本編第二部(完結済み)
嵐のような夜が過ぎ去ってから数日後。
藤が考えていたような劇的な変化は、結局起きなかった。
彼女の考え方を、蔑ろにしているからではない。受け入れて、飲み込むための猶予の期間のみの話でもない。
たとえ藤が何を思っていたとしても、彼女の振るまいそのものは変わらない。その事実が、唯一にして絶対の理由だった。
刀剣男士たちを気遣い、できるだけ住みよい暮らしを望む姿勢は、多少背伸びをしていた所があったとは言え、藤が真に欲していたものに違いなかった。
とはいえ、全く変化がなかったといえば嘘になる。皆と話しているとき、互いの距離感を微かに意識しあって目線を交わし合っていると、藤も気が付いていた。
だが、それもやがては日常の中に紛れて消えていく。一週間もしない内に、彼女は本丸から離れる前と変わらない距離感を取り戻しつつあった。
その日、五虎退は朝の日課も済ませ、昼餉後に何をするでもなく縁側で空を眺めていた。
白団子のように重なり合っている虎の子たちを隣に置きながら、通り過ぎていく綿菓子のような雲を見つめる。そろそろ、お祭りの時期だろうかと思いを馳せていると、
「五虎退」
「あ、あるじさま」
彼に声をかけたのは、縁側を歩いていた藤だった。先だっての手入れの直後こそ、床に伏せっていたが、今はもうすっかり元気になったようだ。
「ちょっと、お願い事があるんだけど。いいかな」
「お願い、ですか?」
「うん。その……神社に、この前五虎退がくれたお守りを、返しに行きたくて」
五虎退の隣に腰を下ろし、藤は掌に載せていたハンカチの包みをそっと開く。念入りに包まれたそこには、正月に五虎退と物吉が渡したお守りがあった。
直視するのも辛いのか、彼女は縁側にお守りを置いて、目を逸らすかのように、わざと五虎退を見つめている。
「手入れをするのが大変って、お話していましたけれど……お守りも、触れないんですか?」
「なんだか、大事な宝物に汚れた手で触るみたいな気持ちになるんだ。五虎退たちのお守りを作るときも、本当は木札で作りたかったんだけど、上手くできなくて」
触れただけで、とても悪いことをしているような気持ちになるのだと、藤は語る。
彼女の言葉を受け、五虎退は寂しそうに目を伏せ、
「そう、ですか……」
「五虎退が、お守りをくれた理由は、僕の安全を祈願してのことだって分かっているよ。だから、その……落ち込まないで」
僕が悪いんだから、という言葉が口から出かかるも、藤は咄嗟に飲み込んだ。
そう言ってしまったら、余計に五虎退はへこんでしまうだろう。それに、あの時髭切に言われてしまった言葉を、彼女は覚えている。
自分を蔑ろにしてしまったら、自分はその程度の存在だと示すことになるのだ――と。
「……あるじさま」
二人の間に漂っていた世間話の延長のような空気を破り、普段の気弱な表情を抑え、少し真剣な面持ちで五虎退は藤を見つめる。
何か真面目な話をしようとしているのだと気が付き、彼女もまた主として、姿勢を改めた。
「僕は……正直、あるじさまのことを知るのが怖かったんです」
震える小さな声は、まずそのように切りだした。
「僕の知っているあるじさまじゃない、僕の知らないあるじさまに出会ってしまうことが……恐ろしかったんです。僕、何となく、あるじさまに遠ざけられているんじゃないかって、思っていた時期がありました」
小刻みに揺れる手を、もう片方の手でぎゅっと握る。それでも、少年の震えは消えない。けれども、彼は言葉を紡ぐ。
「あるじさまは、僕のことが嫌いかもしれないって考えて、でも、僕はあるじさまが好きで……あるじさまは僕が嫌いって分かってしまうのが、怖かったんです」
顕現してすぐに、笑顔で語りかけてくれたから。日々を過ごすために必要な品を、わざわざ用意して歓迎してくれたから。素直な気持ちで、五虎退は彼女を好きになってしまった。
「丁度、一年前のこのぐらいの時期に、時間遡行したときの話を……覚えていますか?」
藤は無言で頷く。風邪をひいて寝込んでいた藤を置いて、皆が遠征に出て行った頃のことだ。
そして、彼らは二人の人間に深く関わり、歴史に押し流されるさまを目の当たりにした。
「僕が時間遡行した先で会った、あるじさまと同じ名前の方が、僕の不安を聞いて、こう言ってくれたんです。『嫌いって態度に出しているうちは、まだその人のことが好きなんだ』って。だから、無視されていないなら、僕は大丈夫だって……思おうとしてました」
そんなやり取りもあったと、藤は思い返す。その後、五虎退は何か言いたいことがあるのではないかと、わざわざ一対一で尋ねてきていた。
そして、無理に言わなくてもいいと伝えてくれた。か細い少年が、主の選択を待つと言い出した勇気に、戸惑ってしまった瞬間は今も覚えている。
「あるじさまがお話しするまで、勇気を持って待とうって思いました。あるじさまにも、きっと言い出す勇気が必要だから。でも、僕は結局……全然、だめだったんです」
「五虎退は、別に悪いことなんて」
「だめだったんです!」
泣き出しそうになる瞳にぐっと力を込めて、五虎退は細い声を張り上げる。
主を見据える瞳は、きっと情けなく揺らいでいるだろうと承知していたが、ここで黙るわけにはいかなかった。
「あるじさまが、僕に悪い所はないって言ってくれたから、そこで安心しちゃったんです。あるじさまの角のことが分かって、それでも僕の知っているあるじさまと変わらなかったことに、ほっとしちゃったんです」
あの瞬間、鬼と呼ぶなと息巻いた自分の言葉は、どれほど彼女を傷つけていたかなんて、想像もしていなかった。
もちろん、一般的な常識として、鬼は悪い言葉だと思っての行動だったのだから、仕方ないとも言える。だが、仕方ないなら傷つけても知らん顔をしていい理由になるとは、五虎退には思えなかった。
「そこで、もう僕は止まってしまったんです。あるじさまが何を考えているのか、あるじさまが何に困っているのかとか、沢山のものを抱えているって何となく分かっていたのに、正面から受け止めるのが怖かったんです。閉じこもっちゃった後も、また遠ざけるような言葉を言われて、自分が傷つくのが嫌で……だから、髭切さんみたいに近寄って、声をかけることも、できなくて」
五虎退はぎゅっと唇を噛む。声に嗚咽が混じり、所々鼻を啜る音を挟みつつ、それでも彼は言う。
「あるじさまが、どれだけいっぱい悩んで、苦しんで、辛い思いで過ごしていたかってこと、全然……考えてなくて。僕は、僕が楽になることばかり、考えていたんです。だから、あるじさまは、僕のことが嫌いになっても仕方がないって」
「五虎退」
藤はそこで五虎退の言葉をやめさせた。ふわふわの柔らかな雲のような真っ白の髪を撫で、彼女は言う。
「僕は、審神者になってからずっと悩んでいたんだ。自分のことをどう話そうか、今度こそ上手くやるぞって。でも、話す踏ん切りをつけるより先に、次の刀剣男士を呼ばなきゃいけなくなった。歌仙のためにそうしてあげた方がいいって、自分から決めたんだ」
二人きりの本丸は寂しいから。戦力は必要だから。そのような理由をつけて、自分で決めて五虎退を呼んだ。
「なのに、やってきた君を見て、悩まなきゃいけない相手が二人に増えてしまったって、勝手に困ってたんだ」
藤が五虎退を見つめる目は、変わらずに優しいままだ。けれども、彼女は決して、己の優柔不断さを隠そうとはしなかった。
「いつも、僕は誰かを言い訳にしていた。あの人に言われたから、こうする。この人が悲しむだろうから、言わない。それで、上手くいかなかったら、その人たちのせいにして、自分は悪くないって卑怯な真似をしていた」
こちらを真正面に見据える、澄んだ琥珀に似た髭切の瞳を思い出して、藤は苦笑いを浮かべる。
「だから、怒られちゃったんだ。それは卑怯だよって」
「……髭切さんに、ですか」
「うん。自分を追い詰めるのに、僕はいつも他人を理由にして、内心で皆を分からず屋呼ばわりしていた。今も、ふとした拍子に、悪い癖が出てしまいそうになってるかも」
わざとらしく肩を竦める藤に、五虎退はゆっくりと首を横に振る。
「それでも、あるじさまは僕たちを好きだって言ってくれます。本当に嫌いだったなら、放っておくこともできたのに。無視をしてしまっても、よかったのに」
遠い歴史の向こうで、彼女が教えてくれた言葉が蘇る。
何も言われずに訪れる別れこそ、辛いものはない。どれだけ彼女が己を卑怯だと自戒しようと、誰かを傷つける勇気を振り絞って前に踏み出した事実を、五虎退は忘れてはいなかった。
「あるじさまは、確かに、その……僕たちを言い訳にして、一人で勝手に困ったり、怒ったり、悲しんだり、そういうことが……あったのかもしれません。だけど、それでも僕たちが好きだっていう優しいあるじさまを、僕もとっても、好きだって思います」
所々つっかえながらも、五虎退は言い切った。耐えきれずに、瞳から涙がこぼれ落ちてしまったが、彼はそれでも藤に笑いかけてみせた。
自分が見せてしまった黒い所も、そうでない所も、まとめて受け止めようとする五虎退の姿に、藤もまた泣きそうな顔で微笑みかけたのだった。
「……と、ところで、あるじさま。どうして、お守りを返そうって思ったんですか?」
お互いに暫く涙を流してから、五虎退は改めて藤に尋ねる。お守りは一年経ったら神社に還すものとは聞いていたが、一年にはまだ半年ほど猶予がある。
「実は、そのお守りに助けられたんだ。だから、少し早いけど、ありがとうってお返しした方がいいかなって思って」
「お守りが、あるじさまをお助けしたんですか?」
五虎退はお守りを手に取ってみるが、見た限りでは大きな変化はない。
「ちょっと色々行き詰まっちゃって、やけっぱちになった時、それじゃダメだよって引き止めてくれた――ってことがあって」
まさか車道にフラフラ飛び出しそうになったところを、ムカデが足にかじりついて止めてくれたとは言えない。そんなことを言ったら、五虎退は心配のあまり卒倒してしまうだろう。
「あの神社の使いって、ムカデなんだよね。僕が行き詰まったとき、時々ムカデを見かけていたんだ。だから、きっとこのお守りがあったおかげで、僕は……最悪の結果に行かずに済んだのだと思う」
車に轢かれて死んでいたかもしれない。或いは、そこまではいかずとも、誰も助けに来ない状況に勝手に絶望して、無関係の他人を傷つけてしまっていたかもしれない。
あなたのおかげで、何事もなく助かりましたという言葉を伝えたいのだと、藤は五虎退に言う。
「り、理由は、分かりました。え、と……あの、あるじさま。気を悪くさせてしまったら、申し訳ないのですが」
「どうしたの?」
「あるじさまは、神社に行くのも、もしかしたら……辛かったんじゃないでしょうか」
皆で初詣に赴いた折、藤は体調を崩していた。あのときは人混みに酔ったと言っていたが、恐らくはそれだけではあるまい。
「うん。鳥居を前にすると、気分が悪くなっちゃって。演練のときとか、夏祭りのときも、実はそうだったんだ。小さい頃は、そこまで酷くはなかったはずなんだけれど」
「……そう、なんですか?」
「多分、そうだったと思う。鳥居をくぐっても、急に気分が悪くなるってことはなかった。子供だったから、少しはお目こぼしされてたのかも」
言いつつ、藤はハンカチでお守りを包み直し、五虎退の手に載せる。
「だから、僕は中まで入れないんだ。それに、向こうだって穢れた者が入ってくるなんて嫌がるかもしれない」
「そんなこと……!」
「そんなわけで、申し訳ないんだけど、これは五虎退から返してもらえるかな。できれば、お礼も伝えてほしい」
「わ、わかりました」
こくこくと頷きながらも、五虎退は思う。
助けてくれたのなら、その神様は、きっと主のことが好きなのではないか、と。
藤が考えていたような劇的な変化は、結局起きなかった。
彼女の考え方を、蔑ろにしているからではない。受け入れて、飲み込むための猶予の期間のみの話でもない。
たとえ藤が何を思っていたとしても、彼女の振るまいそのものは変わらない。その事実が、唯一にして絶対の理由だった。
刀剣男士たちを気遣い、できるだけ住みよい暮らしを望む姿勢は、多少背伸びをしていた所があったとは言え、藤が真に欲していたものに違いなかった。
とはいえ、全く変化がなかったといえば嘘になる。皆と話しているとき、互いの距離感を微かに意識しあって目線を交わし合っていると、藤も気が付いていた。
だが、それもやがては日常の中に紛れて消えていく。一週間もしない内に、彼女は本丸から離れる前と変わらない距離感を取り戻しつつあった。
その日、五虎退は朝の日課も済ませ、昼餉後に何をするでもなく縁側で空を眺めていた。
白団子のように重なり合っている虎の子たちを隣に置きながら、通り過ぎていく綿菓子のような雲を見つめる。そろそろ、お祭りの時期だろうかと思いを馳せていると、
「五虎退」
「あ、あるじさま」
彼に声をかけたのは、縁側を歩いていた藤だった。先だっての手入れの直後こそ、床に伏せっていたが、今はもうすっかり元気になったようだ。
「ちょっと、お願い事があるんだけど。いいかな」
「お願い、ですか?」
「うん。その……神社に、この前五虎退がくれたお守りを、返しに行きたくて」
五虎退の隣に腰を下ろし、藤は掌に載せていたハンカチの包みをそっと開く。念入りに包まれたそこには、正月に五虎退と物吉が渡したお守りがあった。
直視するのも辛いのか、彼女は縁側にお守りを置いて、目を逸らすかのように、わざと五虎退を見つめている。
「手入れをするのが大変って、お話していましたけれど……お守りも、触れないんですか?」
「なんだか、大事な宝物に汚れた手で触るみたいな気持ちになるんだ。五虎退たちのお守りを作るときも、本当は木札で作りたかったんだけど、上手くできなくて」
触れただけで、とても悪いことをしているような気持ちになるのだと、藤は語る。
彼女の言葉を受け、五虎退は寂しそうに目を伏せ、
「そう、ですか……」
「五虎退が、お守りをくれた理由は、僕の安全を祈願してのことだって分かっているよ。だから、その……落ち込まないで」
僕が悪いんだから、という言葉が口から出かかるも、藤は咄嗟に飲み込んだ。
そう言ってしまったら、余計に五虎退はへこんでしまうだろう。それに、あの時髭切に言われてしまった言葉を、彼女は覚えている。
自分を蔑ろにしてしまったら、自分はその程度の存在だと示すことになるのだ――と。
「……あるじさま」
二人の間に漂っていた世間話の延長のような空気を破り、普段の気弱な表情を抑え、少し真剣な面持ちで五虎退は藤を見つめる。
何か真面目な話をしようとしているのだと気が付き、彼女もまた主として、姿勢を改めた。
「僕は……正直、あるじさまのことを知るのが怖かったんです」
震える小さな声は、まずそのように切りだした。
「僕の知っているあるじさまじゃない、僕の知らないあるじさまに出会ってしまうことが……恐ろしかったんです。僕、何となく、あるじさまに遠ざけられているんじゃないかって、思っていた時期がありました」
小刻みに揺れる手を、もう片方の手でぎゅっと握る。それでも、少年の震えは消えない。けれども、彼は言葉を紡ぐ。
「あるじさまは、僕のことが嫌いかもしれないって考えて、でも、僕はあるじさまが好きで……あるじさまは僕が嫌いって分かってしまうのが、怖かったんです」
顕現してすぐに、笑顔で語りかけてくれたから。日々を過ごすために必要な品を、わざわざ用意して歓迎してくれたから。素直な気持ちで、五虎退は彼女を好きになってしまった。
「丁度、一年前のこのぐらいの時期に、時間遡行したときの話を……覚えていますか?」
藤は無言で頷く。風邪をひいて寝込んでいた藤を置いて、皆が遠征に出て行った頃のことだ。
そして、彼らは二人の人間に深く関わり、歴史に押し流されるさまを目の当たりにした。
「僕が時間遡行した先で会った、あるじさまと同じ名前の方が、僕の不安を聞いて、こう言ってくれたんです。『嫌いって態度に出しているうちは、まだその人のことが好きなんだ』って。だから、無視されていないなら、僕は大丈夫だって……思おうとしてました」
そんなやり取りもあったと、藤は思い返す。その後、五虎退は何か言いたいことがあるのではないかと、わざわざ一対一で尋ねてきていた。
そして、無理に言わなくてもいいと伝えてくれた。か細い少年が、主の選択を待つと言い出した勇気に、戸惑ってしまった瞬間は今も覚えている。
「あるじさまがお話しするまで、勇気を持って待とうって思いました。あるじさまにも、きっと言い出す勇気が必要だから。でも、僕は結局……全然、だめだったんです」
「五虎退は、別に悪いことなんて」
「だめだったんです!」
泣き出しそうになる瞳にぐっと力を込めて、五虎退は細い声を張り上げる。
主を見据える瞳は、きっと情けなく揺らいでいるだろうと承知していたが、ここで黙るわけにはいかなかった。
「あるじさまが、僕に悪い所はないって言ってくれたから、そこで安心しちゃったんです。あるじさまの角のことが分かって、それでも僕の知っているあるじさまと変わらなかったことに、ほっとしちゃったんです」
あの瞬間、鬼と呼ぶなと息巻いた自分の言葉は、どれほど彼女を傷つけていたかなんて、想像もしていなかった。
もちろん、一般的な常識として、鬼は悪い言葉だと思っての行動だったのだから、仕方ないとも言える。だが、仕方ないなら傷つけても知らん顔をしていい理由になるとは、五虎退には思えなかった。
「そこで、もう僕は止まってしまったんです。あるじさまが何を考えているのか、あるじさまが何に困っているのかとか、沢山のものを抱えているって何となく分かっていたのに、正面から受け止めるのが怖かったんです。閉じこもっちゃった後も、また遠ざけるような言葉を言われて、自分が傷つくのが嫌で……だから、髭切さんみたいに近寄って、声をかけることも、できなくて」
五虎退はぎゅっと唇を噛む。声に嗚咽が混じり、所々鼻を啜る音を挟みつつ、それでも彼は言う。
「あるじさまが、どれだけいっぱい悩んで、苦しんで、辛い思いで過ごしていたかってこと、全然……考えてなくて。僕は、僕が楽になることばかり、考えていたんです。だから、あるじさまは、僕のことが嫌いになっても仕方がないって」
「五虎退」
藤はそこで五虎退の言葉をやめさせた。ふわふわの柔らかな雲のような真っ白の髪を撫で、彼女は言う。
「僕は、審神者になってからずっと悩んでいたんだ。自分のことをどう話そうか、今度こそ上手くやるぞって。でも、話す踏ん切りをつけるより先に、次の刀剣男士を呼ばなきゃいけなくなった。歌仙のためにそうしてあげた方がいいって、自分から決めたんだ」
二人きりの本丸は寂しいから。戦力は必要だから。そのような理由をつけて、自分で決めて五虎退を呼んだ。
「なのに、やってきた君を見て、悩まなきゃいけない相手が二人に増えてしまったって、勝手に困ってたんだ」
藤が五虎退を見つめる目は、変わらずに優しいままだ。けれども、彼女は決して、己の優柔不断さを隠そうとはしなかった。
「いつも、僕は誰かを言い訳にしていた。あの人に言われたから、こうする。この人が悲しむだろうから、言わない。それで、上手くいかなかったら、その人たちのせいにして、自分は悪くないって卑怯な真似をしていた」
こちらを真正面に見据える、澄んだ琥珀に似た髭切の瞳を思い出して、藤は苦笑いを浮かべる。
「だから、怒られちゃったんだ。それは卑怯だよって」
「……髭切さんに、ですか」
「うん。自分を追い詰めるのに、僕はいつも他人を理由にして、内心で皆を分からず屋呼ばわりしていた。今も、ふとした拍子に、悪い癖が出てしまいそうになってるかも」
わざとらしく肩を竦める藤に、五虎退はゆっくりと首を横に振る。
「それでも、あるじさまは僕たちを好きだって言ってくれます。本当に嫌いだったなら、放っておくこともできたのに。無視をしてしまっても、よかったのに」
遠い歴史の向こうで、彼女が教えてくれた言葉が蘇る。
何も言われずに訪れる別れこそ、辛いものはない。どれだけ彼女が己を卑怯だと自戒しようと、誰かを傷つける勇気を振り絞って前に踏み出した事実を、五虎退は忘れてはいなかった。
「あるじさまは、確かに、その……僕たちを言い訳にして、一人で勝手に困ったり、怒ったり、悲しんだり、そういうことが……あったのかもしれません。だけど、それでも僕たちが好きだっていう優しいあるじさまを、僕もとっても、好きだって思います」
所々つっかえながらも、五虎退は言い切った。耐えきれずに、瞳から涙がこぼれ落ちてしまったが、彼はそれでも藤に笑いかけてみせた。
自分が見せてしまった黒い所も、そうでない所も、まとめて受け止めようとする五虎退の姿に、藤もまた泣きそうな顔で微笑みかけたのだった。
「……と、ところで、あるじさま。どうして、お守りを返そうって思ったんですか?」
お互いに暫く涙を流してから、五虎退は改めて藤に尋ねる。お守りは一年経ったら神社に還すものとは聞いていたが、一年にはまだ半年ほど猶予がある。
「実は、そのお守りに助けられたんだ。だから、少し早いけど、ありがとうってお返しした方がいいかなって思って」
「お守りが、あるじさまをお助けしたんですか?」
五虎退はお守りを手に取ってみるが、見た限りでは大きな変化はない。
「ちょっと色々行き詰まっちゃって、やけっぱちになった時、それじゃダメだよって引き止めてくれた――ってことがあって」
まさか車道にフラフラ飛び出しそうになったところを、ムカデが足にかじりついて止めてくれたとは言えない。そんなことを言ったら、五虎退は心配のあまり卒倒してしまうだろう。
「あの神社の使いって、ムカデなんだよね。僕が行き詰まったとき、時々ムカデを見かけていたんだ。だから、きっとこのお守りがあったおかげで、僕は……最悪の結果に行かずに済んだのだと思う」
車に轢かれて死んでいたかもしれない。或いは、そこまではいかずとも、誰も助けに来ない状況に勝手に絶望して、無関係の他人を傷つけてしまっていたかもしれない。
あなたのおかげで、何事もなく助かりましたという言葉を伝えたいのだと、藤は五虎退に言う。
「り、理由は、分かりました。え、と……あの、あるじさま。気を悪くさせてしまったら、申し訳ないのですが」
「どうしたの?」
「あるじさまは、神社に行くのも、もしかしたら……辛かったんじゃないでしょうか」
皆で初詣に赴いた折、藤は体調を崩していた。あのときは人混みに酔ったと言っていたが、恐らくはそれだけではあるまい。
「うん。鳥居を前にすると、気分が悪くなっちゃって。演練のときとか、夏祭りのときも、実はそうだったんだ。小さい頃は、そこまで酷くはなかったはずなんだけれど」
「……そう、なんですか?」
「多分、そうだったと思う。鳥居をくぐっても、急に気分が悪くなるってことはなかった。子供だったから、少しはお目こぼしされてたのかも」
言いつつ、藤はハンカチでお守りを包み直し、五虎退の手に載せる。
「だから、僕は中まで入れないんだ。それに、向こうだって穢れた者が入ってくるなんて嫌がるかもしれない」
「そんなこと……!」
「そんなわけで、申し訳ないんだけど、これは五虎退から返してもらえるかな。できれば、お礼も伝えてほしい」
「わ、わかりました」
こくこくと頷きながらも、五虎退は思う。
助けてくれたのなら、その神様は、きっと主のことが好きなのではないか、と。