本編第二部(完結済み)

 藤は今、自分が聞き分けの良い人形になったような心地で、その場に立っていた。
 目の前には、絢爛豪華な布地の数々。だが、今日はそこにある布達に用はない。

「はい、両手を広げてください。背筋は伸ばして。あ、お客様は姿勢がとても綺麗ですね。では、そのまま動かないでください」

 店員の女性に言われるがままに、姿勢良く立ち尽くしていると、すかさず巻き尺が当てられる。真一文字に伸びた巻き尺には、規則正しく目盛りが並べられていた。
 そうして、余すところなく全身を測ってから、満足そうに微笑んで、店員の女性はようやく藤を解放した。

「お疲れ様です。お連れの刀剣男士様たちは、あちらで着物を見ているようでしたよ」
「あ、ありがとうございます……」

 思った以上に長々と測定をされて、疲労困憊の藤は、よろよろとした足取りで売り場に戻る。
 本日、彼女は歌仙お勧めの呉服屋に足を向けていた。クリスマスの頃に貰った反物で、着物を仕立ててもらうためだ。
 もとより盛夏に向けた布地ではあるので、冬に仕立てれば十分間に合うだろうと、歌仙は考えていたらしい。
 しかし、藤が閉じこもってしまったために、その目論見が瓦解してしまった。そこで、急遽こうして、測定を行うことになったのである。
 売り場に戻ると、そこには連れ添いでやってきた髭切と歌仙がいた。歌仙の方は、何やら店員の老女から着物の売り込みを受けているようだ。
 藤が、自身について打ち明けた日の夜。彼女は同時に、二人の間に不穏な空気が漂っていると、気が付いてしまった。もっとも、二人とも精神的には成熟した大人だ。あの夜からも、結局何事もなく日々を過ごしている。
 だが、髭切が飄々とした性格なので、実は歌仙が堪えているのでは、と藤は少し心配していた。我慢して黙ってしまうのは、何も自分だけの専売特許ではない。

「おかえり、主。どうだったんだい」
「着せ替え人形の気持ちが、分かった気がする」
「きみは、大人しくしているということができない人だからね」

 何か言い返したいところだったが、疲れ切っていたために、言葉は口から出てこなかった。店員が用意してくれた椅子に腰掛けると、すかさず冷えた麦茶が差し出される。扱っている品が品だけに、サービスも行き届いているようだ。

「お仕立てですが、早ければ一ヶ月後には完成します。絽のお着物なので、早い方がいいでしょうから、張り切らせていただきますね」
「ありがとう。助かるよ。それと、せっかくだから帯や帯ひもについても、ここで相談してもいいだろうか」
「はいはい、任せてください」

 歌仙が身を乗り出したことで、他にも売れるものがあると判断したのか、店主らしき老女は強かさを内に秘めた笑顔を浮かべ、カタログを取り出す。背後に控えている店員たちも、手頃な帯や帯紐を手に取り始めていた。
 楽しそうに歌仙が話しているのに、疲れたと言って水を差すわけにもいかない。麦茶を飲み干した藤は、机に置かれていたチラシを見るともなしに見つめ、暇を潰していた。

「ねえ、主」

 そこに、髭切がさも当然のように隣に腰掛ける。

「今、ちょっと楽しそうな顔をしているね」
「そう?」
「前より、自然に笑っているよ」
「……う、それは」

 以前の自分が作り上げていた偽りの笑顔について話をされるのは、未だもってばつが悪いと感じてしまう。
 自分の心を殺し尽くして生きようとしてくれたのを、頬をひっ叩くような形で引き上げてくれたのは他ならぬ髭切だ。感謝もしているし、できるなら何かお礼をしたいと思ってもいる。
 だが、彼は「笑ってくれればそれでいい」という。そんな聖人みたいなことを言われてしまうと、藤としては気持ちの収まりどころが見つからない。
 厳しい目で監視されるならいざ知らず、素直に笑顔を求められ、あまつさえ褒められてしまうと、嬉しいというより先に困惑が生まれてしまうのものだ。

「僕は、主の笑顔を見られるようになって、毎日、心がぽかぽかしてるんだよね」
「僕、そんなに四六時中笑っているわけじゃないと思うよ」
「でも、ご飯が美味しいと嬉しそうにしているよね?」

 ぐうの音も出ないとは、まさにこのことだ。ここ数日でようやく味覚がはっきりと戻ってきて、歌仙の作ったおかずを、何度もお代わりしようとして怒られたのは、記憶に新しい。

「あのさ。こんなこと言うと、髭切に叱られてしまうかもしれないけれど」
「どうしたの?」
「こんなに、笑っていて、いいのかな」

 案の定、髭切の手が伸び、ぐにぐにとほっぺを摘ままれた。少し痛いつまみ方なのは、怒っている証拠だろう。

「どうして、そんなことを主は考えるの?」

 責めているが故の質問ではないと、藤は察している。髭切は、純粋に疑問として尋ねているのだ。ならば、彼女も素直な感情を、そのまま言葉とする。

「だって、結局皆を泣かせてしまったから」
「後悔してるの?」
「ううん。ただ、もっとうまい方法はなかったのかなあって」

 悩んでいる間に、何もかもが上手く解決してくれていれば良かったのかもしれないが、そんなに物事が都合よく動くわけもない。それに、痛みの伴う変化でなかったら、同じ轍をいずれ踏んでいただろうとは藤も思う。
 そこまで分かってはいるが、それでも『ひょっとしたら』を考えずにはいられない理由が、藤にはあった。

「『親切にしてくれた人には、親切にしてあげなさい』って、言われていたんだよね。小さい頃から、ずっと」
「それは誰に?」
「――お母さんに」

 死に別れてもう十年近く経っているため、顔すら最早はっきりと覚えていない。触れた手の温かさも、ぼんやりとしたものになっている。
 そんな朧気な思い出の中でも、唯一克明にと覚えているのが、この教訓めいた言葉だ。だからこそ、できるなら藤は、たった一つの言葉に忠実でいたかった。

「優しくしてくれた人に優しくするのは、当たり前の恩返しだと思ってた。だから、今まで会ってきた人には、なるべく親切でいようと頑張ってきたつもりなんだ。でも、皆にはできなかったなって」
「たしかに、僕らが思い描くような理想を演じてくれるのなら、それはとても僕らにとっては気楽なものだろうね。だけど、それで主が笑えなくなるなら、やっぱり意味のないことになってしまうよ。それに」

 髭切は、ゆっくりと言い含めるように、彼女に言う。

「何もしてもらってない、なんてことはないよ。僕も、他の皆も、いっぱい主から貰っている」
「でも、和泉守や膝丸たちには、何もできてない」
「これからしていけばいいよ。それとも、審神者を辞めちゃうつもり?」
「まさか」

 ぶんぶんと藤は首を横に振る。髭切の言っていることは、耳障りのよい虚飾の言葉ではないと、藤も分かっていた。彼の言葉を聞いていると、何だか背中を押されたような心地になる。
 皆との間に出来た溝が埋められたわけでもないし、他にやりようがあったのではないかという気持ちもある。待っていても事態は好転しなかっただろうと、頭では理解していた。
 だから、この漠然とした不安は、単なる自分の納得の問題だ。

「僕はきっと、認めてほしいだけなんだろうね。これでよかったんだよって」
「認めてほしいって、誰に?」
「お母さん、に」

 自分で言って照れ臭さを覚えたのか、藤は麦茶の入ったグラスを額に当てる。角はまだ、バンダナの下に隠されていた。

「その人って、もう」
「分かってるよ。もう、いないって。でもね、本当にこれでよかったんだって……教えてもらった唯一の教えを破ってでも、よくやったねって、言ってほしいのかも」

 そんな風に認めてもらえたら、自分の中に残る罰の悪さも収まっていくような気がした。
 現実逃避のようなものとは分かっている。何せ、相手は故人なのだから。たとえ存命であったとしても、自分の行動の良し悪しを他人の決定に委ねるのなら、結局は今までと同じだ。
 だから、これは単なる自己満足だと、藤は己を客観的に見つめ直す。自分の心に決着をつけるための、一つの儀式のようなものなのだろう、と。

「言われたところで、何がどう変わるってこともないのかもしれない。ただ、皆と離れて色々と考えている間に、僕の中で里心が育ってしまったってだけの話かもしれない」
「じゃあ、行ってみる?」

 さらっと髭切に提案をされて、藤は一瞬何を言われたのか、理解ができなかった。顔を上げた先には、常と変わらない優しげな微笑みを浮かべた彼がいる。

「行ってみるって?」
「里心が育ったのなら、里帰りすればいいじゃないか。主は帰りたいんだよね?」
「帰っても、何もないよ」
「うん、知ってる。主が前に話してくれたからね」
「だったら、わざわざ行っても意味はないよ」
「ううん。何かはあると思う。主にとっても、ひょっとしたら僕にとっても。それに、約束したよね?」

 髭切は小指をぴこぴこと動かして、在りし日の記憶を藤に突きつける。半年以上前に藤の故郷に行ってみようと語り合い、指切りを交わし合った、寒い冬の日のやり取りを。

「それって、単に髭切が遠出をしてみたいだけなんじゃないの?」
「もしかしたら、それもあるのかもね。この時代の乗り物は、馬よりもずっと早いんだろう? ちょっと興味はあったんだよ」

 そうやって、自分のことばかり考えているように話しながらも、彼の目は常に藤を見つめている。未だ定まりきらない主の心に寄り添い、支えになろうとしてくれている髭切の気持ちは、藤にも十分伝わっていた。

「話が聞こえていたんだが、里帰りをするのかい」

 そこに、歌仙の声が割って入る。見れば、店員たちはすでに片付けを始め、彼の手には何枚かの書類が残されていた。

「いいもの、買えた?」
「ああ。君によく似合うだろうさ。それで、きみは里帰りがしたいと言っていたように聞こえたのだが」
「あー……うん。そうだね。ずっと行っていなかったし、気持ちを整理するために、行ってもいいかも。もちろん、休みが取れればだけど」
「もし行けそうなら、僕も付き合わせてはくれないか?」
「え?」

 歌仙は、ちらりと髭切に視線をやる。だが、彼については言及せず、まるで何かを断ち切るように視線を逸らし、

「きみの家族のようになりたいと、僕は思っている。それなら、きみの本当の家族に、挨拶の一つぐらいするべきだろう。きみがどんな所で育ったのかも、知っておきたいからね」

 とてもそれだけではなさそうだが、歌仙が真摯な気持ちから、そのように言っていることは藤にも伝わってきた。

「分かった。ただ、ちょっと遠い場所にあるから、一日二日じゃ帰れないかもしれない」
「構わないさ。本丸を数日あけても、別に壊れはしないだろう」
「……そう、だといいけど」

 残される面々の顔を思い浮かべ、果たしてそうだろうか、と藤は引き攣った微笑を浮かべたのだった。


 ***


 主の家族になるために、彼女が育った環境を知りたい。その言い分に、確かにいくらかの本音は含まれていたが、半分ぐらいは異なる。
 恐らく、故郷に戻れば、彼女の心に何らかの変化が訪れるだろう。そんな大事な局面を、髭切に独り占めされたくない。
 そのような子供染みたやっかみがあることを、見ないふりはもうできなかった。
 それは彼にとって――歌仙兼定にとって、紛れもなく自分の心の一欠片だったのだから。

 里帰りの休暇申請については、藤が懸念していたよりかは、あっさりと承認された。
 彼女が復帰してすぐの申請だったためか、ゆっくり体と心を休めるようにと、労りの言葉がついてきたほどだ。担当官である富塚の心配が、藤が思っていた以上に深いものだったらしい。
 悪い人ではないのだろうと、藤も承知していた。ただ、義父に対して、自分の心を押し隠して付き合う期間が長かったために、義父から感じていた善意の押し付けの延長を、富塚から感じてしまっていただけだ。
 それが、いつしか苦手意識へ変じたのだろうと、藤も落ち着いて自己を見つめ直すようになっていた。

 着物の仕立てから一週間後。歌仙と髭切を連れて、藤は電車に揺られて、昔暮らしていた村――正確には、村がある山へと向かっていた。
 最初こそ、高速で動く電車にいくらかはしゃいでいた髭切だったが、鈍行に乗り換える頃には落ち着きを取り戻し、挙げ句の果てに、電車の振動に任せて眠るような肝の太さを見せていた。
 歌仙の方はというと、本丸の近辺と万屋、出陣場所以外の光景を目にしたのは初めてだったこともあり、じっと外を眺めていることが多かった。
 そして、藤も久々の外出に浮き足立って、特急電車では車内販売の弁当をぺろりと平らげていた。鈍行電車の向こう側で、近くなったり遠くなったりする山々を見つめている目は、少し眠たげだ。

「――歌仙、酔ったりしてない? ずっと黙ってるよね」

 ある駅を越えてから、電車の揺れが少し激しくなっているようだ。藤の隣に座り、沈黙を決め込んでいる歌仙に、気分が悪くなっているのではないかと、藤はそっと話しかける。

「いや、気分は悪くないよ。人混みが多くて、きみにどうやって話しかければいいか、分からなくなっていたんだ」
「歌仙って……意外とさ、人見知りだよね」
「そうだと思いたくはないが、残念ながら自分でも認めざるを得ないと、ここ最近、何度か感じているところだよ」

 歌仙は藤から顔を逸らし、窓の外に猛烈な興味を覚えたように、視線を外へとやった。その頬は、夕焼け空のように赤い。
 彼が見つめている窓の向こう側には、延々と畑と田んぼが広がっている。今の季節は夏。目に入るのは、濃い緑ばかりだ。
 本丸の周囲とは異なり、家の数はうんと少ない。畑、畑、田んぼ、ビニールでできた設備、そして家。土地の持ち主が作業場所の側に家を建てる都合上、ある程度の間隔が空いてしまうのだろうと、歌仙は思う。
 申し訳程度に人が歩く姿も見えるが、それも疎らなものだ。電車が進めば進むほど近づいてくる山は、所々に黒々とした入り口を抱えている。その様子は、歌仙の脳裏に、ありし日の夏祭りを思い描かせた。

「きみは、去年の夏祭りの時のことを、覚えているかな」
「万屋の夏祭りの?」

 歌仙は無言で頷く。彼に促されるようにして、藤も一年前の縁日を瞼の裏に浮かび上がらせる。

「きみが僕らとはぐれて、結界を張っていた鳥居の向こう側へと、行ってしまったことがあったね。あのとき、きみは『知人を見かけたから追いかけた』と言っていた」
「――うん」
「あれは、きみの家族だったのかい?」
「お母さん、だったんだ」

 歌仙は窓の外を見つめ、藤は車内を見つめている。互いに顔を合わさず、しかし同じ話題を抱えて彼らは語り合う。

「髭切が顕現して、歌仙に『主を鬼と言うな』って庇われて、それを正しいって思うべきなんだって、言い聞かせようとしていた。君の親切に応えるべきだって、何度も何度も、自分を納得させようとしていた。でも、ダメだったんだ」

 藤の言葉に、歌仙は余計な言葉を差し挟まない。彼女自身が仕方ないと承知していても、自分の言葉が主を傷つけていたのだという事実を、歌仙は改めて胸に刻む。

「苦しくて、苦しくて、どうすればいいのか、ずっとお母さんに聞きたかったんだ。お母さんは、『親切にしてくれた人には、同じように親切にしてあげなさい』って言っていた人だから。自分が苦しかったとしても、そうすべきなのかって」

 ああ、それで――と、歌仙は思う。
 一年前、藤と山を登り、高原で休憩をとっていたとき、彼女は母を呼んでいた。今なら分かる。あれは、単なる郷愁のものではなかったのだ、と。
 彼女は答えのでない問いにぶつかり、その回答を、己の母に求めていたのだ。

「結局、ただの幻だったみたいだけどね。あの時は、色々と迷惑をかけてごめん」
「いや、僕の方こそ」

 きみの気持ちを汲んであげられなくて、と歌仙は口の中で呟く。
 言ったところで、互いに謝るだけの堂々巡りになると分かっていたからこそ、口にはしなかったが、それでも胸をしめつける痛みは残り続けていた。
 藤はそれ以上、何も話さなかった。
 ガタン、と電車が揺れて、眠っている髭切の頭が傾ぐ。窓の向こうでは、夏の日がゆっくりと西に傾いていた。
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