本編第二部(完結済み)
藤が精神的に抱えていた不安や苛立ちについては、あの夜の日に吐き出してからか、幾らか落ち着きを取り戻していた。
では、体調の方はどうかと言うと、何もかも元通りとまではなっていないのが現状だ。手入れを済ませてからも、心配のあまり歌仙によって数日部屋に押し込まれ、熟睡を重ねた結果、体そのものへの負担は殆ど無くなっている。
だが、戻らないものもある。心に過剰な負荷をかけた代償は、一朝一夕で取り戻せるほど軽くはなかった。
(甘い物なら、味も変わるのかと思ったのに)
相変わらず、藤の舌は動作不良を起こした機械のごとく、曖昧な味しか伝えていなかった。今も、こうして三時のおやつに、小豆長光が用意してくれた羊羹を食べているのに、食感だけが妙に際立ってしまい、さながら蒟蒻を囓っているような気分だ。
他の皆は、とうの昔に食べ終わっているのに、そのせいで藤はいつまでも居間に残っていた。ゆっくり食べれば回復するのでは、という気持ちから、じっくり味わいながら口を動かしてみるものの、効果があるようには思えない。
おかげで、以前のようにご飯を何杯もお代わりして歌仙に呆れられるといったことも無くなったが、お世辞にも健康的とは言えなかった。
「あるじ、あまりむりをするものではないぞ」
見るに見かねて、小豆がお茶を渡しながら藤を窘める。作り手たる彼としては、当然残してもいいとは言いたくないのだが、だからと言って、無理をしてまで食べてほしいなどとは到底思っていなかった。
「うん……いや、でも、これで最後だから」
残ったひとかけらを口に放り込み、藤は咀嚼する。きゅっと目を瞑り口を動かす彼女の様子は、美味しいと思っていないことが如実に伝わってしまうものだった。
ごくりと飲み干し、藤はくしゃくしゃに顔を歪めて、皿をじっと見つめる。
「羊羹、好きだったのに、大きな味なしの蒟蒻みたいにしか感じないのが悲しい。それに、せっかく小豆が作ってくれているのに、美味しいと思えないのが悔しい」
「そうおもってもらえるだけでも、わたしはじゅうぶん、うれしいぞ」
「でも、小豆が作ってくれたケーキも、ちゃんと味わえなかったし」
彼女の言葉を受けて、小豆は少し照れくさそうに笑ってみせた。
今までろくに主と会話をしてこられなかった小豆にとっては、彼女との団欒は純粋に楽しいと思える至福の時間だ。だが、己が不出来と感じつつ渡したお菓子の話となると、ほんの少しだけ、目を逸らしてしまいたい衝動に駆られる。
「あれは……あまり、じょうずにできたとは、いえなかったとおもうのだが」
「それでもだよ。それに、小豆は知ってるお菓子なら凄く上手に作れるんだから、作り方さえ分かっていればケーキだって」
そこまで言いかけて、藤はふっと言葉を打ち切り、じーっと小豆を見つめる。急にどうしたのだろうかと、小豆は僅かに首を傾げて、彼女の言葉を待つ。
「作り方教えたら、ケーキ作ってくれる?」
「ああ、もちろんだとも」
「やった! じゃあ、レシピは僕が用意するから、今から試せない?」
何やら藤が上機嫌になったのを素直に嬉しく思い、小豆は一も二も無く頷いた。
***
クリスマスの時もそうであったが、この本丸において洋菓子が出される機会は然程多くない。皆が万屋で菓子を買って帰ってくると、大体が和菓子になってしまうからだ。
乱や五虎退のように、見た目が年若い刀剣男士たちは、宝石箱のような洋菓子に心が惹かれることもあるが、それはあくまで個人の嗜好だ。
歌仙や次郎といった、普段洋菓子からは縁遠そうな面々も楽しめる菓子を、と考えると、どうしても和菓子一択しかなくなるという理由があった。
だからこそ、藤は密かに小豆が洋菓子作りに目覚めるのを心待ちにしていたし、今も軽やかにステップを踏みながら、キッチンに顔を覗かせた。
「あるじ。レシピは、よういできたのだろうか」
「任せて。ほら、これ」
言いながら藤が取り出したのは、最近皆で共同使用している薄い板状のタブレット端末だ。慣れた手つきでネットワークに接続し、藤は検索画面に『ケーキの作り方』と記す。
このご時世、様々な作り手が、我先にと自分で導き出した作り方を掲載してくれている。その中の一つを、藤は選び出し、小豆にも見せる。
「これ、初心者向けらしいよ。これなら、小豆でもすぐ作れるんじゃない?」
「なるほど。おおむね、わたしがよそうしていた、ざいりょうでまちがっていなかったようだ。ただ、つくりかたは、そうぞういじょうに、ふくざつだな」
最後まで作り方を確認してから、小豆は冷蔵庫や調理器具をしまった棚からてきぱきと材料やボウルを取り出していく。その様子を眺めながら、藤は数ヶ月前のことを思い出して、小豆に問いかけた。
「あのさ。僕の誕生日のとき、小豆がケーキを作ってくれたんだよね」
「そうだとも。みようみまねでは、あったがね。髭切が、どうしても、それでなくてはいけないと、たのんできたのだぞ」
「髭切が……」
あのとき、彼はそんなことは一言も話してくれなかった。話していたかもしれなかったが、少なくとも藤に語って聞かせようとはしなかった。
何故、わざわざ誕生日を祝うためだけに、あのような手間のかかることを。
そこまで思いかけて、藤は気が付く。同時に、小豆が口を開いた。
「いわいごとには、このおかしをたべるものだと、わたしにはなしていた。それほどまでに、あるじのうまれたひを、いわいたかったのだろう」
物吉と語り合った他愛のないたった一言を、彼は覚えていた。主の言葉の一つ一つを、宝石のようにしまいこみ、大事なときに引き出してくれる。その温かさに、改めて気付かされ、藤は厨に置かれている丸椅子に腰掛けて頭を抱える。
「あるじ、どうしたのだ。あたまが、いたむのか?」
「自分のしてきたこと、思い出して……ちょっと自己嫌悪中」
あからさまな藤の態度を前にして、小豆は思わず笑い出しそうになるのを、堪えなくてはならなかった。
「そんなふうに、おちこむものではないぞ。髭切も、あるじにげんきになってほしくて、たのんだにちがいない。そして、かれののぞみはかなった」
「そうかもしれないけれど、それまで皆にも心配かけたし、怒らせたし、今も全部が全部、上手くいっているわけでもないから」
「なにもかも、いちどきにかいけつすることは、そうそうないだろう。すこしずつ、つみかさねていくしかない。ちょうど、おかしづくりのように」
最初からお菓子の形で出来上がっているものなんて、一つたりとてない。手間暇をかけて加工するからこそ、美味しいお菓子になるのだと、小豆は彼女に語りかける。
「あるじ。てがあいているのなら、かきまぜるのをてつだってもらえるだろうか。わたしだけでは、じかんがかかってしまいそうだ」
気晴らしにと手伝いに誘われ、藤は見よう見まねで、ボウルの中に仕込まれたケーキのタネをかき混ぜていく。
手を動かしている間であっても、口まで塞がってはいない。いい機会だからと、小豆は藤に話題を振っていく。
「あるじは、じぶんでは、すいーつをつくらないのか?」
「僕が作ったことはないなあ。料理をするとすぐに焦がしちゃうから、やらなくていいって言われて、それきりなんだよね。でも、甘いものは好き」
「ならば、わたしもこれから、どんどんうでをふるうとしよう」
「すっごく楽しみにしてる。歌仙が料理上手で、それでもって小豆がお菓子作りが得意って、すごく僕は運がいいなあ」
自分の舌がおかしくなっていることなど、おくびにも出さず、二人はにこやかに言葉を交わし合う。
ケーキの生地ができあがったなら、後は焼くだけだ。
軽く空気を抜き、準備していたオーブンに入れて待つこと数十分。ふんわりと焼けたスポンジケーキは、ケーキを初めて見る小豆の目にも、とても美味しそうに映った。
「レシピによれば、あとはクリームをぬって、フルーツをのせればかんせいらしいぞ。わかってしまえば、いがいとかんたんにできるものだな」
「そう言えるのは、小豆だけだと思うよ」
大雑把な自分の手にかかれば、ケーキはきっと膨らまなかっただろうと藤は思う。恐らくは、今頃ぺしゃんこの塊を見て、しょんぼりしていたはずだ。
ふんわりと甘い香りを漂わせるスポンジケーキを前にして、小豆は満足そうに頷く。想像以上に大きなものができたから、今夜はこれをデザートにして出すのもいい。五虎退たちは、恐らく大喜びするだろう。
「さて、クリームのじゅんびをするから、あるじは――」
一度机に背を向けた小豆は、せっかくだから藤にも手伝ってもらおうかと振り返り、言葉を途中で止める。
そこには、机に置かれた丸いスポンジケーキの端を契り、今まさに口に運ぶところの藤がいたからだ。小豆が見守る中、藤の手だけが動き、ケーキの欠片は彼女の口へと消えた。
「……あるじ?」
「た、食べてないよ! 風が吹いて、欠片が口の中に入っただけで、甘くて美味しそうだから、一口くらいならとか思ってない!」
つまみ食いを指摘されて、藤はあわあわと否定を始める。彼女の所作はまるで子供のようで、微笑ましくもあるのだが、小豆にとって今はそれよりもっと大事なことがあった。
「あるじ、おいしかったかい」
声が震えていないだろうかと、慎重に、しかしさりげなく小豆は問う。藤は、何でそんな当たり前なことを、と言わんばかりに、首を傾げて、
「それはもちろん、ほんのり甘くてふわふわで、熱々で美味しいよ」
「あるじ、あじがわかるのか!?」
これ以上は興奮を抑えきれず、小豆は藤に迫る。彼が何を気にしていたかを悟った彼女も、慎重に舌の上でケーキを転がし、やがてゆっくりと頷いた。
「甘い……と思う。ほんの少しだけど」
すかさず小豆はケーキの端を千切り、自分の口の中に入れてみる。顕現して今まで多くの料理を口にしてきたが、この料理は少し口に含むだけで、甘みをすぐに感じられるものだ。これを『ほんの少し』と表するのは、やや無理があるだろう。
けれども、それでも彼女は、確かに『甘い』と言ったのだ。
「舌が、治ってきてるのかな」
「そうなのかもしれない。あるじが、すきなあじだったからだろうか。こうなったら、これからまいにち、ケーキをつくらなくてはならないな」
「い、いや、そこまでしなくても。あ、でもそれなら、もう一口」
藤がそんなことを言い出した瞬間、小豆はひょいとケーキを持ち上げてしまう。
「つまみぐいは、めっ、だぞ」
「主の舌を助けると思って!」
「みんなとたべたほうが、きっともっと、たのしく、おいしいとおもうぞ。だから、かんせいまでおあずけだ」
ぶうぶうと不平を漏らす藤。だが、そんな不平も、クリームを塗る作業を手伝い始めたら、あっという間に収まっていったようだった。
彼女の舌がいつもの調子に戻るまで、それから暫くはかかったのだが、その間に小豆のケーキ作りの腕がみるみる上がっていったのは、言うまでもない。
では、体調の方はどうかと言うと、何もかも元通りとまではなっていないのが現状だ。手入れを済ませてからも、心配のあまり歌仙によって数日部屋に押し込まれ、熟睡を重ねた結果、体そのものへの負担は殆ど無くなっている。
だが、戻らないものもある。心に過剰な負荷をかけた代償は、一朝一夕で取り戻せるほど軽くはなかった。
(甘い物なら、味も変わるのかと思ったのに)
相変わらず、藤の舌は動作不良を起こした機械のごとく、曖昧な味しか伝えていなかった。今も、こうして三時のおやつに、小豆長光が用意してくれた羊羹を食べているのに、食感だけが妙に際立ってしまい、さながら蒟蒻を囓っているような気分だ。
他の皆は、とうの昔に食べ終わっているのに、そのせいで藤はいつまでも居間に残っていた。ゆっくり食べれば回復するのでは、という気持ちから、じっくり味わいながら口を動かしてみるものの、効果があるようには思えない。
おかげで、以前のようにご飯を何杯もお代わりして歌仙に呆れられるといったことも無くなったが、お世辞にも健康的とは言えなかった。
「あるじ、あまりむりをするものではないぞ」
見るに見かねて、小豆がお茶を渡しながら藤を窘める。作り手たる彼としては、当然残してもいいとは言いたくないのだが、だからと言って、無理をしてまで食べてほしいなどとは到底思っていなかった。
「うん……いや、でも、これで最後だから」
残ったひとかけらを口に放り込み、藤は咀嚼する。きゅっと目を瞑り口を動かす彼女の様子は、美味しいと思っていないことが如実に伝わってしまうものだった。
ごくりと飲み干し、藤はくしゃくしゃに顔を歪めて、皿をじっと見つめる。
「羊羹、好きだったのに、大きな味なしの蒟蒻みたいにしか感じないのが悲しい。それに、せっかく小豆が作ってくれているのに、美味しいと思えないのが悔しい」
「そうおもってもらえるだけでも、わたしはじゅうぶん、うれしいぞ」
「でも、小豆が作ってくれたケーキも、ちゃんと味わえなかったし」
彼女の言葉を受けて、小豆は少し照れくさそうに笑ってみせた。
今までろくに主と会話をしてこられなかった小豆にとっては、彼女との団欒は純粋に楽しいと思える至福の時間だ。だが、己が不出来と感じつつ渡したお菓子の話となると、ほんの少しだけ、目を逸らしてしまいたい衝動に駆られる。
「あれは……あまり、じょうずにできたとは、いえなかったとおもうのだが」
「それでもだよ。それに、小豆は知ってるお菓子なら凄く上手に作れるんだから、作り方さえ分かっていればケーキだって」
そこまで言いかけて、藤はふっと言葉を打ち切り、じーっと小豆を見つめる。急にどうしたのだろうかと、小豆は僅かに首を傾げて、彼女の言葉を待つ。
「作り方教えたら、ケーキ作ってくれる?」
「ああ、もちろんだとも」
「やった! じゃあ、レシピは僕が用意するから、今から試せない?」
何やら藤が上機嫌になったのを素直に嬉しく思い、小豆は一も二も無く頷いた。
***
クリスマスの時もそうであったが、この本丸において洋菓子が出される機会は然程多くない。皆が万屋で菓子を買って帰ってくると、大体が和菓子になってしまうからだ。
乱や五虎退のように、見た目が年若い刀剣男士たちは、宝石箱のような洋菓子に心が惹かれることもあるが、それはあくまで個人の嗜好だ。
歌仙や次郎といった、普段洋菓子からは縁遠そうな面々も楽しめる菓子を、と考えると、どうしても和菓子一択しかなくなるという理由があった。
だからこそ、藤は密かに小豆が洋菓子作りに目覚めるのを心待ちにしていたし、今も軽やかにステップを踏みながら、キッチンに顔を覗かせた。
「あるじ。レシピは、よういできたのだろうか」
「任せて。ほら、これ」
言いながら藤が取り出したのは、最近皆で共同使用している薄い板状のタブレット端末だ。慣れた手つきでネットワークに接続し、藤は検索画面に『ケーキの作り方』と記す。
このご時世、様々な作り手が、我先にと自分で導き出した作り方を掲載してくれている。その中の一つを、藤は選び出し、小豆にも見せる。
「これ、初心者向けらしいよ。これなら、小豆でもすぐ作れるんじゃない?」
「なるほど。おおむね、わたしがよそうしていた、ざいりょうでまちがっていなかったようだ。ただ、つくりかたは、そうぞういじょうに、ふくざつだな」
最後まで作り方を確認してから、小豆は冷蔵庫や調理器具をしまった棚からてきぱきと材料やボウルを取り出していく。その様子を眺めながら、藤は数ヶ月前のことを思い出して、小豆に問いかけた。
「あのさ。僕の誕生日のとき、小豆がケーキを作ってくれたんだよね」
「そうだとも。みようみまねでは、あったがね。髭切が、どうしても、それでなくてはいけないと、たのんできたのだぞ」
「髭切が……」
あのとき、彼はそんなことは一言も話してくれなかった。話していたかもしれなかったが、少なくとも藤に語って聞かせようとはしなかった。
何故、わざわざ誕生日を祝うためだけに、あのような手間のかかることを。
そこまで思いかけて、藤は気が付く。同時に、小豆が口を開いた。
「いわいごとには、このおかしをたべるものだと、わたしにはなしていた。それほどまでに、あるじのうまれたひを、いわいたかったのだろう」
物吉と語り合った他愛のないたった一言を、彼は覚えていた。主の言葉の一つ一つを、宝石のようにしまいこみ、大事なときに引き出してくれる。その温かさに、改めて気付かされ、藤は厨に置かれている丸椅子に腰掛けて頭を抱える。
「あるじ、どうしたのだ。あたまが、いたむのか?」
「自分のしてきたこと、思い出して……ちょっと自己嫌悪中」
あからさまな藤の態度を前にして、小豆は思わず笑い出しそうになるのを、堪えなくてはならなかった。
「そんなふうに、おちこむものではないぞ。髭切も、あるじにげんきになってほしくて、たのんだにちがいない。そして、かれののぞみはかなった」
「そうかもしれないけれど、それまで皆にも心配かけたし、怒らせたし、今も全部が全部、上手くいっているわけでもないから」
「なにもかも、いちどきにかいけつすることは、そうそうないだろう。すこしずつ、つみかさねていくしかない。ちょうど、おかしづくりのように」
最初からお菓子の形で出来上がっているものなんて、一つたりとてない。手間暇をかけて加工するからこそ、美味しいお菓子になるのだと、小豆は彼女に語りかける。
「あるじ。てがあいているのなら、かきまぜるのをてつだってもらえるだろうか。わたしだけでは、じかんがかかってしまいそうだ」
気晴らしにと手伝いに誘われ、藤は見よう見まねで、ボウルの中に仕込まれたケーキのタネをかき混ぜていく。
手を動かしている間であっても、口まで塞がってはいない。いい機会だからと、小豆は藤に話題を振っていく。
「あるじは、じぶんでは、すいーつをつくらないのか?」
「僕が作ったことはないなあ。料理をするとすぐに焦がしちゃうから、やらなくていいって言われて、それきりなんだよね。でも、甘いものは好き」
「ならば、わたしもこれから、どんどんうでをふるうとしよう」
「すっごく楽しみにしてる。歌仙が料理上手で、それでもって小豆がお菓子作りが得意って、すごく僕は運がいいなあ」
自分の舌がおかしくなっていることなど、おくびにも出さず、二人はにこやかに言葉を交わし合う。
ケーキの生地ができあがったなら、後は焼くだけだ。
軽く空気を抜き、準備していたオーブンに入れて待つこと数十分。ふんわりと焼けたスポンジケーキは、ケーキを初めて見る小豆の目にも、とても美味しそうに映った。
「レシピによれば、あとはクリームをぬって、フルーツをのせればかんせいらしいぞ。わかってしまえば、いがいとかんたんにできるものだな」
「そう言えるのは、小豆だけだと思うよ」
大雑把な自分の手にかかれば、ケーキはきっと膨らまなかっただろうと藤は思う。恐らくは、今頃ぺしゃんこの塊を見て、しょんぼりしていたはずだ。
ふんわりと甘い香りを漂わせるスポンジケーキを前にして、小豆は満足そうに頷く。想像以上に大きなものができたから、今夜はこれをデザートにして出すのもいい。五虎退たちは、恐らく大喜びするだろう。
「さて、クリームのじゅんびをするから、あるじは――」
一度机に背を向けた小豆は、せっかくだから藤にも手伝ってもらおうかと振り返り、言葉を途中で止める。
そこには、机に置かれた丸いスポンジケーキの端を契り、今まさに口に運ぶところの藤がいたからだ。小豆が見守る中、藤の手だけが動き、ケーキの欠片は彼女の口へと消えた。
「……あるじ?」
「た、食べてないよ! 風が吹いて、欠片が口の中に入っただけで、甘くて美味しそうだから、一口くらいならとか思ってない!」
つまみ食いを指摘されて、藤はあわあわと否定を始める。彼女の所作はまるで子供のようで、微笑ましくもあるのだが、小豆にとって今はそれよりもっと大事なことがあった。
「あるじ、おいしかったかい」
声が震えていないだろうかと、慎重に、しかしさりげなく小豆は問う。藤は、何でそんな当たり前なことを、と言わんばかりに、首を傾げて、
「それはもちろん、ほんのり甘くてふわふわで、熱々で美味しいよ」
「あるじ、あじがわかるのか!?」
これ以上は興奮を抑えきれず、小豆は藤に迫る。彼が何を気にしていたかを悟った彼女も、慎重に舌の上でケーキを転がし、やがてゆっくりと頷いた。
「甘い……と思う。ほんの少しだけど」
すかさず小豆はケーキの端を千切り、自分の口の中に入れてみる。顕現して今まで多くの料理を口にしてきたが、この料理は少し口に含むだけで、甘みをすぐに感じられるものだ。これを『ほんの少し』と表するのは、やや無理があるだろう。
けれども、それでも彼女は、確かに『甘い』と言ったのだ。
「舌が、治ってきてるのかな」
「そうなのかもしれない。あるじが、すきなあじだったからだろうか。こうなったら、これからまいにち、ケーキをつくらなくてはならないな」
「い、いや、そこまでしなくても。あ、でもそれなら、もう一口」
藤がそんなことを言い出した瞬間、小豆はひょいとケーキを持ち上げてしまう。
「つまみぐいは、めっ、だぞ」
「主の舌を助けると思って!」
「みんなとたべたほうが、きっともっと、たのしく、おいしいとおもうぞ。だから、かんせいまでおあずけだ」
ぶうぶうと不平を漏らす藤。だが、そんな不平も、クリームを塗る作業を手伝い始めたら、あっという間に収まっていったようだった。
彼女の舌がいつもの調子に戻るまで、それから暫くはかかったのだが、その間に小豆のケーキ作りの腕がみるみる上がっていったのは、言うまでもない。