本編第二部(完結済み)
ふと我に返ったとき、知らない場所にいる。そんな状況に置かれると、人は誰しもがまず夢である可能性を考えるだろう。
だが、生憎ながらこれは夢ではないと歌仙は嫌というほど知っている。否、知らされていた。
「――っ、これが、夢だと言うのなら――きっと、ひどい悪夢だ」
四方八方からこちらを睨み付けているのは、夢の住人と呼ぶには不釣り合いな血の気の無い肌をした武者たち。ぎらりと輝く緋色の瞳と、漂わせた妖気は、それが人ではないという事実を如実に示している。
時間遡行軍。しかも、その上位個体と分類されるものらしく、彼らの動きには一切の無駄がない。
(そのうえ、どういうわけか体が重い――っ)
頬を掠めていった打刀の一振りも、本来の歌仙なら容易に回避ができたはずだ。なのに、全身に錘でもつけたかのように、刀を持つ腕は重く、一歩踏み出すだけでも相当力を入れなければならない。
そんな原因不明の倦怠感に襲われている歌仙の事情など知らず、敵は休み無く斬りかかってくる。最初こそいきなり一人で姿を見せた歌仙に動揺していた時間遡行軍たちだったが、彼が策もなく単身乗り込んできたと分かるや否や、彼らは歌仙の動揺など意に介さずに突っ込んできていた。
(そもそも、どうして僕はこんな場所に……?)
のろのろとしか動かない体に舌打ちしながら、歌仙は考える。何度も何度も記憶を振り返る。
(そうだ。今日は、主を見送ってから鶴丸が来たんだ。僕が、主について相談したいことがあると、彼を招いた)
彼の招きに応じて、鶴丸が本丸に姿を見せたのは、藤が髭切と共に出かけてから四半刻もした後だった。
◇◇◇
藤が先輩の審神者の元に挨拶に行くと言い残し、髭切を連れて本丸を経ってから程なくして、歌仙のもとに鶴丸がやってきた。主と髭切が外出すると分かったその日の夜、歌仙がこっそりと彼に連絡をとり、相談にのってくれないかと頼んだからだ。
主が閉じこもってしまってから、鶴丸は歌仙の良い話し相手となっていた。頑なに笑顔を崩さず、それでいて心を閉ざして詮索もさせない主にどう接したらいいか、今回も彼から何か助言を貰えないかと、歌仙は藁にも縋る思いで期待していた。
(それだけじゃない。僕は、髭切に弱みを見せたくなかったんだ)
玄関に現れた鶴丸に挨拶をしつつも、歌仙は後ろ暗い感情と正面から向き合っていた。
主に最初に選ばれた刀でもない髭切が、主のために一番行動していると歌仙としても認めないわけにはいかない。けれども、だからといって面と向かって髭切に相談しようと思えるほど、歌仙は物わかりの良い刀ではなかった。
(鶴丸に今の主の状況を話して、それから――そうだ)
深刻な顔で歌仙を見つめていた鶴丸。表情こそ変えなかったものの、じっと俯いて何やら考え込んでいる素振りの彼の主――更紗。
ちょうど、歌仙が二人へ現状を語り終わった隙を縫うように、それは現れた。
「お話中に申し訳ありませんが。歌仙兼定はいますか」
不躾に部屋に入ってきたのは、普段は庭で姿を見ることが多い政府の使い魔である管狐――こんのすけだ。主に用かと思い、歌仙は腰を浮かせて彼の側へと歩み寄った。
「どうしたんだい。主なら、今は本丸にいないよ」
「それは知っています。今日はあなたに用があったのですよ、歌仙兼定。少し頼みたいことがあるのです」
「僕に?」
客人を相手にしている状態で、別件の用事に現を抜かすのは如何なものかと思ったが、
「俺たちのことは気にせず、そちらの用事を優先してくれ。政府から直々の頼み事なんざ、断ったら心証が悪くなるだろう」
冗談めかして鶴丸は言っていたが、実際その通りだろう。長らく閉じこもっていた主の政府内における地位がどうなっているか、具体的には分からないが決して向上しているとは言えないに違いない。ならば、個人的な依頼だろうが何だろうが受けるべきだ。そう思って、歌仙は鶴丸に一礼してから席を立った。
庭に出た歌仙は、小走りで先を行く狐の後を追いかける。彼の向かう先は、玄関のようだった。
歌仙たちを筆頭に、この本丸の通用門である立派な作りの両開きの門を使用する者は殆どいない。買い物は万屋で済ませてしまうため、出陣とあわせて時空転移用の祠に敷設された転移装置ばかり使っているからだ。
普段は滅多に開かない門扉を押し開け、そこにいる者を前にして歌仙は数度目を瞬かせた。
◇◇◇
そこまで記憶を振り返り、左肩に焼けるような痛みを覚え、歌仙は奥歯が割れんばかりに噛み締める。背後に気配がする分かっていたのに回避が遅れて、一撃を貰ってしまったようだ。
過ぎたことに、とやかく文句を言っても仕方ない。肩の一つや二つはくれてやる、と歌仙は腹をくくる。
調子づいて正面から真っ直ぐに向かってくる槍の一撃を弾き、返す刀で色のない敵の肌をこちらも切り裂く。
「数が、多すぎる……っ」
どう、と倒れた槍を操る武者の代わりに、今度は薙刀を持った狩衣を纏った亡霊のような武人が現れる。それが大きく振りかぶった一撃は、辺り一帯をまとめて容赦なく抉り取っていく。
「――ぐっ」
その動きたるや、まさに神業。だが、本来ならかすり傷で収められる程度には身を引けたはずなのに、今は腹の半分とまで言わずとも三分の一を鋭い刃が通り過ぎていく。
勢い余って吹き飛ばされそうになるのだけは、どうにか堪えた。しかし、冷たい金属が腸を通り抜けていくときの悍ましさと、次いで訪れる激しく暴れる熱の塊の如き痛みからは逃れられない。
「何故、体が動かない……?」
歌仙とて、この一年を漫然と過ごしていたわけではない。数多の敵と戦い、己の身体能力を引き出す手法は十分に身につけていた。
なのに、それら全ての経験が、付喪神として得ている人よりも優れた膂力が、あたかも全て無くなったように体が重い。それさえなければ、敵の大群から逃げ、本丸に帰還することも考えられたというのに。
(何かがおかしい。何かが――)
だが、玄関の扉を開けた後からの記憶が、まるで霧がかかったようにはっきりしない。そのとき目にした者も、何故自分一人だけが出陣するような真似をしているのかも。
(僕は、政府の者に頼まれた。そう、僕は、この出陣先に偵察に行けと――他の本丸のためになると言われて、主のために、なると)
誰かに囁かれた言葉を繰り返すかのように、歌仙の思考は予め示されていたかのような一本の道を辿りかける。
だが、そこまで思考が行き着きかけて、歌仙は思わず鉛と化したように鈍る足すらも止め、
(――違う)
否定する。同時に、突如停止した歌仙の脇を槍が掠めていった。鋭い痛みのおかげで、ぼけかけていた記憶が鮮明になっていく。
(違う。僕は、引き受けたんじゃない。僕は――拒絶したんだ)
ぼたぼたと流れ落ちる血を代償とするかのように、彼の中で曖昧になっていたやり取りが、ゆっくりと像を結び始めた。
◇◇◇
玄関の扉を開けた先にいたのは、見たこともない男性だった。見た目から察するに年の頃は政府の職員である富塚より、幾らか下ではあるだろう。彼同様、いや彼以上にきっちりと着こなしたスーツ姿は、この本丸の空気には不釣り合いなものに思えた。
「……貴殿は?」
「この姿では初めましてですね。こちらの管狐の主です」
彼の足元にすり寄るこんのすけ、そして彼の声音を聞いて歌仙は理解する。目の前の男は、あの狐を通して主や自分たちに語りかけていた者なのだ、と。
「わざわざ対面で、とは恐縮だね。そこまでして、僕に何を頼みたいのかな?」
「刀の付喪に頼むというのも、本来なら不本意なのですが」
その前置きに潜んだ語気に孕む心情を察して、歌仙は眉を顰める。彼の言葉の中には、形式上ですら歌仙に対する敬意が全くなかった。
目の前の男が主の上司であったという立場の問題を差し引いても、さして親しくない間柄の者に何か依頼するにしては高圧的な態度だと、歌仙は感じていた。
「歌仙兼定。この本丸の主の元から、別の主の元に移ってもらえませんか」
「…………は?」
次いで男が述べた言葉に、思わず間の抜けた声が出てしまうのも無理はない。それほどまでに彼の語る言葉は突拍子も無く、そして同時に礼を失したものだった。
「今の所、歌仙兼定という刀を所望する要請は、政府のどの部署内でもない。なので、形としては本人同意の下で移籍するということしかできないので、こうして対面で、口頭で、わざわざ頼みに来たのです」
「何を言ってるんだ。話が全く見えない。僕が、どうして主の元を離れなければいけないんだ。……もしかして、彼女が貴殿らに何か相談をしたのか!?」
それほどまでに、主は自分と向き合うのを拒絶しているのかと、歌仙は目の前が真っ暗になったような心地に襲われる。だが、男は渋面を作ったままであり、首を縦に振ろうとはしなかった。
「そうだったら、私としても楽だったのですが」
最悪の予想が外れたようで、歌仙は内心で胸をなで下ろす。ならばどういうことかと男を見つめると、彼は冷ややかに歌仙の視線を受け止め、
「あなたは、彼女に影響を与えすぎる。あれほど刀に心を許すなと言ったのに、彼女はどうやら変わってくれそうにない。根が優しすぎるのでしょうね。だから、今回も刀剣男士と軋轢を生じさせ、引きこもるなどという騒動が起きた」
「――その件は、主が悪いわけではない。貴殿は何か誤解をしているのかもしれないが、彼女に落ち度はなかったんだ。恐らく、僕が何らかの失言をしたせいで」
「誤解などしていませんよ。あなた方がただの物の付喪であり続けていれば、あの娘が心を惑わすこともなかった。そのように、正しく理解しています」
にべもなく告げられた回答に、思わず歌仙は声を詰まらせる。言葉の内容を追う限り、彼はどうやら己を疎んでいるらしいと歌仙は認識を改める。
だというのに、目の前の男が歌仙に対して全く己の感情を揺らさずに接している。そのちぐはぐさに、歌仙は形容し難い不気味さを感じていた。
まるで路傍の石を見るかのように、彼の瞳に歌仙兼定という刀剣男士は映っていない。彼の目に映っているとしたら、それは一塊の鉄だけだ。
「あなた方が、もう少し物らしくあってくれれば、全ては丸く収まっていたでしょうに」
「それは――」
もし、自分が彼の言うようにただの物であり続けたのなら、彼女は悩まずに済んだのか。あんな笑顔の仮面を貼り付けて、己を偽らなくてもよくなっていたのだろうか。自分がこの本丸を立ち去ったら、主は心の底から笑えるようになるのか。
歌仙の己の内側に問いかける。答えは、すぐに出た。
「それは、違う。僕がただの物だったなら、彼女はこの本丸にずっと一人でいなければならないだろう。それは、ひどく寂しいことだ」
物であった頃ならば、それでもいいと思っていたかもしれない。物ならば、大事にしまわれたままであっても、話す相手がいなくても、気にならなかった。ただ、もしそうだったなら、一人で食べる食事の冷たさも、同じ家に誰もいない空虚さも、きっと知らなかったままだっただろう。
けれども、歌仙は知ってしまっている。そして彼女をそんな状況に置かずにいたことを、心の底から今、安堵していた。
「たとえ、僕が立ち去ったとしても、彼女はずっとそのことを気に病むだろう。だから、僕はここにいたい。ここにいて、主と向き合う努力をしていたいんだ。貴殿らから見たら、もどかしいやり取りに見えるかもしれないが」
「そうですか」
歌仙の決意めいた宣言を、男はまるで興味もなさそうに切って捨てる。眼鏡を片手で軽く直してから、彼はいかにも面倒くさそうに言う。
「あなたは、どうあってもこの本丸に居座ると。ならば、仕方ない。あなたの方を無理矢理にでも、どうにかするしかないですね」
何を、と思うより先にそこから急速に思考が曖昧になる。何かを考えるという機能そのものが溶けてなくなり、代わりに男の声に従わねばという意思が、問答無用で自我を絡め取っていく。
何かの術がかけられていると理解するより先に、声が響いた。
「歌仙兼定。政府の者としてあなたに命令を下します。時間遡行軍の発生を感知したので、とある時代に向かって調査をしてください。そこであなたは」
――彼女のために、折れなさい。
◇◇◇
「――はぁ、はぁ」
乱れる息と共に、血がぼたぼたと流れ落ちる。一つ呼吸をするごとに、自分の命が削られていくようだ。その痛みも当然無視できないものではあったが、歌仙はもう一つ無視できない事実を思い出してしまった。
歌仙が主の側にいない方が良いと決断し、何かの術を用いて操り、己を窮地に強制的に落とした者の姿を、忘れ去ることなどできるわけがない。
(ただ、一概に彼を責めるような真似は、僕にはできない)
あれもまた、彼なりに主を思いやっての行動なのだろう。彼とて、政府の人間として遠目ではあっても主を見守っていたはずだ。ならば、藤の逃避の原因がいつまでも側にいるのは、彼女にとって毒にしかならないと思われてしまっても仕方ない。
(だけど、僕が……もし、折れてしまったら)
髭切と共に出かけた主の後ろ姿は、歌仙の瞼に焼き付いている。あのか細い背中は、きっと歌仙が折れたという事柄を背負いきれない。
だからこそ、歌仙は戻らねばならないと決意する。自分が害になるというのなら、もっと彼女の心に傷を残さずに消える方法が他にあるはずだ。
そのように歌仙が考えている間にも、正面から短刀を咥えた骨の魚のような姿の敵が肉薄する。分かりやすい直線軌道のために、どうにか太刀筋見切って回避はできた――と歌仙は思ってしまった。
「──?!」
攻撃を避けようと動かした体、その背中にまるで火箸でも突き刺さったのではないかという痛みが走る。背中から伝わる冷たい感触は、まごう事なき刃のそれだ。
「ぐ、う……ぁ……」
自分の背中を、敵の刃が貫いている。その事実を理解した瞬間、歌仙は勢いよく胴体を半回転分捻った。予想に違わず、背後に潜み歌仙を突き刺した下手人たる人影が、振りほどかれて吹き飛んでいく。
刀を握っていた時間遡行軍は、勢いよく木に叩きつけられて、そのまま動かなくなった。決して今までの弱々しい動きでは得られない成果に、歌仙は瞠目する。
「力が……戻ってきた……?」
あの狐の操り手が、記憶を操作する術に加えて力を抑える術をかけていたとしたら、それらが解けてきているということだろうか。
ともかく、あれこれ理由を考えるのは全て後だ。腹に刃を残したまま、歌仙は周りを素早く見渡す。こちらを見つめる時間遡行軍たちは、まさに満身創痍の歌仙を前にして、目らしき光を細める。
不意に、げらげらと笑うような声を歌仙は耳にした。その音が時間遡行軍達の哄笑だと気が付き、歌仙は嫌悪の余り、口の中に溢れかえっていた血を吐き出した。それだけが唯一、彼が辛うじてできる威嚇行為だった。
(僕を早く壊してしまえばいいのに、どういう理由でとどめを刺さないんだ?)
手負いの刀剣男士一人、屠るのは容易いだろう。折れたいわけではないが、彼らが勝利に酔って油断を見せる瞬間を狙っている歌仙としては、今の状況はあまり望ましいとは言えないものだった。
(何かを待っている――そうか。手負いの刀剣男士がとる手段は、一つ)
自分の懐に常にしまい込まれている、各々の時代を渡り歩く装置。それは、容易には壊れぬ代物であると同時に、指定された者しか動かせないように制御されているらしいと歌仙は聞いている。
ただ、この装置には一つ難点がある。それは、人や器物の単位ではなく、空間単位での転移を実施してしまうという点だ。
(僕が帰還した頃合いに任せて、一緒に本丸に戻り、襲うつもりか――!!)
だからこそ、仕留めるまでには至らない攻撃を繰り返していたのかと歌仙は理解する。
彼らが突如本丸に現れれば、本丸にいる皆は間違いなく大きな痛手を負う。あの異形たちが本丸を跋扈する様子を想像して、歌仙はその悍ましさに思わず戦慄する。主が時間遡行軍に襲われ、傷つけられる様子など、考えるだけで体中を走るどの傷よりも深く歌仙の心に痛みを与える。
敵の狙いが読めたなら、話は早い。慎重にこちらを包囲する敵を前にして、歌仙は如何にも悔しそうに歯がみすると懐に手を入れた。
時間遡行軍は異形の姿をした敵とはいえ、何らかの意思を持つ者だ。だからこそ、彼の思わせぶりな行動に思わず意識がそちらに向けられる。
ほんの僅かな意識の隙間。その合間を縫うようにして、歌仙は予兆を見せずに走り出した。
敵が作り上げた包囲網を、己の血でひどく濡れた刀を振るい、強引にこじ開ける。己の痛みの全てを体からはじき出し、彼は駆ける。刀剣男士としての力が戻ってきたおかげか、体は軽い。いや、あまりに軽すぎた。
(――ああ、嫌な音がする)
ぱきりと、金属が砕ける音が身の内に響く。それは、痛みを度外視して追ってくる敵から逃げるために駆け出した代償だと、他ならぬ己の身だからこそ歌仙は把握していた。
だが、ここで足を止めたところで、砕ける音が止まるわけではない。恐らく、遠からずこの体は壊れるだろう。そんな予想ができてしまうほど、己の体は傷つきすぎていた。
(僕は結局、主を悲しませてしまうのか)
走るたびに、体が軽くなる。まるで己の命そのものを置いていったかのように。
いっそのこと、ここで体が折れるまで戦って果ててしまおうか。そうすれば、彼女の目の前で砕けるような醜態は晒さずに済む。そこまで思い至るも、
(でも、主はきっと、その方が深く後悔するだろう)
初陣で負傷して帰ったときですら、彼女はすまし顔の下で泣いていた。皆の前では取り繕うために素っ気ない態度をとっているものの、あの夢か現か分からぬ中で聞こえた声は本物だと歌仙は確信している。
そんな主が、己の知らないところで歌仙が折れたと聞いたらどうなってしまうだろう。あの狐が自分に覆い被せた嘘のように、主の名誉を少しでも取り戻すために果てたのだと知ったら、どんな顔をするのだろう。
(そのときこそ、きみは笑うのを止めてくれるのだろうか)
こんなときであっても、自分は主のことを考えてしまうらしいと、歌仙は己の血で染め上げられた片頬をくしゃりと歪める。
この思いが甘さだと言うのなら、それでもいい。歌仙兼定という刀は、主をどうしようもないぐらい愛してしまったのだから。
彼女に語るとしては、それだけの言葉だけで十分だ。彼女の心を傷つけた謝罪も、彼女の本音を問う質問も、全てはこの言葉の後でいいのだと、歌仙は今ようやく一つの答えに行き着いた。
「きみに会わなければ。会って、伝えなくては」
ぱきりぱきりと、体が割れる音がする。体の表面ではなく、付喪神という存在をつなぎ止めている部分に亀裂が入っているのだろうと、歌仙は曖昧ながらも理解していた。
そんな状態であっても、全ての痛覚を意図的に断ち切った鋼の体は走り続ける。そして、長く続くかと思われた疾走にも終わりが見えた。
(敵はまだ、追いかけてくるか。ならば、こうするしかない!)
まばらに生えた樹木を抜けた先。そこに、地面はない。だが、躊躇わず歌仙は身を投げ出す。
走って距離を稼げないのなら、高低差を生かして距離を置くしかない。彼は駆け出した瞬間から、そう考えて程よい崖地を探していた。
虚空に身を放り出しながらも視線を上にやったが、幸い時間遡行軍たちが一緒になって飛び降りてくる様子はない。しかし、
「――ぅ、ぐ……っ」
安心できたのも束の間、腹を打つ激しい衝撃に息が詰まる。体の真ん中に突き立ったままの刃が蠢き、痛覚を遮断しているために痛みこそなかったものの、腹から湧き上がってきた血が口からこぼれ落ちる。
更にそれでは終わらず、ばきばきと何本か枝をへし折ったような音が続く。けれども、宙に投げ出されて重力に引っ張られるままに落ちていた体は徐々に減速し、歌仙は崖下にあった枝葉に絡まるような形で静止した。
(ああ、全く――雅じゃない)
ばきばきという音は、恐らく枝が折れる音だけではない。自分の体が壊れていく音も、その中には含まれているに違いない。
だが、これで追っ手を撒くことはできた。腹に刺さっていた刀を引き抜き、手近な所に投げ捨てる。そのとき、歌仙は刃に突き立てられている血濡れの紙のようなものに気が付いた。
「あれは……札、か?」
どういう意味合いがあるのか、朦朧とした頭では考えるのも今は難しい。落下した衝撃で肋骨の何本かを折ったのか、或いは罅割れた己を支える要素に致命的な損傷を与えてしまったのか、呼吸をするたびに鈍い違和感が胸を襲っている。
どうやら、残された時は然程長くないらしい。これで、あの男は満足するのだろうか。ひょっとしたら、主にとってこの喪失は、結果的に幸福に繋がるものとなるのかもしれない。
そうであればいいと祈りつつ、歌仙は駆け抜けている合間にも落ちることのなかった転移装置――見た目は小さな球の形をした物を取り出す。
落としていなかったことに安堵して、ほっと一息ついたとき、ふと甘い香りが血臭を掻い潜って歌仙の元に届いた。今まさに落下途中で自分を支えてくれた枝葉の隙間に、どうやら花が咲いているらしい。首を巡らせ、その姿を目にして歌仙はゆっくりと目を見開く。
「――偶然というのは、まったく不思議なものだね」
ほうぼうに伸びた枝から垂れ下がる、薄紫の小さな房。それは藤と呼ばれる花であると、歌仙はよく知っていた。
「『さのかたは 実にならずとも 花のみに 咲きて見えこそ 恋のなぐさに』。きみが幸せになれた姿を見れなかったとしても、せめて笑顔だけは最期に――」
ぱきぱきと響く音が、徐々に大きくなっていく。罅割れた刀を納刀する暇すら惜しんで、歌仙は本丸に戻るために力の入らない手で球をそっと握りしめた。
***
頭を何度もがくがくと揺さぶられるような酩酊感の後に、視界に映り込む像がはっきりと浮かび上がってくる。その景色が見慣れた転移装置前のものだと気が付き、歌仙はようやく安堵の息を心の中で吐いた。
「誰かいんのか?」
人を呼ばねば、と思った矢先に和泉守の声が聞こえる。こちらから返事をする余裕もなく、歌仙は軋む体で一歩踏み出した。
物音を耳にした和泉守が、竹箒を片手に転移装置に続く小道へと顔を覗かせる。己の眼前に立つ歌仙兼定の異様な姿を目にした瞬間、和泉守は顔色を変えた。
「之定!? あんた、いったいどうしたんだ!! 今日は出陣の日じゃねえだろ!!」
竹箒を放り出し、和泉守は歌仙の元へと駆け出す。彼に気が付いてもらった安堵から、歌仙の中で張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
がくりと姿勢が崩れ、そのまま彫像のように倒れ、地面に体を強かに打ち付けかける。だが、すかさず和泉守が歌仙の元に辿り着き、彼の血に濡れた体を支えた。
「おい、しっかりしろ! くそ、何でそんな深い傷こさえてんだ、あんたは!!」
「少し、下手を打ってしまっただけだよ……。和泉守、頼みが、ある」
「んなことより、今はあんたの治療を!」
「和泉守!!」
刀を握っていない血に濡れた左手で、歌仙は和泉守の着物を掴んだ。和泉守が纏う臙脂の布に、より濃い染みが滲んでいく。
「和泉守、主を……呼んで、きてくれ。早く!!」
「――っ、だけどよ、今のあんたを置いていくなんてことは」
そこまで言いかけ、和泉守は素早く辺りを見渡した。上背の高い彼は遠くまで見晴るかすことができる。そして、歌仙と同じ色をした和泉守の瞳は、視界の端に映るふわふわとした白い毛を見逃さなかった。
「五虎退!!」
腹の底から張り上げた和泉守の声は、庭の隅を歩いていた五虎退の耳には十分すぎるほどはっきりと届いた。何ごとかと鉄砲玉のように飛んできた五虎退は、
「か、か、歌仙さん!?」
和泉守が抱える歌仙の様子に気が付き、ただでさえ白い肌を少年は益々青白くさせる。
「五虎退、之定が何だかよく分からねえが、ひでえ怪我をして帰ってきたみたいなんだ! あの女をさっさと連れてきて、手入れさせねえと!!」
「は、はいっ!」
持ち前の俊足を生かして、五虎退は走って本丸へと向かう。その背中を見送った和泉守は、ゆっくりと腰を下ろし、両手で支えていた歌仙の体を自分にもたれ掛かるようにして横たえさせた。
本丸の手入れ部屋に移動させた方が、体が楽だろうとは思うが、あまりに出血の量が酷い。このまま激しく動かしたら、取り返しのつかない結末を招いてしまうように和泉守には思えてならなかった。
「之定、暫く休んでろ。今度こそ、あいつが何を言おうと手入れさせてやる。ちゃんとした審神者になりたいって主張するんなら、自分の刀の手入れぐらいしなきゃおかしいだろ」
「……和泉守。あまり、彼女に、無理をさせないでくれ」
「それは聞けねえ相談だな。何があったか知らねえが、あんたをこのままの状態で放っておけるか」
荒っぽい声で応える和泉守の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。主に対しての不遜とも言える物言いも、彼の真っ直ぐすぎる性根だからこそなのだろう。
もし、彼が主の味方になってくれる日が来たら、きっと大層心強いだろうと、歌仙は朦朧とした思考の中で己と同じ色の瞳をした男を見つめる。
「大体、何で出陣の日でもねえのに、あんたはそんなぼろぼろになってるんだ」
「それに関しては恐らく、僕は――政府の者に、相当……嫌われていたらしい。主を、傷つける者として。だから、ちょっと……敵の只中に送られてしまってね」
自分が刀剣男士であってよかったと、歌仙は心の底から思う。そのおかげで、痛みに体を縛られることなく、最期のときまで口を動かし続けられるのだから。
「彼の独断か、あるいは政府の判断かは……知らないが、僕は、主の本丸に、不要な物なのだそうだ」
「はぁ? 何言ってんだ、そんなわけあるか!!」
いっそ気持ちがいいほどに、和泉守は間髪入れず否定の言葉をかける。たとえ身内びいきの言葉だったとしても嬉しいものだと、歌仙は口角を小さく歪めた。
「そんな理由であんたをこんな目に遭わせていいわけねえだろう!! 大体あんたがいなきゃ、あいつはいったい誰を頼ればいいんだよ!!」
しっかりしろと、和泉守は歌仙に顔を寄せ、弱気な笑みを浮かべる彼に言葉をぶつける。しかし、今の歌仙に彼の問いは異なる痛みを齎した。
「――髭切が、いるだろう」
主の傍らに立ち、閉じこもっていた間も彼女に語りかけ続けた唯一の刀剣男士。それに応じるように、あの晩の彼女は髭切が隣に来ることを認め、歌仙の姿を見て逃げ出した。その夜の自分の心に過った醜い感情を、歌仙は忘れられない。
「髭切がいるから、きっと、彼女は大丈夫だ」
そうやって口にしてしまうと、彼女の空っぽの笑顔も、ひょっとしたら自分のために取り繕われたもののように思えていく。
再度、ぱきりという何かが割れる音が内側で響いた。体の表面を流れ出る血は熱を帯びているのに、己の肉体はどんどん冷えていき、鉛のように重くなっていく。
(元々、僕らはただの金属の塊だった。だから、壊れれば僕らは、還るのか)
視界が霞んでいく。指の感覚が、足の感覚が、遠くなっていく。まだ視力は無くならないでほしい。せめて、彼女の顔を見るまでは。
そんな彼の願いを聞き届けたかのように、
「歌仙!!」
声が、聞こえた。錆び付いた絡繰りのように鈍い動きで首を動かせば――そこに、彼女がいた。
「歌仙、どうして……歌仙!!」
耳に入ってくる声は、いつものように負傷を前にしても冷静で落ち着き払ったものではなく、先日のように笑顔で全ての感情を塗りつぶしたような無機質なものでもない。
彼女の声は動揺に揺れ、或いは泣きじゃくっているようにも聞こえた。
「あるじ……?」
ぼんやりと滲む視界に、主――藤の顔が入り込む。目元を真っ赤にして、名前の通り薄紫の双眸からは雫が零れ落ち、歌仙の頬を濡らしていった。
「あるじ、泣いて……いるのかい?」
仮面のように厳重に張り付いた笑顔はそこにはなく、ぐしゃぐしゃに握りつぶした紙屑のようにくしゃくしゃの顔だけがあった。
その顔は、初陣の際に意識を失った中でも聞こえていた泣き声を彼に思い出させる。あのとき、きっと彼女は内心でこんな顔をしていたのだろうと、歌仙は誰に言われずとも理解した。
「――ああ、やっと」
万感の思いを込めて、彼は呟く。
「やっと、きみに会えた」
動かすのすら億劫になってきつつある片手を伸ばし、彼女の頬に触れる。泣きはらして真っ赤になった頬に、どす黒い血がべったりとこびりついていく。それすらも、あの夜と同じだと、歌仙はゆるりと目を細める。
「ずっと、きみに会いたかったのに……探しに行くのを躊躇うような、情けない刀で……すまなかったね」
彼女にまた拒絶されるのを恐れ、髭切に劣っていると彼女の口から聞かされるのが嫌で、結局最後の最後まで追い詰めるような会話しかできなかった。
こうして今頬に齎された雫も、自分の負傷を前にして仮面が剥がれ落ちたからというわけではないのだろう。間違いなく、あの白妙の衣を纏った刀剣男士が彼女に劇的な何かを与えたのだと、歌仙は直感で理解していた。
けれども、今は彼に嫉妬する気力もない。今はただ、再び仮面の裏の彼女に会えたことを歌仙は感謝していた。いつしか自分の前から姿を消していた、お転婆で子供っぽくて、どこか頼りない主。その姿を再び目にすることができたのだから。
「きみは、僕のことを嫌っているのかもしれないけれど――でも、最期にきみに会えて、よかった」
「嫌ってなんかない!! 歌仙のこと、大好きだよ!! 大好きだから、君を傷つけるのが嫌で、君に否定されるのが、怖くなってしまったんだ……!」
横たわる血まみれの体にしがみつき、まるで感情の栓が壊れたかのように泣きじゃくる主。その重みを感じつつ、不謹慎だと分かっていても歌仙は嬉しいと思ってしまった。
ぱきり、という音が一際大きく体の奥で響く。どうやら終わりが近いらしい。
「待ってて、すぐに手入れするからっ」
勢い込んで彼女は歌仙の傷に手を翳そうとするも、数秒としない内に頭に手をやり、口元を抑える。まるで手入れという行為を、体が拒否しているかのようだった。
手入れをする度に体調を崩しているようだと、以前に歌仙は予想していたが、強ち的外れというわけではなかったらしい。
「あるじ、もういいよ」
「……え?」
どのみち、彼女がどれほど力を注いでも間に合わないだろうと歌仙は察していた。今こうしているのは、ただ気力と未練を振り絞って辛うじて生にしがみついているからだ。
だが、そんな子供だまし染みた執着も、いずれ現実に押し流される。
「ありがとう、主」
終わりを前にして、これだけは言わなければと歌仙は唇を動かす。
「僕は、きみを愛している」
何ヶ月ぶりか分からないほどに、胸の中が温かい。それだけで十分だ。だがもしできるのならば、この温もりを形として残していきたかった。
(ああ……そうだ。歌を、詠もう……。筆を、誰か、僕の……)
彼が手を伸ばした刹那。
パキンと音高く、何かが割れる音がした。
***
金属が割れるような音が、藤の頬に触れていた歌仙の手から、藤がしがみついていた体から、響く。同時に、じんわりと感じていた温もりが急速に失われていく。
あたかも、人の姿を手放して本来の姿――金属の塊へと戻っていくかのように。
「待って、歌仙……まだ、何も話せてないのに……謝ってないのに――!!」
どうして、突然このような理不尽な形で失わなければならないのか。
世界の不条理に怒りを抱く一方で、心のどこかに残っていた冷静な自分が返答する。審神者とはそういうものだ。今回は出陣という形ではなかったが、いつもこういう別れと自分は隣り合わせの位置にいたのだ。
ただ、その前提はあくまで知識として知っているだけであり、実感したときに得る感情の揺らぎがどれほどのものか、藤は今の今まで知らなかった。そして今、彼女は喪失の意味をこれでもかと思い知らされている。
「う、うぅ……う、ああぁっ」
目を瞑り、これ以上歌仙に触れていては壊れてしまうような気がして、代わりに自分を抱きしめるように両腕に爪を立てた。
服の繊維が破けるのも構わずに、爪が己の肉を抉ったとしても頓着せず、人並み外れた膂力で彼女は自分に痕を残す。そうやって鋭い痛みを感じていなければ、後悔で体がばらばらになってしまいそうだった。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……」
大好きだなどと言いながら、自分は彼と真正面から向き合うのを避けていた。ここ数ヶ月、心の底から彼と言葉を交わし合った瞬間など一度たりとてない。
逃げずに話しておくべきだった。他ならぬ、彼は自分の声に最初に応えてくれた刀剣男士なのだから。
――そんなこと、今更分かっても遅すぎるというのに。
喪失の衝撃で、世界全てを否定して内側に閉じこもろうとしていた彼女は、すぐには気がつけなかった。
「おい、ありゃ何だ」
和泉守が発した驚きの声が、失意の底にいた彼女をずるりと引きずり上げる。自分の背中に、誰かの手が触れた。その手に促されるように、藤はゆっくりと目を開く。
「……光?」
瞼の裏まで届くような力強く、しかし温かな光が歌仙の血に濡れた着物の隙間から漏れている。その光は、藤の瞳と同じ――初夏に咲く狭野方の花の色をしていた。
「どうして、あんな所から……?」
「ねえ、主」
背後から聞こえてきた声に、藤はゆっくりと首を後ろに向ける。そこには歌仙の凶報を聞いて飛び出した藤に漸く追いついた髭切が、身を屈めて彼女を支えるかのように背に手を置いていた。
「歌仙は、これを持っていたんじゃないかな」
「これって……?」
髭切は自分のシャツのボタンを数個外すと、首からぶら下げていたある物を取り出した。
小さな金襴の袋。ぷっくりと膨らんだ包みの中には、どんぐりが入っていると藤は知っている。正月のときに、皆に渡したお守りだ。
「君がくれたお守り。怪我がないようにって持たせてくれていたんだよね。歌仙は、いつもそれを首からさげていたよ。本丸にいるときも、出陣するときも、ずっと」
「……そうだったんだ。でも結局、お守りは……意味がなかったんだよ」
どこに行っていたかは知らないが、歌仙がこうしてぼろぼろになっているのが動かぬ証拠だ。そう思いかけた折、ふと藤は思い出す。
――藤殿、審神者の方々は自分の力の一部を込めて、こうしてお守りという形で渡すことができるのです。
――審神者が手入れをするときの力を持ち歩いていれば、彼らに万一のことがあっても応急処置くらいは勝手にしてくれる。謂わば、万一の保険だ。
お守りを作るように勧めてくれた煉は、あのとき自分にそのように語っていた。ならば、と藤は再び歌仙に視線をやる。
その瞬間を待っていたかのように、まるで間欠泉が吹き上がるように歌仙の胸元から藤色の光が湧き上がった。
「――――っ!」
息を呑んだのは、藤か、髭切か、或いは黙って成り行きを見守っていた和泉守か、はたまたその全員か。
吹き出した光は雨のように歌仙の体へと降り注ぎ、みるみるうちに彼の体に刻まれていた傷を塞いでいく。完全に治るまでには至っていないが、藤の目から見ても先だっての傷に比べればまだ浅い方だと分かる。
地面に投げされていた亀裂だらけの刀も、幾ばくかの罅こそ残っているものの、先ほどの惨状を思えば希望を持てる程度には修復されていた。
「歌仙は、助かるの……?」
「多分ね。ほら、顔色も良くなっている。あの怪我なら、僕らはここに戻ってから何度も主に治してもらっているよ」
髭切の言葉が後押しになり、藤の瞳からまたぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。だが、すぐさま藤は涙をぐいと手で拭い、決意の色を湛えて横たわる歌仙を見つめた。
「まだ治りきっていないのなら、今度こそ僕が手入れをしないと」
意を決して彼の血がこびりついた肌に触れるも、息を整えて己の内側に眠る力を汲み上げようとした刹那、言い知れない寒気に背筋が凍る。
(――穢れた鬼が、神様に触れてはいけない)
頭の奥で声が響いた刹那、まるで錐でもねじ込まれたかのような激痛が頭を割り、藤は咄嗟に片手で額を押さえた。何度首を横に振っても、彼は神様なのだから触ってはいけないのだという強迫観念染みた思いが、自分の体を精神的にも肉体的にも苛んでいく。
ふと手に目をやれば、べったりと赤黒いものがこびりついていて、藤は一瞬身を竦めた。嘗て自分が食らった血肉が、そこにくっついているような気がしたからだ。
浅い呼吸を何度も繰り返し、何度も瞳を瞬かせて、ようやくそれが歌仙が流した血だと彼女は思い直す。それほどまでに、現実と幻覚の境があやふやになっていた。
「治さないと、僕が治さないと……」
だが、傷に手をやろうとすればするほど頭痛が増す。みるみるうちに傷が癒えていく様子を目の当たりにしたせいか、彼が人ではない事実を強く意識するほどに、藤の体は歌仙の体を癒やすことを拒もうとする。
「――主、主?」
無理をおして治そうとしたあまり、一瞬気を失ってしまっていたらしい。意識を取り戻したと同時に、再びの頭痛に藤は歌仙の体にしがみつくように倒れ込んでしまう。
「おい、あんたの顔、まるで紙みたいに白くなってんぞ。髭切、オレは之定を手入れ部屋まで運ぶ。あんたは、そっちのを審神者の部屋に運んでくれないか。その有様じゃ、まともに手入れもできやしねえだろう」
「待って、僕は大丈夫だから」
「全っ然、大丈夫の顔してねえよ。あんた、ちゃんとした審神者になりたいんだろ。それなら、自分の体調ぐらい把握しろ」
和泉守は藤に取り付く島すら与えず、歌仙の体を抱え上げる。次いで、ふらつく藤をまるで子供のように抱えたのは髭切だった。
落とされまいと必死に彼の首にしがみつくものの、どうにもぐらぐらして居心地が悪い。だが、まさか横抱きにしてくれとも頼めなかった。
「髭切、歌仙の手入れをさせて」
「だけど、今は藤の方が歌仙より酷い顔をしているよ。彼が心配なら、今来ているあの鶴丸の主に頼んだらどうかな」
髭切の提案はもっともだった。まだ彼らが帰っていないのなら、助力を乞うたらきっと彼らは助けてくれるに違いない。
常の藤なら、髭切の親切から出た提案を無下にはできなかっただろう。だが、藤は髭切に既に言われていた。君は何がしたいのか、と。そして今、藤の望みは余所の審神者に手入れを任せるということではない。
「僕が治したいんだ。他の人にさせたくない。だって、歌仙は僕の刀だ」
「それで君が倒れたら、きっと彼は悲しむよ」
「そんなこと、今はどうでもいい。お願い、髭切」
「――君の体調は、僕にとってどうでもいいことじゃないんだけどな」
不服そうではあったが、髭切は主の部屋に向けていた足を手入れ部屋へと方向転換させる。
手入れ部屋の襖を髭切が片手で開けると、丁度布団に寝かしつけられた所の歌仙と、驚いたようにこちらを見つめる和泉守、そして和泉守に呼ばれたらしい鶴丸と更紗がそこにいた。
「何だか知らないが、怪我人がいるから力を貸してくれって頼まれて来たんだが……どうやら、その顔じゃ俺たちは不要みたいだな」
鶴丸は部屋に入ってきた藤の瞳を見据え、肩を竦めてみせる。髭切に床へと下ろしてもらいつつ、藤はゆっくりと頷いた。
「僕が手入れをする。だから、鶴丸さんと更紗ちゃんは、そこに座っていてください」
「きみの刀だ。好きにするといい」
藤は無言で二人に頭を下げ、眠っている歌仙に刻まれた傷跡の数々に改めて視線を落とした。
だが、生憎ながらこれは夢ではないと歌仙は嫌というほど知っている。否、知らされていた。
「――っ、これが、夢だと言うのなら――きっと、ひどい悪夢だ」
四方八方からこちらを睨み付けているのは、夢の住人と呼ぶには不釣り合いな血の気の無い肌をした武者たち。ぎらりと輝く緋色の瞳と、漂わせた妖気は、それが人ではないという事実を如実に示している。
時間遡行軍。しかも、その上位個体と分類されるものらしく、彼らの動きには一切の無駄がない。
(そのうえ、どういうわけか体が重い――っ)
頬を掠めていった打刀の一振りも、本来の歌仙なら容易に回避ができたはずだ。なのに、全身に錘でもつけたかのように、刀を持つ腕は重く、一歩踏み出すだけでも相当力を入れなければならない。
そんな原因不明の倦怠感に襲われている歌仙の事情など知らず、敵は休み無く斬りかかってくる。最初こそいきなり一人で姿を見せた歌仙に動揺していた時間遡行軍たちだったが、彼が策もなく単身乗り込んできたと分かるや否や、彼らは歌仙の動揺など意に介さずに突っ込んできていた。
(そもそも、どうして僕はこんな場所に……?)
のろのろとしか動かない体に舌打ちしながら、歌仙は考える。何度も何度も記憶を振り返る。
(そうだ。今日は、主を見送ってから鶴丸が来たんだ。僕が、主について相談したいことがあると、彼を招いた)
彼の招きに応じて、鶴丸が本丸に姿を見せたのは、藤が髭切と共に出かけてから四半刻もした後だった。
◇◇◇
藤が先輩の審神者の元に挨拶に行くと言い残し、髭切を連れて本丸を経ってから程なくして、歌仙のもとに鶴丸がやってきた。主と髭切が外出すると分かったその日の夜、歌仙がこっそりと彼に連絡をとり、相談にのってくれないかと頼んだからだ。
主が閉じこもってしまってから、鶴丸は歌仙の良い話し相手となっていた。頑なに笑顔を崩さず、それでいて心を閉ざして詮索もさせない主にどう接したらいいか、今回も彼から何か助言を貰えないかと、歌仙は藁にも縋る思いで期待していた。
(それだけじゃない。僕は、髭切に弱みを見せたくなかったんだ)
玄関に現れた鶴丸に挨拶をしつつも、歌仙は後ろ暗い感情と正面から向き合っていた。
主に最初に選ばれた刀でもない髭切が、主のために一番行動していると歌仙としても認めないわけにはいかない。けれども、だからといって面と向かって髭切に相談しようと思えるほど、歌仙は物わかりの良い刀ではなかった。
(鶴丸に今の主の状況を話して、それから――そうだ)
深刻な顔で歌仙を見つめていた鶴丸。表情こそ変えなかったものの、じっと俯いて何やら考え込んでいる素振りの彼の主――更紗。
ちょうど、歌仙が二人へ現状を語り終わった隙を縫うように、それは現れた。
「お話中に申し訳ありませんが。歌仙兼定はいますか」
不躾に部屋に入ってきたのは、普段は庭で姿を見ることが多い政府の使い魔である管狐――こんのすけだ。主に用かと思い、歌仙は腰を浮かせて彼の側へと歩み寄った。
「どうしたんだい。主なら、今は本丸にいないよ」
「それは知っています。今日はあなたに用があったのですよ、歌仙兼定。少し頼みたいことがあるのです」
「僕に?」
客人を相手にしている状態で、別件の用事に現を抜かすのは如何なものかと思ったが、
「俺たちのことは気にせず、そちらの用事を優先してくれ。政府から直々の頼み事なんざ、断ったら心証が悪くなるだろう」
冗談めかして鶴丸は言っていたが、実際その通りだろう。長らく閉じこもっていた主の政府内における地位がどうなっているか、具体的には分からないが決して向上しているとは言えないに違いない。ならば、個人的な依頼だろうが何だろうが受けるべきだ。そう思って、歌仙は鶴丸に一礼してから席を立った。
庭に出た歌仙は、小走りで先を行く狐の後を追いかける。彼の向かう先は、玄関のようだった。
歌仙たちを筆頭に、この本丸の通用門である立派な作りの両開きの門を使用する者は殆どいない。買い物は万屋で済ませてしまうため、出陣とあわせて時空転移用の祠に敷設された転移装置ばかり使っているからだ。
普段は滅多に開かない門扉を押し開け、そこにいる者を前にして歌仙は数度目を瞬かせた。
◇◇◇
そこまで記憶を振り返り、左肩に焼けるような痛みを覚え、歌仙は奥歯が割れんばかりに噛み締める。背後に気配がする分かっていたのに回避が遅れて、一撃を貰ってしまったようだ。
過ぎたことに、とやかく文句を言っても仕方ない。肩の一つや二つはくれてやる、と歌仙は腹をくくる。
調子づいて正面から真っ直ぐに向かってくる槍の一撃を弾き、返す刀で色のない敵の肌をこちらも切り裂く。
「数が、多すぎる……っ」
どう、と倒れた槍を操る武者の代わりに、今度は薙刀を持った狩衣を纏った亡霊のような武人が現れる。それが大きく振りかぶった一撃は、辺り一帯をまとめて容赦なく抉り取っていく。
「――ぐっ」
その動きたるや、まさに神業。だが、本来ならかすり傷で収められる程度には身を引けたはずなのに、今は腹の半分とまで言わずとも三分の一を鋭い刃が通り過ぎていく。
勢い余って吹き飛ばされそうになるのだけは、どうにか堪えた。しかし、冷たい金属が腸を通り抜けていくときの悍ましさと、次いで訪れる激しく暴れる熱の塊の如き痛みからは逃れられない。
「何故、体が動かない……?」
歌仙とて、この一年を漫然と過ごしていたわけではない。数多の敵と戦い、己の身体能力を引き出す手法は十分に身につけていた。
なのに、それら全ての経験が、付喪神として得ている人よりも優れた膂力が、あたかも全て無くなったように体が重い。それさえなければ、敵の大群から逃げ、本丸に帰還することも考えられたというのに。
(何かがおかしい。何かが――)
だが、玄関の扉を開けた後からの記憶が、まるで霧がかかったようにはっきりしない。そのとき目にした者も、何故自分一人だけが出陣するような真似をしているのかも。
(僕は、政府の者に頼まれた。そう、僕は、この出陣先に偵察に行けと――他の本丸のためになると言われて、主のために、なると)
誰かに囁かれた言葉を繰り返すかのように、歌仙の思考は予め示されていたかのような一本の道を辿りかける。
だが、そこまで思考が行き着きかけて、歌仙は思わず鉛と化したように鈍る足すらも止め、
(――違う)
否定する。同時に、突如停止した歌仙の脇を槍が掠めていった。鋭い痛みのおかげで、ぼけかけていた記憶が鮮明になっていく。
(違う。僕は、引き受けたんじゃない。僕は――拒絶したんだ)
ぼたぼたと流れ落ちる血を代償とするかのように、彼の中で曖昧になっていたやり取りが、ゆっくりと像を結び始めた。
◇◇◇
玄関の扉を開けた先にいたのは、見たこともない男性だった。見た目から察するに年の頃は政府の職員である富塚より、幾らか下ではあるだろう。彼同様、いや彼以上にきっちりと着こなしたスーツ姿は、この本丸の空気には不釣り合いなものに思えた。
「……貴殿は?」
「この姿では初めましてですね。こちらの管狐の主です」
彼の足元にすり寄るこんのすけ、そして彼の声音を聞いて歌仙は理解する。目の前の男は、あの狐を通して主や自分たちに語りかけていた者なのだ、と。
「わざわざ対面で、とは恐縮だね。そこまでして、僕に何を頼みたいのかな?」
「刀の付喪に頼むというのも、本来なら不本意なのですが」
その前置きに潜んだ語気に孕む心情を察して、歌仙は眉を顰める。彼の言葉の中には、形式上ですら歌仙に対する敬意が全くなかった。
目の前の男が主の上司であったという立場の問題を差し引いても、さして親しくない間柄の者に何か依頼するにしては高圧的な態度だと、歌仙は感じていた。
「歌仙兼定。この本丸の主の元から、別の主の元に移ってもらえませんか」
「…………は?」
次いで男が述べた言葉に、思わず間の抜けた声が出てしまうのも無理はない。それほどまでに彼の語る言葉は突拍子も無く、そして同時に礼を失したものだった。
「今の所、歌仙兼定という刀を所望する要請は、政府のどの部署内でもない。なので、形としては本人同意の下で移籍するということしかできないので、こうして対面で、口頭で、わざわざ頼みに来たのです」
「何を言ってるんだ。話が全く見えない。僕が、どうして主の元を離れなければいけないんだ。……もしかして、彼女が貴殿らに何か相談をしたのか!?」
それほどまでに、主は自分と向き合うのを拒絶しているのかと、歌仙は目の前が真っ暗になったような心地に襲われる。だが、男は渋面を作ったままであり、首を縦に振ろうとはしなかった。
「そうだったら、私としても楽だったのですが」
最悪の予想が外れたようで、歌仙は内心で胸をなで下ろす。ならばどういうことかと男を見つめると、彼は冷ややかに歌仙の視線を受け止め、
「あなたは、彼女に影響を与えすぎる。あれほど刀に心を許すなと言ったのに、彼女はどうやら変わってくれそうにない。根が優しすぎるのでしょうね。だから、今回も刀剣男士と軋轢を生じさせ、引きこもるなどという騒動が起きた」
「――その件は、主が悪いわけではない。貴殿は何か誤解をしているのかもしれないが、彼女に落ち度はなかったんだ。恐らく、僕が何らかの失言をしたせいで」
「誤解などしていませんよ。あなた方がただの物の付喪であり続けていれば、あの娘が心を惑わすこともなかった。そのように、正しく理解しています」
にべもなく告げられた回答に、思わず歌仙は声を詰まらせる。言葉の内容を追う限り、彼はどうやら己を疎んでいるらしいと歌仙は認識を改める。
だというのに、目の前の男が歌仙に対して全く己の感情を揺らさずに接している。そのちぐはぐさに、歌仙は形容し難い不気味さを感じていた。
まるで路傍の石を見るかのように、彼の瞳に歌仙兼定という刀剣男士は映っていない。彼の目に映っているとしたら、それは一塊の鉄だけだ。
「あなた方が、もう少し物らしくあってくれれば、全ては丸く収まっていたでしょうに」
「それは――」
もし、自分が彼の言うようにただの物であり続けたのなら、彼女は悩まずに済んだのか。あんな笑顔の仮面を貼り付けて、己を偽らなくてもよくなっていたのだろうか。自分がこの本丸を立ち去ったら、主は心の底から笑えるようになるのか。
歌仙の己の内側に問いかける。答えは、すぐに出た。
「それは、違う。僕がただの物だったなら、彼女はこの本丸にずっと一人でいなければならないだろう。それは、ひどく寂しいことだ」
物であった頃ならば、それでもいいと思っていたかもしれない。物ならば、大事にしまわれたままであっても、話す相手がいなくても、気にならなかった。ただ、もしそうだったなら、一人で食べる食事の冷たさも、同じ家に誰もいない空虚さも、きっと知らなかったままだっただろう。
けれども、歌仙は知ってしまっている。そして彼女をそんな状況に置かずにいたことを、心の底から今、安堵していた。
「たとえ、僕が立ち去ったとしても、彼女はずっとそのことを気に病むだろう。だから、僕はここにいたい。ここにいて、主と向き合う努力をしていたいんだ。貴殿らから見たら、もどかしいやり取りに見えるかもしれないが」
「そうですか」
歌仙の決意めいた宣言を、男はまるで興味もなさそうに切って捨てる。眼鏡を片手で軽く直してから、彼はいかにも面倒くさそうに言う。
「あなたは、どうあってもこの本丸に居座ると。ならば、仕方ない。あなたの方を無理矢理にでも、どうにかするしかないですね」
何を、と思うより先にそこから急速に思考が曖昧になる。何かを考えるという機能そのものが溶けてなくなり、代わりに男の声に従わねばという意思が、問答無用で自我を絡め取っていく。
何かの術がかけられていると理解するより先に、声が響いた。
「歌仙兼定。政府の者としてあなたに命令を下します。時間遡行軍の発生を感知したので、とある時代に向かって調査をしてください。そこであなたは」
――彼女のために、折れなさい。
◇◇◇
「――はぁ、はぁ」
乱れる息と共に、血がぼたぼたと流れ落ちる。一つ呼吸をするごとに、自分の命が削られていくようだ。その痛みも当然無視できないものではあったが、歌仙はもう一つ無視できない事実を思い出してしまった。
歌仙が主の側にいない方が良いと決断し、何かの術を用いて操り、己を窮地に強制的に落とした者の姿を、忘れ去ることなどできるわけがない。
(ただ、一概に彼を責めるような真似は、僕にはできない)
あれもまた、彼なりに主を思いやっての行動なのだろう。彼とて、政府の人間として遠目ではあっても主を見守っていたはずだ。ならば、藤の逃避の原因がいつまでも側にいるのは、彼女にとって毒にしかならないと思われてしまっても仕方ない。
(だけど、僕が……もし、折れてしまったら)
髭切と共に出かけた主の後ろ姿は、歌仙の瞼に焼き付いている。あのか細い背中は、きっと歌仙が折れたという事柄を背負いきれない。
だからこそ、歌仙は戻らねばならないと決意する。自分が害になるというのなら、もっと彼女の心に傷を残さずに消える方法が他にあるはずだ。
そのように歌仙が考えている間にも、正面から短刀を咥えた骨の魚のような姿の敵が肉薄する。分かりやすい直線軌道のために、どうにか太刀筋見切って回避はできた――と歌仙は思ってしまった。
「──?!」
攻撃を避けようと動かした体、その背中にまるで火箸でも突き刺さったのではないかという痛みが走る。背中から伝わる冷たい感触は、まごう事なき刃のそれだ。
「ぐ、う……ぁ……」
自分の背中を、敵の刃が貫いている。その事実を理解した瞬間、歌仙は勢いよく胴体を半回転分捻った。予想に違わず、背後に潜み歌仙を突き刺した下手人たる人影が、振りほどかれて吹き飛んでいく。
刀を握っていた時間遡行軍は、勢いよく木に叩きつけられて、そのまま動かなくなった。決して今までの弱々しい動きでは得られない成果に、歌仙は瞠目する。
「力が……戻ってきた……?」
あの狐の操り手が、記憶を操作する術に加えて力を抑える術をかけていたとしたら、それらが解けてきているということだろうか。
ともかく、あれこれ理由を考えるのは全て後だ。腹に刃を残したまま、歌仙は周りを素早く見渡す。こちらを見つめる時間遡行軍たちは、まさに満身創痍の歌仙を前にして、目らしき光を細める。
不意に、げらげらと笑うような声を歌仙は耳にした。その音が時間遡行軍達の哄笑だと気が付き、歌仙は嫌悪の余り、口の中に溢れかえっていた血を吐き出した。それだけが唯一、彼が辛うじてできる威嚇行為だった。
(僕を早く壊してしまえばいいのに、どういう理由でとどめを刺さないんだ?)
手負いの刀剣男士一人、屠るのは容易いだろう。折れたいわけではないが、彼らが勝利に酔って油断を見せる瞬間を狙っている歌仙としては、今の状況はあまり望ましいとは言えないものだった。
(何かを待っている――そうか。手負いの刀剣男士がとる手段は、一つ)
自分の懐に常にしまい込まれている、各々の時代を渡り歩く装置。それは、容易には壊れぬ代物であると同時に、指定された者しか動かせないように制御されているらしいと歌仙は聞いている。
ただ、この装置には一つ難点がある。それは、人や器物の単位ではなく、空間単位での転移を実施してしまうという点だ。
(僕が帰還した頃合いに任せて、一緒に本丸に戻り、襲うつもりか――!!)
だからこそ、仕留めるまでには至らない攻撃を繰り返していたのかと歌仙は理解する。
彼らが突如本丸に現れれば、本丸にいる皆は間違いなく大きな痛手を負う。あの異形たちが本丸を跋扈する様子を想像して、歌仙はその悍ましさに思わず戦慄する。主が時間遡行軍に襲われ、傷つけられる様子など、考えるだけで体中を走るどの傷よりも深く歌仙の心に痛みを与える。
敵の狙いが読めたなら、話は早い。慎重にこちらを包囲する敵を前にして、歌仙は如何にも悔しそうに歯がみすると懐に手を入れた。
時間遡行軍は異形の姿をした敵とはいえ、何らかの意思を持つ者だ。だからこそ、彼の思わせぶりな行動に思わず意識がそちらに向けられる。
ほんの僅かな意識の隙間。その合間を縫うようにして、歌仙は予兆を見せずに走り出した。
敵が作り上げた包囲網を、己の血でひどく濡れた刀を振るい、強引にこじ開ける。己の痛みの全てを体からはじき出し、彼は駆ける。刀剣男士としての力が戻ってきたおかげか、体は軽い。いや、あまりに軽すぎた。
(――ああ、嫌な音がする)
ぱきりと、金属が砕ける音が身の内に響く。それは、痛みを度外視して追ってくる敵から逃げるために駆け出した代償だと、他ならぬ己の身だからこそ歌仙は把握していた。
だが、ここで足を止めたところで、砕ける音が止まるわけではない。恐らく、遠からずこの体は壊れるだろう。そんな予想ができてしまうほど、己の体は傷つきすぎていた。
(僕は結局、主を悲しませてしまうのか)
走るたびに、体が軽くなる。まるで己の命そのものを置いていったかのように。
いっそのこと、ここで体が折れるまで戦って果ててしまおうか。そうすれば、彼女の目の前で砕けるような醜態は晒さずに済む。そこまで思い至るも、
(でも、主はきっと、その方が深く後悔するだろう)
初陣で負傷して帰ったときですら、彼女はすまし顔の下で泣いていた。皆の前では取り繕うために素っ気ない態度をとっているものの、あの夢か現か分からぬ中で聞こえた声は本物だと歌仙は確信している。
そんな主が、己の知らないところで歌仙が折れたと聞いたらどうなってしまうだろう。あの狐が自分に覆い被せた嘘のように、主の名誉を少しでも取り戻すために果てたのだと知ったら、どんな顔をするのだろう。
(そのときこそ、きみは笑うのを止めてくれるのだろうか)
こんなときであっても、自分は主のことを考えてしまうらしいと、歌仙は己の血で染め上げられた片頬をくしゃりと歪める。
この思いが甘さだと言うのなら、それでもいい。歌仙兼定という刀は、主をどうしようもないぐらい愛してしまったのだから。
彼女に語るとしては、それだけの言葉だけで十分だ。彼女の心を傷つけた謝罪も、彼女の本音を問う質問も、全てはこの言葉の後でいいのだと、歌仙は今ようやく一つの答えに行き着いた。
「きみに会わなければ。会って、伝えなくては」
ぱきりぱきりと、体が割れる音がする。体の表面ではなく、付喪神という存在をつなぎ止めている部分に亀裂が入っているのだろうと、歌仙は曖昧ながらも理解していた。
そんな状態であっても、全ての痛覚を意図的に断ち切った鋼の体は走り続ける。そして、長く続くかと思われた疾走にも終わりが見えた。
(敵はまだ、追いかけてくるか。ならば、こうするしかない!)
まばらに生えた樹木を抜けた先。そこに、地面はない。だが、躊躇わず歌仙は身を投げ出す。
走って距離を稼げないのなら、高低差を生かして距離を置くしかない。彼は駆け出した瞬間から、そう考えて程よい崖地を探していた。
虚空に身を放り出しながらも視線を上にやったが、幸い時間遡行軍たちが一緒になって飛び降りてくる様子はない。しかし、
「――ぅ、ぐ……っ」
安心できたのも束の間、腹を打つ激しい衝撃に息が詰まる。体の真ん中に突き立ったままの刃が蠢き、痛覚を遮断しているために痛みこそなかったものの、腹から湧き上がってきた血が口からこぼれ落ちる。
更にそれでは終わらず、ばきばきと何本か枝をへし折ったような音が続く。けれども、宙に投げ出されて重力に引っ張られるままに落ちていた体は徐々に減速し、歌仙は崖下にあった枝葉に絡まるような形で静止した。
(ああ、全く――雅じゃない)
ばきばきという音は、恐らく枝が折れる音だけではない。自分の体が壊れていく音も、その中には含まれているに違いない。
だが、これで追っ手を撒くことはできた。腹に刺さっていた刀を引き抜き、手近な所に投げ捨てる。そのとき、歌仙は刃に突き立てられている血濡れの紙のようなものに気が付いた。
「あれは……札、か?」
どういう意味合いがあるのか、朦朧とした頭では考えるのも今は難しい。落下した衝撃で肋骨の何本かを折ったのか、或いは罅割れた己を支える要素に致命的な損傷を与えてしまったのか、呼吸をするたびに鈍い違和感が胸を襲っている。
どうやら、残された時は然程長くないらしい。これで、あの男は満足するのだろうか。ひょっとしたら、主にとってこの喪失は、結果的に幸福に繋がるものとなるのかもしれない。
そうであればいいと祈りつつ、歌仙は駆け抜けている合間にも落ちることのなかった転移装置――見た目は小さな球の形をした物を取り出す。
落としていなかったことに安堵して、ほっと一息ついたとき、ふと甘い香りが血臭を掻い潜って歌仙の元に届いた。今まさに落下途中で自分を支えてくれた枝葉の隙間に、どうやら花が咲いているらしい。首を巡らせ、その姿を目にして歌仙はゆっくりと目を見開く。
「――偶然というのは、まったく不思議なものだね」
ほうぼうに伸びた枝から垂れ下がる、薄紫の小さな房。それは藤と呼ばれる花であると、歌仙はよく知っていた。
「『さのかたは 実にならずとも 花のみに 咲きて見えこそ 恋のなぐさに』。きみが幸せになれた姿を見れなかったとしても、せめて笑顔だけは最期に――」
ぱきぱきと響く音が、徐々に大きくなっていく。罅割れた刀を納刀する暇すら惜しんで、歌仙は本丸に戻るために力の入らない手で球をそっと握りしめた。
***
頭を何度もがくがくと揺さぶられるような酩酊感の後に、視界に映り込む像がはっきりと浮かび上がってくる。その景色が見慣れた転移装置前のものだと気が付き、歌仙はようやく安堵の息を心の中で吐いた。
「誰かいんのか?」
人を呼ばねば、と思った矢先に和泉守の声が聞こえる。こちらから返事をする余裕もなく、歌仙は軋む体で一歩踏み出した。
物音を耳にした和泉守が、竹箒を片手に転移装置に続く小道へと顔を覗かせる。己の眼前に立つ歌仙兼定の異様な姿を目にした瞬間、和泉守は顔色を変えた。
「之定!? あんた、いったいどうしたんだ!! 今日は出陣の日じゃねえだろ!!」
竹箒を放り出し、和泉守は歌仙の元へと駆け出す。彼に気が付いてもらった安堵から、歌仙の中で張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
がくりと姿勢が崩れ、そのまま彫像のように倒れ、地面に体を強かに打ち付けかける。だが、すかさず和泉守が歌仙の元に辿り着き、彼の血に濡れた体を支えた。
「おい、しっかりしろ! くそ、何でそんな深い傷こさえてんだ、あんたは!!」
「少し、下手を打ってしまっただけだよ……。和泉守、頼みが、ある」
「んなことより、今はあんたの治療を!」
「和泉守!!」
刀を握っていない血に濡れた左手で、歌仙は和泉守の着物を掴んだ。和泉守が纏う臙脂の布に、より濃い染みが滲んでいく。
「和泉守、主を……呼んで、きてくれ。早く!!」
「――っ、だけどよ、今のあんたを置いていくなんてことは」
そこまで言いかけ、和泉守は素早く辺りを見渡した。上背の高い彼は遠くまで見晴るかすことができる。そして、歌仙と同じ色をした和泉守の瞳は、視界の端に映るふわふわとした白い毛を見逃さなかった。
「五虎退!!」
腹の底から張り上げた和泉守の声は、庭の隅を歩いていた五虎退の耳には十分すぎるほどはっきりと届いた。何ごとかと鉄砲玉のように飛んできた五虎退は、
「か、か、歌仙さん!?」
和泉守が抱える歌仙の様子に気が付き、ただでさえ白い肌を少年は益々青白くさせる。
「五虎退、之定が何だかよく分からねえが、ひでえ怪我をして帰ってきたみたいなんだ! あの女をさっさと連れてきて、手入れさせねえと!!」
「は、はいっ!」
持ち前の俊足を生かして、五虎退は走って本丸へと向かう。その背中を見送った和泉守は、ゆっくりと腰を下ろし、両手で支えていた歌仙の体を自分にもたれ掛かるようにして横たえさせた。
本丸の手入れ部屋に移動させた方が、体が楽だろうとは思うが、あまりに出血の量が酷い。このまま激しく動かしたら、取り返しのつかない結末を招いてしまうように和泉守には思えてならなかった。
「之定、暫く休んでろ。今度こそ、あいつが何を言おうと手入れさせてやる。ちゃんとした審神者になりたいって主張するんなら、自分の刀の手入れぐらいしなきゃおかしいだろ」
「……和泉守。あまり、彼女に、無理をさせないでくれ」
「それは聞けねえ相談だな。何があったか知らねえが、あんたをこのままの状態で放っておけるか」
荒っぽい声で応える和泉守の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。主に対しての不遜とも言える物言いも、彼の真っ直ぐすぎる性根だからこそなのだろう。
もし、彼が主の味方になってくれる日が来たら、きっと大層心強いだろうと、歌仙は朦朧とした思考の中で己と同じ色の瞳をした男を見つめる。
「大体、何で出陣の日でもねえのに、あんたはそんなぼろぼろになってるんだ」
「それに関しては恐らく、僕は――政府の者に、相当……嫌われていたらしい。主を、傷つける者として。だから、ちょっと……敵の只中に送られてしまってね」
自分が刀剣男士であってよかったと、歌仙は心の底から思う。そのおかげで、痛みに体を縛られることなく、最期のときまで口を動かし続けられるのだから。
「彼の独断か、あるいは政府の判断かは……知らないが、僕は、主の本丸に、不要な物なのだそうだ」
「はぁ? 何言ってんだ、そんなわけあるか!!」
いっそ気持ちがいいほどに、和泉守は間髪入れず否定の言葉をかける。たとえ身内びいきの言葉だったとしても嬉しいものだと、歌仙は口角を小さく歪めた。
「そんな理由であんたをこんな目に遭わせていいわけねえだろう!! 大体あんたがいなきゃ、あいつはいったい誰を頼ればいいんだよ!!」
しっかりしろと、和泉守は歌仙に顔を寄せ、弱気な笑みを浮かべる彼に言葉をぶつける。しかし、今の歌仙に彼の問いは異なる痛みを齎した。
「――髭切が、いるだろう」
主の傍らに立ち、閉じこもっていた間も彼女に語りかけ続けた唯一の刀剣男士。それに応じるように、あの晩の彼女は髭切が隣に来ることを認め、歌仙の姿を見て逃げ出した。その夜の自分の心に過った醜い感情を、歌仙は忘れられない。
「髭切がいるから、きっと、彼女は大丈夫だ」
そうやって口にしてしまうと、彼女の空っぽの笑顔も、ひょっとしたら自分のために取り繕われたもののように思えていく。
再度、ぱきりという何かが割れる音が内側で響いた。体の表面を流れ出る血は熱を帯びているのに、己の肉体はどんどん冷えていき、鉛のように重くなっていく。
(元々、僕らはただの金属の塊だった。だから、壊れれば僕らは、還るのか)
視界が霞んでいく。指の感覚が、足の感覚が、遠くなっていく。まだ視力は無くならないでほしい。せめて、彼女の顔を見るまでは。
そんな彼の願いを聞き届けたかのように、
「歌仙!!」
声が、聞こえた。錆び付いた絡繰りのように鈍い動きで首を動かせば――そこに、彼女がいた。
「歌仙、どうして……歌仙!!」
耳に入ってくる声は、いつものように負傷を前にしても冷静で落ち着き払ったものではなく、先日のように笑顔で全ての感情を塗りつぶしたような無機質なものでもない。
彼女の声は動揺に揺れ、或いは泣きじゃくっているようにも聞こえた。
「あるじ……?」
ぼんやりと滲む視界に、主――藤の顔が入り込む。目元を真っ赤にして、名前の通り薄紫の双眸からは雫が零れ落ち、歌仙の頬を濡らしていった。
「あるじ、泣いて……いるのかい?」
仮面のように厳重に張り付いた笑顔はそこにはなく、ぐしゃぐしゃに握りつぶした紙屑のようにくしゃくしゃの顔だけがあった。
その顔は、初陣の際に意識を失った中でも聞こえていた泣き声を彼に思い出させる。あのとき、きっと彼女は内心でこんな顔をしていたのだろうと、歌仙は誰に言われずとも理解した。
「――ああ、やっと」
万感の思いを込めて、彼は呟く。
「やっと、きみに会えた」
動かすのすら億劫になってきつつある片手を伸ばし、彼女の頬に触れる。泣きはらして真っ赤になった頬に、どす黒い血がべったりとこびりついていく。それすらも、あの夜と同じだと、歌仙はゆるりと目を細める。
「ずっと、きみに会いたかったのに……探しに行くのを躊躇うような、情けない刀で……すまなかったね」
彼女にまた拒絶されるのを恐れ、髭切に劣っていると彼女の口から聞かされるのが嫌で、結局最後の最後まで追い詰めるような会話しかできなかった。
こうして今頬に齎された雫も、自分の負傷を前にして仮面が剥がれ落ちたからというわけではないのだろう。間違いなく、あの白妙の衣を纏った刀剣男士が彼女に劇的な何かを与えたのだと、歌仙は直感で理解していた。
けれども、今は彼に嫉妬する気力もない。今はただ、再び仮面の裏の彼女に会えたことを歌仙は感謝していた。いつしか自分の前から姿を消していた、お転婆で子供っぽくて、どこか頼りない主。その姿を再び目にすることができたのだから。
「きみは、僕のことを嫌っているのかもしれないけれど――でも、最期にきみに会えて、よかった」
「嫌ってなんかない!! 歌仙のこと、大好きだよ!! 大好きだから、君を傷つけるのが嫌で、君に否定されるのが、怖くなってしまったんだ……!」
横たわる血まみれの体にしがみつき、まるで感情の栓が壊れたかのように泣きじゃくる主。その重みを感じつつ、不謹慎だと分かっていても歌仙は嬉しいと思ってしまった。
ぱきり、という音が一際大きく体の奥で響く。どうやら終わりが近いらしい。
「待ってて、すぐに手入れするからっ」
勢い込んで彼女は歌仙の傷に手を翳そうとするも、数秒としない内に頭に手をやり、口元を抑える。まるで手入れという行為を、体が拒否しているかのようだった。
手入れをする度に体調を崩しているようだと、以前に歌仙は予想していたが、強ち的外れというわけではなかったらしい。
「あるじ、もういいよ」
「……え?」
どのみち、彼女がどれほど力を注いでも間に合わないだろうと歌仙は察していた。今こうしているのは、ただ気力と未練を振り絞って辛うじて生にしがみついているからだ。
だが、そんな子供だまし染みた執着も、いずれ現実に押し流される。
「ありがとう、主」
終わりを前にして、これだけは言わなければと歌仙は唇を動かす。
「僕は、きみを愛している」
何ヶ月ぶりか分からないほどに、胸の中が温かい。それだけで十分だ。だがもしできるのならば、この温もりを形として残していきたかった。
(ああ……そうだ。歌を、詠もう……。筆を、誰か、僕の……)
彼が手を伸ばした刹那。
パキンと音高く、何かが割れる音がした。
***
金属が割れるような音が、藤の頬に触れていた歌仙の手から、藤がしがみついていた体から、響く。同時に、じんわりと感じていた温もりが急速に失われていく。
あたかも、人の姿を手放して本来の姿――金属の塊へと戻っていくかのように。
「待って、歌仙……まだ、何も話せてないのに……謝ってないのに――!!」
どうして、突然このような理不尽な形で失わなければならないのか。
世界の不条理に怒りを抱く一方で、心のどこかに残っていた冷静な自分が返答する。審神者とはそういうものだ。今回は出陣という形ではなかったが、いつもこういう別れと自分は隣り合わせの位置にいたのだ。
ただ、その前提はあくまで知識として知っているだけであり、実感したときに得る感情の揺らぎがどれほどのものか、藤は今の今まで知らなかった。そして今、彼女は喪失の意味をこれでもかと思い知らされている。
「う、うぅ……う、ああぁっ」
目を瞑り、これ以上歌仙に触れていては壊れてしまうような気がして、代わりに自分を抱きしめるように両腕に爪を立てた。
服の繊維が破けるのも構わずに、爪が己の肉を抉ったとしても頓着せず、人並み外れた膂力で彼女は自分に痕を残す。そうやって鋭い痛みを感じていなければ、後悔で体がばらばらになってしまいそうだった。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……」
大好きだなどと言いながら、自分は彼と真正面から向き合うのを避けていた。ここ数ヶ月、心の底から彼と言葉を交わし合った瞬間など一度たりとてない。
逃げずに話しておくべきだった。他ならぬ、彼は自分の声に最初に応えてくれた刀剣男士なのだから。
――そんなこと、今更分かっても遅すぎるというのに。
喪失の衝撃で、世界全てを否定して内側に閉じこもろうとしていた彼女は、すぐには気がつけなかった。
「おい、ありゃ何だ」
和泉守が発した驚きの声が、失意の底にいた彼女をずるりと引きずり上げる。自分の背中に、誰かの手が触れた。その手に促されるように、藤はゆっくりと目を開く。
「……光?」
瞼の裏まで届くような力強く、しかし温かな光が歌仙の血に濡れた着物の隙間から漏れている。その光は、藤の瞳と同じ――初夏に咲く狭野方の花の色をしていた。
「どうして、あんな所から……?」
「ねえ、主」
背後から聞こえてきた声に、藤はゆっくりと首を後ろに向ける。そこには歌仙の凶報を聞いて飛び出した藤に漸く追いついた髭切が、身を屈めて彼女を支えるかのように背に手を置いていた。
「歌仙は、これを持っていたんじゃないかな」
「これって……?」
髭切は自分のシャツのボタンを数個外すと、首からぶら下げていたある物を取り出した。
小さな金襴の袋。ぷっくりと膨らんだ包みの中には、どんぐりが入っていると藤は知っている。正月のときに、皆に渡したお守りだ。
「君がくれたお守り。怪我がないようにって持たせてくれていたんだよね。歌仙は、いつもそれを首からさげていたよ。本丸にいるときも、出陣するときも、ずっと」
「……そうだったんだ。でも結局、お守りは……意味がなかったんだよ」
どこに行っていたかは知らないが、歌仙がこうしてぼろぼろになっているのが動かぬ証拠だ。そう思いかけた折、ふと藤は思い出す。
――藤殿、審神者の方々は自分の力の一部を込めて、こうしてお守りという形で渡すことができるのです。
――審神者が手入れをするときの力を持ち歩いていれば、彼らに万一のことがあっても応急処置くらいは勝手にしてくれる。謂わば、万一の保険だ。
お守りを作るように勧めてくれた煉は、あのとき自分にそのように語っていた。ならば、と藤は再び歌仙に視線をやる。
その瞬間を待っていたかのように、まるで間欠泉が吹き上がるように歌仙の胸元から藤色の光が湧き上がった。
「――――っ!」
息を呑んだのは、藤か、髭切か、或いは黙って成り行きを見守っていた和泉守か、はたまたその全員か。
吹き出した光は雨のように歌仙の体へと降り注ぎ、みるみるうちに彼の体に刻まれていた傷を塞いでいく。完全に治るまでには至っていないが、藤の目から見ても先だっての傷に比べればまだ浅い方だと分かる。
地面に投げされていた亀裂だらけの刀も、幾ばくかの罅こそ残っているものの、先ほどの惨状を思えば希望を持てる程度には修復されていた。
「歌仙は、助かるの……?」
「多分ね。ほら、顔色も良くなっている。あの怪我なら、僕らはここに戻ってから何度も主に治してもらっているよ」
髭切の言葉が後押しになり、藤の瞳からまたぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。だが、すぐさま藤は涙をぐいと手で拭い、決意の色を湛えて横たわる歌仙を見つめた。
「まだ治りきっていないのなら、今度こそ僕が手入れをしないと」
意を決して彼の血がこびりついた肌に触れるも、息を整えて己の内側に眠る力を汲み上げようとした刹那、言い知れない寒気に背筋が凍る。
(――穢れた鬼が、神様に触れてはいけない)
頭の奥で声が響いた刹那、まるで錐でもねじ込まれたかのような激痛が頭を割り、藤は咄嗟に片手で額を押さえた。何度首を横に振っても、彼は神様なのだから触ってはいけないのだという強迫観念染みた思いが、自分の体を精神的にも肉体的にも苛んでいく。
ふと手に目をやれば、べったりと赤黒いものがこびりついていて、藤は一瞬身を竦めた。嘗て自分が食らった血肉が、そこにくっついているような気がしたからだ。
浅い呼吸を何度も繰り返し、何度も瞳を瞬かせて、ようやくそれが歌仙が流した血だと彼女は思い直す。それほどまでに、現実と幻覚の境があやふやになっていた。
「治さないと、僕が治さないと……」
だが、傷に手をやろうとすればするほど頭痛が増す。みるみるうちに傷が癒えていく様子を目の当たりにしたせいか、彼が人ではない事実を強く意識するほどに、藤の体は歌仙の体を癒やすことを拒もうとする。
「――主、主?」
無理をおして治そうとしたあまり、一瞬気を失ってしまっていたらしい。意識を取り戻したと同時に、再びの頭痛に藤は歌仙の体にしがみつくように倒れ込んでしまう。
「おい、あんたの顔、まるで紙みたいに白くなってんぞ。髭切、オレは之定を手入れ部屋まで運ぶ。あんたは、そっちのを審神者の部屋に運んでくれないか。その有様じゃ、まともに手入れもできやしねえだろう」
「待って、僕は大丈夫だから」
「全っ然、大丈夫の顔してねえよ。あんた、ちゃんとした審神者になりたいんだろ。それなら、自分の体調ぐらい把握しろ」
和泉守は藤に取り付く島すら与えず、歌仙の体を抱え上げる。次いで、ふらつく藤をまるで子供のように抱えたのは髭切だった。
落とされまいと必死に彼の首にしがみつくものの、どうにもぐらぐらして居心地が悪い。だが、まさか横抱きにしてくれとも頼めなかった。
「髭切、歌仙の手入れをさせて」
「だけど、今は藤の方が歌仙より酷い顔をしているよ。彼が心配なら、今来ているあの鶴丸の主に頼んだらどうかな」
髭切の提案はもっともだった。まだ彼らが帰っていないのなら、助力を乞うたらきっと彼らは助けてくれるに違いない。
常の藤なら、髭切の親切から出た提案を無下にはできなかっただろう。だが、藤は髭切に既に言われていた。君は何がしたいのか、と。そして今、藤の望みは余所の審神者に手入れを任せるということではない。
「僕が治したいんだ。他の人にさせたくない。だって、歌仙は僕の刀だ」
「それで君が倒れたら、きっと彼は悲しむよ」
「そんなこと、今はどうでもいい。お願い、髭切」
「――君の体調は、僕にとってどうでもいいことじゃないんだけどな」
不服そうではあったが、髭切は主の部屋に向けていた足を手入れ部屋へと方向転換させる。
手入れ部屋の襖を髭切が片手で開けると、丁度布団に寝かしつけられた所の歌仙と、驚いたようにこちらを見つめる和泉守、そして和泉守に呼ばれたらしい鶴丸と更紗がそこにいた。
「何だか知らないが、怪我人がいるから力を貸してくれって頼まれて来たんだが……どうやら、その顔じゃ俺たちは不要みたいだな」
鶴丸は部屋に入ってきた藤の瞳を見据え、肩を竦めてみせる。髭切に床へと下ろしてもらいつつ、藤はゆっくりと頷いた。
「僕が手入れをする。だから、鶴丸さんと更紗ちゃんは、そこに座っていてください」
「きみの刀だ。好きにするといい」
藤は無言で二人に頭を下げ、眠っている歌仙に刻まれた傷跡の数々に改めて視線を落とした。