本編第二部(完結済み)
赤、青、黒、白、はたまた黄色に緑。目に押し寄せてくる色の洪水を前に、藤は一瞬目眩に襲われたような心地となって、くらくらとしてしまった。
だが、色とりどりの生地に目を回している場合ではない。今の彼女は、皆の代表としてこの場に立っているのだから。
「いらっしゃい。刀剣男士の浴衣かな」
店主らしき男性が店の奥から出てきて、藤を――正確には、彼女の背後に控えている三人の刀剣男士を見て、尋ねる。
「は、はい。ここにいる刀剣男士たちの浴衣を、見繕っていただけませんか」
後ろに立っている和泉守兼定、堀川国広、乱藤四郎を同様にちらりと見やってから、彼女はそう言った。
夏といえば、夏祭り。夏祭りといえば、浴衣である。
誰が言い出したのかは知らないが、いつの間にか藤の本丸では、そのような習わしになっていたらしい。
来たる万屋の夏祭りに向けて、浴衣を用意せねばと誰かが提案し、藤は去年いなかった面々と共に、歌仙お勧めの呉服屋に顔を覗かせていたのだった。
なお、次郎は早々に自分で仕立てに行ったらしく、既にあるために今は来ていない。小豆も、しばらく厨でスイーツ作りに集中したいからと、こちらに一任している。膝丸に至っては、兄と選ぶから一緒に行く必要はないと、何か言う前に断られてしまった。
(選びに来たって言っても、みんな最初から決めていたみたいだけどね)
次郎から聞いた話によると、政府は着物産業の発展のために、各刀剣男士に彼らが気に入るような専用のデザインで、着物を発注しているらしい。刀剣男士個々人の趣味に合わせて作られているものなので、必然的にそのデザインを選ぶ者が増える。
去年も、髭切と五虎退以外、つまり歌仙と物吉は政府が用意したデザインの浴衣を選んだそうだ。例に漏れず、和泉守たちも店員が見せた専用のデザインの浴衣を一目見て、気に入ったと歓声をあげていた。
「おまたせ。小豆長光用に仕立ててある浴衣は、これだね」
楽しげに試着している三人を待っている間、手持ち無沙汰となった藤に店員の青年が浴衣を渡してくれた。
真っ黒で墨を流し込んだような色合いの生地に、うっすらと竹が描かれている。彼の程よく日焼けした肌と、よく似合うことだろう。
「ついでだから、審神者さんの方もいかがかな?」
商売上手な店員は、女性ものの浴衣売り場を指さす。そこには、入ってすぐ目に飛び込んできた、色とりどりの布地がぶら下がっていた。さながら、ちょっとした花畑のようである。
しかし、藤はゆっくりと首を横に振る。金銭的には余裕があるが、浴衣を買いたいと思える心境ではなかったからだ。
夏祭りに対するトラウマめいた思い出は、先だっての本丸のもめ事とは、まったく別の話である。そして、それは彼女の中で未だ解決していないものでもあった。
「僕は、いりません。既に持ってますし、それに、浴衣なんて似合わないですから」
「そうかな。ああ、そろそろ、皆さんが着替え終わる頃だね。ほら」
店員の言葉通り、サッと音を立てて試着室のカーテンが開かれる。それぞれの個室から姿を見せた三人に、藤はすっかり目を奪われた。
背が高い和泉守は、左半分が常日頃纏っている着物に似た臙脂の色合いであり、右半分は彼の髪色と同じ黒の浴衣だった。互い違いの派手ともとれる色合いは、和泉守だからこそ着こなせるものだろう。
その側を、戦闘時に着ている装束に類似した、紺地に薄い白の縦縞が描かれた浴衣姿の堀川が立っている。裾にかけてうっすらと淡い色合いに切り替わっていく様は、さながら朝焼けを彷彿させた。
帯はお揃いにしたようで、二人ともくすんだ土色の帯の上に、これまた色違いでお揃いの帯留めを巻いている。
そして、最後にカーテンから顔を見せた乱は、
「あるじさーん、見て見て! 可愛いでしょ!」
主とはまだ心の距離が残っている和泉守や堀川の分も、と思ってか、勢いよく藤に駆け寄る。
彼の瞳に似た空色の浴衣には、可愛らしい桃色で牡丹がちりばめられていた。袖や裾、襟元からはフリルが零れており、彼自身が大輪の花のように見える。帯の締め方や髪に結わえた赤の組み紐から見ても、着付けの仕方は限りなく女子に近いものだった。
その姿を前にして、藤は再び胸が締め付けられるような痛みを覚える。それは、乱が顕現した直後に感じた痛みと、同種のものだった。
「あ……うん。可愛い、ね。すごく似合っている」
実際、乱の煌びやかな金髪に、空色の浴衣とフリルはよく似合う。程よい洋風のアレンジも相まって、まるで異国の姫君だ。
だからこそ、藤の胸はどんどん苦しくなっていく。可愛らしい服を着こなす彼の姿を見れば見るほど、自分には似合う服などないと笑う声が、遠くで聞こえる気がしてしまう。
容姿を馬鹿にされたのは、もう何年も前のことだと笑い飛ばすほどの強さは、まだ彼女にはない。それでも、乱を困らすまいと、反射的に浮かべ慣れた笑顔を、顔に貼り付けようとした。だが、
「あるじさん。今、何か別のこと考えてるでしょ」
ぐい、と彼に詰め寄られ、藤は思わず身を引く。絢爛な姫君のような可憐な容姿から想像できないほど、乱の気迫は凄まじいものだった。
「いや、そんなことは」
「ボクが可愛いのは嫌?」
「嫌じゃないよ。可愛いものが、乱は好きなんでしょう? 乱が好きなものに出会えたのなら、僕も嬉しいよ」
「でも、あるじさん。さっき、ボクの嫌いな笑い方したでしょ。悲しいのをごまかす笑い方。髭切さんじゃなくっても、分かるんだからね。ボク、あの笑い方、嫌い」
乱と藤の間に流れる剣呑な空気を察知したのか、堀川が店主に向かって、気を引くかのように話しかける。正直、それを建前に逃げたかった藤としては、完全に退路を断たれた形になった。
「ボクのこの格好が、あるじさんは嫌なの?」
「本当に嫌じゃないんだって。ただ、僕には、似合わないから」
「似合わないから?」
「似合わないし……乱みたいに可愛くない、から。何だか羨ましくて、その……嫉妬、みたいな」
ふうん、と気のないような返事をしつつ、乱はじろじろと遠慮なく藤を見つめる。主に対する尊崇の念など、どこ吹く風だ。
「じゃあ、あるじさんも着ればいいじゃん」
「でも、似合わないし」
「嫉妬してるってことは、自分もそうなりたいって思ってるんでしょ! あと、あるじさんは何でも行動する前に諦めすぎ! 着たいなら着る! 着たくないなら着ない!! どっち!?」
彼の勢いに圧倒されて、藤は反射的に「着たいですっ」と答えさせられてしまっていた。果たして、乱は我が意を得たりとばかりに、浴衣姿で腰に手を当てて胸を反らす。
「素直でよろしい。それで、あるじさんのご希望は? 好きな花や色は?」
「でも、僕はもう一着持っていて」
「浴衣なんて、何着あっても別にいいでしょ」
「それに、似合う花とか、そんなものは僕には」
「そっか。あるじさん、好きな物探すの苦手なんだっけ」
藤の抗弁など無視して、乱は片手に握られた桃色の巾着を、勢いに任せて軽く振り回しつつ、彼女の手を引く。その力の強さときたら、華奢な見た目からは想像できないほどだ。
女性用の浴衣売り場に突撃していく乱の姿は、どこからどう見ても男らしいものだった。
早速売り場の前で、目を輝かせている乱とは対照的に、藤の視線は落ち着かない。あちらこちらと、居心地悪そうにきょろきょろしている。
「あるじさんって、もしかしてお洒落をすることに、何か引け目でも感じているの? お金を使っちゃうのは勿体ない、とか」
「それもなかったわけじゃないけれど、でも僕が着ても似合わないし」
「着てもいないうちから、似合わないって言うの禁止。だいたい、何でそんなに自分から『似合わない似合わない』って言うのかな」
「…………」
まさか、昔の陰口が尾を引いているからとは言えない。それに、そのこと以外にも、理由はある。
二つの理由が絡まり合って、藤は結局だんまりを決め込むしかなかった。そんな彼女を、乱はじーっと見つめている。
「それは、話したらボクが傷つくとか考えてるの?」
「そうじゃないよ。口にしてしまうと、ちょっと嫌なこと思い出すから」
「じゃあ、別に無理してまで言わなくていいけどさ。ボクは、あるじさんには、もっと色んな楽しみを知ってほしいな」
乱は話をしながらも、次から次へと様々な浴衣をあてていく。藤は目を白黒とさせて、されるがままになっていた。
「あるじさんの持っている浴衣って、どんな色?」
「青い花が描かれている、綺麗なやつ」
「じゃあ、ボクはこれをおすすめしようかな。どう?」
意気揚々と乱が選んだのは、丸い紫の菊が一面にぎっしりと詰まったような柄の浴衣だった。手触りが独特であり、触っているだけでも何だか心地よい。
「あるじさんは、紫色がやっぱり似合うよね」
「そうかな?」
「そうだよ。それに、似合う似合わない関係なく、着たいものを着た人の笑顔って、すごく可愛いとボクは思うんだ。ね、あるじさん。ボクの笑顔は可愛い?」
にっと嬉しそうに笑っている乱。その笑顔は、見慣れたもののはずなのに、何故だかとても魅力的に映った。
彼はこんな風に笑う子供だったのか、と藤は思う。今まで何度も笑顔は見てきたのに、今日の彼は頬を一段と鮮やかに桜色に染めて、可愛らしい。
「うん。すごく……可愛いよ。今の乱、とっても可愛い」
「えへへっ、そうでしょ? だから、あるじさんも!」
試着お願いします、と言って、乱は有無を言わさず藤を試着室に押し込んだ。後ろからやってきた乱は、店員が包装をほどいてくれた浴衣を、彼女の服の上からてきぱきと着付けていく。
「ここを、こうして……っと。ほら、どう? あるじさん、この浴衣はどうかな?」
以前とは違う色合いの浴衣に身を包まれ、藤は思わず視線を足元に落としてしまった。
気恥ずかしい、と思うと同時に、自分と所縁ある名と同じ色合いの浴衣を着ていると思うだけで、気分が幾らか高揚していく。口元がうずうずして、口角が緩んでしまう。
だらしないと思って、きゅっと唇を引き結んだら、後ろから乱に頬を揉まれてしまった。
「怖い顔を、わざと作るんじゃないのっ。えいえいっ」
「わ、ちょっと、くすぐったい……っ」
「ほーら、あるじさん。鏡、見てごらん」
乱に肩の辺りを軽く叩かれ、藤は改めて全身を映す姿見と相対する。そこには、頬を少し赤くして、喜びを隠しきれずに口の端に浮かべている自分が立っていた。
その笑顔が作り物ではなく、心の底から出た『嬉しい』の発露だとは、他ならぬ彼女自身が気がついている。
「ね、可愛いでしょ」
自信満々に乱は言うが、これが可愛いに該当するかは、藤にはピンと来ない。けれども、悪くないとは思えた。できるなら、この姿を誰かに見てもらいたい、とも。
歌仙なら何と言うだろうか。また、似合っていると褒めてくれるだろうか。
五虎退と物吉は、きっと喜んでくれるだろう。次郎は、お洒落な帯の結び方を教えてくれるかもしれない。
――それに、髭切は。
そこまで思いかけて、心が突如混乱の渦に襲われる。自分なりのお洒落な姿で彼の前に立つ瞬間を想像すると、途端に気持ちが落ち着かなくなる。普段着なら気にならないのに、どうにも心がそわそわした。
(彼が、綺麗な人……だから、かな)
他の皆が綺麗ではない、と言いたいわけではないが、ふとした弾みに眺めていたくなるような美しさが彼にはある。例えるなら、夕焼け空をずっと見つめていたくなるような感覚に近い。
そういった存在の前に着飾った姿で立つと、何だか自分が霞んで見えるように思うから、落ち着かなくなるのだろうと藤は結論づけた。
「あるじさん、どうしたの? 考え事?」
「ちょっとだけ。皆にも、見せてあげたいなって」
「いいね! じゃあ、今度の夏祭りはこの浴衣を着ていこうよ。次は、髪飾りとかも選ばないと」
「あ、待って」
試着室から、鉄砲玉のように飛び出しかけた乱の腕を掴み、藤はゆっくりと首を横に振る。
「それなら、もうあるんだ。五虎退から、貰ったやつ。浴衣によく合うと思うんだ。多分……僕にも」
勇気を出して、小さな声で付け足された言葉を、乱は聞き逃さない。彼は先ほど以上に嬉しそうに、顔中を笑顔にして藤に近づく。
「じゃあ、それにしよう。きっと五虎退も喜ぶよ」
乱は、そっと藤の柔らかな手をとり、軽く力をこめて握る。自分が一度傷つけてしまった人の温もりを、今度こそ包んであげたい、と祈りながら。
「あるじさん。ボクはもっと、あるじさんの好きなものを見つけに行きたいんだ。今度こそ、あるじさんの中を、沢山の『好き』で満たしてあげたい。そうしたら、あるじさんは、もっともっと笑顔を見せてくれると思うから」
「……うん。僕も、見つけられるなら、見つけてみたいな」
そこまで言ってから、藤は暫く口をもごもごさせ、やがて意を決したように、
「でも、乱。ちょっと強引で怖いかも」
「怖くないよ! あるじさんが引っ込み思案すぎるだけ!!」
花火のような笑顔を見せ、乱は笑う。やがて、彼の笑顔につられるようにして、藤も顔の力を抜き、ふにゃりと笑ってみせた。
その日、店から出てきた藤の手に、小豆の浴衣と共に、自分の浴衣があったのは言うまでもない。
だが、色とりどりの生地に目を回している場合ではない。今の彼女は、皆の代表としてこの場に立っているのだから。
「いらっしゃい。刀剣男士の浴衣かな」
店主らしき男性が店の奥から出てきて、藤を――正確には、彼女の背後に控えている三人の刀剣男士を見て、尋ねる。
「は、はい。ここにいる刀剣男士たちの浴衣を、見繕っていただけませんか」
後ろに立っている和泉守兼定、堀川国広、乱藤四郎を同様にちらりと見やってから、彼女はそう言った。
夏といえば、夏祭り。夏祭りといえば、浴衣である。
誰が言い出したのかは知らないが、いつの間にか藤の本丸では、そのような習わしになっていたらしい。
来たる万屋の夏祭りに向けて、浴衣を用意せねばと誰かが提案し、藤は去年いなかった面々と共に、歌仙お勧めの呉服屋に顔を覗かせていたのだった。
なお、次郎は早々に自分で仕立てに行ったらしく、既にあるために今は来ていない。小豆も、しばらく厨でスイーツ作りに集中したいからと、こちらに一任している。膝丸に至っては、兄と選ぶから一緒に行く必要はないと、何か言う前に断られてしまった。
(選びに来たって言っても、みんな最初から決めていたみたいだけどね)
次郎から聞いた話によると、政府は着物産業の発展のために、各刀剣男士に彼らが気に入るような専用のデザインで、着物を発注しているらしい。刀剣男士個々人の趣味に合わせて作られているものなので、必然的にそのデザインを選ぶ者が増える。
去年も、髭切と五虎退以外、つまり歌仙と物吉は政府が用意したデザインの浴衣を選んだそうだ。例に漏れず、和泉守たちも店員が見せた専用のデザインの浴衣を一目見て、気に入ったと歓声をあげていた。
「おまたせ。小豆長光用に仕立ててある浴衣は、これだね」
楽しげに試着している三人を待っている間、手持ち無沙汰となった藤に店員の青年が浴衣を渡してくれた。
真っ黒で墨を流し込んだような色合いの生地に、うっすらと竹が描かれている。彼の程よく日焼けした肌と、よく似合うことだろう。
「ついでだから、審神者さんの方もいかがかな?」
商売上手な店員は、女性ものの浴衣売り場を指さす。そこには、入ってすぐ目に飛び込んできた、色とりどりの布地がぶら下がっていた。さながら、ちょっとした花畑のようである。
しかし、藤はゆっくりと首を横に振る。金銭的には余裕があるが、浴衣を買いたいと思える心境ではなかったからだ。
夏祭りに対するトラウマめいた思い出は、先だっての本丸のもめ事とは、まったく別の話である。そして、それは彼女の中で未だ解決していないものでもあった。
「僕は、いりません。既に持ってますし、それに、浴衣なんて似合わないですから」
「そうかな。ああ、そろそろ、皆さんが着替え終わる頃だね。ほら」
店員の言葉通り、サッと音を立てて試着室のカーテンが開かれる。それぞれの個室から姿を見せた三人に、藤はすっかり目を奪われた。
背が高い和泉守は、左半分が常日頃纏っている着物に似た臙脂の色合いであり、右半分は彼の髪色と同じ黒の浴衣だった。互い違いの派手ともとれる色合いは、和泉守だからこそ着こなせるものだろう。
その側を、戦闘時に着ている装束に類似した、紺地に薄い白の縦縞が描かれた浴衣姿の堀川が立っている。裾にかけてうっすらと淡い色合いに切り替わっていく様は、さながら朝焼けを彷彿させた。
帯はお揃いにしたようで、二人ともくすんだ土色の帯の上に、これまた色違いでお揃いの帯留めを巻いている。
そして、最後にカーテンから顔を見せた乱は、
「あるじさーん、見て見て! 可愛いでしょ!」
主とはまだ心の距離が残っている和泉守や堀川の分も、と思ってか、勢いよく藤に駆け寄る。
彼の瞳に似た空色の浴衣には、可愛らしい桃色で牡丹がちりばめられていた。袖や裾、襟元からはフリルが零れており、彼自身が大輪の花のように見える。帯の締め方や髪に結わえた赤の組み紐から見ても、着付けの仕方は限りなく女子に近いものだった。
その姿を前にして、藤は再び胸が締め付けられるような痛みを覚える。それは、乱が顕現した直後に感じた痛みと、同種のものだった。
「あ……うん。可愛い、ね。すごく似合っている」
実際、乱の煌びやかな金髪に、空色の浴衣とフリルはよく似合う。程よい洋風のアレンジも相まって、まるで異国の姫君だ。
だからこそ、藤の胸はどんどん苦しくなっていく。可愛らしい服を着こなす彼の姿を見れば見るほど、自分には似合う服などないと笑う声が、遠くで聞こえる気がしてしまう。
容姿を馬鹿にされたのは、もう何年も前のことだと笑い飛ばすほどの強さは、まだ彼女にはない。それでも、乱を困らすまいと、反射的に浮かべ慣れた笑顔を、顔に貼り付けようとした。だが、
「あるじさん。今、何か別のこと考えてるでしょ」
ぐい、と彼に詰め寄られ、藤は思わず身を引く。絢爛な姫君のような可憐な容姿から想像できないほど、乱の気迫は凄まじいものだった。
「いや、そんなことは」
「ボクが可愛いのは嫌?」
「嫌じゃないよ。可愛いものが、乱は好きなんでしょう? 乱が好きなものに出会えたのなら、僕も嬉しいよ」
「でも、あるじさん。さっき、ボクの嫌いな笑い方したでしょ。悲しいのをごまかす笑い方。髭切さんじゃなくっても、分かるんだからね。ボク、あの笑い方、嫌い」
乱と藤の間に流れる剣呑な空気を察知したのか、堀川が店主に向かって、気を引くかのように話しかける。正直、それを建前に逃げたかった藤としては、完全に退路を断たれた形になった。
「ボクのこの格好が、あるじさんは嫌なの?」
「本当に嫌じゃないんだって。ただ、僕には、似合わないから」
「似合わないから?」
「似合わないし……乱みたいに可愛くない、から。何だか羨ましくて、その……嫉妬、みたいな」
ふうん、と気のないような返事をしつつ、乱はじろじろと遠慮なく藤を見つめる。主に対する尊崇の念など、どこ吹く風だ。
「じゃあ、あるじさんも着ればいいじゃん」
「でも、似合わないし」
「嫉妬してるってことは、自分もそうなりたいって思ってるんでしょ! あと、あるじさんは何でも行動する前に諦めすぎ! 着たいなら着る! 着たくないなら着ない!! どっち!?」
彼の勢いに圧倒されて、藤は反射的に「着たいですっ」と答えさせられてしまっていた。果たして、乱は我が意を得たりとばかりに、浴衣姿で腰に手を当てて胸を反らす。
「素直でよろしい。それで、あるじさんのご希望は? 好きな花や色は?」
「でも、僕はもう一着持っていて」
「浴衣なんて、何着あっても別にいいでしょ」
「それに、似合う花とか、そんなものは僕には」
「そっか。あるじさん、好きな物探すの苦手なんだっけ」
藤の抗弁など無視して、乱は片手に握られた桃色の巾着を、勢いに任せて軽く振り回しつつ、彼女の手を引く。その力の強さときたら、華奢な見た目からは想像できないほどだ。
女性用の浴衣売り場に突撃していく乱の姿は、どこからどう見ても男らしいものだった。
早速売り場の前で、目を輝かせている乱とは対照的に、藤の視線は落ち着かない。あちらこちらと、居心地悪そうにきょろきょろしている。
「あるじさんって、もしかしてお洒落をすることに、何か引け目でも感じているの? お金を使っちゃうのは勿体ない、とか」
「それもなかったわけじゃないけれど、でも僕が着ても似合わないし」
「着てもいないうちから、似合わないって言うの禁止。だいたい、何でそんなに自分から『似合わない似合わない』って言うのかな」
「…………」
まさか、昔の陰口が尾を引いているからとは言えない。それに、そのこと以外にも、理由はある。
二つの理由が絡まり合って、藤は結局だんまりを決め込むしかなかった。そんな彼女を、乱はじーっと見つめている。
「それは、話したらボクが傷つくとか考えてるの?」
「そうじゃないよ。口にしてしまうと、ちょっと嫌なこと思い出すから」
「じゃあ、別に無理してまで言わなくていいけどさ。ボクは、あるじさんには、もっと色んな楽しみを知ってほしいな」
乱は話をしながらも、次から次へと様々な浴衣をあてていく。藤は目を白黒とさせて、されるがままになっていた。
「あるじさんの持っている浴衣って、どんな色?」
「青い花が描かれている、綺麗なやつ」
「じゃあ、ボクはこれをおすすめしようかな。どう?」
意気揚々と乱が選んだのは、丸い紫の菊が一面にぎっしりと詰まったような柄の浴衣だった。手触りが独特であり、触っているだけでも何だか心地よい。
「あるじさんは、紫色がやっぱり似合うよね」
「そうかな?」
「そうだよ。それに、似合う似合わない関係なく、着たいものを着た人の笑顔って、すごく可愛いとボクは思うんだ。ね、あるじさん。ボクの笑顔は可愛い?」
にっと嬉しそうに笑っている乱。その笑顔は、見慣れたもののはずなのに、何故だかとても魅力的に映った。
彼はこんな風に笑う子供だったのか、と藤は思う。今まで何度も笑顔は見てきたのに、今日の彼は頬を一段と鮮やかに桜色に染めて、可愛らしい。
「うん。すごく……可愛いよ。今の乱、とっても可愛い」
「えへへっ、そうでしょ? だから、あるじさんも!」
試着お願いします、と言って、乱は有無を言わさず藤を試着室に押し込んだ。後ろからやってきた乱は、店員が包装をほどいてくれた浴衣を、彼女の服の上からてきぱきと着付けていく。
「ここを、こうして……っと。ほら、どう? あるじさん、この浴衣はどうかな?」
以前とは違う色合いの浴衣に身を包まれ、藤は思わず視線を足元に落としてしまった。
気恥ずかしい、と思うと同時に、自分と所縁ある名と同じ色合いの浴衣を着ていると思うだけで、気分が幾らか高揚していく。口元がうずうずして、口角が緩んでしまう。
だらしないと思って、きゅっと唇を引き結んだら、後ろから乱に頬を揉まれてしまった。
「怖い顔を、わざと作るんじゃないのっ。えいえいっ」
「わ、ちょっと、くすぐったい……っ」
「ほーら、あるじさん。鏡、見てごらん」
乱に肩の辺りを軽く叩かれ、藤は改めて全身を映す姿見と相対する。そこには、頬を少し赤くして、喜びを隠しきれずに口の端に浮かべている自分が立っていた。
その笑顔が作り物ではなく、心の底から出た『嬉しい』の発露だとは、他ならぬ彼女自身が気がついている。
「ね、可愛いでしょ」
自信満々に乱は言うが、これが可愛いに該当するかは、藤にはピンと来ない。けれども、悪くないとは思えた。できるなら、この姿を誰かに見てもらいたい、とも。
歌仙なら何と言うだろうか。また、似合っていると褒めてくれるだろうか。
五虎退と物吉は、きっと喜んでくれるだろう。次郎は、お洒落な帯の結び方を教えてくれるかもしれない。
――それに、髭切は。
そこまで思いかけて、心が突如混乱の渦に襲われる。自分なりのお洒落な姿で彼の前に立つ瞬間を想像すると、途端に気持ちが落ち着かなくなる。普段着なら気にならないのに、どうにも心がそわそわした。
(彼が、綺麗な人……だから、かな)
他の皆が綺麗ではない、と言いたいわけではないが、ふとした弾みに眺めていたくなるような美しさが彼にはある。例えるなら、夕焼け空をずっと見つめていたくなるような感覚に近い。
そういった存在の前に着飾った姿で立つと、何だか自分が霞んで見えるように思うから、落ち着かなくなるのだろうと藤は結論づけた。
「あるじさん、どうしたの? 考え事?」
「ちょっとだけ。皆にも、見せてあげたいなって」
「いいね! じゃあ、今度の夏祭りはこの浴衣を着ていこうよ。次は、髪飾りとかも選ばないと」
「あ、待って」
試着室から、鉄砲玉のように飛び出しかけた乱の腕を掴み、藤はゆっくりと首を横に振る。
「それなら、もうあるんだ。五虎退から、貰ったやつ。浴衣によく合うと思うんだ。多分……僕にも」
勇気を出して、小さな声で付け足された言葉を、乱は聞き逃さない。彼は先ほど以上に嬉しそうに、顔中を笑顔にして藤に近づく。
「じゃあ、それにしよう。きっと五虎退も喜ぶよ」
乱は、そっと藤の柔らかな手をとり、軽く力をこめて握る。自分が一度傷つけてしまった人の温もりを、今度こそ包んであげたい、と祈りながら。
「あるじさん。ボクはもっと、あるじさんの好きなものを見つけに行きたいんだ。今度こそ、あるじさんの中を、沢山の『好き』で満たしてあげたい。そうしたら、あるじさんは、もっともっと笑顔を見せてくれると思うから」
「……うん。僕も、見つけられるなら、見つけてみたいな」
そこまで言ってから、藤は暫く口をもごもごさせ、やがて意を決したように、
「でも、乱。ちょっと強引で怖いかも」
「怖くないよ! あるじさんが引っ込み思案すぎるだけ!!」
花火のような笑顔を見せ、乱は笑う。やがて、彼の笑顔につられるようにして、藤も顔の力を抜き、ふにゃりと笑ってみせた。
その日、店から出てきた藤の手に、小豆の浴衣と共に、自分の浴衣があったのは言うまでもない。