本編第二部(完結済み)

 くるり、くるりと手遊びで茎を回せば、ぐるりぐるりと花が風車のように回る。その度に、ふわふわと甘い香りが鼻腔を掠めていた。
 昼過ぎであるのに、廊下に落ちる日差しは強烈な輝きを放っている。これが収まるには、あと数十日は待たねばならないだろう。
 目指す部屋までもう少しのところで、彼――髭切は、探し人の姿を廊下に見つける。ちょうど良かったと、彼は口元を柔らかく緩めた。

「主。探していたんだよ」

 声をかけると、主こと藤はきょとんとした顔で自分を指差す。構わずに距離を詰め、髭切は先ほどから弄んでいた花を、彼女の目の前に差し出した。

「これ、あげる。政府に遠征の報告をしにいったら、配っていたんだ。間違えて大量に買っちゃったんだってさ」

 大きな五枚の真っ白な花びらが特徴的な、芳しい匂いを放つ花。突如現れた花を前に、藤は目をぱちくりとさせる。

「百合の花?」
「ああ、これも百合っていうんだね」

 そろそろと受け取り、自分の前に開いた花びらを、藤はしげしげと眺めていた。
 まるで職人が作り上げたかのような均整のとれた形に、一点の染みもない白。雪のような、と形容するほどの冷たさはなく、かといって雲のようだと思えるほどの柔らかさとも違う。みずみずしく、傷ひとつない美しい佇まいは、さながら、

「髭切みたいな花だね」
「僕?」

 ぽつりと漏らした感想が、思った以上に大きな声になっていたと気がついて、藤は慌てふためき、首をぶんぶんと横に振る。

「いや、あの、汚れとか何もない真っ白な感じが、何だか似てるなーっていうか」
「そう……かな?」

 花を見て、人を想起するほどの高度な詩的情緒は、あいにく髭切は持ち合わせていない。ましてや、主のことならともかく、鋼でできた己を植物の一つに例えようなどとは、想像すらしていなかった。

「あまりピンとこないんだけれど、主がそう思うなら、そうなのかもね」

 結局無難な返事をして、髭切は百合から興味を無くしたように外を見やる。
 初夏が近づいた庭では、あちこちに緑が萌え立ち、花が咲き乱れていた。生け垣がわりに植えているツツジの花は枯れ、今は代わりに、日々草なる花が目映い紅白で庭を彩っている。
 庭を眺める彼の視線に気が付き、ふと藤は尋ねる。

「髭切は、好きな花とかあるの? その……竜胆と藤の花以外で」

 彼女がわざわざ注釈をつけた理由は、言うまでもない。それが彼にとって、特別な花に該当するだろうと、容易に想像がついていたからだ。
 前者は弟との縁を感じる花と、彼も話していた花であるし、後者は――自惚れが過ぎるかもしれないが、と注釈が入るものの、藤の名前そのものを表している花だ。その花を『大事』などと面と向かって今言われるのは、やや面映ゆいものがある。

「それ以外で好きな花……うん、それなら、あれかな」

 髭切が指差したのは、彼の部屋の前で茎を揺らしている、背の高い一輪の花だった。今は柔らかくつぼみに色がつき始めている。その花の名を、藤はよく知っていた。

「――鬼百合?」
「うん。どうせ同じ百合なら、僕はあっちの方がいいな。初めて自分で植えた花だもの」

 正確には、庭のはずれで咲いていたのを見つけて、日当たりが良い自室の前に植え替えたという経緯だった。どちらにせよ、髭切にとっては、自ら世話した最初の花であることに変わりない。

「主は、あの花が嫌いみたいだったけれど、僕は気に入っているんだよ?」

 植え替えの話を持ちかけた時、彼女は表情を変えて、すぐさま抜くように指示した。
 ――鬼百合が好きということは、変なことだから。
 彼女はそのように理由を語っていたが、髭切は御構い無しに『気に入ったから植え替えたい』と押し切ったのだ。

「そういえば、どうして鬼百合が好きだと変なのかな?」

 思い出したついでに尋ねると、藤はふい、と目線をそらしてしまった。何か思うところがあるのか、くるくると百合を弄び続けている。

「黙っているのは言いたくないから? それとも、言ったら僕が悲しくなるって考えて、黙っているの?」

 有無を言わさぬ口調は、前者ならともかく後者なら絶対口を開かせるという、強い決意を感じさせた。
 髭切にとって、主が他人を気遣うあまりに己を偽ることは、もう見過ごせない事項になっていた。一つ許せば、彼女はまたずるずると、自分を傷つけ始めてしまうだろうと分かっていたからだ。
 やや強引な手段を使ってでも、主には素直でいてほしい。そんな彼の思いを汲んでか、藤は意を決したように口を開く。

「……鬼みたいな見た目の子供が、鬼百合が好きだなんて言ったら、余計からかわれるだろうから。好きだなんて言わない方がいいって」

 彼女の見た目は、たしかに鬼と呼ばれる存在に似ている。額の角がその最たるものであり、何より彼女が鬼でありたいと、先日口にしたばかりだった。
 一般的な価値観において、鬼を良いものと考える人はいない。そんな意見が、彼女の口から徐々に本音を奪っていったのだろうとは、髭切も既に理解している。
 自分なりに、間違っていると承知した上で、それでも自分の意見が正しいと、血を吐くような思いで訴えられるほど、心は強くあれないものだ。

(それにしても、花の好き嫌いまで押しつけられていたとはねえ)

 果たして、鬼はどちらなのやら。
 尋ねても詮ないことではあるが、どうしても問わずにはいられなかった。もっとも、声に出すのを控えるぐらいの品性は髭切も持ち合わせている。

「言わない方がいいって言ったのは、誰なの?」
「えっと」

 何の気なしに髭切がした問いかけに、藤はぱちぱちと数度瞬きをする。
 言われた言葉は、あれほどまで強く心に根付いていたというのに。誰に言われたのかだけが、まるで無理矢理その部分だけ空白にしたかのように、記憶の中から思い出すことができない。

「誰……だったんだろう」
「昔の話だから忘れちゃった?」
「多分。もう十年近く前だっただろうから」

 知ったところで、どうこうできるわけもない。過ぎた話であるし、元々さして興味もなかったので、髭切もすぐに関心を無くしたようだった。

「じゃあ、主は鬼百合が本当は好きなんだね」
「うん。だって……えっと、これを言うのって結構恥ずかしいんだけど、僕の髪の毛の色に」
「そっくりだものね。僕も同じ理由で好きなんだ」

 さらりと述べられた言葉に、彼女は羞恥から俯いてしまう。鬼百合の花に負けないくらいの濃い花が、藤の頬に咲いていた。自らを花に形容することが、照れくさかったからだ。

「そっちの綺麗な白いのより、僕はここに植わっている鬼百合の方を大事にしたいな」

 切られた白百合の花は、作り物めいた美しさはあるのかもしれないが、やがて枯れてしまうだろう。それならば、地に根を張り、高々と天に向かって咲き誇る朝焼け色の百合を、彼は好ましいと感じる。

「白百合の方が、髭切にあわせたら絵になると思うんだけどなあ。僕はこの百合も好きだよ? さっきも言ったように、髭切のことを思い出させてくれるからね」
「じゃあ、その花は主の部屋に飾っておいてくれる?」
「いいけど……。どうして、僕の部屋?」

 飾るのなら居間でも玄関でも構わないのでは、と思う藤に、髭切は顎先に指を添えて考える素振りを見せつつ、

「それを見てると、僕のことを思い出すんだよね? なら、主はずっと自室にいるときは、僕のことを考えてくれるのかなあって。そう思うと、何だか嬉しくて」

 たとえ名だたる名刀の一振りであっても、藤という審神者の所持する刀の一つに過ぎないと、髭切は承知している。多くいる仲間と自分は、共に並び立つ存在だと理解はしていたが、それでも特別に所有されたいという欲は彼の中にあった。
 そうは言っても、まさか己自身でもある刀そのものを、彼女の部屋に置くような図々しい真似はできない。それは、流石に他の刀たちに悪いと思う程度には、髭切とて弁えている。
 代わりに、自分を想起させる品を彼女の部屋に置いてもらい、それを目にするたびに彼女が髭切という刀を思い出してくれるのなら、十分慰めになると考えたのだ。
 しかし、

「髭切の言いたいことは分かったけれど、髭切にはこの前もたくさんお世話になったわけだし、花がなくてもちゃんと、君のことは気にかけているよ?」

 しれっと藤が打ち明けた話を耳にして、髭切は珍しく、己の思考能力を完全に停止させてしまった。

「今日は膝丸と話をしているかなとか、出かけているときは何しているんだろうとか、出陣のときは無茶をして怪我をしていないか、とか。贔屓しているみたいで、あまり言えなかったんだけど、ちょっとだけ、皆より多めに気にしやすくなっているかも――うわぁ、どうしたの!?」

 彼女が悲鳴をあげたのは、正面から季節外れの桜の花びらが勢いよくぶわっと吹き付けてきたからだ。よくよく見れば、その発生源は、髭切の周りのようだった。
 刀剣男士は、感情の起伏に合わせて、時折制御しきれない力の一端を桜の花びらとして、その体から生み出すことがある。そんな講釈は審神者になる直前に聞いてはいたが、目にしたのは初めてだ。
 思いがけない花吹雪に目を白黒させていたのは、藤だけではない。髭切本人も、内側から湧き出る温かい感情に驚き、舞い落ちる花びらを見て、慌てふためいていた。珍しく動揺している髭切を前にして、逆に藤の方が冷静になってしまったぐらいだ。

「髭切、大丈夫? 何だか、いつもより顔が赤い気がする」
「よくわからないけれど……とりあえず、平気かな?」

 多分、と注釈をつけて髭切は両頬に手を当てる。
 藤の言うように、手袋越しでもじんわりと暖かく、少しだけ熱があるように思えた。毎日気にかけているという言葉が、それほど嬉しかったのだろうかと、藤は思う。
 考えてみれば髭切は、主のことについて、あれほど真剣に悩み、向き合ってくれたのだ。その間、碌な応対すらしていなかった日々を思うと、気にかけてもらえるというのは、まさに大願成就と言える。嬉しさのあまり、桜が舞ってもおかしくはない。

「でも、何だかそわそわするね。主、これはどうすればいいのかな」
「うーん……落ち着かないなら、ちょっと部屋で休んでいたら?」

 これは、言ってしまえば、遠足前の子供が興奮しすぎて寝られないのと同じ原理だと、藤は考えていた。それなら、静かな場所でそっとしておくに限る。

「そうしてみるね。じゃあね、主」
「うん。百合の花、ありがと」

 他愛のない別れの挨拶を告げて髭切は自室に戻り、障子を閉める。
 誰の視線も感じない薄暗い部屋にいても、桜の花びらの余韻はひらひらと視界の端を舞い散っていた。
 他の刀剣男士たちに比べての、ほんの少しだけの贔屓。それに対する姿勢としては、不平等で惣領としては相応しくない振る舞いなのかもしれないけれど。

「……嬉しい、のかな」

 どういうわけか、自分でも抑えきれない高揚が、再び薄桃の花びらとして虚空を舞っていく。
 反射的に顔を覆ってしまった理由も、髭切自身よくわかっていなかった。


 それから数日。
 主の部屋に置かれた白百合を見るたび、髭切は訳もなく溢れ出る桜と、悪戦苦闘する羽目になったのだった。
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