本編第二部(完結済み)

 目的地についた歌仙は、長らく乗っていたせいで硬くなっていた体を、うんと伸ばしつつ、目の前の景色に視線をやった。
 日没に向けて傾きかけた日差しが照らしているのは、ぽつぽつと並んでいる民家と畑ばかりだ。
 駅前には、観光客向けと思しき近代的な宿泊所が建てられていたが、駅舎の鄙びた様子とのちぐはぐ具合が、いっそ滑稽にすら思える。
 広がっている家々の向こうには、村を包み込むような緑が見える。恐らくは、あちらに山があるのだろう。

「ここが、主の故郷なのかい」

 だとしたら、田舎町という雰囲気は感じるが、山奥というほどでもない。歌仙の質問に、藤はゆっくりと首を横に振る。

「文字通り、あの山の中だよ」

 彼女が指した先には、歌仙が丁度見据えていた緑のお椀をひっくり返したような山が見えた。どうやら、想像以上に彼女の故郷は奥地にあるようだ。
 無人の出口を通り抜けると、罅割れたアスファルトの道と、人が住んでいるかも定かではない家々が彼らを出迎えた。
 観光地のように案内板も目立った建造物もないが、本丸の近くではないというだけでも、歌仙と髭切の興味を惹いたらしい。彼らは物珍しそうに、辺りをきょろきょろと眺めている。どこからどう見ても、世間知らず丸出しの振る舞いだ。
 彼らの思いがけない一面に、思わず藤が苦笑していると、

「あんたらぁ、都会のもんみたいだが、こんな所に何の用で来たんだ?」

 不意に横から声をかけられた。そちらを向くと、スーパーのビニール袋を手に引っかけた年配の男性が立っていた。
 その視線は、痩せた小さな体躯に似つかわない、剣呑なものであった。

「僕たちは」

 歌仙が何か言いかけるより先に、

「親戚の墓参りです。ちょっとお盆より早いんですけど、仕事で、来られなくなるかもしれないからと」

 藤がすかさず二人の間に割って入り、笑顔で応じる。こういうときばかりは、笑顔を浮かべ慣れているのが吉と出た。
 老人から漂ってくるのは、自分たちの領域をよそ者が荒らすのではないか、という警戒の気持ちだ。それは、彼女にとっては馴染みのある敵意でもあった。

(村のおじいちゃんたちも、たまにこんな顔してたなあ)

 故郷が近いからか、普段はなかなか思い出さない故郷の人たちの顔が脳裏によぎる。彼らもまた、同様に他者を排斥しようとしていた人たちだったのだろう。
 そういう人たちに対しては、こちらからもっともらしい正当な理由を立てて、穏やかに話を進めていくのがよいと、藤は経験で悟っていた。
 子供たち同士でも似たようなやり取りはあったので、部外者に位置しがちだった藤は、この手のやり取りに慣れている。
 嘘ではないが、真実でもない理由を聞いて、老人の周りに走っていた緊張がいくらか緩む。

「そんならいいんだ。気をつけてな」
「何かこの辺りで、事件でもあったのかい」

 そこで無難に話を切り上げるつもりが、歌仙が再び老人に尋ねる。彼としては、主に降りかかるかもしれない危難を察知しておきたいがための、情報収集をしようとしての発言だった。

「いやさ、あんたらみたいな若いもんたちが、物見遊山で、ここに徒党組んで来たことがあってな。おおかた、テレビや新聞で話題になったからって、面白がって来ただけなんだろうが」
「話題になった?」

 歌仙の問いに、老人は山の方をじろりと睨み付けながら続ける。

「山奥で、鬼が廃村に住み着いていただの、子供を誘拐していただの、マスコミの連中がやいのやいのと書き立てるもんで、どいつもこいつも住んでるもんの都合なんざ、まるで無視して大騒ぎだ。挙げ句、山に入って遭難しかけたなんて輩も出てくる。罰が当たったんだろうさ」

 吐き捨てるような息を漏らす老人。歌仙と髭切は、揃って顔を見合わせる。藤は、石のように黙りこくったままだ。

「鬼が、廃村に――ねえ」
「子供を誘拐……?」

 二人の反応を見て、老人は仰々しく深々と頷いた。

「詳しいことは知らんが、どうせ面白半分に大袈裟に話しただけだろうさ。ほれ、そこにでっかい宿があるだろう。あそこの連中なんざ、商売になるってんで記事を集める始末だ。全く何が面白いのやら……静かに暮らせるのが一番だっつうのに」

 話すだけ話してしまうと、満足したのか、老人はぶつぶつ言いながらも去っていった。残された三人の間に漂っていた沈黙を破ったのは、彼が話しているとき、沈黙を保っていた藤だ。

「今日は、もうあの宿に入ろうか。多分そうなるだろうって、予約しておいたんだよね」
「えっ。まだそこまで、日が落ちているわけでもないだろう」

 歌仙の言う通り、時刻は午後四時過ぎといった頃だ。
 夏の日は長い。今からでも行って帰れる距離なのではないかと思っての発言だったが、

「山の日は暮れるのが早いよ。すぐに真っ暗になっちゃう。だから、やめたほうがいい。僕らもそれこそ遭難しちゃう」
「そうだね。僕たちだけなら野宿しても問題ないけど、何の準備もしていない主には、きっと大変だろうからねえ」

 髭切はそこまで言ってから、藤の頭に手を置き、さわさわと癖の多い毛を撫でた。先ほど、老人の話を聞いてから明らかに強張っていた藤の表情が、少しだけ緩む。

「先ほどの彼の話は、きみと関係があることだと、考えていいのだろうか」
「うん。それもいずれ話すつもりだったんだ。ちょうどいいから宿で説明するよ」

 どうにか空気を和ませようと微笑もうとする藤の頭が、もう一度さわさわと撫でられる。思わず髭切の方を見つめると、彼はゆっくりと首を横に振った。

「行こうか、主」

 無理に笑わなくていい。そのように言われた気がして、藤は少し肩の力を抜くことができた。


 ***

 駅前にあった宿泊所は、観光業の勃興を期待して建てられたものだったからか、決してボロボロで今にも倒れそうという見た目ではなかった。都会の真ん中に置けば、ちょっとしたビジネスホテルとして、サラリーマンたちに利用されていただろう。
 だからこそ、より一層のこと、閑古鳥が鳴く様子が際立っているように感じられもした。清掃こそ行き届いているものの、大きさの割りに施設内にいる人が少なすぎて、うら寂しさが強調されてしまうからだ。
 特に名産があるわけでもないこの場所で、いったいどうしてこんな建物があるのか不思議だったが、案内やビラを見る限り登山にやってくる者が利用しているらしい。今はシーズン前なのか、それとも登山ブームから取り残されてしまったのか、利用者はほとんどいなかった。
 藤は予約をしておいたはずなのに、受付にいた従業員は突然の宿泊客にひどく狼狽していた。どうやら、予約の話は伝わっていなかったらしい。
 三人で宿泊する以上、当然藤は三部屋別々で寝泊まりをするつもりだった。しかし、

「ここの扉は、本丸のように容易に開閉ができないのだろう。壁も堅牢だ。主に何かあったとき、すぐにきみの元に行けないじゃないか」
「そうだね。そうだ、主。大きな部屋を借りて、皆で一緒に寝ようよ」

 などと、歌仙と髭切が頭の痛くなるようなことを言ってきたため、藤は急遽、当初の予定を取り下げて、ベッドが二つ用意されている二人用の部屋を借りることにした。

「いやはや、寝台が大きい旅館で助かったよ。これなら主の警護にも支障ない」

 満足そうな歌仙と髭切だったが、藤は既に心労で肉体労働とは別の意味の疲労を感じていた。
 そんな彼女とは対照的に、初めての宿に、二人はすっかり興奮しているようだった。クローゼットや備え付けのバスルーム、鏡台、ドライヤー、テレビと一通りの設備を落ち着き無く見て回っている。
 藤も頻繁に外泊をしているわけではないので、これらの設備を珍しいとは思うが、大の大人の男二人が面白そうに辺りを観察している様子を客観的に見ていると、自分も一緒にという気などはすぐに失せた。
 藤が草臥れてベッドの上で転がっていると、

「おや、これって……何かの資料かな?」

 髭切の声に、彼女はうつらうつらしていた瞳をぱちりと開ける。体を起こすと、丁度髭切が反対側のベッドに腰掛けて、どこからか持ってきたバインダーを開いたところだった。
 覗き込むと、十年ほど前の日付が書かれた新聞紙や、週刊誌の切り抜きがファイリングされている。

「これって、あのご老人が言っていたものでは?」

 歌仙の推量に、藤は首肯でもって返す。
 髭切からバインダーを渡され、二人が見守る中、藤はファイリングされた切り抜きに、ぱらぱらと目を通していく。
 そこに嫌悪はなく、ただ淡々と、以前見てきたものを辿っているだけのような無味乾燥な表情があった。
 最後のページまで確認してから、藤はぱたんとバインダーを閉じる。

「大体は、僕が知っている記事だったよ。これを読めば、歌仙たちにも分かると思う」
「分かるとは、何が分かるんだい」
「僕が過ごしてきた環境が、世間から見たらどうだったか、ということだよ、歌仙。あと、これから行く先の雰囲気とか、何がそこであったのか」

 主の出自をを卑下しているだけの文章なら見る価値もない、と二人は思っていたが、目的地に関する情報があるなら見ないわけにはいかない。
 表紙からすぐのページにファイリングされていたのは、古い新聞記事だ。そこには、見出しとして大きな文字で、こう書かれていた。
 廃集落に眠る子供、と。


 ***

 十年ほど前の冬。とある山で遭難者が出た――という前書きで記事は始まった。
 豪雪地帯というほどではなくとも、山の雪は見た目の美しさとは裏腹に、容赦なく牙を剥いていく。
 遭難者は冬であるにも関わらず、十分な装備を調えずに無謀な散策を試みたらしい。
 自業自得と言うのは容易いが、人命を見捨てるわけにもいかない。捜索隊として派遣された数名が山に分け入り、そうして彼らは見つけてしまった。
 登山道から外れた先に、まるで隠れるようにしてあった小さな集落。注意して観察しなければ、村の入り口すら発見できたか怪しいと、彼らは記事で語っていた。
 電気もガスも通っておらず、辛うじて井戸らしきものが生活施設として残っていた。住居の多くは既に廃墟となっていたが、しかしそこには、数年前まで明らかに使用していた痕跡があった。
 何より、その集落には人がいた。
 遭難者が、ではない。
 住人が、いたのである。
 だが、それは大人ではなかった。
 雪の中にひっそりと佇む住居。そこに据え付けられた囲炉裏らしき設備に残された火に、ひっそり寄り添うようにして、一人の子供が苦しそうに身を横たえていた。
 明らかに病の兆候があると判断した捜索隊は、何かの事件に巻き込まれたのだろうかと首を傾げた。
 不思議に思いながらも、雪山の廃墟に子供を一人置いていくわけにもいかない。捜索隊の一人は、子供を連れて下山した。
 結局、遭難者については、その廃墟のすぐ側で遺体となって見つかった。
 それは、ただの凍死体ではなかった。遺体は、明らかに人為的な力で肉の一部を切除されていたと、後ほど判明したと記事には綴られている。
 だが、新聞は事件の可能性だけを示唆し、保護した子供は現在麓の病院に入院して、身元の確認を急いでいると締めくくった。

「これが、世間っていうものから見た主の話?」

 髭切に問われ、藤はゆっくりと首を横に振る。

「そっちは、割とあったままを書いただけって感じ。だから、多分一番事実に近くて、当たり障りのない優しい書き方をしてくれている」
「きみは病気で伏せっていたようだけれど、今は問題ないのかい」

 労るように歌仙に見つめられ、藤は「それは大丈夫」と笑ってみせた。明らかに無理をしていると分かる笑顔だったが、二人とも彼女の表情についての言及は一旦控えた。
 次のページを開き、歌仙と髭切は思わず口を噤む。
 人目を惹きつけるような派手な書体で紙面を横断している文字は、より人々が興味を惹くような単語のみを並べていた。
 鬼がすまう廃村。
 人を殺して、その肉で育てられた子供か。
 今まで山で遭難した者は、実は皆食われたのではないか。
 見つかった子供の戸籍が、十年前に麓の村の役所で出されたものと一致したと判明するや否や、今度は『鬼が人里から子供をさらったのではないか』という論調の内容が、もっともらしい調子で綴られる。

(どこまでが、いったい本当なんだろうね。それについては、読む人にとっては『どうでもいい』ことなのかな)

 ページをどれだけ捲っても、同じような内容が続くので、髭切は見るのをやめて、代わりに主を見つめていた。彼女は今、俯いてしまっているため、表情もよく見えない。
 主の話を聞いているからこそ、彼らの憶測は所詮憶測に過ぎないのだと髭切には分かっていた。
 鬼が暮らしていたのは事実かもしれないが、彼らが頻繁に殺人を犯していた証拠はどこにもない。犯さなかった証拠もないのだろうが、真偽については主に問えば判明することだ。
 どちらにせよ、髭切にはそこまで興味はない。
 彼が重要視するのは過去がどうだったかよりも、今の彼女が、どう在りたいかだけなのだから。

(あの書き方だと、多分主が発見されたとき、主以外の人――ううん、鬼は、誰もいなかったんだよね)

 主によると、彼女が共に暮らしていた村人たちは皆、彼女が見つかった頃には亡くなっていたらしい。
 病気の子供が一人で生きていたという状況を鑑みるに、最後の大人の生き残りが息絶えたのは、彼女が発見されるほんの数日前か、あるいは直前までいたのかもしれない。
 当然、大袈裟な記事を書いた者が、住人に暮らしの様子を聞きに行く時間はなかったはずだ。だから、ここに記されている内容は、ただの妄言の集まりに間違いない。
 面白半分に他人の生活を脚色し、見世物にしていく。それの何が面白いのかは、彼には分からなかったが、

(人間って、違うものが気になって仕方ないんだろうね。ひょっとしたら、僕たちも)

 と、思う部分はあった。
 深手を負っても、手入れをすれば治る体。万屋やここに来るまでに行き会った通行人たちの反応から察するに、自分たちの容姿は優れていると評価されているようだ。
 他にも、刀を手足のように扱う絶技も、常人からはかけ離れているのだろう。
 自分たちが見世物になっていないのは、他ならぬ公的な後ろ盾が刀剣男士の存在をぼかし、時に庇護しているから――とまでは、髭切も理解していない。
 しかし、自分たちも生きる場所が異なれば、きっと同様の扱いを受けたのだろうという予測はできた。
 髭切が考えている間にも、歌仙は律儀にも綴じられた記事を全て読んだらしい。いつもより深く眉間に皺を刻み、ファイルを閉じて、彼は大きく息を吐く。

「……つまり、きみは山奥の廃村に近い集落で生まれ育ち、病に伏していた所を助けられ、そのまま人里で育ったということだね。たしかに、以前山奥の村で暮らしていたと話していたと、僕も覚えているよ」
「ちゃんと言ってなくて、ごめん」
「責めてるわけじゃない。これを見れば、話すのが難しい事柄だったのだろうと、理解はしているつもりだ」

 俯いたまま謝罪する藤に、歌仙は労りの声をかける。

「他の住人は、記事によると亡くなっていたようだが」
「元々、老人しかいない村だったんだ。大人はお母さんだけだった。だから、毎年誰かが亡くなって、お葬式をするような状態で……長くは続かないだろうって、今だったら思ってただろうね」
「だが、病気の主を世話していた者はいたのだろう」
「うん。お母さんが亡くなってから、おじいちゃんが面倒を見てくれていたんだ。あの冬は、おじいちゃん以外にも何人かまだ暮らしていたのだけれど、不作だった上に、猟も悉く失敗続きだったみたいで、ちょっとした風邪をこじらせて、あっという間に、ね」

 藤の口元には、緩い弧が浮かんでいた。無理に笑って悲痛な空気を吹き飛ばそうとしているのが、丸見えだ。
 そんな笑顔は見るに堪えず、髭切は彼女の隣に座り直した。何をするでもなかったが、ただ藤の側に寄り添っていたかった。

「僕も、風邪が悪化して寝込んでいたのだけれど、その間はおじいちゃんが看病してくれた。多分、凍死していた遭難者っていうのも、おじいちゃんが連れてきたんだと思う」

 病気で寝込む孫娘に、少しでも美味しいものを食べてもらいたい。その結果に得た糧が死人の肉だったというのは、皮肉以外の何者でもないだろうと、歌仙は唇に歪んだ線を引く。

「――それで、その祖父殿は?」
「そっちの記事には書いてなかったけど、僕が見つかってから何日か後に、身元不明の老人の遺体が発見されたってニュースがあったって、昔教えてもらったんだ。だから多分」

 そこで、藤は言葉を句切る。続く内容は、言わずとも想像できることだ。
 山の中での不幸な事故だったのか。それとも。
 答えは、すでに土の下に埋まってしまっている。死人は何も語らない。

「きみの故郷について、廃村とよく書かれているが、きみが大きくなるまでも期間とはいえ、人が――鬼が住んでいたなら、少なくともその時点では廃村ではなかったのだろうね」

 話題を切り替えるため、歌仙が別の観点から藤の故郷について尋ねる。藤も、彼の誘いに乗るように、返事を重ねた。

「厳密には違うと思うよ。村のお年寄りは、若いものたちは外の暮らしが気になって出て行ってしまったって、話していたんだよね。山を下りた人の方が、だんだん多くなっていって、それで」

 藤は寝台の側に置かれていた地図を手にとり、広げてみせる。丁度、この辺り一帯を網羅しているような地図だ。その中で、彼女はとある一点を指さし、

「お母さんから聞いた話だと、小さい頃は村よりはちょっとだけ麓に近い場所に家を移して、麓にもある程度行き来しやすいようにしていたんだって。学校からも、そこから通っていたって。それまでは、登下校だけでも相当大変だったみたいで、だんだん行かなくなるのが当たり前になってたらしいよ」

 彼女の指し示す場所は、辛うじて平地に近いと言える場所だった。学校と記載のある施設からは、徒歩で通えるか通えないかといった距離だっただろう。

「どうして皆、山の中で暮らしていたんだい」

 髭切の素朴な質問に、藤は眉と眉の間に深い谷を作ってみせる。歌仙はその反応を見るだけで、大体の事情を予想することができた。

「髭切。きみだって知っているだろう。鬼は悪いものだと、皆が思う存在だ。そんな悪いものたちが、一緒に住みたいと言っても、易々と受け入れられないだろう」
「人をとって食うような鬼ではなかったのだろう?」
「……髭切や本丸の皆のように、鬼でもいいよって言ってくれる人は、そんなに多くないんだよ」

 藤は、ぽつりと呟く。

「大きくなってから、どうして僕のことを鬼として育てたのかなって、たまに考えてたんだ。どのみち、先がないって分かっていたのに、余計混乱させるような真似をしたのはどうしてかって」

 鬱蒼と茂った木々の中に、隠れるようにしてあった集落。そこで、彼女は幼い思い出を作り上げた。
 切り株に腰掛けて、老婆の昔話を聞いた。腰の曲がった老爺の代わりに荷物を運び、お礼に美味しい木の実を貰った。
 そんな微かな思い出が、藤の胸の中に溢れかえり、同時に「どうして?」という疑問を生んでいく。
 どうして、私を鬼にしたのか、と。

「自分たちは、鬼なんだって、人間と違うんだってそこまで思いたいのは、きっと何か麓の人や関わってきた人たちとの間に、とても嫌なことがあったからじゃないかな」

 その理由を、藤は自ら考え、語る。
 彼らは、頑なに人間と自分たちとの境界に、くっきりとした線を引こうとした。まるで、そうでなければやっていけない、とでも言わんばかりに。

「自分たちは鬼じゃないって思いたい人が出て行って、そうじゃない人が残った。だから、村のおじいちゃんおばあちゃんたちは、皆揃って僕に鬼だって言い聞かせていたのかも。考え方って、一朝一夕に変えられないものだろうし」
「それなら、きみのご両親は?」

 歌仙の問いかけに、藤はすぐに答えられなかった。
 朧気な記憶の中、母と呼んだ女性が自分に何を望んでいたのか。それすらも、既に曖昧な思い出の霞に溶けてしまっている。

「……よく、分からない。ただ、お母さんは僕をとても可愛がってくれた。村の人たちも」
「それだけ知っているのなら、もういいんじゃない?」

 隣に座る髭切が、藤の体に軽く体重をかけ、凭れかかる。どうしてそんな触れあい方をされているのか、藤には分からなかったが、今はその重みが自分をここに繋ぎとめてくれるようにも思えた。

「主が信じたい人を信じようよ。ね?」
「でも、それだと、見たいものだけを見ている人になってしまうよ」
「僕に言わせれば、きみは人の目を気にしすぎているよ」

 歌仙にやんわりと指摘をされ、藤は口を噤む。先だっての騒動を思えば、ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。

「自分が生きやすい場所で暮らしたいと思って、それの何がいけないのかな」

 髭切の問いに、藤は何も言い返すことができなかった。


 ***


 近くにあった寂れた定食屋で夕飯を済ませると、後はもう何もすることがなくなってしまった。
 彼女が部屋に備え付けのお風呂に入っている間、髭切と歌仙は大浴場でさっさと一日の流れを洗い流し、クローゼットに用意されていた浴衣に着替えて一息ついていた。
 歌仙と髭切が二人きりになったのは、藤と語り合った夜以後、初めてだ。間に漂う沈黙は、気まずいというほど互いを意識したものではないが、かと言って和やかとも言いづらい。
 髭切はそれを気にしていないようだったが、歌仙としてはジリジリと端から追い込まれているような心持ちになっていた。

「髭切。先ほど、主が話していた件についてなんだが」

 どうにかあれこれ話題を考え、結局歌仙が見つけた話題が主のことだった。これは、髭切も興味があるものだったらしく、顔を上げる。

「主は『若いものたちは外の暮らしが気になって出て行ってしまった』と語っていた。僕は、それを聞いたときは、ここ数十年の間の話だと思っていたのだが、もしかしたらもっと根の深い話なのかもしれない」
「どういうこと?」
「きみが来るよりも前の話になるんだが、僕は以前、遠征した時代で、とある大柄な武者を見た。戦場で果てた彼の額には、鉢金ではなく、立派な角が生えていたと物吉は話していたんだ」

 あのとき、彼は主と同じ名の女性を一殴りしただけで、容易に殺めてしまった。一度殴打しただけで首の骨を捻り飛ばすなど、とても人の所業とは思えない。まさに、絵物語で語られる鬼のなせる業だろう。

「それを言うなら、歌仙には話したと思うけれど、江戸の出陣のときのことを覚えているかな。主が閉じこもってしまう直前の出陣だよ」

 髭切に促され、歌仙は首を縦に振る。彼女がいなくなった直前の出来事ともあって、歌仙の脳裏には鮮やかにその日の戦いが刻まれていた。

「あの時代で、人肉を買っていた女性を見たよ。主によく似た髪色の、角が生えた人だった。肉を売っていた人は『美味いって言いながら食うのはあいつだけ』って語っていたね」
「それに、これは和泉守から聞いた話なんだが、先日行った明治への遠征にて、荷運びで雇われていた男の額に角があったそうなんだよ。彼は、角を隠したがっていたようだったが」
「僕が見た女性もそうだったよ。角があるから化け物扱いされるって。つまり、彼らはもとは同じ場所にいた人なのかもしれないね」

 髭切は、机の上に置き去りになっている地図に視線をやる。あの山の中に、嘗てどれほどの規模の集落があったのかは知らないが、藤が言うように、時代を経ていくにつれて廃れていったのは間違いない。

「案外、僕が斬ったという鬼も、彼らの一人なのかもしれない」

 髭切は、己に刻まれた逸話に思いを馳せつつ、呟く。
 行き会った鬼たちが藤の故郷から来た者なのか、それとも彼女の故郷すら、もとは別の土地にあったものなのか。
 定かではないが、そこには確かに人の間で暮らしたいと外に飛び出した鬼たちの遍歴があった。時代を遡る歌仙たちは、彼らの生きた断片を観察してきたのだ。

「江戸で出会った鬼も、和泉守が見た鬼も、己の角を疎んでいた。人間に馴染んで暮らすには、その特徴は不要だったのだろうね」

 生まれたときから人間の中で育ってきたなら、己の身体的特徴を否定する方に思考が偏っても不思議ではない。
 こんなものがなかったら、もっと簡単に人間に馴染めるのに、と嘆いた日もあったのだろう。歌仙自身、主も同じような考えを抱いているとずっと考えていた。
 だが、彼女は違った。
 彼女は――藤だけは、この時代においてもまだ、鬼であり続けようとする者たちの間に育ってきた。
 だから、彼女は角を否定しない。鬼として生きる己を否定できないまま、人の世で板挟みに遭っていた。

「僕が言うのも何だけれど、鬼として育てられるのは、彼女にとって良いことだったのだろうか」

 憂い顔で、歌仙は呟く。時代の流れに逆らうように、たった一人孤立するような思想を押しつけられるのは、結果的に辛い思いを強いるだけだったのではないか、と。
 顔も知らない彼女の隣人たちに、歌仙はやり場のない感情を向けていた。

「僕は、それでも良かったんじゃないかなって思うよ」
「おや、きみは否定をするかと予想していたんだが」
「鬼を斬った刀ではあるけれど、ね。鬼として生きるって、誰かを傷つける生き方をするってことと、どうやら同じではないようだから」

 髭切は、そっと目を伏せる。自分にしがみつくようにして、ぼろぼろと泣き出した彼女の顔が、今でも瞼の裏にはしっかりと焼き付いていた。
 鬼として認めてほしいと、自分の望むあり方で見てほしいと、思いを吐き出した子供の姿を、彼は忘れられない。

「ただ、否定をされ続けながら育つよりは、僕はよほどいいんじゃないかなって思うよ」

 こんな体で生まれたくなかったと、嘆きながら生きるよりは、これで良かったと胸を張りながら立っていたいものだ。
 刀であって良かったと、自分が思っているように。
 鬼であって良かったと誇れるのなら、その方がいい。

「それを思うと、主の母君や父君はさぞかし悩んだのだろうね」
「どうして?」
「どうしてもこうしても、己の子供をどんな環境で育てるかを決めたのは、恐らく彼らだろう」

 まさか、赤子がこちらで住みたいと言うわけもあるまい。
 藤の語っていた内容が事実なら、彼らと麓の人間の間には確執があったはずだ。そうでなかったとしても、人間の営みの中で、如何にも鬼らしい見た目の子供を育てることで、どんな軋轢を生むか、彼らは薄々予想できていたに違いない。

「山奥で、鬼として肯定しながら育てるか。人里で、その姿を否定しながら人間として育てるか。母君も父君も、簡単には決められなかっただろう」

 世間から隔絶された社会で育てば、彼女が今のように外の世界との間に生じる価値観のズレに悩むだろうと、想像しなかったわけではないはずだ。
 それでも、藤の両親は、彼女を鬼として――その姿を肯定して育てることを選んだ。

「つくづく、人というのは複雑な生き物だよ」

 しみじみと語る歌仙の言葉を受け、髭切は人々が連綿と重ねてきた時代に思いを馳せるかの如く、目を閉じる。

「そうじゃないと、僕らは生まれなかっただろうね」

 言いつつ、髭切は腰掛けていた寝台から立ち上がり、窓にかかっているカーテンを少しずらす。
 ガラスの向こうに広がる夜は、本丸の夜よりなお深く、濃い。その先は、まるで見えなかった。

「僕らは壊すものなのに、同時に飾られたり、大事にしまわれたり、宝とされたり――そんな風に色々な意味を見出されるのは、人が複雑な生き物だからなのだろうと思うよ」

 カーテンから手を離すと、ぱさりと乾いた衣擦れの音がした。
 つかみ所の無い微笑を浮かべている髭切。そして、こうして座っている己もまた、その複雑な心の欠片を手に入れたのだろうと、歌仙は改めて思った。


 ***


 部屋に備え付けられた浴槽は、やはりというか、当然というべきか、本丸のものよりは小さかった。
 その小さな箱の中に身を詰め込むように座り、藤は少し汚れの残る天井を見つめた。人肌程度のぬるめのお湯が、汗ばむ陽気の今には丁度いい。

「昔のこと、随分久しぶりにたくさん話したなあ」

 今まで、昔過ごしてきた場所について語ることを、藤は避けていた。特に山を降りる直前直後は、あまり口にした覚えがなかった。
 単純に周りの反応を見て心が揺れるのを嫌がっていたから、というのもある。だが、その当時は記事にあったように病に冒されていたので、はっきり覚えている部分が少なかったからというのも、また事実だ。
 風邪をこじらせて肺炎になりかかっていただけでなく、栄養失調によって、その他の感染症にもかかっていたようで、治療に加えて予防接種などなどの処置を行うために、結局半年近く病院に釘付けになっていた。
 その間に、マスコミの騒動が一段落していたのは、不幸中の幸いと言えただろう。ゴシップ記事や新聞記事についても、引き取られてから『何があったかを知った方がいい』と養母に見せてもらって、初めて認識したほどだ。

「……でも、こればっかりは言えなかったな。今でも、夢みたいだって思うし」

 歌仙と髭切には殆ど全てを話していたが、一つだけ触れていないことがあった。
 風邪をひいて寝込んでいる孫娘の側で、唯一病に冒されず看病を続けていた祖父。
 彼の甲斐甲斐しい世話のおかげで、あの瞬間まで生き延びられたと言っても過言ではない。高熱のあまり、食事もほとんどできなかった孫に、どうにか栄養をつけさせようと、彼は苦渋の決断をしたのだろう。
 ぼんやりとした記憶の中、彼が食べさせてくれた料理のうち、やけに美味しい肉が入ったものがあった。あれは、間違いなく外で見つかったという凍死体に違いない。
 そのことを考えると、頭が堂々巡りを始めてしまうので、今は一旦脇にやる。見つめ直して悩むのは、後でもできることだ。

「……あのとき、おじいちゃんは結局何をしようとしていたんだろう」

 問題は、その後に彼がした行動だ。それについてだけは、藤は歌仙たちに打ち明けられていないままだった。
 あれは、とても寒い日だった。
 夏が寒く、冬が例年より早く訪れたせいで、山の実りも少なく、獣たちは神経質になり、年老いた村人たちが懸命の思いで仕掛けた罠にも、まるでかからなかったという。
 丁度夏に母を亡くしたところだった藤は、すっかり気落ちしてしまっていた。そのせいか、病が流行り始めてすぐに、床に伏せってしまった。
 頭は熱いのに、体は冷たい。頭痛が酷く、呼吸するのも苦しい。そんな日々を何日も過ごし、久しぶりに美味しいと思える食事を食べさせてもらった直後に、事件は起きた。

「おみず……」

 朦朧とした意識の中、掠れた声で水を求めたのを覚えている。罅割れた器が差し出され、一度火を通したと思しき、ぬるい水を口に含む。
 ぼんやりとした視界に映っているのは、皺だらけの老人の顔だった。もっとも、今はその顔すら、もう思い出せない。

「――――」

 あのとき、彼は何かを言っていた。
 すまない、だっただろうか。
 それとも、許してくれ、だろうか。
 聞き返そうと思うより先に、水の入った器が下げられた。だが、普段ならそれで終わるのに、今日の彼はやけに長くこちらを見つめている。
 何か悩んでいるの。
 困っていることがあるなら、教えて。
 そう言いたかったのに、腫れ上がった喉ではろくに喋ることもできなかった。
 彼が懐から何か取り出している。火の光を受けて、冷たく輝くそれについては、当時の藤でもよく知っていた。危ないから触っちゃいけないと常日頃から注意されていた、猟のために使う刃物だ。
 鈍く光る刃が、こちらを向いている。
 髭切を顕現して殺されるかと思った瞬間、この時のことを思い出していたなと、大人になった藤は当時の様子も、併せて共に振り返る。
 髭切は、こちらを退治すべき鬼として、淡々と処理しようとしていた。だが、老人がどんな顔をしていたのかは、やはり分からない。
 結局彼は、狩猟用の刃物を振りおろしはしなかった。
 小さな老人の背中は、途方もない諦めと苦難を抱えているように、幼い目に映った。
 彼が何を考えていたのかは、分からずじまいのままだ。それからすぐに、彼は姿を消し、程なくして知らない大人たちが家に来たのだ。
 祖父が、隣人達が、いったい何を願っていたのか。藤は知らないままだ。
 昔も、今も。
 土の下に埋もれた鬼の心は、誰にも暴かれることのない眠りについたままになっている。


 ***


 思索に耽っていたせいで、少し長くなってしまったお風呂から出て、藤が目にしたもの。
 それは、やや困ったような笑顔を浮かべて寝台を眺めている歌仙と、寝台に腰掛けて嬉しそうに枕を抱えている髭切だった。

「二人とも、何かあったの?」

 この様子なら喧嘩ではないだろうが、状況把握も主の務めだろうと藤が尋ねると、

「寝る所について話していてね。ここには寝台が二つしかないだろう?」

 歌仙の言うように、今髭切が腰を下ろしている寝台と、空いているもう一つしかない。三人部屋などというイレギュラーな客向けの部屋は、宿泊所には存在しなかった。
 とはいえ、一人用の寝台であっても、身を縮めれば大人二人が眠れるくらいの大きさはある。だから、髭切と歌仙が共に寝て、自分は一つ分の寝台を使わせてもらおうと、彼女は軽く考えていた。

「それなら、歌仙と髭切とで一つ使って、残りは僕が」
「主は、最近よく歌仙の部屋で一緒に寝ているよね」

 藤の言葉を遮るように、何故だか妙にうきうきした調子で髭切は言う。

「一緒に寝てるっていうか、隣に布団並べてるだけなんだけど」

 年頃の娘として、その言い方は誤解を招きそうなのでやめてほしい、と藤はこっそり思う。もっとも、髭切はもちろん、歌仙も『誤解』の意味すらきっと分かってはいないだろう。

「だから、今日は僕と一緒に寝てはどうかなと考えたんだ。いいよね?」

 全く良くない、と藤は間髪入れず言いそうになった。口にしなかったのは、髭切があまりに嬉しそうにしているので、水を差すのは申し訳ないと思ったからだ。
 歌仙と寝ていると言っても、布団を隣に敷いて一緒に寝ているだけであり、子供が母親の隣で寝るようなものだと、藤は見なしていた。実際、彼と共に休む時間を、憩いの時間のように考えているくらいだ。
 だが、髭切が腰掛けている寝台は、どう見ても普通のベッド。大きさこそ一人用だが、予備の枕を並べたらダブルベッドにしか見えない。
 布団を並べるだけならともかく、二人で一つのベッドを共有するのは、藤としても避けたい所だった。

「い、いやあ、流石に、それは……。あっ、ほら、たまには刀剣男士同士で休むってのもいいんじゃない?」
「残念だけど、僕と髭切でこの布団を共有すると、窮屈で仕方ないということになりそうなんだよ。主なら僕らより小柄だから、大丈夫だろうさ」

 歌仙に追い討ちをかけられて、藤は自分でも情けないと思う呻き声をあげた。


 ***


 結局、それ以上抗う気力もなく、藤は髭切と枕を並べて同じ寝台で寝る運びになった。
 妙に喜んでいるところを見る限り、もしかしたら歌仙と内心では張り合っていたのかもしれない、と藤は考える。
 刀ならば、美術品として床の間や寝室に飾られていた機会もあっただろう。それと似た感覚で、寝ている主の側にいるということは、彼らにとって名誉なことなのでは、などと彼女は取り留めも無く考えていた。
 部屋の電気を落とすと、外の暗さも相まって、より一層の静けさに空間が包まれていく。辛うじて聞こえるのは、近くにいる髭切の息遣いぐらいだ。

「ねえ、主」

 もそもそと布団がこすれる音と共に、髭切が顔を見せる。暗闇の中でも、彼の薄い金髪は星のように輝いて見えた。

「主、ここに来てから、何だか少し怖い顔をしているよね」
「そうかな。まあ……そう、かもね」

 突然の話ではあったが、心配をかけていたのだろうかと藤は頬を手で軽く揉む。無理に笑わなくなった反面、感情が如実に顔に表れて、どうやら不安に思わせてしまっていたらしい。

「もっと笑っているものだって、想像していたんだよ。前に、故郷の話をしていた時は、ちょっと笑っていたから」
「それって、冬に話していたときのこと?」
「うん。去年の十二月頃の話」

 そうだっただろうか、と藤は思い返す。
 故郷は、彼女にとって懐かしい場所だ。だから、笑って話していたと言われても、その可能性はあるだろうとすんなり飲み込むことはできた。
 だが、同時に故郷を語るときは一抹の寂しさも感じる。何故なら、そこは既に終わってしまった場所でもあるのだから。

「寂しいのかな。僕も、ちょっと自分がよく分からない。色々考えていたら、分からなかったことも思い出しちゃったから」
「そうなのかい?」
「うん」
「それは、話したくないこと?」

 話さずに、また一人で抱え込んでいるのではないかと、髭切は尋ねる。詰問しているわけではなく、心の底から気遣っている声だとは、藤もすぐに気が付いた。

「話したくないっていうより、どう話したらいいか、よく分からないこと。でも、聞いてもらいたいこと……かな」
「じゃあ、聞くよ」

 髭切に促され、ぽつぽつと藤は自分が最後に見た祖父の姿を語る。
 普段は、彼については、母親ほど考える機会はなかった。彼は多くを語る人ではなく、昔気質の老人という言葉がぴったり似合う寡黙な人物だったからだ。母がたの祖父だったという記憶はあるが、無口な彼とお喋りな子供はあまり反りが合わず、怖いおじいちゃんという印象だけが藤の中には残っていた。
 そんな彼が、最後にとった不可解な行動。その全容を語り終えて、藤は言う。

「どうして、おじいちゃんは、僕を殺そうとしたんだろう」

 あの刃は、悪戯で向けられたものではない。あれには確かに、形はどうあれ、殺意が滲んでいた。

「うーん……そうだねえ」

 髭切は相槌こそ打っていたが、正直なことを言うのならば「よく分からない」と感じていた。
 何せ、彼は人ではない。鬼でもない。家族に向ける感情というものを性格にくみ取れるほど、主以外の人間と深く付き合っているわけでもない。
 だが、知らなくとも――想像はできる。
 主の心を、想像したように。
 祖父と孫の関係性は分からなくても、大切な何かを自らの手で壊してしまいたくなる関係を、思い浮かべるのなら、髭切(かたな)にもできる。

(僕にとって大事な者が、今にも死にそうになっている。なのに、僕にはどうすることもできない。それなら)

 その風習に、髭切は覚えがあった。

「介錯のつもりだったのかな?」

 苦しみを長引かせる前に、苦しみそのものを命ごと絶つ。乱暴かもしれないが、それもまた選択肢の一つと言えよう。

「……でも、結局は途中でやめていたよ」
「躊躇いがあったのかもね。ああ、もしかしたら、主のところに助けが来るって気が付いていたのかも」
「救助に来た人たちに気が付いて、僕が助かるって分かって、じゃあどうして、一緒に行かなかったんだろう」
「……主は、言っていたよね。鬼でもいいよって認めてくれる人は、そんなに多くないって」

 長らく染みついた考え方は、そう簡単には変えられない。それは鬼も人間も一緒だ。
 刀としてありたいと考えていた自分が、唐突に人間であれという考えを押しつけられたら、戸惑ってしまう。五虎退や物吉のように人の心に寄り添いたがっていた者たちは、泣き出してしまうかもしれない。
 主の祖父は、外ではもう生きられない鬼だったのだろう、と髭切は想像する。
 だから、彼は孫を――大切なものを壊すかどうかを、躊躇ったのではないか。
 人の世に預け、後ろ指を指され続けてでも生き続ける道を選ぶか。
 それとも、時代遅れの鬼らしく、共に果てるか。

「主に生きてほしくて、でも、主がこれから向かう先に、自分はついていけない。そう考えたのかもね」

 それに、もしかしたら、と髭切は思う。

(主に人間を食わせてしまった鬼の責任、みたいなのもあったのかもしれない)

 こればかりは、本人に聞かなければ分からないことだ。そして、当の本人はもういない。

「……一人にしないでほしかったって縋ってしまうのは、僕の我が儘なのかな」
「どうだろうね。僕にはよく分からないよ。ただ、僕なら、主には笑ってほしいかな」

 もし、自分の手から離れてしまったとしても。笑ってくれるのならそれでいい。
 そんな風に割り切って思いたかったのに、どこか胸の奥がずきんと痛んだ。
 不可解な痛みは一旦無視して、髭切はこちらを縋るように見つめている藤に手を伸ばす。布団の中でくしゃくしゃになっている朝焼け色の、以前より伸びた毛に指を通し、そっと撫でた。そのやり取りだけで、小さな痛みは跡形もなく消えていった。

「ありがとう、髭切。話、聞いてくれて。ちょっと、すっきりした気がする」
「どういたしまして」
「じゃあ、そろそろ寝るね。おやすみ、髭切」
「うん。おやすみ」

 隣で藤色の瞳がゆっくりと閉じられるのを見守ってから、髭切も目を瞑る。
 布団の中に広がった熱は、いつも一人で寝ている熱より、ずっと優しく包み込んでくれる。そんな不思議な感覚と共に、髭切は眠りについた。

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