本編第二部(完結済み)

 結局、今日は返ってきてからの一連の騒動に参ってしまったためか、藤は布団に入ってからこんこんと眠り続け、目が覚めたときにはすっかり日が暮れていた。
 起きてすぐに隣を確認した藤は、傍らに寝ていた歌仙の姿がないことに気が付いた。どうやら動き回れるぐらいには回復したようだと、藤はほっと安堵の息を漏らした。
 夕飯として卵粥を持ってきたのは歌仙ではなく、和泉守兼定だ。ここで歌仙に来られても、再び心労で疲れるだけと気遣ってくれたのだろう。
 彼は何も言わずに布団の側に置き、まるで監視するのが役目であるかのように彼女をじっと睨んでいた。卵粥を啜っても相変わらず味覚が不調のため味は全くしなかったが、和泉守兼定の剣呑な視線に晒されながら食べたのでは、きっと舌が好調だったとしても、味わうことなど到底できなかっただろう。

「――あの、さ」

 生ぬるいどろどろとした塊を腹に流し込み終えてから、藤は和泉守に恐る恐る声をかける。
 自分に対して彼が良い感情を持っていないとは、藤も重々承知している。無視されるのではないかと思いきや、意外にも彼は視線だけではあるが、こちらを見てくれた。

「ご飯、食べ終わってからでいいから、皆をここに集めてもらえるかな。その……話したい、ことがあるんだ」
「……分かった。集めりゃいいんだな」
「うん」

 自ら頼みながらも、藤は自分の喉がからからに干からびていくような錯覚に襲われていた。いっそのこと、和泉守が断ってくれればいいのにとすら、臆病な自分は思っていた。だが、彼は盆を持って特に何も言わずに部屋を後にしてしまった。
 己がしようとしていることは、故郷を離れて十年ほどの間に何度か既にした行動ではあったが、その度に刻まれた苦い記憶が胸中に広がっていく。
 結果は火を見るより明らかなのではないかと、心が何度も囁いている。そんな弱音を吐く自分をどうにか宥め賺し、藤は額に撒き続けていた薄紫の布をそっと撫でた。
 この布が取り払われたとき、いつも本丸ではなにがしかの事件が起きていた。和泉守と膝丸に詰め寄られた、あの雨の夜も。髭切が顕現した、一年前の夜も。

(あの日、僕は諦めてしまったんだ)

 先輩の審神者であるスミレに、刀剣男士たちも話せば分かってくれると言われて、もしかしたらと希望を抱いた。けれども、寄りによってその晩、歌仙たちは「主を鬼と呼ぶな」と髭切に反論した。
 その瞬間、彼らに打ち明けようという意気込みは跡形もなく消えていった。彼らの心遣いを無駄にしないように、笑っていようという気持ちだけが残っていた。
 本丸に来る前からも、藤は角のことが露呈して憐れまれるたびに笑顔を浮かべていた。そうすれば、心の中に刺さった棘の存在を全部忘れられる気がしたからだ。

(――馬鹿だな、私は。忘れられるわけがないのに)

 審神者になってからも、自分の感情を全て火にくべてしまえばいいと思い、実践もした。脳天気な神様たちは、きっと騙されてくれると予想していたが、想像以上に彼らの勘は鋭かったようだ。あるいは、自分が彼らを甘く見過ぎていたのだろうか。
 数時間前の騒動が嘘のように静かになった部屋の中、残された藤は彼らが自分の元に来る前にもう一度呟く。

「君は、何がしたい?」

 答えは、もう出ていた。


 ***


 夕飯を終えてからになったためか、藤がいる手入れ部屋に皆が集まるには、和泉守が去ってから三十分ほど待つ必要があった。
 狭い手入れ部屋に、彼女が顕現した刀剣男士総勢十名が居並ぶ姿は、圧巻とも言える。だが、これからすることを思うと、感慨や誇らしさのようなものは一切胸の内に生まれ出なかった。
 ただ、勢揃いしている面々の中に、元気そうな歌仙の顔があるのを確かめて、藤は内心で肩をなで下ろしていた。

「皆、集まってくれてありがとう。楽な姿勢をとってくれていいよ」

 続けて、大した話じゃ無いからと言いかけて、藤は口を噤む。ずらりと並んだ色とりどりの瞳を前にして、既に彼女は反射的に笑顔を浮かべそうになっていた。
 これから打ち明ける事柄を、何でもない世間話の延長として扱いそうになる。適当に済ませてはならないと頭では分かっているのに、臆病な自分が笑い話にしようとしている。
 だが、口の端が揺れた瞬間、藤は髭切からこちらに向けて射貫くような視線が注がれていることに気が付いた。琥珀色の炎を抱く瞳は、生半可の言葉で誤魔化そうとしたら許さないと雄弁に語っている。

(でも、もし認められなかったら……主の考えは間違っているって言われたら、憐れまれたら、怒られたら、蔑まれたら)

 膝の上に握った拳が、いつしか緊張で震えていた。目の前の彼らに知られないよう、浅く息を吸い込む。次いで、腹の内に溜まっていたものを吐き出しつつ、

(もし認められなかったとしたら、その時は、そんな彼らこそどうだっていい)

 いつぞやの言葉を繰り返し、己の決意へと変える。自分の誇りを胸に抱きしめ、藤は自分の前に座る十対の瞳と真正面から向き合った。

「先週、僕はここで君達にごめんなさいって謝った。ちゃんとした審神者になるから、許してほしいって頼んだ。今から話したいことは、その続きなんだ」

 藤が語り始めると、皆の顔が神妙なものになる。今はただ、彼らが黙ってこちらの言葉に耳を傾けていることに感謝をしながら、藤は震えそうになる唇を必死に動かした。

「結局、この話はただの僕の我が儘で、言い訳に聞こえるかもしれない。けれど、僕にとって絶対譲れないもので、誤魔化してはいけないんだってようやく気が付いた」

 なるべく瞬きをしないように瞳に力を込め、呼吸の回数も減らして、彼女は告げる。

「――だから、できるなら、皆にも知っていてほしい」

 刀剣男士たちは、誰も言葉を挟まなかった。
 あの和泉守や膝丸でさえ、彼女を試すような目でじっと見つめるだけで、口を開かなかった。そのことに感謝の念を抱きながら、藤は額に巻いた布に手をかけ、するりと解く。
 露わになったのは、春の深緑を思わせる若葉色の角。ガラスのように硬質で透き通っているようにすら見えるそれは、作り物ではない。確かに額に生えているものを前にして息を飲んだ者は、藤が予想していた数より幾らか少なかった。

「僕は――鬼だ。鬼として生まれて、物心つく頃ぐらいまで鬼として育った。人間という言葉すら、聞かずに過ごしてきた」

 そこまでの言葉で終わっていたのなら、きっと驚きこそすれど、問題にはならないだろう。
 けれども、彼女は一歩を踏み出す。なけなしの勇気を振り絞り、渇いた喉を動かし、続きを語る。

「だから僕という鬼を、鬼として扱ってほしい。僕にとっては、それが当たり前だったから」

 はっと息を飲む、鋭い音。それが、恐らく歌仙のものだと察した瞬間、目の奥がツンと痛んだ。けれども、言葉はもう止めない。

「僕は審神者になったとき、刀剣男士たちに期待していた。付喪神っていう人間とは違うものなのなら、人間とは異なる価値観も持っているかもしれないって思っていたから」

 審神者が共に暮らす相手が人ではないと分かったとき、藤の心は不安より先に彼らとの間に生まれる、今までと違う環境に胸躍らせていた。
 しかし、その期待はあっという間に打ち砕かれた。

「でも、皆が初めて出陣した後、鬼みたいな敵がいるって話を聞いて、追い払うから安心してくれって言われて、彼らにとっても鬼は退治するものなんだって分かってしまった。もちろん、鬼って言葉が悪い意味で使われるのは普通だって、知っていたけれど」

 それでも、心は納得してくれなかった。言葉の綾で笑い飛ばせないぐらい、藤の中に鬼である自分は強く根を張りすぎていた。
 人が故郷を忘れられないように、習慣を簡単に切り替えられないように、藤は鬼である自分を捨てられなかった。

「十分分かっていたけど、それでも苦しかった。僕を庇って『鬼と呼ぶな』って言ってくれたことも、分かっている。人間として受け入れてくれる環境は幸せに違いないって話してくれたのも、全部好意から出たもので、親切心から生まれた言葉だって、頭では理解していたんだよ。でも」

 物吉や五虎退が座っている方から、畳が擦れる音がする。彼らの動揺を感じつつも、彼女は続ける。

「でも、やっぱりそんな言葉を聞くたびに苦しくなるんだ。そういう小さな積み重ねが苦しくて、ちゃんとした審神者でなくちゃいけないって無理をしたけど、胸がぎゅって締め付けられるみたいに痛くなるばかりだった。楽しくもないのに、皆を不安がらせたくないって笑っていたら、何が楽しかったのか、何が好きだったのか、どんどん分からなくなっていった。何を食べても味がしないし、声まで出なくなりかけたこともある」

 膝の上に握られた拳に、力を込める。爪が掌を浅く裂いて、体に走った針で突いたような痛みが、震えた背中を押してくれた気がした。

「ちゃんと、言えばよかったのに、僕は皆がどうせ分かってくれないって、はなから決めつけて距離を置いていた。そのくせ、耐えきれなくなって皆から逃げ出した。でも、やっぱりそれじゃ良くないって思い直して、無理矢理戻ってきて、この気持ちを無かったことにしようとしたけど――それも、できなかった」

 数度、浅く呼吸を繰り返す。まるで深海に潜り続けているように、息をすることすら苦しい。それでも、話さねばと彼女は口を動かす。

「今まで黙って、心配ばかりかけて、ごめんなさい。でも、もう黙っていられなかった。耐えられなかった。だから」

 勢い込んで語られる言葉が、途中で嗚咽に揺れる。けれども、藤の言葉は止まらない。

「だから、こうして話してしまいました」

 瞬きをすると、熱いものが一滴零れ落ちた。

「ごめんなさい。君達の親切を、思いを台無しにしてしまって、心配をかけてごめんなさい。君達の真剣な気持ちに、ちゃんと向き合おうとしていなくて、ごめんなさい」

 淀みなく語る彼女の言葉は、最後には湿った形に変わる。どうにか目をゴシゴシと擦り、

「どっちつかずのまま、皆を分からず屋って決めつけるような自分が嫌で、知らないのだから仕方ないって諦められるような物わかりの良さもなくて、だからこれは、ただの自分勝手な我が儘で、君達にとっては知らない方が、良かったのかも、しれないけれど」

 擦っても擦っても流れ落ちる涙の中、彼女は言う。

「どうか、僕を鬼として、受け入れてほしい」

 最早まともに皆の顔を見ることもできず、藤は下を向いて、必死に漏れ出る嗚咽を押さえ込もうとした。しかし彼女の意に反して、しゃくりあげる声は収まらず、畳の上に落ちる丸い水滴の跡を見つめることしかできなかった。
 全部話したら楽になるなんてことは、まるでない。あるのは、己の言葉の刃で他人を刺してしまった罪悪感ばかりだ。
 けれども、心の内で他人の不理解を嘲笑うぐらいなら、正面から言葉の刃を向けて突き刺した方が、まだ誠実な選択に藤には見えた。そして、その選択をした自分の方が、嘗ての薄ら寒い微笑を浮かべている自分より、幾分かましなものに思えた。
 手入れ部屋の中に漂った沈黙を破ってくれる者はいない。
 どうにか涙の発作を抑え、恐る恐る顔を上げる。幸い、皆が呆れかえって皆が立ち去っているということはなかった。それどころか、誰も席を立とうとすらしていなかった。
 歌仙や五虎退といった古なじみの者たちは戸惑いを露わにしている。次郎や小豆のような中立的な立ち位置の者は瞑目したまま何か考えているようであり、和泉守と膝丸は不機嫌そうな顔でこちらを見つめている。
 彼らの反応の差も当然と言えるだろう。和泉守を筆頭に、藤が閉じこもってから来た者たちにとって、この話題は理解しづらかったはずだ。
 数分ほどして、それ以上藤が何も語らないと分かったからか、漸く口を開く者がいた。

「あんたが話したいっていうのは、それだけか」

 響いたのは、和泉守の声だった。

「……え?」
「あんた、手入れをするとよく倒れてたんだろう。それに、髭切の話じゃ、前より酷くなってるらしいじゃねえか。穢れがどうとか話していたが、その話でオレたちは呼ばれたんじゃねえのか」
「それ、は……」

 彼の瞳に真正面から射貫かれて、藤は思わず言葉を濁らせる。彼らにはもう一つ、打ち明けていなかったことがあった。
 この内容を打ち明ければ、今度こそ距離を置かれる可能性だってある。そして、藤自身、そうされても仕方ないと思っている内容だった。

(でも、話さずに上手く説明できないし……それに、もう、隠し事をしていたせいで誰かを貶めるような気持ちにはなりたくない)

 黙っていたとしても、予想外の形で露呈してしまう可能性は否めない。学生の時も、そのせいで色々と苦い思いを味わってきた。ならば、同じ轍をわざわざ踏みたくはない。

「それは、推測だけど……僕が人間を食べたことがあるからだと、思う」

 流石に飛び出した内容が内容だったために、今度は明らかなざわめきが刀剣男士たちの間に走った。
 素早く腰を浮かしかけたのは、髭切の隣に座っていた膝丸だ。だが、髭切が膝丸が立ち上がりかけるより先に、手で彼を制していた。とはいえ、髭切のこちらを見る目も、決して穏やかなものではない。

「さっきも話したように、僕は小さな山奥の村で鬼として育った。だから、人間が何かも知らなくて、うんと小さい時に料理として出されるがままに食べたことがある。村の人たちは、それが何かを知っていたみたいだけど」

 あの時、彼らが何を考えていたのかは藤には分からない。母も承知の上で食べさせたのかは、訊こうにも訊く相手が既に土の下にいる以上、どうしようもない。

「今思えば、色々と理由もあったのかもしれない。不作の秋と、寒さが厳しい冬が重なって、ずっとお腹が空いていたから、空腹に耐えかねての行動だったのかもしれない。でも、食べたことには……変わりはない」

 山の中に死体があった、と彼らは語っていた。
 山の実りが十分でなかったために、動物たちが飢え死にすることは珍しくもない。幼い頃はニンゲンという生き物もその一つだと勝手に思い込んでいたが、あれは遭難者のなれの果てだったのではないかと、知識を得て大きくなった今なら思う。
 とはいえ、その予測について逐一説明するつもりはなかった。

「それだけじゃない。僕は、その肉をとても美味しいと感じたことを、今でも覚えている。肉だけじゃない。人の血を舐めても、頭が痺れたみたいにくらくらして、美味しそうだって思ってしまう」

 自分の血だろうが、知り合いの血だろうが、お構いなしに舌は『あれは美味い』と訴えてくる。
 それは、暑い寒いを肌が自然と感じてしまうように、理性でどうこうできる問題ではなかった。それに、もとより藤は、どうこうしたいなど考えていない。

「僕は――できるなら、僕の味覚を、否定したく……ない」

 この言葉は、藤が今まで村の外で生きてきた中で初めて口にした。
 そもそも、味覚については村を出てから数えるほどしか語っておらず、それ以後は付随して連想される行いがあまりに倫理から逸脱していると分かっていたために、そして自分自身でも重々己が体験した行為の悍ましさを理解していたために、話そうとすらしていなかった。

「それはつまり、今でも誰かを食べたいって思ってること?」

 尋ねたのは髭切だ。彼の声音を耳にした瞬間、藤は全身に冷水を一挙にかけられたのではないかと思うほどの寒気に襲われ、ぞくりとした。
 藤を見据える琥珀の瞳に、優しさは微塵もない。こちらの返答次第では容赦なく首を落とすつもりなのではないか、と考えてしまうほどに、その瞳は氷のように冷たい。

「――違う。そんな風には、思ってない。誰かを傷つけたいなんて、考えたこともない。今でも、どうすればいいのかって、悩む時もある」

 半端な嘘をつくなら許さないと言わんばかりの真っ直ぐな瞳を、藤もこれまた真正面から見つめ返す。実際、この言葉は虚飾なしの藤の本心だった。

「じゃあ、何故、先ほどのようなことを言った」

 次いで問いかけたのは、膝丸だ。髭切が鬼を斬ったというのなら、きっと彼にも相応の逸話があるのだろう。だからこそ、彼らにとって人に害をなす『人ではないもの』というのは、他の刀剣男士以上に見過ごせぬ内容だったようだ。

「僕は……自分の舌を、自分の感じるものを、気持ち悪いって、言われたくない」
「…………」

 常人ならば、到底理解できないだろうと、藤も返ってきた沈黙に対して理解をしていた。
 この舌が気持ち悪いと、自分で言ってしまった方が、まだ同情を得られたに違いない。
 けれども、鬼の件も含めて、自分が間違っていると否定し続けることは、藤にとってはもう苦痛以外の何者でもなかった。

「だから、和泉守がさっき言っていたように、僕のした行為は許されないもので、それが原因で……きっと、穢れのようなものを持ってしまっているんだと思う。そんな僕が、皆みたいな綺麗な神様を治そうなんて、思い上がったことをしたから天罰が下っているんだ」
「その天罰とやらが、手入れをするだけで真っ青になっていたアレか」
「……うん」

 和泉守に頷きかけてから、藤は全員に向けて語る。

「君達にとって、気持ち悪い主に見えると思う。だけど、それでも……僕は、皆の側にいたいって願ってしまう。君達からしたら、間違っていることなんだろうって分かってるのに、望んでしまう」

 遠ざけられても仕方ないことを打ち明けたと、藤も頭では理解していた。
 だからこそ、彼女は頭を下げる。無理を通すことをお願いしていると承知しているからこそ、この件に関しては頭を垂れずにはいられなかった。

「――受け入れてほしいって願って、ごめんなさい」

 鬼でありたいことについては、単なる価値観の問題とも言える。だが、この件は、単純な価値観では片付けられない生理的嫌悪も含まれていると、藤は嫌というほど理解していた。
 だから、そんな嫌悪を理解した上で無理を言って抑えつけてもらうのだから、せめて申し訳ないという謝罪という形をとらなければならないと藤は思っていた。
 再びの沈黙。
 誰も何も語らず、それぞれが与えられた言葉を受け入れる時間だけが流れていく。

「……主」

 ようやく口を開いたのは、歌仙兼定だった。遂に彼から結論を聞かされるのかと藤が身構えていると、

「待て、之定。先にオレから言わせてくれ」
「……和泉守」

 歌仙の言葉に割って入った和泉守が、緊張で張り詰めそうな藤を見つめ、

「つまり、あんたは鬼で、人間を喰ったら美味いって思うような奴で、それを他の連中にずっと隠してた。だけど、之定たちはあんたの考えとは真逆の形であんたに優しくするもんだから、あんたがそれが嫌だったけど言い出せなかった。そういうことか」

 簡潔に藤の話した内容をまとめ、和泉守は藤の回答を待つ。大筋に異論はなく、藤はゆっくりと頷いた。

「だったら何だ。それが、あんたがオレたちを顕現してほったらかした理由になるのか。オレたちが仲間を治してくれと頼んで断った理由になるっていうのか」

 彼は怒鳴ってはいなかった。ただ、淡々と藤の中の考えをと認識を検めるかのように、彼は問う。

「……僕が手入れをするために皆のところに行ったら、僕はまた皆の優しさに合わせようとしてしまう。自分の心を殺してしまう。それには耐えられないって思ったから、僕はあの夜、君達のお願いを断った」
「そうか。それが分かったなら、十分だ」

 和泉守は一度息を吐いてから、言葉を続ける。

「あんたが苦しんでた理由なんざ、オレは知らねえ。あんたの色々な話を聞いても、それがオレがあんたを許してやる理由にはならねえ」
「……うん」

 和泉守の言い分はもっともだ。彼がここ数ヶ月、藤の態度から感じていた苛立ちや怒りは、藤の態度そのものが原因であり、そこに付随する事情に和泉守たちは全く関わっていないのだから。

「だから、あんたの考えを知ったからって、あんたを主と認めてやろうなんてちっとも思わねえよ」
「そう、だね。……それは、君の言い分の筋が通っているって、僕も思う」
「だけどな。あんたが鬼だろうが人を食ったことがあろうが、それだけであんたが悪い奴と決めつけはしねえ」

 藤の瞳を真正面から見据えて、顕現した直後に主から見離された男は言う。

「オレはあんたの言い分は理解できねえが、あんたがそうしたいって言うんなら、知っていてわざわざ邪魔する気もねえよ。穢れだか何だか知らねえが、あんたがあんたの言う『ちゃんとした審神者』としてオレに認められたいって望むんなら、あんたなりのやり方でオレを納得させてみせろ」

 その言葉は、一週間ほど前にここで和泉守が語った言葉と何ら変わらなかった。彼は、徹頭徹尾、藤のこれからの行動しか見ないと告げていた。

「……和泉守は、僕が気持ち悪いって思わないの。自分の肉を食ったら、美味しいって感じるような奴が目の前にいるのに」
「あんたは、食いたいわけじゃないって自分で言っていただろう。それとも、あれは嘘か」

 藤は慌てて小刻みに首を横に振る。ふん、と和泉守は呆れたように鼻を鳴らし、

「血が美味いって感じるのはどんな感覚しか知らねえが、あんたはぼろぼろの歌仙を前にして、美味しそうだなんて一言も言ってねえ。あんたは、ただ血相変えてガキみたいにわんわん泣いて、病人みたいな顔になりながら手入れしていた。違うか」
「……違わない」
「なら、オレにとっちゃ、それで終いの話だ。他に話すことも無ぇ」

 和泉守は言うだけ藤に言葉をぶつけると、やや乱暴に敷いていた座布団の上から立ち上がる。荒っぽい手つきで障子を開くと、

「オレの言い分はこんだけだ。あとは他の連中と腹ぁ割って、あんたの満足がいく落とし所ってやつを探しとくんだな」

 それだけ告げると、長い黒髪をたなびかせて部屋を後にした。その後を追うように、堀川も腰を上げる。

「主さん、色々話してくれてありがとうございます。僕、少しだけ主さんのこと、分かったような気がします」

 ぺこりと頭を下げ、彼も和泉守の背を追って部屋を出て行く。
 彼らにとって藤の告白は衝撃こそ多少与えていたが、実感の薄い衝撃でもあったのは間違いない。彼らと藤の付き合いはまだ浅いのだから、その反応は当然とも言えた。
 続けて、席を立ったのは膝丸だった。

「俺も、和泉守と同意見だ。貴様がどんな信条を抱いていようと、俺の貴様への評価が覆るわけでは無い」

 己の刃そのもののように、鋭い切れ味の言葉をすっぱりと述べ、だが彼はすぐ立ち去らずに髭切にちらりと視線をやった。

「……自ら鬼であろうとする者が主というのは、些か思う所がないわけではないが」

 膝丸にはまるで理解できず、寧ろ否定したい考えなのだろうとは、藤にも伝わってきた。しかし、彼は激昂して頭ごなしに否定するような真似はしなかった。その態度だけで、藤にとっては十分だ。

「それに、貴様が物語で語られるような、野蛮な人食い鬼のようには思えんからな。……それだけだ」

 こちらは和泉守とは異なり、到底それだけと思っているようには見えなかった。どうやら、髭切の顔に免じて、他にも言いたかった言葉は飲み込んだらしい。
 失礼する、と言い残して早々に身を翻した彼に、藤は無言で頭を下げた。自分に気遣いをしてくれた彼の優しさに――たとえ、それが髭切のためのものだったとしても、それでも有り難いと藤は感じたのだ。
 続けて口を開いたのは、

「わたしは、主のはなしがきけてうれしいぞ。たしょう、おどろかされはしたが、しることができてよかった」

 藤が閉じこもってから顕現した内の最後の一人、小豆長光が彼女に語りかける。

「主がなやんでいたこと、せのびをしていたりゆう、それがいまの主のことばにあるのだとおもう。ざんねんながら、わたしは主のおもいのすべてがわかるとはいえない。だが、わからないからこそ、すこしずつわかりたい」

 小豆は不安げな子供を宥めるように、優しくゆっくりと声をかける。彼の瞳は、穏やかで凪いだ海を思わせるものがあった。

「ただ、わたしとかれらでは、きっとおもいもちがう」

 小豆はそこまで告げてから、ゆったりとした動きで自分の周りに座る面々を見つめる。
 立ち去った者たちよりも、明らかに激しい動揺や当惑を顔に滲ませている彼らと、小豆たちが感じた時間は短いようであまりに違う。その差を分かっているからこそ、小豆は彼らに引き継ぐための架け橋となるように、

「かれらと主のあいだにはたくさんのことばと、れきしがあったのだろう。たくさんの、おもいでがあったのだろう。だから、あとは、ほかのみんなにまかせたい」

 ゆっくりとそこに居並ぶ面々に頷きかけてから、小豆は立ち上がった。

「あるじのすきなすいーつを、こんどおしえてくれるかな」

 去り際に優しく微笑みかけ、そして部屋には六人が――藤と共に過ごした記憶を色濃く持つ者たちが残った。


 ***


 手入れ部屋を出て、和泉守は長く息を吐く。それでもなお、溜まっていたものが抜けた気がしなかったために、彼はその足で居間まで向かった。
 どうにもむしゃくしゃしていたので、腹に何か入れようかと思ったのだ。要するに、やけ食いである。

「兼さーん、どこ行くの?」
「おう、国広。ちょいと居間につまみに行くだけだ」
「じゃあ、僕もお供するよ。それにしても、主さん、あんなこと考えてたなんてびっくりだよね」

 話を不意に戻されて、和泉守は整った眉をぎゅっと寄せる。彼の様子を知ってか知らずか、堀川は言葉を止めずに語り続ける。

「それに、兼さんも何だかんだで主さんのこと、心配してるんだなって」
「してねえよ。オレは、本人次第だって思ってるだけだ」
「猶予を与えるだけ、兼さんは主さんが気になってるんじゃないかな。本当に気に入らなかったら、もう今頃荷物をまとめてるでしょ」

 堀川に指摘され、和泉守は口をへの字にひん曲げた。
 丁度良く居間に辿り着き、彼はどっかりと座布団の上に腰掛ける。幸いなるかな、菓子盆には煎餅が残されていた。乱暴に一枚を抜き取ってから、和泉守は豪快にぼりぼりと囓る。

「……責任を投げ出してへこへこしてるだけの主だったなら、そうしてたけどよ。あいつは、之定を前にして逃げなかった」

 血まみれで倒れ伏した最も親しい刀剣男士を見て、彼女はこんな恐ろしい場所にいたくないとは言わなかった。手入れをせずに逃げようともしなかった。
 無論、ただそれだけで見直そうなどとは思っていない。目の前に座る堀川が負傷したとき、彼女が手入れを拒んだことは紛れようもない事実だ。

「あいつは、お前や他の連中の手入れは拒否した。オレを顕現したときも、審神者の責任なんて興味ないみたいな態度をとりやがった。だけどよ、それだけじゃねーっつーか」
「主さんの気持ちも、一枚板じゃないって兼さんは思ってるんだよね。素直じゃないんだから」
「うるせえっ。オレはまだあいつを認めてねえ! それだけはぜってーに確かだ!!」

 もう一枚煎餅をばりばりと囓り、すかさず堀川が差し出した湯飲みを受け取って一気に飲み干す。盛大に机に湯飲みを音高く置いてから、

「大体、何で自分がぶっ倒れそうな顔してんのに、あいつはへらへら笑ってやがんだ! 辛ぇんなら、大人しく倒れておけばいいのによ!!」
「兼さん、主さんが倒れたことを凄く心配してたものね」
「心配なんざしてねえ。ただ、之定が起きたときにあいつが倒れてたら、之定に……何つーか、悪いだろ」
「そうだね。歌仙さんも、悲しくなっちゃうよね」

 分かったか分かっていないのか、はっきりしない会話を和泉守が堀川と繰り広げていると、ふと影が差した。見れば、そこには小豆と膝丸が立っていた。

「よお、あんたらも抜けてきたクチか」
「ああ。あそこに俺がいても、どうにもならんからな」

 膝丸は和泉守と座布団一つ分、離れた位置に座ってから同じように煎餅を二つ手に取る。一枚を隣の空いたスペースに置いてから、彼は何かに気が付いたように琥珀の目を見開き、

「……そうか。兄者は、向こうか」

 どこか寂しげに呟いてから、煎餅を菓子盆に戻そうとしたが、不意ににゅっと小豆の手が割って入る。

「せっかくだから、わたしがもらっても、いいだろうか」
「……ああ、そうしてくれ」

 煎餅を小豆に渡してから、膝丸は袋を破り、鋭い牙で硬い表面に齧り付いた。眉間に何度も折りたたまれた皺が、彼が先だってのやり取りについて、思う所大いにありと告げている。

「膝丸は、髭切のことがあるから、そのようにしかめつらを、しているのかな」
「俺には、到底理解できん。あやかしのように見られても構わないという主も、それを受け入れようとする兄者も」
「膝丸は、うけいれられないと?」
「…………」

 返事の代わりに、バキリと煎餅を割る音が響く。

「髭切のことがあって、ここをでていけないから、とどまるということだろうか」
「そこまでは言っていない! 俺は、ただ」

 膝丸は煎餅を食べる手を止めて、小豆に勢い込んで言葉を放つ。だが、小豆の顔を目にして、彼の語気はゆっくりと抑えられていった。
 小豆は、真剣な問い詰めるような顔で尋ねていたのではなかった。ゆったりとした微笑は、眉間に刻まれた皺と同じく、頑なになってしまった心を解こうとしているように膝丸には見えた。

「俺は、ただ……よく、分からぬだけだ。主の言いたいことは――まるで、理解できないわけではない。もし、俺が……例えば、弟などという下の立場は可哀想などと言われたら、それは腹も立つというものだ。まして、それが兄者に言われたとしたら、どうすればいいか分からなくなる」

 膝丸は膝丸なりに、藤の想いを自分の認識できる形で汲み取ろうとしていた。しかし、彼にとっては容易に越えられない壁も、そこにはあった。

「だが、鬼でありたい、という気持ちは……理解できん。人の血肉を美味であるという感覚を、否定してほしくないという言葉もだ」
「だったら、膝丸は主のかんがえを、ひていしたいと?」
「……理解できぬからと言って、頭から拒絶したいわけではない。それでは、俺の方が狭量のように見えるではないか」

 勝ち負けの問題ではないと分かっているが、そんな態度をとるのは藤の必死の告白に対して、あまりに幼稚な反応に思えた。だから、膝丸は整理のつかない感情を抱えたまま、こうして渋面をこしらえている。

「わたしも、しばらくは、主とすごしてかんがえたい。主が、ほんとうはなにをおもい、どんなふうにいきたいと、ねがうひとなのかを。こたえをだすのは、あわてなくてもいいとおもうぞ」

 小豆は思い悩む青年に声をかけ、未だ不機嫌そうな顔の和泉守と少し困ったような笑みを浮かべている堀川も含めた三人に、

「よかったら、かるくつまめるものをつくろうとおもうのだが、いっしょにどうだろうか」

 温かな微笑みと共に、夜食作りに誘ったのだった。
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