと頷いて、ぱちんと手を合わせた。
「いただきまーす」
藤も食前の挨拶を高らかに済ませ、二人は肉や野菜に箸を延ばす。万が一汚れてもいいように、更紗はベージュのサマーワンピースに紙ナプキンを首にぐるりと巻いている。藤も、シンプルなTシャツ姿だ。
「うん、肉も丁度焼けていて美味しい! 野菜も、いい火加減だね」
味覚が戻ってきてから、藤はよく食べるようになっていた。流石に更紗の前でがっつくような真似はしないが、箸は生き物のように機敏に動いている。
更紗も、負けじと無言ではあるものの、素早く箸を動かし、野菜の山を崩している。美味しいのか、何度か瞳の奥に輝きが見えた。それが嬉しいという気持ちの表れだと、藤はもう知っている。
一通り食べ終えてから、藤はふと箸を止め、更紗に向き直った。
「更紗ちゃん。改めて、この前は色々と……ごめんね」
更紗も藤が何か言おうとしているのを察知してか、手を休めて藤の言葉を待っていた。
「更紗ちゃんが真剣に心配していたのに、僕はちゃんと向き合わなかった。君に分かるわけがないって、誤魔化そうとした」
喋れない身でありながら、彼女は真摯に藤の思いに耳を傾け、藤が作り上げた笑顔を否定した。
関係ないと放っていてもよかったのに、この子供は友達として我が身のように心配していた。それに対して、自分の態度は不誠実だったと、今ならはっきりと言える。
更紗は、暫く考え込むような素振りを見せてから、傍らに置いていたメモに文字を綴り始めた。
『ふじ げんき なった だから いい』
「でも」
『わたしも たくさん いっぱい いたいこと いった』
おたがいさま、と続いた文字を見て、藤はもう一度「ごめんなさい」と頭を下げる。更紗も、無言でぺこりと頭を下げ返した。
顔を上げた藤に、更紗は軽く小首を傾げてみせる。その顔は、相変わらずぴくりとも動かない無表情ではあったが、藤の目には微笑んでいる少女の姿が、確かに見えていた。
「あのとき、ちゃんと言えなかったことなんだけど、今話してもいいかな?」
更紗は、こくりと頷く。藤は彼女の肯定を待ってから、己の額に巻かれた薄紫の布へと指をかけた。
結び目を緩め、しゅるりと布が解ける。ずれた布からは、額に生えた薄緑の角が顔を見せ、夜気に触れた。
向かい合う更紗の丸い瞳が、ますます大きく見開かれる。まるで、今にも零れ落ちそうなビー玉のような目だった。
「僕は、鬼なんだ。ずっと、鬼として生きてきた。今までも――できるなら、これからもそうしたいと僕は思っている」
更紗は、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、眉一つ動かさずに角を見つめていた。
山間の向こうに消えていく夕日。
その日最後の光に照らされ、浮かび上がるは、皐月の緑を彷彿させる不可思議な角。
小さな唇は、音もなく、一つの形を作る。
――きれい、と。
幼子の、たった三文字の言葉。
それを耳ではなく、心で聞いた瞬間、藤の瞳から一滴、涙がこぼれ落ちた。
『ふじ つの きれい』
更紗はメモを手にとって、改めて藤へ角の感想を綴ってみせる。屈託の無い笑顔が、目の前の少女に浮かんでいるように見えた。
「……怖くないの?」
少女は、首を横に振る。
「変だって、思わない?」
彼女は、もう一度否定してみせる。そうして、更紗は鉛筆を握り、ぎゅっぎゅと心を文字へと変える。
『ともだち えらんだ きもち わたし だいじ したい。ふじも だいじ してあげて』
「……そうだね。本当に、それだけのことなのに」
自分の思いを、気持ちを、心に刻んだ生き様を、他ならぬ己が抱きしめてあげてほしいと、目の前の子供は言う。
藤よりもいくつも年下に見えるのに、彼女はこうして物事の本質を突いたような言葉を、何の衒いも無く示してくれる。そんな『友達』の言葉が、今は有り難かった。
「僕も、更紗ちゃんが大事にしたいものがあるなら、大事にしてあげたいな」
『ふじ もう だいじ してる』
首を傾げると、更紗は自分の胸をぽんぽんと叩いた。子供らしい、もみじのような柔らかな手は、彼女の胸ではなくその奥にある――心を、示していた。
『わたしの こえ きいてる。わたしの こころ みみ かたむけてる。わたし すごく うれしい』
「……それは、その、ただそうしてあげたいなって思っただけで、そんな当たり前のこと」
『でも だいじな あたりまえ』
そこで文字を書く手を止め、彼女はまだ残っている野菜へと手をつける。彼女の自由奔放な仕草は、在りし日の夏祭りに邂逅した際の様子を藤に思い出させた。
スミレと加州が寄り添う姿を見るのが辛くて、その痛みを誰にも打ち明けられなくて、逃げ出した。そんなとき、走り出していた藤が彼女にぶつかったからこそ、今こうして共に過ごしている。
「更紗ちゃんは、最初から僕が無理していたって思ってたんだね。何だか、僕の方が年上のつもりだったのに、色々負けた気分だなあ」
口寂しくなってつまんだ人参は、少し苦かった。恐らく、炙りすぎたのだろう。
『ふじの かお つる すこし にてたから』
更紗はそこで鉛筆を止め、再び取ってきてもらった肉を囓り始めた。ふっくらとした頬にソースの茶色い染みがつく。気が付いた藤は、ハンカチの端でそっと染みを拭い取った。
「僕が、鶴丸さんに?」
『つる いっぱい たたかって けがして いやなこともして それで わたし たすけてる。でも つる くるしいは いわない。ほかの みんなも あまり』
語る言葉を探しているかのように、更紗は辿々しい手つきで文字を綴る。小さな手は、メモと箸を何度も行き来していた。
『わたし くるしい いうのは だめじゃない おもう』
だから、気づけたのだと更紗は言外に――文字外に伝える。
多くの感情を押し殺して、人も刀剣男士も生きている。それは誰かのためかもしれないが、手段と目的をひっくり返しては本末転倒だ。今なら、実感を持ってそう言い切れる。
彼女は、幼い身でありながらも、鶴丸たちと過ごす内にその当たり前を、強く自覚したのだろう。
『それと わたし ふじより としうえ』
「またまた、そんな冗談言っちゃって」
思わず飛び出してきた可愛らしい冗句に、藤はくすくすと笑う。もっとも、この反応はお気に召さなかったようで、更紗はぷぅっと頬を膨らませていた。
「よっ。今日は、誘ってくれてありがとうな」
そこに、件の鶴丸国永が姿を見せた。普段は白の着物を着ていることが多い彼も、今日ばかりは紺地の浴衣姿だ。
彼は藤の角を見て、軽く片眉をあげてみせたが、余計な言及はせずににっこりと笑いかけるに留めていた。その対応を目にして、改めて彼らは人の大人よりも達観した思考を持っていると、藤は思う。
「どういたしまして。鶴丸さんにも、僕がいない間に歌仙が世話になったみたいで、助かりました。色々と、迷惑かけてすみませんでした」
「はっはっは、そんな風に頭を下げる必要はないさ。困っている友人は、助けるものだろう?」
豪快に笑い飛ばしつつ、鶴丸は手に持っていた焼きトウモロコシにかぶりつく。その姿は、どこから見ても気の良い普通のお兄さんにしか見えない。
更紗が語ったように、自分の痛みを笑顔で誤魔化した経歴があるようには、到底思えなかった。
「おう。あんたが、そっちのが話していた鶴丸国永か」
鶴丸を見かけて声を掛けてきたのは、和泉守兼定だ。今日はバーベキューを満喫するためか、長い髪の毛を一つに纏めている。
『そっちの』呼ばわりされているのは藤だ。彼はまだ、彼女を主とは呼ばない。
「ああ。噂の鶴丸国永様だ。以後、お見知り置きを」
「之定の所に何度か来てたよな。書類仕事の方は熟練らしいが、こっちはどうなんだ?」
和泉守は、まくし上げた袖から露わになった自身の腕をぱしぱしと叩く。彼の顔には、明らかに挑戦的な笑みが浮かんでいた。
「演練であった時は、お手並み拝見といこうじゃねえか」
「いいねえ。藤殿の本丸とは一度試合をしてみたかったんだ」
互いに好敵手を見つけた喜びを、惜しむことなく顔に浮かべている。その様は、縄張りの境目で牽制し合う狼を彷彿させた。
「それなら、今度演練する? 最近は、個人戦しか申し込んでいなかったから、団体戦もやっておいた方がいいかとは思っていたんだ」
「そりゃ楽しみだな。空いている日はあるか?」
「特に予定が詰まっているわけではないから、僕は大丈夫だよ」
すぐさま藤が答え、それならばと鶴丸は二、三の日取りを伝える。その中の日付から、妥当なものを選び、二人の間で段取りがあっという間についた。
和泉守は満足そうに頷き、藤へと微かに口角を吊り上げてみせる。彼らの間に、ぱっと見ただけで分かるような明瞭な隔たりはない。
だが、彼は一度も彼女を主と呼びはしなかった。
(和泉守に、主として認めてもらえるような自分になりたい。でも、自分の無理のない範囲で進めていく。すぐに、できることじゃないのだろうけれど)
和泉守にとっては、藤という存在は、嘗ての逃避を許されるような存在であるとは、まだ見えていないのだろう。だが、彼の態度も仕方ないと藤は思う。求められているのは、詭弁ではなく、明瞭な結果だけだ。
「和泉守、ちょっといいかな」
「おう、何だ」
「あの……最近、膝丸と話したことある?」
和泉守と藤の間には、確かに溝ができている。けれども、全く喋らないわけではない。先ほどのような雑談なら、日常でも何度か交わしている。
だが、膝丸と藤の間では、そもそも会話が成立していなかった。声をかけても「急用ではないなら後にしてくれ」と距離を置かれている状況は継続中だ。
それならば、同じような立場の和泉守なら何か知っているのではないか。そんな希望を抱いて、藤は彼に質問していた。
「話したこと? まあ、何度かあるけどよ。そんなにしょっちゅうってわけでもねえな」
「何だか、最近いつも一人でいるような気がして。髭切も、弟の側にずっといるわけにもいかないって言って、あまり話していないみたいだし」
「膝丸なあ。あいつぁ、なんつーかな」
皿に載せていた肉を齧り、飲み込んでから和泉守は続ける。
「どうすりゃいいのか、延々と悩んで、悩みすぎて迷路の中にいるみたいになってるような、そんな気がすんだよ」
「……僕のせいかな」
「何でも、自分の責任にすりゃいいってもんじゃねえぞ。まあ、オレも何もかもを知ってるわけじゃねえが」
和泉守の視線は、縁側の端に腰掛けて、肉を咀嚼している髭切に向けられる。
先に食事を終えた乱が、今から始まる花火大会に誘っているようだが、もう少し食べたいからと断っているようだ。
「それに対して、あれだろう?」
和泉守が、それとなく顎でしゃくった先には、膝丸が立っている。彼の視線は、どこからどう見ても、熱心に髭切へと注がれていた。
髭切がふと顔を上げた瞬間、膝丸はすぐさま顔を逸らしてしまう。話しかけたいという気持ちは明らかなのに、膝丸本人が髭切に接触するのを控えているようにしか見えない。
結局、小豆に声をかけられ、膝丸は彼との話題に夢中であるかのように笑い始めた。その笑顔は、到底自然なものとは言えない。
「ま、あんたにとっちゃ、あいつもオレと同じで、付き合いにくい奴かもしれないけどよ」
「別に、僕は和泉守が付き合いにくいとまでは、思ってないよ」
きょとんした顔で藤に言われ、和泉守もそっくりの顔で彼女に向かい合う。
「だって、和泉守って気さくな兄貴分って感じじゃん。堀川も慕っているし、他の皆も君を頼りにしている。だから、君はいい奴なんだよ」
いい奴だからこそ、いい加減な態度を見過ごせなかったのだろうと今なら分かる。和泉守の性格を知れば知るほど、あの当時の自分は彼の神経を逆なでするだけだったという理解を深めていく。
「どうしたら君に認めてもらえるかなって、僕は少し深めに悩んでしまうだけ。それだけだよ」
「――ああ、そうだな」
和泉守の口元に、弧がつり上がる。髭切や歌仙とは違う、威勢の良い堂々とした笑みだ。
「オレはあんたのそういうところは、嫌いじゃないって思うくらいにはなった。ただ、それで何もかも認めたわけじゃねえからな」
藤は、目をまんまるに見開く。
そんな言葉を言われると思っていなかったという、驚きまじりの喜びの表情だった。
「……ありがとう」
「礼を言うのは早ぇーよ」
謝礼は退けられたが、悪い気はしない。藤は少し緩む頬を必死に押さえて、残された肉に夢中な振りをした。
***
和泉守と藤のやりとりを眺めながら、鶴丸は考える。
(まあ、今のところ、あいつが懸念しているようなことはなさそうか)
この本丸にいる刀剣男士を、彼は金に光る瞳を眇めて観察していた。思い返すのは、先日、政府の庁舎に赴いた際に行ったやりとりだ。
(特別な契りを交わすつもりがあるってやつは、こう……もう少しギラギラしているからな)
鶴丸は、知っている。
彼はかつて、政府の刀として扱われていた時期がある。しかも、各本丸の視察を行い、問題なく運営が行われているか確認する、監査官という職だ。
あの男が話しているような事態も、今まで何度か目にしている。そういうとき、刀剣男士たちの目には、もっと俗物的な欲が宿る。
独り占めしたい。
どこかに隠してしまいたい。
自分以外のものには触れないで欲しい。
老若男女関係なく、主に対して強い思慕を持つ刀剣男士は、独特の顔つきを見せる。外敵に対する警戒の姿勢を、露骨に表す。
だが、少なくともこの本丸にはそのような顔をしているものはいない。
「これからも、少し顔を出した方が良さそうだな」
小声とはいえ、考えを口にしてしまったからだろうか。不意に、隣に座る彼女によって袖が引かれた。
振り返れば、更紗が不安げな顔で――表情こそ変わらないが、目では不安を訴えてこちらを見ている。
『つる?』
口の形だけで尋ねる更紗に、鶴丸は笑いかける。
「何でもないさ。藤殿には、これからも健やかに元気でいてほしいと思う。本当に、そう願っているんだ」
そうすれば更紗は、きっと喜んでくれる。友達が笑う姿を目にしただけで、彼女はあんなにも嬉しそうに目を輝かせるのだから。
ひょっとしたら、いつか更紗の顔から失われてしまった表情が取り戻せるかもしれない。凍り付いた顔に、花が綻ぶような笑みが浮かぶ姿を見られるかもしれない。
「きみが笑うためなら、俺はなんでもする。なんでも、な」
それに、これは何も更紗のためだけではない。藤のためでもあると、鶴丸は内心で己を納得させる。
刀剣男士と契りを結ぶのは、刀剣男士の手入れをするだけで体調を崩すような彼女には、間違いなく負担になるだろうから。
そうして、己に呼びかけている鶴丸は知らない。
その目が、自分が藤の刀剣男士たちにないかと探していた、『ギラギラした目』になっているということに。
***
縁側の端で、小豆が用意してくれたバーベキューの肉と野菜を、もりもりと囓りつつ、髭切は夏の庭を眺める。
主は、友人の審神者である少女と何やら楽しげに話している。そこに割り込んで入るものではないと、髭切なりに一応の遠慮をしていた。
正直な気持ちを述べるなら、主の側にいると自分は落ち着くのだから、もっと主の隣にいたいとは思う。とはいえ、場の空気を読むぐらいのことは髭切もする。
(それに、弟が来ると思ったんだけどねえ)
主に言われたこともあり、弟がこちらにやってくるのなら、彼と話をしようとも考えていた。
だが、彼は予想に反してバーベキュー大会が始まってから、一度も髭切に声をかけていない。今は、短刀の子供たちと花火に興じているようだ。
(避けられちゃっている? 主といるから? うーん、それも違うよねえ)
すっきりしない感情を抱えながら、髭切は箸を進める。そのとき、
「やあ、久しぶり」
縁側に、ひょいとふわふわの毛並みの生き物が姿を見せる。ふさふさの尾に見慣れた栗毛の姿。
間違いない。去年の冬、更紗が訪れたときに連れてきた子狐だ。見た目に反して、彼らは人に化けることができるぐらいの力を持つあやかしだと、髭切は既に知っている。
「ああ、またお前。何の用?」
彼らは、やたら忠告めいた言葉を髭切に投げかけていた。その内容を、ふと髭切は思い出す。
山の中で自分が行き会ったもの。そして、狐が言った言葉。
「君たちが言いたかったこと、今なら何となく分かる気がするよ」
「へえ、そりゃ意外だね。頭の固い刀の神様にはわかるまいと思ってたよ」
小狐が紙皿に載せていた肉に鼻面を近づけてきたので、髭切はすぐさま取り上げる。主の友人はこの狐と仲が良いようだが、髭切まで彼と仲良くするつもりはなかった。
「君達は、なんでもかんでもあやかしで括るな、と言った。それと、主を誘ったのはあやかしじゃない、とも」
「ああ、そんなことも言ったね」
「あれは、どこかの山の神だと、気がついていたんだね」
それなら、そう言えばいいものを。
髭切が些か剣呑さの残る目つきで狐を睨むも、狐は物怖じせずに髭切を見つめ返していた。
「まあ、大体はね。俺とは同類みたいな存在だから」
「つまり、お前たちも山の神ってこと? とても、そうは見えないけれど」
「半分正解で、半分不正解。でも、そっちが何を理解したとしても、俺はやっぱり、人とそうでない存在は袂を分かつべきだと思うよ。神様だろうが妖怪だろうが、ね」
狐は、髭切と縁側の反対側にいる藤たちの方を交互に見つめる。
「僕たちも、彼女に関わるなと言いたいのかな。君たちにそんなことを言われる筋合いはないと思うんだけど」
「関わって、必ず良い結果を彼女に齎せると、君たちは確信を持って言えるの?」
問われて、髭切は唇を閉ざす。
他ならぬ、自分たちの振る舞いが主を追い詰めていたと知ったのは、ついこの前の話だ。よかれと思ってという免罪符は、神の傲慢ではないかと狐は問うている。
「神様だから、彼女を追い詰めるわけじゃない。僕らには、心がある。だから、そういう間違いもする。神だろうが人だろうが変わらない。単に、それだけの話だよ」
「ただ、神は反省をしない」
「しているよ。歌仙も他の皆も」
あの夜に見た歌仙の顔を思い出せば、彼が反省していないなどと、碌に関わってもいない外野に言われたくないと髭切は思う。
彼だって、この本丸の仲間だ。髭切にとっては、肩を並べる同胞でもある。
「これからも、必ず己を省みられると、君たちはそう言えるのかな」
「随分と絡んでくるねえ。何故、そこまで僕らに関わるのかな」
「神様に弄ばれた上に、捨てられて、人に虐げられて、行き場をなくした人を身内で知っているからね。放っておけないんだよ」
話しすぎたと思ったのか、ふん、と栗毛の狐は鼻を前足で掻く。その仕草はたまに庭に来る野良猫が、不機嫌そうなときにする素振りによく似ていた。
「大丈夫だよ。僕らは、彼女を弄んだ上で捨てたりはしない。それに、主が行き場を無くしたと言うなら、主が笑っていられる場所をここに作るだけだから」
自分で口に出すことで、それは一つの決意となる。
そうだ。彼女が笑える場所が外の世界になくなったとしても、自分たちがここに作ればいい。彼女の帰る場所になればいい、と。
「――本当にそんなこと、できるのかな。あいつもそうだけどさ」
栗毛の狐は、ふいと鶴丸の方に鼻を向ける。
「あいつは、更紗のためなら何でもする奴だよ。彼女が笑えるようになるために、本丸を作り上げ、守っていると言っても過言ではない」
「あの鶴丸国永が?」
膝をつき合わせて長時間喋り合うような間柄ではないが、彼が更紗に対して真剣に向き合っているのは分かる。それは、どうやら単なる主への敬慕とは異なるらしい。
「刀の神が、人の居場所を本当に作れるのか。お手並み拝見だね」
栗毛の狐は、言いつつも髭切の皿へとぴょんとジャンプする。しかし、負けじと髭切も皿を高く掲げて、狐に取られまいとした。
結局つまみ食いし損ねた栗毛の狐は、ふんと鼻を鳴らして去って行った。だが、黒毛の子狐は立ち去らない。そういえば、彼とは全く話をしていないと思っていると、
「色々、あいつが迷惑をかけてすまない」
ペコリと、黒狐は頭を下げた。
「へえ、君って喋れたんだ」
「喋れる。ただ、あいつが大体代わりに喋るから、黙っているだけだ」
「彼の口はよく回るねえ。さすが化け狐」
「否定はしない。あいつは嫌がるだろうが」
栗毛の狐より、こちらの方が自分たちに対する評価を正しくしているらしい。彼は暫し足元に視線を落として、考える素振りを見せていた。
「お前は、山の神とやらに会ったのか」
「恐らく分け御霊ではあったけど、一応ね。話もしたよ。もう主には手を出さないとか言っていたかな。同じことがあったら次はないと言われたけれど、僕は同じ過ちを繰り返すつもりもない」
「その言葉、話半分に聞いておいた方がいい」
黒狐は警戒を露わにしながら、髭切へと言葉を投げかける。それは、髭切への警戒ではなく、髭切が対話したという超常の存在への警戒だった。
「人ではないものの考えなど、秋の空より気まぐれだ。お前がもし人の心を理解できるようになったというのなら、今度は人でない存在の心が分からなくなってくる。あれは、何を考えているか分からないくらいが、ちょうどいい」
「ご忠告どうもありがとう。ところで、君たちは人でなさそうだけど、だからあの山にいた者とかの気持ちが分かるってことかな」
「さあ。どちらかというと、自分は、人に近い方だと思いたいがな」
黒狐は、花火を持ってはしゃいでいる更紗と、それを見守る藤を見つめる。彼につられて、髭切も庭に広がる夏の一幕を眺める。
鶴丸が更紗の側に付き添い、小豆が冷たいアイスを短刀の子供たちに振る舞っている。藤もすぐさま、彼らに交ざってご相伴に与っていた。
賑やかで、人と人の温もりを感じる光景。どんな者よりも、主の笑顔はいっとう輝いてみえると髭切は思う。
「完全に人でない存在になってしまったら、人の心が分からなくなる。そうして、いつか大事にしたいものまで壊してしまいそうだ。僕はそれが恐ろしい。そちらもじゃないか?」
軽く尻尾を振り、別れの挨拶を済ませてから黒狐は去っていく。残された髭切は、眼前に広がる光景と、己の手を交互に見比べる。
今はそこに本体である刀はない。だが、常にこの手は武器を握る手だった。そう、思っていた。
だけれど、差し伸べた手に触れた主の手は柔らかく、温かかった。それを包む己の指も、きっと優しいものだっただろう。できるなら、そうありたいと願う。
刀で在り続けたら、主の手を握れなくなるのだろうか。
では、人になったら、己の力はどうなるのか。刀でなくなったら、自分は一体何になるのだろう。
(たとえ僕が何だとしても、僕は主の隣にいたいんだ)
刀であると同時に、あの笑顔を理解し、守り、隣に並び立てる者でありたい。主が率いる本丸において、惣領である彼女が持つに相応しい己になりたい。
それは、髭切にとって矛盾しない道だった。
自分が向かうべき道筋がはっきりとしていく。その清々しさに満足して、彼は大きく一つ頷いた。
惣領の刀であり、主の刀であることを望む彼はまだ気付いていない。
自分の傍らにある、もう一振(おとうと)の抱く心に。