本編第二部(完結済み)
ガンッと木刀を打ち合う鋭い音。ハッと漏れ出た吐息は、夏の暑さを閉じ込めたように熱い。
死角から滑り込んでくる鋭利な一太刀を、辛うじて躱す。今は木刀なので当たれば痛いだけで済むが、真剣なら間違いなく腹が裂ける位置だ。
崩れかけた姿勢を戻し、キッと睨み付ける。その先にある双眸は、己と似た色をしていると彼はよく知っている。
さらに向こうでは、小柄な見学者がこちらを見ていた。その姿を認めた瞬間、頭の隅がじりじりと焼けるように痛む。
振り払うように一歩踏み出て攻撃に移るが、振り抜いた木刀は何かの悪い冗談のように、ひどい空振りをしていた。
パンっと鋭い音と共に、手首に軽い痛み。耐えかねて、指から木刀が落ちる。木刀で手を打ち据えられたからだと気がつくと同時に、彼は顔を上げる。
「――そこまで」
自分でも情けない顔をしていると、彼――膝丸は思う。こんな無様な試合を、目の前の彼にだけは見せたくはなかったのに。
その相手――敬愛してやまない兄こと髭切は、冷めた目つきでこちらを見下ろしていた。道着姿の彼は、汗だくの膝丸とは対照的に涼しい顔をしている。
あまりに情けない姿を兄に晒してしまい、失望されてしまったのではと、膝丸は顔を青くする。だが、すぐに髭切はいつも通りの朗らかな微笑を浮かべてみせた。
「どうしたの、弟。少し、太刀筋に乱れがあったようだったけど。疲れているのかな?」
「……いや、別にそのようなことは」
ない、と言い切る。
言い切りたいという願望が幾らか混ざってはいたが、虚勢でもいいから何ともないことを示していたかった。
「お疲れ様、二人とも」
試合が終わったのを察して、主である娘――藤がペタペタと足音を立てて近寄る。
彼女も道着姿ではあるが、単純に着替えているだけであって試合はしていない。聞いた話では、彼女も嘗ては何度か木刀を振るって稽古をつけてもらった経験があるのだという。
じっと藤を見据えていると、はい、とおしぼりのように温められたタオルを渡された。汗を拭うと、スッとした空気が肌に触れて、目が覚めたような心地になる。
どうせなら、もう一試合。今度こそは、無様な姿を見せまい。
そう思って、膝丸が髭切の方に顔を向けた瞬間、
「そうだ、主。久しぶりに僕と手合わせしない?」
「いいの? じゃあお願いしちゃおうかな」
嬉しそうに答える藤と、笑いかける兄の姿。膝丸が出しかけた声は言葉にすらならず、喉の奥に消えていった。
振り返った兄は、邪気のない笑みと共に言う。
「お疲れ様、膝丸。先に朝餉に行っていいよ。お腹、空いたでしょう」
善意からの提案だとは分かっている。なのに、膝丸はすぐに肯定できなかった。
(一緒に――)
一緒に、手合わせをもっとしよう。
一緒に、居間に向かって、共に手を合わせて歌仙の用意した朝餉を食べよう。
そんな言葉は、ただの子供染みた駄々と同じだと、膝丸とて分かっている。三つ四つの幼子ではないのだから、子供染みた不平を口にするものでもないと、承知している。
「兄者、早く来ぬと朝餉が冷めてしまうぞ」
「分かってるよ」
言いながらも、髭切は背を向けて準備運動をしている主の元に向かう。
膝丸と向き合うときの真剣さとは異なる、茶目っ気を覗かせた楽しそうな横顔を見ていられず、膝丸は踵を返して道場をあとにした。
髭切が朝餉に来るまで、膝丸は結局箸をつけることはなかった。
***
主が本丸に戻り、更に自身の考えを打ち明けたあの日。
膝丸は、思う所はあるものの、兄の顔に免じて、自分の気持ちは飲み込むと一旦は決意した。
兄が主を認めるのならば、自分もその姿を受け入れよう。兄が彼女のために刀を捧げたいというのなら、自分はその彼と共に歩むために、同様の行動をしよう、と。
主そのものについては、まだ考えを保留していた。
鬼でありたいという彼女の願いについては、到底理解はできないままだ。だからといって、何か強いられるわけでもないので、結局膝丸はその件については棚上げしていた。
彼がどうしても気にしてしまうのは、主が一時期本丸で暮らすことを放棄していた件だ。兄の負傷時にも手入れに赴かず、頑なに拒絶し続けていた件は、全く以て許しがたい振る舞いだったと今でも思っている。
だが、当の髭切にそのことを相談すると、
「まあ、それはよくないことだったけど、主も反省しているし、事情もあったからねえ。僕がちゃんと叱ったら、その分、彼女は自分を見つめ直しているよ。今は、それでいいんじゃないかな」
そうやって、彼はあっけらかんと笑ってみせた。
手入れをしたら体調を崩すという、彼女が隠していた事情を鑑みれば、確かに情状酌量の余地はあるのかもしれないと、膝丸としても感じてはいた。
数ヶ月間、本丸に不在の挙げ句、全ての仕事を刀剣男士に押しつけていた件について、同様に不満を抱く立場である和泉守に問うと、
「オレはまだ、あいつの全てを認めたわけじゃねえ。だが、あんたも聞いていただろう。これから先どうするかについても、オレは公平な目で見るつもりだ」
誠実な強い意思を秘めた眼差しは、そう簡単に揺るぐものではない。しかし、私情や思い込みで他人を悪いように言う者でもないとは、膝丸にも分かった。
彼らの意見も、理解できる。
主には主なりの事情があり、到底許せない行いをしていた部分についても、どうにか挽回しようと努力してくれている。
だが、どうしても、膝丸は主と接することはおろか、声をかけることにすら、言葉にできない抵抗を覚えていた。
きっと兄を蔑ろにしているように見えた時期があったから、この抵抗はあるのだろうと、膝丸は自分に言い聞かせる。
あの夜以後、彼女は髭切にとって親しい間柄の者だったのだと、否が応でも膝丸は気付かされた。藤が腹を割って全てを打ち明けてから、髭切は彼女の有り様を受け入れ、穏やかな関係を続けている。
本丸全体の空気も和やかになり、和泉守ですらも「主」とは呼ばないものの、様子を窺いながらも藤と少しずつ距離を詰めている。
ただ膝丸だけが、どこか違う空気の中に生きているような気持ちになっていた。
どうして、そんな違和感を覚えてしまうのか。
自分でも答えが見つからない気持ちに囚われ、そこから脱するために、膝丸は自分の対となる存在と共にありたいと、前よりも強く願うようになった。
兄の側にいれば、自分は自分でいられる。
兄と同じ世界にいられる。
そこなら、きっと安心して自分は自分でいられる。
兄は、おっとりとした性格ではあるが、少し他とは一線を画している面がある。だから、他者と上手くすり合わない部分を、自分が支えていかねば。
兄は自分の興味のある分野については、深い洞察力を持っているが、それ以外については、若干いい加減な所がある。だから、自分がその分、知識を得ていかねば。
そうして、彼の側にいれば、己は己でいられる。
二振一具なのだから。
側にいなければ。
だというのに、髭切は。
――部屋は別でいいよね、と言った。
――主と用があるから後で、と言った。
――一人でできるだから大丈夫だよ、と言った。
兄と同じ場所にいるはずなのに、一人だけ違う世界に立ち尽くしているようだ。
そして、髭切は今日も、隣にいない。
***
朝の手合わせが終われば、朝食を挟んで各々が割り振られた仕事に向かう。膝丸は、ここしばらく兄と一緒に畑の手入れをする予定だった。
しかし、朝食を終えていつものように腰を上げかけた膝丸に向かって、髭切は、
「今日、実は離れの片付けを手伝ってほしいって、主に言われていたんだ。後から行くから、先に始めていてくれるかい?」
――また、主か。
喉の奥から浮かび上がる声を沈め、膝丸はぎこちなく頷く。
食器を持って、すたすたと厨に向かう髭切。その後ろに物吉が続き、親しげに何か話をしている。そこに乱が加わり、不意にわっと笑い声が湧き上がった。
少し歩けば追いつく距離。ほんの二、三歩大股で近づいて「兄者」と声をかければ、きっと彼は振り向いてくれる。
その二、三歩の距離が、膝丸には遙か遠く地平線の向こう側にあるように思えた。
***
夏の盛りということもあって、畑に出るとかなり暑い。だが、それでも朝ならまだましな部類だ。以前、真昼間に動き回って、目の前が回ったかと思ったら、倒れかけた経験がある。
本日の割り振られた畑仕事として、膝丸はホース片手に水を撒いていた。冷たい水の粒がいくらか体にかかり、炎天下の辛さを幾らか和らげてくれている。
きらきらと光る水滴。最初こそ源氏の重宝に土いじりをやらせるなどと気色ばんでいたが、乾いた土が色を変えていく様子は、見ていて存外楽しい。
だが、と彼は思ってしまう。
「兄者は、向こうで片付けか」
視線を向けた先では、緑のアーチが見える。その向こう側には小さな家があるのだろう。
かつて主である藤が引きこもっていたあの場所は、彼女が本丸に戻ってから、ほとんど人が入っていない。藤が割った窓ガラスも残したままになっていて、代わりに雨風を凌ぐために適当な板を貼り付けただけとなっていた。到底、放置しておけるものではない。
だから、片付けに行かなくてはいけないというのは分かる。問題は、髭切が膝丸を置いて、主といるということの方だ。
(俺は、また馬鹿なことを考えているな)
以前なら、兄にあんな主は相応しくないと息巻いていたかもしれないが、その言動については髭切自身から窘められている。
主を嫌うのに、僕を理由にするな、と叱られた。
だが、自分が嫌いだと思うなら、そのこと自体は否定しない、とも。
だから、最近までは、膝丸は彼女を嫌う自分自体は認めようとしていた。
(別に、俺は、あれが悪い者だと思ってはいない。ただ、犯した過ちが見過ごせないだけで)
本当に、そうだろうか。
彼女のした行為が許せないことと、髭切と一緒にいるのが気に食わないと感じていることは、別の問題ではないか。
そこまで考えて、膝丸は思考を止める。
「おーい、膝丸! ちょっといいかー!!」
不意に大きな声で話しかけられ、膝丸は声の方に首を捻った。そこには和泉守兼定が立っている。傍らには、彼と常に行動を共にしている堀川国広もいた。
「ちょっと聞きたいことがあるんですー!」
声を張り上げる少年は、膝丸に呼びかけた後、和泉守と何かを話している。対する和泉守も、笑顔で堀川の言葉に応じている。
聞けば、あの二人は同じ主の元にあった刀なのだという。堀川は自らを和泉守の助手と称しており、和泉守もそのあり方を受け入れている。
同じ主――同じ一族の元に伝えられた、二振りの刀である自分たちと、大きく変わらない関係性。なのに、和泉守の隣に堀川はいて、膝丸の隣には誰もない。
胸の奥がずきりと痛んだ気がしたが、その痛みを顔に出さず、膝丸は彼に近づく。
「どうした、和泉守」
「ああ。この辺の草むしりを頼まれたんだが、どれが抜いていい草でどれが抜いちゃまずい草か、膝丸には分かるか?」
「……難しいな」
藤が本丸で過ごすようになり、彼女に活気が戻ったからか、畑仕事は以前より楽になっている。具体的には雑草の伸びが少し遅くなり、代わりに作物の育つ速度が上がっていた。
だが、そんな状況下でも草木が勢いよく成長する季節であることには変わりない。膝丸たちの足元は、緑の絨毯一歩手前くらいには密集した緑があった。
「たしか、丸い葉っぱが苗なんだよ、兼さん」
「でもよ、国広。丸い葉っぱなんて沢山あるぞ?」
和泉守の指摘通り、丸みを帯びた葉っぱは、てんでんばらばら、あちらこちらから顔を出している。その見た目からは、到底どれが雑草でどれが作物なのか、まるで判断もつかない。
「とりあえず、手当たり次第に抜いちまうか?」
「それは、まずいだろう。これは、成長させて料理に使うものだと聞いている」
「あーっ、そうだな。そりゃだめだ」
和泉守は、この本丸で出される三度の食事を、この上なく楽しみにしている。自らメニューを損なうようなことは、彼にはできなかったようだ。
「俺たちで判断できぬのだから、五虎退か物吉に頼んで、指示を仰ごう。彼らなら詳しいだろう」
妥当な提案を膝丸がして、彼らを探そうと本丸へと足を向けたときだった。
「やあやあ、三人とも。揃いも揃って何をしているの?」
のんびりとした穏やかな声が、膝丸の耳に届く。
振り向いた先には、麦わら帽子に薄手のシャツ姿の髭切が立っていた。その姿を目にして、膝丸はやっと納まるべき位置に納まったような安心感を得る。
「兄者か。ちょうど今、雑草と苗の見分けについて悩んでいたところだ」
だが、兄者にも、これは分からないだろうなと、膝丸は思っていた。
兄は侮っているわけではないが、このような畑仕事の雑事について、彼は興味を持たないだろうと膝丸は勝手に判断していたのだ。
しかし、髭切は畑を一瞥すると、
「ああ、それね。こっちのが苗で、こっちが雑草。間違えて抜かないようにね」
さらっと、何てことのないように違いを見分けてみせる。
和泉守や堀川も、膝丸と同じような考えだったのだろう。目を丸くして、髭切を見つめていた。
「どうかしたの?」
「雑草と苗の違いが分かるなんて、髭切さんは凄いですね! 前々から思っていたんですが、髭切さんって畑について、よく知っていますよね。月日が経てば、僕たちも慣れて覚えるんでしょうか?」
「慣れ、というより、主が教えてくれたんだよね。僕も、前に苗を間違えて抜いてしまって、その時に色々とね。懐かしいなあ」
せっかくなので僕にも教えてください、と意気込む堀川。
違いが分かったのならと、早速仕事に取り組む和泉守。
そんな二人を余所に、膝丸はその場に立ち尽くしてしまっていた。頭を重たいものにぶん殴られたような衝撃が襲い、彼は一歩も動けなくなってしまっていた。
(兄者は――)
兄が、自分より畑に詳しくて、それの何がいけないと言うのか。おかしいと言うのか。
何も、不自然なことではない。
大方、また主との関係性を強調されて、嫌な気持ちになっているだけだろう。自分が受け入れられない相手と、敬愛する相手が仲良くしていたら、不愉快になるのも仕方ない。
そのように己を宥めてみたものの、喉の奥がどうにも息苦しかった。
***
その日の夜、部屋に戻った膝丸は、大きな体を丸めるようにして、文机の前に腰を下ろしていた。
どれだけ時間が経っても、畑で感じた息苦しさが消えてくれない。それどころか、髭切が主と話をしているところを見るたびに、益々強くなっているように思う。
兄の髭切が主と仲が良いのは、当然だ。彼は一年前から彼女と共にいたようだし、何やら自分のいない間に特別な思い出も作り上げたらしい。先日は、連れだって外出もしている。それだけ、主に信頼されているのだろう。
「兄者が、悪いわけではない。それなら」
ならば、悪いのは主か。
膝丸が理解できない、鬼でありたいという彼女の考え方。
誰かにそれを分かってもらいたくて、でも分かってもらえないかもしれないと思うと苦しくて、言い出せなかったと彼女は語っていた。
だけど、どうか認めてほしいと彼女は頭を下げた。己の過ちを受け入れ、謝罪し、どうしても譲れない一線があることを明瞭にした。
それが彼女にとってどれだけ負担だったのか、想像はできなくとも、あの夜の様子を思い返せばどんな言葉よりも明らかだ。
その日から、自分が今まで成せなかった分を取り戻すように、彼女は刀剣男士と交流を深め、審神者としての仕事に取り組むようになった。その熱意は、努力は本物だと知っている。
認めよう。
認めなければならない。
「主が悪いわけでも――ない」
彼女個人に思う所はあっても。犯した過ちは消えないのだとしても。
彼女の心は善いものなのだと、認めなければならない。
鬼であったとしても。
彼女は、善き人ではあるのだと。
「なら、俺は何が気に食わない。兄者は、主のことも、俺のことも、どちらにも気を配っている。俺はいったい、何が不満なのだ。何故、こんなにも」
「そうだねえ。僕もそれが聞きたいな」
不意に声が割って入り、膝丸はギョッとする。慌てて振り向くと、いつの間にか髭切が、彼の隣に腰を下ろしていた。
障子を開ける音にすら、全く気がつかなかった。おそらく、自分がそれだけ思索に夢中になっていたのだろう。
「何となくそんな感じはしていたけど、やっぱりだったんだね」
「やっぱり、とは」
「自分で言っているじゃない。弟は何だか、迷子みたいな顔をしている。主と僕が親しくしているのが気に食わないってだけにも、思えなくてね」
「そんな風に、俺は……思っている、節もあるが、だがそれは正しくないと知っている」
それに、彼女が髭切の隣に立つのに相応しくないなどとは、もう私情以外では言い切れないと、膝丸自身が先ほど認めてしまってもいた。
「じゃあ、弟は何が理由で悩んでいるのかな。情けない兄で申し訳ないのだけれど、弟は何を考えているのか、僕には、はっきりとは分からない。弟から言ってもらわないと、僕は弟の心を想像するしかなくなってしまうよ」
口にしなければ、分からない。
あの夜、嫌というほど思い知った言葉である。もっとも、思い知ったのは、おそらく主の方ではあるのだろうが。
だが、何と言えばいい。
髭切と共にいるはずなのに、まるでいないかのような、この疎外感を。
数歩で詰められる距離なのに、遙か彼方にいるように感じてしまうような心の痛みを。
隣にいるのに、隣にいないことが苦しいのだと、どうやって言えばいい。
「兄者が……遠くなったように、感じたのだ」
「遠く?」
ここ最近感じていた痛みをどうにか言葉にしてみたものの、それはあまりに抽象的すぎる表現になっていた。
だが、今はそれが何よりもぴったりと合う。
遠い、という言葉を使った瞬間、空いた隙間を埋めるように、何かがカチリと嵌まったようにすら思えた。
「ああ。俺は、兄者が遠い存在になったように、感じていたのかもしれない」
「ここにいるよ? 僕はここにいて、弟の隣にいるのに、何が遠いんだい」
「そうではない。そうではないのだ」
髭切の手に触れる。触れた感触はあるのに、まるで霞を掴んでいるような気持ちになってしまう。
「兄者は、俺よりも知識もある。知恵もある。その力で、主を支えている。主にとって、良き刀となろうとしている。兄者は、主の隣に立っている」
そこまで言って、そうか、と膝丸は気が付く。
弟として兄を支え、二振一具としてぴったり重なり合うような存在であればと願っていた。兄と共に自分はあるべきで、兄もそう思っているのだろうと、何を聞かずとも信じていた。
なのに、髭切はどんどん膝丸からずれていく。
遠くなっていく。
髭切は、膝丸の隣ではなく、主の隣を選んだ。それは、何も最近に限った話ではない。
ずっと前から、膝丸が顕現したときから、髭切は主の元へと走っていた。一緒にあるものだと顕現した膝丸が願った矢先に、膝丸は一人の世界に置いていかれていた。
そんなことはないと己を偽り、主が悪いのだと思おうとした。髭切だって、自分の隣にあることを望むはずだと、今の状況が不自然なのだと、言い聞かせようとした。
「俺が、兄者を導いて、兄者が俺の足りぬ所を補って――互いにそのようなものだと、俺たちはそうあるべきものだと考えていた。お互いがお互いの、唯一無二の存在になるのだろうと、信じていた」
もはや、顕現に一年の差があるから、という事実だけが理由ではなくなっている。
どれだけ願っても、心が重ならない。ぴったり合わさっていた二人の掌が、徐々にずれている。合わない部分が、どんどん増えていく。
「だが、兄者は俺の導きなど必要としていないようだ。それどころか、兄者は主の良き導き手になろうとしている」
「ねえ、弟」
「何故だ。俺の何が足りない。どうして、兄者は共に俺と歩んでくれないのだ。兄者には俺が必要で、俺には兄者が必要なはずだ。俺たちは、そういうものであるはずなのに」
「――膝丸」
名を呼ばれ、膝丸は俯きかけていた顔を上げる。そこには、いつもの笑顔を浮かべた兄の姿がいた。
「僕は今だって、弟に支えてもらいたいと願っている。膝丸がそこにいてくれないと困ると思っている。弟が顕現したとき、僕がどれほど嬉しかったか。弟のいない日々が、どれだけ虚ろだったか。だから、膝丸は今でも、僕にとって必要な存在だよ」
「……だが、兄者は俺の側にはいたくないと言う。部屋も、別にしてほしいと言っていたではないか」
「側にいたくない、とは言っていないよ。部屋の件についてはその通りだけれど。でも、僕は」
「俺が必要だと言いながら、まるで不要なもののように、何故扱う」
「膝丸、ちゃんと聞いて。それは」
兄の言葉をあれほど待っていたはずなのに、実態と彼の言葉が乖離しているために、膝丸は己の心が酷く乱れていくことに気付かされる。
支えてもらいたいと願っているのなら。
そこにいてくれないと困ると言うのなら。
どうして、自分だけ、こんなにも独りなのか――。
「なぜ、俺を置いていく。なぜ、兄者は俺を独りにする!」
「僕は、君を一人にしたつもりは」
「嘘だ! いつも、いつも、兄者は俺と違う所を見ている! そんなに俺が気に食わないのか! 主を嫌ったからか、それとも兄者が背を預けられないほど未熟だからか!」
「そんな風に思ったこと、僕は一度だって」
「俺たちは、二振で一具だろう! なら、兄者は俺の傍らに常にいるべきではないのか!!」
「――膝丸!!」
ばしりと、頬を打たれたような気がした。
それほどまでに、兄の言葉は強烈だった。
自分でも纏まりきっていない感情を向けたせいで、ついに見離されてしまったのかと狼狽していると、
「――ごめんよ。大きな声を出して、驚かせてしまったね」
叱責を謝罪した髭切は、しかし優しいだけとは到底思えない厳しさを纏った光と共に、膝丸を見つめる。
「僕は、弟が不要だなんて思っていない。未熟だなんて考えたこともない。まだ顕現して日が浅いから、弟はそう感じてしまうのかもしれないけれど、きっとすぐに追いつくって僕は信じている」
でも、と彼は続ける。
「僕は、膝丸と一緒の道だけを歩きたいわけじゃない。もし、膝丸が、髭切の行く道は膝丸の隣しか認められない、というのなら、僕は違う道を選ぶ」
髭切は、きっぱりと告げる。
「だけど、異なる道を歩いていても、僕が必要なときに支えてくれるのは弟であってほしい。弟が背中を守ってくれていると思えば、僕は全力で僕の選んだ道を歩いて行ける」
言葉もなくこちらを見つめている膝丸は、恐らく今言っていることの意味を真に理解はできていないだろうと、髭切は思う。それでも言わねばと、彼は口を動かす。
「代わりに、弟が弟の道を選んで歩き始めたら、僕はその背中を守るよ。だから、膝丸は遠慮無く、自分の正しいと思う方向に走ってほしい」
――それが、僕の望む、僕らのあり方だ。
そのように、髭切は言い切る。そして、膝丸が何か言い出すより先に、
「もちろん、弟が僕と異なる考え方を持つのは自由だ。僕の考え方が間違っていると思うのなら、その考えを僕は否定しない。でもね」
真正面から、琥珀色の瞳を見据える。
髭切と同じ形をして、同じ色合いをして、しかしそれでいて少し違う瞳が、こちらを見返していた。
「弟が自分の考えを僕に押しつけて、僕のあり方をねじ曲げようとするのなら、僕は許さない」
今なら思う。
彼は自分の片腕ではない。半身でもない。まして、己自身などではありえない。
膝丸は膝丸で、髭切(じぶん)は髭切(じぶん)なのだと。
片腕のように呼吸は合い、背中を任せられるとしても――彼と、自分は、異なるものなのだ、と。
「……俺は、隣にいてはならないのか」
「いちゃ駄目なんて言っていないよ。ただ、四六時中一緒にいることだけが、隣にいることではないと、僕は思っているというだけの話」
いたいのなら、いればいい。
だが、それを受け入れるかどうかは、どちらを優先するかどうかは、膝丸ではなく髭切が決めることだと、兄であり惣領である刀は告げる。
「僕は、主を支えたい。それに、歌仙も、五虎退も、次郎も、物吉も、本丸の皆を率いて守れる刀でありたい。弟のためだけに存在する僕にはなれない。僕は、惣領の刀だから」
お前と違う道に立てないと明言され、膝丸は目の前が真っ暗になったような気がした。縋っていた蜘蛛の糸のように細い願いすら、断ち切られてしまったような気持ちだった。
「僕が守りたい者の中にはもちろん弟もいるし、贔屓をしていいのなら、僕は弟を一番大事にするだろう。僕ができるのは、そこまでだよ」
「……分かった」
兄が正しいと思ったから、了承の言葉を吐いたのではない。
ただ、髭切には、どうあっても変えられない考え方があるのだと、気付かされてしまった。
同時に、兄の考えを頭ごなしに否定し、言いなりにさせたいわけではないのだと、己の中で答えを見つけてしまった。自分にとって都合のいい兄が欲しい、などという考え方は愚かなことだと分かるぐらいは、膝丸も良識を備えている。
「いや、本当は……とっくに、分かっていたのかもしれない。兄者は俺と違うもので、違う選択をしているのだ、と」
同じのままではいられない。鏡にうつしたように、ぴったりと重なってばかりはいられない。
似ているようで違う、二振りの刀。
――そう、違うのだ。
「……そうして、俺はまた、独りで居続けるのか」
ただ、隠しきれない想いの欠片だけが、ぽつりと零れていった。あてこすりでもない、剥き出しの感情の塊だ。
それでも、髭切は、聞き逃さなかった。
「お前の進む道には、僕しか入れてあげないのかい。僕は、お前が僕以外の者を隣に置いても、その手を引いて歩き、導いたとしても、否定しないよ」
「そんな者、いるわけがない」
「そうやって決めつけることで、弟は自分で自分を独りにしているように、僕には見えるね」
髭切は膝丸の両頬を挟み、焦燥と不安でゆらゆらと揺れている琥珀を正面に見据え、語りかける。
「本丸の誰かでもいいし、本丸にいない誰かでもいい。お前が守りたいと思う者、導きたいと願う者のために道が別たれたとしても、僕は否定しない。お前が、僕と主の関係に無理に割って入ろうとしなかったように」
強引に介入して、己を尊重してほしいと膝丸は主張しなかった。それが愚かな真似だと、膝丸が承知していたからだ。
そして髭切は、己の感情を外で破裂させなかった膝丸の我慢強さも、認めていた。
「同じではいられないかもしれないけれど、それでも弟のことを僕は大事に思う。できれば、僕も弟に大事にされたい。それが、今の僕にできる回答だよ」
恐らく、膝丸にとっては満足できない回答なのだろうと、髭切は承知している。だが、だからといって自分を曲げては、主が犯した過ちを繰り返すようなものだ。
「……ありがとう、兄者。今は、それだけでも、十分だ」
決して納得はしていないのだろうが、当面の安心を得たのだろう。膝丸は髭切の手をそっと退け――笑ってみせた。
その笑顔は、驚くほど嘗ての主によく似ていた。
このまま、彼を一人にしておいても、きっと何も変わらないだろう。翌朝、いつものように部屋まで髭切を起こしに来て、何ごともなかったかのように笑い続けるに違いない。
その程度の感情の制御を、膝丸は容易くこなしてしまう。そうして、いつかそれが当たり前になっていく。先だっての主のように。
(だからといって、僕にできることはないんだよね)
膝丸の本心は聞けた。
だが、それは到底、髭切が納得できないものだった。主のときとは、訳が違う。
あのときは、彼女が無意識に自分で自分を傷つけていた。だから、止める必要があった。主としての立場から解放して、隠していた本心だけを剥き出しにさせた。
しかし、弟の剥き出しの願いは、髭切のあり方を縛るものだ。その願いを全て聞いていたら、髭切は『膝丸にとっての兄』以外の立場を得られなくなる。
「ねえ、弟。もう夜も遅いし、今日は一緒に寝てもいいかな」
故に、髭切は別の選択をする。
千々に乱れた、彼の心を宥める手段は持ち合わせていなくても、側にいることぐらいならできる。彼は主のように、鍵をかけて閉じこもってしまったのではないのだから。
驚いたように目を見開く膝丸。彼としては、兄に叱られてしまった以上、自分とは距離を置きたいのではないかと思っていたからだ。
「それなら……布団の準備をする。少し、待っていてくれ」
ゴソゴソと押し入れを開けて、予備の布団を取り出す膝丸。体を動かしたことで、多少気が紛れたのか、横になる頃にはいくらかの落ち着きを彼も取り戻していた。
「せっかくだし、今日は、寝るまで弟の話を聞かせてもらおうかな。弟から見た、僕や主や……本丸の話を」
「……あまり、楽しいものではないと思うが」
膝丸は布団の中でもごもごと返事をする。泣き言のようなことを言った後に、兄の話をしてしまえば、更にみっともない言葉を口走ってしまうような気がした。
「それでも、僕は弟の話が聞きたいな」
弟の願う生き方に応えられないのなら、せめて彼の目で見た世界に少しだけでも触れていたい。
そして、いつか、弟も髭切以外の何かを得る日が来るのだろう。本丸で暮らし、主や主以外の人間や、共に過ごす刀剣男士との日々の中で、頑なになった思いも解けていくに違いない。
髭切は、膝丸が自分と対等に並び立つ瞬間が来るだろうことを、信じて疑わなかった。自分の片割れであるからこそ、絶対の信頼を寄せてもいいと思えた。
「……なら、そうだな。兄者に初めて会った日のことだが」
顕現した直後の記憶を、少しずつ紐解きながら、膝丸は語る。ぼんやりとした室内灯に照らされた兄の瞳を、なるべく見ないようにして、膝丸はぽつぽつと言葉を紡ぐ。
こうして、少しでもできてしまった隙間に寄り添ってくれる兄の優しさを感じつつも、膝丸は思う。
兄と弟の間に生まれた隙間は、もう埋まることはないのだろう――と。
死角から滑り込んでくる鋭利な一太刀を、辛うじて躱す。今は木刀なので当たれば痛いだけで済むが、真剣なら間違いなく腹が裂ける位置だ。
崩れかけた姿勢を戻し、キッと睨み付ける。その先にある双眸は、己と似た色をしていると彼はよく知っている。
さらに向こうでは、小柄な見学者がこちらを見ていた。その姿を認めた瞬間、頭の隅がじりじりと焼けるように痛む。
振り払うように一歩踏み出て攻撃に移るが、振り抜いた木刀は何かの悪い冗談のように、ひどい空振りをしていた。
パンっと鋭い音と共に、手首に軽い痛み。耐えかねて、指から木刀が落ちる。木刀で手を打ち据えられたからだと気がつくと同時に、彼は顔を上げる。
「――そこまで」
自分でも情けない顔をしていると、彼――膝丸は思う。こんな無様な試合を、目の前の彼にだけは見せたくはなかったのに。
その相手――敬愛してやまない兄こと髭切は、冷めた目つきでこちらを見下ろしていた。道着姿の彼は、汗だくの膝丸とは対照的に涼しい顔をしている。
あまりに情けない姿を兄に晒してしまい、失望されてしまったのではと、膝丸は顔を青くする。だが、すぐに髭切はいつも通りの朗らかな微笑を浮かべてみせた。
「どうしたの、弟。少し、太刀筋に乱れがあったようだったけど。疲れているのかな?」
「……いや、別にそのようなことは」
ない、と言い切る。
言い切りたいという願望が幾らか混ざってはいたが、虚勢でもいいから何ともないことを示していたかった。
「お疲れ様、二人とも」
試合が終わったのを察して、主である娘――藤がペタペタと足音を立てて近寄る。
彼女も道着姿ではあるが、単純に着替えているだけであって試合はしていない。聞いた話では、彼女も嘗ては何度か木刀を振るって稽古をつけてもらった経験があるのだという。
じっと藤を見据えていると、はい、とおしぼりのように温められたタオルを渡された。汗を拭うと、スッとした空気が肌に触れて、目が覚めたような心地になる。
どうせなら、もう一試合。今度こそは、無様な姿を見せまい。
そう思って、膝丸が髭切の方に顔を向けた瞬間、
「そうだ、主。久しぶりに僕と手合わせしない?」
「いいの? じゃあお願いしちゃおうかな」
嬉しそうに答える藤と、笑いかける兄の姿。膝丸が出しかけた声は言葉にすらならず、喉の奥に消えていった。
振り返った兄は、邪気のない笑みと共に言う。
「お疲れ様、膝丸。先に朝餉に行っていいよ。お腹、空いたでしょう」
善意からの提案だとは分かっている。なのに、膝丸はすぐに肯定できなかった。
(一緒に――)
一緒に、手合わせをもっとしよう。
一緒に、居間に向かって、共に手を合わせて歌仙の用意した朝餉を食べよう。
そんな言葉は、ただの子供染みた駄々と同じだと、膝丸とて分かっている。三つ四つの幼子ではないのだから、子供染みた不平を口にするものでもないと、承知している。
「兄者、早く来ぬと朝餉が冷めてしまうぞ」
「分かってるよ」
言いながらも、髭切は背を向けて準備運動をしている主の元に向かう。
膝丸と向き合うときの真剣さとは異なる、茶目っ気を覗かせた楽しそうな横顔を見ていられず、膝丸は踵を返して道場をあとにした。
髭切が朝餉に来るまで、膝丸は結局箸をつけることはなかった。
***
主が本丸に戻り、更に自身の考えを打ち明けたあの日。
膝丸は、思う所はあるものの、兄の顔に免じて、自分の気持ちは飲み込むと一旦は決意した。
兄が主を認めるのならば、自分もその姿を受け入れよう。兄が彼女のために刀を捧げたいというのなら、自分はその彼と共に歩むために、同様の行動をしよう、と。
主そのものについては、まだ考えを保留していた。
鬼でありたいという彼女の願いについては、到底理解はできないままだ。だからといって、何か強いられるわけでもないので、結局膝丸はその件については棚上げしていた。
彼がどうしても気にしてしまうのは、主が一時期本丸で暮らすことを放棄していた件だ。兄の負傷時にも手入れに赴かず、頑なに拒絶し続けていた件は、全く以て許しがたい振る舞いだったと今でも思っている。
だが、当の髭切にそのことを相談すると、
「まあ、それはよくないことだったけど、主も反省しているし、事情もあったからねえ。僕がちゃんと叱ったら、その分、彼女は自分を見つめ直しているよ。今は、それでいいんじゃないかな」
そうやって、彼はあっけらかんと笑ってみせた。
手入れをしたら体調を崩すという、彼女が隠していた事情を鑑みれば、確かに情状酌量の余地はあるのかもしれないと、膝丸としても感じてはいた。
数ヶ月間、本丸に不在の挙げ句、全ての仕事を刀剣男士に押しつけていた件について、同様に不満を抱く立場である和泉守に問うと、
「オレはまだ、あいつの全てを認めたわけじゃねえ。だが、あんたも聞いていただろう。これから先どうするかについても、オレは公平な目で見るつもりだ」
誠実な強い意思を秘めた眼差しは、そう簡単に揺るぐものではない。しかし、私情や思い込みで他人を悪いように言う者でもないとは、膝丸にも分かった。
彼らの意見も、理解できる。
主には主なりの事情があり、到底許せない行いをしていた部分についても、どうにか挽回しようと努力してくれている。
だが、どうしても、膝丸は主と接することはおろか、声をかけることにすら、言葉にできない抵抗を覚えていた。
きっと兄を蔑ろにしているように見えた時期があったから、この抵抗はあるのだろうと、膝丸は自分に言い聞かせる。
あの夜以後、彼女は髭切にとって親しい間柄の者だったのだと、否が応でも膝丸は気付かされた。藤が腹を割って全てを打ち明けてから、髭切は彼女の有り様を受け入れ、穏やかな関係を続けている。
本丸全体の空気も和やかになり、和泉守ですらも「主」とは呼ばないものの、様子を窺いながらも藤と少しずつ距離を詰めている。
ただ膝丸だけが、どこか違う空気の中に生きているような気持ちになっていた。
どうして、そんな違和感を覚えてしまうのか。
自分でも答えが見つからない気持ちに囚われ、そこから脱するために、膝丸は自分の対となる存在と共にありたいと、前よりも強く願うようになった。
兄の側にいれば、自分は自分でいられる。
兄と同じ世界にいられる。
そこなら、きっと安心して自分は自分でいられる。
兄は、おっとりとした性格ではあるが、少し他とは一線を画している面がある。だから、他者と上手くすり合わない部分を、自分が支えていかねば。
兄は自分の興味のある分野については、深い洞察力を持っているが、それ以外については、若干いい加減な所がある。だから、自分がその分、知識を得ていかねば。
そうして、彼の側にいれば、己は己でいられる。
二振一具なのだから。
側にいなければ。
だというのに、髭切は。
――部屋は別でいいよね、と言った。
――主と用があるから後で、と言った。
――一人でできるだから大丈夫だよ、と言った。
兄と同じ場所にいるはずなのに、一人だけ違う世界に立ち尽くしているようだ。
そして、髭切は今日も、隣にいない。
***
朝の手合わせが終われば、朝食を挟んで各々が割り振られた仕事に向かう。膝丸は、ここしばらく兄と一緒に畑の手入れをする予定だった。
しかし、朝食を終えていつものように腰を上げかけた膝丸に向かって、髭切は、
「今日、実は離れの片付けを手伝ってほしいって、主に言われていたんだ。後から行くから、先に始めていてくれるかい?」
――また、主か。
喉の奥から浮かび上がる声を沈め、膝丸はぎこちなく頷く。
食器を持って、すたすたと厨に向かう髭切。その後ろに物吉が続き、親しげに何か話をしている。そこに乱が加わり、不意にわっと笑い声が湧き上がった。
少し歩けば追いつく距離。ほんの二、三歩大股で近づいて「兄者」と声をかければ、きっと彼は振り向いてくれる。
その二、三歩の距離が、膝丸には遙か遠く地平線の向こう側にあるように思えた。
***
夏の盛りということもあって、畑に出るとかなり暑い。だが、それでも朝ならまだましな部類だ。以前、真昼間に動き回って、目の前が回ったかと思ったら、倒れかけた経験がある。
本日の割り振られた畑仕事として、膝丸はホース片手に水を撒いていた。冷たい水の粒がいくらか体にかかり、炎天下の辛さを幾らか和らげてくれている。
きらきらと光る水滴。最初こそ源氏の重宝に土いじりをやらせるなどと気色ばんでいたが、乾いた土が色を変えていく様子は、見ていて存外楽しい。
だが、と彼は思ってしまう。
「兄者は、向こうで片付けか」
視線を向けた先では、緑のアーチが見える。その向こう側には小さな家があるのだろう。
かつて主である藤が引きこもっていたあの場所は、彼女が本丸に戻ってから、ほとんど人が入っていない。藤が割った窓ガラスも残したままになっていて、代わりに雨風を凌ぐために適当な板を貼り付けただけとなっていた。到底、放置しておけるものではない。
だから、片付けに行かなくてはいけないというのは分かる。問題は、髭切が膝丸を置いて、主といるということの方だ。
(俺は、また馬鹿なことを考えているな)
以前なら、兄にあんな主は相応しくないと息巻いていたかもしれないが、その言動については髭切自身から窘められている。
主を嫌うのに、僕を理由にするな、と叱られた。
だが、自分が嫌いだと思うなら、そのこと自体は否定しない、とも。
だから、最近までは、膝丸は彼女を嫌う自分自体は認めようとしていた。
(別に、俺は、あれが悪い者だと思ってはいない。ただ、犯した過ちが見過ごせないだけで)
本当に、そうだろうか。
彼女のした行為が許せないことと、髭切と一緒にいるのが気に食わないと感じていることは、別の問題ではないか。
そこまで考えて、膝丸は思考を止める。
「おーい、膝丸! ちょっといいかー!!」
不意に大きな声で話しかけられ、膝丸は声の方に首を捻った。そこには和泉守兼定が立っている。傍らには、彼と常に行動を共にしている堀川国広もいた。
「ちょっと聞きたいことがあるんですー!」
声を張り上げる少年は、膝丸に呼びかけた後、和泉守と何かを話している。対する和泉守も、笑顔で堀川の言葉に応じている。
聞けば、あの二人は同じ主の元にあった刀なのだという。堀川は自らを和泉守の助手と称しており、和泉守もそのあり方を受け入れている。
同じ主――同じ一族の元に伝えられた、二振りの刀である自分たちと、大きく変わらない関係性。なのに、和泉守の隣に堀川はいて、膝丸の隣には誰もない。
胸の奥がずきりと痛んだ気がしたが、その痛みを顔に出さず、膝丸は彼に近づく。
「どうした、和泉守」
「ああ。この辺の草むしりを頼まれたんだが、どれが抜いていい草でどれが抜いちゃまずい草か、膝丸には分かるか?」
「……難しいな」
藤が本丸で過ごすようになり、彼女に活気が戻ったからか、畑仕事は以前より楽になっている。具体的には雑草の伸びが少し遅くなり、代わりに作物の育つ速度が上がっていた。
だが、そんな状況下でも草木が勢いよく成長する季節であることには変わりない。膝丸たちの足元は、緑の絨毯一歩手前くらいには密集した緑があった。
「たしか、丸い葉っぱが苗なんだよ、兼さん」
「でもよ、国広。丸い葉っぱなんて沢山あるぞ?」
和泉守の指摘通り、丸みを帯びた葉っぱは、てんでんばらばら、あちらこちらから顔を出している。その見た目からは、到底どれが雑草でどれが作物なのか、まるで判断もつかない。
「とりあえず、手当たり次第に抜いちまうか?」
「それは、まずいだろう。これは、成長させて料理に使うものだと聞いている」
「あーっ、そうだな。そりゃだめだ」
和泉守は、この本丸で出される三度の食事を、この上なく楽しみにしている。自らメニューを損なうようなことは、彼にはできなかったようだ。
「俺たちで判断できぬのだから、五虎退か物吉に頼んで、指示を仰ごう。彼らなら詳しいだろう」
妥当な提案を膝丸がして、彼らを探そうと本丸へと足を向けたときだった。
「やあやあ、三人とも。揃いも揃って何をしているの?」
のんびりとした穏やかな声が、膝丸の耳に届く。
振り向いた先には、麦わら帽子に薄手のシャツ姿の髭切が立っていた。その姿を目にして、膝丸はやっと納まるべき位置に納まったような安心感を得る。
「兄者か。ちょうど今、雑草と苗の見分けについて悩んでいたところだ」
だが、兄者にも、これは分からないだろうなと、膝丸は思っていた。
兄は侮っているわけではないが、このような畑仕事の雑事について、彼は興味を持たないだろうと膝丸は勝手に判断していたのだ。
しかし、髭切は畑を一瞥すると、
「ああ、それね。こっちのが苗で、こっちが雑草。間違えて抜かないようにね」
さらっと、何てことのないように違いを見分けてみせる。
和泉守や堀川も、膝丸と同じような考えだったのだろう。目を丸くして、髭切を見つめていた。
「どうかしたの?」
「雑草と苗の違いが分かるなんて、髭切さんは凄いですね! 前々から思っていたんですが、髭切さんって畑について、よく知っていますよね。月日が経てば、僕たちも慣れて覚えるんでしょうか?」
「慣れ、というより、主が教えてくれたんだよね。僕も、前に苗を間違えて抜いてしまって、その時に色々とね。懐かしいなあ」
せっかくなので僕にも教えてください、と意気込む堀川。
違いが分かったのならと、早速仕事に取り組む和泉守。
そんな二人を余所に、膝丸はその場に立ち尽くしてしまっていた。頭を重たいものにぶん殴られたような衝撃が襲い、彼は一歩も動けなくなってしまっていた。
(兄者は――)
兄が、自分より畑に詳しくて、それの何がいけないと言うのか。おかしいと言うのか。
何も、不自然なことではない。
大方、また主との関係性を強調されて、嫌な気持ちになっているだけだろう。自分が受け入れられない相手と、敬愛する相手が仲良くしていたら、不愉快になるのも仕方ない。
そのように己を宥めてみたものの、喉の奥がどうにも息苦しかった。
***
その日の夜、部屋に戻った膝丸は、大きな体を丸めるようにして、文机の前に腰を下ろしていた。
どれだけ時間が経っても、畑で感じた息苦しさが消えてくれない。それどころか、髭切が主と話をしているところを見るたびに、益々強くなっているように思う。
兄の髭切が主と仲が良いのは、当然だ。彼は一年前から彼女と共にいたようだし、何やら自分のいない間に特別な思い出も作り上げたらしい。先日は、連れだって外出もしている。それだけ、主に信頼されているのだろう。
「兄者が、悪いわけではない。それなら」
ならば、悪いのは主か。
膝丸が理解できない、鬼でありたいという彼女の考え方。
誰かにそれを分かってもらいたくて、でも分かってもらえないかもしれないと思うと苦しくて、言い出せなかったと彼女は語っていた。
だけど、どうか認めてほしいと彼女は頭を下げた。己の過ちを受け入れ、謝罪し、どうしても譲れない一線があることを明瞭にした。
それが彼女にとってどれだけ負担だったのか、想像はできなくとも、あの夜の様子を思い返せばどんな言葉よりも明らかだ。
その日から、自分が今まで成せなかった分を取り戻すように、彼女は刀剣男士と交流を深め、審神者としての仕事に取り組むようになった。その熱意は、努力は本物だと知っている。
認めよう。
認めなければならない。
「主が悪いわけでも――ない」
彼女個人に思う所はあっても。犯した過ちは消えないのだとしても。
彼女の心は善いものなのだと、認めなければならない。
鬼であったとしても。
彼女は、善き人ではあるのだと。
「なら、俺は何が気に食わない。兄者は、主のことも、俺のことも、どちらにも気を配っている。俺はいったい、何が不満なのだ。何故、こんなにも」
「そうだねえ。僕もそれが聞きたいな」
不意に声が割って入り、膝丸はギョッとする。慌てて振り向くと、いつの間にか髭切が、彼の隣に腰を下ろしていた。
障子を開ける音にすら、全く気がつかなかった。おそらく、自分がそれだけ思索に夢中になっていたのだろう。
「何となくそんな感じはしていたけど、やっぱりだったんだね」
「やっぱり、とは」
「自分で言っているじゃない。弟は何だか、迷子みたいな顔をしている。主と僕が親しくしているのが気に食わないってだけにも、思えなくてね」
「そんな風に、俺は……思っている、節もあるが、だがそれは正しくないと知っている」
それに、彼女が髭切の隣に立つのに相応しくないなどとは、もう私情以外では言い切れないと、膝丸自身が先ほど認めてしまってもいた。
「じゃあ、弟は何が理由で悩んでいるのかな。情けない兄で申し訳ないのだけれど、弟は何を考えているのか、僕には、はっきりとは分からない。弟から言ってもらわないと、僕は弟の心を想像するしかなくなってしまうよ」
口にしなければ、分からない。
あの夜、嫌というほど思い知った言葉である。もっとも、思い知ったのは、おそらく主の方ではあるのだろうが。
だが、何と言えばいい。
髭切と共にいるはずなのに、まるでいないかのような、この疎外感を。
数歩で詰められる距離なのに、遙か彼方にいるように感じてしまうような心の痛みを。
隣にいるのに、隣にいないことが苦しいのだと、どうやって言えばいい。
「兄者が……遠くなったように、感じたのだ」
「遠く?」
ここ最近感じていた痛みをどうにか言葉にしてみたものの、それはあまりに抽象的すぎる表現になっていた。
だが、今はそれが何よりもぴったりと合う。
遠い、という言葉を使った瞬間、空いた隙間を埋めるように、何かがカチリと嵌まったようにすら思えた。
「ああ。俺は、兄者が遠い存在になったように、感じていたのかもしれない」
「ここにいるよ? 僕はここにいて、弟の隣にいるのに、何が遠いんだい」
「そうではない。そうではないのだ」
髭切の手に触れる。触れた感触はあるのに、まるで霞を掴んでいるような気持ちになってしまう。
「兄者は、俺よりも知識もある。知恵もある。その力で、主を支えている。主にとって、良き刀となろうとしている。兄者は、主の隣に立っている」
そこまで言って、そうか、と膝丸は気が付く。
弟として兄を支え、二振一具としてぴったり重なり合うような存在であればと願っていた。兄と共に自分はあるべきで、兄もそう思っているのだろうと、何を聞かずとも信じていた。
なのに、髭切はどんどん膝丸からずれていく。
遠くなっていく。
髭切は、膝丸の隣ではなく、主の隣を選んだ。それは、何も最近に限った話ではない。
ずっと前から、膝丸が顕現したときから、髭切は主の元へと走っていた。一緒にあるものだと顕現した膝丸が願った矢先に、膝丸は一人の世界に置いていかれていた。
そんなことはないと己を偽り、主が悪いのだと思おうとした。髭切だって、自分の隣にあることを望むはずだと、今の状況が不自然なのだと、言い聞かせようとした。
「俺が、兄者を導いて、兄者が俺の足りぬ所を補って――互いにそのようなものだと、俺たちはそうあるべきものだと考えていた。お互いがお互いの、唯一無二の存在になるのだろうと、信じていた」
もはや、顕現に一年の差があるから、という事実だけが理由ではなくなっている。
どれだけ願っても、心が重ならない。ぴったり合わさっていた二人の掌が、徐々にずれている。合わない部分が、どんどん増えていく。
「だが、兄者は俺の導きなど必要としていないようだ。それどころか、兄者は主の良き導き手になろうとしている」
「ねえ、弟」
「何故だ。俺の何が足りない。どうして、兄者は共に俺と歩んでくれないのだ。兄者には俺が必要で、俺には兄者が必要なはずだ。俺たちは、そういうものであるはずなのに」
「――膝丸」
名を呼ばれ、膝丸は俯きかけていた顔を上げる。そこには、いつもの笑顔を浮かべた兄の姿がいた。
「僕は今だって、弟に支えてもらいたいと願っている。膝丸がそこにいてくれないと困ると思っている。弟が顕現したとき、僕がどれほど嬉しかったか。弟のいない日々が、どれだけ虚ろだったか。だから、膝丸は今でも、僕にとって必要な存在だよ」
「……だが、兄者は俺の側にはいたくないと言う。部屋も、別にしてほしいと言っていたではないか」
「側にいたくない、とは言っていないよ。部屋の件についてはその通りだけれど。でも、僕は」
「俺が必要だと言いながら、まるで不要なもののように、何故扱う」
「膝丸、ちゃんと聞いて。それは」
兄の言葉をあれほど待っていたはずなのに、実態と彼の言葉が乖離しているために、膝丸は己の心が酷く乱れていくことに気付かされる。
支えてもらいたいと願っているのなら。
そこにいてくれないと困ると言うのなら。
どうして、自分だけ、こんなにも独りなのか――。
「なぜ、俺を置いていく。なぜ、兄者は俺を独りにする!」
「僕は、君を一人にしたつもりは」
「嘘だ! いつも、いつも、兄者は俺と違う所を見ている! そんなに俺が気に食わないのか! 主を嫌ったからか、それとも兄者が背を預けられないほど未熟だからか!」
「そんな風に思ったこと、僕は一度だって」
「俺たちは、二振で一具だろう! なら、兄者は俺の傍らに常にいるべきではないのか!!」
「――膝丸!!」
ばしりと、頬を打たれたような気がした。
それほどまでに、兄の言葉は強烈だった。
自分でも纏まりきっていない感情を向けたせいで、ついに見離されてしまったのかと狼狽していると、
「――ごめんよ。大きな声を出して、驚かせてしまったね」
叱責を謝罪した髭切は、しかし優しいだけとは到底思えない厳しさを纏った光と共に、膝丸を見つめる。
「僕は、弟が不要だなんて思っていない。未熟だなんて考えたこともない。まだ顕現して日が浅いから、弟はそう感じてしまうのかもしれないけれど、きっとすぐに追いつくって僕は信じている」
でも、と彼は続ける。
「僕は、膝丸と一緒の道だけを歩きたいわけじゃない。もし、膝丸が、髭切の行く道は膝丸の隣しか認められない、というのなら、僕は違う道を選ぶ」
髭切は、きっぱりと告げる。
「だけど、異なる道を歩いていても、僕が必要なときに支えてくれるのは弟であってほしい。弟が背中を守ってくれていると思えば、僕は全力で僕の選んだ道を歩いて行ける」
言葉もなくこちらを見つめている膝丸は、恐らく今言っていることの意味を真に理解はできていないだろうと、髭切は思う。それでも言わねばと、彼は口を動かす。
「代わりに、弟が弟の道を選んで歩き始めたら、僕はその背中を守るよ。だから、膝丸は遠慮無く、自分の正しいと思う方向に走ってほしい」
――それが、僕の望む、僕らのあり方だ。
そのように、髭切は言い切る。そして、膝丸が何か言い出すより先に、
「もちろん、弟が僕と異なる考え方を持つのは自由だ。僕の考え方が間違っていると思うのなら、その考えを僕は否定しない。でもね」
真正面から、琥珀色の瞳を見据える。
髭切と同じ形をして、同じ色合いをして、しかしそれでいて少し違う瞳が、こちらを見返していた。
「弟が自分の考えを僕に押しつけて、僕のあり方をねじ曲げようとするのなら、僕は許さない」
今なら思う。
彼は自分の片腕ではない。半身でもない。まして、己自身などではありえない。
膝丸は膝丸で、髭切(じぶん)は髭切(じぶん)なのだと。
片腕のように呼吸は合い、背中を任せられるとしても――彼と、自分は、異なるものなのだ、と。
「……俺は、隣にいてはならないのか」
「いちゃ駄目なんて言っていないよ。ただ、四六時中一緒にいることだけが、隣にいることではないと、僕は思っているというだけの話」
いたいのなら、いればいい。
だが、それを受け入れるかどうかは、どちらを優先するかどうかは、膝丸ではなく髭切が決めることだと、兄であり惣領である刀は告げる。
「僕は、主を支えたい。それに、歌仙も、五虎退も、次郎も、物吉も、本丸の皆を率いて守れる刀でありたい。弟のためだけに存在する僕にはなれない。僕は、惣領の刀だから」
お前と違う道に立てないと明言され、膝丸は目の前が真っ暗になったような気がした。縋っていた蜘蛛の糸のように細い願いすら、断ち切られてしまったような気持ちだった。
「僕が守りたい者の中にはもちろん弟もいるし、贔屓をしていいのなら、僕は弟を一番大事にするだろう。僕ができるのは、そこまでだよ」
「……分かった」
兄が正しいと思ったから、了承の言葉を吐いたのではない。
ただ、髭切には、どうあっても変えられない考え方があるのだと、気付かされてしまった。
同時に、兄の考えを頭ごなしに否定し、言いなりにさせたいわけではないのだと、己の中で答えを見つけてしまった。自分にとって都合のいい兄が欲しい、などという考え方は愚かなことだと分かるぐらいは、膝丸も良識を備えている。
「いや、本当は……とっくに、分かっていたのかもしれない。兄者は俺と違うもので、違う選択をしているのだ、と」
同じのままではいられない。鏡にうつしたように、ぴったりと重なってばかりはいられない。
似ているようで違う、二振りの刀。
――そう、違うのだ。
「……そうして、俺はまた、独りで居続けるのか」
ただ、隠しきれない想いの欠片だけが、ぽつりと零れていった。あてこすりでもない、剥き出しの感情の塊だ。
それでも、髭切は、聞き逃さなかった。
「お前の進む道には、僕しか入れてあげないのかい。僕は、お前が僕以外の者を隣に置いても、その手を引いて歩き、導いたとしても、否定しないよ」
「そんな者、いるわけがない」
「そうやって決めつけることで、弟は自分で自分を独りにしているように、僕には見えるね」
髭切は膝丸の両頬を挟み、焦燥と不安でゆらゆらと揺れている琥珀を正面に見据え、語りかける。
「本丸の誰かでもいいし、本丸にいない誰かでもいい。お前が守りたいと思う者、導きたいと願う者のために道が別たれたとしても、僕は否定しない。お前が、僕と主の関係に無理に割って入ろうとしなかったように」
強引に介入して、己を尊重してほしいと膝丸は主張しなかった。それが愚かな真似だと、膝丸が承知していたからだ。
そして髭切は、己の感情を外で破裂させなかった膝丸の我慢強さも、認めていた。
「同じではいられないかもしれないけれど、それでも弟のことを僕は大事に思う。できれば、僕も弟に大事にされたい。それが、今の僕にできる回答だよ」
恐らく、膝丸にとっては満足できない回答なのだろうと、髭切は承知している。だが、だからといって自分を曲げては、主が犯した過ちを繰り返すようなものだ。
「……ありがとう、兄者。今は、それだけでも、十分だ」
決して納得はしていないのだろうが、当面の安心を得たのだろう。膝丸は髭切の手をそっと退け――笑ってみせた。
その笑顔は、驚くほど嘗ての主によく似ていた。
このまま、彼を一人にしておいても、きっと何も変わらないだろう。翌朝、いつものように部屋まで髭切を起こしに来て、何ごともなかったかのように笑い続けるに違いない。
その程度の感情の制御を、膝丸は容易くこなしてしまう。そうして、いつかそれが当たり前になっていく。先だっての主のように。
(だからといって、僕にできることはないんだよね)
膝丸の本心は聞けた。
だが、それは到底、髭切が納得できないものだった。主のときとは、訳が違う。
あのときは、彼女が無意識に自分で自分を傷つけていた。だから、止める必要があった。主としての立場から解放して、隠していた本心だけを剥き出しにさせた。
しかし、弟の剥き出しの願いは、髭切のあり方を縛るものだ。その願いを全て聞いていたら、髭切は『膝丸にとっての兄』以外の立場を得られなくなる。
「ねえ、弟。もう夜も遅いし、今日は一緒に寝てもいいかな」
故に、髭切は別の選択をする。
千々に乱れた、彼の心を宥める手段は持ち合わせていなくても、側にいることぐらいならできる。彼は主のように、鍵をかけて閉じこもってしまったのではないのだから。
驚いたように目を見開く膝丸。彼としては、兄に叱られてしまった以上、自分とは距離を置きたいのではないかと思っていたからだ。
「それなら……布団の準備をする。少し、待っていてくれ」
ゴソゴソと押し入れを開けて、予備の布団を取り出す膝丸。体を動かしたことで、多少気が紛れたのか、横になる頃にはいくらかの落ち着きを彼も取り戻していた。
「せっかくだし、今日は、寝るまで弟の話を聞かせてもらおうかな。弟から見た、僕や主や……本丸の話を」
「……あまり、楽しいものではないと思うが」
膝丸は布団の中でもごもごと返事をする。泣き言のようなことを言った後に、兄の話をしてしまえば、更にみっともない言葉を口走ってしまうような気がした。
「それでも、僕は弟の話が聞きたいな」
弟の願う生き方に応えられないのなら、せめて彼の目で見た世界に少しだけでも触れていたい。
そして、いつか、弟も髭切以外の何かを得る日が来るのだろう。本丸で暮らし、主や主以外の人間や、共に過ごす刀剣男士との日々の中で、頑なになった思いも解けていくに違いない。
髭切は、膝丸が自分と対等に並び立つ瞬間が来るだろうことを、信じて疑わなかった。自分の片割れであるからこそ、絶対の信頼を寄せてもいいと思えた。
「……なら、そうだな。兄者に初めて会った日のことだが」
顕現した直後の記憶を、少しずつ紐解きながら、膝丸は語る。ぼんやりとした室内灯に照らされた兄の瞳を、なるべく見ないようにして、膝丸はぽつぽつと言葉を紡ぐ。
こうして、少しでもできてしまった隙間に寄り添ってくれる兄の優しさを感じつつも、膝丸は思う。
兄と弟の間に生まれた隙間は、もう埋まることはないのだろう――と。