短編置き場

「ほわいとでー? なんひゃいふぉれふぁ」
「兄者、まずは口の中のものを飲んでくれ」

 食べながら喋るものではないと説教したいところを抑えて、額に手を当てた膝丸はそのように言った。
 弟に言われるがまま、髭切は口の中に詰め込んでいたものを飲み込む。彼の手の上には、食べかけのいちご大福もどきが載っていた。もどきな理由は、白玉の部分があんこを隠しきれておらず、あんこが飛び出してきているからである。主である藤の今日の頑張りの成果だった。

「それで、ホワイトデーって?」
「バレンタインという日があっただろう。それの一ヶ月後にプレゼントを貰った側がお返しをする日なのだそうだ」
「それなら丁度よかった。お返しをしようにも日が空いてしまって、忘れているんじゃないかと思っていたから」

 そんな日があるなら意識して思い返すだろうと、髭切はとても楽しそうににこにこと笑う。

「それで、兄者は主に何を渡すつもりなのだ?」

 肝心の贈り物について、膝丸は兄に問いかける。
 本丸のほとんどの刀剣男士は、小豆長光に手伝ってもらってバレンタイン当日にワンホールサイズのガトーショコラを主に渡していた。丸々二日かけて彼女が完食したのは記憶に新しい。
 お腹いっぱいになって晩御飯が食べられなくなったところを、歌仙に叱られたというおまけつきだ。

「乱たちは先日アップルパイを作って渡していたな。兄者も何か菓子を作る予定が?」
「今はそういうつもりはないかなあ。何かもらうなら、実用的で綺麗なものがいいって言われてるんだよねえ」

 最初は和泉守みたいな実用的かつ美を兼ね備えた刀という意味かと思ったが、そういう意味ではないと言われてしまった。
 普段使えそうなものを渡してもいいが、それはそれで何か物足りない。無難なところは料理だろうということも分かっている。基本的に主は美味しいものに目がないのだから。

「でも、ただ言われたままというのも僕としては嫌なんだよねえ」

 髭切は掌の上にちょこんと載っている苺大福に目を落とす。
 バレンタインデーの一件があってから、頑張ってお菓子作りに励むようになった彼女の姿は見ていて微笑ましいと思う。皆に平等に喜んでもらえるようにと悪戦苦闘している姿は、応援したいと見る者に思わせる所がある。
 だが、彼女の頑張りはあくまで皆全員に向けてなのだ。それでは、髭切は少し──寂しいと思うようになっていた。

「せっかくだから、あっと言わせてみたいんだ」

 自分が他とは違う、少しだけ特別なものを彼女に送りたいと、髭切は贈り物の検討を続ける。
 兄の無理難題を聞いて、その心まで理解したわけではないのだろうが弟の膝丸も腕を組んでうーんと唸った。
 主は基本的に大きく動じるような様子を見せる人間ではない。彼女が強く動揺するのは大抵自分のことであるし、その場合は十中八九悪いことが多いようだということは膝丸も分かっていた。
 そんな彼女を良い意味で驚かせるならば、どうするべきか。そのとき、ふと膝丸の頭に一つの考えが浮かび上がった。

「兄者があっと言わせられたような良いことを、兄者が主にするというのはどうだろうか」
「僕が?」

 こう見えて、髭切と主の藤の性格は少し似ていると膝丸は思っていた。
 二人とも動じる様子を見せることはあまりない。大体笑っていることが多く、マイペースである。どこかのんびりしているようで、細かい所まで実は気づいているということもそっくりだ。
 このように感性が似通っている二人なら、悪い方向で重なることはないだろうと膝丸は思う。これはなかなかいい思いつきではないかと、内心で自画自賛も送っていた。

「僕があっと言わせられたような良いこと……」

 うーんと髭切が唸ること一分ほど。
 不意に彼はパッと顔を明るくさせる。まさに何か閃いたというような顔だ。

「ありがとう、膝丸。いいことを思いついたよ。主に話してくるね」

 髭切は残っていた苺大福をぽいと口に入れて食べてしまうと、早速とばかりに部屋の外へと駆け足で行ってしまった。
 残された膝丸はというと、言い出したはいいもののとんでもないことをしでかさないかと、遅れてやってきた不安によって内心で冷や汗をかいていた。


***



「えー!? 二人で出かけないかって髭切さんに誘われた!?」
「乱、そんなにびっくりしてどうしたの?」
「主さんがびっくりしないから、代わりにボクがびっくりしてるんだよ!!」

 縁側でのんびりと五虎退の虎と遊んでいた乱は、先ほど廊下をわたってやってきた主である藤の発言に元々大きな瞳を益々大きくさせて驚きを顕にしていた。

「そ、そ、そ、それって、要するにデー」
「お出かけだよね。その日の近侍は乱だったから、良かったら一緒にどうかと思ったんだけど」
「ちょっと待って、ボクが何で一緒に行くことになってるの!?」

 藤のいつもすぎる態度を見て、乱は自分の胃がギリギリと絞られるような気持ちになっていた。
 この本丸は特段主からの信愛を獲得しようと、躍起になっているようなものは少ない。他の本丸では一部の刀剣男士が主の寵愛を我が手にと奮闘していることもあるらしいが、そのような事件とは縁遠かった。
 一連の経緯があったからというのもあり、彼女と他の刀剣男士との距離は大体が友達、ないしは家族のようなものだと乱も思っている。乱自身、藤のことは年の離れた年上の兄弟、あるいは気さくに話せる友達のような気分だった。
 だが、例外というものはどこにでもいるものである。

「あれ。乱は行かないの?」
「二人で行かないかって言われたなら、三人で行く前提のことは考えてないと思うよ」
「そうかあ。じゃあ、乱はお留守番なんだね」

 当たり障りのない断りの方のおかげで、藤は納得したように直ぐに引き下がってくれた。

(これでついて行ったら、ボクがスパスパーってされちゃうよ……)

 髭切が藤に向ける気持ちは、他の刀剣男士よりは強い方だということは乱も分かっていた。乱もこの本丸では古参の部類に入るが、彼のような心の傾け方はしていない。
 なので、髭切が藤と親密になっても嫉妬のような思いは抱かない。だが、嫉妬とは別の感情は湧き上がる。

(主は気が付いていないけれど、これってつまり、そういうことだよね。うわあ、気になるなあ)

 乱の中に、野次馬根性がむくむくと育ち始める。こんな面白い事件を見逃せるほど、乱は大人しい性格の持ち主ではなかった。
 だが、そのような悪巧みを主や髭切に気づかせるわけにはいかない。

「近侍はボクだから、出かけるまではしっかりサポートするね! それで、何着ていくの?」
「外を歩き回るみたいなんだ。この季節だと寒いと思うから、温かい上着とズボン」

 それは着ていく種類であって服そのものの話ではないと突っ込みたいのを、乱はぐっとこらえる。服に関しての話題は、主に対しては細心の注意を払わねばならないというのは彼は嫌と言うほど知っていた。故に、言葉は慎重に慎重に選んでいく。

「せ、せっかくだから、ボクが適当に選んでおくよ。その、上着とズボンで暖かそうなやつを!」
「そう? じゃあ任せるね」

 照れも恥じらいもせずに、むしろ面倒ごとを引き受けてくれてラッキーといった様子で藤は乱に頭を下げる。明らかにデートに誘われた女子とは程遠い対応に、乱は内心で天を仰いでいた。



 所変わって、本丸の片隅にて洗濯物を畳んでいた堀川は、普段一対一であまり対峙することのない男士と顔を突き合わせていた。

「現代向けの服って持ってなかったんですか?」
「持っていたんだけど、薄着ばかりだったんだよねえ。万屋には適当な大きさのものがなくて」

 彼が相対しているのは、自分にとっては大先輩にあたる髭切だ。
 外に出かける用事ができたのだが合う服がないと、唐突に質問をしてきたのである。

「まあ、仕方ないですよねえ。僕たちはまだ、特に悩まなくても探せるんですけれど」

 あははと苦笑いしながら、堀川は目の前の彼を失礼にならない程度にじっと見つめる。

(足長いもんなあ、髭切さん)

 自分の相棒も頻繁に愚痴っているので、堀川としてはこの手の質問はむしろ慣れたものであった。

「それなら、いいお店を見繕っておきますね。兼さん用にピックアップしていますから!」
「ありがとう、助かるよ」
「それにしても、外に出るなんて珍しいですね。万屋じゃないんですよね?」
「うん。ちょっと昔いたところに主と二人で行こうかなって」

 不意にぶつけられた主との二人っきり外出宣言に、堀川はぴしりと固まった。乱ほど積極的に考えを読むようなことはしないが、ひょっとしたらこれはという興味ぐらいは堀川の中でもすぐに湧き上がる。
 けれども、同時に彼は小さく首を傾げた。
 源氏の重宝であった彼は確かに様々な場所に行ったのだろうが、今でも訪れる場所として残っている所があるのだろうか。

「それにね。僕がいた所には、君の兄弟も一緒に奉納されていたんだよ」
「それって……ああ、あそこですね!」

 髭切から渡されたヒントを聞いて、堀川は一つの答えを得る。
 なるほど、その場所なら寧ろ観光地にもなっているだろうと彼は合点がいったという顔をした。

「主さんも最近寒くて引きこもりがちでしたからね。いい気晴らしになると思います。行くのはいつなんですか?」
「三月十四日だよ」

 とても嬉しそうに笑う彼の様子を見て、堀川は自分の「ひょっとしたら」が「絶対」に変わったのを感じた。

「それなら、ぜひとも頑張ってくださいね!」

 気合の入った激励を送りながら、堀川は内心で面白そうなこのイベントを見守りたいという野次馬心を少し覗かせるのだった。


***


 まだ寒さは残るものの、小春日和と言っていい朝の柔らかな日差しが二人の男女を迎えていた。
 その二人のうちの片割れ、朱け色の髪の彼女は落ち着きなく視線を彷徨わせてもう一人の方──白金色の髪の青年の隣に立っていた。
 乱に服装は任せたところ、要望通り彼はズボンに簡素な上着を用意してくれた。ただ、ズボンはどう見ても新品の見覚えのないジーンズパンツであるし、着ると暖かいよと言われて渡されたのはふわふわした白いニットのセーターだった。

(……どうしてこうなってるんだろう)

 いつもの服で遠出に付き合うくらいのつもりでいた藤としては、妙にめかし込んだ自分が場違いのように思えてしまう。
 隣の古馴染みこと髭切の方は、セーターに細身のズボンと普段とさして変わった様子はない。強いて言えばいつもの白ではなくブラウンが色の主体になっているのが、変わったところと言えるだろうか。

「そういえば、そもそもどこに行くつもりなの?」

 しかもわざわざ出陣の時みたいに時間遡ってまでして、と藤は付け加える。彼曰く、どうしてもこの時代がいいというので、主同伴ならいいだろうと彼女が許可を出したのだ。

「昔僕がいたところでね、主に見せたいものがあって」
「そうなの?」

 髭切が昔いた場所に行きたいと言い出したことなどは、今まで一度もない。わざわざ二人きりになってまで、しかも時間を遡ってまで見せたいものとは何なのだろうと藤は不思議に思う。
 詮索はしてみたいが、これから教えてくれると言っているのに無理に聞き出すこともないかと、彼女はすぐに考えを改めた。

「それじゃあ、さっそく行こうか」
「……その、見せたいものってこの中にあるの?」

 ぐいと首を上に向けて尋ねる藤。そこにあったのは、大きな石造りの鳥居だった。相当距離を置かなければ全容が見えないだろうという大きさに、藤は圧倒されてしまったようだった。

「この神社自体が見せたいものっていうこと?」
「そういうわけじゃないよ。いいからいいから」
「あ、ちょっと」

 髭切は問答無用で藤の手を取り、鳥居をくぐる。藤も小さく首をすくめて、そのあとに続く。
 いくら規模が大きな神社といえ、朝から参拝するほど熱心な参拝客はほぼいない。人通りの少ない参道を、藤はまるでお化け屋敷を歩くかのようにおっかなびっくり歩いて行く。まるで、場違いな場所に足を踏み入れてしまった子供のように。
 対する髭切は、自分が昔いたというだけあって勝手知ったるの要領でどんどん歩いていってしまう。二人の歩幅の差も相まって、彼らの間にどんどん距離ができてしまった。
 隣をついてこない主に気が付いたのだろう。髭切はぴたりと足を止めて、自分の後方にいる主に声をかける。

「ごめん。歩くの早かった?」
「ううん。ちょっと緊張してしまって」
「何か嫌なことでもあるの?」

 追いついた藤の不安げな表情を見て尋ねる髭切。藤は言いづらそうに視線を彷徨わせてから、

「何でもない……わけじゃないんだけれど、こんな立派な神社だと委縮してしまって」

 ぺたぺたと帽子越しに額を触る仕草を髭切に見せる。彼はそれだけで合点がいったという顔をした。

「大丈夫大丈夫。そういうのは大雑把に行こうよ。ほら、僕が隣にいるわけだから大体のことは何とかなるって」
「本当に君はもう……」

 髭切に頭をぽんぽんと軽く撫でられ、藤は唇を尖らせる。子供扱いされたのが気に入らなかったようだ。

「でも、緊張は抜けたかも。それで、最初はどこに行きたいの?」
「神社に来たなら、まずは挨拶に行かないとね。僕の用事はその後」

 髭切が軽い所作で差し出した手を掴み、先ほどよりは確かな足取りで藤は歩き始めた。



 ゆっくりとしたペースで歩き出す二人を、後ろから見つめる三つの影があった。

「あれって、いわゆるちょっとイイ雰囲気ってやつだよね?」
「乱さん、声が大きいですよ。僕たちが見ているのがバレちゃいます。あと、膝丸さんはもう少し小さくなってください」
「いや、これでも小さくなっている方なのだが……」

 まるで信号機のように横並びに並んでいる三つの丸い影。それぞれ、乱、堀川、膝丸の頭である。
 彼らが何をしているのか。それは──覗きだった。

「そもそも俺は何故このようなことを……」
「兄者が何かやらかさないか心配だって言ってたじゃない。それに、万が一二人だけのときに時間遡行軍が現れたりしたら危険だからね!」
「そうです。僕たちでしっかり見張って、咄嗟のときにお助けしないと」

 堀川と乱に立て続けにまくしたてられて、ぐうと言葉に詰まる膝丸。すっかり彼らの言う言葉を信じて、膝丸は自分たちがしていることは隠れた護衛のように考えていた。
 けれども、乱と堀川の興味は視線の先の二人の関係がどう進展するかということへの興味である。彼らの野次馬根性を知らないのは、巻き込まれた膝丸だけだった。

「二人が動き出しましたよ。僕たちも行きましょう」
「うん。行こう行こう!」

 胸の前で小さくガッツポーズをする乱と堀川を見て、膝丸は今一度自分がここにいる理由に微かな疑問提起をするのだった。


***



「髭切。何か声のようなものが聞こえなかった?」
「鳥の鳴き声じゃないかな。僕は聞こえなかったよ」

 本殿の賽銭箱の前にいた二人は、丁度お参りを終えた所だ。
 来たばかりの頃よりは緊張のぬけた顔の藤は、辺りをぐるりと見渡す余裕でもできていた。
 お守りを売っている売店、おみくじを結ぶ場所に絵馬をかける場所と神社にありそうな施設が一通りある。その中で、藤の視線は一点に注がれていた。

「ねえ、梅干しって神社に売られているものだっけ?」

 足早に売店に近づいた藤は、カラフルなお守りの中にひっそりと置かれている梅干しのパッケージに目を奪われていた。

「しかも、これって」
「主。お参りが終わったから、僕の用事に付き合ってくれる?」

 藤の疑問を無視して、有無を言わさず髭切は彼女の手を取りずるずると売店から引き離す。
 本殿から離れ、来た道を戻るように二人は歩いていく。道中、藤は何度か後ろを振り返り、

「梅干しが売ってたんだけど、あれは僕の見間違えじゃないよね」
「そうだね。売っていたね」
「その梅干しに、鬼切丸って書かれた紙が貼られていたのだけれど」

 その言葉を聞いた瞬間、髭切はぴたりと足を止める。
 つられて藤も足を止めて、彼の顔を見ようと目線を上げた。髭切は少し困ったように笑っていた。

「君が昔いた場所って、要するに北野天満宮のことだったんだね。てっきり昔いた所に神社ができたのかと思っていたけれど、そうじゃない。ここは君──髭切が奉納されていた場所だ」

 時間を遡る際に指定される場所も座標も髭切任せにしていたことに加えて、入るときは下を向いてばかりだったので今まで気づくことができなかった。
 だが、分かってしまえばなんということはない。全国に数多ある天満宮の総本社なのだから、参道も鳥居も大きいわけだ。そして、先ほど口にしたようにここは髭切が奉納されていた場所でもある。
 一通り彼については調べていたはずなのに、失念していたことを藤は内心で恥じ入ってもいた。

「うん、正解。ただ、あそこには鬼切丸の方で書かれていたからね」
「僕のことを気にしてくれたのは嬉しいよ。でも、大丈夫だから」

 無理をしているわけじゃないと、藤は自然に笑みを浮かべる。続いて、茶化すような悪戯っ子のような顔になって、問いを続けた。

「梅干しに貼られるなんて、いつから君は梅干しの神様になったの?」
「梅干しは斬っていないよ」
「そうだろうね。ここにいたのはいつぐらいから?」
「明治って言われてた頃ぐらいから、かなあ」

 当時のことを思い出すように、少し遠い目で空を見る髭切。彼に倣って、藤も清々しさの残る朝の空を見上げる。

「髭切にとっては実家みたいなものなんだね」
「千年以上も刀をやってると、長居しているところも限られるからねえ」
「実家自慢をしたかったと。その気持ちは僕も分かるかな。こんなに綺麗に整っている所じゃないけどね」
「今度は僕が主に招待されてみたいね」

 不意に視線を藤に戻し、彼はにっこりを笑顔を浮かべる。握っていた手に彼から少しばかり力が込められた気がして、思わず藤は手を放して後ろに下がろうとした。だが、振りほどくどころか寧ろ彼にぐいと手を引かれる。

「ほら。急に動くと人にぶつかるよ」
「ああ……ありがとう」

 言われて振り返ると、早朝の数少ない参拝客にぶつかるところだったようだ。ぺこりと頭を下げてから、藤は微かに眉を下げる。先ほど見せていた不安げな表情が、再び彼女の顔にぶり返していた。

「仮にも鬼を切った刀を奉納している神社に、鬼が来るってどうなんだろう」
「その刀が来ていいって言ってるんだから、細かいことは気にしない気にしない」

 深めに帽子を被り直す藤。彼女の頭を撫でるように、帽子越しに彼の大きな手がそっと載せられる。
 反射的に小さく肩を竦めてから、藤は恐る恐る先ほど通りがかった参拝客の姿を探した。彼らは二人のことなど気にせず奥に向かっていったようだった。

「主が思うほど、主のことを気にしている人はいないよ」

 緊張をほぐすように、彼は彼女の肩を軽く叩く。
 硬直が解けたように、藤は握りっぱなしになっていた彼の手を今度は自分から強く握る。その分だけ、まるで応えるように握り返されて藤は安堵の表情をようやく顔に浮かべた。

「じゃあ、気を取り直して僕らも行こうか」
「……うん」




 本殿の柱に隠れるようにして、堀川と乱は自らの主と髭切のやり取りをじっと見つめていた。

「さっきから手、つなぎっぱなしですよね」
「凄いよね。普段はそんなこと全然しないのに」
「やっぱり実家に戻って、開放感に包まれて行動的になっているんでしょうか」

 常人よりは高い視力を無駄遣いして、二人は目を主たちから離すまいとしていた。が、ふと隣にいるはずのもう一人の気配が先ほどから感じられないことに気が付く。
 ぐるりと振り返ると、唯一野次馬根性を持ち合わせていない膝丸が土産もの売り場の前で考えに耽っていた。

「何してるんですか、膝丸さん」
「ここに兄者の名が貼られている梅干しがあるのだ。折角だから一つ買っていこうかと思うのだが、財布は持っていないか?」
「残念ですけど、今回は持ち合わせはないんです。諦めてください」

 未練という未練を全身から滲ませている膝丸の手を、堀川が引く。
 本丸の金銭管理を一手に任されている男──歌仙兼定の許可がでなければ、一銭だろうが一円だろうが手に入らないのがこの本丸のルールだった。そしてこの覗きに際して、歌仙の許可は得られていない。

「ほらほら、急いで急いで! 主さんたちを見失ったら、膝丸さんのせいだからね!」
「仕方ないな……待ってくれ、二人とも!」

 乱と堀川にせかされるようにして、膝丸は梅干しの誘惑を振り切った。


***


 一歩そこに立ち入れば、広がっていたのは無数の紅と白。まだ葉はついていない木々には、見るも鮮やかな花々が競い合うように花開いていた。捩れたように伸びた枝は先端が不意に垂直になっており、そこに無数の花を咲かせている様子はまさに圧巻という一言に尽きる。

「そうか。ここは梅苑があるんだったね」

 髭切が藤を連れて入った場所は、北野天満宮の片隅にある梅苑だった。天満宮に祀られている天神様は梅に縁がある神様でもあるというのは、藤も知識としては知っていた。
 入口からほど近くにある紅色の梅の花。更にその先にある整えられた日本庭園には、あちらこちらに雪のような白や林檎のような赤が点々と散らばっていた。見頃の季節を迎えた梅苑には、まだ春を迎え切っていないとは思えないほどの色が溢れかえっていた。
 庭園の中にある梅の一つ一つに顔を寄せ、藤は微かな春の匂いを楽しんだ。まるで子供に返ったようにはしゃぎ回る藤の様子を、髭切は目を細めて見守っている。

「見せたかったのは、この梅苑のこと?」

 ひとしきりはしゃいだ後、藤は青年の元に戻ってきて尋ねた。

「それもだけれど……そうだなあ、主。折角だから、目瞑ってついてきてくれる?」

 まだ何かあるのだろうか。不思議に思いながらも藤は言われたとおりに目を瞑った。視界が完全に闇に閉ざされ、感じるのは風の音に梅の微かな香りだけだ。

「ゆっくり歩くから、転ばないようにね?」
「うん。大丈夫」

 髭切に手を引かれて、藤は彼の先導する方向に向けて歩き出す。
 視界が閉ざされているからだろうか。彼に握られた手から伝わる熱は、いつもより高く感じられた。彼の温度はこれほどまでに、温かかっただろうか。
 ただ目を瞑っているだけとはいえ、普通なら歩くだけでも躊躇をするだろう。けれども、手を引いてくれる彼がいるおかげで、恐怖は然程感じられない。
 そうして、少しばかり勾配がある道を抜けたときだった。

「もう目を開けてもいいよ」

 声を聞くまでもなく、ふわりと立ち上る微かな甘い香りは自然と藤の目を開かせる。

「…………うわぁ」

 眼下に広がっているものを見て、彼女は歓喜でゆっくりと目を見開く。
 そこにあったのは、一面の紅白の絨毯。高台から一望できる位置には、見事な春の世界がまるで湖のように広がっていた。ふわりと風が吹き、下から舞い上がった紅白の欠片が彼女の視界を掠めていく。

「この年が特に見頃だったって人の話を、薄ら覚えていてね。この前のお返しを何にすればいいかよく分からなくなって、どうせなら僕が見せてもらって嬉しかったものを主にも見せようって思ったんだ」
「この前って?」
「二月十四日。バレン……何某って日のときに、お菓子を貰っただろう?」
「あんなの、大したものじゃないのに」

 体を縮めるようにして、藤は謙遜の言葉を口にする。

「僕にとっては、それぐらい大したものだったってことだよ」
「……ありがとう」

 さらりと言われた言葉の温かさが思った以上に大きくて、口にした言葉は気恥ずかしさから小さなものになってしまった。彼と顔を合わせるのも照れが先走り視線を落としてしまう。
 とはいえ、折角連れてきてくれたのだからと内心を叱咤して、ぐいと顔を上げ直す。視界を覆うように広がる桜より少し濃い桃色を再度目にして、藤の気恥ずかしさなどあっという間に消し飛んでしまった。人はこれほど綺麗なものを見ると、感動の念しか覚えないのだと改めて感じ入る。そんな彼女の横顔を見て、髭切の微笑も一層深くなった。

「髭切は、前にもこの景色を見せてもらったことがあるの?」
「この姿で見たことはないよ?」
「でも、さっき見せてもらって嬉しかったって」

 彼の言葉を思い出して尋ねる藤。髭切は彼女の勘違いに気がつき、「違う違う」と首を横に振る。

「それは、主に似た景色を見せてもらったっていう意味だよ」
「僕は、こんな綺麗な梅を君に見せた覚えはないよ」
「梅じゃあ、なかったけれどね」

 こちらを試すように楽しそうに笑いかける彼の姿を見て、藤は首を捻る。もう一度視界を高台の向こう側にやれば、そこには変わらずに紅白の絨毯が広がっている。まるで、抱えきれないほどの花束を見ているようだった。
 これと同じものを見た覚えもないし、当然髭切に見せた覚えもない。ただ、似たものなら見たことがある、と藤は思い返す。その時は紅白の二色ではなく──澄んだ瑠璃色が広がっていた。
 そのことを思い返し、藤は狼狽えたように首を微かに横に振る。

「そんな、あれは僕が見たかったっていうのもあるし、僕が何かしたわけでもない。本当に偶然でこんな大層なものじゃないのに」

 止め処ない謙遜の言葉が、無自覚の内に藤の口をついて飛び出していく。彼女の言葉を止めたのは、ぽんと頭の上に直に載せられた手だった。いつの間にか被っていた帽子は、頭の上から髭切の手の中に移動している。

「大層なものだったよ。僕にとっては初めてのことだったから」
「それは、その……どういたしまして」

 髭切からの褒め殺しを受けて、不意に立ち上った頬の熱を隠そうと彼女は彼から視線を逸らした。
 まだ少し寒さを残した風が、彼女の熱を冷ますように花びらと共に吹き抜けていく。悪戯な風の一つが木々の梅の花びらをさらって、ふわりと藤の頭にまき散らしていった。紅白の花びらが、まるで髪飾りのように彼女の髪にまとわりつく。

「髭切が帽子とったから、花びらがついちゃったじゃないか」
「似合っているからそのままでもいいんじゃない?」
「とるのが面倒くさいだけでしょ」

 拗ねたように頬を膨らませてそっぽを向いた藤の様子を見ても、髭切は笑顔を崩さない。
 彼から顔を逸らしたままで、彼女は蚊が鳴いたような声で呟く。

「……連れてきてくれてありがとう、髭切」
「それはよかった。ねえ、そこの三人もそう思わない?」

 不意にくるりと背後に向き直り、髭切は誰もいないように見える木立に声をかけた。よくよく見れば、そこには薄緑色のくせ毛が覗いている。

「ちょっと、もしかして」

 つられて振り返った藤が目をじっと細めて睨む。
 暫く睨み続けると耐えかねたように薄緑のくせ毛の持ち主が、続いて彼に隠れるように二人の少年が顔を出した。
 言わずもがな、膝丸、乱、堀川である。

「ついてきたかったなら、最初から言ってくれればよかったのに」
「いやぁ、そういうわけじゃないんだけど、ねえ……」

 乱は冷や汗をだらだら流し、目線を明後日の方向に向ける。

「膝丸もだよ。お兄さんの里帰りについてきたかったの?」
「そういうわけではないのだが、もしも万一があった場合に兄者だけでは対処しきれないのではと、この二人にも言われてな」
「へえ」

 覗かれていた側の一人である髭切は先ほど笑顔を崩していなかったが、今発した一言には彼の切っ先によく似た冷たさと鋭さが宿っていた。堀川たちは、思わずゴクリと唾を飲む。

「せっかくだから、三人もゆっくり見ていくといいよ。三人で」

 妙に三人を強調されている気がするが、恐らく気のせいではないだろう。

「主と僕はもう少し先でゆっくりしてるから。この先に降りたところで茶屋があるんだよ。行こうか、主」
「いいね。茶屋ならお団子とかあるかな」

 自然に手を繋いで去っていく二人を見送り、三人は顔を見合わせる。ようやく緊張から解放されたのだと理解した瞬間、大きなため息が口から飛び出た。

「よかった~、スパスパってされなくて」
「兄者は何故お怒りになっていたのだ?」
「膝丸さんって、なんかこう……鈍感そうですね」

 首を傾げ続ける膝丸の背中を乱は軽く叩き、

「ボクたちも梅見ていこうよ。ほら、折角なんだから」

 二人を主たちとは逆方向へと、ぎゅうぎゅう押していく。

(これ以上は、本当にただの野次馬だものね)

 引くべきところは弁えておくべきである。これも主を応援する刀として大事な役なのだ、と乱は内心で胸を張った。



 髭切が言うように、彼について坂を下った先には小さな茶屋があった。 だが、彼女はすぐにそこで休まず茶屋の前に広がる梅苑の中を散策することを選んだ。花より団子だとばかり思っている彼女の初期刀の歌仙が見たら、さぞかし目を丸くしていただろう。

「髭切も花を見るのは好きなの?」
「そうだねえ……」

 藤についていきながら、髭切は何ともなしに顔を上げた。木々から伸びた枝は天を覆うように春を広げている。続いて、同じように天を見上げている藤の横顔に目を留めた。

「好き、かなぁ」
「そっか。前も鬼百合をじっと見ていたものね」

 納得したように頷きながら、彼女はそっと髭切から手を離した。
 踊るような軽い足取りで、彼女は梅の中を歩いていく。目を輝かせ、口を開けて、朗らかな笑い声を少しあげながら。
 彼女に聞こえないように、そっと彼は呟く。

「勿論、花も嫌いなわけじゃないのだけれど」

 髭切という名の彼の記憶の中で、最初の喜びと共に見た笑顔。片割れのいない日々に言い知れない空虚を抱いていた彼が、最初に見た歓喜の表情。
 きっと、あの時から自分はこの笑顔を追い続けているのだろうと思う。

「僕はそうして笑っている狭野方の花が──」

 続く言葉は、春の風がそっと攫っていった。
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