本編第二部(完結済み)

 幸福とは、とても難しいものである。
 相手に対して、自分なりに『幸せ』を与えたとして、それが果たして相手の幸せにもなるかと問われれば、嘗ての自分なら間違いなく「はい」と答えただろう。
 だが、そんな無責任な言葉は、もう言えない。
 自分が「主様は幸せです」と言うたびに、それが彼女にとって呪いになっていたと知ってしまったから。
 全く幸せではない心境のときに、『幸せです』『あなたは幸運です』と告げられて、彼女がどんな気持ちでいたのか、気が付いてしまったから。
 何も告げずに黙っていた彼女が招いた、自業自得と言ってしまえばその通りだが、他人の幸せを己の物差しで測ってしまった自分のエゴとも言えるだろうと、彼は思う。
 そうして物吉貞宗は、幸せを送れない己に気がついてしまった。


 ***


「主に幸せを与えたい?」

 その日、鶴丸国永に行き会ったのは、偶然のことだった。
 主が親しくしている審神者――更紗を、いつも影のように寄り添って支えている刀剣男士。藤が閉じこもってしまってから、何かと本丸に顔を見せてくれていたので、気軽に声をかけやすかったというのもある。
 だが、彼の気さくな口ぶりに誘われるようにして、いつの間にか物吉は己の内に溜めていた悩みを吐き出してしまっていた。

「きみの主は、まだ不幸のどん底みたいな顔をしているのか?」
「いえ、そういうわけではないんですが……でも、何かしてあげたいんです。だけど、結局ボクは何もできずに、ずっと二の足を踏んでしまっています。このままじゃ、ボクはいつまでも先に進めない気がするんです」

 主に幸せになって欲しい気持ちはある。それ自体に変化はない。
 しかし、自分が幸せだと信じられるものを見つけたとして、昔ほど無邪気にそれを主へ渡そうと思えなかった。
 主にとって幸運とは何なのか。主にとって幸福とは何なのか。顕現した当初に比べると、より深くその単語に向き合わざるを得なくなっている。

「そうだなあ。だが、結局のところ、自分が信じている見方で見つけたものを渡すことしかできないと、俺は思うぞ。俺はよく驚きを与えたいと考えるが、俺の驚きが本丸の面々や主にとっては違う場合もある。もちろん、その逆もある。そういった当たり外れがありながら、それでも笑ってくれたなら、俺にとっちゃ十分だ」
「……主様に、もう幸せではないことで、笑ってほしくないんです。主様は、ボクに気遣って、無理に笑ってしまう人ですから」
「一発で正解を引き当てるのは、やはり難しいだろうな。でもな、物吉」

 見る者に清々しさを感じさせる笑顔を浮かべ、鶴丸は物吉に向き直る。

「きみが今まで送ってきた幸運の全てを、主は嫌がっていたのか?」

 物吉は、ゆっくりと首を横に振る。
 雨上がりの空に見つけた虹を、初めてアイスを食べて笑いあった瞬間を、全て彼女が否定していたとは思えない。
 少なくとも、最初に送った幸運だけは――共に見上げた空にかけられた虹の橋については、確実に物吉が誇れるものだった。

「それなら、きみは自信を持つといいさ。不安なら、主にちゃんと訊けばいい。自分は、あなたを幸せにできてますかってな」

 もし否定されたとしても、それを恐れるあまり黙り続けていては、今までと変わらない。
 物吉は鶴丸に向けて、ぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます。まだ、不安もありますが、頑張ってみます」


 ***


 そうはいっても、主が求めるような幸せがすぐに思いつくわけもなく、それから数日間、物吉はうんうんと悩み続けていた。
 だが、悩んでばかりもいられない。折しも暦は七月になり、長い雨があがって、畑の手入れや山道の整備と、雨の間にできなかった作業が山となっている。
 新たにやってきた刀剣男士たちのおかげで、去年に比べて作業量自体は減っていた。けれども、彼らに作業を教えなくてはならないので、結局朝から晩まで忙殺されていることに変わりは無かった。

「今日も暑くなりそうですね……」

 その日も、朝早く起きてジャージに着替えた物吉は、燦々と降り注ぐ暴力的なまでの日差しを浴びて、眩しげに目を細めていた。
 そろそろ部屋から出なければと、立ち上がりかけ、彼は気が付く。トントンという軽い足音が、こちらの部屋に近づいてきているようだ。
 障子から顔を出して廊下を見渡すと、主である藤が、両手に底の浅い空箱のようなものを持って、歩いてきているところだった。

「おはようございます、主様。その箱は?」
「おはよう、物吉。これは、短冊を入れている箱だよ」
「短冊ですか?」
「えっと、見てもらった方が早いかな」

 おいでと誘われて、物吉はおずおずと藤の後ろをついていく。あの夜の後から、藤とは何度も言葉を交わしているのに、未だに二人きりでいると、どこか気まずいと感じてしまう。
 物吉のそんな思いなど知らぬかのように、藤は外に向けて開かれたガラス戸を指さす。何があるのかと目を細め、そして彼はゆっくりと琥珀色の瞳を見開く。

「笹が、こんなに……!」

 いったいどこから持ってきたのか。ガラス戸の向こう、縁側のすぐ側に背の高い笹が数本、無造作に突き立てられていた。
 朝の風を受けて葉がこすれ合い、さらさらと心地よい音を立てており、まるでその一帯だけ涼しくなったかのような心地に浸らせてくれる。

「この笹、どうしたんですか?」
「今日は七夕だからね。昨日のうちに、髭切と歌仙と一緒に、裏山から少し持ってきたんだ」

 藤は、箱の中から細く切った長方形の紙とペンを取り出し、物吉の手の上に置いた。

「七月七日は、七夕って行事の日なんだ。こうして、短冊に願い事を書いて笹に吊すんだよ」
「そんな行事があるのですね。確か、ボクも聞いたことがあるような、ないような……」
「お正月やクリスマスみたいに、具体的に何かお祝いをするってわけじゃないんだけど、気分だけでも味わえるかなって思って。去年は、この時期って、ドタバタしてできなかったものね」

 彼女の言う通り、この頃といえば丁度、髭切が顕現した頃にあたる。
 あのときは、お互いに良い関係を築けずにピリピリしていたので、行事どころではなかった。今となっては、物吉にとっても苦い思い出である。

「顕現してくれた皆が、今の暮らしを楽しんでくれたらいいなって思うんだ。もちろん、出陣も大事だって分かっているし、それが役目だってことも承知しているけれど」
「……はい」

 笹を見つめる藤の横顔には、夏の日ですらも消し去れない、薄墨のような暗い感情が滲んでいた。
 数ヶ月前までは、決して穏やかではない関係だった刀剣男士もいる。今だって、何もかもが上手くいってきるとは到底言えない。
 堀川や小豆たちは、いくらか気を遣っている様子を見せながらも、主と親しくしているが、和泉守と膝丸は未だに彼女を『主』とは呼ばないことを、物吉はよく知っていた。
 それでも、彼女は皆の幸せを祈り、何かをしたいと願っているのだと、物吉は悟る。悩んでいるのは、物吉一人だけではなかった。

「さて、と。箱はこの辺りに置いておくから、好きな願い事を書いて吊しておいてね。ご飯について書いたら、歌仙か小豆が叶えてくれるかも」
「それなら、少し欲張ってみますね!」

 茶目っ気を込めた主への返礼に、物吉もできる限り、いつも通りの笑顔で応じる。彼が短冊を選び始めたのを見てから、藤はうんと大きく伸びをして、

「今日も暑くなりそうだな。そろそろ、冷たいものが食べたくなってきたよ」

 独り言を漏らしつつ、縁側から立ち去っていった。残された物吉は、手にとった淡い枯れ草色の短冊を前にして暫し悩む。やがて、意を決してペンを近づけ、

「主様に」

 幸せが届きますように。そう書こうとして、彼のペンは止まる。
 ――それで、本当にいいのだろうか。
 願いを吊して、それを見た誰かが叶えてくれたとして、自分は満足できるのか。
 考えるまでもない。誰かに頼むだけでは、きっと自分は満足できない。
 鶴丸に『自信を持て』と言われたではないかと、心を鼓舞して、彼は呟く。

「ボクが、主様に届けたいんです。他の誰かじゃなくて、このボクが」

 宣言するように告げた物吉は、今度こそ迷うことなくペンを走らせる。そうして願いを記した短冊を、彼はできるだけ笹の高い位置にくくりつけた。


 ***


 庭先に突き立てられた笹には、七夕の話を聞いた刀剣男士たちがこぞって短冊を吊したため、夜になる頃には色とりどりの衣を纏ったような姿に変わっていた。
 短冊の数は、明らかに藤の本丸で暮らす刀剣男士たちと、数が合わない。この大量の短冊は、皆が見かけるたびに願い事を書こうとしたが故のものだった。
 既に真夜中近くになってから、藤はこっそりと部屋を抜け出して縁側に向かう。ガラス戸を開け放つと、昼間と変わらず、さらさらと揺れる笹が目に入った。
 ゆらゆらとたなびく短冊の一つを手に取り、藤は月明かりの下でその文字を読む。
 一つ終われば、また一つ。盗み見る罪悪感と同時に、できれば彼らの望みを叶えたいものだと心底から願いながら、彼女は綴られた文字を辿っていく。
 お酒がもっと沢山飲めますように。これは間違いなく次郎だろう。酔っ払って書いたのか、少し文字が揺れている。
 洋菓子作成が上達するように祈っているのは、小豆に違いない。ゆっくりとした喋り方から想像できるような、優しさが滲み出たような文字だ。
 他にも『おかわりをもう少しさせてほしい』という願いまである。荒々しさを感じる筆使いから察するに、これは和泉守のものだろうか。

「おや、こっちは虎くんたちの足跡だ」

 五匹分の真っ黒な足跡が、ぺたぺたと短冊に残っている。そういえば、昼頃に足を黒くした虎の子たちが庭を駆け回り、あちこちに足跡を残していたなと藤は思い出す。

「こっちは、主がご飯をもっと食べますように、か。歌仙かな」

 彼らしい流麗な筆跡に、目の奥が少し熱くなる。小豆のおかげで、少しずつ味覚は戻ってきているが、まだ薄味が分からずに箸が進まなくなることがしばしばある。

「歌仙のご飯、ちゃんと食べられるようになりたいな」

 短冊をそっと胸に寄せ、藤は小さく呟いた。星に願いを手向けてから、藤は別の短冊に目を通していく。
 『あるじさまが、元気でいられますように』という、細く小さな文字はきっと五虎退からだ。『あるじさんとお買い物に行く!』という、決意表明めいたものを書いているのは乱に違いない。
 『兼さんが主さんと仲良くなりますように』と、相棒と主の和睦を願っているのは堀川だ。決して、露骨な態度をとるほど仲が悪いわけではないのだが、今もどこかに一線が残っているのは事実だと、藤も分かっていた。

「兄者が、名前を覚えてくれますように……。膝丸、この短冊でもう三つ目だよ」

 よほど、名前を呼ばれないことに、思うところがあるのだろう。薄緑の短冊には皆同じ願いが綴られており、そこに自分の存在はないと藤は知る。
 それもまた、仕方ないことだ。拗れてしまった膝丸との関係をどうにかしていくのは、星に願うのではなく、自分でしなければならない問題だと藤も弁えていた。
 そして、髭切の短冊はどれだけ探しても見当たらない。星に願うより自分で叶える方がいいと、この行事を教えた際に髭切は言っていたので、きっと書かなかったのだろう。

「明日片付けるときに、短冊は外しておこうかな」

 流石に、一緒に処分しては後味が悪い。叶えられそうなものは、近いうちにそれとなく叶えてあげようと考えつつ、藤は縁側に腰を下ろした。
 空を見上げれば、満天の星とはいかずとも、ちらちらと小さな星々が輝いているのが目に入る。
 誰もいない縁側で空を見るのは、今は素直に寂しいと思えた。以前はあんなに一人を望んでいたのに、勝手なものだと自嘲する。それとも、この心境の変化も、己の気持ちを吐露した結果なのだろうか。
 来年の七夕は笹を用意するだけでなく、星見の催しでも開こうか。その頃には今よりも、もう少しだけ皆と歩み寄れればいいが、と藤は願う。
 そうしてぼんやりと星々を眺めていると、ふと軽い足音が近づいてくることに、彼女は気がついた。

「誰?」

 振り返った先には、月明かりに柔らかく照らされた物吉の姿があった。
 いつもの彼なら、とうの昔に床についている時刻である。しかも、彼はただ立っているだけではなく、手にお盆を持ち、その上に何かを載せていた。

「物吉、どうしたの?」

 藤が声をかけると、物吉は困ったように、その場で数度足踏みしてから、

「よかったら、主様。これを、食べていただけますか」

 彼が差し出したお盆の上には、ガラスの器が二つ。透き通った器には、半透明のゼリーがすっぽりと収まっていた。
 薄闇の中でも分かるほど、そのゼリーは夜空を切り取ったような深い青色をしている。しかも、ちょうど織姫と彦星を表すように、二つの白い小さな星型のゼリーがそ中に浮かんでいた。

「これは?」
「今日はとても暑かったので、冷たいものを主様に、と思って。本当はもっと、大きいものを渡せたら、よかったのですけれど、えっと」

 逸る気持ちを抑えきれないようで、つっかえながらも、物吉は何とか思いを言葉に変えようとする。

「だけど、時間がなくて……うまく固まらないところもあって、結局これくらいしか綺麗にできたものがなくて」
「ありがとう、物吉。びっくりしたよ。物吉が、お菓子作ってくれるとは思わなかった」
「ボクだって、主様の大好きな甘いものを、用意することくらいできますよ! だってボクは」

 そこまで言いかけて、物吉はふつりと言葉を途切れさせる。
 ボクは幸運を運ぶ刀ですから。
 主様を幸せにする刀ですから。
 今までならスルスルと口にできた言葉が、今夜は喉に引っかかったまま止まってしまった。
 彼の様子を見て、藤は笑みを浮かべてゼリーを受け取る。匙で一口掬い、夜のひとかけらを喉の奥へと流し込むと、冷えた感触がつるりと喉の奥を通っていった。
 ほんのりと漂う甘みと、少し爽やかな後味はサイダーのものだろうか。

「美味しいよ。すごく、美味しい」
「本当ですか?」
「本当。ちゃんと甘い。ちゃんと、美味しい」

 ありがとう、と藤は嬉しそうに笑う。まるで、花が咲いたかのように、柔らかな微笑だった。
 藤に隣に座るよう促され、物吉はお盆を二人の間に置いて腰掛ける。

「主様。ボクは、幸せを届けられていますか?」

 物吉は不安を隠しきれない声で、おずおずと尋ねる。
 彼女に、少しでも幸せを送りたい。できるなら、心の底から楽しそうに笑ってほしい。そう思ったからこそ、物吉は慣れない菓子作りに挑戦して彼女にゼリーを渡したのだ。

「僕に幸せになってほしくて、これを作ったの?」
「……はい。ボクの思う幸せが、主様の幸せになるのか分からなくなって、でも主様は甘いものがお好きだと聞いていたので、これならきっと、幸せを少しでも感じてくれる。そう思ったんです」

 だが、理想と現実は簡単に噛み合ってはくれない。
 七夕という行事になぞらえて、彼女の好きな甘いお菓子を作れたらと考えた。慣れない端末操作の末、ゼリーという見目美しいお菓子を見つけたものの、材料を買いに行く時間も菓子を作った経験も彼にはない。
 結局、製作に手をつけ始めた時刻は、おやつどきを過ぎてからになり、十分に冷えた頃には既に夜になっていた。
 それでも、もし主が起きていたら今夜食べて欲しいと、廊下を歩いていたというのが、物吉のこれまでの経緯だった。

「……僕自身、僕が思う『幸せ』が分からなくなっていた。皆のいう幸せを、幸せと思えない僕は間違っていて、僕がおかしいんだって思い込もうとするたびに、どんどん幸せっていうものが遠くなっていっちゃったような気がして」

 夜空の海を、もう一つ掬い上げる。澄んだ藍色のゼリーの表面には、掛け値なしに本物の星々も、映り込んでいるような気がした。

「今もね。実の所は、まだ見えてないものも沢山あるんだと思う。でも、このゼリーはちゃんと美味しいし、物吉がそばにいてくれるのも嬉しい」

 そのことを幸せと断言できない彼女の姿を、物吉は寂しいと感じてしまった。
 残り続けている壁の厚さを、一度入ってしまった亀裂の深さを思い知らされた気がして、彼は咄嗟に「それは幸せなことなんですよ」と言いかけ、言葉を止める。代わりに、

「それならボクが、主様の見えてないものを見つけるお手伝いをします。主様が心から笑えるように、幸せをたくさん見つけられるように。できるなら、ボクが幸せを届けられるように、頑張ります」

 三歩進んで二歩下がるような、たどたどしさの残る足取りだったとしても、今はそれが自分の目指したい姿だと物吉は思う。
 幸せを送らねばならないという気構えでは押しつぶされてしまう。そうではなく、誰かの幸せをそっと見つけて、それが幸せだと教えられるようになる。一年前に言われたことが、再び物吉の中で綺羅星のように輝き始める。
 幸運を運ぶ逸話を持つ『刀』としてではなく、幸せを祈る心を持った『人』として、物吉は切に願っていた。

「うん。じゃあ、お願いするね。物吉の笑顔を見ていると、本当に元気になったときもあったんだよ。だから、また、君が幸せな時は笑ってくれるかな」
「はい、もちろんです」

 物吉は深く頷き、そのまま数瞬の間、俯いていた。
 自分の笑顔は、主を幸せにできるきっかけの一つになれていたのだと、その喜びを彼は噛み締める。
 決して、大げさには喜べない。他ならぬ、自分の笑顔が彼女に幸せを押し付けていたと、彼は知っている。それでも、やはり主に認めてもらえたのは嬉しかった。
 数秒後、顔を上げた物吉は、藤が空を見上げていることに気がついた。彼女の瞳は、何かを見つけたようにあちらこちらを彷徨っている。

「どうしたんですか?」
「今、何か空を動くものがあった気がして」
「空を?」

 この時代に空を動くものといえば、機械の力で動く鉄でできた鳥のような乗り物が殆どのはずだ。それのことだろうかと、物吉も空を見上げる。
 瞬間、彼の琥珀の瞳は、小さく瞬き尾を引いて消える星の一つを見つけ出した。

「主様、流れ星です!」
「本当!? よかった、見間違いじゃなかったんだ」

 物吉が言う間にも、また一つ星が落ちていく。空という名のキャンパスの上を、銀の線を一瞬煌めかせて。

「流れ星は、消える間に三回お願いをすると、願いが叶うっていわれてるんだよ」
「そうなんですね。それなら――」

 きらりと、星が空を横切る。物吉は胸に拳を当て、じっと星を見つめ、今朝も胸に抱いた願いを素早く三度唱えた。

「お願いごと、できた?」
「はい。ばっちりです」

 よかったと微笑む彼女を正面から見据えて、物吉は再び問いかける。先ほどと同じ意味合いの問いを、先ほどとは違う自信を胸に刻みながら、

「主様、今のあなたは幸せですか」

 藤が答えるより先に、物吉は言葉を続ける。

「ボクは、主様を――藤という個人を、この瞬間だけでも幸せにできたと思いました。流れ星を見る夜は、あなたにとって幸せだと思いました。それが真実、あなたにとって幸せだったのか。今でなくてもいいです。いつか、答えていただけますか」

 いつになく真剣そうな顔をしていた物吉の顔が、そこで、ふ、と緩んだ。あの日から、心の中心で固まっていたものが溶けたかのように、物吉の顔に淡い笑みが広がる。
 無垢で無邪気な何も知らないが故の白の笑顔でなく、他人のためだけに浮かべた空っぽの笑顔でもなく。相手の心に寄り添い、温めるための羽のような柔らかな笑顔だった。

「うん。僕がちゃんと幸せの形を掴めたときに、答えるよ」
「はい。お待ちしてます」
「今言えるのは、このゼリーが美味しくて、物吉と話ができてよかったなっていうことだけ。ゼリー、一つ余ってるから物吉が食べたら?」
「いいんですか?」

 さも当然のように、二人分を主に渡そうと考えていたらしい物吉を見て、自分はそこまで食いしん坊に見えていたのかと、藤は苦笑いを浮かべる。

「今日は、二人で食べたい。だって、七夕は引き裂かれた二人が年に一度、会う日なんだもの」

 空の上では、今頃、星の恋人たちが逢瀬を楽しんでいる頃だろう。そして自分たちも、生み出してしまった亀裂を超えて、こうして辿々しさを残しながらも、言葉を交わしあっている。

「でも、ボクたちは一年に一度じゃないですよ。これからもずっと、主様の側にいます。このお菓子だって、また作ります」

 そうして、今度は皆で食べましょう。
 主を嫌っていたものも、主を恨んでいたものも、主が好きなものも、主を愛したものも、主に愛されたものも、分け隔てなく肩を並べられるように。
 藤は夜を背にして、星のように小さな輝きを残した微笑みを浮かべ、頷いた。

 再び流れ星を探そうと、空を見上げる物吉は、笹の一番高いところに結ばれた己の短冊を見つける。

(星に叶えてもらわなくても、ボクの願いはボクが叶えます)

 だから、叶えるのではなく見守っていて欲しいと、彼は人知れず星に話しかける。
 短冊は答えるかのように、小さく風に揺れていた。

 ――「主様に、ボクが幸せを送れますように」
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