本編第二部(完結済み)
今度は髭切におぶわれ、藤は登山道から道をわざと外れて、斜面を登るように二人に頼んだ。誘われるような感覚は進むにつれ、益々強まり、彼女の道案内から迷いを取り除いていく。
やがて三十分以上が過ぎた頃。藤は、周りの景色にいくらかの見覚えがあることに気が付いた。木々の一つ一つ、獣道の一本一本に、どこか懐かしいものを感じる。ただの感傷から生まれた錯覚かもしれないが、どういうわけか、藤にはそう思えた。
そして、彼らは辿り着く。
木立をくぐり抜けた先にある、小さな広場のような場所。雪のせいか、ところどころがひしゃげて潰れてしまった家屋の数々が、まず目についた。
その土地に暮らすというよりは、寄り添うようにして存在していたのだろう。いくらか人為的に木を取り除いたのか、極端に背の低い立木が並ぶ箇所は、かつて畑だったのだろうか。
下の家には辛うじて電気を受け取るための設備も見られたが、ここにはそれすらもない。コンクリートと整えられた街並みに生きてきた者には信じられないほど、そこには古い時代の空気が残っていた。髭切と歌仙は、自分たちが時間遡行をしているのではと、一瞬思ったほどだ。
髭切の背中からおろしてもらった藤は、言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。山独特の、土と木の匂いが混じった風が、一筋彼女の髪を撫でていく。
「……ほんとに、廃墟になってたんだ」
藤は、まるで目の前の光景を噛み締めるように、ぽつりと言う。
頭では分かっていたつもりだった。隣人たちは皆土の下で眠っていることも、かつての暮らしにはもう戻れないことも、自分の得てきた常識に照らし合わせて理解したつもりだった。
けれども、どうやら心は思った以上に整理できていなかったらしい。
もし、あの場所に帰れたなら、十年前の幼い日々の続きが待っているように、どこかで夢想していたのかもしれない。
自分は善悪を知らない子供の姿で、今までの出来事が全て夢だったかのように、緑に包まれた、不便で、しかし暖かだった瞬間に戻れると信じていたのかもしれない。
声を上げれば、隣人が顔を覗かせ、何かおいしいものをくれると。
畑に顔を出せば手伝ってくれと頼まれるものだと。
狭野方の花のお姫様と、可愛がってもらえるのだと。
そう、思っていたのかもしれない。
けれども、目の前にあるのは――延々と広がる、草ぼうぼうの廃墟だけ。
人の気配はない。暮らしていた痕跡も、十年という月日が山の中へと埋めてしまった。
「もう、ないんだ」
どこにもない。帰る場所は、とうの昔に消えていた。
その意味を頭で理解してはいたつもりなのに、こうして突然目の前に突きつけられ、藤の中で何かが一つ終わりを迎えようとしていく。
体の内側を占めていた沢山の何かが、ごっそりと墜ちていく。寂しさが、胸の内を支配していく。
気がつけば、濡れたものが、頬を一雫流れ落ちていた。
「――主」
彼女の背中が、常よりも小さく感じられる。寄り添わねば、崩れてしまうのではないかと思うほどに。
だから、歌仙は声をかけた。その優しい声が引き金となったように、藤の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「う、うぅ」
悔しいわけでもない。辛いわけでもない。
ただ、とても――痛かった。
「う、あぁ、あああぁあっ」
大泣きというには拙すぎる泣き声が、わけもなく次から次へと湧き上がる寂寥に突き動かされ、山に谺する。
肩に置かれた歌仙の手に気が付くより先に、彼女は彼の胸に飛び込み、その広い胸を借りて、暫し泣き顔を隠していたのだった。
***
主が歌仙の胸の中で泣き崩れている間、髭切は彼女のそばを離れ、崩れかけている家々を巡っていた。
彼には、泣きじゃくる彼女の心を正しく理解できていなかった。理解できていないことを、彼自身も承知していた。
故郷もなく、親もいないからだろうと、髭切は自身を俯瞰して己の冷めた心を分析する。
彼女にとって、故郷は笑顔になれる場所だと思った。だから、連れてきた。なのに、あろうことか、彼女は泣き出してしまった。
(そんなつもりじゃ、なかったんだけどなあ)
ただ、笑ってほしかっただけなのに。
どうにも、ままならないものだ。
今の彼女に、自分は望ましい言葉をかけてあげられない。そう思って、髭切は歌仙と藤を置いて、ふらふらと周りの散策をしていた。
壊れた板戸を押しのけると、バタン、と音をたてて戸が倒れる。中から、ぶわりと土埃が舞い上がった。
奥を覗けば、六畳一間の小さな居住空間らしきものがある。雪の重みで屋根の半分が倒壊しており、差し込んだ日光が古風な囲炉裏を照らし出していた。
これらの空間は、ほんの十年程前までは、当たり前に使われていたのだという。本丸の生活設備と比べると、そのちぐはぐ具合はより際立って感じられた。
先ほど見た家々のように、意図的に破壊された痕跡はない。ここに至るまでの道中、主がいなければ、間違いなく迷ってしまうような獣道をいくつも抜けてきていた。物見遊山で遊びに来られるような場所ではないからこそ、自然の浸食以外の影響を受けなかったのだろう。
「主の家は、どこなのかなあ」
とりあえず目につく所の玄関から、家の中を覗き込んでみる。
薪置き場だったらしい小さな小屋には、鳥の巣の残骸らしきものがあった。苔むした井戸に腰を下ろして、その中を目を眇めて確認してみる。遠くで水音が聞こえたので、使おうと思えば、まだ使えるのだろう。
鳥の声がやけに耳につくと思いきや、井戸の近くの木に小ぶりの木々の塊が見えた。どうやら、こちらは現在使用中の鳥の巣らしい。髭切の姿に警戒してか、ピッと甲高い親鳥の鳴き声が何度も響く。
「ごめんよ。邪魔するつもりはなかったんだ」
人が住まなくなったとしても、この場で日々を暮らしている生き物はいる。何もかもが、死に絶えたわけではないのだろう。
親鳥に追い立てられるようにして、髭切は腰を上げ、今度は別の家の裏手に回り、
「――これは」
思わず、息を飲んだ。
彼の前にあったのは、家に隠されるようにしてあった岩の洞だった。先だって、下の家の側にあった祠よりも、何倍も丁寧に扱われているのが分かる代物だ。
その中には、小さな石像が収められている。石像そのものの出来も、年季が入ったためにいくらかカドが丸くなってはいるものの、精緻な職人芸を感じさせるものだった。
だが、彼が驚いたのは、祠に対してではない。
「こんな所で、お前に会うなんてね」
祠に寄り添うようにして立つ、薄らとした影。
主と同じように夕焼け色の髪を持ち、彼女の何倍も長い毛を高く結い上げている。雪のように白い着物には、点々と紫の花が咲いているように見える。
細く開かれた瞳は、秋の紅葉よりなお赤く、その顔は手弱女のような儚げな美しさと、大木のような頑なさを兼ね備えている。
そして、額には天を衝かんばかりにそびえ立つ、一対の物体――すなわち、角。
角をいただく、鬼のような存在が、そこにいた。
人ではないことは、一目見て分かる。生きているものではあり得ない、ただならぬ気配を纏っていたのだから。
去年の夏祭りで主を誘ったという何か。正月の神社で、気分が悪くなり、鳥居の外に飛び出した彼女が、手を伸ばしかけていた存在。閉じこもってしまった彼女の側に、幾度か姿を見せていた者。離れに押し入ろうとした膝丸の背後に立ち、彼に対して敵意を向けていた――鬼。
それが今、髭切の前に立っていた。
「また、主に何かするつもりかい」
言葉だけなら素朴な問いかけだったが、髭切の服装は一息の間に戦装束に変わっていた。主を下ろしてから背中に下げていた太刀も、今は腰に吊されている。
だが、気色ばむ髭切とは対照的に、鬼は興味なさげに髭切を見つめていた。ちらりと、どこか――恐らくは、藤がいる方に目をやり、
『いや、もういい。もう、私はしない』
簡潔に、告げる。
だからといって髭切が警戒を解くわけもなく、鋭く細められた琥珀の目は、油断なく目の前の正体不明の存在を睨み付けていた。
「お前は、いったい何だ」
彼は問う。
誰、でもなく、何、と。
人の名を問う疑問は、この存在に相応しくないと、髭切は感覚で理解していた。
鬼は答えない。何を感じているのかも定かではない目で、髭切をただ睥睨している。
「質問を変えようか。もういい、とは言ったけれど、主を、いったいどうするつもりだったのかな。彼女を、どこへ連れて行くつもりだった?」
『今は、どこにも連れて行くつもりはない。私は、私の子らの願いを叶える。願われない限り、私は何もしないと決めている。決めたのは〝私〟であって私ではないが、しかし確かに〝私〟ではある。ならば、私もそれを守る』
「……随分、分かりづらい言い方をするね」
『貴様なら、同じであるがゆえに、理解できるかと思っていたが』
答えの見えない問答に、髭切は興味がない。注目すべきは、迂遠な言い回しなどではなく、その前の部分だ。
「今までお前が主の側をうろうろしていたのは、主が願っていたからってこと?」
鬼は、ゆっくりと首を横に振る。
人間でいうなら、残念そうに否定している――と感じる所なのだろうが、鬼からは感情のようなものは感知できなかった。
だが、少なくとも会話はできそうだと、髭切は認識を改める。
『願っている部分はあった。しかし、願わないでもいた。あの娘を〝私〟が初めて認識したとき、彼女は心の底から、ここにいたくないと願っていた。しかし、同時に、ここにいたくないと叫びながらも、あの場にいたいとも願っていた。あの――本丸という場所に』
矛盾した心を抱え、藤が思い悩んでいた理由を、今の髭切は知っている。
目の前の者は、それに気が付いたのか、あるいは知らないままなのか。鬼は、感情の見えない紅の目を細めて、言葉を続ける。
『そして先日、彼女は私に、心の底からここにいたいのだと、はっきりと告げた。ならば、もう私は必要ない。私は、あの娘にとって相応しい場所は、本丸という空間ではないと思っていた。だが、どうやら私は見誤っていたようだ。私としては、連れて行きたかったのだが』
その言葉が終わるやいなや、髭切は刀を抜き放ち、鬼の眼前に突きつける。祠の側に佇んでいた鬼が、僅かに体の角度を変えたため、そして鬼が主を拉致したかったという意思を明瞭にしたためだった。
「彼女は、どこにも行かせない。あやかしの住み処へなんか、絶対に」
刃を突きつけられても、それは顔色一つ変えずに、髭切を見つめている。ただ、微かに皮肉交じりの笑みが口元に浮かび上がっていた。
『……あやかし、という形で呼ばれるのは、私としては不本意ではある。もっとも、貴様らに言っても恐らくは通じぬだろう。鬼を討ったとされている刀の付喪神よ』
その物言いは、髭切にとって覚えのあるものだった。
半年ほど前の冬、クリスマスという行事にあわせて主に贈り物をするため、万屋に買い物に行った折のことだ。
主の友人である審神者が連れていた狐は、髭切に向かってこう言った。『君にとっては、あやかしなのかもね』と。
馬鹿の一つ覚えみたいだと、狐は髭切に不服そうに告げていた。あやかしという呼び方は、彼らにとっては望ましくない呼称であることには間違いない。
「あやかしではないのなら、お前は何」
『貴様らと同じだ。新参者の刀の神とやら』
感情を見せぬ顔で、鬼は言う。
その視線の前に立たされると、地面に足が縫い付けられたかのように、体を動かしてはならないという気持ちに襲われる。
威圧感ではない。それは――畏怖の念だ。
触れてはならない、尊ぶべき存在に対する畏敬の気持ち。だが、手放しで膝をつくには不釣り合いの禍々しさも、同時に内に秘めているように感じる。
髭切は、考える。
狐が告げていた言葉は、何を指していたのか。
馬鹿の一つ覚えのように、あやかしと括るのではない。けれども、間違いなく人ではない。鬼ではあるのかもしれないが、主のように生身の存在とは到底思えない。
「――付喪神」
自分と同じと言うのならば、そうなのではないか、と髭切は尋ねる。
果たして、鬼は軽く首を傾げるだけだった。どうやら、正解ではなかったようだ。
『まあ、そうとも表せよう。ただ、貴様のように小さな器を依り代とはしていない』
小さな、と言う言葉に髭切は眉を顰めるが、今は言葉尻を捉えて気色ばんでいる場合ではない。
続けて、鬼は足元に目をやった。そこには祠があり、中には髭切も目にした石造りの像が置かれている。
てっきり、それが鬼の依り代なのかと髭切は考え、すぐに否定する。その視線は石像の更に向こう側を――地面を、見据えていた。
「まさか、この山が……?」
『正確には違う。この祠は、嘗て〝私〟を慕った者たちが、土地を離れても祈る場を欲して作り上げたもの。〝私〟を求める子がいるのならば、私は体を分けてでも加護を与える。貴様も、似たような存在だろう。お前は、お前の名を冠している刀そのものではあるまい』
髭切は答えない。だが、鬼が言っていることは正しいと、彼は理解していた。
髭切が所持している本体の刀は、『髭切』という刀に纏わる逸話をまとめて、刀という形に集約したものだ。決して、『髭切』という実存している刀の付喪神を、呼び出しているわけではない。
だからこそ、藤以外の審神者も顕現できるし、刀剣男士は皆そうやって同一の異なる個体が顕現している。
一つの信仰対象に対し、祈る場や祀る場は一つである必要はない。そして複数の場所に用意された場に宿るものは、別個であると同時に同一でもある。その概念が何に対して用いられるのか、薄々髭切は気が付いていた。
『〝私〟が宿っている地は、既に荒れ果てて久しい。それでも、〝私〟は〝私〟である限り、そこから離れられはしない。〝私〟が見守っていた子らが、〝私〟の正しいあり方を忘れてしまおうともな。ただ、これほどまでに時が流れた後に、斯様なほどに〝私〟の血を濃く継ぐ子がいるとは、思わなくてな』
鬼は、再び藤の方へと視線をやる。感情の薄い瞳ではあったが、そこには確かに、いくらかの寂寥と懐古の念が込められていた。
その視線を遮るように、髭切が割って入る。彼の双眸は、油断なく鬼の一挙一動を監視していた。
対話はできるが、鬼の感情がどのように揺れ動くのか、髭切にはまるで予測がつかない。今は凪いだ水面のようだが、ふとした瞬間に、荒波に変貌してしまうのではと思うような不安定さを、彼は鬼から感じ取っていた。
『久しぶりに、心が揺れた。だから、彼女が心底から今の暮らしを厭うのならと、思っていたが、どうやら杞憂だったようだ』
鬼は、ゆっくりと首を横に振る。
『ただ、もし、彼女が再び迷うことがあるのならば、〝私〟は今度こそ彼女の手をとる』
「安心しているといいよ。その時は、来ないだろうから」
挑発するかの如く、髭切は鬼の言葉を断ち切った。鬼は特に怒りもせず、残念がる様子も見せず、目を細めただけだった。
まるで感情がないかのように、それの表情の変化はとても緩やかだ。突きつけられた刀の切っ先を見つめたまま、足元を這う虫でも見ているかのような目で、髭切を見据えている。
『さあ、どうだか』
鬼の物言いは、髭切を小馬鹿にしているようにも聞こえた。ただそれだけの言葉にムキになっても仕方ないと、髭切はどうにか深呼吸一つで感情を抑える。
どうにも、鬼と話していると、感情がさざ波だってしまう。苛立ちとも怒りとも違う焦燥に似た情動が、彼の心をゆっくりと浸食していた。
「お前は、ずっとここにいたの? それとも、主のもとを去ってから、ここに戻ってきたのかな」
『彼女の側にいたのは、私ではない。だが、私たちは思考を共有している。その点は、貴様とは在りようが異なるのかもしれんが……ともあれ、少なくとも、私はここにいた』
「誰もいないのに? 誰もいない場所で祀られ続けているなんて、随分と滑稽だね」
わざと挑発じみた調子で話しかけてみるが、相も変わらず鬼は無我の境地に至ったかのような顔をしている。
『立ち去るつもりではあった。だが、ここから私の子らが消えてから、一年が経った頃だろうか。下の分けられた社に、人の子が訪れるようになった。熱心に、何度も、何度も』
当時を振り返るかのように、鬼は目を細めた。
『私の子ではないが、無下に扱うのも忍びない。あれもまた、古い教えを心に刻み、その血を身の内に宿している者だ』
その人間とは、先ほど見かけた粗末な祠の参拝者についてだろうと、髭切は推測する。歌仙の言葉を信じるなら、彼を罠に嵌めた下手人だ。
『探し求めているのだろう。あれほどまでに、古き存在に会いたいと切望する心を、無視してやるのは気の毒だ』
鬼の瞳は相変わらず情に乏しいが、何処か憂いを帯びているように、髭切には見えた。主が五虎退や物吉たちを見守っているときの顔に、鬼の表情はよく似ている。
髪の色だけが共通点かと思いきや、女性的とも言える柔らかさと、男性的とも言える頑なさが混ざり合った雰囲気そのものが、どこか主を彷彿させていた。
瞬間、髭切は己の内に湧き上がっていた不自然な心の揺らぎの理由を理解する。
それは、鬼が――目の前の異質な存在が、他ならぬ主に、しかもどこか投げやりになっているときの主に、とても似ていたからだ。
「……まさか、お前は」
髭切がそこまで言いかけた瞬間、
「おーい、髭切ーっ」
彼を呼ぶ声が背後から聞こえ、髭切は僅かに振り返る。
ふ、と目の前にいた者の気配が薄れ、慌てて彼が再度視線をやったときは、既にそれはいなかった。
鬼と同じような見目の――どこかの山の〝神様〟は。
***
髭切が藤の元に戻ると、彼女は笑顔で出迎えてくれた。少しばかり目の周りが赤くなっているが、無理をして笑っているというよりは、泣いて感情を整理したのだろう。
「あれ、髭切。どうかしたの。そんな、出陣のときの格好に着替えて」
「ちょっと色々あったんだ。それより、主の方は何かあったの?」
「うん。僕の家だった場所を見つけたんだ。ほら、ここ」
藤が指した先には、倒壊しかかった家があった。他の家屋との違いはほぼなく、言われなければ彼女の家と気づけなかっただろう。当然、感慨のようなものは全く髭切の中に生まれなかった。
既に藤から話を聞いていたのか、歌仙は雨風で汚れた壁や、雪の重みや風で壊れかかった屋根を興味深げに見つめている。髭切も、歌仙に倣って家屋を眺めてみた。
「主の家も、こういう感じのもだったんだね」
「本丸とは大違いでしょ」
違うと言われれば、その通りと答えるしかない。髭切は、小さく頷いた。
「そりゃあ、ねえ。不便ではなかったのかい」
「不便ではあったけど、楽しいって記憶の方が大きいかな」
本丸での日々と比較すれば、建物一つとっても楽しいだけで片付く話ではないのだろうと、歌仙も髭切も気が付いていた。
古さや材質の都合もあってか、家の壁には所々に隙間が見られる。当然、隙間風が吹き込むだろうし、虫だって侵入してくるだろう。畑はあったようだったが、自給自足の生活は裏を返せば自然の気まぐれがそのまま死に直結するということだ。
火を熾すために木々を集める手間、水を井戸から汲み上げて用意する負担。どれも現代のからくりに比べれば、到底楽とは言えまい。
それでも、彼女は楽しかったと語る。思い出の中に輝く日々を、尊い宝物として抱きしめている。
そんな彼女を前にして、ただただ不便だと言い続けるのは、あまりに無粋だと二人も感じていた。
「こっちの柱にね、身長を刻んでいたんだよ」
藤は、玄関部分にある柱を指さした。そこには、一定の間隔で小さな傷が残されている。
「毎年、沢の雪が溶ける頃にここに立ってね。大きくなったねって、お母さんや村の人に言われながら、傷を残していったんだ」
藤は、昔を思い出し、目を細める。そこには確かに、歌仙や髭切の知らない藤だけの思い出があり、彼女に注がれた愛の姿があった。
目には見えなくても、彼らの瞼の裏にも、思い浮かぶようだった。毎年増えていく幼子の背丈を見つめ、嬉しそうに微笑む彼女の母の姿が。
しばらくの間、懐かしそうに柱を触っていた彼女は、
「ここが僕の家で、そっちがおじいちゃんの家。お母さんが病気で倒れてからは、ほとんどこっちにいたんだ」
そして最後の時も、と藤は内心で付け足す。
人間の手に娘を渡すか悩んだ老爺は、懊悩の末に古い生活から最後の鬼の子を押し出した。外で味わう苦難を経てもなお、生きていてほしいという願いがあったのだろうと、昨晩髭切と語り合った今なら思える。
最後まで人間の暮らしから距離を置き、鬼であり続けた者の思いを噛み締めながら、藤は老爺の家だった場所を覗き込む。
六畳一間の小さな空間には、縄や錆び付いた刃物がいくつか落ちていた。嘗ては丁寧に手入れされていた刃には、見るも無惨な錆が広がっており、使い手がもういないことを、彼らに如実に示していた。
「……何だか、こうして見ると小さな世界だったんだなあ」
家々を巡り終えてから、藤は広場にあった、苔むした倒木に腰掛けて呟く。
彼女の言う通り、家の数は六つほどであり、麓の田舎町よりもなお貧相な印象を与えていた。大都会の街並みとは、もはや比べることすら滑稽なほどだ。
「人が減ると、家も減る。家が減れば、生活をする空間も小さくなっていく。僕らとは逆だね」
藤が用意してくれた水筒のお茶を飲みつつ、歌仙も応じる。刀剣男士を次々顕現して、空き部屋をどんどん使っていく本丸と、住む人がいなくなり空虚な空間ばかりを残したこの集落は、まるで逆の在りようを示していた。
「そういえば、主はまた、刀剣男士を顕現するつもりなの?」
「うーん……。こんのすけの人には、できれば一定の間隔で顕現し続けるようにって言われているんだけどね。もし、必要だって命じられたら、そうするしかないかな」
藤の隣に腰を下ろした髭切に問われ、藤はどこか歯切れの悪い返事をする。
「先ほど空き部屋の話を、歌仙がしていたよね。今、二部屋は空いているけど、それ以上顕現するなら、誰かを相部屋にするとか、色々と工夫が必要になるんじゃないかな」
「膝丸は、きみの部屋に行きたいと言うだろうね。どうして、きみは相部屋を拒否したんだい? 弟なんだろう?」
歌仙に尋ねられ、髭切は「うーん」と言葉を濁す。藤もその話題が気になり、髭切の様子をそっと窺う。
「どうして、と言われてもね。弟は主のことで僕とは別の考えを持っているようだったから。それに、主と僕の関係を気にするあまり、そのことで頭がいっぱいになっているようにも見えた。だから、一緒にいても、お互いに楽しくないだろうって思ったんだ」
「じゃあ、今はどうなの? まだ、膝丸には認めてもらえていないかもしれないけれど……でも、僕のせいで、せっかく出会えた弟と別々の部屋っていうのは、何だか申し訳ないよ」
「僕は、主みたいに本当に家族がいたわけじゃないから、主から見たら、僕の考えは奇妙に見えるかもしれないけれど」
そこで、髭切は一旦言葉を区切り、周りの朽ち果てた家々を眺める。藤の家族が暮らしたという、慎ましくも穏やかな日々に、彼なりに思いを馳せてみる。
「――家族は、絶対、常に一緒にいなきゃいけないものなのかな」
別離を選んだという、藤の祖父の気持ちまで辿り、髭切はぽつりと呟く。彼の隣で、そっと藤は息を呑んだ。
「僕は弟じゃないし、弟は僕じゃない。それでも、僕は彼が大事だよ。でも、同じ部屋でずっと過ごすのとは、ちょっとだけ違う。そういうわけだから、部屋が足りなくなったら別の方針でやりくりしてもらえないかな?」
「きみがそこまで言うのなら、調整はしてみるよ。本丸の増築というのも、一つの手だろうさ」
歌仙は頷き、話の区切りがついたためか、心地よい沈黙が三人の間に流れた。
本丸から遠く離れた己の故郷で、今の居場所である本丸の話をする。どこか食い違っているようで、しかし今の自分の在り処はここではないのだと、藤は改めて思い知った。
「ここは、もう僕が暮らす場所じゃないんだね」
心の中で見つけた発見を、藤は言葉とする。その後を、歌仙の言葉が追う。
「だが、誰もいなかったとしても、きみが覚えているのなら、この場所はきみの中で在り続けるのだと思うよ」
誰もいないのなら、存在しないことと同じだ。そんな風に割り切って捨ててしまうよりは、自分だけは在りし日の姿を抱え、心に留め置きたいと願うのは悪いことではないだろうと、歌仙は言う。
彼の言葉に応じるかのように、風がふわりと靡く。その風の香りは優しい甘さを含ませた、藤の花に似ている気がした。
「ねえ、主」
漂う微風の優しさを感じつつ、髭切は隣にいる主を見つめ、
「あっちの方にある祠、何か知ってる?」
先ほどまで、自分が語らっていた、とある存在がいた方角を彼は指す。
「ああ。あれはね」
藤は朽ち木から立ち上がり、迷いない足取りで祠へと向かう。
そこには、もう誰も、何もいなかった。ただ、少しひんやりとした山風が吹きすぎていた。
「ここには、ご先祖様が眠っているんだって言われていたんだ。詳しい謂われはよく知らないんだけど、ちゃんとした墓地がここじゃ用意できないから、いなくなってしまった人の思いはここに還るんだってことにしたらしいよ」
どうせ来たのだからと、藤は祠の前で手を合わせる。
「――お母さん。私は、元気にしているよ」
小さく聞こえたその言葉が、彼女が誰に語りかけたかったのかを、何よりもはっきりと示していた。
やがて三十分以上が過ぎた頃。藤は、周りの景色にいくらかの見覚えがあることに気が付いた。木々の一つ一つ、獣道の一本一本に、どこか懐かしいものを感じる。ただの感傷から生まれた錯覚かもしれないが、どういうわけか、藤にはそう思えた。
そして、彼らは辿り着く。
木立をくぐり抜けた先にある、小さな広場のような場所。雪のせいか、ところどころがひしゃげて潰れてしまった家屋の数々が、まず目についた。
その土地に暮らすというよりは、寄り添うようにして存在していたのだろう。いくらか人為的に木を取り除いたのか、極端に背の低い立木が並ぶ箇所は、かつて畑だったのだろうか。
下の家には辛うじて電気を受け取るための設備も見られたが、ここにはそれすらもない。コンクリートと整えられた街並みに生きてきた者には信じられないほど、そこには古い時代の空気が残っていた。髭切と歌仙は、自分たちが時間遡行をしているのではと、一瞬思ったほどだ。
髭切の背中からおろしてもらった藤は、言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。山独特の、土と木の匂いが混じった風が、一筋彼女の髪を撫でていく。
「……ほんとに、廃墟になってたんだ」
藤は、まるで目の前の光景を噛み締めるように、ぽつりと言う。
頭では分かっていたつもりだった。隣人たちは皆土の下で眠っていることも、かつての暮らしにはもう戻れないことも、自分の得てきた常識に照らし合わせて理解したつもりだった。
けれども、どうやら心は思った以上に整理できていなかったらしい。
もし、あの場所に帰れたなら、十年前の幼い日々の続きが待っているように、どこかで夢想していたのかもしれない。
自分は善悪を知らない子供の姿で、今までの出来事が全て夢だったかのように、緑に包まれた、不便で、しかし暖かだった瞬間に戻れると信じていたのかもしれない。
声を上げれば、隣人が顔を覗かせ、何かおいしいものをくれると。
畑に顔を出せば手伝ってくれと頼まれるものだと。
狭野方の花のお姫様と、可愛がってもらえるのだと。
そう、思っていたのかもしれない。
けれども、目の前にあるのは――延々と広がる、草ぼうぼうの廃墟だけ。
人の気配はない。暮らしていた痕跡も、十年という月日が山の中へと埋めてしまった。
「もう、ないんだ」
どこにもない。帰る場所は、とうの昔に消えていた。
その意味を頭で理解してはいたつもりなのに、こうして突然目の前に突きつけられ、藤の中で何かが一つ終わりを迎えようとしていく。
体の内側を占めていた沢山の何かが、ごっそりと墜ちていく。寂しさが、胸の内を支配していく。
気がつけば、濡れたものが、頬を一雫流れ落ちていた。
「――主」
彼女の背中が、常よりも小さく感じられる。寄り添わねば、崩れてしまうのではないかと思うほどに。
だから、歌仙は声をかけた。その優しい声が引き金となったように、藤の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「う、うぅ」
悔しいわけでもない。辛いわけでもない。
ただ、とても――痛かった。
「う、あぁ、あああぁあっ」
大泣きというには拙すぎる泣き声が、わけもなく次から次へと湧き上がる寂寥に突き動かされ、山に谺する。
肩に置かれた歌仙の手に気が付くより先に、彼女は彼の胸に飛び込み、その広い胸を借りて、暫し泣き顔を隠していたのだった。
***
主が歌仙の胸の中で泣き崩れている間、髭切は彼女のそばを離れ、崩れかけている家々を巡っていた。
彼には、泣きじゃくる彼女の心を正しく理解できていなかった。理解できていないことを、彼自身も承知していた。
故郷もなく、親もいないからだろうと、髭切は自身を俯瞰して己の冷めた心を分析する。
彼女にとって、故郷は笑顔になれる場所だと思った。だから、連れてきた。なのに、あろうことか、彼女は泣き出してしまった。
(そんなつもりじゃ、なかったんだけどなあ)
ただ、笑ってほしかっただけなのに。
どうにも、ままならないものだ。
今の彼女に、自分は望ましい言葉をかけてあげられない。そう思って、髭切は歌仙と藤を置いて、ふらふらと周りの散策をしていた。
壊れた板戸を押しのけると、バタン、と音をたてて戸が倒れる。中から、ぶわりと土埃が舞い上がった。
奥を覗けば、六畳一間の小さな居住空間らしきものがある。雪の重みで屋根の半分が倒壊しており、差し込んだ日光が古風な囲炉裏を照らし出していた。
これらの空間は、ほんの十年程前までは、当たり前に使われていたのだという。本丸の生活設備と比べると、そのちぐはぐ具合はより際立って感じられた。
先ほど見た家々のように、意図的に破壊された痕跡はない。ここに至るまでの道中、主がいなければ、間違いなく迷ってしまうような獣道をいくつも抜けてきていた。物見遊山で遊びに来られるような場所ではないからこそ、自然の浸食以外の影響を受けなかったのだろう。
「主の家は、どこなのかなあ」
とりあえず目につく所の玄関から、家の中を覗き込んでみる。
薪置き場だったらしい小さな小屋には、鳥の巣の残骸らしきものがあった。苔むした井戸に腰を下ろして、その中を目を眇めて確認してみる。遠くで水音が聞こえたので、使おうと思えば、まだ使えるのだろう。
鳥の声がやけに耳につくと思いきや、井戸の近くの木に小ぶりの木々の塊が見えた。どうやら、こちらは現在使用中の鳥の巣らしい。髭切の姿に警戒してか、ピッと甲高い親鳥の鳴き声が何度も響く。
「ごめんよ。邪魔するつもりはなかったんだ」
人が住まなくなったとしても、この場で日々を暮らしている生き物はいる。何もかもが、死に絶えたわけではないのだろう。
親鳥に追い立てられるようにして、髭切は腰を上げ、今度は別の家の裏手に回り、
「――これは」
思わず、息を飲んだ。
彼の前にあったのは、家に隠されるようにしてあった岩の洞だった。先だって、下の家の側にあった祠よりも、何倍も丁寧に扱われているのが分かる代物だ。
その中には、小さな石像が収められている。石像そのものの出来も、年季が入ったためにいくらかカドが丸くなってはいるものの、精緻な職人芸を感じさせるものだった。
だが、彼が驚いたのは、祠に対してではない。
「こんな所で、お前に会うなんてね」
祠に寄り添うようにして立つ、薄らとした影。
主と同じように夕焼け色の髪を持ち、彼女の何倍も長い毛を高く結い上げている。雪のように白い着物には、点々と紫の花が咲いているように見える。
細く開かれた瞳は、秋の紅葉よりなお赤く、その顔は手弱女のような儚げな美しさと、大木のような頑なさを兼ね備えている。
そして、額には天を衝かんばかりにそびえ立つ、一対の物体――すなわち、角。
角をいただく、鬼のような存在が、そこにいた。
人ではないことは、一目見て分かる。生きているものではあり得ない、ただならぬ気配を纏っていたのだから。
去年の夏祭りで主を誘ったという何か。正月の神社で、気分が悪くなり、鳥居の外に飛び出した彼女が、手を伸ばしかけていた存在。閉じこもってしまった彼女の側に、幾度か姿を見せていた者。離れに押し入ろうとした膝丸の背後に立ち、彼に対して敵意を向けていた――鬼。
それが今、髭切の前に立っていた。
「また、主に何かするつもりかい」
言葉だけなら素朴な問いかけだったが、髭切の服装は一息の間に戦装束に変わっていた。主を下ろしてから背中に下げていた太刀も、今は腰に吊されている。
だが、気色ばむ髭切とは対照的に、鬼は興味なさげに髭切を見つめていた。ちらりと、どこか――恐らくは、藤がいる方に目をやり、
『いや、もういい。もう、私はしない』
簡潔に、告げる。
だからといって髭切が警戒を解くわけもなく、鋭く細められた琥珀の目は、油断なく目の前の正体不明の存在を睨み付けていた。
「お前は、いったい何だ」
彼は問う。
誰、でもなく、何、と。
人の名を問う疑問は、この存在に相応しくないと、髭切は感覚で理解していた。
鬼は答えない。何を感じているのかも定かではない目で、髭切をただ睥睨している。
「質問を変えようか。もういい、とは言ったけれど、主を、いったいどうするつもりだったのかな。彼女を、どこへ連れて行くつもりだった?」
『今は、どこにも連れて行くつもりはない。私は、私の子らの願いを叶える。願われない限り、私は何もしないと決めている。決めたのは〝私〟であって私ではないが、しかし確かに〝私〟ではある。ならば、私もそれを守る』
「……随分、分かりづらい言い方をするね」
『貴様なら、同じであるがゆえに、理解できるかと思っていたが』
答えの見えない問答に、髭切は興味がない。注目すべきは、迂遠な言い回しなどではなく、その前の部分だ。
「今までお前が主の側をうろうろしていたのは、主が願っていたからってこと?」
鬼は、ゆっくりと首を横に振る。
人間でいうなら、残念そうに否定している――と感じる所なのだろうが、鬼からは感情のようなものは感知できなかった。
だが、少なくとも会話はできそうだと、髭切は認識を改める。
『願っている部分はあった。しかし、願わないでもいた。あの娘を〝私〟が初めて認識したとき、彼女は心の底から、ここにいたくないと願っていた。しかし、同時に、ここにいたくないと叫びながらも、あの場にいたいとも願っていた。あの――本丸という場所に』
矛盾した心を抱え、藤が思い悩んでいた理由を、今の髭切は知っている。
目の前の者は、それに気が付いたのか、あるいは知らないままなのか。鬼は、感情の見えない紅の目を細めて、言葉を続ける。
『そして先日、彼女は私に、心の底からここにいたいのだと、はっきりと告げた。ならば、もう私は必要ない。私は、あの娘にとって相応しい場所は、本丸という空間ではないと思っていた。だが、どうやら私は見誤っていたようだ。私としては、連れて行きたかったのだが』
その言葉が終わるやいなや、髭切は刀を抜き放ち、鬼の眼前に突きつける。祠の側に佇んでいた鬼が、僅かに体の角度を変えたため、そして鬼が主を拉致したかったという意思を明瞭にしたためだった。
「彼女は、どこにも行かせない。あやかしの住み処へなんか、絶対に」
刃を突きつけられても、それは顔色一つ変えずに、髭切を見つめている。ただ、微かに皮肉交じりの笑みが口元に浮かび上がっていた。
『……あやかし、という形で呼ばれるのは、私としては不本意ではある。もっとも、貴様らに言っても恐らくは通じぬだろう。鬼を討ったとされている刀の付喪神よ』
その物言いは、髭切にとって覚えのあるものだった。
半年ほど前の冬、クリスマスという行事にあわせて主に贈り物をするため、万屋に買い物に行った折のことだ。
主の友人である審神者が連れていた狐は、髭切に向かってこう言った。『君にとっては、あやかしなのかもね』と。
馬鹿の一つ覚えみたいだと、狐は髭切に不服そうに告げていた。あやかしという呼び方は、彼らにとっては望ましくない呼称であることには間違いない。
「あやかしではないのなら、お前は何」
『貴様らと同じだ。新参者の刀の神とやら』
感情を見せぬ顔で、鬼は言う。
その視線の前に立たされると、地面に足が縫い付けられたかのように、体を動かしてはならないという気持ちに襲われる。
威圧感ではない。それは――畏怖の念だ。
触れてはならない、尊ぶべき存在に対する畏敬の気持ち。だが、手放しで膝をつくには不釣り合いの禍々しさも、同時に内に秘めているように感じる。
髭切は、考える。
狐が告げていた言葉は、何を指していたのか。
馬鹿の一つ覚えのように、あやかしと括るのではない。けれども、間違いなく人ではない。鬼ではあるのかもしれないが、主のように生身の存在とは到底思えない。
「――付喪神」
自分と同じと言うのならば、そうなのではないか、と髭切は尋ねる。
果たして、鬼は軽く首を傾げるだけだった。どうやら、正解ではなかったようだ。
『まあ、そうとも表せよう。ただ、貴様のように小さな器を依り代とはしていない』
小さな、と言う言葉に髭切は眉を顰めるが、今は言葉尻を捉えて気色ばんでいる場合ではない。
続けて、鬼は足元に目をやった。そこには祠があり、中には髭切も目にした石造りの像が置かれている。
てっきり、それが鬼の依り代なのかと髭切は考え、すぐに否定する。その視線は石像の更に向こう側を――地面を、見据えていた。
「まさか、この山が……?」
『正確には違う。この祠は、嘗て〝私〟を慕った者たちが、土地を離れても祈る場を欲して作り上げたもの。〝私〟を求める子がいるのならば、私は体を分けてでも加護を与える。貴様も、似たような存在だろう。お前は、お前の名を冠している刀そのものではあるまい』
髭切は答えない。だが、鬼が言っていることは正しいと、彼は理解していた。
髭切が所持している本体の刀は、『髭切』という刀に纏わる逸話をまとめて、刀という形に集約したものだ。決して、『髭切』という実存している刀の付喪神を、呼び出しているわけではない。
だからこそ、藤以外の審神者も顕現できるし、刀剣男士は皆そうやって同一の異なる個体が顕現している。
一つの信仰対象に対し、祈る場や祀る場は一つである必要はない。そして複数の場所に用意された場に宿るものは、別個であると同時に同一でもある。その概念が何に対して用いられるのか、薄々髭切は気が付いていた。
『〝私〟が宿っている地は、既に荒れ果てて久しい。それでも、〝私〟は〝私〟である限り、そこから離れられはしない。〝私〟が見守っていた子らが、〝私〟の正しいあり方を忘れてしまおうともな。ただ、これほどまでに時が流れた後に、斯様なほどに〝私〟の血を濃く継ぐ子がいるとは、思わなくてな』
鬼は、再び藤の方へと視線をやる。感情の薄い瞳ではあったが、そこには確かに、いくらかの寂寥と懐古の念が込められていた。
その視線を遮るように、髭切が割って入る。彼の双眸は、油断なく鬼の一挙一動を監視していた。
対話はできるが、鬼の感情がどのように揺れ動くのか、髭切にはまるで予測がつかない。今は凪いだ水面のようだが、ふとした瞬間に、荒波に変貌してしまうのではと思うような不安定さを、彼は鬼から感じ取っていた。
『久しぶりに、心が揺れた。だから、彼女が心底から今の暮らしを厭うのならと、思っていたが、どうやら杞憂だったようだ』
鬼は、ゆっくりと首を横に振る。
『ただ、もし、彼女が再び迷うことがあるのならば、〝私〟は今度こそ彼女の手をとる』
「安心しているといいよ。その時は、来ないだろうから」
挑発するかの如く、髭切は鬼の言葉を断ち切った。鬼は特に怒りもせず、残念がる様子も見せず、目を細めただけだった。
まるで感情がないかのように、それの表情の変化はとても緩やかだ。突きつけられた刀の切っ先を見つめたまま、足元を這う虫でも見ているかのような目で、髭切を見据えている。
『さあ、どうだか』
鬼の物言いは、髭切を小馬鹿にしているようにも聞こえた。ただそれだけの言葉にムキになっても仕方ないと、髭切はどうにか深呼吸一つで感情を抑える。
どうにも、鬼と話していると、感情がさざ波だってしまう。苛立ちとも怒りとも違う焦燥に似た情動が、彼の心をゆっくりと浸食していた。
「お前は、ずっとここにいたの? それとも、主のもとを去ってから、ここに戻ってきたのかな」
『彼女の側にいたのは、私ではない。だが、私たちは思考を共有している。その点は、貴様とは在りようが異なるのかもしれんが……ともあれ、少なくとも、私はここにいた』
「誰もいないのに? 誰もいない場所で祀られ続けているなんて、随分と滑稽だね」
わざと挑発じみた調子で話しかけてみるが、相も変わらず鬼は無我の境地に至ったかのような顔をしている。
『立ち去るつもりではあった。だが、ここから私の子らが消えてから、一年が経った頃だろうか。下の分けられた社に、人の子が訪れるようになった。熱心に、何度も、何度も』
当時を振り返るかのように、鬼は目を細めた。
『私の子ではないが、無下に扱うのも忍びない。あれもまた、古い教えを心に刻み、その血を身の内に宿している者だ』
その人間とは、先ほど見かけた粗末な祠の参拝者についてだろうと、髭切は推測する。歌仙の言葉を信じるなら、彼を罠に嵌めた下手人だ。
『探し求めているのだろう。あれほどまでに、古き存在に会いたいと切望する心を、無視してやるのは気の毒だ』
鬼の瞳は相変わらず情に乏しいが、何処か憂いを帯びているように、髭切には見えた。主が五虎退や物吉たちを見守っているときの顔に、鬼の表情はよく似ている。
髪の色だけが共通点かと思いきや、女性的とも言える柔らかさと、男性的とも言える頑なさが混ざり合った雰囲気そのものが、どこか主を彷彿させていた。
瞬間、髭切は己の内に湧き上がっていた不自然な心の揺らぎの理由を理解する。
それは、鬼が――目の前の異質な存在が、他ならぬ主に、しかもどこか投げやりになっているときの主に、とても似ていたからだ。
「……まさか、お前は」
髭切がそこまで言いかけた瞬間、
「おーい、髭切ーっ」
彼を呼ぶ声が背後から聞こえ、髭切は僅かに振り返る。
ふ、と目の前にいた者の気配が薄れ、慌てて彼が再度視線をやったときは、既にそれはいなかった。
鬼と同じような見目の――どこかの山の〝神様〟は。
***
髭切が藤の元に戻ると、彼女は笑顔で出迎えてくれた。少しばかり目の周りが赤くなっているが、無理をして笑っているというよりは、泣いて感情を整理したのだろう。
「あれ、髭切。どうかしたの。そんな、出陣のときの格好に着替えて」
「ちょっと色々あったんだ。それより、主の方は何かあったの?」
「うん。僕の家だった場所を見つけたんだ。ほら、ここ」
藤が指した先には、倒壊しかかった家があった。他の家屋との違いはほぼなく、言われなければ彼女の家と気づけなかっただろう。当然、感慨のようなものは全く髭切の中に生まれなかった。
既に藤から話を聞いていたのか、歌仙は雨風で汚れた壁や、雪の重みや風で壊れかかった屋根を興味深げに見つめている。髭切も、歌仙に倣って家屋を眺めてみた。
「主の家も、こういう感じのもだったんだね」
「本丸とは大違いでしょ」
違うと言われれば、その通りと答えるしかない。髭切は、小さく頷いた。
「そりゃあ、ねえ。不便ではなかったのかい」
「不便ではあったけど、楽しいって記憶の方が大きいかな」
本丸での日々と比較すれば、建物一つとっても楽しいだけで片付く話ではないのだろうと、歌仙も髭切も気が付いていた。
古さや材質の都合もあってか、家の壁には所々に隙間が見られる。当然、隙間風が吹き込むだろうし、虫だって侵入してくるだろう。畑はあったようだったが、自給自足の生活は裏を返せば自然の気まぐれがそのまま死に直結するということだ。
火を熾すために木々を集める手間、水を井戸から汲み上げて用意する負担。どれも現代のからくりに比べれば、到底楽とは言えまい。
それでも、彼女は楽しかったと語る。思い出の中に輝く日々を、尊い宝物として抱きしめている。
そんな彼女を前にして、ただただ不便だと言い続けるのは、あまりに無粋だと二人も感じていた。
「こっちの柱にね、身長を刻んでいたんだよ」
藤は、玄関部分にある柱を指さした。そこには、一定の間隔で小さな傷が残されている。
「毎年、沢の雪が溶ける頃にここに立ってね。大きくなったねって、お母さんや村の人に言われながら、傷を残していったんだ」
藤は、昔を思い出し、目を細める。そこには確かに、歌仙や髭切の知らない藤だけの思い出があり、彼女に注がれた愛の姿があった。
目には見えなくても、彼らの瞼の裏にも、思い浮かぶようだった。毎年増えていく幼子の背丈を見つめ、嬉しそうに微笑む彼女の母の姿が。
しばらくの間、懐かしそうに柱を触っていた彼女は、
「ここが僕の家で、そっちがおじいちゃんの家。お母さんが病気で倒れてからは、ほとんどこっちにいたんだ」
そして最後の時も、と藤は内心で付け足す。
人間の手に娘を渡すか悩んだ老爺は、懊悩の末に古い生活から最後の鬼の子を押し出した。外で味わう苦難を経てもなお、生きていてほしいという願いがあったのだろうと、昨晩髭切と語り合った今なら思える。
最後まで人間の暮らしから距離を置き、鬼であり続けた者の思いを噛み締めながら、藤は老爺の家だった場所を覗き込む。
六畳一間の小さな空間には、縄や錆び付いた刃物がいくつか落ちていた。嘗ては丁寧に手入れされていた刃には、見るも無惨な錆が広がっており、使い手がもういないことを、彼らに如実に示していた。
「……何だか、こうして見ると小さな世界だったんだなあ」
家々を巡り終えてから、藤は広場にあった、苔むした倒木に腰掛けて呟く。
彼女の言う通り、家の数は六つほどであり、麓の田舎町よりもなお貧相な印象を与えていた。大都会の街並みとは、もはや比べることすら滑稽なほどだ。
「人が減ると、家も減る。家が減れば、生活をする空間も小さくなっていく。僕らとは逆だね」
藤が用意してくれた水筒のお茶を飲みつつ、歌仙も応じる。刀剣男士を次々顕現して、空き部屋をどんどん使っていく本丸と、住む人がいなくなり空虚な空間ばかりを残したこの集落は、まるで逆の在りようを示していた。
「そういえば、主はまた、刀剣男士を顕現するつもりなの?」
「うーん……。こんのすけの人には、できれば一定の間隔で顕現し続けるようにって言われているんだけどね。もし、必要だって命じられたら、そうするしかないかな」
藤の隣に腰を下ろした髭切に問われ、藤はどこか歯切れの悪い返事をする。
「先ほど空き部屋の話を、歌仙がしていたよね。今、二部屋は空いているけど、それ以上顕現するなら、誰かを相部屋にするとか、色々と工夫が必要になるんじゃないかな」
「膝丸は、きみの部屋に行きたいと言うだろうね。どうして、きみは相部屋を拒否したんだい? 弟なんだろう?」
歌仙に尋ねられ、髭切は「うーん」と言葉を濁す。藤もその話題が気になり、髭切の様子をそっと窺う。
「どうして、と言われてもね。弟は主のことで僕とは別の考えを持っているようだったから。それに、主と僕の関係を気にするあまり、そのことで頭がいっぱいになっているようにも見えた。だから、一緒にいても、お互いに楽しくないだろうって思ったんだ」
「じゃあ、今はどうなの? まだ、膝丸には認めてもらえていないかもしれないけれど……でも、僕のせいで、せっかく出会えた弟と別々の部屋っていうのは、何だか申し訳ないよ」
「僕は、主みたいに本当に家族がいたわけじゃないから、主から見たら、僕の考えは奇妙に見えるかもしれないけれど」
そこで、髭切は一旦言葉を区切り、周りの朽ち果てた家々を眺める。藤の家族が暮らしたという、慎ましくも穏やかな日々に、彼なりに思いを馳せてみる。
「――家族は、絶対、常に一緒にいなきゃいけないものなのかな」
別離を選んだという、藤の祖父の気持ちまで辿り、髭切はぽつりと呟く。彼の隣で、そっと藤は息を呑んだ。
「僕は弟じゃないし、弟は僕じゃない。それでも、僕は彼が大事だよ。でも、同じ部屋でずっと過ごすのとは、ちょっとだけ違う。そういうわけだから、部屋が足りなくなったら別の方針でやりくりしてもらえないかな?」
「きみがそこまで言うのなら、調整はしてみるよ。本丸の増築というのも、一つの手だろうさ」
歌仙は頷き、話の区切りがついたためか、心地よい沈黙が三人の間に流れた。
本丸から遠く離れた己の故郷で、今の居場所である本丸の話をする。どこか食い違っているようで、しかし今の自分の在り処はここではないのだと、藤は改めて思い知った。
「ここは、もう僕が暮らす場所じゃないんだね」
心の中で見つけた発見を、藤は言葉とする。その後を、歌仙の言葉が追う。
「だが、誰もいなかったとしても、きみが覚えているのなら、この場所はきみの中で在り続けるのだと思うよ」
誰もいないのなら、存在しないことと同じだ。そんな風に割り切って捨ててしまうよりは、自分だけは在りし日の姿を抱え、心に留め置きたいと願うのは悪いことではないだろうと、歌仙は言う。
彼の言葉に応じるかのように、風がふわりと靡く。その風の香りは優しい甘さを含ませた、藤の花に似ている気がした。
「ねえ、主」
漂う微風の優しさを感じつつ、髭切は隣にいる主を見つめ、
「あっちの方にある祠、何か知ってる?」
先ほどまで、自分が語らっていた、とある存在がいた方角を彼は指す。
「ああ。あれはね」
藤は朽ち木から立ち上がり、迷いない足取りで祠へと向かう。
そこには、もう誰も、何もいなかった。ただ、少しひんやりとした山風が吹きすぎていた。
「ここには、ご先祖様が眠っているんだって言われていたんだ。詳しい謂われはよく知らないんだけど、ちゃんとした墓地がここじゃ用意できないから、いなくなってしまった人の思いはここに還るんだってことにしたらしいよ」
どうせ来たのだからと、藤は祠の前で手を合わせる。
「――お母さん。私は、元気にしているよ」
小さく聞こえたその言葉が、彼女が誰に語りかけたかったのかを、何よりもはっきりと示していた。