本編第二部(完結済み)

 五虎退と縁側で話し合った、その日の夕方。
 藤は、正月のときにやってきた神社の前に立っていた。傍らには、昼間に話した通りに五虎退と、そして次郎太刀がいる。本当なら五虎退だけに任せるつもりだったのだが、事情を聞いた次郎が、神社の話ならばと名乗りを上げたのだ。
 夏を目前に控え、神社の周りは濃い緑に覆われていた。その中でも全く霞むことなく、朱塗りの立派な鳥居が、今日も変わらぬ偉容を藤に見せている。

「……あるじさま」

 気遣わしげに五虎退が尋ねるほど、藤の顔色は明らかに悪くなっていた。胃がぎゅっと締められたような気持ちの悪さは、以前と同じだ。
 それでも、どうにかこうにか息を整え、

「五虎退。やっぱり僕は無理みたいだから、代わりにお願いね」

 ハンカチで何重にも包まれたお守りを、彼の白い手にそっと渡した。
 五虎退は重々しく頷き、慎重な足取りで鳥居に向かう。さながら、藤の緊張が彼に伝わっているかのようだった。
 鳥居をくぐって、彼の背中が見えなくなってから、藤は長く息を吐いて、くるりと踵を返した。

「正月の時に顔色が悪かったのは、そーいう理由だったからとはね。流石の次郎さんも、そこには気づけなかったよ」
「黙ってて、ごめん」
「いやいや、責めちゃいないさ。まずい酒でも、うまいように飲んでみせて、主催の顔を立てるってこともあるだろ。あれと同じさ」

 あいにく、藤にはその例ではピンとこなかったが、なんとなく次郎が慰めてくれているのだろうとは伝わってきていた。
 ふらふらと足元が覚束ない藤を、次郎は何を言われずとも、それとなく手を添える。二メートルに近い巨躯の彼は、大樹のようにしっかりと藤を支えていた。

「でも、アンタはここの神様に助けてもらったんだろう? なら、何だかんだで好かれているんだと、アタシは思うよ」
「そう、かな」
「気に入らない奴をわざわざ助けに行くほど、神様は暇じゃないだろうさ。ああ、丁度いい。向こうに椅子があるよ。五虎退が戻ってくるまで、そこで休もう」

 次郎に促され、藤は道ばたのベンチに腰掛ける。神社前での待ち合わせ用に使うものらしいが、平日の夕方ということもあって、利用者は彼女だけだった。
 歩道沿いに建てられた、この神社からは、道行く人の姿がよく見える。犬の散歩をしている主婦、学校帰りの子供達、あるいは家路を急ぐサラリーマン。いつの時代も変わらない、都会の景色の一つだ。
 故郷から出た直後は、こんな場所で暮らしていけるのかと不安に思った。けれども、今はいつの間にか、それが当たり前となっている。鬼の話をしたからだろうか。最近はふとした折に、そんな郷愁の思いに駆られることが増えた。
 そうして、ぼんやりと景色を見つめていると、杖をついた年老いた男性が、よたよたと藤の目の前を通り過ぎていく。かと思いきや、彼は丁度藤の近くで足を止めた。
 座りたいのだろうかと、藤がすかさず立ち上がると、

「ああ、すまんね」

 頭を下げてから、老人はベンチに腰を下ろした。

「歳をとるとどうにも、立って待つことも辛くてなあ」
「待つ?」
「この時期になると、ここの前を、美味いわらび餅を売る車が通るんだよ。まあ、夏の風物詩ってやつだなぁ。休日は、そこそこに人が集まるんで、こうして平日を狙うんだよ」
「わらび餅……」

 本丸の中で生活するようになっても、藤の舌は相変わらず、正しい味を彼女に伝えてくれていなかった。それでも、聞き馴染みのあるお菓子の名は、彼女の興味を惹きつける。

「アンタ、欲しいのかい?」

 次郎に問われ、藤はおずおずと頷く。

「皆も食べたいかなって。僕も、久しぶりに食べてみたい、かも」
「じゃあ、アタシ達も待とうかね。どのみち、五虎退が戻ってくるまで、ここで待ってなきゃいけないわけだしさ」

 話がまとまった折、不意に彼女のズボンのポケットから小さな振動が伝わる。携帯端末を取り出すと、歌仙から『何時に帰るのか』という質問が送られてきていた。
 最近、彼は電子端末の操作に慣れようと、何度か挑戦を試みているようだった。とはいえ、まだ漢字の変換もできず、所々誤字も混ざっている文章は、ついつい藤の笑いを誘ってしまう。端末を見ながら、くすくすと藤が忍び笑いを漏らしていると、

「ん? そちらのお嬢さん、あんた、何をつけているんだ?」

 老人は、藤が触っていた携帯端末――正確には、そこからぶら下がっているストラップを見つめて尋ねる。彼女の携帯端末には、去年の夏に髭切と山を登った先で見つけた、鉄の欠片のようなものが紐で括りつけられ、ゆらゆらと揺れていた。

「これ、ですか?」
「あんた……これを、どこで?」

 老人の声音は、興味本位で訊くしては、妙に真剣味が籠もった声音だった。何かまずいことでもしてしまったのかと、藤は内心で緊張しつつも、ゆっくりと口を開く。

「本丸……家の裏手にある山で。えっと……ボロボロになった、木の家みたいなところの前に、こういう欠片が沢山散らばっていたんです」
「勝手に取ってきたんか」
「いえ、友達と一緒に、その家の周りの片付けをしていたら……その、貰ったと」

 正確に言うなら、片付けを終えて藤が久々の山野ではしゃいで戻ってきた後、髭切が藤に渡したものだ。髭切本人は、ムカデから貰ったと言っていたが、藤はその様子を直には見ていない。

「貰った? 誰に貰ったんだね」
「信じてもらえないかもしれないですけれど……ムカデに。元々、庭に来ていた妙なムカデを友達が見つけて、それに案内されるままに行ったら、木の家みたいなものがある場所に、辿り着いて……」

 自分でも、荒唐無稽な発言だと思いながら、藤は事の経緯を語る。次郎も神妙な顔つきで藤の言葉に耳を傾けている。
 彼女に対して身を乗り出すようにして、話を聞いていた老人は、藤が語り終えると安心したように肩をなで下ろす。

「いや、それなら構わんよ。まさか、こんな所で山の神様への奉納品を、拝むことになるとは思わなんだ」
「山の神様?」

 この近辺で山といえば、本丸の裏手にある山ぐらいだ。そこを指しているのだろうかと、興味半分で藤が尋ねると、

「こっちの神社が、里の神様。それであっちの山にあるのが、山の神様って言われとるんだよ。なんでも、それはそれは大昔の頃、山で暮らしていた刀鍛治の連中が、わざわざ里まで降りてお参りに行くのは面倒だっつーて、分社を立てて、祀ったんだとさ」

 老人の視線の先には、間違いなく藤が以前登った山がある。リンドウ畑の平原に向かう登山口とは真逆に位置し、こちらから登ったことは去年の夏に一度行ったきりだ。

「ここに祀られとるんは、刀鍛冶の神様だかんな。木や水が近くにある場に神様も暮らした方が、行き来する手間が省ける言うても、不思議じゃあない。仕事場の近くに、社を作りたかったんだろうなあ」

 言われてみれば、と藤は思う。髭切と山を登った折、中途半端に整備された道があった。あれは、古い時代に用いられた参道だったのだろう。
 そして、今いる社の神の使者がムカデなら、あの分社の使者もムカデに違いない。だから、ムカデが自分の家のほど近くに建つ屋敷の住人に、助けを求めに来たのだ。

「まあ……わざわざ山に作った理由は、実際の所、里の連中と、上手くいっとらんかったからかもしれんがな」
「え?」
「神社に残ってる古ーい資料には、角の生えた鬼の連中が勝手なことをしたとか、書いとるようで」

 角という単語を聞いて、藤は一瞬身を固くする。沈黙を守っていた次郎が、それとなく背中に手を当ててくれたことが、今は有り難かった。

「鍛治している連中は、目をやっちまって鬼みたいな形相になるんは珍しくないから、そういう所からついた、あだ名かもしれんと、前の神主さんは言うておったかな。とはいえ、その連中もだんだん山から姿消しちまって、神様だけ残されとるのは可哀想だって、たまに里の神社の神主が面倒は見とるみたいだ。まあ、ここ暫くは神主も代替わりをしてしもうたからなあ」

 道理で、あの社らしき場が酷く荒れていたのかと藤は思う。
 あの荒廃ぶりは、一年二年のものではない。老いた管理者が行けずじまいになり、そのまま伝えられることもなく、忘れ去られようとしていたのだろう。

「僕が行ったときには、あちこちに、この破片みたいなものが散らばっていました。だから、それを集めてまわっていたんです」
「そりゃあ、多分社に捧げていた刀だろうなあ。小さな社にあわせて、小さな刀をお供えしたんだろうな。それを集めてくれたから、神様が『ありがとう』言うて、くれたんに違いない。大事にしなされ」

 うむうむと、何かを懐かしむように頷く老人。彼の皺だらけの額が緩やかに伸び、穏やかな笑顔を作っていた。その様子に、藤もつられて笑いかけ、しかしある一点を目にして小さく息を飲んだ。

「――あの、どうしてそんなに、あの山の祠について詳しいんですか」
「そりゃあ、お嬢さん。わしが、昔からご先祖様の話だって言うて、家のもんから聞かされとったからだよ」

 少し歯の抜けた、柔らかな笑い声が辺りに広がる。
 ちょうど彼らの話が終わる頃、「わらび餅はいらんかね」という呑気な声を響かせながら、一台の小さなトラックが歩道に横付けされた。どうやら、あれが噂の美味しいわらび餅屋らしい。
 よたよたと立ち去る老人の背中を、藤はどこか焦点の合わない瞳で見送る。額に小さなコブを――角のなりそこないを残した、遠い地で行き会った同胞の姿を。

「不思議な出会いも、あるもんだねえ」

 藤と同じことに気が付いたのか、あるいは気が付いていないのか、次郎がしみじみと呟く。その通りだと、藤もぎこちなく首を縦に振った。

「アンタが神様に対してどう思うかは、アンタの自由だってアタシは思う。アンタが神様を怖がるって言うんなら、それも仕方ないだろうさ。でもね、アタシが見る限り、アンタはいっとう神様に――少なくともここの神様には、大事にされているんじゃないかな」

 次郎は彼女の頭に手を伸ばし、未だやや呆けている藤をそっと己の側に引き寄せる。

「アンタは、悪いことをしちまったのかもしれない。だけど、汚くなった住み処を綺麗にしてやったのも、アンタが神様にお礼をしに来ているのも、全てアンタが自然にやろうと行動したことだろう? そういう所も、ちゃーんと神様は見てるだろうさ」
「……次郎」
「目に見えないものが何考えてるか、アタシにもアンタにも分からない。だったら、少しでもいいように解釈することが、そんなに悪いもんだとアタシは思わないよ」

 大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でられたせいで、視界がぐらぐらと揺れる。けれども、その揺れ動く感覚も、藤はどこか心地よく思えていた。
 ちらりと鳥居に目をやると、また言い知れない忌避感に襲われてしまう。だが、それは神様が拒絶しているというよりは、もっと別の理由があるかのようにも感じられる。
 ただの気の持ちようと言えばそれまでだが、考え方一つで世界は全く違う見え方もする。それは、つい先日学んだことでもあった。

「あの、さ。次郎。今度、初めてでも飲みやすいお酒、教えてくれる?」
「ああ、いいとも。果実酒なんかどうだい?」

 次郎と手を繋ぎ、わらび餅を買いに向かいながら藤は問う。次郎も、よし来たとばかりに気軽に請け負った。

 わらび餅は、本丸の人数より少し多く購入され、その数日後、山奥の参道にそっと置かれたのだった。


 ***


 一方、鳥居をくぐり抜けた五虎退は、お守りを握りしめておずおずと参道を歩いていた。
 正月の時の賑わいが嘘のように、境内は閑散としており、のんびり散歩しているお年寄りや、近所に住む者と思しき人が行き来するだけとなっている。
 この街は、取り立てて観光地というわけでもない。どちらかといえば、住宅街が多く、人が暮らすことに特化した地域だ。正月は、町中の人が集まるからこそ、あの賑わいとなるのだろう。
 手水場で手を洗い、五虎退は丁寧に賽銭箱の前で手を合わせる。付喪神の自分が、よその神様にお参りするということへの抵抗は、彼にはなかった。

「あるじさまをお守りしてくれて、ありがとうございます。もし、できるなら……これからも」

 小さく祈りを呟き、五虎退は目に見えない神へと祈りを捧げる。
 数秒目を瞑ってから、一礼して賽銭箱前から下がり、五虎退は周囲を見渡した。お守りを返すための専用の箱があるはずだ、と藤から聞いていたからだ。
 幸い、その箱自体はすぐに見つかった。境内の端、絵馬が吊された場所のほど近くにある木製の箱に向かい、五虎退は箱の中にお守りを落とそうとした。
 だが、ふと彼は影を感じて顔を上げ、

「――ひっ!?」

 思わず、息を飲む。
 小さな社のような形状の返却箱、その屋根の上には、五虎退の背丈ほどはあるのではないかと思うほどの、大きなムカデがとぐろを巻いていた。
 ムカデの話を主から聞いて、白昼夢でも見ているのかと、五虎退が慌てて目を擦ると、

「消えた……?」

 まさに夢のごとく、ムカデは姿を消していた。何度瞬きをしても、一瞬瞼の裏に焼き付いた巨大な影は見当たらない。

「つ、疲れているんでしょうか」

 五虎退が再び箱に目をやると、そこには先ほど目にしたものよりはかなり小さいが、ムカデが張り付いていた。何やら、意味ありげにムカデは五虎退に向かって頭をもたげている。

「あの、僕に何か……」

 声をかけると、ムカデは彼が握っているお守りを指すように頭を動かし、次いでゆっくりと、そしてはっきりと頭を横に振った。

「これ、返さなくて、いいってことですか?」

 おずおずと尋ねると、果たしてムカデは頭をゆっくり縦に振る。

「そ、それなら、あるじさまに、そのように伝えておきます。あの、……僕の大好きなあるじさまを、助けてくれて、ありがとうございます」

 相槌を打つように、再びムカデは首肯する。五虎退はぺこりとムカデに向かって頭を下げてから、踵を返して鳥居の方へと、そこで待つ主と次郎の元へと走って行く。
 小さな背中を見つめるムカデは、どこか愛おしげな眼差しを送っているようにも見えた。
 それはまるで、長い時を生きてきた先達が、歩き出したばかりの幼き後輩を見守っているかのようだった。
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