本編第二部(完結済み)
藤の前に残った、六人の刀剣男士。
閉じこもる直前に、人食いをしていた人間の姿に対して気持ち悪いと感想を述べた乱藤四郎。
人と神の境目を、より鮮烈に主に示した次郎太刀。
鬼は斬るべしと、出会った直後に斬りかかった髭切。
人間として受け入れられた鬼の環境を幸せなものと告げ、その幸運が続くことを祈った物吉貞宗。
主は鬼ではないと髭切に言い放ち、鬼の姿をした敵を怖いと語った五虎退。
そして、誰よりも主を案じていたと同時に、鬼であるという事実を否定し続けた歌仙兼定。
人の姿をした六人のうち、最初に口を開いたのはやはりと言うべきか、歌仙だった。
「僕は、確かにきみを傷つけていたんだね。そして、その理由は僕がきみを人間として扱ったことだ、と」
「――うん」
藤は肯定する。もう、違うとは言えない。
一度刺してしまった言葉の刃は無かったことには出来ない。髭切にも同様の告白は既に済ましていたが、今の状況とあの時では重みが異なる。
髭切は、もとより彼女を積極的に人間扱いはしていなかった。だが、歌仙は明確な善意を以て、彼女の境遇に気遣い、助けようとした結果、選択を誤り続けていたのだから。
「でも歌仙は、僕のことを思って、言ってくれたんだって知っている」
「けれど、きみにとっては、間違いだったんだろう」
咳き込むような勢いで挟まれた歌仙の言葉に、藤は一瞬口を噤む。怒鳴ったわけではないにしろ、性急さがありありと滲み出た語調は、彼の動揺をはっきりと藤に伝えていた。
暗く濁った川の流れが渦を巻き、全ての言葉を絡め取っていってしまったかのような気まずさが二人の間に生まれる。
「……間違いだったとしても、歌仙の優しさは本物だって、少なくとも僕は優しくしてくれたって感じている」
どろどろの空気の中、藤は貝のように閉ざしかけた唇を強引にこじ開け、自分の内に眠る言葉を吐き出していく。
「だから、僕がもっと早く言えば良かった。君の優しさを、もっと良い形で……僕も皆も笑顔になるような形で、受け止められたはずなのに」
今となっては、後悔ばかりが募っていく。出会った直後に打ち明けていればと、過去をやり直したい気持ちにもなった。
だが、過去は変えてはならないと彼女は知っている。倫理や道徳だけではなく、審神者という立場からも嫌というほど承知している。
「僕はずっと、君達の思いを台無しにしていたんだ。ごめんなさい」
謝罪ばかりをするつもりではなかったのに、己の心中を吐露することに慣れていない鬼は、ただ謝るための言葉を紡ぐことしかできなかった。
「人を食べたことがあるって話も、今まで黙っていて……黙りすぎて、あんな風に感情だけ爆発させちゃって、困らせただけだよね。これまで皆を騙して……ごめん、なさい。ちゃんとした主なんかじゃなくて、ごめんなさい」
喉がひきつけを起こしたように震え、声は嗚咽に揺れていた。泣くなどと、いったい何様のつもりだと己を叱咤しても、溢れかえった感情の整理がまるでできず、溢れた想いは涙になってしまう。
これから何を言われるか分からないという恐怖。同時に、たとえ受け入れてもらったとしても、彼らを傷つけたことには変わらないという現実は、どう足掻いても消えはしないだろう。
「……あるじさまは、僕たちを、騙したかったのですか? 僕たちを、最初から、困らせたかったんですか?」
藤に問いかけたのは、五虎退だった。彼の声は常よりもずっと細く、まるでフッと吹いたら飛んでいってしまいそうなほど、小さいものだった。彼の問いに、藤はゆっくりと首を横に振る。
「じゃ、じゃあ……どうして、あるじさまが、謝るんでしょうか」
彼女の謝罪の根幹を覆す問いに、藤は顔を上げる。涙で滲んだ視界には、虎の子の黄金に輝く瞳があった。
「あるじさまは……嫌だって思っていても、僕たちに話したら、僕たちが困っちゃうと悩んで……黙っていたんですよね。僕は、それは凄く……優しいことだと、思います」
「優しくなんか、ない。僕は、君達が親切からやってくれたことに泥をかけたんだよ。……それだけじゃない。分かりっこないって、最初から諦めて、君達を悪者にしていた。皆に嘘をついて、誤魔化してたんだ」
「それは……僕も、そのお話を聞いて、すっごく、悲しい気持ちになりました。でも、あるじさまのしていたことは……全部、嘘だったんですか?」
反射的に、藤は首を横に振る。
歌仙と軽口を叩き、五虎退とかくれんぼをして、物吉と絶景の下でおにぎりを食べた。髭切と秋の山を歩き、次郎の踊りに歌を添え、乱と共に出かけた。それらの何もかもを嘘にできるほど、藤は器用ではない。
「それなら、僕は悲しいだけじゃないです。僕は、いっぱい、いっぱい……あるじさまから、優しい気持ちを、貰ってきたんです」
泣かないように精一杯絞り出していた五虎退の声も、やがて耐えかねたように揺れ、あわせて彼の瞳からもぽろりと透明な雫が零れ落ちた。
「なのに、僕は、全然気がつけなくて……気がつくことを怖がって、ごめんなさい。あるじさまの気持ちから逃げて、勝手に僕にとって都合のいいあるじさまを望んでしまって、ごめんなさい」
白い頬は涙と共に朱色に染まり、少年の顔はぐしゃりと歪む。
堰を切ったように涙をこぼす五虎退の顔を目にして、自分は間違いなく彼の心に傷を刻んだのだと、藤はより強く自覚する。この痛みは、自分が黙り続けた代償だ。だから藤は唇を噛み、つられて泣きそうな己を必死に殺した。
「あの……さ、あるじさん」
続けて口を開いたのは、乱藤四郎だった。澄んだ青空を思わせる瞳は嘗ての輝きこそ失っていたが、未だに人が至れぬ清冽さを湛えている。
「あるじさんは、ボクが『気持ち悪い』って言っちゃったから……閉じこもっちゃったの?」
彼女が離れに籠もるようになってから、最後に話した自分の言葉に何かまずい部分があったのではないかと、乱はずっと考えていた。そして今、乱は自分が口にした言葉の中で、もっとも彼女を傷つけたものが何か分かってしまった。
「それだけじゃないんだけど、でも……多分、引き金みたいなもの……だったんだと思う」
「――そっか」
あの日まで、藤は多くの自分を捨てて過ごしていた。だから、乱の言葉はただの契機だ。崩れかけていた積み木の山を、ちょんとつついた最後の一手に過ぎない。
けれども、その一手はやはり、致命的な一手ではあった。
「ごめんね。これは、あるじさんを傷つけたいわけじゃないんだけど……でも、やっぱりボクは気持ち悪いって感じてしまう。だけど、それはボクがしたくないってだけで、あるじさんや、同じことをしてきた人、しなきゃいけなかった人、したくて選んだ人、そういう色んな人の何もかもを、否定したいわけじゃないんだ。……まだ、うまく、説明はできないんだけれど」
自分が何を感じるかと、他人が感じるあり方の肯定は、似ているようで何かが違う。乱はそのことについて語りたかったが、自分でも整理がついていない言葉は中途半端な形で途切れてしまった。
「ボクはあるじさんを傷つけるつもりもなかった。でも、実際傷つけちゃったのも事実だよね。だから、謝る。ごめんなさい!」
ぺこっと頭を勢いよく下げると同時に、きらきらした金髪がふわりと広がった。その輝きの余韻が全て消えるほどの時間を置いてから、乱はがばりと顔を上げ、
「それで、あるじさん!」
急に彼は声を大きくて、藤の顔をぱんっと両手で挟んだ。
「どうして、さっきからあるじさんは謝ってばかりなのかな! なんで、自分のことは脇に追いやって我慢しようみたいな態度をとるのかな!」
「え、いや……でも、それは僕が主で、僕が、君達に頼みづらいことを頼む立場だから」
「ごちゃごちゃうるさい!」
「ええっ……」
訊かれたから答えたのに理不尽な、と藤が狼狽えているのを余所に、乱は顔を真っ赤にして声を張り上げる。
「主なんだから、ふんぞり返ればいいじゃん! 自分が正しいんだぞって、偉ぶっていればいいじゃん!!」
「そんなことは、流石にちょっと」
「何でそうなるの! ボクね、すっごくあるじさんに怒ってるの!! いきなりいなくなったと思ったら、唐突に戻ってきて、そのくせ何だかよくわからない怖い笑い方ばかりしていて!! なのに、本当は苦しいの我慢してたとか、何なんだよ、もう!!」
「何なんだよって言われても」
「あるじさん、好きな物は見つかったの!?」
話の転換する速度に追いつけず、藤は目線を左右に彷徨わせつつ、ゆっくりと首を横に振る。すると、乱は益々顔を近づけ、
「絶対、ボクが見つけてやるんだから! あるじさんと、一緒に見つけてやるんだから!! だから、だから……もう、勝手にいなくなったり、しないでよ……っ!」
感情の整理がつかないのか、叫んでいる途中で乱の瞳に涙が溜まり、ぼろぼろと空色から雨が落ちていった。
藤が慌てふためき、どうしたものかとおろおろとしていると、ずるりという衣擦れの音が二人の間に響く。それは、次郎が取り乱す子供たちに近づいた音だった。
ゆっくりと乱の背を撫でる彼に倣い、藤もおそるおそる乱の背中に手を添える。
「やれやれ、乱は泣き虫だねえ。それに主、アンタも泣き虫だ。泣いた赤鬼って物語があるけど、アンタも似たような感じさね」
「……次郎は、もしかして、僕が鬼だってことに気が付いていたの?」
「たまたま聞いちまったからね。ただ、鬼でいたいと思ってるとは流石に想像もつかなかったさ。あと、人を食ったとかどうとか」
次郎は肩を竦め、何てことのないように藤に言葉をかける。
「……やっぱり、軽蔑する?」
「どうして、そこがやっぱりなのかは分からないけどさ。アンタは、それが美味しいって感じたとしても、誰かを傷つけたいわけじゃないと言ってたじゃないか。それが主の選択なんだろう?」
相変わらずのからっとした物言いで、次郎は今までと変わりなくニッと口元に笑みを引いてみせた。
「でも、僕は、それはきっと、すごく悪いことだって分かってる。なのに、否定してほしくないって、何だかちぐはぐなんじゃないかって……」
「誰だって、自分の趣味を頭からダメ出しされたくはないよ。それと一緒さ。アンタにとって悪いことだと感じて、ずっと背負っていきたいって考えているなら、それはそれでいいんじゃないかい?」
次郎は乱の背を撫でている手とは逆の手で、藤の頭にぽんと大きな手を置く。大太刀をふるう彼の手は少しごつごつしていて、同時に大きくて、藤は反射的にまた涙をこぼしそうになっていた。
「背負うって決めたんなら、それはアンタの責任だからね。アタシや他の連中が、良し悪しを決めるもんじゃないさ。アンタが申し訳ないって思うなら、その気持ちをアンタが望んで持てばいい」
「……うん」
「ただ、考えすぎて笑えなくなっちまったんなら、アンタの話ぐらいは聞いてやるよ。その時は、上等な酒とつまみがあるといいね」
いつもの次郎らしい発言に、藤はつられてふにゃりと口元を緩める。こうやって、彼は沈みがちな周りの空気を、ゆっくりと引っ張り上げてくれる。その温かさに感謝しながら、藤は言葉を噛み締めるように頷いた。
いつまでも涙が止まらない五虎退と乱を抱えるようにして次郎は後ろに下がり、代わりに藤の前に歩み寄り腰を下ろしたのは物吉貞宗だ。いつもは太陽のような笑顔を浮かべる顔も、今日ばかりは曇っている。
「ボクは、まだ……何てお話ししたらいいのか、よく分かりません。ただ、ボクは主様に幸運を……幸せを、運べていなかったんですね。なのに、それを勝手に幸せって、幸運なものだって、決めつけていた」
物吉貞宗に刻まれていた逸話を補強するかのように、物吉はいつでも幸せを探し、主に幸運をもたらそうとした。けれども、この一年で彼が築き上げてきた願いや想いは、藤の告白により粉々に砕かれてしまった。
「主様は、ボクに言いました。『幸運は、自分が運んだなんて言えるものじゃない。だって、当人しか幸せか不幸かなんてわからないから』と。――その通り、でしたね」
藤は答えない。だが、答えないことが、既に一つの回答となっている。
「主様は、こうも言ってくれました。ボクが幸せそうにしていたら、周りの人たちの心も温かくなるって。そうして、皆に幸せだって感じてもらって、そんな日々を幸せだって気付いてもらえる――それが、幸せを運ぶってことなんだって」
物吉は、ほんの少しつついたら壊れてしまいそうな笑顔で、藤に笑いかける。
「ねえ、主様。ボクの笑顔で、主様は、幸せになれていましたか?」
藤は、すぐには返事ができなかった。
幸せになれていたときもあった。なれていなかったときもあった。結局のところ、彼が幸せを望んで浮かべた笑顔の半分は、藤を幸運に縛り付けようとする呪縛にしかならなかった。たとえ、もう半分で、確かに彼女の心に光を灯せたとしても、それでは物吉貞宗は満足できない。
今までの藤なら、間違いなく笑顔を取り繕って誤魔化した。だが、彼女の仮面はもう、剥がれてしまった。
「……ごめんね。ちゃんと、君の望むような幸せになれなくて。物吉の笑顔は……温かくて、大好きだけど、でも同じくらい、苦しい時もあったんだ」
「そう……だったんですね。ボクは、主様に幸運を運ぶ刀には、なれていなかったんですね」
「それをいうなら僕だって、皆が望むような、ちゃんとした審神者には到底なれていなかったよ」
「主様」
労るように言葉をかけた物吉は、しかしそこで留まらず、俯く彼女の顔を覗き込み、
「主様の言う『ちゃんとした審神者』は、ご自分の伝えたいことを間違っていると押し殺して、黙っているような人を指すのですか」
普段の彼らしくない厳しい語調に、思わず藤は口ごもる。彼女の動揺に気付いてもなお、物吉は言葉を続けた。
「主様は、『自分の役目を決めつけるのは苦しいだけ』と言ってくれました。それなら主様も、自分の役目を決めつけて苦しめるような真似はしないでほしいです」
藤の両肩に手を置き、物吉は澄んだ琥珀色の瞳を細める。その瞳にはほんのりと涙が溜まっていたが、彼は雫を零すよりも先に口を動かした。
「主様の言葉のおかげで、ボクは幸せを運ぶのではなくて、そこにあるものを幸せだと気がついてもらえるように、頑張りたいって思いました。だから、主様も審神者の役割に縛られて悲しい気持ちになるぐらいなら、そんな役割は放り投げちゃいましょう」
「放り投げちゃうって」
「代わりに、主様は主様のやり方でボク達と仲良くしてくれると、ボクはすごく嬉しいです」
そこまでが、物吉の限界だった。耐えかねたように、彼の涙の堤防は崩壊し、ぽろぽろと透明な雫が流れ落ちていく。悲しいから泣いているのか、自分の不甲斐なさが悔しいから泣いているのか、最早泣いている物吉本人にもよく分からなくなっていた。
「まだ、主様の幸せについて……ボクはよくわからないんです。だから、もう少しだけ考えさせてください」
すみません、と物吉は俯く。すすり泣く五虎退や乱と違い、声こそあげていなかったものの、その小さな背中は彼らと同じくらい痛ましいものにも見えた。
何と声をかければよいか分からず、藤もまた、呼吸以外の全ての動作を忘れたかのように項垂れていた。自分が傷つけた者の大きさを知ってなお、後悔を感じてはなるものかと思っていた。だが、そんな自分が浅ましく傲慢な者ではないかと罵る声が、他ならぬ身の内から湧き上がっていく。
前言撤回もできず、かと言って時間を巻き戻すこともできず、居丈高に胸を張るような態度もとれず、藤は嵐のように渦巻く感情に弄ばれ続け、その末に沈黙を選んでいた。
沈黙に次ぐ沈黙が重なり合った後、不意に次郎が、
「さあさ、しんみりしていても何が変わるもんでもなし。ちびっこ達は湯浴みがまだだっただろう。次郎さんと一緒に、ひとっ風呂としゃれ込もうじゃないか」
ひょいと立ち上がり、すすり泣いている乱と五虎退、物吉の肩をそれぞれぽんぽん、と小気味よく叩いていく。湿っぽい空気をなぎ払うために、わざと彼が話題を切り替えたのは言うまでもない。
三人の少年はそれぞれ、何やらまだ釈然としない気持ちを抱いているようではあったが、次郎に促されて部屋を出て行った。彼らの後に続いて部屋を出ようとした次郎は、
「主、アタシたちにも、ちょっとばかし時間をくれやしないかい。アンタがずーっと抱え続けてきたものを、ゆっくり見つめなおす時間ってやつをさ」
「……うん。もし、君達が納得できなかったとしても、隠さないで言ってくれればいいから」
「そういう嫌な『もし』は、その時が来るまでは口にするもんじゃないよ」
次郎は優しく藤に微笑みかけ、ぱちんと片目を閉じてみせてから障子を閉ざした。どんどん、という重い足音が遠ざかり、再び部屋に静寂が下りる。
藤と、歌仙と、髭切。その三人のために、四人が席を立ったのだろうとは、この場にいる全員が重々承知していた。
「――主、きみが今日この話をしようと決意したのは、髭切が促したからかい」
口火を切った歌仙は、いの一番にこの場を設けた理由を尋ねる。
髭切は主が語っている間、ほぼ全くと言っていいほど驚きを見せていなかった。鬼を斬った刀である彼が、鬼であることを認めてくれなどという言葉を聞いて、聞き流すなどできるわけがない。歌仙はそう考えたために、逆説的に髭切はこの件について知っていたと予測した。
そして、今まで頑なに閉ざしていた口をこじ開けたのが彼ならば、話す場を作ろうという案も彼から出たのだろうと推測したのだ。
しかし、
「別に、僕が主に話せって言ったわけじゃないよ。僕は主が自分で自分の首を絞めるようなことをしているのが嫌で、主を怒って彼女の考えを聞き出しただけ。その後にどうするかは、主一人で決めた」
「――うん。僕が、決めた」
それだけは他人に責任を押しつけてはならないと、藤はきっぱりと告げる。
彼女の言葉を聞いて、歌仙は暫くじっと藤を見つめていたが、やがて長く長くため息をついた。
「きみを一番大事に思い、見守ってきたのは僕のつもりだった。きみは、きっと鬼として人間の世界から虐げられてきたのだろうと思った。だから、その分、人間としてきみを受け入れれば、きみにとって安らぎになるだろうと考えていた」
それが、歌仙の知っている常識で導き出した答えだった。周りと異なる部分を持っているのなら、その異物を見なかったことにして受け入れてしまうのが、歌仙にとっては良いことのように思えていたのだから。
「――でも、全て僕の見当違いだったんだね」
藤は、無言で頷く。
「僕がこうして、善意の空回りをしてしまったのは二度目だよ。髭切のとき、そして今度は主」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくれ。知らなかったとはいえ、きみを傷つけたのは事実だ」
「でも」
藤が思わず身を乗り出すが、近づいたことで歌仙の瞳が悲痛な色を湛えていると気がつけただけだった。
「でも、歌仙は……僕を、傷つけようなんて思っていなかったんだから、悪いのは、やっぱり僕の方、で」
そこまで言いかけて、藤は口を噤まなくてはいけなかった。なぜなら、横から髭切が彼女の頬に手を伸ばし、ぐいっと勢いよくつまんだからだ。
「主、君は自分の気持ちをまた蔑ろにしているよ」
「その通りだよ、主。きみにとって、鬼であることは、どうしても言わなければいけなかったほどに大事な事柄なのだろう。だから、それを自ら『悪いこと』であるかのように語るのは、やめた方がいい」
いくら歌仙に落ち度がなかったと言えど、それは藤の気持ちが間違っていることの肯定にはならない。
そう思い込もうとしたせいで、今まで彼女は自分を追い詰めてしまっていたのだから、同じ轍を髭切が踏ませるわけがなく、また歌仙も理解した以上は彼女の自己否定を見過ごしはしなかった。
「きみがそんな考えを持っているなんて、確かに想像もしなかった。理解も――到底、今すぐできるとは思えない」
「……ごめんなさい」
「きみに謝られると、僕の気持ちの行き場がなくなってしまうんだ。だから、謝罪はよしてくれ」
泣きすぎたせいで真っ赤になっている彼女の頬に、歌仙はゆっくり触れる。先ほどの髭切のように無理に伸ばすのではなく、優しく包み込むように、彼女の熱を持った肌を歌仙の少し冷えた大きな手が撫でていく。
「ただ、理解には時間はかかるかもしれないが、きみの必死な心を認めて受け入れたいと僕も思う。それが、僕の心ができる唯一のことだ」
そして、その心すらも、目の前の主がくれたのだと歌仙は内心で呟く。
(心とは何と厄介なものなのだろうね。なのに、これがあるおかげで僕は、きみを愛しているのだと思えるんだ)
ただ、歌仙兼定は臆病さを捨てられなかった。主との関係に、取り返しのつかないほど罅を入れる可能性を踏まえたうえで、彼女に歩み寄る勇気が足りなかった。
そして、その勇気を持った者だけが、彼女の心の声を最初に聞く権利を得たのだ。
「良かったね、主。歌仙は君の声を、ちゃんと聞いてくれているよ」
その権利を得た勝者とも言える者は、飄々としたいつも通りの声音で藤に語りかける。彼の声に反応して、藤の顔からも幾ばくかの緊張が抜け落ちた。
「歌仙は、主をいつも気に掛けていたものね。やっぱり、最初に選ばれた刀だからかな」
けれども、彼にとってただの事実確認で告げたはずの言葉は、思いがけない形で歌仙の神経を逆なでする。
「……最初に選ばれていても、結局僕は何もできなかった」
「そんなことはないと、僕は思うけどなあ」
「それをきみが言うのか、髭切。きみの方がよほど、主の信頼を勝ち得ていたんだろう。見当違いの気遣いをしていた僕らよりも、ずっときみは主のためを考えて行動していた。さぞかし、僕の振る舞いは滑稽に見えただろうね」
一瞬、歌仙の口から髭切に向かって棘が含まれた言葉が飛び出る。いつぞやの夜の延長線のように、歌仙の胸中には隠しきれない妬みや羨望が泡のように次から次へと浮かび上がっていた。
「歌仙……?」
「あ、いや、僕は……ただ、髭切の方が、僕よりも思慮深かったのだろうと――そう、思って」
藤が驚きを見せながら歌仙に尋ね、咄嗟に歌仙も取り繕うような言葉を並べてみるが、一度出した言葉が消えるわけでもない。実際、彼の口にした言葉は嘘偽りの無い本音の一部でもあった。
それらの棘を受け、髭切も少しばかり笑みを緩め、代わりに何かを懐かしむように目を細める。
「それは、単純に縁のあるなしの問題だよ。たまたま、主と僕の間に少々変わった縁があって、たまたま僕が細かいことを気にしない性格で、それともう一つ」
不意に髭切は藤に顔を近づけ、じいっとその顔を見つめる。まるで、彼女の顔から何かを得ようとしているかのように。
「たまたま、僕が主の笑顔を凄く気に入ってしまった、というだけ。ねえ、主。これでもう、あの花畑のときみたいに笑えるかな?」
いきなり想像もしていなかったことを問われ、藤は目を丸くしてきょとんとした顔になる。対照的に髭切は不服そうに、ずいずいと彼女に顔を近づける。
「ねえ、主。笑ってほしいな。ああいう嫌な感じの笑い方じゃなくて、もっと楽しそうに。僕はずっとそれが見たくて、今まで考え続けてきたんだから」
「いや、そんな……突然言われても」
髭切が随分と親身になってくれていると藤も思っていたが、どうやら彼が行動し続けた理由の一つに笑顔という要素があったらしい。そこまで特別なやり取りをしたつもりではなかった藤は、前のめりに迫られて、たじたじになっていた。
「あれ、どうして逃げるんだい」
「髭切、よさないか。主が困っている」
「えっと……君が僕に笑ってほしいって思っていることは、分かったから。すぐには、上手く笑えないかもだけど、多分もう、大丈夫」
本当かなと言わんばかりに、髭切は藤をじーっと見つめていた。しかし、視線から逃れるように藤に目を逸らされて、これ以上は迫っても仕方なしと判断したのだろう。髭切も、先に去った者たちのように、座布団から腰を上げ、
「それなら、また今度にしようかな。主、じゃあね。また明日」
ひらひらと藤に手を振って、髭切も部屋を後にする。
また明日。彼は、そう言った。
(そうか。明日が――あるんだ)
当たり前ではあったが、改めて今日から更に続く日があることを藤は自覚する。
全て話したところで、そこでこの本丸の生活が終わるわけでもない。日々は続き、彼らはまた共にある。その事実は変わらないのだ。
「ねえ、歌仙」
唯一、藤の傍らに残り続けている歌仙に、彼女は声をかける。彼は、まだ鉛をまるごと飲み込んだかのような顔をしていた。
「その、受け入れられないとか、側にいたくないとか、許せないとか、僕が嫌いだとか、そういう気持ちがあるなら、言ってくれればいいから。別の本丸に行きたいって言うなら、僕が最後までちゃんと責任を持って対応するし」
藤の言葉を聞いて、歌仙はぐるりと振り返る。彼の双眸は今まで見たこともないぐらい、強くぎらぎらと輝いていた。爛々と光る翡翠の瞳を目にして、藤が驚くより先に、
「何できみはいつもそうなんだ! 人の考えも聞かない間に勝手に黙りこくって、塞ぎ込んで、主って慕われるのが辛かったなんて突然叫んだかと思いきや、もう大丈夫だと言い張って、こっちの声に耳を貸そうともしない!!」
弾けたように歌仙は言葉を一方的に藤にぶつけていく。いつもは軽口を叩きながらも、面と向かって怒鳴りつけるような真似は滅多にしない歌仙が放つ言葉の嵐に、藤は目を丸くしてただただ受け止めるしかなかった。
「いや、でも、僕の考え方ってやっぱり歌仙からしたらおかしいものだろうし」
「だからといって、僕がきみを嫌いになるわけがないだろう!」
真正面からぶつけられた、どこまでも真っ直ぐな気持ち。
自分のことを心底から心配し、慈しんでいる者の声が、彼女の心に飛び込んでいく。
「……人を食った、穢れた鬼、だよ?」
「それくらいで、僕が主を見離すとでも? 見くびってもらっては困るね。それぐらい、きみの今までしてきたことに比べれば、何てこともない」
まるで取るに足らない些事と言わんばかりに、歌仙は告げる。その言葉が、穢れを意識して以来、ずっとこびりついてきた彼女の後ろめたさを拭い去っていく。
「そんなことよりも、きみが突然いなくなったせいで、僕がどれだけ一人で仕事をやらねばならなかったと思うんだい! 和泉守に箸の使い方を教え、布団の敷き方を堀川に理解してもらい、お金のやり取りを小豆に伝え、兄の隣の部屋がいいとごねる膝丸をあの手この手で宥めすかしたのは、一体誰だと思っているんだ!! 知らない人間と話すのが、こんなにも苦痛だと実感する日が来るとは思わなかったよ!!」
「ご、ごめんなさい」
「大体、人を食ったというのが悪いことというのなら、僕は三十六人の人間を斬ったと言われるような刀だ! きみが穢れていると主張するなら、僕の方がよほど穢れているだろう!」
「いや、そんなことはないよ。だって歌仙は」
「そう思うのなら、自分を卑下したような言い方をするのはやめるんだね!!」
ひとしきりまくし終えてから、歌仙は喋りつかれたようにぴたりと言葉を止め、肩を落とした。
思いがけない歌仙の猛攻を受けた藤は、目をどんぐりのように丸くして、その場に縫い止められたように硬直する。
「――僕は、きみが鬼でありたがるからと言って、軽蔑しない。否定もしない。理解はできないのかもしれないが、そこにあるきみの心を大事にしたい。人を食らったことがあるといえど、きみの何かが変わるわけでもないだろう。ただ、きみの心に僕が傷をつけてしまった事実が、悲しくて、悔しいんだ」
「……ごめん」
「謝らないでくれと言っただろう?」
「でも、僕は結果的に君を騙していた。もっと早く伝えていれば、君が嫌な気持ちになることもなかったのに」
「五虎退も言っていただろう。きみは、僕たちを騙したくて嘘をついていたわけじゃない。ただ、こうやって僕たちが傷ついてしまうだろうと思って、黙っていたんだろう?」
項垂れる藤の顔を両手で包み込むようにして上げさせ、歌仙は目を細めて語る。
「その行動は、決して嘘なんかじゃない」
自分に死の気配を強く感じて、初めて彼の心が深く認識できた感情を、歌仙はそのまま藤に伝える。
どれだけ辛く当たられても、苦しい気持ちを抱かされたとしても、それでも傷つかないでほしい、幸せであってほしいと願う感情を、人はこう呼ぶのだろう。
「それは『愛』と呼べるものじゃないかな」
温かな彼の言葉が、冷え切った心にぽつんと流れていく。髭切に認められたときとはまた違う温もりに、藤の心は言葉にできない歓喜に震え、彼女の薄藤色の瞳からは今日何度目になるか分からない雫が零れ落ちていた。
「今は、きみにそんな言葉しかかけられない不甲斐ない刀だが、それでもきみの傍にいてもいいだろうか」
「僕こそ、歌仙の傍にいてもいい?」
返事は無く、代わりに藤の視界は薄い暗闇に包まれ、その頬は少し高い人肌の熱を感じ取っていた。彼に抱きしめられているのだと気が付くより先に、
「僕は、きみの刀だよ。これまでも、これからも」
彼の返事を耳にして、どうにか堪えていた涙の堤防がいちどきに決壊する。
声をあげ、まるで泣き方をようやく思い出したかのように、小さな鬼は泣き続けた。十年以上ぶりに感じた温かな腕の中で、藤という名を冠した子供は、己の感情をこれでもかと破裂させ、縋るように声を張り上げ続ける。
歌仙が抱いていたのは、審神者として主として本丸を率いる女性ではなく、捨てきれなかった自分の誇りを抱え続け、周りのためにと多くの言葉を飲み込み続けた、ただの幼子だった。
***
「歌仙、布団はここに敷けばいいかな」
「ああ。場所はそこで……いや、もう少し詰めた方が良さそうだね。そう、その辺りだ」
歌仙に命じられるまま、藤は布団を端に寄せる。その隣に、歌仙は自分が抱えていた敷き布団を置いた。
ここは、歌仙の部屋だ。二人は今、二組の布団をくっつけるようにして広げていた。場合によっては二人部屋としても使える部屋なので、そこまで狭いという感じはしない。
何故藤が布団の準備をしているのかというと、ひとしきり泣いた彼女が、
「歌仙。今日、同じ部屋で寝てもいいかな」
と、頼んだからである。先ほどまでわんわんと泣きじゃくっていた彼女を、歌仙も一人にしたいとは思っていなかったので、一も二もなく頷いた。
そうして一度着替えのために自室に戻った彼女は、五分と経たない内に戻ってきて寝床作りに精を出し始めたのである。何か別のことをして、気を紛らわしたいという気持ちもあるのだろうと、歌仙は思っていた。
「そういえば、歌仙。どたばたしていて訊けなかったんだけど、どうして勝手に出陣していたの? それが、こんのすけが歌仙に頼んだことだったの?」
「ああ、その件か」
歌仙はこの件についてどう伝えるべきか、と暫し悩む。結局、彼は自分の想像できる限りの内容を話すことにした。
こんのすけを介して、今まで言葉を伝えていたと思しき人間に会ったこと。歌仙が藤の傍に居続けることを、彼が疎んでいるらしかったこと。
何やら術のようなもので操られたのか、気が付けば敵の只中にいたこと。妙に体が重かったのも、恐らくは彼が何か細工をしていたのではないかということ。
全てを聞いた藤は、動揺を見せまいと拳を握りしめていたが、残念ながら震えまでは隠しきれていなかった。
「……そんな、僕は歌仙がいなくなってほしいなんて、これっぽっちも望んでないのに」
「少なくとも、彼はそう考えていたらしい。だけれども、どちらかというと彼個人の独断行動のように見えた。だからこそ、僕が任務に失敗して折れたような体裁に拘っていたのだろう」
「つまり、もし歌仙が戻ってこなかったとしても、単なる練度不足の不幸な事故って扱いになっていたということ?」
「恐らくはね。きみが抗議したとしても、同様な処理をされる可能性が高い」
藤は何度も口を開け閉めして、何か反駁の糸口を探して口にしようとした。だが、歌仙が打ち立てた推論を破れるような考えは、思いつかなかった。
形だけを見れば、確かに歌仙は個人的に政府の役人から依頼を引き受け、出陣しただけだ。本来なら審神者を通すのが筋かもしれないが、今まで歌仙が政府との応対をしていたから彼に話した、と言われれば藤も言い返せない。
それに、歌仙は本丸の外で話をしたと藤に語っていた。本丸内部はどうやら何かの手段で監視をされているらしいが、玄関から外に出てしまったら監視から外れてしまう。そのことも考慮した上で、こんのすけは歌仙を外に呼び出したに違いない。
「次にあの狐に会ったときにどうするかは、きみの判断に任せるよ」
「でも、そんな機会は多分ないと思う。こんのすけは、暫くはここに来ないって話していたから」
「それはまた、どういう理由で」
「さあ……。色々お役所仕事にも事情があるんじゃないかな。だから、お咎めが来ないと思ったのかもね。僕は、納得できないんだけれど」
「きみがそう思ってくれるだけで、僕は十分満足だよ」
「どういうこと?」
藤は布団の上に腰を下ろし、枕を抱えて首を傾げる。その顔は憑きものが落ちたように、今まで歌仙が目にしたどの顔よりも落ち着いていた。
彼女のそんな表情を見られただけで、歌仙としてはもう過ぎた話などどうでもいいと思ってしまいたくなったが、流石にこの件に関して有耶無耶にしていいと言うわけにもいかない。
「ともあれ、富塚氏に一度話はしておいてくれないか。……彼は彼なりに考えて、きみにとって僕が不要だと結論を出したのかもしれないが、それにしたっていきなり過ぎるやり方だと僕は思うよ」
「うん。鍛刀も……本当は、しなくちゃいけないのだろうけれど、ちょっと今は、休めないかな……」
藤は枕を握る手に力をこめ、唇をきゅっと噛む。
こんのすけに以前言われた通り、定期的に新たな刀剣男士を呼び寄せることが審神者として望まれる行為なら、顕現は続けるべきなのだろう。
だが、今日のような告白を新たに刀剣男士が来る度にしていくと考えると、精神的な負担も大きい。あまり嬉しいとは言えない状況に、彼女が悶々と悩んでいると、
「鍛刀をし続けるように、誰かに命じられたのかい?」
「それも、こんのすけが僕に、それとなく話していたんだ。実際、戦力がないと苦労するのは皆だから」
「ふむ。その通りではあるけれど、しかし六振り揃っていなかった頃と比べて、今は十振りの刀剣男士がいる。遠征と出陣なら、この程度の人数でもやりくりができる」
「でも……」
「きみが本当にしたいことを、今は選べばいい。住み心地のいい環境で暮らしたいと願うのは、そんなに悪いことではないと僕は思うよ」
歌仙の言葉に背中を押されるように、藤はゆっくりと頷く。
誰かと言葉を交わすだけで、今まで何かする前から諦めていたことでも、ひょっとしたら違う対応をしてもらえるかもしれないと、期待が持てるようになっていた。
ちゃんとした審神者なら、一人で何もかも決めて行動すべしと決めていたために、彼らに聞かずとも判断できる物事について今までは尋ねていなかった。けれども、今になって藤は思う。
(もっと、話せていたら――何か、変わっていたのかな)
仮面を外すのは恐ろしくて、苦しくて、苦い思い出の方が多かったけれど、それでも少しずつ良い方向に歩き出せたらと、藤は声に出さずに心の奥で願う。
「それにしても、どうして突然一緒に寝たいなんて言い出したんだい」
「誰かが傍にいた方が、本当は落ち着くんだ。嫌な夢を見ても、大丈夫かなって」
「それは初耳だね。きみは一体、いくつの『本当は』を隠しているんだ」
「他には――本当は、今何食べても味がしない……とか」
藤の方を見ずに枕の位置を整えていた歌仙は、さながら独楽のようにぐいっと勢いよく首を藤に向けた。そのまま無言でずんずんと近寄ってくる彼の顔は、控えめに言ってもかなり怖い。
「今、何と?」
「ちょっと……舌がおかしくなっちゃって。クリスマスの頃から、殆ど何食べても味がしなくなってたん、だ、けど……」
「――っ、きみには、明日も説教をしないといけないようだね」
何やら言いたいことが山ほどあるらしいようだが、夜遅いということもあって、どうにか言葉全てを押さえ込んで歌仙はそれだけ言った。
とはいえ、明日に続く説教を思うと、藤は背筋に冷たいものを感じてしまう。だが、その感覚もまた、藤にとっては懐かしさを感じるものでもあった。
「今度から、隠し事はなしにしてくれ。ちゃんとした審神者であるために、何でもかんでも一人で背負い込んで体を壊すのなら、そんな肩書きは物吉の言う通り捨ててしまうんだね」
「――うん」
藤は言葉少なに頷き、布団に潜り込む。歌仙が照明を落とし、彼もまた布団に身を横たえたようだった。
灯りが消えてから、藤はもぞもぞと布団の中を動き歌仙の傍に、にじり寄る。彼女の動きに気が付き、歌仙も寝返りを打ち、二人は丁度向かい合う形になった。
「あの、さ。歌仙」
「うん?」
「歌仙は、僕と家族になれないって前に言っていたけれど、でも僕はやっぱり、歌仙とは家族みたいになりたいって思う」
「え? 僕は、そんなことを言っただろうか」
きょとんとした顔の歌仙と、同じように鳩が豆鉄砲を食らったような顔の藤が、お互いの言葉の裏を探るように暫く見つめ合う。
「言ってたよ。歌仙を顕現したその日に、僕の夢を君に訊かれて、僕は家族が欲しいって話したんだ。でも、歌仙は『そういうものにはなれないだろう』って」
「……そう、だったかな」
何せ、もう一年以上も前の話だ。それに、自我もまだしっかり定まっていなかった頃の初々しい自分の発言など、あまり思い出したい事柄でもない。だからこそ、今まで振り返ることもなく、忘却の彼方に追いやってしまったのだろう。
しかし、それが予想以上に彼女の心に深い爪痕を残していると知って、歌仙は当時の自分の元に舞い戻り、口を塞ぎたい気持ちに襲われていた。
「今更かもしれないが、当時の僕の発言を撤回させてくれないか。今の僕としては、きみの……家族そのものにはなれなくても、それに近い関係にはなりたいと思っているんだ。無論、きみが望むのならば、だけれど」
藤の瞳がゆっくりと見開かれる。おずおずと布団の中から差し出された藤の手を、歌仙はしっかりと握りしめ、彼女の願いに応えた。
「……あのね、歌仙。僕、ずっと思っていたんだ。本当の家族なら、何を打ち明けても受け入れてくれる。側にいてくれるものだって」
藤は目を伏せて、考える。
自分を育ててくれた者の優しさも本物で、彼らが自分の心を無意識に傷つけてきたのも事実だ。そして、言い出せずに相手と壁を作っていた己もまた、嘘偽り無い真実だった。
「でも、違うんだ。僕は、家族って形に甘えていたんだと思う。自分のことを理解してくれない人を、家族じゃないって決めつけて、ありもしない夢に縋っていた。たとえ、血の繋がる家族だったとしても、何も話さないままで全てが上手くいくなんて、きっとないんだよ」
藤の手を握る歌仙の手に、ほんの少し力が込められる。自分の夢を、まやかしだと気が付いた彼女に寄り添うように。
「僕は、きみの知る家族の形にはなれないかもしれない。ただ、僕は僕にとって良いと感じた関係を、きみとの間に紡いでいきたい」
「うん。僕も、そうしていきたい」
もう一度確かめるように互いの手に力が込められてから、ゆっくりと指が解かれていく。おやすみ、という挨拶を交わしてから、藤は瞼を閉じる。
傍らで息遣いを感じながら眠るのは、随分久しぶりだった。
(明日になったら、皆にどんな顔をすればいいのだろう)
悩みはまだあるが、せめてとってつけたような笑顔だけはもう止めようと思う。
和泉守は、たとえ自分が理解できない考えを持っていたとしても、藤の態度を平等に評価すると宣言した。ならば、藤も今できる全身全霊で答えるしかない。それで見限られてしまったなら、それは仕方ないと諦めもつく。
五虎退たちが、やはり納得できないと怒るのなら、それもいい。彼らには怒るだけの正当な理由も権利もある。
けれども、仕方ないという諦めで、もう心は塗りつぶさない。
――君は、何がしたいの?
髭切の問いを、もう一度自分に向ける。
――僕は、僕を諦めたくない。
答えを胸に抱き、彼女は目を瞑る。
ふと、自分の枕元に誰かがいるような気配を感じた。しかし、ぴったりと閉じてしまった瞼は開かないままで、その姿を見ることは叶わない。
『これで、お前は良かったのか』
父のような、母のような、懐かしくも優しい声。挫けてしまいそうになったとき、いつもどこかへの逃避を勧めていた誘惑の囁きだ。
(また、幻聴かな)
弱い自分が、ここではないどこかを求めるがために生み出した声なのだろうと、今まで藤は思っていた。
今回もそうなのかもしれないが、しかしもう誘いは要らないと言える。まだ胸は張れずとも、心が膝を折ることはない。
(僕は、ここにいたい。今は、心の底からそう願ってる)
『――そうか。お前の居場所は、正真正銘この本丸という場所と言いたいのだな』
(うん。僕は、皆といるよ)
どことも知れない場所ではなく、皆のいないどこかでもなく、この本丸を藤は強く求めていた。
『ならば、私の用もこれで済んだということか』
(え?)
おや、と思うより先に、枕元にあった気配が遠くなっていく。幻聴と思い込んでいたが、どうやらあれは確かに存在する何かの気配だったらしい。
それなら、もう少し話でもしておけばよかったか。そんなことを頭の端によぎらせるも、泥に沈み込むような心地よい眠気が襲ってきて、藤は深い眠りに落ちていく。
その日は、久しぶりに何の夢も見なかった。
***
翌朝、目が覚めた藤は、いつも通り着替えを済ませて食堂へ向かう。
数度の深呼吸を挟み、襖を開いて、彼女は言う。
「――おはよう、皆」
笑顔の花を、そっと顔に咲かせて。
閉じこもる直前に、人食いをしていた人間の姿に対して気持ち悪いと感想を述べた乱藤四郎。
人と神の境目を、より鮮烈に主に示した次郎太刀。
鬼は斬るべしと、出会った直後に斬りかかった髭切。
人間として受け入れられた鬼の環境を幸せなものと告げ、その幸運が続くことを祈った物吉貞宗。
主は鬼ではないと髭切に言い放ち、鬼の姿をした敵を怖いと語った五虎退。
そして、誰よりも主を案じていたと同時に、鬼であるという事実を否定し続けた歌仙兼定。
人の姿をした六人のうち、最初に口を開いたのはやはりと言うべきか、歌仙だった。
「僕は、確かにきみを傷つけていたんだね。そして、その理由は僕がきみを人間として扱ったことだ、と」
「――うん」
藤は肯定する。もう、違うとは言えない。
一度刺してしまった言葉の刃は無かったことには出来ない。髭切にも同様の告白は既に済ましていたが、今の状況とあの時では重みが異なる。
髭切は、もとより彼女を積極的に人間扱いはしていなかった。だが、歌仙は明確な善意を以て、彼女の境遇に気遣い、助けようとした結果、選択を誤り続けていたのだから。
「でも歌仙は、僕のことを思って、言ってくれたんだって知っている」
「けれど、きみにとっては、間違いだったんだろう」
咳き込むような勢いで挟まれた歌仙の言葉に、藤は一瞬口を噤む。怒鳴ったわけではないにしろ、性急さがありありと滲み出た語調は、彼の動揺をはっきりと藤に伝えていた。
暗く濁った川の流れが渦を巻き、全ての言葉を絡め取っていってしまったかのような気まずさが二人の間に生まれる。
「……間違いだったとしても、歌仙の優しさは本物だって、少なくとも僕は優しくしてくれたって感じている」
どろどろの空気の中、藤は貝のように閉ざしかけた唇を強引にこじ開け、自分の内に眠る言葉を吐き出していく。
「だから、僕がもっと早く言えば良かった。君の優しさを、もっと良い形で……僕も皆も笑顔になるような形で、受け止められたはずなのに」
今となっては、後悔ばかりが募っていく。出会った直後に打ち明けていればと、過去をやり直したい気持ちにもなった。
だが、過去は変えてはならないと彼女は知っている。倫理や道徳だけではなく、審神者という立場からも嫌というほど承知している。
「僕はずっと、君達の思いを台無しにしていたんだ。ごめんなさい」
謝罪ばかりをするつもりではなかったのに、己の心中を吐露することに慣れていない鬼は、ただ謝るための言葉を紡ぐことしかできなかった。
「人を食べたことがあるって話も、今まで黙っていて……黙りすぎて、あんな風に感情だけ爆発させちゃって、困らせただけだよね。これまで皆を騙して……ごめん、なさい。ちゃんとした主なんかじゃなくて、ごめんなさい」
喉がひきつけを起こしたように震え、声は嗚咽に揺れていた。泣くなどと、いったい何様のつもりだと己を叱咤しても、溢れかえった感情の整理がまるでできず、溢れた想いは涙になってしまう。
これから何を言われるか分からないという恐怖。同時に、たとえ受け入れてもらったとしても、彼らを傷つけたことには変わらないという現実は、どう足掻いても消えはしないだろう。
「……あるじさまは、僕たちを、騙したかったのですか? 僕たちを、最初から、困らせたかったんですか?」
藤に問いかけたのは、五虎退だった。彼の声は常よりもずっと細く、まるでフッと吹いたら飛んでいってしまいそうなほど、小さいものだった。彼の問いに、藤はゆっくりと首を横に振る。
「じゃ、じゃあ……どうして、あるじさまが、謝るんでしょうか」
彼女の謝罪の根幹を覆す問いに、藤は顔を上げる。涙で滲んだ視界には、虎の子の黄金に輝く瞳があった。
「あるじさまは……嫌だって思っていても、僕たちに話したら、僕たちが困っちゃうと悩んで……黙っていたんですよね。僕は、それは凄く……優しいことだと、思います」
「優しくなんか、ない。僕は、君達が親切からやってくれたことに泥をかけたんだよ。……それだけじゃない。分かりっこないって、最初から諦めて、君達を悪者にしていた。皆に嘘をついて、誤魔化してたんだ」
「それは……僕も、そのお話を聞いて、すっごく、悲しい気持ちになりました。でも、あるじさまのしていたことは……全部、嘘だったんですか?」
反射的に、藤は首を横に振る。
歌仙と軽口を叩き、五虎退とかくれんぼをして、物吉と絶景の下でおにぎりを食べた。髭切と秋の山を歩き、次郎の踊りに歌を添え、乱と共に出かけた。それらの何もかもを嘘にできるほど、藤は器用ではない。
「それなら、僕は悲しいだけじゃないです。僕は、いっぱい、いっぱい……あるじさまから、優しい気持ちを、貰ってきたんです」
泣かないように精一杯絞り出していた五虎退の声も、やがて耐えかねたように揺れ、あわせて彼の瞳からもぽろりと透明な雫が零れ落ちた。
「なのに、僕は、全然気がつけなくて……気がつくことを怖がって、ごめんなさい。あるじさまの気持ちから逃げて、勝手に僕にとって都合のいいあるじさまを望んでしまって、ごめんなさい」
白い頬は涙と共に朱色に染まり、少年の顔はぐしゃりと歪む。
堰を切ったように涙をこぼす五虎退の顔を目にして、自分は間違いなく彼の心に傷を刻んだのだと、藤はより強く自覚する。この痛みは、自分が黙り続けた代償だ。だから藤は唇を噛み、つられて泣きそうな己を必死に殺した。
「あの……さ、あるじさん」
続けて口を開いたのは、乱藤四郎だった。澄んだ青空を思わせる瞳は嘗ての輝きこそ失っていたが、未だに人が至れぬ清冽さを湛えている。
「あるじさんは、ボクが『気持ち悪い』って言っちゃったから……閉じこもっちゃったの?」
彼女が離れに籠もるようになってから、最後に話した自分の言葉に何かまずい部分があったのではないかと、乱はずっと考えていた。そして今、乱は自分が口にした言葉の中で、もっとも彼女を傷つけたものが何か分かってしまった。
「それだけじゃないんだけど、でも……多分、引き金みたいなもの……だったんだと思う」
「――そっか」
あの日まで、藤は多くの自分を捨てて過ごしていた。だから、乱の言葉はただの契機だ。崩れかけていた積み木の山を、ちょんとつついた最後の一手に過ぎない。
けれども、その一手はやはり、致命的な一手ではあった。
「ごめんね。これは、あるじさんを傷つけたいわけじゃないんだけど……でも、やっぱりボクは気持ち悪いって感じてしまう。だけど、それはボクがしたくないってだけで、あるじさんや、同じことをしてきた人、しなきゃいけなかった人、したくて選んだ人、そういう色んな人の何もかもを、否定したいわけじゃないんだ。……まだ、うまく、説明はできないんだけれど」
自分が何を感じるかと、他人が感じるあり方の肯定は、似ているようで何かが違う。乱はそのことについて語りたかったが、自分でも整理がついていない言葉は中途半端な形で途切れてしまった。
「ボクはあるじさんを傷つけるつもりもなかった。でも、実際傷つけちゃったのも事実だよね。だから、謝る。ごめんなさい!」
ぺこっと頭を勢いよく下げると同時に、きらきらした金髪がふわりと広がった。その輝きの余韻が全て消えるほどの時間を置いてから、乱はがばりと顔を上げ、
「それで、あるじさん!」
急に彼は声を大きくて、藤の顔をぱんっと両手で挟んだ。
「どうして、さっきからあるじさんは謝ってばかりなのかな! なんで、自分のことは脇に追いやって我慢しようみたいな態度をとるのかな!」
「え、いや……でも、それは僕が主で、僕が、君達に頼みづらいことを頼む立場だから」
「ごちゃごちゃうるさい!」
「ええっ……」
訊かれたから答えたのに理不尽な、と藤が狼狽えているのを余所に、乱は顔を真っ赤にして声を張り上げる。
「主なんだから、ふんぞり返ればいいじゃん! 自分が正しいんだぞって、偉ぶっていればいいじゃん!!」
「そんなことは、流石にちょっと」
「何でそうなるの! ボクね、すっごくあるじさんに怒ってるの!! いきなりいなくなったと思ったら、唐突に戻ってきて、そのくせ何だかよくわからない怖い笑い方ばかりしていて!! なのに、本当は苦しいの我慢してたとか、何なんだよ、もう!!」
「何なんだよって言われても」
「あるじさん、好きな物は見つかったの!?」
話の転換する速度に追いつけず、藤は目線を左右に彷徨わせつつ、ゆっくりと首を横に振る。すると、乱は益々顔を近づけ、
「絶対、ボクが見つけてやるんだから! あるじさんと、一緒に見つけてやるんだから!! だから、だから……もう、勝手にいなくなったり、しないでよ……っ!」
感情の整理がつかないのか、叫んでいる途中で乱の瞳に涙が溜まり、ぼろぼろと空色から雨が落ちていった。
藤が慌てふためき、どうしたものかとおろおろとしていると、ずるりという衣擦れの音が二人の間に響く。それは、次郎が取り乱す子供たちに近づいた音だった。
ゆっくりと乱の背を撫でる彼に倣い、藤もおそるおそる乱の背中に手を添える。
「やれやれ、乱は泣き虫だねえ。それに主、アンタも泣き虫だ。泣いた赤鬼って物語があるけど、アンタも似たような感じさね」
「……次郎は、もしかして、僕が鬼だってことに気が付いていたの?」
「たまたま聞いちまったからね。ただ、鬼でいたいと思ってるとは流石に想像もつかなかったさ。あと、人を食ったとかどうとか」
次郎は肩を竦め、何てことのないように藤に言葉をかける。
「……やっぱり、軽蔑する?」
「どうして、そこがやっぱりなのかは分からないけどさ。アンタは、それが美味しいって感じたとしても、誰かを傷つけたいわけじゃないと言ってたじゃないか。それが主の選択なんだろう?」
相変わらずのからっとした物言いで、次郎は今までと変わりなくニッと口元に笑みを引いてみせた。
「でも、僕は、それはきっと、すごく悪いことだって分かってる。なのに、否定してほしくないって、何だかちぐはぐなんじゃないかって……」
「誰だって、自分の趣味を頭からダメ出しされたくはないよ。それと一緒さ。アンタにとって悪いことだと感じて、ずっと背負っていきたいって考えているなら、それはそれでいいんじゃないかい?」
次郎は乱の背を撫でている手とは逆の手で、藤の頭にぽんと大きな手を置く。大太刀をふるう彼の手は少しごつごつしていて、同時に大きくて、藤は反射的にまた涙をこぼしそうになっていた。
「背負うって決めたんなら、それはアンタの責任だからね。アタシや他の連中が、良し悪しを決めるもんじゃないさ。アンタが申し訳ないって思うなら、その気持ちをアンタが望んで持てばいい」
「……うん」
「ただ、考えすぎて笑えなくなっちまったんなら、アンタの話ぐらいは聞いてやるよ。その時は、上等な酒とつまみがあるといいね」
いつもの次郎らしい発言に、藤はつられてふにゃりと口元を緩める。こうやって、彼は沈みがちな周りの空気を、ゆっくりと引っ張り上げてくれる。その温かさに感謝しながら、藤は言葉を噛み締めるように頷いた。
いつまでも涙が止まらない五虎退と乱を抱えるようにして次郎は後ろに下がり、代わりに藤の前に歩み寄り腰を下ろしたのは物吉貞宗だ。いつもは太陽のような笑顔を浮かべる顔も、今日ばかりは曇っている。
「ボクは、まだ……何てお話ししたらいいのか、よく分かりません。ただ、ボクは主様に幸運を……幸せを、運べていなかったんですね。なのに、それを勝手に幸せって、幸運なものだって、決めつけていた」
物吉貞宗に刻まれていた逸話を補強するかのように、物吉はいつでも幸せを探し、主に幸運をもたらそうとした。けれども、この一年で彼が築き上げてきた願いや想いは、藤の告白により粉々に砕かれてしまった。
「主様は、ボクに言いました。『幸運は、自分が運んだなんて言えるものじゃない。だって、当人しか幸せか不幸かなんてわからないから』と。――その通り、でしたね」
藤は答えない。だが、答えないことが、既に一つの回答となっている。
「主様は、こうも言ってくれました。ボクが幸せそうにしていたら、周りの人たちの心も温かくなるって。そうして、皆に幸せだって感じてもらって、そんな日々を幸せだって気付いてもらえる――それが、幸せを運ぶってことなんだって」
物吉は、ほんの少しつついたら壊れてしまいそうな笑顔で、藤に笑いかける。
「ねえ、主様。ボクの笑顔で、主様は、幸せになれていましたか?」
藤は、すぐには返事ができなかった。
幸せになれていたときもあった。なれていなかったときもあった。結局のところ、彼が幸せを望んで浮かべた笑顔の半分は、藤を幸運に縛り付けようとする呪縛にしかならなかった。たとえ、もう半分で、確かに彼女の心に光を灯せたとしても、それでは物吉貞宗は満足できない。
今までの藤なら、間違いなく笑顔を取り繕って誤魔化した。だが、彼女の仮面はもう、剥がれてしまった。
「……ごめんね。ちゃんと、君の望むような幸せになれなくて。物吉の笑顔は……温かくて、大好きだけど、でも同じくらい、苦しい時もあったんだ」
「そう……だったんですね。ボクは、主様に幸運を運ぶ刀には、なれていなかったんですね」
「それをいうなら僕だって、皆が望むような、ちゃんとした審神者には到底なれていなかったよ」
「主様」
労るように言葉をかけた物吉は、しかしそこで留まらず、俯く彼女の顔を覗き込み、
「主様の言う『ちゃんとした審神者』は、ご自分の伝えたいことを間違っていると押し殺して、黙っているような人を指すのですか」
普段の彼らしくない厳しい語調に、思わず藤は口ごもる。彼女の動揺に気付いてもなお、物吉は言葉を続けた。
「主様は、『自分の役目を決めつけるのは苦しいだけ』と言ってくれました。それなら主様も、自分の役目を決めつけて苦しめるような真似はしないでほしいです」
藤の両肩に手を置き、物吉は澄んだ琥珀色の瞳を細める。その瞳にはほんのりと涙が溜まっていたが、彼は雫を零すよりも先に口を動かした。
「主様の言葉のおかげで、ボクは幸せを運ぶのではなくて、そこにあるものを幸せだと気がついてもらえるように、頑張りたいって思いました。だから、主様も審神者の役割に縛られて悲しい気持ちになるぐらいなら、そんな役割は放り投げちゃいましょう」
「放り投げちゃうって」
「代わりに、主様は主様のやり方でボク達と仲良くしてくれると、ボクはすごく嬉しいです」
そこまでが、物吉の限界だった。耐えかねたように、彼の涙の堤防は崩壊し、ぽろぽろと透明な雫が流れ落ちていく。悲しいから泣いているのか、自分の不甲斐なさが悔しいから泣いているのか、最早泣いている物吉本人にもよく分からなくなっていた。
「まだ、主様の幸せについて……ボクはよくわからないんです。だから、もう少しだけ考えさせてください」
すみません、と物吉は俯く。すすり泣く五虎退や乱と違い、声こそあげていなかったものの、その小さな背中は彼らと同じくらい痛ましいものにも見えた。
何と声をかければよいか分からず、藤もまた、呼吸以外の全ての動作を忘れたかのように項垂れていた。自分が傷つけた者の大きさを知ってなお、後悔を感じてはなるものかと思っていた。だが、そんな自分が浅ましく傲慢な者ではないかと罵る声が、他ならぬ身の内から湧き上がっていく。
前言撤回もできず、かと言って時間を巻き戻すこともできず、居丈高に胸を張るような態度もとれず、藤は嵐のように渦巻く感情に弄ばれ続け、その末に沈黙を選んでいた。
沈黙に次ぐ沈黙が重なり合った後、不意に次郎が、
「さあさ、しんみりしていても何が変わるもんでもなし。ちびっこ達は湯浴みがまだだっただろう。次郎さんと一緒に、ひとっ風呂としゃれ込もうじゃないか」
ひょいと立ち上がり、すすり泣いている乱と五虎退、物吉の肩をそれぞれぽんぽん、と小気味よく叩いていく。湿っぽい空気をなぎ払うために、わざと彼が話題を切り替えたのは言うまでもない。
三人の少年はそれぞれ、何やらまだ釈然としない気持ちを抱いているようではあったが、次郎に促されて部屋を出て行った。彼らの後に続いて部屋を出ようとした次郎は、
「主、アタシたちにも、ちょっとばかし時間をくれやしないかい。アンタがずーっと抱え続けてきたものを、ゆっくり見つめなおす時間ってやつをさ」
「……うん。もし、君達が納得できなかったとしても、隠さないで言ってくれればいいから」
「そういう嫌な『もし』は、その時が来るまでは口にするもんじゃないよ」
次郎は優しく藤に微笑みかけ、ぱちんと片目を閉じてみせてから障子を閉ざした。どんどん、という重い足音が遠ざかり、再び部屋に静寂が下りる。
藤と、歌仙と、髭切。その三人のために、四人が席を立ったのだろうとは、この場にいる全員が重々承知していた。
「――主、きみが今日この話をしようと決意したのは、髭切が促したからかい」
口火を切った歌仙は、いの一番にこの場を設けた理由を尋ねる。
髭切は主が語っている間、ほぼ全くと言っていいほど驚きを見せていなかった。鬼を斬った刀である彼が、鬼であることを認めてくれなどという言葉を聞いて、聞き流すなどできるわけがない。歌仙はそう考えたために、逆説的に髭切はこの件について知っていたと予測した。
そして、今まで頑なに閉ざしていた口をこじ開けたのが彼ならば、話す場を作ろうという案も彼から出たのだろうと推測したのだ。
しかし、
「別に、僕が主に話せって言ったわけじゃないよ。僕は主が自分で自分の首を絞めるようなことをしているのが嫌で、主を怒って彼女の考えを聞き出しただけ。その後にどうするかは、主一人で決めた」
「――うん。僕が、決めた」
それだけは他人に責任を押しつけてはならないと、藤はきっぱりと告げる。
彼女の言葉を聞いて、歌仙は暫くじっと藤を見つめていたが、やがて長く長くため息をついた。
「きみを一番大事に思い、見守ってきたのは僕のつもりだった。きみは、きっと鬼として人間の世界から虐げられてきたのだろうと思った。だから、その分、人間としてきみを受け入れれば、きみにとって安らぎになるだろうと考えていた」
それが、歌仙の知っている常識で導き出した答えだった。周りと異なる部分を持っているのなら、その異物を見なかったことにして受け入れてしまうのが、歌仙にとっては良いことのように思えていたのだから。
「――でも、全て僕の見当違いだったんだね」
藤は、無言で頷く。
「僕がこうして、善意の空回りをしてしまったのは二度目だよ。髭切のとき、そして今度は主」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくれ。知らなかったとはいえ、きみを傷つけたのは事実だ」
「でも」
藤が思わず身を乗り出すが、近づいたことで歌仙の瞳が悲痛な色を湛えていると気がつけただけだった。
「でも、歌仙は……僕を、傷つけようなんて思っていなかったんだから、悪いのは、やっぱり僕の方、で」
そこまで言いかけて、藤は口を噤まなくてはいけなかった。なぜなら、横から髭切が彼女の頬に手を伸ばし、ぐいっと勢いよくつまんだからだ。
「主、君は自分の気持ちをまた蔑ろにしているよ」
「その通りだよ、主。きみにとって、鬼であることは、どうしても言わなければいけなかったほどに大事な事柄なのだろう。だから、それを自ら『悪いこと』であるかのように語るのは、やめた方がいい」
いくら歌仙に落ち度がなかったと言えど、それは藤の気持ちが間違っていることの肯定にはならない。
そう思い込もうとしたせいで、今まで彼女は自分を追い詰めてしまっていたのだから、同じ轍を髭切が踏ませるわけがなく、また歌仙も理解した以上は彼女の自己否定を見過ごしはしなかった。
「きみがそんな考えを持っているなんて、確かに想像もしなかった。理解も――到底、今すぐできるとは思えない」
「……ごめんなさい」
「きみに謝られると、僕の気持ちの行き場がなくなってしまうんだ。だから、謝罪はよしてくれ」
泣きすぎたせいで真っ赤になっている彼女の頬に、歌仙はゆっくり触れる。先ほどの髭切のように無理に伸ばすのではなく、優しく包み込むように、彼女の熱を持った肌を歌仙の少し冷えた大きな手が撫でていく。
「ただ、理解には時間はかかるかもしれないが、きみの必死な心を認めて受け入れたいと僕も思う。それが、僕の心ができる唯一のことだ」
そして、その心すらも、目の前の主がくれたのだと歌仙は内心で呟く。
(心とは何と厄介なものなのだろうね。なのに、これがあるおかげで僕は、きみを愛しているのだと思えるんだ)
ただ、歌仙兼定は臆病さを捨てられなかった。主との関係に、取り返しのつかないほど罅を入れる可能性を踏まえたうえで、彼女に歩み寄る勇気が足りなかった。
そして、その勇気を持った者だけが、彼女の心の声を最初に聞く権利を得たのだ。
「良かったね、主。歌仙は君の声を、ちゃんと聞いてくれているよ」
その権利を得た勝者とも言える者は、飄々としたいつも通りの声音で藤に語りかける。彼の声に反応して、藤の顔からも幾ばくかの緊張が抜け落ちた。
「歌仙は、主をいつも気に掛けていたものね。やっぱり、最初に選ばれた刀だからかな」
けれども、彼にとってただの事実確認で告げたはずの言葉は、思いがけない形で歌仙の神経を逆なでする。
「……最初に選ばれていても、結局僕は何もできなかった」
「そんなことはないと、僕は思うけどなあ」
「それをきみが言うのか、髭切。きみの方がよほど、主の信頼を勝ち得ていたんだろう。見当違いの気遣いをしていた僕らよりも、ずっときみは主のためを考えて行動していた。さぞかし、僕の振る舞いは滑稽に見えただろうね」
一瞬、歌仙の口から髭切に向かって棘が含まれた言葉が飛び出る。いつぞやの夜の延長線のように、歌仙の胸中には隠しきれない妬みや羨望が泡のように次から次へと浮かび上がっていた。
「歌仙……?」
「あ、いや、僕は……ただ、髭切の方が、僕よりも思慮深かったのだろうと――そう、思って」
藤が驚きを見せながら歌仙に尋ね、咄嗟に歌仙も取り繕うような言葉を並べてみるが、一度出した言葉が消えるわけでもない。実際、彼の口にした言葉は嘘偽りの無い本音の一部でもあった。
それらの棘を受け、髭切も少しばかり笑みを緩め、代わりに何かを懐かしむように目を細める。
「それは、単純に縁のあるなしの問題だよ。たまたま、主と僕の間に少々変わった縁があって、たまたま僕が細かいことを気にしない性格で、それともう一つ」
不意に髭切は藤に顔を近づけ、じいっとその顔を見つめる。まるで、彼女の顔から何かを得ようとしているかのように。
「たまたま、僕が主の笑顔を凄く気に入ってしまった、というだけ。ねえ、主。これでもう、あの花畑のときみたいに笑えるかな?」
いきなり想像もしていなかったことを問われ、藤は目を丸くしてきょとんとした顔になる。対照的に髭切は不服そうに、ずいずいと彼女に顔を近づける。
「ねえ、主。笑ってほしいな。ああいう嫌な感じの笑い方じゃなくて、もっと楽しそうに。僕はずっとそれが見たくて、今まで考え続けてきたんだから」
「いや、そんな……突然言われても」
髭切が随分と親身になってくれていると藤も思っていたが、どうやら彼が行動し続けた理由の一つに笑顔という要素があったらしい。そこまで特別なやり取りをしたつもりではなかった藤は、前のめりに迫られて、たじたじになっていた。
「あれ、どうして逃げるんだい」
「髭切、よさないか。主が困っている」
「えっと……君が僕に笑ってほしいって思っていることは、分かったから。すぐには、上手く笑えないかもだけど、多分もう、大丈夫」
本当かなと言わんばかりに、髭切は藤をじーっと見つめていた。しかし、視線から逃れるように藤に目を逸らされて、これ以上は迫っても仕方なしと判断したのだろう。髭切も、先に去った者たちのように、座布団から腰を上げ、
「それなら、また今度にしようかな。主、じゃあね。また明日」
ひらひらと藤に手を振って、髭切も部屋を後にする。
また明日。彼は、そう言った。
(そうか。明日が――あるんだ)
当たり前ではあったが、改めて今日から更に続く日があることを藤は自覚する。
全て話したところで、そこでこの本丸の生活が終わるわけでもない。日々は続き、彼らはまた共にある。その事実は変わらないのだ。
「ねえ、歌仙」
唯一、藤の傍らに残り続けている歌仙に、彼女は声をかける。彼は、まだ鉛をまるごと飲み込んだかのような顔をしていた。
「その、受け入れられないとか、側にいたくないとか、許せないとか、僕が嫌いだとか、そういう気持ちがあるなら、言ってくれればいいから。別の本丸に行きたいって言うなら、僕が最後までちゃんと責任を持って対応するし」
藤の言葉を聞いて、歌仙はぐるりと振り返る。彼の双眸は今まで見たこともないぐらい、強くぎらぎらと輝いていた。爛々と光る翡翠の瞳を目にして、藤が驚くより先に、
「何できみはいつもそうなんだ! 人の考えも聞かない間に勝手に黙りこくって、塞ぎ込んで、主って慕われるのが辛かったなんて突然叫んだかと思いきや、もう大丈夫だと言い張って、こっちの声に耳を貸そうともしない!!」
弾けたように歌仙は言葉を一方的に藤にぶつけていく。いつもは軽口を叩きながらも、面と向かって怒鳴りつけるような真似は滅多にしない歌仙が放つ言葉の嵐に、藤は目を丸くしてただただ受け止めるしかなかった。
「いや、でも、僕の考え方ってやっぱり歌仙からしたらおかしいものだろうし」
「だからといって、僕がきみを嫌いになるわけがないだろう!」
真正面からぶつけられた、どこまでも真っ直ぐな気持ち。
自分のことを心底から心配し、慈しんでいる者の声が、彼女の心に飛び込んでいく。
「……人を食った、穢れた鬼、だよ?」
「それくらいで、僕が主を見離すとでも? 見くびってもらっては困るね。それぐらい、きみの今までしてきたことに比べれば、何てこともない」
まるで取るに足らない些事と言わんばかりに、歌仙は告げる。その言葉が、穢れを意識して以来、ずっとこびりついてきた彼女の後ろめたさを拭い去っていく。
「そんなことよりも、きみが突然いなくなったせいで、僕がどれだけ一人で仕事をやらねばならなかったと思うんだい! 和泉守に箸の使い方を教え、布団の敷き方を堀川に理解してもらい、お金のやり取りを小豆に伝え、兄の隣の部屋がいいとごねる膝丸をあの手この手で宥めすかしたのは、一体誰だと思っているんだ!! 知らない人間と話すのが、こんなにも苦痛だと実感する日が来るとは思わなかったよ!!」
「ご、ごめんなさい」
「大体、人を食ったというのが悪いことというのなら、僕は三十六人の人間を斬ったと言われるような刀だ! きみが穢れていると主張するなら、僕の方がよほど穢れているだろう!」
「いや、そんなことはないよ。だって歌仙は」
「そう思うのなら、自分を卑下したような言い方をするのはやめるんだね!!」
ひとしきりまくし終えてから、歌仙は喋りつかれたようにぴたりと言葉を止め、肩を落とした。
思いがけない歌仙の猛攻を受けた藤は、目をどんぐりのように丸くして、その場に縫い止められたように硬直する。
「――僕は、きみが鬼でありたがるからと言って、軽蔑しない。否定もしない。理解はできないのかもしれないが、そこにあるきみの心を大事にしたい。人を食らったことがあるといえど、きみの何かが変わるわけでもないだろう。ただ、きみの心に僕が傷をつけてしまった事実が、悲しくて、悔しいんだ」
「……ごめん」
「謝らないでくれと言っただろう?」
「でも、僕は結果的に君を騙していた。もっと早く伝えていれば、君が嫌な気持ちになることもなかったのに」
「五虎退も言っていただろう。きみは、僕たちを騙したくて嘘をついていたわけじゃない。ただ、こうやって僕たちが傷ついてしまうだろうと思って、黙っていたんだろう?」
項垂れる藤の顔を両手で包み込むようにして上げさせ、歌仙は目を細めて語る。
「その行動は、決して嘘なんかじゃない」
自分に死の気配を強く感じて、初めて彼の心が深く認識できた感情を、歌仙はそのまま藤に伝える。
どれだけ辛く当たられても、苦しい気持ちを抱かされたとしても、それでも傷つかないでほしい、幸せであってほしいと願う感情を、人はこう呼ぶのだろう。
「それは『愛』と呼べるものじゃないかな」
温かな彼の言葉が、冷え切った心にぽつんと流れていく。髭切に認められたときとはまた違う温もりに、藤の心は言葉にできない歓喜に震え、彼女の薄藤色の瞳からは今日何度目になるか分からない雫が零れ落ちていた。
「今は、きみにそんな言葉しかかけられない不甲斐ない刀だが、それでもきみの傍にいてもいいだろうか」
「僕こそ、歌仙の傍にいてもいい?」
返事は無く、代わりに藤の視界は薄い暗闇に包まれ、その頬は少し高い人肌の熱を感じ取っていた。彼に抱きしめられているのだと気が付くより先に、
「僕は、きみの刀だよ。これまでも、これからも」
彼の返事を耳にして、どうにか堪えていた涙の堤防がいちどきに決壊する。
声をあげ、まるで泣き方をようやく思い出したかのように、小さな鬼は泣き続けた。十年以上ぶりに感じた温かな腕の中で、藤という名を冠した子供は、己の感情をこれでもかと破裂させ、縋るように声を張り上げ続ける。
歌仙が抱いていたのは、審神者として主として本丸を率いる女性ではなく、捨てきれなかった自分の誇りを抱え続け、周りのためにと多くの言葉を飲み込み続けた、ただの幼子だった。
***
「歌仙、布団はここに敷けばいいかな」
「ああ。場所はそこで……いや、もう少し詰めた方が良さそうだね。そう、その辺りだ」
歌仙に命じられるまま、藤は布団を端に寄せる。その隣に、歌仙は自分が抱えていた敷き布団を置いた。
ここは、歌仙の部屋だ。二人は今、二組の布団をくっつけるようにして広げていた。場合によっては二人部屋としても使える部屋なので、そこまで狭いという感じはしない。
何故藤が布団の準備をしているのかというと、ひとしきり泣いた彼女が、
「歌仙。今日、同じ部屋で寝てもいいかな」
と、頼んだからである。先ほどまでわんわんと泣きじゃくっていた彼女を、歌仙も一人にしたいとは思っていなかったので、一も二もなく頷いた。
そうして一度着替えのために自室に戻った彼女は、五分と経たない内に戻ってきて寝床作りに精を出し始めたのである。何か別のことをして、気を紛らわしたいという気持ちもあるのだろうと、歌仙は思っていた。
「そういえば、歌仙。どたばたしていて訊けなかったんだけど、どうして勝手に出陣していたの? それが、こんのすけが歌仙に頼んだことだったの?」
「ああ、その件か」
歌仙はこの件についてどう伝えるべきか、と暫し悩む。結局、彼は自分の想像できる限りの内容を話すことにした。
こんのすけを介して、今まで言葉を伝えていたと思しき人間に会ったこと。歌仙が藤の傍に居続けることを、彼が疎んでいるらしかったこと。
何やら術のようなもので操られたのか、気が付けば敵の只中にいたこと。妙に体が重かったのも、恐らくは彼が何か細工をしていたのではないかということ。
全てを聞いた藤は、動揺を見せまいと拳を握りしめていたが、残念ながら震えまでは隠しきれていなかった。
「……そんな、僕は歌仙がいなくなってほしいなんて、これっぽっちも望んでないのに」
「少なくとも、彼はそう考えていたらしい。だけれども、どちらかというと彼個人の独断行動のように見えた。だからこそ、僕が任務に失敗して折れたような体裁に拘っていたのだろう」
「つまり、もし歌仙が戻ってこなかったとしても、単なる練度不足の不幸な事故って扱いになっていたということ?」
「恐らくはね。きみが抗議したとしても、同様な処理をされる可能性が高い」
藤は何度も口を開け閉めして、何か反駁の糸口を探して口にしようとした。だが、歌仙が打ち立てた推論を破れるような考えは、思いつかなかった。
形だけを見れば、確かに歌仙は個人的に政府の役人から依頼を引き受け、出陣しただけだ。本来なら審神者を通すのが筋かもしれないが、今まで歌仙が政府との応対をしていたから彼に話した、と言われれば藤も言い返せない。
それに、歌仙は本丸の外で話をしたと藤に語っていた。本丸内部はどうやら何かの手段で監視をされているらしいが、玄関から外に出てしまったら監視から外れてしまう。そのことも考慮した上で、こんのすけは歌仙を外に呼び出したに違いない。
「次にあの狐に会ったときにどうするかは、きみの判断に任せるよ」
「でも、そんな機会は多分ないと思う。こんのすけは、暫くはここに来ないって話していたから」
「それはまた、どういう理由で」
「さあ……。色々お役所仕事にも事情があるんじゃないかな。だから、お咎めが来ないと思ったのかもね。僕は、納得できないんだけれど」
「きみがそう思ってくれるだけで、僕は十分満足だよ」
「どういうこと?」
藤は布団の上に腰を下ろし、枕を抱えて首を傾げる。その顔は憑きものが落ちたように、今まで歌仙が目にしたどの顔よりも落ち着いていた。
彼女のそんな表情を見られただけで、歌仙としてはもう過ぎた話などどうでもいいと思ってしまいたくなったが、流石にこの件に関して有耶無耶にしていいと言うわけにもいかない。
「ともあれ、富塚氏に一度話はしておいてくれないか。……彼は彼なりに考えて、きみにとって僕が不要だと結論を出したのかもしれないが、それにしたっていきなり過ぎるやり方だと僕は思うよ」
「うん。鍛刀も……本当は、しなくちゃいけないのだろうけれど、ちょっと今は、休めないかな……」
藤は枕を握る手に力をこめ、唇をきゅっと噛む。
こんのすけに以前言われた通り、定期的に新たな刀剣男士を呼び寄せることが審神者として望まれる行為なら、顕現は続けるべきなのだろう。
だが、今日のような告白を新たに刀剣男士が来る度にしていくと考えると、精神的な負担も大きい。あまり嬉しいとは言えない状況に、彼女が悶々と悩んでいると、
「鍛刀をし続けるように、誰かに命じられたのかい?」
「それも、こんのすけが僕に、それとなく話していたんだ。実際、戦力がないと苦労するのは皆だから」
「ふむ。その通りではあるけれど、しかし六振り揃っていなかった頃と比べて、今は十振りの刀剣男士がいる。遠征と出陣なら、この程度の人数でもやりくりができる」
「でも……」
「きみが本当にしたいことを、今は選べばいい。住み心地のいい環境で暮らしたいと願うのは、そんなに悪いことではないと僕は思うよ」
歌仙の言葉に背中を押されるように、藤はゆっくりと頷く。
誰かと言葉を交わすだけで、今まで何かする前から諦めていたことでも、ひょっとしたら違う対応をしてもらえるかもしれないと、期待が持てるようになっていた。
ちゃんとした審神者なら、一人で何もかも決めて行動すべしと決めていたために、彼らに聞かずとも判断できる物事について今までは尋ねていなかった。けれども、今になって藤は思う。
(もっと、話せていたら――何か、変わっていたのかな)
仮面を外すのは恐ろしくて、苦しくて、苦い思い出の方が多かったけれど、それでも少しずつ良い方向に歩き出せたらと、藤は声に出さずに心の奥で願う。
「それにしても、どうして突然一緒に寝たいなんて言い出したんだい」
「誰かが傍にいた方が、本当は落ち着くんだ。嫌な夢を見ても、大丈夫かなって」
「それは初耳だね。きみは一体、いくつの『本当は』を隠しているんだ」
「他には――本当は、今何食べても味がしない……とか」
藤の方を見ずに枕の位置を整えていた歌仙は、さながら独楽のようにぐいっと勢いよく首を藤に向けた。そのまま無言でずんずんと近寄ってくる彼の顔は、控えめに言ってもかなり怖い。
「今、何と?」
「ちょっと……舌がおかしくなっちゃって。クリスマスの頃から、殆ど何食べても味がしなくなってたん、だ、けど……」
「――っ、きみには、明日も説教をしないといけないようだね」
何やら言いたいことが山ほどあるらしいようだが、夜遅いということもあって、どうにか言葉全てを押さえ込んで歌仙はそれだけ言った。
とはいえ、明日に続く説教を思うと、藤は背筋に冷たいものを感じてしまう。だが、その感覚もまた、藤にとっては懐かしさを感じるものでもあった。
「今度から、隠し事はなしにしてくれ。ちゃんとした審神者であるために、何でもかんでも一人で背負い込んで体を壊すのなら、そんな肩書きは物吉の言う通り捨ててしまうんだね」
「――うん」
藤は言葉少なに頷き、布団に潜り込む。歌仙が照明を落とし、彼もまた布団に身を横たえたようだった。
灯りが消えてから、藤はもぞもぞと布団の中を動き歌仙の傍に、にじり寄る。彼女の動きに気が付き、歌仙も寝返りを打ち、二人は丁度向かい合う形になった。
「あの、さ。歌仙」
「うん?」
「歌仙は、僕と家族になれないって前に言っていたけれど、でも僕はやっぱり、歌仙とは家族みたいになりたいって思う」
「え? 僕は、そんなことを言っただろうか」
きょとんとした顔の歌仙と、同じように鳩が豆鉄砲を食らったような顔の藤が、お互いの言葉の裏を探るように暫く見つめ合う。
「言ってたよ。歌仙を顕現したその日に、僕の夢を君に訊かれて、僕は家族が欲しいって話したんだ。でも、歌仙は『そういうものにはなれないだろう』って」
「……そう、だったかな」
何せ、もう一年以上も前の話だ。それに、自我もまだしっかり定まっていなかった頃の初々しい自分の発言など、あまり思い出したい事柄でもない。だからこそ、今まで振り返ることもなく、忘却の彼方に追いやってしまったのだろう。
しかし、それが予想以上に彼女の心に深い爪痕を残していると知って、歌仙は当時の自分の元に舞い戻り、口を塞ぎたい気持ちに襲われていた。
「今更かもしれないが、当時の僕の発言を撤回させてくれないか。今の僕としては、きみの……家族そのものにはなれなくても、それに近い関係にはなりたいと思っているんだ。無論、きみが望むのならば、だけれど」
藤の瞳がゆっくりと見開かれる。おずおずと布団の中から差し出された藤の手を、歌仙はしっかりと握りしめ、彼女の願いに応えた。
「……あのね、歌仙。僕、ずっと思っていたんだ。本当の家族なら、何を打ち明けても受け入れてくれる。側にいてくれるものだって」
藤は目を伏せて、考える。
自分を育ててくれた者の優しさも本物で、彼らが自分の心を無意識に傷つけてきたのも事実だ。そして、言い出せずに相手と壁を作っていた己もまた、嘘偽り無い真実だった。
「でも、違うんだ。僕は、家族って形に甘えていたんだと思う。自分のことを理解してくれない人を、家族じゃないって決めつけて、ありもしない夢に縋っていた。たとえ、血の繋がる家族だったとしても、何も話さないままで全てが上手くいくなんて、きっとないんだよ」
藤の手を握る歌仙の手に、ほんの少し力が込められる。自分の夢を、まやかしだと気が付いた彼女に寄り添うように。
「僕は、きみの知る家族の形にはなれないかもしれない。ただ、僕は僕にとって良いと感じた関係を、きみとの間に紡いでいきたい」
「うん。僕も、そうしていきたい」
もう一度確かめるように互いの手に力が込められてから、ゆっくりと指が解かれていく。おやすみ、という挨拶を交わしてから、藤は瞼を閉じる。
傍らで息遣いを感じながら眠るのは、随分久しぶりだった。
(明日になったら、皆にどんな顔をすればいいのだろう)
悩みはまだあるが、せめてとってつけたような笑顔だけはもう止めようと思う。
和泉守は、たとえ自分が理解できない考えを持っていたとしても、藤の態度を平等に評価すると宣言した。ならば、藤も今できる全身全霊で答えるしかない。それで見限られてしまったなら、それは仕方ないと諦めもつく。
五虎退たちが、やはり納得できないと怒るのなら、それもいい。彼らには怒るだけの正当な理由も権利もある。
けれども、仕方ないという諦めで、もう心は塗りつぶさない。
――君は、何がしたいの?
髭切の問いを、もう一度自分に向ける。
――僕は、僕を諦めたくない。
答えを胸に抱き、彼女は目を瞑る。
ふと、自分の枕元に誰かがいるような気配を感じた。しかし、ぴったりと閉じてしまった瞼は開かないままで、その姿を見ることは叶わない。
『これで、お前は良かったのか』
父のような、母のような、懐かしくも優しい声。挫けてしまいそうになったとき、いつもどこかへの逃避を勧めていた誘惑の囁きだ。
(また、幻聴かな)
弱い自分が、ここではないどこかを求めるがために生み出した声なのだろうと、今まで藤は思っていた。
今回もそうなのかもしれないが、しかしもう誘いは要らないと言える。まだ胸は張れずとも、心が膝を折ることはない。
(僕は、ここにいたい。今は、心の底からそう願ってる)
『――そうか。お前の居場所は、正真正銘この本丸という場所と言いたいのだな』
(うん。僕は、皆といるよ)
どことも知れない場所ではなく、皆のいないどこかでもなく、この本丸を藤は強く求めていた。
『ならば、私の用もこれで済んだということか』
(え?)
おや、と思うより先に、枕元にあった気配が遠くなっていく。幻聴と思い込んでいたが、どうやらあれは確かに存在する何かの気配だったらしい。
それなら、もう少し話でもしておけばよかったか。そんなことを頭の端によぎらせるも、泥に沈み込むような心地よい眠気が襲ってきて、藤は深い眠りに落ちていく。
その日は、久しぶりに何の夢も見なかった。
***
翌朝、目が覚めた藤は、いつも通り着替えを済ませて食堂へ向かう。
数度の深呼吸を挟み、襖を開いて、彼女は言う。
「――おはよう、皆」
笑顔の花を、そっと顔に咲かせて。