本編第二部(完結済み)
その日は、結局電車の時間に間に合わなくなってしまったので、藤たちは外泊することを選んだ。駅前の宿泊所は突然の訪問にも拘わらず、嫌な顔一つせず、むしろ喜び勇んで歓迎した。よほど、宿泊客がいないのだろう。
相変わらずダブルベッドしかない個室だったが、それも二度目となれば慣れたものである。どちらのベッドで寝るかについては、藤に判断が一任され、
「今日は歌仙と一緒がいい」
という彼女の主張を聞いて、髭切は大人しく一人で広々とした布団に潜っていった。何か言いたげにこちらを見ていたようだったが、ここは公平を期すべきと彼も思ったのだろう。結局、藤にも歌仙にも何も言うことはなかった。
歌仙の眠るベッドにお邪魔して、藤は隣に寝転がる。電気を消すと、薄い闇が彼女を包んでいく。
今日の疲れもあったのだから、主は早々に眠りにつくだろう――と歌仙は思っていたが、
「ねえ、歌仙」
闇にすっかり包まれた部屋の中、藤はもぞもぞと布団から顔を出して歌仙に声をかける。
「あの人の……今日出会った、僕のお母さんの友人が話していたことを聞いて、思ったんだけど」
いったいどうしたのかと寝返りを打ち、歌仙は思わず目を見開いた。
薄闇の中、彼女の顔はくしゃくしゃになった紙のように歪み、感情を破裂させる直前のような顔をしていたからだ。
「僕が、生まれなかったら――少なくとも、こんな風に生まれなかったら、お母さんたちは死ななくて、済んだのかな」
瞬間、歌仙の息が止まる。
それほどまでに、彼女の声は真剣味を帯びすぎていた。
深い絶望に染まりかける寸前の声に、歌仙はすぐにかける声を見つけ出せずにいた。
「お父さんは、山の中で暮らしていて、僕が崖から落ちそうになったのを助けて死んだんだって、聞かされていた。お母さんは、病気にかかって……病院に行くお金もなくて、山から下りる体力もなくて、そのまま死んでしまった」
母親の件はともかく、父親の件については歌仙も初耳だった。彼が声をなくしている間にも、彼女は再び呟く。
「どっちも、僕がこんな風じゃ無かったら……まだ、生きていてくれたのかな」
二人のいなくなった原因を語り、藤は顔を歪める。
悲しいとも苦しいとも違う、ただただ痛みを伴った感情が、彼女の心に絡みついて、ぎゅうぎゅうに締め付けているように歌仙には見えた。
「私、生まれなかった方が、よかったのかな。そうしたら、二人はこの場所で静かに暮らせていたかもしれないのに。嫌な思いもせずに、友人と穏やかに過ごせていたかもしれないのに。溺れる所だったのなら、そのまま死んでしまっていた方が」
「主」
突如知った情報で、すっかり彼女は気が動転しているようだった。だが、落ち着いた状態であったとしても、そのような物の見方もできるだろうと歌仙も分かってしまっていた。
だから、彼は言わなければと、決める。
「主、きみの母君は、ご友人にこのように語っていたそうだ」
つとめて冷静な声で、在りし日の彼女の母から友へ、そして友から藤と共に歩く者へと託された伝言を、歌仙は伝える。
「『親切には、親切を返すべきなのでしょう。それを誤ったから、私たちは今、辛い状況に立たされている。でも、私は自分の娘を守ったことを後悔していない。私には譲れない大事な宝があった。それは、どんな善意でも奪っていいものじゃない』」
藤の目が、ゆっくり見開かれる。
どんな宝よりも大事そうに娘を抱いている母の姿を、そのとき彼女は、瞳の向こう側へ鮮明に思い描くことができた。
歌仙が教えてくれた、母の伝言。それは、先だって髭切に背中を押されて、自分が選び取った答えを肯定する内容でもある。
「きみはたしかに、ご両親に愛されていたのだと僕は思うよ。そのきみが、自分が生まれてこなかったなどと言うのは、きみの父君や母君に失礼ではないかな。きみは、自分の両親が子供に対して『いなければよかった』などと願う人だと、そんな風に語っていきたいのかい」
優しくも厳しさをにおわせた指摘に、藤は黙りこくってしまう。そんな彼女に手を伸ばし、その髪を歌仙はそっと撫でた。
「僕は、元の主の顔も知らない。どんな人物だったのかを、この目や耳で直接感じたわけでもない。歴史の中には血なまぐさい逸話がある一方で、しかし確かに風流を解していると思うような記録も残されている」
残っているのは、側に寄り添っていたという曖昧な感覚だけ。
一時は、そんな血なまぐさい逸話に関わっていたなんて思いたくないと、悩む日もあった。人を斬り捨てる夢を見ては、どうして自分はこう在るのかと、夜空を眺めながら物思いに耽る日もあった。
「だけど、それら全てを引っくるめても、僕は彼を――前の主のことを、悪人だったとは言いたくないんだよ」
そうやって、最も近しい存在の一振りだった歌仙が語ってしまえば、いつしかそれが事実になってしまう。
ただの連想や推測が、周りにとっても、己にとっても真実になってしまう。そのような形で、いなくなった者の歩んだ道筋を、かつての主を歪めたくないのだと歌仙は言う。
「きみも、そうではないのかい」
歌仙の問いに、藤は鼻水を啜らせながら頷く。
先日の一件から、随分と泣き虫になったものだと歌仙は苦笑いを浮かべる。いや、本来はこちらの方が、主の素顔だったのかもしれない。
「それに、きみがいないと僕らはこの世に顕現していなかった。ここに僕らがいるということだけでも、きみが二十年の間、生きていた意味になる」
驚いたように、目をまんまるにする藤。歌仙に触れようとしてか、そろそろと伸びた細い手を、彼はしっかりと握りしめる。
「生まれてくれて、立派に育ってくれて、審神者になってくれて、ありがとう。――朱美さん」
知ったばかりの名前を添えて、歌仙は己の中にある全ての気持ちを載せて感謝を述べる。
その心に応えるかのように、藤はゆっくりと一度、頷く。
二人の静かな語らいを、反対側の薄闇に潜った琥珀色の瞳を持つ青年もまた、沈黙を守ったまま耳を傾けていたのだった。
***
翌日の朝。思ったより早く目を覚ました藤は、まだ寝ている歌仙を置いて部屋の外に出た。
宿泊所内には、自分たち以外の客人がいないようで、まるでここには生き物一つ存在していないかのように静まりかえっている。
エントランスから、申し訳程度に用意されていたテラスに出ると、青々とした空とこんもりとした緑に包まれた山が見えた。
「ここの空気、冷たくて気持ち良くて、それに懐かしいなあ」
すぅ、と胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込み、ふぅーっと勢いよく吐き出す。ただそれだけのことで、溜まっていた淀んだものが全て出て行ったような気がした。
「主。いや、朱美――の方がいいのかな」
不意に声をかけられ、振り返ると髭切がこちらに向かって手を振っていた。起きたばかりなのか、ススキの穂に似た色合いの髪の毛があちこちにぴょこぴょこと跳ねている。
「今のまま、主でいいよ。急に名前で呼ばれるのって、恥ずかしいもの」
「そう?」
隣に並んだ彼は、少し楽しそうにこちらを見つめている。名前を知ったことが、そんなにも嬉しいのだろうか。
「それで、朝からどうしたの?」
「いやあ、ちょっと話しておいた方がいいかなって思うことがあったと思い出してね」
「話しておきたいこと? 何かあったっけ」
「うん。どうやって伝えようか悩んでたんだけど、黙っていたままも何だか申し訳ないから言っておきたいんだ。えーっと、あーちゃん」
髭切が口にしたあだ名。
それを耳にした瞬間、藤は目を大きく見開いて何度も瞬きを繰り返す。
「どうして、僕の昔のあだ名を……。そういえば、僕のこと怒ってくれたときも、確かあーちゃんって」
「うん。何でかっていうとね。僕は度々、主の夢にお邪魔してたんだ」
「えっ?」
唐突な告白の内容に、藤は素っ頓狂な声をあげて凍り付く。自分の見た夢などいちいち覚えていないが、明らかにそれはプライベートな領域だ。まさか、そんな所にまで足を踏み入れられていたとは知らず、彼女は口元を引き攣らせる。
「ここしばらくはないみたいだから、もう見ることもなくなってしまったんだろうけれどね」
「え、と……勘違い、じゃ、ないんだよね?」
「勘違いならいいんだけどねえ。例えば、そうだなあ……主の母上が昔歌ってくれた子守歌を、僕は知っているよ」
髭切は記憶を辿り、優しい女性の声をなぞるようにそっと歌う。
ねんねんころりよ おころりよ
おひいはよい子だ ねんねしな
おひいのお守りは どこへ行った
お角を生やして 山へ行った
山のめぐみに 何もろうた
狭野方の花に あけみの実
藤にとって聞き馴染みのある有名な子守歌とは、少し違う歌だ。それは、何となく彼女の耳にも残っている歌でもあった。
(山の恵みに何をもらった……かあ)
歌い終わり、髭切は僅かばかり目を伏せる。
あの老女は、昔話に出てきた狭野方の花という娘が神に嫁いで幸せに暮らしたと語った。そして、山奥の廃集落で目にした、山そのものを象徴としていた存在。
恐らく、あの鬼の形をした神が齎した恵みの一部が語り継がれ、こうして歌の一節として残っていったのだろう。
「じゃあ、もしかして、だけど……僕が閉じこもる少し前に、僕を助けてくれたのって」
「うん、あれは僕だね」
「じゃあじゃあ、神社の夢で僕が斬られそうになったとき、割って入ってくれたのも」
「ああ、そんなこともあったねえ」
「閉じこもる直前に、僕が泣きついたのも……?」
「あのときは、やっと君の声が聞けたなあって思ったよ」
そこまで一問一答を終え、藤は蛙が潰れたような呻き声を発して、その場に座り込んでしまった。顔をすっかり手で覆ってしまっているものの、隠しきれなかった耳は朝焼けの空よりも尚赤い。
「まあ、他にも主には不本意だったのだろうけれど、あれこれ見てしまってね。でも、今は縁も切れちゃったみたいだから気にしなくていいよ」
「髭切がそういう性格で、本当によかった……」
細かいことは気にしない彼だから、夢もすぐに忘れてしまうだろう。そうであってくれ、と彼女は心の底から切に願っていた。
「そういえば、ここに来て、主は良かったって思ってる?」
「……うーん、どうだろう」
話題を切り替えられて、そろそろと再び立ち上がり、藤は眼前に広がる緑の多い景色を眺める。
「知らないことを知れて、よかったかなって思ってはいる。僕はやっぱり、知らないまま間違ってしまうよりかは、知って少しでも良い方向に行きたいから」
小さい頃の記憶は、思い出で綺麗に包まれてしまう。そうなったら、何が正しいのか自分でも分からなくなってしまう。
大体こうだっただろうという予測はできても、実際にあった出来事は、そこに生きた人の感情は、流れていく時間の中で風化していく。
あの朽ちていくだけの廃墟を見つめ、偶然とはいえ母の友人にも会うことができた。そうすることで、思い出の包装は剥がれ、一回り大きくなった自分の視点で現実を受け止められた。
「楽しかったこと、辛かったこと、消えてしまうもの、残ってしまうもの。そういうもの、全部見つけられてよかったよ。名前の謂われも、僕は知らなかったからね」
「そうだねえ。あれだけ沢山の意味が込められていたから、主は名前に拘っていたのかい?」
「え?」
「リンドウが咲いてる所で、やけに僕の名前について尋ねていたじゃない」
「あ……うん。それもあるけれど、実は僕、苗字を変えるように言われていたことがあってさ」
髭切から目を逸らし、彼女はわざと空を見上げながら話す。
「鬼藤って苗字だったんだ。でも、鬼って漢字はよくないって、紀藤に改めなさいって、引き取られた先のおばさんに言われてね。もちろん、戸籍の名前は変えられないから、単なる通り名みたいなものだけど。でも、さ」
「それが、嫌だったんだね」
「今思うと、そうだったんだろうね。ただの名字だけど、僕の中にあった大事なものが、どんどんなくなっていくような気がしたんだ」
だから、彼女は今の名前を大切に抱えようと祈った。名前などどうでもいいとは、言わないようになっていった。
もっとも、髭切個人としては、やはり名前などというものに拘泥しなくてもいいのではないか、と考えている。
しかし、
「主が大事にしたいなら、僕も大事にしてみようかな」
「え?」
「名前のこと。僕が大切にしたいなって思う人が大事だって言うなら、僕も同じようにちゃんと大事にしてみたいって思うんだよね」
思いがけなく髭切から同意を得られ、彼女は数度瞬きをしてから、ありがとうと小声で呟いた。どうにも、何だか恥ずかしいことを言われた気がするが、気のせいだろうと、藤は一旦その感情を棚に上げる。
「主の名前は、藤で、朱美で、あとは狭野方の花?」
「うん。よく、狭野方の花のお姫様って、村の人が言ってた。あんな昔話があるなんて、知らなかったけどさ」
「じゃあ、主はおひいさまなんだね」
「恥ずかしいから、髭切は言わなくていいって」
「そうかい? でも、狭野方の花って言葉は、なんだか僕にはしっくりくるよ」
誤魔化そうとしても、彼に軽く袖を引かれ、髭切から真正面に見据えられてしまう。
朝の日差しを浴びて、涼しげな風がよく似合う、晴れやかな笑顔を彼は見せた。そんな笑い方をする人だったのかと、藤はその時初めて知った。
「行こう。僕らの狭野方の花」
差し出された彼の手を、藤は躊躇せずに取る。
その手は、ほんのりと暖かかった。
相変わらずダブルベッドしかない個室だったが、それも二度目となれば慣れたものである。どちらのベッドで寝るかについては、藤に判断が一任され、
「今日は歌仙と一緒がいい」
という彼女の主張を聞いて、髭切は大人しく一人で広々とした布団に潜っていった。何か言いたげにこちらを見ていたようだったが、ここは公平を期すべきと彼も思ったのだろう。結局、藤にも歌仙にも何も言うことはなかった。
歌仙の眠るベッドにお邪魔して、藤は隣に寝転がる。電気を消すと、薄い闇が彼女を包んでいく。
今日の疲れもあったのだから、主は早々に眠りにつくだろう――と歌仙は思っていたが、
「ねえ、歌仙」
闇にすっかり包まれた部屋の中、藤はもぞもぞと布団から顔を出して歌仙に声をかける。
「あの人の……今日出会った、僕のお母さんの友人が話していたことを聞いて、思ったんだけど」
いったいどうしたのかと寝返りを打ち、歌仙は思わず目を見開いた。
薄闇の中、彼女の顔はくしゃくしゃになった紙のように歪み、感情を破裂させる直前のような顔をしていたからだ。
「僕が、生まれなかったら――少なくとも、こんな風に生まれなかったら、お母さんたちは死ななくて、済んだのかな」
瞬間、歌仙の息が止まる。
それほどまでに、彼女の声は真剣味を帯びすぎていた。
深い絶望に染まりかける寸前の声に、歌仙はすぐにかける声を見つけ出せずにいた。
「お父さんは、山の中で暮らしていて、僕が崖から落ちそうになったのを助けて死んだんだって、聞かされていた。お母さんは、病気にかかって……病院に行くお金もなくて、山から下りる体力もなくて、そのまま死んでしまった」
母親の件はともかく、父親の件については歌仙も初耳だった。彼が声をなくしている間にも、彼女は再び呟く。
「どっちも、僕がこんな風じゃ無かったら……まだ、生きていてくれたのかな」
二人のいなくなった原因を語り、藤は顔を歪める。
悲しいとも苦しいとも違う、ただただ痛みを伴った感情が、彼女の心に絡みついて、ぎゅうぎゅうに締め付けているように歌仙には見えた。
「私、生まれなかった方が、よかったのかな。そうしたら、二人はこの場所で静かに暮らせていたかもしれないのに。嫌な思いもせずに、友人と穏やかに過ごせていたかもしれないのに。溺れる所だったのなら、そのまま死んでしまっていた方が」
「主」
突如知った情報で、すっかり彼女は気が動転しているようだった。だが、落ち着いた状態であったとしても、そのような物の見方もできるだろうと歌仙も分かってしまっていた。
だから、彼は言わなければと、決める。
「主、きみの母君は、ご友人にこのように語っていたそうだ」
つとめて冷静な声で、在りし日の彼女の母から友へ、そして友から藤と共に歩く者へと託された伝言を、歌仙は伝える。
「『親切には、親切を返すべきなのでしょう。それを誤ったから、私たちは今、辛い状況に立たされている。でも、私は自分の娘を守ったことを後悔していない。私には譲れない大事な宝があった。それは、どんな善意でも奪っていいものじゃない』」
藤の目が、ゆっくり見開かれる。
どんな宝よりも大事そうに娘を抱いている母の姿を、そのとき彼女は、瞳の向こう側へ鮮明に思い描くことができた。
歌仙が教えてくれた、母の伝言。それは、先だって髭切に背中を押されて、自分が選び取った答えを肯定する内容でもある。
「きみはたしかに、ご両親に愛されていたのだと僕は思うよ。そのきみが、自分が生まれてこなかったなどと言うのは、きみの父君や母君に失礼ではないかな。きみは、自分の両親が子供に対して『いなければよかった』などと願う人だと、そんな風に語っていきたいのかい」
優しくも厳しさをにおわせた指摘に、藤は黙りこくってしまう。そんな彼女に手を伸ばし、その髪を歌仙はそっと撫でた。
「僕は、元の主の顔も知らない。どんな人物だったのかを、この目や耳で直接感じたわけでもない。歴史の中には血なまぐさい逸話がある一方で、しかし確かに風流を解していると思うような記録も残されている」
残っているのは、側に寄り添っていたという曖昧な感覚だけ。
一時は、そんな血なまぐさい逸話に関わっていたなんて思いたくないと、悩む日もあった。人を斬り捨てる夢を見ては、どうして自分はこう在るのかと、夜空を眺めながら物思いに耽る日もあった。
「だけど、それら全てを引っくるめても、僕は彼を――前の主のことを、悪人だったとは言いたくないんだよ」
そうやって、最も近しい存在の一振りだった歌仙が語ってしまえば、いつしかそれが事実になってしまう。
ただの連想や推測が、周りにとっても、己にとっても真実になってしまう。そのような形で、いなくなった者の歩んだ道筋を、かつての主を歪めたくないのだと歌仙は言う。
「きみも、そうではないのかい」
歌仙の問いに、藤は鼻水を啜らせながら頷く。
先日の一件から、随分と泣き虫になったものだと歌仙は苦笑いを浮かべる。いや、本来はこちらの方が、主の素顔だったのかもしれない。
「それに、きみがいないと僕らはこの世に顕現していなかった。ここに僕らがいるということだけでも、きみが二十年の間、生きていた意味になる」
驚いたように、目をまんまるにする藤。歌仙に触れようとしてか、そろそろと伸びた細い手を、彼はしっかりと握りしめる。
「生まれてくれて、立派に育ってくれて、審神者になってくれて、ありがとう。――朱美さん」
知ったばかりの名前を添えて、歌仙は己の中にある全ての気持ちを載せて感謝を述べる。
その心に応えるかのように、藤はゆっくりと一度、頷く。
二人の静かな語らいを、反対側の薄闇に潜った琥珀色の瞳を持つ青年もまた、沈黙を守ったまま耳を傾けていたのだった。
***
翌日の朝。思ったより早く目を覚ました藤は、まだ寝ている歌仙を置いて部屋の外に出た。
宿泊所内には、自分たち以外の客人がいないようで、まるでここには生き物一つ存在していないかのように静まりかえっている。
エントランスから、申し訳程度に用意されていたテラスに出ると、青々とした空とこんもりとした緑に包まれた山が見えた。
「ここの空気、冷たくて気持ち良くて、それに懐かしいなあ」
すぅ、と胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込み、ふぅーっと勢いよく吐き出す。ただそれだけのことで、溜まっていた淀んだものが全て出て行ったような気がした。
「主。いや、朱美――の方がいいのかな」
不意に声をかけられ、振り返ると髭切がこちらに向かって手を振っていた。起きたばかりなのか、ススキの穂に似た色合いの髪の毛があちこちにぴょこぴょこと跳ねている。
「今のまま、主でいいよ。急に名前で呼ばれるのって、恥ずかしいもの」
「そう?」
隣に並んだ彼は、少し楽しそうにこちらを見つめている。名前を知ったことが、そんなにも嬉しいのだろうか。
「それで、朝からどうしたの?」
「いやあ、ちょっと話しておいた方がいいかなって思うことがあったと思い出してね」
「話しておきたいこと? 何かあったっけ」
「うん。どうやって伝えようか悩んでたんだけど、黙っていたままも何だか申し訳ないから言っておきたいんだ。えーっと、あーちゃん」
髭切が口にしたあだ名。
それを耳にした瞬間、藤は目を大きく見開いて何度も瞬きを繰り返す。
「どうして、僕の昔のあだ名を……。そういえば、僕のこと怒ってくれたときも、確かあーちゃんって」
「うん。何でかっていうとね。僕は度々、主の夢にお邪魔してたんだ」
「えっ?」
唐突な告白の内容に、藤は素っ頓狂な声をあげて凍り付く。自分の見た夢などいちいち覚えていないが、明らかにそれはプライベートな領域だ。まさか、そんな所にまで足を踏み入れられていたとは知らず、彼女は口元を引き攣らせる。
「ここしばらくはないみたいだから、もう見ることもなくなってしまったんだろうけれどね」
「え、と……勘違い、じゃ、ないんだよね?」
「勘違いならいいんだけどねえ。例えば、そうだなあ……主の母上が昔歌ってくれた子守歌を、僕は知っているよ」
髭切は記憶を辿り、優しい女性の声をなぞるようにそっと歌う。
ねんねんころりよ おころりよ
おひいはよい子だ ねんねしな
おひいのお守りは どこへ行った
お角を生やして 山へ行った
山のめぐみに 何もろうた
狭野方の花に あけみの実
藤にとって聞き馴染みのある有名な子守歌とは、少し違う歌だ。それは、何となく彼女の耳にも残っている歌でもあった。
(山の恵みに何をもらった……かあ)
歌い終わり、髭切は僅かばかり目を伏せる。
あの老女は、昔話に出てきた狭野方の花という娘が神に嫁いで幸せに暮らしたと語った。そして、山奥の廃集落で目にした、山そのものを象徴としていた存在。
恐らく、あの鬼の形をした神が齎した恵みの一部が語り継がれ、こうして歌の一節として残っていったのだろう。
「じゃあ、もしかして、だけど……僕が閉じこもる少し前に、僕を助けてくれたのって」
「うん、あれは僕だね」
「じゃあじゃあ、神社の夢で僕が斬られそうになったとき、割って入ってくれたのも」
「ああ、そんなこともあったねえ」
「閉じこもる直前に、僕が泣きついたのも……?」
「あのときは、やっと君の声が聞けたなあって思ったよ」
そこまで一問一答を終え、藤は蛙が潰れたような呻き声を発して、その場に座り込んでしまった。顔をすっかり手で覆ってしまっているものの、隠しきれなかった耳は朝焼けの空よりも尚赤い。
「まあ、他にも主には不本意だったのだろうけれど、あれこれ見てしまってね。でも、今は縁も切れちゃったみたいだから気にしなくていいよ」
「髭切がそういう性格で、本当によかった……」
細かいことは気にしない彼だから、夢もすぐに忘れてしまうだろう。そうであってくれ、と彼女は心の底から切に願っていた。
「そういえば、ここに来て、主は良かったって思ってる?」
「……うーん、どうだろう」
話題を切り替えられて、そろそろと再び立ち上がり、藤は眼前に広がる緑の多い景色を眺める。
「知らないことを知れて、よかったかなって思ってはいる。僕はやっぱり、知らないまま間違ってしまうよりかは、知って少しでも良い方向に行きたいから」
小さい頃の記憶は、思い出で綺麗に包まれてしまう。そうなったら、何が正しいのか自分でも分からなくなってしまう。
大体こうだっただろうという予測はできても、実際にあった出来事は、そこに生きた人の感情は、流れていく時間の中で風化していく。
あの朽ちていくだけの廃墟を見つめ、偶然とはいえ母の友人にも会うことができた。そうすることで、思い出の包装は剥がれ、一回り大きくなった自分の視点で現実を受け止められた。
「楽しかったこと、辛かったこと、消えてしまうもの、残ってしまうもの。そういうもの、全部見つけられてよかったよ。名前の謂われも、僕は知らなかったからね」
「そうだねえ。あれだけ沢山の意味が込められていたから、主は名前に拘っていたのかい?」
「え?」
「リンドウが咲いてる所で、やけに僕の名前について尋ねていたじゃない」
「あ……うん。それもあるけれど、実は僕、苗字を変えるように言われていたことがあってさ」
髭切から目を逸らし、彼女はわざと空を見上げながら話す。
「鬼藤って苗字だったんだ。でも、鬼って漢字はよくないって、紀藤に改めなさいって、引き取られた先のおばさんに言われてね。もちろん、戸籍の名前は変えられないから、単なる通り名みたいなものだけど。でも、さ」
「それが、嫌だったんだね」
「今思うと、そうだったんだろうね。ただの名字だけど、僕の中にあった大事なものが、どんどんなくなっていくような気がしたんだ」
だから、彼女は今の名前を大切に抱えようと祈った。名前などどうでもいいとは、言わないようになっていった。
もっとも、髭切個人としては、やはり名前などというものに拘泥しなくてもいいのではないか、と考えている。
しかし、
「主が大事にしたいなら、僕も大事にしてみようかな」
「え?」
「名前のこと。僕が大切にしたいなって思う人が大事だって言うなら、僕も同じようにちゃんと大事にしてみたいって思うんだよね」
思いがけなく髭切から同意を得られ、彼女は数度瞬きをしてから、ありがとうと小声で呟いた。どうにも、何だか恥ずかしいことを言われた気がするが、気のせいだろうと、藤は一旦その感情を棚に上げる。
「主の名前は、藤で、朱美で、あとは狭野方の花?」
「うん。よく、狭野方の花のお姫様って、村の人が言ってた。あんな昔話があるなんて、知らなかったけどさ」
「じゃあ、主はおひいさまなんだね」
「恥ずかしいから、髭切は言わなくていいって」
「そうかい? でも、狭野方の花って言葉は、なんだか僕にはしっくりくるよ」
誤魔化そうとしても、彼に軽く袖を引かれ、髭切から真正面に見据えられてしまう。
朝の日差しを浴びて、涼しげな風がよく似合う、晴れやかな笑顔を彼は見せた。そんな笑い方をする人だったのかと、藤はその時初めて知った。
「行こう。僕らの狭野方の花」
差し出された彼の手を、藤は躊躇せずに取る。
その手は、ほんのりと暖かかった。