本編第二部(完結済み)

 傷そのものは先ほどのお守りがほとんど塞いでくれているが、それも全てではない。血がじんわりとにじんでいる様子を目の当たりにして、体調不良とは別の胃が引き絞られるような感覚に藤は襲われていた。

(こんな酷い傷で、それでもずっと主、主って……呼んでくれてた)

 主を呼び続け、愛おしそうに目を細め、微笑みかけてくれた。その笑顔に答えることが二度とないかもしれないと思ったときの、世界が真っ暗になったかの如き喪失感を、藤ははっきりと覚えている。

(僕の体なんて、どうなってもいい。歌仙を治したいんだ)

 和泉守や膝丸に詰め寄られたあの夜の日に、素直に応じなかった自分の優柔不断ぶりを心底藤は悔やんでいた。このような傷に耐えながら戻ってきたというのに、治そうともしなかった主を受け入れてくれた皆には、何度頭を下げても足りないだろう。
 だが、彼らに謝罪するのは後だ。全ては、歌仙の傷を癒やしてからと藤は気持ちを落ち着かせ、集中しようとする。周りの余計な雑音を押しやろうと意識を整えていた彼女は、話を聞きつけて手入れ部屋の周りにやってきた刀剣男士にも、彼らを無言で追い払っていた和泉守の様子にも気が付かなかった。

(いつもなら、包帯を巻いてから手入れをしていた。そうすれば、怪我が治る所を直視せずに済んだから。でも……今は、そんな時間も惜しい)

 彼らを神様と意識すればするほど、触れてはならないものに触れているという、得体の知れないバツの悪さに体が蝕まれてしまう。この苦しみが天罰だというのなら、それを甘んじて受け入れる覚悟はあった。だが、覚悟だけでは乗り越えられないのが現実だ。
 再び歌仙の傷に手を添えて霊力を流し込もうとするも、傷が塞がり綺麗な肌に戻るさまを目にすればするほど体から血の気が引いていく。あたかも、自分の血を彼に分け与えているかのように。
 次いで頭が割れるのではと思うほどの酷い頭痛に襲われ、藤は耐えきれずに蹲ってしまった。

「藤殿、まさか手入れをするたびにそんなことになっているのか?」

 部屋の隅で様子を見守っていた鶴丸に問われ、藤は青ざめた顔で頷く。同じく側で見ていた髭切が思わず腰を浮かせて藤に駆け寄るほど、彼女の顔は蝋のように白く、唇は色をなくしていた。

「以前、僕を手入れしたときはここまでじゃなかったよね?」
「あれは……まだ、包帯を巻いて傷を隠していたから」
「傷を隠した状態で治せば平気なの?」

 咄嗟に彼らを安心させるために首を縦に振ろうとしたが、至近距離から髭切に見据えられ、藤は朦朧とした意識の中でも嘘はつけないと直感で悟る。ここでまた自分を偽ったら、再び肩を掴まれて正面から雨あられと言葉をぶつけられるだろう。彼に、そこまでの心労はかけられない。

(――ううん、そうじゃない。彼が何かするからじゃないんだ。僕が何をしたいかを、髭切は尋ねていた)

 皆に心配をかけたくないという気持ちに偽りはないが、もっと奥深くの自分の要望は別の形をしている。髭切が望んでいるのはその言葉だ。それを汲み上げて話すべきか逡巡し、やがて藤はゆっくりと口を開く。

「傷を隠しても……平気じゃない。最初はここまでじゃなかったけど、段々手入れをする度に頭が痛くなったり、貧血みたいになったり、吐いたりとか……色々と気分が悪くなって、しかも益々酷くなってて」

 藤の言葉を聞いて、和泉守は肩をぴくりと動かす。しかし、それ以上動くこともなく、和泉守は彼らのやり取りを黙って見守っていた。

「何で言わなかったのかってのは、また後で訊くからね。原因は分かっているのかい」
「多分、だけど……僕が、君たちみたいな神様にとって、良くないものだから、穢れているから……だと思う。だから、君たちが神様なんだって目で見てはっきりと確かめながら触れると、頭が痛くなるんだ」
「それが、手入れの時なんだね」

 髭切に念を押されるように問われて、藤はぎこちない所作で頷いた。

「じゃあ、僕たちを見なきゃいいんじゃない? 目を瞑って手入れするといいよ」
「いや、それじゃあ結局気分が悪くなることに変わりはないんじゃないか。包帯を巻いていても体調を崩すというのなら、視認というよりもっと根幹の認知の問題だと思うがな」

 再び鶴丸が横から口を挟み、彼の意見を述べる。彼の隣によくできた人形のように座っていた更紗は、不意に鶴丸の着物の袖を引き、彼の手に何かを書いた。

「……ああ、その手があるか。藤殿、資材を使った方法は試したのか?」
「え? 資材って鍛刀のときに使うものだよね。手入れにそんなものをどう使うというの?」
「まさかと思うが、きみは知らないのか?」

 藤は不安げに視線を彷徨わせて助け船を求めるように髭切を見つめるも、彼もゆっくりと首を横に振る。だが、同席していた和泉守は思い当たる節があるといったように、微かに翡翠の瞳を見開いた。

「もしかして、あのやり方か。先日来ていたよその審神者が、資材を手入れの力に変えるとか何とか言っていたな」
「何、それ?」

 ずきずきと疼痛が残る頭を片手で押さえつつ、藤は尋ねる。

「何でも、刀剣男士に霊力を注ぐだけよりも、資材を治す力に変化させて使う方がいいとか……。覚え書きに書いてあったって偉そうに話してたぞ」
「――え?」

 一瞬頭痛すらも忘れ、藤は自分でも間抜けと思える声を漏らしてしまう。
 藤にとって、手入れとは己の中に宿る霊力を刀剣男士に注ぐという行為を指す。審神者になった直後に読んだ手引書にも書いてあったのはそれだけで、それ以外の方法があるなどと考えたこともなかった。

「俺が言いたいのもその方法さ。知らないなら、俺の主が教えてくれるだろう。藤殿、資材を借りてもいいか」

 一も二もなく、藤は勢い込んで頷いた。話がまとまったと分かるや否や、和泉守と髭切は腰を上げて勢いよく部屋を出て行く。
 どたどたという荒っぽさの残る足音が遠ざかり、手入れ部屋には程よい沈黙と緊張が満ちていった。一度血の気の引いた体に血液を巡らせようと、藤が何度か深呼吸をしていると、ずりずりと座ったまま足を擦るようにして更紗が藤の側にやってきた。

「更紗ちゃん」

 つい数十分ほど前に、声無き声で苛烈な言葉をぶつけてきた子供。彼女を前に、自分はいったいどんな顔で応対すればいいのかと、藤は口元を曖昧に歪ませる。その歪みが笑みの形をとろうとしたとき、

(僕は、何がしたいんだろう)

 彼女は、再び己に問いかける。常に問い続けなければ、顔が勝手に笑顔を作ろうとしてしまっていた。それは、きっと更紗の望む所ではないのだろうと藤は既に察している。
 そうはいっても、結局藤が浮かべた顔は笑顔のなり損ないのような曖昧な表情だった。

「色々迷惑をかけて……ごめん。嫌な思い、させたんだよね」

 更紗は無言で頷く。この子供も笑顔であり続けようとする藤に対して、髭切同様に無遠慮とも思えるほど、さっぱりと己の意見を露わにしていた。子供らしい身勝手な感情と一蹴してもよかったが、そこには無視できない真摯な思いも確かに込められていた。

「まだ、上手く言葉がまとまらないんだけど……もし、これからも更紗ちゃんが僕と仲良くしてくれるなら、また後で、話をさせてもらえるかな」

 決意の言葉は辿々しく、覚束ないものだ。ここまで言っておいて、前言撤回する可能性を否定できないほどに、不安定で頼りない表明だった。
 しかし、更紗はゆっくりと深く深く頷き、懐からメモを取り出して走り書きで己の気持ちを綴る。突き出された白い紙には、少し歪んだ文字で、

『いまの ふじ まえより もっと すき』

 綴られた言葉の並びに、藤の心深くに眠っていた感情が揺さぶられる。

「もしかしたら、君は僕のことが怖くなるかもしれない。嫌いになるかもしれない。でも、君がいっぱい怒ってくれたから、その一生懸命に……応えさせて、くれるかな」

 最後の声は震えて、音の形すらろくに留めていなかった。けれども、たしかに更紗は聞き届けたのだろう。彼女はもう一度深く頷き、膝立ちになってゆっくり、ゆっくりと藤の頭を撫でた。
 彼女の温かい手は、檻の中から恐る恐る一歩を踏み出して面を外した鬼の行く末を、優しく祝福しているように藤には感じられた。


 ***


 数分もしない内に、髭切と和泉守は鍛刀部屋にやってきた。彼らが一緒に持ってきた白い紙の上に資材が並べられる。
 木炭、玉鋼、冷却材としての水に砥石。どれもこれも、鍛刀を行うときに供物として炉に捧げる品々だ。普段は鍛刀用の薄暗い部屋に置かれているそれらが、この手入れ部屋にあるのは、何だかちぐはぐな印象を藤に与えた。
 これをどうすればいいのかと、藤が目線で鶴丸に助けを求めると、

「俺が政府にいた頃に聞いた話によると、資材には大きく二つの力が宿っている。刀を作るための力と、刀を直すための力だ」

 一つずつ指を折りながら、鶴丸は淀みなく説明する。藤は逸る気持ちを抑えて、彼が語る言葉を一字一句聞き漏らさないように耳を傾けていた。

「審神者は物に宿った思いを形にする力を持つが、これらの品には俺たち付喪神のように人格が宿っているわけじゃない。その代わり、これらにはもっと単純な俺たちを生み出すための捧げ物としての意味と、俺たちを修復するという意味が込められている。だから、鍛刀のときにしていることの指向性を変えてやればいい――と、俺は聞かされていた」

 鶴丸の言葉を呼び水として、藤は資材の山に目をやって暫し考える。
 鍛刀のときも手入れのときも、藤はただただ必死に祈っているだけだった。鍛刀ならば、新しい仲間が来ますように。手入れならば、傷が治りますように。彼女の霊力の使い方は付け焼き刃の講習で教えてもらったものだけで、指向性と言われても具体的な方法は全く思いつかなかった。
 しかし、分からないからと言って、匙を投げるわけにはいかない。資材の前に座り込んだ藤の隣に、更紗もちょこんと腰を下ろす。彼女の小さな手は、あたかも心配するなと安心させるかのように藤の手にそっと添えられていた。

(大丈夫。きっと、大丈夫――だと思う)

 目を閉じ、藤は資材に手を翳す。目を閉ざして、視覚とも聴覚とも触覚とも違う感覚の向こう側で、ぼんやりとした不定形の塊を藤は感じ取っていた。
 それは、例えるなら真っ暗闇の中に置かれた氷の塊のようなものだ。普段ならその塊は藤の意思に従って、自由に形を変えてくれる。鍛刀のときは刀の形に整えておけば、いつの間にか資材が無くなり炉から炎が上がっているのだが、今は刀を作るためではなく癒やすために力を導く必要がある。

(歌仙を治したいから、僕に力を貸してほしい。彼の傷を塞いで、痛くないようにしてほしい)

 祈りを捧げてみた瞬間、普段なら確かな輪郭を帯びていた塊が途端に形を無くし、藤は思わず小さく息を呑んだ。例えるなら、氷の塊だったものが、いきなり水に変わってしまったかのようだ。
 そのまま流体のように変化した力は、藤の周りをぐるぐると流れる続けているものの、彼女の意思に反して全く藤の制御下には入ってくれない。
 自分の力を使って手入れをする場合は、己の中にたまっている霊力をそっと汲み上げて、彼らの体に流しこんでやればよかった。癒やすための力は入れ物に入った水のように大人しく、そこから必要な分だけ掬い上げて与えていた。己の身の内にあるからか、細かい調整もしやすく、力もあちらこちらに行くことはない。
 だが、藤が今扱おうとしている力は、好き勝手に動いて、捉えられない。

(お願いだから、言うことを聞いて!)

 焦れば焦るほど、資材に宿る力は藤の手からすり抜けていく。逸る思いで流れる水のようなそれに手を伸ばし続けていると、傍らから別の温かな意思が紛れ込んでくる。
 意識の中にあるもう一つの目をそちらにやると、そこには小さな子供の姿が見えた。

(更紗ちゃん……?)

 傍らに座る少女と同じ気配を漂わせている子供は、手を広げて円を何度か描く。素早く流れる川の一点に飛びついて捕まえようとする藤とは対照的に、彼女は全てを包みこむように腕を大きく動かしていた。
 ならばと、藤も水流のように動き回る力をぐるりと囲い込むイメージを持ちつつ、意思の力で働きかける。すると、途端にあれほど暴れ回っていた力が手の内に収まっていく。

(後は、いつもと同じように、歌仙の元へとこれを送ればいいんだよね)

 鶴丸が口にしていた『認知』という言葉を意識して、藤は自分の力を直接流し込むのではなく、あくまで余所から得た力を通す通路を作るだけだと自分に言い聞かせる。
 両手に抱えた水のような力の塊を、歌仙に十分送り届けた確信できてから、藤はゆっくりと目を開く。

「うまく、できたかな……」

 集中しすぎて頭がくらくらしていたが、眼前の資材が全て無くなっていることに気がついて、藤はすぐさま後ろに眠っている歌仙の方を振り返る。
 そこには、お守りに込められた力でも消しきれなかった傷すらも、全て塞がった彼の体があった。滑らかな肌に傷一つ残っていないと分かり、藤はようやく安堵の息を吐く。
 そんな彼女の油断を突くように、再び頭の片隅がずきんと痛んだ。それでも、地面が揺れているような感覚こそあれど、常日頃の手入れに比べれば随分とましな方ではある。

「おい、あんた」

 頭上から降ってきた声に気が付き、藤はのろのろと顔を上げた。そこには、歌仙と同じ翡翠色の瞳をした青年――和泉守が仁王立ちして彼女を見下ろしていた。
 何かを咎めるような彼の視線、彼と自分があまり良いとはいえない関係を築いているという点、更に言えば歌仙は和泉守とは浅からぬ縁があったはずだ。もしや、手入れも人の知恵を借りなければ満足にできない審神者と分かり、失望されてしまったのかと藤は青ざめる。

「ご、ごめん。ちゃんと、言ってなくて……その、手入れ自体は、できないわけじゃないから。体だってすぐに治るし」

 自分でも言い訳染みた言葉だと分かりつつも、藤は必死に己の弁護を重ねる。彼女自身、意識してはいなかったが、その顔には再び完璧すぎる笑顔の面が張り付いていた。

「鶴丸さんたちに、お礼言わないといけないよね。それに、どうして歌仙があんな怪我していたのかも訊かないと。和泉守、あの時一緒にいたようだけれど、歌仙から何か教えてもらった?」
「ああ、之定から話は聞いている。だけどな、オレはそれより先にあんたに言わなきゃならねえことがある。之定がこんな状態だから、オレが代わりに言わなきゃならねえんだろうが――」

 眦を釣り上げ、和泉守は未だ立ち上がれずにへたり込んでいる藤に顔を近づけ、

「そんな真っ青な顔した奴は、何かしようとか言う前に布団に入って寝てろ!」

 思わず吹き飛んでしまうかのような大音声を正面から叩きつけられ、藤は目を丸くしたまま凍り付いてしまった。そんな彼女の驚きなどお構いなしに、和泉守は言葉を続ける。

「まったく、どいつもこいつも自分は平気だの、自分がいなくてもいいだの、全然そんなこと思ってねえ顔してんのに、心にもないことばかり言いやがる。いいか、あんたは今すぐ休め。その死人みたいな顔で、あちこち歩き回るんじゃねえ」
「おや、和泉守。君は、主を心配してくれているのかい?」

 髭切に尋ねられ、今度は和泉守は肩を怒らせてずんずんと彼に近づいた。

「主だから心配してんじゃねえ。こんな顔した奴、主だろうがなかろうが、放っておけるわけねえだろうが。第一、オレが何か言うより先にあんたが主に忠言すべきだろうがよ」
「うーん、主が無茶しそうだったら、引き倒してでも止めるつもりではあったよ」
「病人に向かって、何で口より先に手ぇ出そうとしてんだ。こいつが倒れる時間が長くなるだけだろうが」

 呆れたように和泉守は頭に手をやり数度乱暴に掻くと、部屋の隅にあった座布団を掴んで藤にひょいと投げ渡した。
 手で受け取るというよりは顔で受け止めるような形になった藤は、呻き声とも悲鳴ともとれぬ声をあげて、ぐらりと体を傾がせる。

「布団の準備ができるまで、それでも枕にして寝てろ。あと、そっちの審神者と鶴丸国永。あんたらには悪いが、こいつは今この有様だからな。悪ぃが何の用だから知らねえが、また別の日にしてくんねえか」

 鶴丸については歌仙が個人的に呼んだために、鶴丸が用があったのはそこで寝ている刀剣男士とまでは、和泉守も知らなかったらしい。
 鶴丸も、自分が本来ここに来た理由――笑顔で心を覆い隠した主にどう接するかという歌仙の相談を聞きに来た件については語らずに、何てことのないように肩を竦めてみせる。

「そのようだな。藤殿、今日は色々あって疲れただろう。ゆっくり休んでくれ。次に会うときは、きみともっと楽しい話ができたらいいな」

 思わせぶりな言葉を投げかけて、鶴丸は更紗と共に部屋を出て行く。和泉守も、見送りのために部屋を去ろうとしていたが、

「おい、髭切。あんた、そこにぼーっと座ってないで、布団の用意をして、そこのふらふらしてる奴を突っ込んでおけ。抜けだそうとしても、絶対出すんじゃねえぞ」

 口早に髭切に命じるやいなや、彼もまた手入れ部屋から慌ただしく去って行った。藤は座布団を抱えた状態で、貧血か頭痛か分からない曖昧な倦怠感に体を委ねながら、遠ざかる足音を漫然と聞く。
 視界の端にいた髭切が立ち上がり、襖から布団を出している様子を、彼女は視界の端に捉えた。寝床の支度をしている彼の行動そのものは眼前の出来事であるというのに、まるで一枚画面を挟んだ向こう側のことのように、藤の仲で現実感が奇妙なまでに失せていた。

「ねえ、主」

 唐突に呼びかけられ、夢うつつだった藤はようやく意識を浮上させる。歌仙の隣に敷き布団を並べた彼は、目線は布団にやりながらも淀みなく言葉を続ける。

「和泉守の言う通り、ここで休むのはいいとして、その後はどうするの?」

 座布団を抱えたまま、藤は答えない。畳の上を彷徨う視線は定まらず、あちらへ行ったりこちらへ行ったりを繰り返している。十数秒かかってようやく絞り出した答えは、

「……髭切は、どうした方がいいと思う?」

 そんな、情けない人任せの問いが口から零れ出ていた。

「僕は何も言わないよ。決めるのは主だから。ただ、前と同じことをするって言うのなら、僕は何度でも君を叱りに行くよ」

 疲れている件を差し引いても、考えるということを放棄していると丸わかりの回答に、髭切もまた、つれない返事をする
 枕を敷布の上に置き、手際よく掛け布団を広げた髭切は「どうぞ」と藤に入るよう促す。ここで意地を張って起きていても、戻ってきた和泉守に怒られてしまうのは目に見えていた。自分の体調ぐらい把握しろ、と怒られたばかりなのだから。
 もぞもぞと布団の中に潜ると、仕舞われていた布団独特のシンとした冷たさが体を包んで行く。数度寝返りを打ってじっとしていると、やがて体温が布団に移ったのか、程よい温かさに全身が包まれていった。

「お休み、主」

 髭切はあれ以上の言葉は投げかけず、就寝の挨拶だけを残して去って行く。障子が閉まる音が響き、後に残ったのは隣で寝ている歌仙の微かな息遣いだけだった。

(――これから、どうしよう)

 すぐに眠るわけにもいかず、藤は頭の中で終わりのない思考の坩堝に嵌まっていた。
 髭切には既に打ち明け、彼は受け入れてくれた。ならば同じように歌仙たちにも話したら、何もかも上手くいくかと言われれば、藤はそこまで楽観視はしていなかった。
 歌仙や他の皆が髭切のように、すんなりと自分の考えを受け入れてくれるとは想像できない。誰かに受け入れてもらった経験があの一度だけだった以上、もう一歩を踏み出すのには、最初の一歩と同じぐらいの勇気が必要だった。

(皆に分かってもらえないかもって考えるのも怖いし、やっぱり歌仙たちを傷つけてしまうことになったら、それも悲しい)

 髭切に語ったように、皆に拒絶されるのを恐れているという気持ちが占める分も大きい。しかし、言い訳に使っている部分もあったとはいえ、彼らを傷つけたくないという気持ちもまた本心だ。失望され、罵倒されるのも想像しただけで胸が苦しくなるが、同じぐらい彼らが傷ついてしまう姿を見るのも辛い。

(前に打ち明けたときも、そうだったものなあ……)

 このようなやり取りは、何も初めてではない。覚えているだけでも三度、藤の中に苦々しい記憶として刻まれていた。
 一度目は、養護施設に居た頃の先生だった。彼らは、幼い子供に歪な思考を植え付けた大人を悪し様に言い、見当違いな慰めの言葉を藤にかけた。
 二度目は、自分を育ててくれた養母だ。彼女は実の母のように優しくしてくれたから、きっと分かってくれるだろうと無邪気に信じた結果、
――どうして、そんなことを言うの。私のことが、嫌いになってしまったの。
 拒絶の言葉が、涙と共に返ってきた。

(泣かせるつもりはなかったんだけど、おばさんがいっぱいしてくれた親切を、あの一言で台無しにしてしまった)

 その日からより強く、誰かの親切には親切な気持ちでお返しするものだと思うようになっていった。涙を流す養母の前で自分の意見を押し通せるほど藤も強気にはなれず、結局適当に誤魔化して有耶無耶にしてしまった。
 三度目は、数年前に同級生たちの間で起きた。折しも、角が生えていることや人を食った経験が面白おかしく噂され、虐めというほど目立った弾圧を受けていたわけではないものの、クラスの中で腫れ物扱いされていた時機だ。
 見るに見かねて庇ってくれた友人たちに「鬼と呼ぶなんて酷いよね」と同意を求められ、つい「私は鬼でもいいんだけど」と口走ってしまった。

(あのときは、誰にそんな風に言うように虐められたのかって、逆に心配されちゃった)

 与えられたのは望んでもいない同情ばかりで、結局誰一人としてまともに受け止めようとはしなかった。
 もっと真摯に話し合えば何か変わったのかもしれないと、髭切が認めてくれた今なら思える。彼らにも申し訳ないことをしたと思う一方、ならばこの今をどうするのかという疑問に立ち返っていく。

(何も話さなかったら、髭切にいつか怒られてしまうんだろうな。それに僕の笑顔は、嘘は、もう誰も幸せにできない)

 感情を千切り続けたところで、良き主でいようと微笑み続けたところで、結局意味はなかったのだと突きつけられるようで、胸の内側がぎしぎしと痛んだ。
 自分の決意が良くないものだと自ら否定するのは、己の内側を相手に見せるのとは別の意味で堪えるものだ。

(今のままじゃ、皆を幸せにできない。それに僕は、ちゃんとした審神者にはなれないってことも知られちゃったよね)

 鬼である点を除いても、恐らくは消えないだろう穢れを抱えていることは、到底まともな審神者といえる姿からは程遠いだろう。加えて、歌仙の負傷を前にして酷く取り乱してしまった。子供のように泣きじゃくる姿は、とても『ちゃんとした審神者』とは言えないに違いない。
 どうするのが正しいのか。何をすれば、皆が幸せになってくれるのか。ぐるぐると思考の迷路の中を彷徨い続け、それでも答えは見つからない。延々と押し問答を続けていると、ふと、とある声が己の内に響いた。

 ――君は、何がしたいの?

 その言葉が、靄がかかった思考を照らす一条の光となってくれた。

「私は、何がしたいの?」

 自分の中で問いかける。
 笑顔の仮面では、誰も幸せにできないと言われた。
 どうして、悲しい方に向かってしまうのかと問われた。
 傷つくかどうかは、自分が決めると突き放された。
 自分で自分を傷つけるような真似は許さないと宣言された。
 重なり合った言葉の果てに、彼女は己の思いを再度口にする。

「私は、認めてほしい。私の気持ちを、知ってほしい」

 何も知らないままで傷つけられたり、知らないが故に傷ついた心を抱えて誰かを見下したりするのは、ただただ悲しくなるだけだ。
 ならば、一歩踏み出せば何か変わるのだろうか。ひょっとしたら、皆の心に爪痕を残し、自分の誇りが惨めに踏みにじられる姿をまた見るだけかもしれないが、それでも足踏みし続けるよりは違う何かを得られるような気がした。

(五虎退が、前に話してくれたっけ。『何か言おうとして頑張ってくれているのは知っている。だから、待っている』って、あの子は言ってくれたのに。僕は、彼の心を寄せ付けまいとしてしまった)

 悪いのは自分だと決めつけて、差し伸べられた細い手を振り払ってしまった。彼の厚意も、結局は憐憫の中に生まれたものだろうと内心で見下してしまった。
 己の浅ましさから目を逸らさず見据えてしまうと、藤は胸をに手を当ててぐっと力を込めた。そうでもしなければ、彼らへの申し訳なさから叫びだしてしまいそうだったからだ。
 そうして数分の葛藤を経て、藤は長く長く息を吐き出す。

(――話そう。そして、もし否定されてしまったら、そのときは)

 そのときは、自分の心を守ろう。彼らを遠ざけよう。
 たとえ、その選択が血を吐くような苦しさを内包したものであろうとも。
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