本編第二部(完結済み)

 その場所は、藤本丸から遠く離れた場所にあった。
 とりたてて目立つこともない、オフィス街の片隅に建てられたビル。道行く人の殆どが、その場所を関わりの無い場所として通り過ぎるだろう。
 そんな建物の中を、カツカツと甲高く高下駄の音が空間に響く。見慣れない場所ではあるが、どこか懐かしさを覚えながら、青年はエレベーターホールを横断し、セキュリティのかかった部屋の前に立った。
 来客用のブザーを押すと、程なくして微かなノイズが走り、

「はい、どちら様でしょう」

 少し緊張した様子の声で、誰何される。この場所に、訪問者は殆どいない。出入りの業者を除けば、突然の訪問に対して警戒するのも無理もない。

「先日連絡した鶴丸国永、と言えば、分かるか?」

 了承の返事とともに、しばしの沈黙。セキュリティを解除する前に、目の前の存在が本当に鶴丸国永かを確認しているのだろう。
 時間遡行軍が、刀剣男士に化けてやってくる可能性は捨てきれない。
 政府の施設なら、どこに行っても執られる措置だと、鶴丸国永は経験で知っていた。
 ガチャリと鍵が開く音。シンプルな白い扉を開けて、彼は中に入る。
 そこは、どこにでもある事務所の一つのように見えた。並べられた薄型端末と、中空に浮かび上がったホログラム画面の数々。座っている職員たちの数が少ないのは、もう夕暮れが近いからだろう。
 だが、ここは単なるオフィスではない。歴史改変対策本部と銘打たれている、とある部署の者の仕事場だ。
 幾つかに分割されている本部に振られた数字は、たしか、

(〇〇〇七か。ま、縁起のいい数字ではあるな)

 部屋に入ってきた鶴丸国永は、こちらを見つめている職員たちの警戒の視線を宥めようと、軽く手を広げてみせる。

「悪い悪い。突然来て、驚かせてしまっただろう」

 職員たちに、そして何より奥の机に座っている者へと鶴丸国永は声をかける。
 その者は、白髪交じりの初老の男性だった。優しげに目を細めているが、隙はまるで見せていないあたり、老獪な古強者といったところだろうか。

「いやいや、問い合わせがあった以上、私も見ない振りはできない。私が責任者になる前のこととは言え、この支部が犯した過ちであると指摘されたなら尚更ね」

 見た目と同じようにゆったりとした声音は、人を安心させるものだ。だが、鶴丸国永は彼の評価を改めようとは思っていなかった。
 彼の考えを見抜いているかのように、男性の瞳にも微かに鋭い光が宿る。

「君がわざわざここに来た理由。それは、先だって藤という審神者の本丸で起きた事件についてだね。元監査官の鶴丸国永?」

 問われた瞬間、鶴丸は金色に光る両眼をそっと見開く。
 だが驚くのも一瞬。彼は、ふ、と唇を笑みの形に歪める。

「何だ、そこまでわかってるのなら話は早い。随分と、調べ物が上手なようで」
「私が調べた、と言うより前任者が残していったものだよ。私は何せ、この席についてまだ一週間も経っていないひよっこなんでね。だから、先に言った通り、君が陳情――いいや、問い詰めたい相手は、もうここにはいない」
「なるほど。狡猾さは、うちの狐どもの倍だな」

 男の言葉を聞き、鶴丸はいくらか肩に入れていた力を抜く。刀を抜くつもりは毛頭なかったが、向こうが敵意を見出した可能性を考慮していないわけではなかった。
 最悪の事態は避けられたが、同時にもっともシンプルな道筋は絶えてしまったことになる。

「君が訪ねたいのは、藤という審神者に管理を任せている本丸で起こった事件についてだね」

 鶴丸は無言で頷く。
 先日、主を連れているときに起きた一連の不可解な事件について、歌仙が自発的に起こした不慮の事故などとは鶴丸は決して思っていなかった。
 彼は主のことに関しては直情的になる部分もあるが、それ以外の点については洞察力も深く、寧ろ思慮深いと言える。まして、客を呼びつけておいて自分だけ出陣するというのは、まずあり得ない。

「数日前に、彼女の本丸の歌仙兼定が単騎で出陣した。その後、彼は負傷して帰還。刀剣破壊に至る可能性があったことは、俺がこの目で確認している。だが、歌仙が供述したところによると、自分から時空の転移をした覚えはなく、気が付いたら出陣先にいたそうだ」

 先日、更紗に連絡をとってきた藤が語っていた内容を思い出しながら、鶴丸は滔々と続ける。

「歌仙が最後に会ったのが、度々本丸に管狐を飛ばしていたこの部署の人間――いや、人間『だった』、か。つまり、あんたが今座ってる席にいたやつだったというわけだ」

 この部署に他に異動した人間がいないのなら、犯人は間違いなく嘗てここの長だった者だろうと、鶴丸は当たりをつける。

「歌仙は、事件の直前俺と話をするために、わざわざ個人的に連絡をして本丸に俺と主を呼び出していた。なのに、会話を中断して来客に何の断りもなく出陣している。彼の性格から踏まえても、明らかにこれはおかしい。歌仙の証言と合わせて、何らかの術にかけられたと俺は見ている」
「しかし、証拠はない」

 勢い込んで話す鶴丸に、初老の男はばっさりと容赦なく切り込んだ。

「我々の感知している限り、歌仙は自ら本丸の外に出て、その後に戻ってきた。時空転移の申請も、彼自身からされている。折しも、小規模な遠征調査の依頼が出されていた頃だったからね。何もかも予定通りの出陣であり、彼の負傷は単なる不幸な事故だった。彼は、この部署にいた人間から、ごく個人的な依頼をされ、それを引き受けた。主を経由しなかったのは、彼女が当時、まともな対人折衝ができる状態ではなかったからだ」

 初老の男の言うことは、いちいち筋が通っている。だが、彼の語るシナリオはあまりに明確すぎていた。分かりやすいぐらいに、怪しい部分が取り除かれている。

「そうやって、推測の芽が出ないようにされているだけだ。あいつは、明らかに歌仙を破壊するつもりでいた」

 鶴丸は一歩、前に踏み出す。高下駄の音が、事務所の室内に音高く響いた。ざわめく室内の職員に対して、男は身じろぎ一つしない。

「そうだね。藤様からも、そのようなことを匂わせた質問が来ていた。だが、記録の残っていない事柄について、単なる一個人のやり取りを仔細に調べていく余裕は、こちらにはない」

 これがもし、犯人が自ら何らかの攻撃をしていたなら、その残滓を辿れたかもしれない。
 しかし、傷自体は時間遡行軍が与えたものであり、既に藤の手入れによって塞がれている。自らの手で、証拠隠滅してしまったも同義だ。

「何より、彼は私と入れ違いでこの部署からは異動している。前任者が何かしていた可能性については、部署に対する問い合わせでは完全には対応しかねる。徹底的にやるなら、個人間で行った方がいいだろう」
「……それを、していいのか」

 鶴丸は、すぅっと目を細めて問う。霜をおろしたかのような白く長い睫毛に縁取られた金の瞳に宿る光は、冬空に輝く星々よりなお冷たい。

「彼が今、どこで、何をしているか。その程度なら、私が口を滑らせて話しても不思議ではない。ただし、君が彼を害さないと約束できるのならば、だが」
「随分と、俺を高く買ってくれているんだな」
「政府に十年近く勤めていた刀は、人一人失うことの大変さも苦労も重々承知している。私は君個人ではなく、君の経歴を買っているんだよ」

 柔和に目を細め、新たな支部長は言う。かつて、更紗という娘に出会う前、鶴丸国永がどこで何をしていたかを、彼自身に思い出させるかのように。

「先代の彼――一ノ瀬というそうだが、彼は今、神秘怪異対策部の討伐課にいるそうだ。元々、彼の古巣もそこだったらしい。審神者の福利厚生管理については、どうしても数年でいいからやらせてくれと、強い希望があったのだそうだ」
「そりゃまた、随分と変わった要望だな」

 鶴丸は古い記憶を引っ張り出してきて、聞き慣れない名の部署が何をしている所かを、頭の中で整理する。
 嘗ては違う名前だった気もするが、要するにその部署は本丸の結界を管理したり、或いは本丸や審神者に寄りつく魑魅魍魎を追い払ったりする業務を仕事としている。審神者と直接関わることは少なく、仕事内容としてはかなりかけ離れているはずだ。

「なんでも、とある人物に審神者になるよう進言したことがあり、その者の人生を左右した責務を果たすためだと、異動理由には書かれていた」
「――ああ、つまりはそういうことか。彼が、藤殿を審神者にしたのか。それにしても、随分とよく調べているなあ」
「私も気になることは調べたくなる性分なんだよ。細かい内容までは追えなくても、想像で多少は補える。それで、鶴丸国永。君はどうする?」

 ここまでお膳立てされて、今更首を横に振るわけがない。彼は、一も二もなく頷いた。

「申し訳ないが、この場を治める新たな長たるきみには、ちょっと口を滑らせてもらおうかな」


 ***

 日を改めることも考えたが、鶴丸国永は結局その足で『口を滑らせてもらった』内容から得た情報に基づき、別の建物へと移動した。
 政府の建物同士では、こちらから申請さえ出せば、転移装置を使用した移動が可能なため、申請も含めた三十分程度で目的地へ着くことができた。
 後回しにしようかとも思ったが、この事態を解決しない限り、藤の心に安寧は訪れないだろう。彼女が安心できなければ、ひいては鶴丸の主である更紗も、十分に安心できなくなる。それが、鶴丸が動いている理由だった。

「いやあ、こっちの部署は、俺には縁がなかったからなあ」

 転移した先は、郊外にある大型の施設だ。山間にひっそりと建てられた施設は、一見すると風景には少々不釣り合いな近代的な建物に見える。
 真っ白の外壁に、四角い外見は病院のようと言われても仕方ない。併設している、些か古びた風情の木造の建物は、かつて学校として使われていた建築物を繋げたと、以前小耳に挟んでいた。

「神秘怪異対策部、ねえ」

 戦装束の白頭巾を深く被り、鶴丸は木造の建物に向かう連絡通路にて、一度ため息を形にする。
 仰々しい名前ではあるが、この部署の主立った仕事は結界を貼りに行ったり、審神者や刀剣男士に役立つ道具を開発したりと、縁の下の力持ちのようなイメージが強い。
 人智を超えた術に関することについて、対処から開発まで一手に引き受けている場ではある。無論、名前の通り、不可解な現象が発生したときの調査も、主に扱っていると聞く。
 鶴丸の前を行く案内係の青年は、彼の気など知らないように、どんどん奥へ向かう。結界をいくつか通り抜け、とある扉の前で彼は足を音メタ。

「案内はここまでとなります。お探しの方は、突き当たりから右に曲がって、左手の三番目の部屋にいるとのことです」
「きみはついてきてくれないのか。つれないねえ」
「刀剣男士様、お一人で来るようにとのことでしたので」

 どうやら、対峙する相手からのお達しらしい。準備がいいことで、と鶴丸は苦々しげに笑う。

「個室があるなんて、贅沢だな。俺の昔の仕事場は、だだっ広い作業部屋だったっていうのに」
「何せ、扱っているものがものですから。あまり開けた場所では、作業しづらいのだそうです」
「なるほどね」

 結界にしろ何にしろ、術と名のつくものは気の通りをよくしすぎてもいけないし、悪くしすぎてもいけないということぐらいは、鶴丸も聞いている。他人の持つ力が混ざるのを避けるためにも、個室を用意されているのだろう。

「しかし、一振りで来いとは……俺が謀反を起こすとかは、考えないのかねえ

 もしくは、考えたとしても、制圧できる戦力があるからか。
 あり得そうな話だ。何せ、この部署は内容が内容だけに、刀剣男士を制御するための力も扱っていると聞いている。歌仙の意思を一時的に奪ったのも、その一つだろう。
 意を決して、鶴丸は廊下へ足を踏み入れる。西日が差し込む木造の古めかしい道は、本丸とはまた異なる風情の懐古的な気分にさせられた。
 興味本位であちらこちらを眺めながら、鶴丸は廊下を行く。大袈裟な名前の部署ではあるが、通り過ぎる者たちは存外普通の身なりの一般職員が多い。
 どうにか辿り着いた突き当たりにて、今度は右に曲がろうと体を向けた瞬間、ドンッと誰かにぶつかる感覚に思わずたたらを踏む。

「おっと、すまん」

 人の気配は感じなかったはずだが、とそちらを向くと、そこには一振りの刀剣男士が立っていた。
 鶴丸同様、色が抜けた白い髪に、やや血色の薄い肌。ぎろりとこちらを睨む瞳は夕日よりも尚赤い。
 鍛え抜かれた上半身をぴったり包むような服を着ており、眼光とあわさって、かなりの威圧感をまき散らしている。
 だが、何よりも鶴丸が驚いたのは、

(角……?)

 その刀剣男士の頭に生えている、黒みを帯びた角を、見逃すわけにはいかなかった。
 鶴丸にぶつかられた彼は、ちらりと鶴丸を見ただけで、一言も返事をしない。後ろにいる誰かの手を引いて、鶴丸の横を何事もなかったかのように、通り過ぎていく。

(こっちはこっちで、妙な気配の人間だな)

 鶴丸の横を通っていったのは、十代半ばほどの黒髪の娘だ。だが、どういうわけか、生気が薄い。目視していなければ、人がいるということにすら、気がつけなかっただろう。
 暫く二つ分の背を見送ってから、鶴丸は再び進行方向へと向き直る。目的の部屋は、もうすぐだった。


 ***


 コンコンコンと、ノックの音が響く。やっと来たのか、とその部屋の主は手に持っていた端末から顔を上げる。

「どうぞ」

 許可を出すと、軋みをあげて戸が開いた。そこには、白い髪に白い装束の刀剣男士――鶴丸国永が立っている。
 刀の付喪独特の、何とも言えない鉄錆びた空気に、部屋の主である男は顔を顰めた。

「鶴丸国永、ですね。更紗という審神者の本丸に今は所属している刀剣男士であり、元監査官であった者と聞いています」
「ああ。何年か前までは世話になっていたんでね」

 男のしかめ面とは裏腹に、鶴丸は飄々とした態度を崩さない。だが、些か鋭すぎる光が彼の目には宿っていた。

「何故、そのあなたが、無関係の彼女の本丸に、関わろうとするのです」
「残念ながら無関係ではない。彼女は俺の主の友達だ。そして、俺は主を泣かさないためなら、何だってする。あんたが歌仙兼定を害したなら、間違いなく藤殿は悲しむ。その姿を見て俺の主も悲しむ。それは、嬉しくないことだ」

 そんな子供のような理論で干渉してきたのかと、男は大きなため息を吐いた。およそ、理解できない行動だ。

「……とりあえず、座りなさい。部屋の前に立ちっぱなしでいられるのは、私が落ち着かない」

 特に悪びれもせず、鶴丸国永は部屋へと足を踏み入れた。


 扉の向こう側は、鶴丸国永が懸念していたような不穏な気配が滲む空間ではなかった。部屋そのものは、まるで本丸の一室のような清潔な和室となっている。
 十畳ほどの広さは、一人が仕事のためにだけ使うにしては大きすぎる気もするが、応接室も兼ねているのなら十分な広さだろう。
 部屋に足を入ると、尚更強く、この場が彼の空間であると肌を通じて感じさせられた。しかし、悪い気配はしない。寧ろ、濁り一つない清水を思わせるほどに、場の空気は透き通っていた。

「刀の付喪というやつは、すぐに自らが何でもできるように思いあがる。まったく、面倒なことこの上ない」
「はは、随分な言われようだな。それで、結局あんたがやったのか」

 場の空気が何であろうと、今の鶴丸の目的は彼を詰問することだ。急な話題の切り替えだったが、問われたところで、男は顔色一つ変えなかった。
 男は返事の代わりに、鶴丸へと座布団を放ってよこした。有り難く畳の上に置き、鶴丸は男の反対側へと腰を下ろす。

「……だんまりってことは、肯定ととるぞ」
「あなたが何を言っているのか、理解できませんね。私は彼に、他の本丸に依頼する任務の先行調査を依頼はしました。彼は受諾し、しかし出陣先は予想外に強敵がいた。政府では良くある、不幸な事故です。今後このような行き違いがないように、努めるつもりではありますよ」
「歌仙殿は、受諾はしなかったと話している。その後の自分の動きに関しては記憶がなく、無理矢理操られたように感じている、ともな。かつて、この部署にいられるほどの力があるのなら、未熟な刀剣男士の一振りぐらい、短期間なら操るなんて訳ないだろう。刀剣男士の力を封じて、戦地に送り込むこともな」
「――証拠は?」

 鶴丸は口をつぐむ。結局、話はそこで止まってしまう。
 刀剣男士一振り一振りの詳細な動きまで、政府で観測はされていないし、歌仙自らが転移装置を動かした形跡もあり、その際に生じた通信のやり取りも、短いものではあるが残っている。
 彼が動いた痕跡は見つかっている。しかし、誰かに術をかけられた痕跡など探しようもない。後は、目撃者不在の本人たちの主張ばかりが、一人歩きするだけだ。

「あくまで、俺や藤殿の推測に過ぎない」
「そうでしょうね。たしかに、私にはそのような術をかけるほどの力はありますが、審神者の刀剣男士を害して、いったい私に何の益があると?」
「表向きは、そう言い張っていればいいさ。だが、もしまた、藤殿や藤殿の刀剣男士に手を出すようなことがあるのなら、政府があんたを庇うより先に俺の手が動くだろうさ」
「正義の味方気取り、ですか? 人殺しの道具の付喪にすぎない分際で」

 ぴくりと、鶴丸の指が動く。しかし、彼はどうにか、理性で己を押しとどめることができた。
 その冷静さを見越したうえで、恐らく目の前の男も、先ほどのような挑発を口にしたのだろう。

「あんたは、随分と俺たちが嫌いなようだ」
「やれ刀の付喪『神』だなんだと崇められ、図に乗るから嫌悪しているだけです。元が道具なら、時間遡行軍を撃退するための道具として、大人しく使われているだけでよいものを」
「……そうかい」

 顕現したのも、人の形を得させたのも、心を与えたのも、神の一角として祭り上げたのも、全ては人が成したことではないのか。
 そのように反論してもよかったが、彼はきっと素直に聞き入れてくれないだろうとは、鶴丸にも予想できた。

「それに、あなたが私をいくら脅したところで、私が彼女に関わることは、暫くないでしょう」
「……それを聞いて、俺が信じると?」

 男はにこりともせずに、鶴丸をじっと見据える。眼鏡をかけ、黒髪をぴたりとなでつけた彼は、黙っていればスーツ姿と相まってただの平凡な会社員に見えた。
 だが、この眼光の鋭さは凡人が得られるものではない。相応の修羅場を、彼は潜ってきたのだろう。

「信じる信じないはそちらの勝手です。ただ、私は他にするべきことができました。だから、暫く彼女の担当から外れなければならない。残念なことに」
「……分かった。今は、一旦あんたの言葉を信じよう。ならば、重ねて問いたい」

 どのみち、彼が自白するなどとは鶴丸も思っていない。だが、鶴丸にはもう一つ尋ねたい事柄があった。

「なぜ、藤殿に干渉する。彼女は、確かにいくらか変わった血を引くかもしれんが、それでも単なる子供だろう」
「その程度の見方しかできないのなら、やはり刀の付喪は大したものではないらしい」
「そいつは失礼。なら、この見識が浅い俺にも分かるように、教えてもらえるかな?」
「私がお前に教えて、いったい何のメリットがある?」

 そうやって聞き返されるのも、予想の範疇だ。だからこそここに来るまでに考えていたことを、彼は披露すると決めた。

「あんたは、藤殿の所に管狐の姿を借りて何度も訪れている。つまり、そうまでして彼女を見張らなきゃいけない理由があった。何のための見張りかは知らないが、わざわざ部署を異動してまで、彼女の担当になろうとした」

 男は眉一つ動かさない。だが、否定もしていなかった。

「しかし、これまた別の理由で、元の部署に戻らざるを得なくなった。とはいえ、あんたは本心としては藤殿の見張りを続けたかった。彼女に対して、何かよからぬことをするかもしれない輩がいたから。しかもそれは、本丸の外ではなく、内側に」

 彼の目が、微かに細まる。どうやら、外れではなかったらしいと鶴丸は確信を抱く。

「それが、歌仙殿だった。だから、お前は見張りを外れる機を見計らって、歌仙殿を事故であるかのように装って破壊することにした。結局、失敗はしてしまったがな」

 表情に変化は出ても、男は何も語らない。数秒の沈黙を挟んで、鶴丸は言葉を続ける。

「俺がその見張りを引き受けよう、と言ったら、あんたの思惑を話してくれるか?」

 この提案は意外だったようで、男の顔に微かな動揺が走る。

「それをすることで、あなたにどんな利益があるんですか?」
「藤殿に対して、あんたが再び無理矢理干渉するのを防げる。あんたの凶行を見過ごすつもりもないが、彼女に神経をすり減らすような生活はしてもらいたくないんでね」
「それが、ひいては、主の平穏に繋がると?」

 鶴丸はゆっくりと肯定する。他人の平穏すら、己の利益に利用するという考え方に対して、悪びれている様子はまるでなかった。

「俺は藤殿とは親しい。多少距離が縮まっても、特に気にはされないだろうさ。どうだい。あんたへのメリットになるだろうか」

 瞬間、男の顔が揺らぐ。このような理知的に物事を進めるタイプは、感情とは別の損得勘定が上手い。今も、彼の中で計算が駆け巡っていることが、鶴丸には手に取るようにわかった。

「彼女の見張りの意味が、分かっているのですか」
「いいや。その内容次第で、やっぱり引き下がるかもしれんな」

 男は暫し考える。やがて五分近い沈黙の末に、彼は言う。

「刀剣男士と、契りを結ぶことがないようにしてもらいたい」

 男が唐突に告げた言葉に、鶴丸は目をパチクリとさせる。

「契りを、結ぶ?」
「もっと直接的な言い方をしましょうか。刀の付喪と、あるいは他の男と交わるような事態があってはならないと」
「待て待て待て!! あんた、そんなことを気にしていたのか!?」

 突如飛び出してきた単語は、今まで漂っていた真剣な空気とはやや異なるものだ。あまりの衝撃に、鶴丸も口をぽかんと開けてしまう。

「何もおかしな話ではありません。彼女は女性で、刀の付喪は男性の姿をしています。だから、万が一でも関係を持つようなことがあってはならないと、私は警戒をしていました。彼女はまだ若い。誑かされたり、無理矢理迫られたりしては逃げようがない」

 驚く鶴丸とは対照的に、男は冗談を言っている顔はしていなかった。まるで年頃の娘を持つ父親のような発言ではあるが、男の顔にそのような優しさめいたものはない。

「本当は、関わり自体を持たせるつもりはありませんでした。彼らは物で彼女は人。その距離を崩さないようにと、忠言をしてきたはずでした」
「なら、何故鍛刀を促すような真似をしたんだ。刀を増やさなきゃそんな心配、無用だろうに」
「その必要は、別の意味であったのです。そこまで語るつもりはありません。あなたが私に代わって見張るというのなら、事情の幾らかは話しましょう。これからも、あれこれ首を突っ込まれるのはごめんですから」
「だが、刀剣男士に限らず、人がその……恋に落ちるのを永遠に邪魔しろって言うのか? 彼女だってもう十分、大人だぞ」

 男はゆっくりと首を横に振る。

「永遠に、とまでは考えていません。そうですね……あと、二年ほどでいい」
「その二年で何をするかっていうのは、教えてくれないんだろうな」
「釣り合いが取れませんので」

 にべもない拒絶の言葉だ。それ以上は、鶴丸自身で考えるしかあるまい。

「……確約はできないが、目は光らせておこう。俺だって、馬に蹴られたくはない。だが、彼女に不幸な恋に落ちて欲しくないというのも、間違いなく俺の本音だ」

 やや不満げな男の視線に気が付き、鶴丸は大袈裟に肩を竦めてみせた。

「いいか? 無闇矢鱈と禁止されれば、人間って奴は逆にやりたくなってしまうものだ。ほどほどに許し、ほどほどに引き締める。小学生のような可愛らしい恋は許しても、それ以上は避けるように、それとなく進言していく。そういうやり方なら、俺はできると請け負おう。どうだ」
「いいでしょう。できれば交流そのものを遮断したいのですが、それはもう手遅れのようですから」
「今更、無理に引き離したところで、反感を買うだけさ。それなら今のように主と刀の立場を理解しつつ、ちょうどいい距離を保てばいい。それで、何故あんたは藤殿にそこまで見張り続けようとしていた。彼女の色恋事情にまで、口を挟む理由は何だ」

 男は鶴丸を見据えたまま、いくらかの沈黙を再び生み出した。どうやら、何をどこまで話すか取捨選択しているらしい。

「彼女は、とても稀有な存在です。だからこそ、刀の付喪ごときに手を出させるわけにはいかなかった」
「稀有な存在、ねえ。確かに、人あらずのものの血が混ざってはいるようだが」
「人あらずなどと、曖昧な言葉で表せるものではない。あれは、かつてないほど濃く、古きものの影を背負っている。この世から姿を消して久しい、しかし遙か遠い昔には存在していた、あの貴き存在の血を引いている!」

 彼の声が熱を帯び始め、鶴丸は思わず身を後ろに引く。
 男から漂う気迫は、単に興味本位や学術的関心などといった理性的なものからかけ離れた熱が混ざっていた。
 ――熱狂的な信仰。
 一言で表すなら、そうだろう。

「ならば、彼女をより磨き上げ、失われた力を取り戻させるのが私の責務だ。古きものの声を聞いてきた者として、刀の付喪如き、鉄臭い血濡れた輩に彼女をやるわけにはいかない。だから、私は彼女に極度に肩入れする刀どもは排除したかった。それは、穢れなき彼女を汚す異物だったからだ」

 磨かれざるダイヤを彼女に例えるなら、刀剣男士はそのダイヤにさらにこびりつく泥か、あるいは傷物にする無粋な刃だったのだろう。
 ともあれ、彼が過激な行動に出た原因を知ることはできた。もっとも、鶴丸個人としては、到底その気持ちに同調はできないものではあった。

「だが、あの刀の付喪以上に厄介な魑魅魍魎が、近頃増加している予兆がある。あの手の類は、人とは異なる存在を仲間と見なして、関わろうとする。ならば、そちらの排斥の方が急務と私は判断した。だから、こちらに戻って来いという知らせは、私にとって渡りに船ではあった。しかし、このまま放置していては危ういものがあった」

 それが、歌仙兼定だったのだろう。
 主にもっとも近しい存在であり、彼女を心から家族として愛している存在だ。その愛情が、いつか異性に対するものに変わるのではないかと、彼は危惧したに違いない。

「あのまま、彼女が閉じこもってくれていれば、私もそこまでする必要はなかったのですがね」

 その状況を良いものかのように語る男を見て、鶴丸は彼とは決して相容れないだろうと悟る。自らの殻に閉じこもり、己を責め苛むような日々を、都合のいいという言葉で片付けることなど、鶴丸には到底できない。
 ここに髭切がいなくてよかった、と思う。おそらく、彼ならそれ以上口を開かせずに、男の首を落としていただろうから。

「それなら、厄介なのは歌仙だけじゃないだろう。あそこの本丸の髭切は、藤殿と親密な間柄になっている。あんたの言い分なら、彼も排除するべき対象だったんじゃないのか」
「ええ。ですが、髭切に関して言うならば、私に腹案がありますので。それに、あなたが彼を止めてくれるのでしょう?」

 先ほど請け負ってしまった以上、否やとも言えない。それが、主の穏やかな生活に繋がるなら、他人の恋路の一つや二つ、潰したところで心は痛まない。

「分かっているさ。彼女を二年間、綺麗な状態にしておく。そうすれば、これ以上あんたは彼女に関わらない。そうだな?」
「その通りです。それまでに、仕上げはしますから」
「一応聞いておくが、それは彼女にとって悪いことなのか」
「いいえ」

 男はこの上なく嬉しそうに目を細めて、なにかを愛おしむ顔で告げる。

「とても、名誉で素晴らしいことです」


 ***


 話を終え、鶴丸は庁舎の廊下を歩きながら考える。
 自分が請け負った以上、男との約束は反故にはできない。とはいえ、藤に『刀剣男士を好きになるな』などと忠告したら、きっと何のことやらという顔をされるだろう。
 だから、その素振りが彼女自身から生まれるまでは、放っておけばいい。恋愛というのは病のようなものだ。自然に罹患するまでは、放置しておくに越したことはない。

(それに、去り際にあいつも言っていたからな)

 男は、最後に意味ありげにこう呟いていた。

「彼女は、良くも悪くも彼らからの影響を受けやすすぎる。加えて、彼女はある欠点を抱えてます。もしあなたが約束を違え、彼らと彼女が結ばれるようなことがあった場合、傷つくのは確実に彼女の方ですよ」

 その根幹たる理由を彼は語らなかったが、刀の付喪神と人が結ばれるリスクを、鶴丸も考えないわけではなかった。相性が合わなかったら、大体痛い目を見るのは人の方だ。
 彼女が刀剣男士の手入れをすると、体調を崩す体質である点を踏まえるなら、過度な刀剣男士からの干渉が、本格的に体をおかしくさせてしまうかもしれない。
 男の真意全ては読み切れなかったが、結果的に彼女を守ることになるのではと、鶴丸は思っていた。

「何にせよ、藤殿には、主の良き友達でい続けてもらいたいからな」

 そのためなら、多少彼女が制約を受けることになっても仕方あるまいと、鶴丸は結論づける。
 利己的な考えだという自覚はしている。だが、鶴丸の世界に含まれているのは主である更紗であり、藤ではない。
 藤が穏やかな生活を過ごすことで、ひいては更紗の世界の平穏が約束されるのなら、仮初めの平穏など、いくらでも作り上げてみせよう。
 すっかり日が落ちて、薄暗くなった廊下の中、金の双眸はどんな星々よりも冷めた光を放っていた。
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