本編第二部(完結済み)
当初の目的を達成できたのかと問われれば、藤の里帰りはその目的の半ばは成し遂げたと言えた。故郷に辿り着き、墓標に祈りを捧げられたのだから、十分過ぎるほどだ。
だが、本来の悩みである「誰かを傷つけてまで、己の意志を貫き通す」ことについて、母から返事を貰えたかと訊かれれば、これは勿論「否」と言うしかない。
死人が何を語るわけでもなし、つまるところ彼女の当初の目標は、最初から達成が不可能なものでもあった。
彼女の故郷から麓まで、無事に下りられるかという不安は、下山を開始してすぐに払拭された。
下り坂が上りより楽だったからではなく、また裏道を見つけたというわけでもない。行きの道同様、あたかも誰かに道筋を指し示されたかのように、通るべき道が分かったからだ。
山道がまるで切り取られて繋ぎ合わされていたように、帰りの道は極端に短く、楽に済んだ。その不自然な短縮について、髭切はもしやと思っていたが、結局彼が懸念していた相手の姿が主の前に現れることはなかった。
そうして登山前に見た家の近くに戻る頃には、まだ太陽は十分に顔を出している頃合いだった。
このまま帰れば、夜には本丸に帰れるのではないか。藤がそんな話を歌仙としていると、
「おお、帰ってきなさったか。ほら、ごらん。あれがさっき話してた若いもんたちだよ」
行きの時に注意をしてくれた老人が、こちらに向かって手を振っていた。
近くには、朝には見かけなかった初老の女性がいる。着古した様子が窺える軽装から察するに、近所に住んでいる人だろう。
「見たいもんは見れたか?」
「ええ、まあ……大体は」
老人に問われ、藤は少しばかり言葉を濁した。奥に行くなとあれほど注意されたにも拘わらず、結局奥地に分け入ったことが申し訳なく思えたからだ。
「そりゃあよかった。怪我もなく、見たいもんも見れたなら、それが一番だ。なあ」
老人は同意を求めるように、立ち話をしていたらしい初老の女性に話しかける。
だが、彼女は老人の声に相槌すら打たず、何故か藤をじっと見つめていた。食い入るかのような視線は、ただ余所者を観察しているだけにしては、随分と鬼気迫るものがある。彼女に害意を持つ者と、髭切はそれとなく老女と藤の間に割って入った。
「あの、僕が何か」
知らない間に、不作法な振る舞いをしてしまっただろうかと、藤が恐る恐る尋ねると、
「――朱音さん」
老女は震えるような声で、藤を見据えたまま、ぽそりと呟く。その声は、まるで吹きさらしの蝋燭のように細かった。
聞き慣れない人間の名前を耳にして、髭切と歌仙はお互いに顔を見合わせる。だが、首を傾げる二人とは対照的に、
「え……?」
藤は顔色を変え、老女と同じくらいに、か細い声を震わせていた。
「朱音さん。いえ、あなた、もしかして」
彼女の視線が、少しばかり上にずれる。その先には、藤の額――角を隠すために額を覆っている藤色の布があった。
彼女の視線が布の下を暴いているような気がして、藤は反射的に額に手をやる。彼女の所作を見て、老女は小さく息を呑んだ。
「朱美ちゃん、なの」
瞬間、藤の世界から音が消えた。
知り合いなのかね、と老女に尋ねる老人の声も。
どうしたんだい、と肩に触れる歌仙の声も。
全て、藤の耳から掻き消えていた。
「――どうして、僕の名前を」
藤がそのように口にした瞬間、老女の皺が寄った目から透明な雫が零れ落ちた。
「ああ……っ、やっぱり」
長年探し求めていた何かに、やっと出会えたかのような、安堵と達成感が混ざった顔で、彼女は顔をくしゃくしゃに歪める。
力が抜けたようにその場に崩れ落ちる老女を、藤は咄嗟に手を差し伸べて支えた。様子のおかしい彼女たちの側に駆け寄った歌仙は、
「主、朱美というのは、誰のことだい」
そっと耳元で藤に話しかけられ、ようやく藤は歌仙と髭切の存在を思い出した。
息を整えるために、数度深呼吸を挟んでから、藤は言う。
「朱美は、僕の――本名だよ」
***
「大したもてなしもできなくて、すみませんね」
「いえいえ、こちらこそ突然訪問して申し訳ない」
差し出されたお茶を丁寧に受け取り、歌仙は静々と頭を下げる。その礼儀正しい態度に好感を抱いたのか、老女も安心したような笑みを浮かべた。
あの後、朱美――もとい藤に、老女は自分のことを「かつて藤の母と親しくしていた者だ」と紹介した。
もし時間があるのなら、渡したいものがあるので是非うちに来てほしいと、続けて彼女は提案した。
今回の里帰りの目標については、先だっての故郷訪問で半ば既に達成されているし、母の知人について、藤は今まで村の人たち以外の者に会ったことがない。その興味も働いて、藤は彼女の誘いに乗ったのだった。
「お茶菓子、何がいいかしら。羊羹? 饅頭? それとも若い子はお煎餅の方がいいかしら」
「あの、そこまでしてもらわなくても」
「いいのよ。お客様なんて、もう何年ぶりかしら」
嬉しそうに微笑みながら、老女は三人を居間と思しき和室の座布団に座らせ、いそいそとお茶菓子の準備を始める。
案内された家の中は、こじんまりとした質素なものだった。夫とずっと二人暮らしだったと語る彼女の言葉通り、清潔感のある室内には、子供向けの調度品は一切見られない。
建物自体も、村の隅にひっそりと隠れるように建てられていて、家の前には手入れされた畑や花壇があったものの、お世辞にも日当たりのいい場所とは言えなかった。そのせいか、家全体に陰湿な空気が漂ってしまっているようにも思える。
お皿に煎餅を沢山並べて戻ってきた老女に、藤と歌仙はすぐさま腰を浮かせて皿を受け取った。手伝わなくていいと押し切られたとはいえ、流石に老人一人に、何もかもをやらせるのは気が引けたからだ。
「そういえば、お二人について何も聞いてなかったわね。ええと……朱美ちゃんのお友達?」
老女は何の衒いもなく、藤に尋ねていたが、彼女としては見知らぬ人にいきなり名前で呼ばれることに、些かの抵抗を感じていた。その様子を察知してか、老女もすぐさま「ごめんなさいね」と頭を下げる。
「朱音さん……あなたのお母さんとは小さいときから仲が良くて、あなたも何度か面倒を見ていたものだから、つい……」
「いえ、それは……いいんです。ちょっとびっくりしただけで」
藤は適当にお茶を濁し、老女の謝罪を曖昧な形でぼかした。
「ええと、こちらの二人は、その、仕事を一緒にしている人というか、家族みたいな人……というか」
彼女の発言に、歌仙はぱっと顔を輝かせる。声こそ発していなかったものの、感情の高揚は背を向けている藤にも伝わってくるほどだ。
本丸で別れて暮らしていた頃のことを、歌仙はずっと気に病んでいた。そんな彼にとって、藤から「家族」と紹介されるのは、計り知れないほどの喜びを与えるものだったのだ。
「今は住み込みで、その、色んな人たちと暮らす仕事をしていて。彼らも、そこに一緒にいるんです」
まさか、馬鹿正直に審神者と刀剣男士について語るわけにもいかない。審神者という職業の者が、歴史を守っているということについては、一般的に公にはなっているものの、まだまだ認知度は低い。
審神者になる前に受けた講習でも、どこに歴史修正主義者の手先がいるか分からないからと、事情を知らない人には職業は秘匿するように藤は指導されていた。
「そうなのね。元気そうで、本当に……本当に、よかった」
彼女は長く長く息を吐いて、ようやく対面の座布団に腰を下ろした。
やや気まずい沈黙が流れかけたとき、藤の隣にいた髭切が、不意に手を伸ばして皿から煎餅を摘まむ。藤が何か言うよりも先に、彼の口に煎餅が消えていた。
「ちょっと、こんなときに」
「いいじゃない。出されたものを食べない方が、失礼なんじゃないかな」
そんな風に指摘されると、今度は自分が無作法者に見えてくるから不思議だ。髭切の言葉に我に返ったらしい老女は、目を細めて「どうぞ」と促した。
そうまで言われると、最早拒絶するわけにもいかない。藤は一礼をしてから、お茶を口に含み、煎餅を口に運んだ。しょっぱい醤油の味付けと海苔のぱりっとした食感と風合いが、口の中に広がる。
藤が煎餅を一枚食べ終えた頃、老女は彼らに断りを入れてから、一度席を立った。彼女は背後にある箪笥の引き出しを開き、一番上の棚から小さな菓子箱を取り出し、
「これを、あなたに渡そうと思っていたの」
中を開けると、そこには少しばかり日焼けしたアルバムが入っている。藤がそこに顔を寄せると、長らく仕舞っていたためか、樟脳のすっとした香りが鼻を過った。
同じように空き箱に顔を寄せていた老女が、
「朱美さんは、その……あなた自身のことを、どれほど彼らに話しているのかしら」
ふと声を潜めて、藤に尋ねる。わざわざ歌仙と髭切に聞こえないように、声を押し殺して尋ねた理由を、藤は薄々察していた。だからこそ、彼女は頷く。
「僕は、全て打ち明けています。……あなたは、僕の額のことをご存じなのですね」
「ええ。それに、少し変わった舌を持っているだろうことも」
「……それも、話しています。だから、大丈夫です」
最後の言葉は、二人にも聞こえるように藤はわざと大きな声で話した。すると、老女は納得したように一度、深く深く頷き、身を引いた。
藤が歌仙と髭切にちらりと視線を送ると、彼らは主の背中を押すかのように、そっと首を縦に振ってみせる。
藤の手が、そろそろと黄ばんだ表紙に触れ、やがて少し固い紙でできた表紙がゆっくりと捲られた。
表紙の裏には、老女の家によく似た、こじんまりとした一軒家と、その前に立つ女性と男性の写真が貼り付けられていた。女性の手には、丸々とした赤子が抱かれている。
写真の下に記されている日付は、ちょうど二十年前のものだ。そして、赤子の額には、既に小さな角が見てとれた。
「この赤子が、もしかして僕?」
老女に藤が問うと、彼女は無言で首肯した。
「随分と愛らしい見た目をしていたんだね」
「そうかな。僕には、小猿みたいに見えるけれど」
微笑ましいと感じた気持ちを、言葉にした歌仙とは対照的に、遠慮の無い感想を口にした髭切を、藤は肘で小突く。赤子の時分のことに文句を言っても仕方ないのだが、それでも小猿扱いは些か腹に据えかねるものがあったからだ。
ぱらぱらとアルバムをめくっていくと、父親と母親から惜しみない愛情を注がれて育っている赤ん坊の写真が、何枚も続いていた。だが、そのどれもが同じ頃に撮影したもののようで、成長の記録というよりかは、ある一定期間を切り取って、断片として貼り付けたような印象を藤は受けていた。
最後まで見終わってから、藤はぱたりとアルバムを閉じる。顔を上げた先、老女は何か思い詰めたような顔で、藤を見つめていた。
「あなたは、僕のお母さんの知り合いだって言っていました」
「ええ」
「もし、よければ、あなたの知っている僕のお母さんについて、教えてもらえませんか。僕は、生まれてすぐに、山につれて行かれたのかと思っていました。でも、このアルバムを見た限り、僕は少なくとも数ヶ月はここにいた」
アルバムに記されている日付は、藤の誕生日よりいくらか後のことだった。ともあれ、彼女が幼い時分、ここにいたのは確かだ。
「僕は、僕のことを何もかも知っているつもりでいた。だけど、それは幼い僕の視点から見た世界で、その世界はとても小さいものだったと、今日改めて気が付いたんです」
故郷に戻り、改めて彼女はそこに何もない事実を目の当たりにした。自分が育ってきた世界は狭く、自分が守りたい思い出は世間から見たらやはり異質で、奇妙なものではあったのだろうと理解させられた。
自分が間違っていると言い続けることは、もうしない。
それは己の尊厳を自ら切り崩す行為だと、髭切にも叱られてしまったことだ。
だが、それとは別の視点で、藤は思う。
(僕がここに来た理由。それは、懐かしい気持ちに浸りたかったからでもあるし、お母さんに僕の選択肢を認めてほしかったからもある。でも、それとは別に、きっと)
藤は、隣に座る二人の刀剣男士へと、視線を送る。初めて、鬼でありたいという気持ちを受け止めてくれた二人は、今もこうして背中を支えてくれている。
(きっと、僕は、僕の辿った道を確かめたかったんだろう)
山を下りてから、一度も戻っていなかった故郷。まるで、夢の世界のことだったかのように、日々を暮らしていく度に薄れていく記憶。
多くの人間は、忘れた方がいいと言う。
だが、藤にとっては忘れがたい思い出だ。己を確立させるための多くを得た、大事な世界だ。
それを、改めて確認し、自分という存在を強固にしたいと藤は願う。
――君は、何がしたいの?
それを更に転じて、藤は思う。
――僕は、何者で、これから何になりたいのか。
「お願いです。僕のこと、僕の母のこと、それに――僕が暮らしていた山にあった村のこと。教えていただけますか」
そこまで言ってから、藤は老女の様子を窺った。
果たして、老女は長く長く息を吐き、皺が寄った目をそっと細める。さながら、何十年も背負ってきた荷物を下ろすかのような吐息であり、懊悩を重ねてきた顔がそこにあった。
「そうね。それなら、朱音さんや私が小さかった頃から、話した方がよさそうね」
彼女はお茶を一口含んでから、
「私と朱音さん、そして私の夫と彼女の夫は、その当時の村で唯一の子供たち――今で言う幼馴染みだったの」
何十年もの昔の話を、彼女はぽつりぽつりと拾い上げるように語り始めた。
***
かつてこの山には、鬼を自称する人々がいた。
――鬼として生きること。
それはあの村にとって、もはや不文律の習わしであった。
藤や歌仙たちが昨晩予測していたように、自ら異形の存在であると喧伝するようになったのは、古い時代にあった麓の人々との対立が原因だろうと、老女は語る。
自分たちに向かって石を投げてきた面々と、自分たちは違う生き物なのだと信じたい。そんな現実逃避染みた決意は、しかし彼らにとっては、揺るぎない拠り所となっていた。
「大昔は、山藤の蔓やら竹やらで作った道具を麓の人に売って、稼ぎにしていたそうなのだけどね。そうやって役に立つものを売ったとしても、扱いは変わらなかったと、そう聞かされて育ってきたわ」
鬼という名を名乗ったのは、何も少し風変わりな場所で暮らしていたからではない。また、藤のように角を明確に生やす者は、老女の知る限り誰一人としていなかった。だが、彼らは自らが鬼だと自覚する、ある特徴を抱えていた。
それが、人の血肉に関する異質な味覚――要するに、美味しいと感じてしまうことだったらしい。元を辿れば、麓の者たちとの対立関係も、そこから生じたのだろう。
人は、自分たちと異なる存在を恐れる。まして、自分たちを食って美味しいと感じる者がいたならば、忌避感を覚えることを否定できない。
「だけど、そうやって古い生活をしてきた鬼たちの中であっても、新しい価値観に触れようとする者はいたし、外で暮らしたいと村を飛び出したまままま帰ってこない人たちも、沢山出てきたそうよ」
麓の人々と対立関係にあったとしても、別に通行止めがされていたわけでもない。外の世界を見たいと望めば、新天地を求めた鬼たちは、容易く未知の世界に接触することができた。
そうした者の多くは、そのまま村を出て、戻ってこなかった。彼らを引き留める理由もないと、何より彼らの親である鬼たちもまた、重々承知していた。
電気もガスも十分に通っていないような僻地で、畑を作って自給自足を行う日々には、藤が育つより前から既に限界を迎えていたのだ。
そんな時世において、当時の村人の中でも年若い者たちが、「麓の近くで生活してはどうか」と村の面々に呼びかけたのが、一つの切っ掛けとなった。
「つまり、それが昨日僕たちに話してくれた、主――ええと、朱美さんの母親が育った場所なんだね」
老女の説明を聞いて、歌仙が言葉を引き取り、昨晩藤が語った内容と照らし合わせていく。
「僕たちが今日、見てきた場所だよね。やたら壁が壊されたり、中が破壊されたりしている家があった所かな」
髭切も、登山の道中で見かけた家を思い浮かべ、老女の説明を自分なりにかみ砕いて理解を進めていく。
「ええ。この頃の話を、私たちは小さいときに父や母から、つまり朱美さんの祖父母にあたる方々から聞いていたわ。その頃は、彼らも新しい時代を生きるために何かしなくてはと、必死だったみたい」
老女は何かを諦めたかのような、優しくも愁いを帯びた笑みを浮かべる。彼女の言葉は、全て過去の希望を語る形をしていた。
そうして、数人の若者たちが麓に近い山林の中で生活を始めた。子供も生まれた。それが、今目の前にいる老女であり、藤の両親でもあった。
暮らしの場こそ移動させたものの、自活していることに変わりはなく、決して楽とは言えない日々ではある。とはいえ、肝心の里の者たちは何をしてくるでもなく、彼らはこの試みから里の者たちとの和解を当初期待していたらしい。
だが、大きくなった子供たちが、里の子供に紛れて学校に行くようになった頃。問題は、思いがけない形で露呈した。
「いじめってほどじゃあないって、今なら言われるのかもしれないのだけれど……何といえばいいのでしょう。私たちに対しては、何をしても良いと。そういう空気があったの。まだ、ほんの小さな子供たちの間ですらね」
三人から目を逸らして語る彼女に、彼らはかける言葉を持ち合わせていなかった。歌仙や髭切には、そんな空気が想像すらできなかったからだ。
学校という閉鎖的な社会で、明らかに異質な存在としての扱いを受けてきた藤ですら、彼女に何と言えばいいのか分からなかった。なぜなら、彼女が暮らしてきた場においては、「何をしてもいい」という空気までは生まれていなかったからだ。
つまるところ、それは大人たちの間に、暗黙の了解としてそのような考えがあったことを裏付けていた。
鬼は、どのように扱ってもいいのだ――と。
陰湿さは薄くとも、明け透けで、それでいて的確に人の心を傷つける。そんな行為が許された場で何が起きたかを、彼女は詳しく語ろうとしなかった。
「そうして、色々と私たちが大変な時期に、矢面に立って守ってくれた幼なじみがいたの。それが、朱美さんのお父さん――彰人さんだったわ。彼には随分頼らせてもらったわね」
昔を懐かしんでか、老女は目を細めて言う。決して、楽しい思い出ではなかったとしても、僅かに残った煌びやかな欠片を掬い上げるかのように。
時が流れ、彼らは里から離れた学校にも通うようになった。進学に必要なお金は、山奥で暮らす者たちの努力と、村の外に出て行った者が時たま親戚に送る仕送りから捻出された。
そうして、鬼の中で最も若い彼らは、より広い外の世界を知った。山だけでは知り得なかった世界の広さに心を奪われ、外の世界で生きる日々に夢を抱くようになっていくのに、そんなに時間は必要ではなかった。
「でも、私たちには両親がいる。少し離れて暮らしていたとはいえ、私たちを見守ってくれた沢山の大人の鬼たちがいる。そんな彼らを置いていくのかと、私や朱音さんは悩み続けていたわ」
だが、現実は悩む時間を十分には与えてくれない。
学生という身分を失うときに、彼らは仕事を外に探すか、それとも今までのように山で自活する生活をするかの選択を迫られていた。
「彰人さんは、その頃には既に朱音さんと所帯を持つ約束をしていたのよ。私も、夫と共に暮らそうと決めて、何となくそのようにまとまっていたわ。そうして、男二人は親から代々受け継いでいた山林での仕事をやめて、外に働き口を探したの。でも、そうすると今度は今まで暮らしていた家から仕事場まで、あまりに遠すぎるってなってね」
「それは……そうだろうね」
老女の言葉に、歌仙は実感を込めた相槌を打つ。
道中にあった、破壊の跡が残る家から麓の村を通り抜けて駅に出るだけでも、相当な距離があるとは容易に想像がつく。あの山道に家があったなら、車の乗り入れすら困難だろう。
「じゃあ、この家はそのときに借りたんですか?」
藤が改めて家の中を見渡しながら問うと、老女はゆっくりと首を縦に振った。
「ええ。丁度二軒、古い空き家があってね。村の人たちは、最初はひどく嫌がっていたのですけれど。村長の奥さんにあたる方が……色々と、便宜を図ってくださったんです。鬼だなんだと言うのは、もう止めにしましょう、と」
その話だけを聞くなら、彼女の語る『奥さん』とやらは革新的な考えを持つ善人に聞こえた。だが歌仙は、老女の瞳の中に宿る激しい感情の炎を感じ取っていた。それは、お世辞にも好意とは言えないものだ。
歌仙の洞察とは裏腹に、老女は好感の持てる柔らかな笑みと共に言葉を続ける。
「それから一年ほどしてから、朱音さんがあなたを身ごもってね。村には大きな病院がないからって、大事をとって少し離れた場所のお医者さんのところで、朱音さんはあなたを産んだの。だから、あなたは小さい頃は、山ではなくここで育ったのよ」
「そして、その頃から僕には角があったんですね」
彼女は、アルバムの表紙をそろりと撫でながら呟く。
「最初は、私たちもそりゃあ驚いたわ。でも、結局病気でもなんでもないと分かって、朱音さんも彰人さんもほっとしていてね。朱美という名前は、二人で考えてつけたんだと話してくれたのよ」
顔中を笑顔にして友人に報告してきた、当時の二人を思ってか、老女は日向に座る猫のようにゆっくりと目を細めた。
彼女がゆるりと顔を動かし、窓の外を見やる。そこからは、藤たちが登った山の稜線がよく見えた。
「ちょうど、あなたが生まれた五月の頃は、この辺りに山藤が一面に咲き乱れて、山そのものが薄紫色に染まるの。それがとても綺麗で、だから朱美としたのよ」
「朱美――ああ、そうか。つまり、あけびだね」
歌仙は納得したように深々と頷くが、髭切は理解できなかったようで、こてんと首を傾げてみせる。
「どうして、藤の花があけびなんだい?」
「藤の花の異名は、狭野方の花。そして、それはあけびの花を指すとも言われているんだ。そこで二つの名を掛けて、あけび――つまり、朱美と名付けたんだね」
「ああ……なるほど。だから、子守歌もあんな歌詞だったんだ」
「子守歌?」
藤が不思議に思って尋ねてみるも、髭切は「そのうち話すね」と言葉を濁してしまった。彼女の夢をのぞき見ていた件について、まだ藤にきちんとした形では打ち明けられずにいた。
「そちらの……歌仙さんは、博識な方なのね。でも、それだけじゃないのよ」
「他にも何かあるんですか」
「ええ。私たちの村に伝わる古い古い昔話には、狭野方の花という名前のお姫様が、村の神様に嫁いでいったというものがあるの。神様は彼女をそれは大層慈しみ、幸せな日々を送り、村も栄えた――というおとぎ話。そうやって、神様に愛されるような子になりますようにと、朱音さんは私に話してくれたわ」
思いがけなく知らされた、自分の名にまつわる逸話を聞いて、藤は目の奥が仄かに熱を帯びるのを感じた。
神様に愛されているどうかについては、まだ自信は持てない。鳥居を潜れば相変わらず体調は崩してしまうし、本丸の刀剣男士とも、全員と仲良くできているとは到底言えない状態だ。
それでも、隣に座る二人が深く自分を気に掛け、愛してくれているということだけは、彼女は胸を張って言える。もし、ここに母がいたなら、今の自分の様子を伝えたかったと、藤は零れ落ちそうになる涙を堪えて思う。
「ただ、ね。私たちは気にしなかったけれど、その」
「鬼なんて言うのは止そうと言った矢先に、本当に鬼が現れちゃったからねえ」
ゆったりとした声音で、しかし冷静に髭切は指摘する。
「ええ。鬼の子だっていう話は、すぐに村中に広まってしまった。ようやく私たちも生活が落ち着いてきて、村での暮らしに馴染んだ頃だったのに……。色々と、嫌なことがあったの。最初はちょっとした無視とか、回覧板が回ってこなかったりとか、そういうものだったのだけれど」
やがて、ぽつぽつと散発的に発生していた嫌がらせは、再び公然のものに変わっていったと、老女は語る。かつて、子供時代に受けた仕打ちのように。
己の両親が、それらの日々にどんな気持ちを抱えて過ごしていたか。想像するだけで、熱くてどろどろとしたものが体中を駆け巡ったような気分になり、藤は思わず拳をきつく握りしめた。歌仙がそっと手を添えてくれたのが、今はとても有り難かった。
先を言うべきか、明らかに老女は悩んでいた。決して楽しい思い出話にならないことぐらいは、十分すぎるぐらい分かっている。
藤がもういい、と一言言えば、彼女は話を切り上げるだろうということは、歌仙にも髭切にも、藤自身も承知していた。
けれども、彼女は先を促す言葉だけを口にする。
「それから、どういう経緯で、お母さんたちはあの村に来たんですか」
藤の言葉に圧されるようにして、老女は昔話を続ける。
「あの日……冬が近い、少し肌寒い日のことだったわ。村長の奥さんは、村のことや育児で疲れている朱音さんのために、度々家に来て色々と家事を手伝ってくれていてね。あのときも、朱音さんに代わって、娘さん――朱美さん、あなたをお風呂に入れてあげようと言ったの。朱音さんも、最初はお願いしたのだけれど、やっぱり娘の世話をご近所とはいえ他人に任せっぱなしにするのも申し訳ないと、お風呂場に行ったのね。そこで」
老女は口をつぐむ。あたかも、これから口にすることがとても恐ろしいものであるかのように。
「そこで……どうしたんですか」
藤が促しても、彼女は俯いたまま答えない。噛み締めすぎた唇は、力をこめすぎたせいで白くなっていた。
「僕なら、大丈夫です。何があったとしても、僕はここでこうして、元気にしているわけですから」
藤の言葉が切っ掛けになったのだろう。
数秒をおいて、老女はいう。
「そこで、奥さんが――赤ん坊のあなたを、溺れさせようとしているのを、見つけてしまった」
ひゅっと、鋭く息を飲む声がした。
藤の顔が真っ青になっていくのに気がついた歌仙は、彼女の震える手を己の手で包み込む。小さな震えは、歌仙の手にも確かに伝わってきていた。
だが、宣言通り、藤は「それ以上聞きたくない」とは言わなかった。
「――それで、どう、なったんですか」
「……朱音さんは大慌てであなたを助け、奥さんを怒鳴りつけて、外へ追い出したわ。ちょうど、私も自宅にいたのだけれど、あまりに大きな騒ぎだったので、今でもよく覚えているの。子を守るためなら母は鬼にもなると言うけれど、あなたを抱いた彼女はまさに鬼のようだった」
母親は一切の迷いを捨て、己の子を――たとえ、鬼のような見た目の子だったとしても、子供を守ることをすかさず選び取った。
村八分の切っ掛けになった子だとしても、朱音という女性にとって、子供は唯一無二の宝だったのだろう。
「幸い、あなたが湯に沈められていた時間は、ほんの数秒だったから、病院でもみてもらって、すぐに何ともないことはわかった。けれども、あの人は、朱音さんを守ろうとしていた彼女は、本気だった」
何がいったい本気なのか。
今まで、鬼を取り巻く数多の感情を考えてきた髭切には、何となくこの話の行く末が既に見えたような気がした。
「奥さんは、本気で朱音さんを案じていた。朱音さん夫婦のために、彼女が村で生きづらくなった理由――つまり、鬼の子供を、いなかったことにしようとした」
幼子が、本当に憎かったわけではない。ただ、母親を幸せにするためには、鬼の子がどうしても邪魔だった。それだけが、『心優しい女性』が動く理由になっていた。
「もちろん、朱音さんはカンカンだった。奥さんは、朱音さんが分かってくれないと、嘆き悲しんだ。その様子を見て、村の人たちは同情した。せっかく、鬼の子をなかったことにしてやろうとしたのに、と」
無論、村長の奥方がとった行動は、犯罪である。
だが、彼女はあくまで、自分にとって、そして世間にとっての正義を貫いただけだった。しかも、わざわざ赤の他人である鬼なんかのために。
それは、少なくともこの村の者から見れば、道徳的で慈悲に満ちた行動だった。その瞬間、鬼子を守ろうとした夫婦は慈悲を理解しない愚か者へと、更に立場を落とすこととなった。
それから、目に見える形で日々の暮らしは悪くなっていった。村から追い出そうとする意思が垣間見えるような嫌がらせは、公然と彼らの元に集中し、それが頂点に達した頃。
――親子は、姿を消した。
「ある日、私が家の様子を見に行ったら、人の気配がしなくなっていたの。不思議に思って中を覗いてみても、誰もいない。周りの人は、外で家を借りて引っ越したんだろうって話していた。でも、私たちは知っていた。二人には、そんな余裕はないって」
外に働きにいっていた夫も、その頃は降りかかるストレスで疲れ果てている妻を守るために、家にいる必要に駆られ、長く休職していた。ひょっとしたら、辞職していたのかもしれない。
進退窮まるとは、まさにこのことであり、そんな状態で外側に解決を求めるのは不可能に近いと、残された嘗ての幼なじみである老女たちには分かっていた。
ならば、もしかしたら以前自分たちが暮らしていた家に隠れ住んだのかもしれないと、彼女は夫と共に実家へと足を向けた。
「私たちの両親は、私たちが自立し始めた頃には、村に戻っていっていたから、当時から空き家だったの。そこなら生活設備もそれなりに整っているし、自活してひっそりと落ち着いて暮らせるだろうから、そこに向かったに違いないって、こっそり様子を見に行って……でも、そこは、もう私たちの知っている家ではなかった」
残っていたのは、歌仙たちも目にした破壊の痕跡が刻まれた家だけだった。
この頃は、まだ廃墟目当ての登山客も少なく、ならば誰が壊したかについては、もはやわざわざ考える必要すらない。
(あの様子から見るに、面白半分でやったようには見えなかったからねえ)
髭切は、老女の言葉を聞きながら、数時間前に目にした光景を頭の中で繰り返す。
藤に案内されて辿り着いた廃村は、自然な荒廃の様子を見せていたが、麓に近い家には、明らかに人為的な破壊の痕跡があった。
それほどまでに、山の麓で暮らす人々にとって、山の中に隠れ潜む鬼はいなくなってほしいものだったのだろう。
「それ以上、奥へ探しに行くことはできなかった。私たちは、山の向こう側にいるという大人たちの所に、一人で行ったことは一度もなかったから。迷って帰ってこられなくなる危険の方が大きくて、私たちはそれ以上、あなたたち親子を探すのをやめてしまった」
きっと、山を越えたどこかで暮らしている。あるいは、両親たちと上手く合流して、山中にあるという村で過ごしているのかもしれない。
そのように己に言い聞かせて、彼女たちは捜索を打ち切った。
村人たちも、家族一つを外に追い出したことで、少し頭が冷えたのだろう。残された老女夫妻には、まるで罪滅ぼしのように、親しく接するようになっていった。そんなことをしても、三人は戻ってこないというのに。
「それで、もう何もかもが終わったつもりだったの。十年前、閉鎖していた集落と思しき場所で、子供が見つかったとニュースになるまでは」
「あなたは、すぐ気が付いたんだろうね。それが、いなくなった子供だってことに」
衝撃で言葉すら発せなくなっている主の代わりに、彼が老女の語りを先に促す。
「他に誰も見つからなかったと聞いて、朱音さんたちがどうなったのか、それで想像がついてしまった。そして、残された子供が、誰の子なのかも」
老女はそこまで言った瞬間、張り詰めた糸が切れたかのように、がくりと頭を下げた。
項垂れた老女からは、耐えきれずに漏れ出たすすり泣きが零れ、静かな部屋に谺する。
「……ごめんなさい。私は、気が付いていたのに。その子が誰か分かっていたのに……私は、引き取ろうとは、言い出せなかった」
鬼の中で育ってきた事情をある程度理解しており、更に身体的特徴や両親のことまで知っていたのなら、彼女は残された鬼の子を育てるのにこれ以上ない適任者だっただろうとは、髭切や歌仙にすら分かることだ。
彼女たちが、朱美という鬼の子を引き取り、暮らす場所を捨てて、鬼のしがらみから多少遠ざかった場所で暮らしていたなら、少なくとも朱美は――藤は、四面楚歌の状態で己を磨り潰さずに済んだのではないか。
その意見を歌仙が口にしかけたとき、
「私は……怖かったの。鬼の子が戻ってきたら、私たちは今までの生活を捨てなくてはいけない。それ以上に、ようやく少しずつ得た普通の暮らしが、壊されてしまうかもしれないことが、私は、恐ろしかった」
そうして保身に走り、幼なじみの忘れ形見について、見なかったふりをした。こんな村に戻ってくるよりはよほどいい、と己に嘘をつき、沈黙を選んだ。
村の老人たちが、鬼であり続けることに固執していたと聞かされていた彼女には、幼子が外とは異なる価値観で育ってきた可能性が高いと予想できていた。
恐らく、世間との軋轢に悩み、そのとき彼女が逃げ込める『親』という拠り所すらないのだろうと、想像はついていた。
――それでも、見捨てた。
関わらない選択をした。
朱美を見た瞬間、老女が何十年も抱えてきた荷物を下ろしたかのような顔をしたのは、きっとこのことが原因だろうとは、三人ともすでに分かってしまっていた。
自分が見捨てた子供が、自暴自棄になって命を落とすでもなく、成長して姿を見せ、ようやく彼女は懺悔の機会を得たのだ。
「――どうか、謝らないでください」
首を下に向けたまま、体を縮ませるようにして肩を震わせる老女に、藤はそっと語る。
「たしかに、僕は外で暮らし始めて、今までと違う価値観に戸惑いました。たくさん、悲しい思いもしました。でも、それだけじゃなかったと思っています」
歯を食いしばって耐えねばならないことも、たくさんあった。つい先日まで、自分の心を滅多刺しにして、死んだように笑っていた日々を、忘れたわけではない。
それでも、だからと言って、目の前の女性を闇雲に責めようとは思わなかった。
仲が良かったはずの誰かに、非難されるのが怖い。
やっと手に入れた穏やかな生活を、壊されるのが怖い。
その気持ちは、藤にとっては馴染みのあるものだった。
一年前の冬、歌仙たちを拒絶する直前まで、自分は彼らとの平穏な日々を壊すまいと、己を磨り潰す選択をしたのだから。
形はどうあれ、それは泣き崩れる老女と同じく、逃避の選択だった。
「僕はあれから、良い人たちに引き取られました。学校にも行かせてもらいました。仕事にも就けました。それに、信頼できる人たちも、ちゃんとここにいます」
ちらりと、藤は両側に座る彼らに目をやる。
その視線に応えるように、歌仙も髭切も、ゆっくりと頷き返した。
「お話、ありがとうございました。それに、写真も残していてくれて感謝しています。あなたにとって、辛いことでもあったはずなのに」
「ずっと、あなたに渡さなくてはいけないと思っていたの。もしよかったら、持っていってちょうだい」
ようやく顔を上げた老女の目は、まだ少し赤い。彼女は、藤に謝罪するように、更に深々と頭を垂れた。
「私にとっての故郷を再び見せてくれて、私にお母さんのことを教えてくれて、本当にありがとうございます。だからもう、自分を許してあげてください」
恐る恐るといった様子で顔を上げる彼女に、藤は微笑んでみせた。
老女の中で、今の今まで残り続けていた親子のことは、もう背負わなくていいのだと、伝えるために。
***
せっかく生家の近くに来たついでに、と老女は三人を藤が生まれて数ヶ月を過ごした家まで案内してくれた。
現在は誰も住んでいないとのことだったが、老女が定期的に掃除に行っていると言った通り、そこまで汚れてはいないようだった。
鍵を開けて中に入っていく藤、そしてその背を守るようについていく髭切の姿を、歌仙は目を軽く伏せて、そっと見つめている。まるで、そこにはもう自分の入る余地はないのだと言わんばかりに。
「すみません、歌仙さん。初対面のあなたに不躾とは承知ですが、一つお願いをしてよいでしょうか」
そんな歌仙の元に、一通り涙を流し終えて心を静めた老女が顔を見せる。
「それは構わないが……いったい何だろうか」
「朱美さんは、あなたをとても信頼しているようでした。ですから、どうか、朱美さんの側にいてあげてほしいんです」
「それは、言われずとも――と引き受けたいところなんだが、正直な所を言うと、それは僕ではなくあちらの彼に頼むことを薦めるよ」
窓を通して見える、薄い金の髪をした彼に、歌仙は視線を送る。
「実を言うと、僕は一度彼女をひどく傷つけてしまっているんだ。お互いに誤解もあったし、彼女は僕の言い分を汲んで、理解もしてくれたようだったが……彼は、僕よりもずっと真剣に、彼女と向き合っていた。だから、ちょっとばかり付き合いが長いだけの古ぼけた僕より、彼の方が、きみの願いを叶えるには相応しいかもしれない」
どこか痛々しさを混ぜた瞳で、歌仙は語る。
何か懐かしいものでも見つけたのか、窓ガラス越しにも破顔する藤の様子が見てとれた。その笑顔は、今は髭切に向けられている。
「僕は、彼女の家族になれたらと思っていた。ここに来たら、彼女の家族になれる切っ掛けのようなものが、得られるかもしれない……なんて、打算的なことを考えていたくらいさ。結局、答えは見つけられなかったけどね」
「……私は、あなたの探し求めているものが何かは分かりません。ですが、あなたこそ、私は朱美さんの家族に相応しいと思いますよ」
まだ少し涙で滲んだ瞳の奥に、歳を重ねた人独特の落ち着いた知性を漂わせ、老女は語る。
「あの綺麗な方は、朱美さんを見ているとき、何かを望むような目をされています。彼女と共に次は何をしよう、彼女は何を見せてくれるだろうと言う、期待の目です。けれども、あなたの目はとても優しい」
彼女の言葉に、歌仙は翡翠の双眸をゆっくりと見開いた。
「彼女がどんなことになっても、受け入れようという目をしています。何か辛いことがあって、先に進めなくなったとき、あなたはきっと朱美ちゃんの帰る場所になってくれる。そんな風に私は感じます。だからこそ、私はあなたに頼みたい」
彼女が挫けそうになったら、そっと背中を支えてくれる人であってほしい。
両親を失い、世間からも冷たい目で見られることが多い彼女の理解者になってほしい。
老女の言葉に、歌仙は今まで目の前に広がっていた靄が晴れていくような気がした。
確かに、隣に立って彼女の手を引くのは、主への希望と期待を抱えて先を行ける者が望ましいのかもしれない。それは、きっと髭切が担う役割だ。
ならば、その足が止まってしまい、挫けそうになったときは、どうするか。
前へ前へと手を引いても、立てなくなってしまったときは、どうするか。
そのとき、必要なのは先へ進むように手を引くものではない。
「そうだね。僕は、主の――朱美の、最初の刀に選ばれたのだから」
彼女が、帰るところになろう。
彼女が、羽を休める場所になろう。
髭切とは違う、それでいて彼女にとって必要なものに。
「彼女は、他人の善意に対して、応えなければいけない、報わねばならないと思っている節があるようなんだ。そんなとき、今度は僕が支えてあげればと願うよ」
「朱音さんも、よく口癖のように言っていました。他人の親切には、できるだけ親切で以て応じねば、と。朱音さんは、きっと朱美さんにもそう教えたのでしょうね」
「それは、他人との協力が必要な環境にいたからこそ、だったんだろう」
古い生活には相互扶助が欠かせないだろうと、歌仙は推測して相槌を打ったが、意外にも老女は首をゆっくりと横に振った。
「彼女は、奥様の一件があってから尚更、そのように私に言っていたんです」
「それはまた、どうして」
善意の押し付けで娘を失うことになりそうだったのに、自分がされたことをどうして肯定したのか。
歌仙が不思議に思って尋ねると、
「こういった場所で生きるのには、必要なのですよ。誰かに何かしてあげたなら、同じくらいの何かで報いることを求められていると思わないと、痛い目を見てしまうのだと、私に教えたかったのでしょう」
虐げられてしまったからこそ、同じような目に遭わないように友人に忠告をしたのだろうと、老女は遠い目で語る。
「けれども、朱音さんは、朱美ちゃんを抱いて、こうも言っていました」
老女は、胸に秘めていた宝物をそっと見せるかのように、囁いた。
その独り言めいた言葉を噛み締めるように、彼は言葉を発さず、静かに一つ頷いたのだった。
だが、本来の悩みである「誰かを傷つけてまで、己の意志を貫き通す」ことについて、母から返事を貰えたかと訊かれれば、これは勿論「否」と言うしかない。
死人が何を語るわけでもなし、つまるところ彼女の当初の目標は、最初から達成が不可能なものでもあった。
彼女の故郷から麓まで、無事に下りられるかという不安は、下山を開始してすぐに払拭された。
下り坂が上りより楽だったからではなく、また裏道を見つけたというわけでもない。行きの道同様、あたかも誰かに道筋を指し示されたかのように、通るべき道が分かったからだ。
山道がまるで切り取られて繋ぎ合わされていたように、帰りの道は極端に短く、楽に済んだ。その不自然な短縮について、髭切はもしやと思っていたが、結局彼が懸念していた相手の姿が主の前に現れることはなかった。
そうして登山前に見た家の近くに戻る頃には、まだ太陽は十分に顔を出している頃合いだった。
このまま帰れば、夜には本丸に帰れるのではないか。藤がそんな話を歌仙としていると、
「おお、帰ってきなさったか。ほら、ごらん。あれがさっき話してた若いもんたちだよ」
行きの時に注意をしてくれた老人が、こちらに向かって手を振っていた。
近くには、朝には見かけなかった初老の女性がいる。着古した様子が窺える軽装から察するに、近所に住んでいる人だろう。
「見たいもんは見れたか?」
「ええ、まあ……大体は」
老人に問われ、藤は少しばかり言葉を濁した。奥に行くなとあれほど注意されたにも拘わらず、結局奥地に分け入ったことが申し訳なく思えたからだ。
「そりゃあよかった。怪我もなく、見たいもんも見れたなら、それが一番だ。なあ」
老人は同意を求めるように、立ち話をしていたらしい初老の女性に話しかける。
だが、彼女は老人の声に相槌すら打たず、何故か藤をじっと見つめていた。食い入るかのような視線は、ただ余所者を観察しているだけにしては、随分と鬼気迫るものがある。彼女に害意を持つ者と、髭切はそれとなく老女と藤の間に割って入った。
「あの、僕が何か」
知らない間に、不作法な振る舞いをしてしまっただろうかと、藤が恐る恐る尋ねると、
「――朱音さん」
老女は震えるような声で、藤を見据えたまま、ぽそりと呟く。その声は、まるで吹きさらしの蝋燭のように細かった。
聞き慣れない人間の名前を耳にして、髭切と歌仙はお互いに顔を見合わせる。だが、首を傾げる二人とは対照的に、
「え……?」
藤は顔色を変え、老女と同じくらいに、か細い声を震わせていた。
「朱音さん。いえ、あなた、もしかして」
彼女の視線が、少しばかり上にずれる。その先には、藤の額――角を隠すために額を覆っている藤色の布があった。
彼女の視線が布の下を暴いているような気がして、藤は反射的に額に手をやる。彼女の所作を見て、老女は小さく息を呑んだ。
「朱美ちゃん、なの」
瞬間、藤の世界から音が消えた。
知り合いなのかね、と老女に尋ねる老人の声も。
どうしたんだい、と肩に触れる歌仙の声も。
全て、藤の耳から掻き消えていた。
「――どうして、僕の名前を」
藤がそのように口にした瞬間、老女の皺が寄った目から透明な雫が零れ落ちた。
「ああ……っ、やっぱり」
長年探し求めていた何かに、やっと出会えたかのような、安堵と達成感が混ざった顔で、彼女は顔をくしゃくしゃに歪める。
力が抜けたようにその場に崩れ落ちる老女を、藤は咄嗟に手を差し伸べて支えた。様子のおかしい彼女たちの側に駆け寄った歌仙は、
「主、朱美というのは、誰のことだい」
そっと耳元で藤に話しかけられ、ようやく藤は歌仙と髭切の存在を思い出した。
息を整えるために、数度深呼吸を挟んでから、藤は言う。
「朱美は、僕の――本名だよ」
***
「大したもてなしもできなくて、すみませんね」
「いえいえ、こちらこそ突然訪問して申し訳ない」
差し出されたお茶を丁寧に受け取り、歌仙は静々と頭を下げる。その礼儀正しい態度に好感を抱いたのか、老女も安心したような笑みを浮かべた。
あの後、朱美――もとい藤に、老女は自分のことを「かつて藤の母と親しくしていた者だ」と紹介した。
もし時間があるのなら、渡したいものがあるので是非うちに来てほしいと、続けて彼女は提案した。
今回の里帰りの目標については、先だっての故郷訪問で半ば既に達成されているし、母の知人について、藤は今まで村の人たち以外の者に会ったことがない。その興味も働いて、藤は彼女の誘いに乗ったのだった。
「お茶菓子、何がいいかしら。羊羹? 饅頭? それとも若い子はお煎餅の方がいいかしら」
「あの、そこまでしてもらわなくても」
「いいのよ。お客様なんて、もう何年ぶりかしら」
嬉しそうに微笑みながら、老女は三人を居間と思しき和室の座布団に座らせ、いそいそとお茶菓子の準備を始める。
案内された家の中は、こじんまりとした質素なものだった。夫とずっと二人暮らしだったと語る彼女の言葉通り、清潔感のある室内には、子供向けの調度品は一切見られない。
建物自体も、村の隅にひっそりと隠れるように建てられていて、家の前には手入れされた畑や花壇があったものの、お世辞にも日当たりのいい場所とは言えなかった。そのせいか、家全体に陰湿な空気が漂ってしまっているようにも思える。
お皿に煎餅を沢山並べて戻ってきた老女に、藤と歌仙はすぐさま腰を浮かせて皿を受け取った。手伝わなくていいと押し切られたとはいえ、流石に老人一人に、何もかもをやらせるのは気が引けたからだ。
「そういえば、お二人について何も聞いてなかったわね。ええと……朱美ちゃんのお友達?」
老女は何の衒いもなく、藤に尋ねていたが、彼女としては見知らぬ人にいきなり名前で呼ばれることに、些かの抵抗を感じていた。その様子を察知してか、老女もすぐさま「ごめんなさいね」と頭を下げる。
「朱音さん……あなたのお母さんとは小さいときから仲が良くて、あなたも何度か面倒を見ていたものだから、つい……」
「いえ、それは……いいんです。ちょっとびっくりしただけで」
藤は適当にお茶を濁し、老女の謝罪を曖昧な形でぼかした。
「ええと、こちらの二人は、その、仕事を一緒にしている人というか、家族みたいな人……というか」
彼女の発言に、歌仙はぱっと顔を輝かせる。声こそ発していなかったものの、感情の高揚は背を向けている藤にも伝わってくるほどだ。
本丸で別れて暮らしていた頃のことを、歌仙はずっと気に病んでいた。そんな彼にとって、藤から「家族」と紹介されるのは、計り知れないほどの喜びを与えるものだったのだ。
「今は住み込みで、その、色んな人たちと暮らす仕事をしていて。彼らも、そこに一緒にいるんです」
まさか、馬鹿正直に審神者と刀剣男士について語るわけにもいかない。審神者という職業の者が、歴史を守っているということについては、一般的に公にはなっているものの、まだまだ認知度は低い。
審神者になる前に受けた講習でも、どこに歴史修正主義者の手先がいるか分からないからと、事情を知らない人には職業は秘匿するように藤は指導されていた。
「そうなのね。元気そうで、本当に……本当に、よかった」
彼女は長く長く息を吐いて、ようやく対面の座布団に腰を下ろした。
やや気まずい沈黙が流れかけたとき、藤の隣にいた髭切が、不意に手を伸ばして皿から煎餅を摘まむ。藤が何か言うよりも先に、彼の口に煎餅が消えていた。
「ちょっと、こんなときに」
「いいじゃない。出されたものを食べない方が、失礼なんじゃないかな」
そんな風に指摘されると、今度は自分が無作法者に見えてくるから不思議だ。髭切の言葉に我に返ったらしい老女は、目を細めて「どうぞ」と促した。
そうまで言われると、最早拒絶するわけにもいかない。藤は一礼をしてから、お茶を口に含み、煎餅を口に運んだ。しょっぱい醤油の味付けと海苔のぱりっとした食感と風合いが、口の中に広がる。
藤が煎餅を一枚食べ終えた頃、老女は彼らに断りを入れてから、一度席を立った。彼女は背後にある箪笥の引き出しを開き、一番上の棚から小さな菓子箱を取り出し、
「これを、あなたに渡そうと思っていたの」
中を開けると、そこには少しばかり日焼けしたアルバムが入っている。藤がそこに顔を寄せると、長らく仕舞っていたためか、樟脳のすっとした香りが鼻を過った。
同じように空き箱に顔を寄せていた老女が、
「朱美さんは、その……あなた自身のことを、どれほど彼らに話しているのかしら」
ふと声を潜めて、藤に尋ねる。わざわざ歌仙と髭切に聞こえないように、声を押し殺して尋ねた理由を、藤は薄々察していた。だからこそ、彼女は頷く。
「僕は、全て打ち明けています。……あなたは、僕の額のことをご存じなのですね」
「ええ。それに、少し変わった舌を持っているだろうことも」
「……それも、話しています。だから、大丈夫です」
最後の言葉は、二人にも聞こえるように藤はわざと大きな声で話した。すると、老女は納得したように一度、深く深く頷き、身を引いた。
藤が歌仙と髭切にちらりと視線を送ると、彼らは主の背中を押すかのように、そっと首を縦に振ってみせる。
藤の手が、そろそろと黄ばんだ表紙に触れ、やがて少し固い紙でできた表紙がゆっくりと捲られた。
表紙の裏には、老女の家によく似た、こじんまりとした一軒家と、その前に立つ女性と男性の写真が貼り付けられていた。女性の手には、丸々とした赤子が抱かれている。
写真の下に記されている日付は、ちょうど二十年前のものだ。そして、赤子の額には、既に小さな角が見てとれた。
「この赤子が、もしかして僕?」
老女に藤が問うと、彼女は無言で首肯した。
「随分と愛らしい見た目をしていたんだね」
「そうかな。僕には、小猿みたいに見えるけれど」
微笑ましいと感じた気持ちを、言葉にした歌仙とは対照的に、遠慮の無い感想を口にした髭切を、藤は肘で小突く。赤子の時分のことに文句を言っても仕方ないのだが、それでも小猿扱いは些か腹に据えかねるものがあったからだ。
ぱらぱらとアルバムをめくっていくと、父親と母親から惜しみない愛情を注がれて育っている赤ん坊の写真が、何枚も続いていた。だが、そのどれもが同じ頃に撮影したもののようで、成長の記録というよりかは、ある一定期間を切り取って、断片として貼り付けたような印象を藤は受けていた。
最後まで見終わってから、藤はぱたりとアルバムを閉じる。顔を上げた先、老女は何か思い詰めたような顔で、藤を見つめていた。
「あなたは、僕のお母さんの知り合いだって言っていました」
「ええ」
「もし、よければ、あなたの知っている僕のお母さんについて、教えてもらえませんか。僕は、生まれてすぐに、山につれて行かれたのかと思っていました。でも、このアルバムを見た限り、僕は少なくとも数ヶ月はここにいた」
アルバムに記されている日付は、藤の誕生日よりいくらか後のことだった。ともあれ、彼女が幼い時分、ここにいたのは確かだ。
「僕は、僕のことを何もかも知っているつもりでいた。だけど、それは幼い僕の視点から見た世界で、その世界はとても小さいものだったと、今日改めて気が付いたんです」
故郷に戻り、改めて彼女はそこに何もない事実を目の当たりにした。自分が育ってきた世界は狭く、自分が守りたい思い出は世間から見たらやはり異質で、奇妙なものではあったのだろうと理解させられた。
自分が間違っていると言い続けることは、もうしない。
それは己の尊厳を自ら切り崩す行為だと、髭切にも叱られてしまったことだ。
だが、それとは別の視点で、藤は思う。
(僕がここに来た理由。それは、懐かしい気持ちに浸りたかったからでもあるし、お母さんに僕の選択肢を認めてほしかったからもある。でも、それとは別に、きっと)
藤は、隣に座る二人の刀剣男士へと、視線を送る。初めて、鬼でありたいという気持ちを受け止めてくれた二人は、今もこうして背中を支えてくれている。
(きっと、僕は、僕の辿った道を確かめたかったんだろう)
山を下りてから、一度も戻っていなかった故郷。まるで、夢の世界のことだったかのように、日々を暮らしていく度に薄れていく記憶。
多くの人間は、忘れた方がいいと言う。
だが、藤にとっては忘れがたい思い出だ。己を確立させるための多くを得た、大事な世界だ。
それを、改めて確認し、自分という存在を強固にしたいと藤は願う。
――君は、何がしたいの?
それを更に転じて、藤は思う。
――僕は、何者で、これから何になりたいのか。
「お願いです。僕のこと、僕の母のこと、それに――僕が暮らしていた山にあった村のこと。教えていただけますか」
そこまで言ってから、藤は老女の様子を窺った。
果たして、老女は長く長く息を吐き、皺が寄った目をそっと細める。さながら、何十年も背負ってきた荷物を下ろすかのような吐息であり、懊悩を重ねてきた顔がそこにあった。
「そうね。それなら、朱音さんや私が小さかった頃から、話した方がよさそうね」
彼女はお茶を一口含んでから、
「私と朱音さん、そして私の夫と彼女の夫は、その当時の村で唯一の子供たち――今で言う幼馴染みだったの」
何十年もの昔の話を、彼女はぽつりぽつりと拾い上げるように語り始めた。
***
かつてこの山には、鬼を自称する人々がいた。
――鬼として生きること。
それはあの村にとって、もはや不文律の習わしであった。
藤や歌仙たちが昨晩予測していたように、自ら異形の存在であると喧伝するようになったのは、古い時代にあった麓の人々との対立が原因だろうと、老女は語る。
自分たちに向かって石を投げてきた面々と、自分たちは違う生き物なのだと信じたい。そんな現実逃避染みた決意は、しかし彼らにとっては、揺るぎない拠り所となっていた。
「大昔は、山藤の蔓やら竹やらで作った道具を麓の人に売って、稼ぎにしていたそうなのだけどね。そうやって役に立つものを売ったとしても、扱いは変わらなかったと、そう聞かされて育ってきたわ」
鬼という名を名乗ったのは、何も少し風変わりな場所で暮らしていたからではない。また、藤のように角を明確に生やす者は、老女の知る限り誰一人としていなかった。だが、彼らは自らが鬼だと自覚する、ある特徴を抱えていた。
それが、人の血肉に関する異質な味覚――要するに、美味しいと感じてしまうことだったらしい。元を辿れば、麓の者たちとの対立関係も、そこから生じたのだろう。
人は、自分たちと異なる存在を恐れる。まして、自分たちを食って美味しいと感じる者がいたならば、忌避感を覚えることを否定できない。
「だけど、そうやって古い生活をしてきた鬼たちの中であっても、新しい価値観に触れようとする者はいたし、外で暮らしたいと村を飛び出したまままま帰ってこない人たちも、沢山出てきたそうよ」
麓の人々と対立関係にあったとしても、別に通行止めがされていたわけでもない。外の世界を見たいと望めば、新天地を求めた鬼たちは、容易く未知の世界に接触することができた。
そうした者の多くは、そのまま村を出て、戻ってこなかった。彼らを引き留める理由もないと、何より彼らの親である鬼たちもまた、重々承知していた。
電気もガスも十分に通っていないような僻地で、畑を作って自給自足を行う日々には、藤が育つより前から既に限界を迎えていたのだ。
そんな時世において、当時の村人の中でも年若い者たちが、「麓の近くで生活してはどうか」と村の面々に呼びかけたのが、一つの切っ掛けとなった。
「つまり、それが昨日僕たちに話してくれた、主――ええと、朱美さんの母親が育った場所なんだね」
老女の説明を聞いて、歌仙が言葉を引き取り、昨晩藤が語った内容と照らし合わせていく。
「僕たちが今日、見てきた場所だよね。やたら壁が壊されたり、中が破壊されたりしている家があった所かな」
髭切も、登山の道中で見かけた家を思い浮かべ、老女の説明を自分なりにかみ砕いて理解を進めていく。
「ええ。この頃の話を、私たちは小さいときに父や母から、つまり朱美さんの祖父母にあたる方々から聞いていたわ。その頃は、彼らも新しい時代を生きるために何かしなくてはと、必死だったみたい」
老女は何かを諦めたかのような、優しくも愁いを帯びた笑みを浮かべる。彼女の言葉は、全て過去の希望を語る形をしていた。
そうして、数人の若者たちが麓に近い山林の中で生活を始めた。子供も生まれた。それが、今目の前にいる老女であり、藤の両親でもあった。
暮らしの場こそ移動させたものの、自活していることに変わりはなく、決して楽とは言えない日々ではある。とはいえ、肝心の里の者たちは何をしてくるでもなく、彼らはこの試みから里の者たちとの和解を当初期待していたらしい。
だが、大きくなった子供たちが、里の子供に紛れて学校に行くようになった頃。問題は、思いがけない形で露呈した。
「いじめってほどじゃあないって、今なら言われるのかもしれないのだけれど……何といえばいいのでしょう。私たちに対しては、何をしても良いと。そういう空気があったの。まだ、ほんの小さな子供たちの間ですらね」
三人から目を逸らして語る彼女に、彼らはかける言葉を持ち合わせていなかった。歌仙や髭切には、そんな空気が想像すらできなかったからだ。
学校という閉鎖的な社会で、明らかに異質な存在としての扱いを受けてきた藤ですら、彼女に何と言えばいいのか分からなかった。なぜなら、彼女が暮らしてきた場においては、「何をしてもいい」という空気までは生まれていなかったからだ。
つまるところ、それは大人たちの間に、暗黙の了解としてそのような考えがあったことを裏付けていた。
鬼は、どのように扱ってもいいのだ――と。
陰湿さは薄くとも、明け透けで、それでいて的確に人の心を傷つける。そんな行為が許された場で何が起きたかを、彼女は詳しく語ろうとしなかった。
「そうして、色々と私たちが大変な時期に、矢面に立って守ってくれた幼なじみがいたの。それが、朱美さんのお父さん――彰人さんだったわ。彼には随分頼らせてもらったわね」
昔を懐かしんでか、老女は目を細めて言う。決して、楽しい思い出ではなかったとしても、僅かに残った煌びやかな欠片を掬い上げるかのように。
時が流れ、彼らは里から離れた学校にも通うようになった。進学に必要なお金は、山奥で暮らす者たちの努力と、村の外に出て行った者が時たま親戚に送る仕送りから捻出された。
そうして、鬼の中で最も若い彼らは、より広い外の世界を知った。山だけでは知り得なかった世界の広さに心を奪われ、外の世界で生きる日々に夢を抱くようになっていくのに、そんなに時間は必要ではなかった。
「でも、私たちには両親がいる。少し離れて暮らしていたとはいえ、私たちを見守ってくれた沢山の大人の鬼たちがいる。そんな彼らを置いていくのかと、私や朱音さんは悩み続けていたわ」
だが、現実は悩む時間を十分には与えてくれない。
学生という身分を失うときに、彼らは仕事を外に探すか、それとも今までのように山で自活する生活をするかの選択を迫られていた。
「彰人さんは、その頃には既に朱音さんと所帯を持つ約束をしていたのよ。私も、夫と共に暮らそうと決めて、何となくそのようにまとまっていたわ。そうして、男二人は親から代々受け継いでいた山林での仕事をやめて、外に働き口を探したの。でも、そうすると今度は今まで暮らしていた家から仕事場まで、あまりに遠すぎるってなってね」
「それは……そうだろうね」
老女の言葉に、歌仙は実感を込めた相槌を打つ。
道中にあった、破壊の跡が残る家から麓の村を通り抜けて駅に出るだけでも、相当な距離があるとは容易に想像がつく。あの山道に家があったなら、車の乗り入れすら困難だろう。
「じゃあ、この家はそのときに借りたんですか?」
藤が改めて家の中を見渡しながら問うと、老女はゆっくりと首を縦に振った。
「ええ。丁度二軒、古い空き家があってね。村の人たちは、最初はひどく嫌がっていたのですけれど。村長の奥さんにあたる方が……色々と、便宜を図ってくださったんです。鬼だなんだと言うのは、もう止めにしましょう、と」
その話だけを聞くなら、彼女の語る『奥さん』とやらは革新的な考えを持つ善人に聞こえた。だが歌仙は、老女の瞳の中に宿る激しい感情の炎を感じ取っていた。それは、お世辞にも好意とは言えないものだ。
歌仙の洞察とは裏腹に、老女は好感の持てる柔らかな笑みと共に言葉を続ける。
「それから一年ほどしてから、朱音さんがあなたを身ごもってね。村には大きな病院がないからって、大事をとって少し離れた場所のお医者さんのところで、朱音さんはあなたを産んだの。だから、あなたは小さい頃は、山ではなくここで育ったのよ」
「そして、その頃から僕には角があったんですね」
彼女は、アルバムの表紙をそろりと撫でながら呟く。
「最初は、私たちもそりゃあ驚いたわ。でも、結局病気でもなんでもないと分かって、朱音さんも彰人さんもほっとしていてね。朱美という名前は、二人で考えてつけたんだと話してくれたのよ」
顔中を笑顔にして友人に報告してきた、当時の二人を思ってか、老女は日向に座る猫のようにゆっくりと目を細めた。
彼女がゆるりと顔を動かし、窓の外を見やる。そこからは、藤たちが登った山の稜線がよく見えた。
「ちょうど、あなたが生まれた五月の頃は、この辺りに山藤が一面に咲き乱れて、山そのものが薄紫色に染まるの。それがとても綺麗で、だから朱美としたのよ」
「朱美――ああ、そうか。つまり、あけびだね」
歌仙は納得したように深々と頷くが、髭切は理解できなかったようで、こてんと首を傾げてみせる。
「どうして、藤の花があけびなんだい?」
「藤の花の異名は、狭野方の花。そして、それはあけびの花を指すとも言われているんだ。そこで二つの名を掛けて、あけび――つまり、朱美と名付けたんだね」
「ああ……なるほど。だから、子守歌もあんな歌詞だったんだ」
「子守歌?」
藤が不思議に思って尋ねてみるも、髭切は「そのうち話すね」と言葉を濁してしまった。彼女の夢をのぞき見ていた件について、まだ藤にきちんとした形では打ち明けられずにいた。
「そちらの……歌仙さんは、博識な方なのね。でも、それだけじゃないのよ」
「他にも何かあるんですか」
「ええ。私たちの村に伝わる古い古い昔話には、狭野方の花という名前のお姫様が、村の神様に嫁いでいったというものがあるの。神様は彼女をそれは大層慈しみ、幸せな日々を送り、村も栄えた――というおとぎ話。そうやって、神様に愛されるような子になりますようにと、朱音さんは私に話してくれたわ」
思いがけなく知らされた、自分の名にまつわる逸話を聞いて、藤は目の奥が仄かに熱を帯びるのを感じた。
神様に愛されているどうかについては、まだ自信は持てない。鳥居を潜れば相変わらず体調は崩してしまうし、本丸の刀剣男士とも、全員と仲良くできているとは到底言えない状態だ。
それでも、隣に座る二人が深く自分を気に掛け、愛してくれているということだけは、彼女は胸を張って言える。もし、ここに母がいたなら、今の自分の様子を伝えたかったと、藤は零れ落ちそうになる涙を堪えて思う。
「ただ、ね。私たちは気にしなかったけれど、その」
「鬼なんて言うのは止そうと言った矢先に、本当に鬼が現れちゃったからねえ」
ゆったりとした声音で、しかし冷静に髭切は指摘する。
「ええ。鬼の子だっていう話は、すぐに村中に広まってしまった。ようやく私たちも生活が落ち着いてきて、村での暮らしに馴染んだ頃だったのに……。色々と、嫌なことがあったの。最初はちょっとした無視とか、回覧板が回ってこなかったりとか、そういうものだったのだけれど」
やがて、ぽつぽつと散発的に発生していた嫌がらせは、再び公然のものに変わっていったと、老女は語る。かつて、子供時代に受けた仕打ちのように。
己の両親が、それらの日々にどんな気持ちを抱えて過ごしていたか。想像するだけで、熱くてどろどろとしたものが体中を駆け巡ったような気分になり、藤は思わず拳をきつく握りしめた。歌仙がそっと手を添えてくれたのが、今はとても有り難かった。
先を言うべきか、明らかに老女は悩んでいた。決して楽しい思い出話にならないことぐらいは、十分すぎるぐらい分かっている。
藤がもういい、と一言言えば、彼女は話を切り上げるだろうということは、歌仙にも髭切にも、藤自身も承知していた。
けれども、彼女は先を促す言葉だけを口にする。
「それから、どういう経緯で、お母さんたちはあの村に来たんですか」
藤の言葉に圧されるようにして、老女は昔話を続ける。
「あの日……冬が近い、少し肌寒い日のことだったわ。村長の奥さんは、村のことや育児で疲れている朱音さんのために、度々家に来て色々と家事を手伝ってくれていてね。あのときも、朱音さんに代わって、娘さん――朱美さん、あなたをお風呂に入れてあげようと言ったの。朱音さんも、最初はお願いしたのだけれど、やっぱり娘の世話をご近所とはいえ他人に任せっぱなしにするのも申し訳ないと、お風呂場に行ったのね。そこで」
老女は口をつぐむ。あたかも、これから口にすることがとても恐ろしいものであるかのように。
「そこで……どうしたんですか」
藤が促しても、彼女は俯いたまま答えない。噛み締めすぎた唇は、力をこめすぎたせいで白くなっていた。
「僕なら、大丈夫です。何があったとしても、僕はここでこうして、元気にしているわけですから」
藤の言葉が切っ掛けになったのだろう。
数秒をおいて、老女はいう。
「そこで、奥さんが――赤ん坊のあなたを、溺れさせようとしているのを、見つけてしまった」
ひゅっと、鋭く息を飲む声がした。
藤の顔が真っ青になっていくのに気がついた歌仙は、彼女の震える手を己の手で包み込む。小さな震えは、歌仙の手にも確かに伝わってきていた。
だが、宣言通り、藤は「それ以上聞きたくない」とは言わなかった。
「――それで、どう、なったんですか」
「……朱音さんは大慌てであなたを助け、奥さんを怒鳴りつけて、外へ追い出したわ。ちょうど、私も自宅にいたのだけれど、あまりに大きな騒ぎだったので、今でもよく覚えているの。子を守るためなら母は鬼にもなると言うけれど、あなたを抱いた彼女はまさに鬼のようだった」
母親は一切の迷いを捨て、己の子を――たとえ、鬼のような見た目の子だったとしても、子供を守ることをすかさず選び取った。
村八分の切っ掛けになった子だとしても、朱音という女性にとって、子供は唯一無二の宝だったのだろう。
「幸い、あなたが湯に沈められていた時間は、ほんの数秒だったから、病院でもみてもらって、すぐに何ともないことはわかった。けれども、あの人は、朱音さんを守ろうとしていた彼女は、本気だった」
何がいったい本気なのか。
今まで、鬼を取り巻く数多の感情を考えてきた髭切には、何となくこの話の行く末が既に見えたような気がした。
「奥さんは、本気で朱音さんを案じていた。朱音さん夫婦のために、彼女が村で生きづらくなった理由――つまり、鬼の子供を、いなかったことにしようとした」
幼子が、本当に憎かったわけではない。ただ、母親を幸せにするためには、鬼の子がどうしても邪魔だった。それだけが、『心優しい女性』が動く理由になっていた。
「もちろん、朱音さんはカンカンだった。奥さんは、朱音さんが分かってくれないと、嘆き悲しんだ。その様子を見て、村の人たちは同情した。せっかく、鬼の子をなかったことにしてやろうとしたのに、と」
無論、村長の奥方がとった行動は、犯罪である。
だが、彼女はあくまで、自分にとって、そして世間にとっての正義を貫いただけだった。しかも、わざわざ赤の他人である鬼なんかのために。
それは、少なくともこの村の者から見れば、道徳的で慈悲に満ちた行動だった。その瞬間、鬼子を守ろうとした夫婦は慈悲を理解しない愚か者へと、更に立場を落とすこととなった。
それから、目に見える形で日々の暮らしは悪くなっていった。村から追い出そうとする意思が垣間見えるような嫌がらせは、公然と彼らの元に集中し、それが頂点に達した頃。
――親子は、姿を消した。
「ある日、私が家の様子を見に行ったら、人の気配がしなくなっていたの。不思議に思って中を覗いてみても、誰もいない。周りの人は、外で家を借りて引っ越したんだろうって話していた。でも、私たちは知っていた。二人には、そんな余裕はないって」
外に働きにいっていた夫も、その頃は降りかかるストレスで疲れ果てている妻を守るために、家にいる必要に駆られ、長く休職していた。ひょっとしたら、辞職していたのかもしれない。
進退窮まるとは、まさにこのことであり、そんな状態で外側に解決を求めるのは不可能に近いと、残された嘗ての幼なじみである老女たちには分かっていた。
ならば、もしかしたら以前自分たちが暮らしていた家に隠れ住んだのかもしれないと、彼女は夫と共に実家へと足を向けた。
「私たちの両親は、私たちが自立し始めた頃には、村に戻っていっていたから、当時から空き家だったの。そこなら生活設備もそれなりに整っているし、自活してひっそりと落ち着いて暮らせるだろうから、そこに向かったに違いないって、こっそり様子を見に行って……でも、そこは、もう私たちの知っている家ではなかった」
残っていたのは、歌仙たちも目にした破壊の痕跡が刻まれた家だけだった。
この頃は、まだ廃墟目当ての登山客も少なく、ならば誰が壊したかについては、もはやわざわざ考える必要すらない。
(あの様子から見るに、面白半分でやったようには見えなかったからねえ)
髭切は、老女の言葉を聞きながら、数時間前に目にした光景を頭の中で繰り返す。
藤に案内されて辿り着いた廃村は、自然な荒廃の様子を見せていたが、麓に近い家には、明らかに人為的な破壊の痕跡があった。
それほどまでに、山の麓で暮らす人々にとって、山の中に隠れ潜む鬼はいなくなってほしいものだったのだろう。
「それ以上、奥へ探しに行くことはできなかった。私たちは、山の向こう側にいるという大人たちの所に、一人で行ったことは一度もなかったから。迷って帰ってこられなくなる危険の方が大きくて、私たちはそれ以上、あなたたち親子を探すのをやめてしまった」
きっと、山を越えたどこかで暮らしている。あるいは、両親たちと上手く合流して、山中にあるという村で過ごしているのかもしれない。
そのように己に言い聞かせて、彼女たちは捜索を打ち切った。
村人たちも、家族一つを外に追い出したことで、少し頭が冷えたのだろう。残された老女夫妻には、まるで罪滅ぼしのように、親しく接するようになっていった。そんなことをしても、三人は戻ってこないというのに。
「それで、もう何もかもが終わったつもりだったの。十年前、閉鎖していた集落と思しき場所で、子供が見つかったとニュースになるまでは」
「あなたは、すぐ気が付いたんだろうね。それが、いなくなった子供だってことに」
衝撃で言葉すら発せなくなっている主の代わりに、彼が老女の語りを先に促す。
「他に誰も見つからなかったと聞いて、朱音さんたちがどうなったのか、それで想像がついてしまった。そして、残された子供が、誰の子なのかも」
老女はそこまで言った瞬間、張り詰めた糸が切れたかのように、がくりと頭を下げた。
項垂れた老女からは、耐えきれずに漏れ出たすすり泣きが零れ、静かな部屋に谺する。
「……ごめんなさい。私は、気が付いていたのに。その子が誰か分かっていたのに……私は、引き取ろうとは、言い出せなかった」
鬼の中で育ってきた事情をある程度理解しており、更に身体的特徴や両親のことまで知っていたのなら、彼女は残された鬼の子を育てるのにこれ以上ない適任者だっただろうとは、髭切や歌仙にすら分かることだ。
彼女たちが、朱美という鬼の子を引き取り、暮らす場所を捨てて、鬼のしがらみから多少遠ざかった場所で暮らしていたなら、少なくとも朱美は――藤は、四面楚歌の状態で己を磨り潰さずに済んだのではないか。
その意見を歌仙が口にしかけたとき、
「私は……怖かったの。鬼の子が戻ってきたら、私たちは今までの生活を捨てなくてはいけない。それ以上に、ようやく少しずつ得た普通の暮らしが、壊されてしまうかもしれないことが、私は、恐ろしかった」
そうして保身に走り、幼なじみの忘れ形見について、見なかったふりをした。こんな村に戻ってくるよりはよほどいい、と己に嘘をつき、沈黙を選んだ。
村の老人たちが、鬼であり続けることに固執していたと聞かされていた彼女には、幼子が外とは異なる価値観で育ってきた可能性が高いと予想できていた。
恐らく、世間との軋轢に悩み、そのとき彼女が逃げ込める『親』という拠り所すらないのだろうと、想像はついていた。
――それでも、見捨てた。
関わらない選択をした。
朱美を見た瞬間、老女が何十年も抱えてきた荷物を下ろしたかのような顔をしたのは、きっとこのことが原因だろうとは、三人ともすでに分かってしまっていた。
自分が見捨てた子供が、自暴自棄になって命を落とすでもなく、成長して姿を見せ、ようやく彼女は懺悔の機会を得たのだ。
「――どうか、謝らないでください」
首を下に向けたまま、体を縮ませるようにして肩を震わせる老女に、藤はそっと語る。
「たしかに、僕は外で暮らし始めて、今までと違う価値観に戸惑いました。たくさん、悲しい思いもしました。でも、それだけじゃなかったと思っています」
歯を食いしばって耐えねばならないことも、たくさんあった。つい先日まで、自分の心を滅多刺しにして、死んだように笑っていた日々を、忘れたわけではない。
それでも、だからと言って、目の前の女性を闇雲に責めようとは思わなかった。
仲が良かったはずの誰かに、非難されるのが怖い。
やっと手に入れた穏やかな生活を、壊されるのが怖い。
その気持ちは、藤にとっては馴染みのあるものだった。
一年前の冬、歌仙たちを拒絶する直前まで、自分は彼らとの平穏な日々を壊すまいと、己を磨り潰す選択をしたのだから。
形はどうあれ、それは泣き崩れる老女と同じく、逃避の選択だった。
「僕はあれから、良い人たちに引き取られました。学校にも行かせてもらいました。仕事にも就けました。それに、信頼できる人たちも、ちゃんとここにいます」
ちらりと、藤は両側に座る彼らに目をやる。
その視線に応えるように、歌仙も髭切も、ゆっくりと頷き返した。
「お話、ありがとうございました。それに、写真も残していてくれて感謝しています。あなたにとって、辛いことでもあったはずなのに」
「ずっと、あなたに渡さなくてはいけないと思っていたの。もしよかったら、持っていってちょうだい」
ようやく顔を上げた老女の目は、まだ少し赤い。彼女は、藤に謝罪するように、更に深々と頭を垂れた。
「私にとっての故郷を再び見せてくれて、私にお母さんのことを教えてくれて、本当にありがとうございます。だからもう、自分を許してあげてください」
恐る恐るといった様子で顔を上げる彼女に、藤は微笑んでみせた。
老女の中で、今の今まで残り続けていた親子のことは、もう背負わなくていいのだと、伝えるために。
***
せっかく生家の近くに来たついでに、と老女は三人を藤が生まれて数ヶ月を過ごした家まで案内してくれた。
現在は誰も住んでいないとのことだったが、老女が定期的に掃除に行っていると言った通り、そこまで汚れてはいないようだった。
鍵を開けて中に入っていく藤、そしてその背を守るようについていく髭切の姿を、歌仙は目を軽く伏せて、そっと見つめている。まるで、そこにはもう自分の入る余地はないのだと言わんばかりに。
「すみません、歌仙さん。初対面のあなたに不躾とは承知ですが、一つお願いをしてよいでしょうか」
そんな歌仙の元に、一通り涙を流し終えて心を静めた老女が顔を見せる。
「それは構わないが……いったい何だろうか」
「朱美さんは、あなたをとても信頼しているようでした。ですから、どうか、朱美さんの側にいてあげてほしいんです」
「それは、言われずとも――と引き受けたいところなんだが、正直な所を言うと、それは僕ではなくあちらの彼に頼むことを薦めるよ」
窓を通して見える、薄い金の髪をした彼に、歌仙は視線を送る。
「実を言うと、僕は一度彼女をひどく傷つけてしまっているんだ。お互いに誤解もあったし、彼女は僕の言い分を汲んで、理解もしてくれたようだったが……彼は、僕よりもずっと真剣に、彼女と向き合っていた。だから、ちょっとばかり付き合いが長いだけの古ぼけた僕より、彼の方が、きみの願いを叶えるには相応しいかもしれない」
どこか痛々しさを混ぜた瞳で、歌仙は語る。
何か懐かしいものでも見つけたのか、窓ガラス越しにも破顔する藤の様子が見てとれた。その笑顔は、今は髭切に向けられている。
「僕は、彼女の家族になれたらと思っていた。ここに来たら、彼女の家族になれる切っ掛けのようなものが、得られるかもしれない……なんて、打算的なことを考えていたくらいさ。結局、答えは見つけられなかったけどね」
「……私は、あなたの探し求めているものが何かは分かりません。ですが、あなたこそ、私は朱美さんの家族に相応しいと思いますよ」
まだ少し涙で滲んだ瞳の奥に、歳を重ねた人独特の落ち着いた知性を漂わせ、老女は語る。
「あの綺麗な方は、朱美さんを見ているとき、何かを望むような目をされています。彼女と共に次は何をしよう、彼女は何を見せてくれるだろうと言う、期待の目です。けれども、あなたの目はとても優しい」
彼女の言葉に、歌仙は翡翠の双眸をゆっくりと見開いた。
「彼女がどんなことになっても、受け入れようという目をしています。何か辛いことがあって、先に進めなくなったとき、あなたはきっと朱美ちゃんの帰る場所になってくれる。そんな風に私は感じます。だからこそ、私はあなたに頼みたい」
彼女が挫けそうになったら、そっと背中を支えてくれる人であってほしい。
両親を失い、世間からも冷たい目で見られることが多い彼女の理解者になってほしい。
老女の言葉に、歌仙は今まで目の前に広がっていた靄が晴れていくような気がした。
確かに、隣に立って彼女の手を引くのは、主への希望と期待を抱えて先を行ける者が望ましいのかもしれない。それは、きっと髭切が担う役割だ。
ならば、その足が止まってしまい、挫けそうになったときは、どうするか。
前へ前へと手を引いても、立てなくなってしまったときは、どうするか。
そのとき、必要なのは先へ進むように手を引くものではない。
「そうだね。僕は、主の――朱美の、最初の刀に選ばれたのだから」
彼女が、帰るところになろう。
彼女が、羽を休める場所になろう。
髭切とは違う、それでいて彼女にとって必要なものに。
「彼女は、他人の善意に対して、応えなければいけない、報わねばならないと思っている節があるようなんだ。そんなとき、今度は僕が支えてあげればと願うよ」
「朱音さんも、よく口癖のように言っていました。他人の親切には、できるだけ親切で以て応じねば、と。朱音さんは、きっと朱美さんにもそう教えたのでしょうね」
「それは、他人との協力が必要な環境にいたからこそ、だったんだろう」
古い生活には相互扶助が欠かせないだろうと、歌仙は推測して相槌を打ったが、意外にも老女は首をゆっくりと横に振った。
「彼女は、奥様の一件があってから尚更、そのように私に言っていたんです」
「それはまた、どうして」
善意の押し付けで娘を失うことになりそうだったのに、自分がされたことをどうして肯定したのか。
歌仙が不思議に思って尋ねると、
「こういった場所で生きるのには、必要なのですよ。誰かに何かしてあげたなら、同じくらいの何かで報いることを求められていると思わないと、痛い目を見てしまうのだと、私に教えたかったのでしょう」
虐げられてしまったからこそ、同じような目に遭わないように友人に忠告をしたのだろうと、老女は遠い目で語る。
「けれども、朱音さんは、朱美ちゃんを抱いて、こうも言っていました」
老女は、胸に秘めていた宝物をそっと見せるかのように、囁いた。
その独り言めいた言葉を噛み締めるように、彼は言葉を発さず、静かに一つ頷いたのだった。