本編第一部(完結済み)

 山の中で雨に遭遇したら、雨ざらしになることだけは避けるべきだと誰しもが考える。藤とて、それは例外ではない。
 季節は夏なので凍死の危険には程遠いだろうが、それでも体温の低下は行動力や思考力を鈍らせてしまう。なので、彼女たちが山中にある小さな洞穴に逃げ込んだのも、当然の帰結だった。

「幸運ってなかなか運べないんだね」
「何だかすみません……」
「いいよ。さっき言っていたみたいに、ひょっとしたらこのことも何かいいことに繋がるかもしれない」

 物吉はすっかり濡れてしまった帽子を脱いで、水気を落とすためにぱんぱんと叩く。
 洞窟というほど奥行きがある場所ではなかったが、この自然が生み出したささやかな窪みは、雨を凌ぐには十分な広さを確保していた。
 洞穴に潜り込んでから程なくして、雨は益々強く降りだしたようだった。洞穴に反響した雨音はゴウゴウと反響して、まるで大きな獣が吼えているような音をたてている。 そんな中を飛び出すわけにもいかず、二人は土臭い壁に背中を預けて、雨が止むまで休憩をとることにしていた。

「物吉貞宗って、どんな刀なの?」
「ボクですか?」

 暇つぶしのためだろうか。唐突に主から投げかけられた質問に、物吉は小首を傾げる。

「さっきも幸運を運ぶって言っていたよね。途中になってしまったけど、『それだけじゃない』って言っていたのは何か特別な理由でもあるの?」

 ――物吉貞宗。その名は「吉」を「物」にする刀とも表すことができる。

「ボクが幸運を運ぶと言っているのは、ボクの前の主様が、ボクを連れて戦に行って必ず勝ってきた、という逸話があるからなんですよ」
「つまり、必勝祈願をされていたっていうこと?」
「はい!」

 力いっぱい頷いた物吉は、「でも」と更に言葉を続ける。

「ボクとしては戦だけじゃなくて、どんなものにでも幸運を運びたいです」
「どうして?」

 雨が止むまでの他愛のない雑談のつもりだったが、物吉はこの問いを真剣に考えてみることにした。
 口をついて出た思いに嘘はない。顕現して長い時を過ごしたわけではない彼は、自分の考えに強い影響を与えるような何かに出会ったわけではない。
 だから、これは物吉貞宗という存在の本質に対する問いかけでもあった。故に、あれこれと深く考えるのではなく、物吉は思ったままを口にすることを選ぶ。

「幸せになると、皆が笑顔になるんです。ボクはそんな笑顔を見るのがとても嬉しくて、笑顔を見るとボクも幸せな気分になれます。だから、ボクはできるだけ沢山の幸運を――幸せを運びたいんだと思います」

 最初はたどたどしさが残っていたが、やがて喋りながら考えを纏めていったように、彼はハキハキと意見を口にした。
 誰かの幸せな笑顔を見るために、自分の幸運の逸話を使いたい。他人の幸せを自分のことのように喜ぶ彼の姿は、無垢な天使のようであり、同時に気高い精神を兼ね備えた者のように藤には見えた。

「誰かの笑顔が自分の幸せに、か。確かに、笑顔を見るとこちらもほっとするよね」
「はい! だからボクは、主様が歌仙さんたちと楽しそうに笑っているのを見ると、嬉しくなるんです。主様が幸せなんだなっていうことが、伝わってきますから」

 歌仙と苦笑いを交えながら、楽しそうに小言を交わしている姿。それに、道場で五虎退と話しているときに見守るように見せた笑顔。
 まだ一日しか経っていないのに色々な所で見てきた藤の笑顔を思い出して、物吉はにっこりと太陽のように笑う。
 だが、藤はどこか驚いたような顔で、

「そんなに楽しそうに笑っていた、かな?」

 瞬きを何度もして、当惑した様子をのぞかせながら、聞き返した。

「はい。いつもにこにこしていて楽しそうでした! あ、だからって満足はしませんよ。主様の幸せが続くように、ボクがもっともっと幸運を運んできますね!」

 雨の音にも負けないぐらい、物吉は宣言する。
 そんな彼の力強い決意表明を見て藤は――いつものように、笑っていた。口角を少し上げて、唇で緩やかな弧を描く微笑。物吉が昨日からずっと見てきていた、普段の笑顔だった。

「ありがとう、物吉」

 笑顔を浮かべながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。視線は幸運を運ぶ少年にではなく、雨が流れ落ちる外の景色を見つめている。

「少しだけ、外の様子見てくるね」
「えっ。でも外はまだ雨が」
「大丈夫だから」

 物吉の制止の声は耳に入っていたにも関わらず、彼の声を聞かなかったことにして、藤は洞穴の外に向かって駆けだした。少年が伸ばした手は主の背に届かず、虚空を掴んだままだった。


 緑の天蓋が多少は雨を受けてくれてはいるが、その量は微々たるものだ。木々の隙間からこぼれ落ちた雨は、容赦なく藤の顔を打った。
 時間にしては、ほんの二分か三分。あまりに遠くに行っては、洞窟に戻れなくなってしまう。すぐに戻るつもりだったから道を見失うわけにはいかないと、こんな時でも冷静な理性が主張をしていた。

「僕の幸せが続くように、幸運を運ぶ、か……」

 雲で太陽が隠れても、どれだけ雨が降っていても、まるで自分自身が太陽であるかのような自信に満ちた物吉の笑顔。見ているものを安心させようとする気持ちがこめられた、何の後ろめたさもない純白の微笑みだ。
 ――だからこそ、見ていられない。

「笑っているのが、幸せというなら」

 乱れた息を整えるために、近くの木に手をつく。びしょ濡れになった手が、硬い樹皮に触れて小さな手形を残す。

「幸せというなら――それなら、僕は」

 己に言い聞かせるように、自分の中の叫びたい思いを宥めすかすように、

「僕は、今の暮らしを幸せだと、感じるべきなんだろう」

 まるで幸福自身が何かの義務であるかのように、彼女は告げる。しかし言葉の中身とは裏腹に、彼女は顔をぐしゃりと歪め、まるで腹に刃でも突き立てられたかのような苦渋に満ちた表情を作っていた。
 木についていた手には、いつしか力が込められ、樹皮に爪を突き立てるまでになっていた。メリメリと音をたてて、木に爪が食い込んでいく。人間の柔な腕では到底困難な所業が、いとも容易く行われていく。

「……たとえ、歌仙に追い払うって言われても」

 歌仙がもしここにいたら、いったい何のことだろうと首を傾げただろう。

「たとえ、五虎退に怖いものだと言われても」

 五虎退がもしここにいたら、必死に己の記憶を漁っただろう。そして、そんな事実がないことに困惑するだろう。
 それらの忌避の言葉は、ある時間遡行軍ものに向けられたものであって、藤に向けて言われたものではなかった。
 故にいくら彼らが記憶を漁っても、彼女の言葉の真意に辿り着くことはできない。そもそも辿り着かせまいとしているのは、今雨に打たれている彼女が選んだことでもあった。

「分かってたよ。分かってるよ。それが当たり前なんだから。でも」

 身勝手な自己弁護と知りつつも、藤は幹に立てる爪の力を緩めない。まるで熊が引っ掻いたのではと思うほど強烈な爪痕が、そこには残されていた。

「――期待してしまったんだから、仕方ないじゃないかっ!」

 血を吐くような叫びは、やはり雨が隠していく。

「何も言わずとも、何か変わってくれるんじゃないかって思ったんだよ! 彼らは人間じゃなくて、付喪神っていう人間とは違う存在だって聞いていたから! だから何か、違うものを見せてくれると思ったのに!!」

 堰を切ったように、彼女の口から抱えていた言い訳があふれかえる。喉の奥が震えて、いつしかそれが嗚咽に変わっていく。
 ぎゅうと力をこめて噛んだ唇に突き立てられる歯は、人のそれよりも、やはり鋭い。唇の皮が破けるのも構わず、力をこめるのを彼女はやめない。

「なのに、これが幸せに見えるなんて」

 先ほどの物吉の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。初めて出会った歌仙の優しげな表情が、気遣うような声が。或いは、五虎退がおずおずと差し出した手が、あるじさまと自分を慕う呼び声が。全て、全て蘇る。
 暖かなはずの思い出は、とても愛おしいと思う。
 ――だからこそ。
 だからこそ、彼女は胸の奥が掻き毟られるような苦しさに苛まれる。その痛みは彼女にとっては知っているもののはずだったのに、今また鮮烈な傷跡を胸の内に残していた。

「そんな風に、幸せそうだなんて言われたら――そうするしかないじゃないか……っ」

 メリメリと木の幹に手が食い込み、そのまま樹皮の一部を握りつぶす様に動く。バラバラと木の一部がえぐられ、木屑が掌からこぼれ落ちる。
 ずるずると力なくその場に崩れ落ちた藤は、荒い息を吐いた。何度も何度も、内に潜む破壊的な衝動を抑えつけるように、激しく息を吐き出す。
 木を握りつぶした手にじわりと痛みが走り、藤は自分の手に目を落とした。力ずくで樹皮の一部を握りつぶすという荒業をしたせいだろう。大量の木屑が棘となって、彼女の手のあちこちに刺さっていった。力任せにめり込ませた指には、じんわりと血が滲んでいる。幸いにも爪が剥がれている様子はなかった。

「……戻らないと」

 痛みのおかげで冷静になった彼女の中の理性が、長居は無用であるということを告げる。
 不思議と時間が間延びしたような感覚のせいで、何分こうしていたのかも定かではない。五分か。十分か。一時間もいなかったはずだということは分かるが、物吉が心配をするには十分な時間だろう。
 その瞬間。まるで藤が立ち上がるのを待っていたように、細い少年の声が耳に飛び込む。

「……さまー、あるじさまー」

 どんどん遠くなる物吉の声。彼は一体どこを歩いているのやらと、藤は小さく嘆息する。
 返事をするのが適切なことは分かっていた。けれども、今は声を出す気にもなれない。藤は物吉の声に言葉は返さず、無言で彼の声が聞こえた方向へと歩き出した。


 ***


 数分前の洞窟の中。物吉は岩壁に背を預けてぼんやりと天井を見上げていた。
 初めて聞く雨音というものは、洞窟の中で聞くと存外大きく響き渡るものらしい。最初こそ大人しく雨音を楽しんでいた物吉だったが、やがて彼の中に心配が雲の如く湧き上がってくる。

「主様、突然どうしたんだろう……」

 いくら物吉が思いを馳せてみても、肝心の主が戻って来る様子はない。少しだけ様子を見るという割には、もう五分以上経っているのではと、彼の中で不安ばかりが降り積もる。ただでさえ、物吉の胸中としては自分は主に何かあったときの護衛であるという自負もある。

「もしかしたら、どこかで怪我をして動けなくなっているのかもしれない」

 口にしてみると、この予想はいかにもありえそうだった。勢いよく立ち上がった彼は、服が濡れることなどかまわず洞窟から飛び出す。飛び出して、彼はぴたりと足を止めた。

「主様って、どちらに向かったんでしたっけ」

 足下は草が生い茂っており、藤の足跡は十全に残っていない。右を見ても左を見ても、彼女がどこに行ったのかは判然としなかった。

「とりあえず歩こうかな。きっと僕の幸運が主様を引き寄せてくれるはず!」

 その時の藤の心中としては寧ろ物吉と出会う方が不運になっていたのだが、当然彼にそんな想像ができるはずもなかった。

「主様ー!! あーるーじーさーまー!!」

 雨に負けぬように声を張り上げて、少年が歩いて行く。しかし、彼の声はざあざあという豪雨の前ではあまりに小さすぎた。

「主様、どこにいるんですか!!」

 数歩歩いては足を止め、更に数歩歩いてはまた歩みを止める。彼が知る由も無いことではあったが、物吉が歩いた道は最初の方向からして、藤が向かったところとは全く逆を歩いていた。

「ボクまで迷子になってしまいそうな気もするんですよね。気を付けないと」

 ありえそうな危機を想像して、物吉は背筋にうすら寒いものを覚える。滝のように流れ落ちる雨は、生い茂る木々と相まって視界をより一層悪くしていた。
 小柄な藤を見落とすまいと彼は顔をできるだけ上げて、視線を足元に向けることもなく雨に煙る山道を歩いて行く。
 ――だから、彼は気が付かなかった。

「こっちかな」

 躊躇うことなく迷いなく真っ直ぐ歩いている彼は、自分が踏みしめる地面がいつまでも続くと信じていた。ぬかるんでいるという悪条件ですら、刀剣男士ならではの運動神経があるため、大胆とも言える行軍を阻むことはなかった。

「――――もの、よし」
「主様?」

 雨音に紛れて、中性的な聞き覚えのある細い声が微かに耳に入る。彼の歩みは益々早まる。

「物吉!」

 雨によって乱された聴覚は、彼女の声がどこから聞こえるかも曖昧にしてしまう。きっと自分が行く先に主がいるのだろうと、物吉はどんどん先へと向かう。
 ふと、木々の隙間から人影のようなものが見え、物吉の胸に安堵と歓喜が広がった。

「主様、そこにいたんですね!」

 手を伸ばす。足を踏み出す。そして、彼は気が付く。
 その足の下に、続く地面がないことに。

「――――えっ」

 予想を反して、彼の手は空を掴む。力一杯踏み出された足もまた、存在しない大地を踏みしめようとする。

「物吉、危ない!!」

 藤の鋭い注意の声が耳に入るも、既に警告は手遅れだった。
 体のバランスが崩れる。前のめりになった姿勢は、もう立て直せない。自分が踏み出した先にあったのが崖だと物吉が気が付くには、あまりに遅すぎる。
 主だと思ったものが、雨と木の枝が見せた幻影だと気が付くのは、既に時間をかけ過ぎていた。
 宙に向かって投げ出された体は、必死に安全な崖上に向けて手を伸ばす。努力の甲斐あって、かろうじて崖に沿う様に這っていた木の根をつかむことはできた。けれども雨に濡れた根は少年一人の重みを支えるには、とても頼りない代物だった。

「物吉っ!!」

 ずるずると滑り落ちかける彼の手首を、がっしりと掴むものがある。顔を上げるまでもなく、それは藤の手だった。
 彼女もまた雨に煙る視界の中、不意に目の前から消えた彼の姿を目にしたのだろう、ということは想像に難くない。

「主様! 手を離してください!!」

 しかし、物吉の中には先ほど以上の焦燥が増していく。
 藤の体は物吉よりも寧ろいくらか小柄で、見た目からもそこまで力があるようには思えない。このままでは、ズルズルと重力に引きずられて二人とも落ちてしまうだろう。
 ちらりと下を向いても、落ちて無事で済むとは思えないほどの高さがはっきりしただけであった。強いて幸運な点をあげるとするならば、崖下は川になっているということだろう。
 けれども、落ちれば濁流に呑まれるのは確実だ。この雨と梅雨の時期ということもあって、川の水量は増しているに違いない。

「このままでは、主様も落ちてしまいます! ボクなら落ちても手入れをすれば、元に戻りますから! 雨が止んでから探しに来てください!!」

 こんな時でも、刀剣男士としての物吉貞宗の理性は、自身の肉体に対して的確な評価を下す。人間と彼らでは、根本的な体の頑丈さが違う。ならば、多少の怪我など大して問題にならないはずだ。物吉は瞬時にそこまで結論を出した。
 だが、彼の言葉を聞いても藤は動かない。俯いたまま、歯を食いしばって物吉の手首を掴み続けている。

「主様、聞こえてるんですか!?」
「――うるさいな、黙ってろ!!」

 理論的な物吉の説得を、感情的な怒鳴り声が圧倒する。
 会って数日も経っていないとはいえ、そんな乱暴な言葉を吐く人とは思っていなかった――そんな気持ちがそのまま表情として、物吉の顔に表れる。今の自分の状況すら忘れて、驚きだけが一瞬、彼の頭を支配する。
 彼が呆気にとられている間も、藤は力を緩めない。空いた片手で崖のへりをしっかり掴み、全身に力を込める。先ほど木屑を大量に刺してしまった掌は、容赦なく彼女の痛覚に不愉快な刺激を与えてくる。けれども、彼女はその痛みを些細なものとして感覚から一旦押しのける。体全てに力を漲らせ、

「ぐ――――うぅっ!!」

 腹に気合いを込めて、一気に引っ張り上げる。弾みで自分が奈落に落ちないよう、崖のへりを掴んだ片手にも自然と力が込められる。おかげで、崖上に物吉が辿りつく前に手が離れてしまうということはなかった。
 体を安全な地面の上に引き上げてもらってから、物吉は反射的に安堵の息を長く吐き出した。

「ありがとうございます……主様」
「……どういたしまして」

 雨に滑った弾みで藤自身が落ちることこそなかったものの、持ち上げた拍子にころりと彼女の頭から帽子が転がり落ちる。極度の緊張から解放されたおかげか、帽子を拾うこともなく、藤は少しばかり気の抜けた顔で物吉を見つめていた。

「足元には、気を付けないといけないよ。特にぬかるんでいるときは」
「はい、気をつけ――」

 物吉は顔を上げ、藤の注意に返答をしようとした。が、口にしようとした言葉はどこかに消え、一瞬息をすることすら忘れてしまった。
 雨で滑り落ちたのは、彼女の帽子――だけではなかった。

「――主、様」

 額に巻いていたバンダナが、音もなく藤の額から滑り落ちる。

「主様、それは」

 普段彼女が隠していた額は、すっかり顕わになっていた。
 物吉の目が驚きで見開かれ、彼の視線が自身の額付近を彷徨っていることに気が付いたとき、藤はさっと表情を変えた。そこにあったのは、強い恐れだった。

「――っ!」

 鋭く息を呑み、藤は首までずり落ちていたバンダナを強引に額まで引き上げる。結び目を結び直して、素知らぬ顔をして向かい合ったところで、過ぎた時間が戻るわけでもない。
 いつしか雨は小降りに変わり、長閑な鳥の囀りすら聞こえてきていた。だというのに、二人の間にはまるで音という概念すらも消えたかのように、静寂だけが全てを支配していた。

「……僕、は」

 沈黙を破ったのは、藤の方だった。
 あまりにも掠れて消えそうな、細い声。小粒の雨にすら溶けてしまいそうな音が、彼女の唇から零れ落ちる。喉はひきつけでも起こしたかのように用をなさず、ひゅうひゅうという浅い息だけが口から漏れた。
 言いたいことは沢山あるのに、一つも言葉になってくれない。ただただ、焦りだけが喉の奥からせりあがってくる。胃をひっくり返したような動揺に、感情を支配されていく。
 混乱の渦中に叩き込まれた藤に対して、物吉は自分が見たものに暫し思考を支配されていた。
 それは何なのか。一体彼女は何なのか。尋ねたいことは山ほどあった。
 けれども、浮かび上がった疑問の数々は彼女の目を見た瞬間、雲散霧消した。
 混乱、当惑、緊張、動揺、苦渋、忌避。それら全てが混ざったような瞳を向けられて、一体何を尋ねようと言うのか。今するべきことは、自分の些細な疑問を解決することではない。
 物吉は必死に、自分のできる最善を探す。そして、

「……大丈夫です、主様。ボクは何も見ていません」

 彼は、目を瞑ることを選んだ。

「だから、主様は今まで通りでいいんですよ」

 彼女が薄氷の上に作り上げたのだろう幸せを、壊すまいとした。

「ボクも、主様の今までをお守りします」

 その薄氷の上のささやかな幸福に見えるものが何なのか、彼が知っているわけもなかった。

「…………あ、りが、とう」

 喉の奥に出かかった言葉は、全く別の音になって消えてしまう。にっこりと笑いかける物吉に、藤は笑顔で応じる以外の答えを持ち合わせていなかった。

「主様、泥だらけになってしまいましたね。せっかくの息抜きだったのに」

 気持ちを切り替えるように、或いはさながら場面そのものを切り替えるように、物吉は藤の服の汚れを心配し始めた。
 彼が言うように、彼女の着ていた夏物のシャツと上着は、見るも無残に泥と砂にまみれたものに変わり果てていた。

「物吉が怪我しなかったんだから、これぐらいどうということはないよ」

 藤も、物吉が切り替えようとした空気に乗ることにした。ゆっくりと立ち上がり、泥まみれの手で己のシャツの裾を掴んで広げてみせる。

「……すみません。ボク、全然幸運運べてないですよね」
「いや、そうでもないかもしれないよ」

 落ち込む物吉の肩をとんとんと叩き、藤は崖の向こうを指さした。つられて物吉は顔を上げ、彼女が指さす方向を見つめる。
 そこには、淡い七色の帯が山と山を繋ぐように橋となってかかっていた。薄らと雨雲の切れ間から差し込んだ陽光は、何かの祝福のように七色の橋を照らしていた。

「ほら、虹」
「――あれが」

 この目で初めて見た淡くも美しい七色に、物吉は琥珀色の大きな瞳を見開いて見惚れる。思わず手を伸ばしてみても、当然そこに届くことはない。だが、彼の子供染みた仕草を藤は笑わなかった。

「いいこと、あったね」
「……はい!」

 力一杯頷く物吉につられて、藤は頬を緩ませる。自然に浮かんだ彼女の笑顔は、まるで影に光がさっと差し込んだような暖かさに満ちていた。


 ***


 雨上がりの山道というものは、常のときよりも危険度が跳ね上がる。山に慣れている藤であっても、それは例外ではない。帰りは行きと同じ獣道を歩いているはずなのに、二人は何度も滑って転びそうになってしまった。

「主様。手を繋いだ方がいいかもしれませんね」
「そうだね。普通に歩いているだけなのに、毎度毎度転びそうになるのは御免だ」

 何気ない調子で物吉は藤の手を掴んだ。だが、藤は彼が手を握った瞬間、顔を明らかに顰めてばっと手を払った。

「主様?」

 先ほどの決死の救出劇が終わった後、藤が持っていたタオルで手の汚れはふき取ったはずだった。物吉自身が改めて自分の手を見つめても、汚れのようなものは一切見られない。
 ならば、と思い相手の手を見つめると、彼女は自分の掌を見つめたまま苦々しげに顔を歪めていた。

「主様、もしかして掌に怪我を!? もしかしてボクを助けようとした時に?」
「違う違う。ちょっと……別の所で」

 藤が見せた掌には、小さな黒い点のものがいくつもいくつも残されている。よく見ると、黒い点に見えたものは小さな棘となって彼女の掌に刺さっているようだった。深い傷というわけではないものの、手を握ったことで棘たちのいくつかが彼女の皮膚に刺激を与えてしまったのだろう。

「じゃあ、ボクは手首を握ってますね。それなら痛くないですか?」
「うん。ありがとう、物吉。物吉は、優しいんだね」
「主様の刀として、当たり前のことをしているだけですよ」

 藤の手首をそっと掴むと、今度は彼女も飛び退くことなく大人しく握られたままになっていた。

(……主様って、こんなに細いんですね)

 物吉が言うほど、藤の手首が極端に細いわけではない。ただ、刀であり敵を倒す者として顕現した物吉たちに比べれば、彼女の腕は何かに立ち向かう強さは持ち合わせていないように感じられた。

「――どうして、主様はボクを助けたんですか?」

 そんな戦いとは縁遠いはずの主に、あのような無茶をさせてしまったという悔恨が、問いかけとなって形になる。

「あんなに必死になって、どうしてそこまでしてボクのことを助けようとしてくれたんですか?」
「あんな状態の困っている人がいたら、誰だって助けようとすると思うよ。何でわざわざそんなことを尋ねるの?」
「ボクはまだ主様と出会って少ししか経ってなくて、主様にとってボクはまだ赤の他人みたいなもので……あんなに、怒鳴って、危ない目に遭ってまで助ける理由がよく分からなくて」

 我を忘れて声を荒らげる彼女の姿は、単純に藤が主で物吉が刀剣男士だから、という尺度では測れない凄味があった。
 しかし、藤は平時の落ち着いた調子を崩さなかった。

「だって、物吉が落ちたら怪我をしてしまうじゃないか」
「それは主様だって同じです」

 物吉の反論を受けてようやく、藤は足を止めて考える素振りを見せた。

「ボクは落ちても主様よりは頑丈ですし、手入れをしたらすぐに元に戻ります。でも、主様はそうじゃないでしょう」

 更に一歩踏み込んで、物吉は自分の中の理論的な説明を藤にぶつけてみせる。

「そうだとしても、落ちたら痛い思いをする」

 けれども、あっけらかんと彼女は答える。

「崖から落ちたら、痛いよね。大けがをするかもしれない。取り返しのつかないことに、なるかもしれない」

 物吉に向かって話しているはずなのに、彼女の声は奇妙な熱を帯びていた。まるで物吉ではない誰かに話しかけているように。
 ――自分自身に語りかけるように。

「それはだめだ。そんなこと、僕は見過ごせない」
「見過ごせないって言っても、主様が大怪我したのかもしれませんよ」

 刀剣男士と主の関係は、人間の主従に似ている。守るべき主が、従者を守るためにその身をなげうってしまったら本末転倒だ。藤につられるように、物吉の声にも熱が込められていく。

「それじゃ、何のためにボクらがいるのか分からなくなります!」
「だとしても!!」

 物吉の声を上書きするように、藤の大声が静かな山間にわんわんと響く。二度目ではあるが、やはり聞き慣れない主の大声に物吉は目を丸くする。
 驚いたのは物吉だけではない。藤自身も自らの発した声の予想外の大きさに、目を見開いていた。数度息を吐き、呼吸を整えてから彼女は再度口を開く。

「――だとしても、僕はやっぱり君が崖から落ちかけていたら、助けるよ」
「自分まで危ない目に遭うかもしれないのに。痛い思いをするかもしれないのに、ですか」
「――――うん」

 彼女は迷わずに、首を縦に振った。藤の意志は固く、誰であれ簡単に覆せないだろうということが、物吉にもひしひしと伝わってきた。
 主の真っ直ぐな思いを聞き、物吉はふと胸の中に小さな灯りが灯ったような温かさを覚える。刀であったときとは感じなかった気持ち――その身を心配されるということの喜びが、じんわりと彼の中に広がっていく。

「ボクたちは手入れをすればすぐに直るのに、さっきみたいな危ない時であっても、普通の人のように手を差し伸べてくれるんですね」

 誰かにその身を案じられる嬉しさは、同時に藤への感謝の念に変わっていく。
 そうして彼が口にした言葉を聞いて、けれども藤は何か嫌なことでも耳にしたかのように微かに眉を顰める。目線をほんの少しだけ横に逸らし、何か気持ちを切り替える儀式のように小さく息を吐いてから、再び物吉と視線を交わす。

「さっきから手入れすれば直るって言っているけど、だから君たちは戦うのが怖くないの? 怪我をしても直るから?」

 彼女が口にした言葉は、奇妙なぐらい平坦な声音となっていた。先ほどまでの激昂が嘘のように、感情を殺しつくしたような事務的な質問が彼女の口から発せられる。
 会話をしていた物吉も、あまりに唐突な切り替えに狼狽を見せた。

「いえ…………多分、違うと思います」
「僕は君たちのことを良く知らないけれど、あの高さから落ちていたら死んでいた――折れていたかもしれない」

 物吉が考え付かなかった予測を並べ、藤は睨むような目つきで物吉を見つめながら、

「折れてもいいって、思っていたの」

 糾弾するような内容とは裏腹の、淡々とした声音で問いを続けた。
 
「とんでもない! 折れたいなんて思ったことないです。でも、折れる所だったのかもしれませんね。それなら次からは、気を付けます」

 自分の予想できなかった部分を指摘され、物吉は素直に謝罪した。与えられた指摘を素直に受け止められるのは、彼の美徳なのだろうと、藤は平坦に均した感情の裏側で思う。
 話は済んだとばかりに、彼女は物吉に背中を向けた。その背に向けて、

「……主様は、優しい方なんですね」

 物吉の声が届く。藤は足を止めるが、振り向かない。

「僕は優しくないよ。優しい人間・・じゃない」

 彼女は何度も頭を振って、謙遜するように否定をする。だが、言外に滲ませた意味を感じ取りつつも、構わずに少年は続けた。

「いいえ、優しい人間・・です。だって自分が痛い思いをするかもしれないのに、ボクを助けてくれました。折れるかもしれないから気をつけなさいと、注意してくれました。そういう人間は、ボクは優しいんだと思います」
「…………」

 返ってきたのは、とても長い沈黙。まだ湿気の残った風が二人の間を通り過ぎていく。
 時間にして一分は経っただろうか。ようやく、彼女は口を開く。

「君がそう思うなら、そうなのかもね」
「はい。ボクは優しい主様の元に顕現できて幸せです」

 沢山の初めての経験ができました、と物吉は無邪気に笑う。彼に再び手首を掴んでもらって、ぬかるんだ山道の下山が再開された。

 
 少年に先導されながら歩く藤は、葉から垂れる雨粒に掻き消えそうなほどの微かな声でぽつりと呟く。

「僕が助けたのは、君じゃないよ」

 足元に全神経を集中させている物吉には、その声が届くことはなかった。
 藤は微かに目を伏せ、崖から落ちかけていた少年の姿を思い返す。あの時、彼女の目には琥珀色の目をした少年の姿は映っていなかった。
 瞼の裏に浮かんでいたのは、記憶にすら定かでない瞬間。落ちていく世界と、自分を抱きしめて下敷きとなってくれた誰かの腕の温かさ。その温もりがどんどん失われていくのが怖かったという、漠然とした恐怖の思い出。

(だから、僕は君を助けたんじゃない)

 ――――僕は、僕自身を助けたんだ。

 だからこそ、手を離さなかった。助からなかった惨劇を知っているからではなく、その渦中にいた自分と同じ立場の者を助けることで、自分を助けた気になりたかった。
 そうすれば、何も変わっていなかったとしても、自分が救われたような気になれるから。たとえ失った者が、失った物が、何一つ戻ってこなかったとしても。
 そんな自分が優しいなどというのは、単なる誤解だ。
 今更そんな訂正をすることもできず、彼女は物吉の優しい勘違いを受け入れたまま帰路に就いた。
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