本編第二部(完結済み)
無表情ではあるものの、鶴丸の声を借りて怒りを表す更紗。その様子を、髭切は余計な言葉を挟まず黙って見守っていた。
「『藤は、何も言わない。言わないのに、皆が分かってくれないって、どうして分かるの』」
彼と彼女が放つ糾弾の言葉のうち、この詰問がやけに耳に強く響く。ちょうど、どこかでこれと似た意味合いを含んだ怒りの言葉を、髭切は聞いていた。
――審神者としての重荷に耐えかね、それでいて我らの主で居続けようなどと駄々をこねる。
――それもこれも、皆が許してくれると思ってこその甘えではないのか。
一ヶ月近く前に、膝丸と本気で斬り結んだ末に彼が髭切に告げた言葉だ。
その『甘え』という単語が持つ自堕落なイメージが先走り、髭切は主から甘えを感じ取ったことはないと思い込んでしまった。だが、更紗たちが主を咎める様子を前にして、
(お前の言う通りだったみたいだ。主は、甘えていたんだね)
異なる側面で、『甘える』という言葉の意味を髭切はかみ砕いていく。
誰にも何も語らなかった彼女は――本人曰く皆が傷つくから何も言えないと言い張る彼女は、そのくせこちらの態度が悪かったのだと言わんばかりに逃げ出し、戻ってきてからも当てつけのように笑ってみせた。
彼女の行動は、裏を返せば何を言われずとも理解してみせよと、相手に迫っているのと同義だと髭切は捉える。
問答無用の謎かけに加えて、不正解に対する理不尽ともいえる逃避と拒絶という名の八つ当たり。それは、確かに甘えとも評せるだろう。
そこまで分かってしまったのなら、もうここに座って成り行きを見守っている必要などない。彼女の仮面を剥ぎ取る役目を、よその審神者に任せるつもりは髭切にも毛頭なかった。
「僕は君と違って何年も生きてる。行動しなくても、結果がどうなるかの予測ぐらいはつくよ。そして、僕は皆が傷つくって予想できている」
藤が口にする言葉の中には、確かに本音もあるのだろう。だが、それを覆い隠すほどの欺瞞にも満ちていると、髭切はもう気が付いてしまっている。
「傷つくかどうかは、僕が決める。前にも言ったよね」
一言を返しつつ立ち上がり、髭切は藤を見下ろす。
「その可能性があるだけでも、僕は嫌なんだ」
彼女の口から紡がれる返事は、髭切達を守るという体裁をとっていた。
「それは、どうせ分かるわけがないって、最初から諦めていた方が――ううん」
だが、それすらも虚飾と示すために、彼は言葉の刃を振り下ろす。
「僕らを見下していた方が、楽だから?」
この答えが間違いだったとしても構わない。これから自分が行う全てが、目の前の娘にとって望んでいないことだったとしても、それこそどうでもいい。
沸き立つ激情を、好きだと思っている人を最も傷つけている藤(もの)を、髭切は許さないと半年前から決めていた。
「――君は、卑怯だね」
今、眼前に立ち、瞳を震わせているのは、嘗ての自分が選ばなかった選択の、最果てに辿り着こうとしている者だ。
己の気持ちを誰にも語らず、何事もなかったように笑顔を浮かべながら不条理への怒りを飼い慣らそうとして、心をも鋼のように作り替えようとした者の末路。その姿は、髭切が思っていた以上にずっとみっともなく、ずっと醜悪で、そして悲愴なものだった。
髭切がそのような姿にならないようにと藤が声をかけてくれたというのなら、今は立場が逆転しただけだ。自暴自棄になって刀解を促しつつ乾いた笑みを見せた己の姿が、目の前にいる藤に重なる。
「話をしよう、主」
もう逃がしはしない、と髭切は藤の腕を掴む。彼女の顔に笑顔はない。残骸めいた微笑の欠片が、辛うじて口の端に残っているだけだ。
ちらりと鶴丸に視線をやると、彼は肩を竦めて曖昧な笑みを浮かべていた。客人のことは気にするな、と言いたいのだろう。彼に感謝しつつ、髭切は藤の腕をしっかりと握ったまま彼女をずるずると部屋の外に引きずり出した。
本丸の廊下は、いつもの賑わいが嘘のように静かだった。この時間なら、皆は自室や庭のどこかにいるはずだ。
通りがかった誰かに出くわすわけにもいかないと、髭切は藤を常ならば顕現に用いている小さな和室へと連れて行く。後ろ手で襖を閉めると、部屋はうっすらとした暗がりに包まれた。
「髭切、離して」
機械的な硬さの残る藤の声を無視し、髭切はぐいと腕を引いて彼女を自分に向き直させた。あろうことか、既に藤の顔には笑顔が戻りつつある。そうはさせじと、髭切は彼女の頬を掌で挟んだ。
「ねえ、髭切。いったいどうしたの。僕が、卑怯だなんて」
「こちらが何も言わない内から、相手の態度を勝手に決めつけて悪者とすることは、卑怯な行いだよ」
有無を言わさない返答に、藤の中から出かかっていた言い訳の言葉は、あっという間にかき消されていく。
「君は僕に頼んでいたよね。『自分が間違っていることをしたら、言ってほしい』と」
「それは、言ったけれども」
手入れを拒み続ける藤を、髭切は許せないことだと語った。彼は優しいだけではなく、藤が間違ったことをしたら怒ることもあるのだ、と。
「君は、間違いを続けている。僕が許せないと思ったことをし続けている」
「それは、髭切の言う『相手の態度を勝手に決めつけて悪者にしている』こと?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
全く見当もつかないと言わんばかりに首を傾げる藤に向けて、触れれば切れてしまうのではと思うほどの冷たい声で、髭切は告げる。
「それは、藤が藤を――自分自身を傷つけている、ということだ」
主という呼び名ではなく、彼女の審神者としての名を使い、髭切は十重二十重に張り巡らされた彼女の心の檻に手をかける。
「そんな風に笑っていたくないと自分で分かっているのに、己にそれを強いている。周りが君の異変に気が付いているのに、こっちの気持ちを盾にして詮索も告白も拒んでいる。そのうえで、ますます悪い方に自分を追い詰めている。それが、君のしている『間違っていること』だ」
髭切に挟まれていた彼女の顔から、笑顔の残骸も崩れて消えていく。震える唇がどんな音を紡ぐよりも先に、髭切は機先を制して更に言葉を放つ。
「だから、そんな風に自分で自分を傷つけるような真似は、やめてもらおうか」
髭切が彼女へと放つ言葉の数々を聞いて、藤は微動だにすらできなくなっていた。笑顔が間違っていると言われてしまい、ならば『どうするべきか』と考えてもその先が見えない。
笑わなければ、彼らを不安がらせてしまうと思っていた。心配をかけたくないから、この選択しかないと決意した。
理解してくれることはないだろうと、内心で髭切の言うように見下していたというのは、否定できない事実だと藤も思う。見ないようにしていたとしても、指摘されたうえで自分は清廉潔白な被害者と強弁を振るうほど、藤も傲慢ではない。
だが、それでも笑顔だけは唯一自分に求められ、自分が与えられるものだと信じていた。なのに、それを間違っていると否定されたらどうすればいいのだろう。そんな嘘じゃ誰も幸せになれないと指摘されて、だったら何を選択するのが正しいと言うのだろう。
「じゃあ、どうすれば良かったの。僕の考えていることを話しても、君達は傷つくだけなのに、そんな状態で僕に何をしろって言うの」
零れ出た言葉は、自分のものではないように思えるほど震えていた。
「君がそうやって決めつけるたびに、僕は何度でも言うよ。僕が傷つくかどうか、それは言われた僕が決める。話さなきゃ、僕は何もできない。何も始まらない」
あの言葉を語らない審神者が髭切に語ったように、思いは形にしなくては伝わらない。気持ちを言葉にしなければ分からない。その表面だけをなぞることはできても、根っこに潜む感情を雰囲気だけで理解しろというのは、到底無理な話だ。
「僕には君が何を黙っているのか、大体予想がついている。でも、確信が持てなかった」
自分の辿り着いた答えがもし間違っていたら、今度こそ藤の心に消えない傷を残すのではないかと髭切は懸念を抱いた。三日月に示唆されていた自死の件も、何度か脳裏に過っていたからでもある。
「だから、君と答え合わせをしたかったのに、君はそのことから目を逸らし続けている。でも、僕はもう藤の命令は聞かない」
やめて、と言われたとしても、たとえ自分の考えが外れていたとしても、彼女が伏せ続けていた札の存在に触れる話題から、髭切は逃げないと決めた。
「僕が見つけた答えを、言うね」
まだ小さく首を横に振っている藤の両肩を掴み、彼女の瞳を正面から見据え、彼は告げる。
「君が大事にしている誇りを、僕らは踏みにじっていったんじゃないかな。ちょうど、僕が鬼を斬ったという逸話を、結果的に歌仙たちが踏みにじっていったように」
藤の唇は、引き攣れたまま動かない。喉は機能を忘れたかのように、ただ乱れた吐息だけをひゅうひゅうと漏らしている。
「それが具体的に何かまでは、僕には想像がつかなかった。でも、君があんな形で曖昧にして、目を逸らし続けた理由は分かった気がする」
彼女の両肩に置いた手に、ぐっと力が込められる。瞼の裏に蘇ったのは、数日前の物吉とのやり取り。どこか悲しげに微笑む琥珀色の少年が、いつも微笑んでいる藤の姿と重なって見えた。
「踏みにじった側――僕たちから見たら、その行動自体は善意から生まれたものだった。だから、皆が大事な君は、笑って何でもないふりをしようとした。離れに閉じこもったのは、その何でもないふりができなくなってしまいそうだったから。そうじゃない?」
藤は瞬きも忘れて、己の心を暴こうとする金がかかった茶の瞳を見つめていた。常に笑っていることの多い彼の顔に、笑みはない。抜き身の刃の如く鋭い視線だけが、じっとこちらを見下ろしている。
適当な誤魔化しも、言い訳も、眼前の神様には通じないだろうと、目を見ただけで分かってしまった。何より、そんなうわべだけの誤魔化しを口にするのは、彼に対してあまりに不誠実だと、藤は既に自覚させられてしまっている。
「この答えは、藤にとって見当違いの答え? それとも」
「――大体、そんな感じだよ」
髭切の問いを上書きするように、藤は答える。ひりついた喉から漏れた彼女の声は、まるで幽霊のように掠れていた。
「……よく分かったね」
「色々と、示唆はされていたからね。ただ、矛盾している部分があったから、間違いないとまでは思えなかった」
「矛盾……?」
「君は僕に言ってくれたよね。僕の誇りを、どうでもいいことにしていいわけがない、と。歌仙たちが僕の気持ちを無視するのなら、そんな彼らこそどうだっていいのだ、と」
一年近く前のやり取りを、髭切は忘れていない。そして藤も、当時を思い出して視線を微かに泳がせる。
「どうして、その言葉を自分にかけてあげられないのかな。君こそ、歌仙や僕の気持ちなんて無視してしまえば」
「そんなこと、言えるわけがない!!」
髭切の提案を耳にして、突如藤の声が膨れ上がる。上手く動かない喉を無理矢理動かしたせいで、ぴりりと小さな痛みが走った。それに合わせるかのように、瞳の奥が、つんと熱くなっていく。その熱に飲まれまいと、藤は瞬きせずに髭切を見つめ続けていた。
誰かに首を絞められているわけでもないのに、息をするのが苦しい。足元が覚束なくて、そのまま崩れ落ちそうになる。けれども、髭切は逃がしてくれそうになく、だから藤は彼を見続けるしかなかった。
「どうして、言えるわけがないの?」
先ほどまでの斬りつけるような冷たさが幾分か弱まり、こちらの気持ちに寄り添う温かさを髭切の声から感じ取る。だからといって、ここで誤魔化しても彼は納得しないだろうと、藤も察していた。
「……僕は、自分に親切にしてくれた人に優しくしたいと思っていた。そういう人には、こちらからも親切にしてあげるべきだって教えられて育った。だから、僕に優しくしてくれた歌仙たちの心を、無視なんてできない」
主を見守る歌仙の瞳の温かさも、五虎退の無邪気な敬慕も、物吉の幸せを願う祈りも、藤は十分すぎるぐらい理解していた。
だからこそ、彼らの親切が裏目に出た瞬間のことを、そのときの自分の思いを形にするのを拒んでいた。その中に、髭切の言うように彼らを一方的に見下す卑怯な自分も、いくらかは混ざっていたのだろう。
「髭切にああやって言えたのは、君が僕に似ているって思ったからなんだ」
誰にも自分の意見を認めてもらえずに、言葉にできない怒りを抱えて迷っていた彼の姿を、藤もまた己に重ねていた。あの場にいた彼を前にして、彼女は彼だけを見ていたわけではなかった。
己の誇りを否定されて、笑うことしかできなくなった。そんな嘗ての自分が、助けを求めて泣いているようにも見えていた。
「僕と同じ思いをしてほしくなかった。自分の心を殺して、傷ついていく人をもう見たくなかった」
そこまで言いかけて、藤はゆっくりと首を横に振る。
「……ううん、違うね。今の言い方は、それこそ卑怯だ。本当は、そういう人を助けたら、僕も少しだけ救われた気分になれる。だから、僕は君を助けた」
かつて誰も助けてくれなかった自分に似た誰かへ、救いの手を差し伸べる。それは、ただ過去の亡霊を救った気分になるだけの、何の意味もない行為だと藤は自嘲する。
しかし、髭切は笑わなかった。卑怯な行為だと藤に同調もしなかった。彼女の口元に浮かんだ嫌な笑顔を消すために、再び彼女の頬を柔らかく挟み、彼は言う。
「君が誰を救おうとしたかは、それこそどうでもいい。あの言葉のおかげで、僕はこうしてここにいられている。だから、僕はあの時の君の行動を卑怯とは言わない」
真摯にこちらを見据える髭切の瞳を前に、彼は公平な神様だと藤は思う。自分から見て悪い所は悪いと指摘する一方で、良いと思った所はこうして素直に認めるのだから。故に、こうして一対一で話をせねばと思うほど、自分は彼にとって見過ごせないほどの間違いをしていたのだろうと、藤は思いを巡らせた。
未だ迷いの只中にいる薄紫の瞳から目を逸らさずに、髭切は言葉を重ねていく。
「だからこそ、僕も君と同じように心を殺している藤を見ていたくないんだ。君は、僕よりも、自分に優しくしてくれた歌仙よりも、他の皆よりも、自分自身を大事にするべきだ」
藤の心を十重二十重に取り囲む檻は、もう崩れかけている。揺れている瞳がその証拠だと信じて、髭切は彼女の心へと踏み込む言葉を紡ぎ続けていく。
「藤が自分の思いを告げても分かろうとしない人は、それこそどうだっていい。そうだよね」
「――僕は、髭切とは違う。歌仙たちは、僕の刀剣男士だ。僕は、僕の刀剣男士を蔑ろにしたくない」
確かに、藤は自分の刀剣男士に対して、卑怯とも言える態度をとり続けていた。どうせ分かるわけないと彼らの態度を勝手に決めつけ、見下すような真似をしていた。
しかし、彼女は同時に、これまた揺るぎようがないぐらいに刀剣男士たちを好いている――愛しているのだと、髭切は知っている。だからこそ、彼女は今もこうして我が儘な子供のように最後の抵抗を続けていた。
だが、その抵抗は、髭切にとっては痛々しいものとしか見えなかった。
「たかが、刀の付喪神だよ。君がどんな風に生きてきたのかも知らない、ただの鉄の塊だ。もし僕らの存在が君にとっての苦痛の原因にしかならないというのなら、君が僕らを見捨てても僕らは――少なくとも、僕は藤を恨まない」
「それは、髭切がそう思っているだけだよ。歌仙は、きっと悲しむ。五虎退は、泣いてしまうに決まっている。それに、膝丸が言っていた。主がちゃんとしないせいで、自分たちが憐れまれるんだって」
あの雨の日、血を吐くような彼の叫びもまた、藤がかつて叫ぼうとして叫べなかった慟哭をそのまま表したものだった。だからこそ、彼の声を聞いてしまった瞬間、退路を断たねばならないと彼女は感じていた。
しかし、そんな彼女なりの優しさから生まれた言い訳も、髭切は切り捨てる。
「僕はもう一度、君に怒らなくちゃいけないみたいだね。君が自分を傷つける理由に、勝手に僕らを使わないでくれるかな」
彼女が自ら生み出したしがらみを、髭切は出てきた側から千切り捨てていく。
「君がそんな風に苦しんでいるのに、僕らが心の底から笑っていられると思う? 君がこの一週間笑い続けている様子を目にして、本当に皆が幸せになったと思っているの?」
髭切にそのように問われるまでもなく、藤もまた気が付いていた。素直に騙されてくれたのは、小豆や和泉守といった新参の刀剣男士たちだけだ。
髭切はもちろんとして歌仙も乱も、話をしようと面と向かい合った二人の間には、いつも強張った空気が流れていた。彼らが何も言えなかったのではない。自分が笑顔の壁を立てて言わせなかったのだと、他ならぬ自分のことであるが故によく知っている。
「君が僕たちを好きだとか嫌いだとか、僕たちが君を慕っているとか、君が主だからとか、今はそんなことはどうだっていい。君は、自分自身にただこう問うだけでいいんだよ」
彼女の頬を挟む手から力を抜き、髭切は優しい手つきで赤くなったそこを撫でる。彼女の心に張り巡らされた鎖が、全て無くなっているようにと祈りながら、
「ねえ、藤。それとも――『あーちゃん』と呼んだ方が、君にとってはいいのかな」
奥底に眠っている建前に縛られる前の彼女を呼び起こすように、先だっての夜の散歩では口にできなかった言葉で、髭切は問いかける。
「君は、何がしたいの?」
彼は問う。
どうすべきかではなく、どうしたいのかと。
一日中揺さぶられ続けていた藤の中では、引き抜こうとして抜けなかった心という芽の根が、しっかりと張ってしまっている。
もはや無視できないぐらいに、彼女の胸の内で叫び声が響いている。それは声なき悲鳴であり、同時に助けを求める声でもあった。
「……どうしたいのかなんて、分からないよ」
髭切の問いに、藤は曖昧な返答をする。半年以上前から見失い続けていた己の要望は、そう簡単には見つけられない。全てを理路整然に落ち着いて語るなんて到底無理だ。
だが、ずっと昔から抱えていた願いを口にするぐらいなら。
「分からないけど、でも」
震える足が力を無くして倒れ込むことがないように、藤は髭切の両腕を縋り付くように掴みながら、言う。
「でも、認めてほしい。皆が好きだから」
こんのすけに皆と別れる案を勧められても、頑なに反論し続けていた理由は、ひとえに彼らが好きだと強く思っているからこそだ。
自分の笑顔では、審神者になったときから側にいた刀剣男士ですら幸せにできていないだろうと指摘され、思わず動揺してしまったぐらいに、その気持ちに嘘はなかった。
「認めてほしいのなら、ちゃんと言葉にして伝えないとね」
「……でも、言ったら皆が傷つくから。いや、違う。そうじゃない、よね」
髭切は無言で頷く。傷つくかどうかも自分で決めると言っている相手に、この言い訳は最早使えない。
「――怖いんだ。君の意見は間違っている、そんなのおかしい、そんな風にしか考えられないなんて可哀想な子供だ。そうやって否定されることに、私がもう耐えられないだけなんだ。だから、どうでもいいってしたかったのに」
唇が震える。自分が間違っているのだと何度も言い聞かせてきたのに、切り捨てきれなかった願いの欠片がぽろぽろと零れ落ちていく。
「ねえ、藤。僕は、君が何を抱えているのかは知らない。でも、『その誇りを君がどうでもいいことにしていいわけがない。誇りを傷つけられれば、心が痛い。そんなの、当たり前じゃないか』」
そうでしょう、と言わんばかりに、彼は口元の緊張を緩めてなだらかな曲線を唇に浮かべる。
自分の口から生まれ出た言葉を、藤はどうしても自分にかけられない。ならば、と髭切は彼女の言葉を借りて、自分が受け取ったものを藤へと返していく。
「だから、僕は君の口から聞きたい。僕たちが大事にできなかった君の願いが、いったいどんな形にしているのかを知りたい」
「――僕は」
ふと、誰かに背中を押されたような気がした。それは、幼い己自身からの激励のように思え、気が付けば藤の口は勝手に動いていた。
「僕は、鬼でよかった。鬼として、見ていてもらいたかった」
怪物として恐れてほしいのではなく、かといって人ではないからと仲間はずれは良くないと憐れむのではなく、ただ自分を定義するあり方としての『鬼』を認めてほしかった。
「僕は、鬼として育てられた。鬼であることが僕にとって当たり前で、今もそれは変わらない。だから、無理に人の枠に押し込まなくてもいい」
声が震えてしまう。鼻の奥がつんと痛い。目の奥がじりじりと炙られているかのように熱く、瞬きをしたら何かが決壊してしまいそうだった。
「――そう。鬼として見てもらいたかったんだ」
髭切が、藤の言葉をなぞる。
彼は鬼を斬った刀だ。何を馬鹿なことを、と言われるかもしれない。けれども、そうやって否定されれば今度こそ諦められる。半ば投げやりな心持ちにながら、藤は回答を待ち、
「なんだ。そんな簡単なことだったんだね」
胸の内に長年藤が秘め続けていた塊を、彼はあっさりと一言で片付けていく。まるで、取るに足らない些事であるかのように。
その反応は、彼女が抱えていたものをぞんざいに投げ捨てたようにも見えて、藤の中に何日か――否、何年ぶりかと思うほどの激しい熱が湧き上がる。
「簡単って、そんな風に――!!」
激情に突き動かされるようにして髭切を睨むも、藤はすぐに気が付く。
彼はこちらを嘲っているのでもなければ、憐れんでいるわけでもなかった。落ち着いた眼差しで、過度に感情を揺らさずに、彼は藤の言葉に寄り添っていた。
「簡単に見えてしまうんだよ。君がずっと笑って誤魔化して、そんな悩みはなかったようなふりをして、あまつさえ『どうでもいい』なんて言うものだからね」
その言葉は、藤の固まった思考回路に別の視点を与える。
自分の思いを一番無かったことにしようとしていたのは、歌仙でも今まで接してきた大人たちでもない。早々に彼らに見切りをつけて、世間から見たら自分は間違っているのだと自分の誇りにレッテルを貼り付けたのは、他ならぬ己自身だ。
「藤の気持ちを大事にしていなかったのは、確かに僕らなのだろうね。でも、それ以上に君を傷つけていたのは、君自身だと僕は思うよ。だから、こうして今、君を叱っている」
こつん、と頭の上に小さな重みが載せられる。それは、軽く握られた髭切の拳だった。
「僕は君が何を思っているか、どれくらい必死に鬼として見てもらいたかったか、そんなことは想像しかできない。僕の身じゃ理解できない。だって、僕は刀で、君は鬼なんでしょう。違うものの気持ちは分からないよ」
「……そう、だよね」
やはり否定されてしまうのだろうかと、藤は唇に歯を突き立てる。しかし、
「だけど、理解できないからって、否定はしないよ」
真摯にこちらを見つめる琥珀の瞳に、嘘はない。
「主が、僕に宿る鬼を斬った逸話を正しいって受け入れてくれたように、僕は藤の中にある鬼を受け入れる。そういう形でありたい、認めてほしいって願う君の心に、僕も寄り添わせてほしいな」
彼の言葉にお為ごかしも自己陶酔もなく、ただ優しく羽で包むような優しさだけがあった。
語られた言葉の意味を理解した刹那。
――ぽつりと、雫が一つ落ちる。
地面に辿り着くより先に、更にもう一つ。
堰を切ったように、彼女の頬を透明な雫が流れ落ちていく。
「あ、あ」
藤の喉が震え、やがてそれは嗚咽の形となっていく。
「あ、あぁ、あ」
ずっと、耐えていた。何もそれは、刀剣男士たちに限った話ではない。
人と生活していく中で、自分の中の当たり前が当たり前でなく、主張すれば主張するほど望まれない見方をされるばかりだった。彼らが彼らなりに優しさで以て接してくれているから、その親切を無下にする勇気を持てず、息苦しさの中で自分を強引にねじ曲げ続けていた。
そんな考え方は、捨ててしまえばいいと分かっていた。長いものに巻かれてしまえば、楽になれると何度も思ってきていた。
普通の人が普通に生活をしていく日々において、自分だけが要らぬ苦労を背負い込んでいる。空を飛べるのに地上を歩くことを選んだ鳥のように、あるいは緑豊かな森を捨てて岩場で生きることを選んだ獣のように。
だけど、分かっていたのに捨てられなかった。その矜持を無かったことにしてしまっては、自分が自分で無くなってしまうように感じたから。
「――っ、う、うぅっ」
歯を食いしばっても隠しきれない嗚咽が、部屋に響いていく。言いたいことは沢山あるのに、声が形になってくれない。ずっと耳にしたかった言葉だったというのに、お礼の一つも言えない。
「――ごめん、なさい」
代わりに出たのは、謝罪の言葉だった。
どうしても捨てられなかった願いなのに、好きな相手に否定されるのが怖いからと、意気地なしな自分が隠してしまった願い。
そのせいで、皆が己にとって望ましくない行動をしてしまい、それ見たことかと自分は彼らを悪者に仕立て上げてしまった。自分は悪くないのだと、己の不甲斐なさを肯定しようとした。
「ごめん、なさい。僕は、君の言うように、卑怯な奴なのに」
震え上がる喉を叱咤して、どうにか言葉を紡ぎあげていく。こんなに子供のように泣いてしまっていたら、髭切は自分に幻滅してしまったのではないかと、藤は遅まきながら溢れ出た涙を拭い、髭切を見つめ直す。
果たして、彼は驚いたようにこちらを見ていただけだった。戸惑ったかのように数秒狼狽えた様子を見せたかと思うと、宙を泳がせていた手をそろそろと藤の頭に載せ、ゆっくりと撫でていく。
その温かい手に促されるように、また涙が湧き上がり、ぽたぽたと落ちていく。あんなにも彼を遠ざけようとしたのに、時に酷いことも言ったというのに、それでも彼はこうして頭を撫でてくれるのだ。そんな彼の優しさを思えば思うほど、感情の箍が外れたように瞳から雫が零れていく。
「ごめん、なさい。私、髭切に、いっぱい、いっぱい、嫌なこと言ったのに」
「うん。言われたね」
「でも、髭切は、ずっと私が欲しかったものを、くれた」
「僕は、僕が思ったことを言ったまでだよ。それで藤は、もう大丈夫になったの?」
髭切の問いかけに、藤はゆるゆると首を横に振る。お世辞にも、自分が外に出ても大丈夫な顔をしているとは思えなかった。
「じゃあ、少しだけこうしていようか。その後、君がどうするかは、君が決めるんだよ」
突き放すような物言いではあるが、それもまた自分が口にした言葉が跳ね返っただけなのだと、藤は思う。髭切が歌仙たちと向き合ったとき、どうするかは髭切が決めるのだと言ったのは、他ならぬ藤自身だったのだから。
「――うん」
だから、さざ波だった心が落ち着くまでは、今はこの薄闇の中に隠れていようと、願う。
しかし、藤がそうやって平静を取り戻そうとしているにも拘わらず、お構いなしに現実は牙を剥いていく。
シンと静まりかえっていた本丸の廊下を、誰かが荒々しい足音と共に駆けていき、どうしたのかと思うより先に、閉められていた襖が勢いよく開かれた。
「あるじさま、歌仙さんが……あるじさま!?」
入ってきた五虎退は、振り向いた藤の顔から流れ落ちる涙の滝に驚き、かつてないほどに大きく目を見開く。だが、その反応よりも聞き捨てならない単語を、藤の耳は拾い上げていた。
「歌仙が、どうかしたの?」
「ど、どこかに出かけていて、それで、戻ってきて……」
「どこかにって、どこに?」
「えっと、僕が最後に見かけたときは、ちょっとぼんやりとした様子で、行かなきゃいけない場所があるって、転移装置のある祠の方に……」
慌てているせいか、五虎退の舌は上手く回りきっていないようだったが、それでも要点は分かる。
歌仙は、こんのすけに呼ばれてどこかに行っていたと聞いていた。なのに、こんのすけの側に彼はいなかった。恐らく、その用事とやらで彼は本丸を離れているのだろうと藤は思っていた。
正直なところ、あのときは鶴丸と更紗との応対で頭がいっぱいになっていて、歌仙のことなど頭から吹き飛んでいた。とはいえ、少し落ち着いた今なら、何か歯車が噛み合っていないようなちぐはぐさを感じる。
「お客が来ているのに、そんな遠出をするような用事を歌仙が引き受けるかな……」
「え、と……それで、そう、今はそんなことはどうでもいいんです! あるじさま! 歌仙さん、ひどい怪我で! だから、あるじさまを呼んで来いって言われて!!」
「怪我!?」
五虎退の言葉を聞いた刹那、藤の顔は一気に青ざめる。
慌てて彼の元へと走り出そうとするが、先ほどまで立っているのもやっとなほどに感情が乱れていた藤は、足をもつれさせて転んでしまう。すぐさま髭切と五虎退が駆け寄るも、それよりも先に彼女は立ち上がり、靴も履かずに縁側から外へと飛び出した。
胸を締め付ける嫌な予感が嘘であってくれと願う彼女を嘲笑うように、濃い血の香りが彼女の鼻を掠めていった。
「『藤は、何も言わない。言わないのに、皆が分かってくれないって、どうして分かるの』」
彼と彼女が放つ糾弾の言葉のうち、この詰問がやけに耳に強く響く。ちょうど、どこかでこれと似た意味合いを含んだ怒りの言葉を、髭切は聞いていた。
――審神者としての重荷に耐えかね、それでいて我らの主で居続けようなどと駄々をこねる。
――それもこれも、皆が許してくれると思ってこその甘えではないのか。
一ヶ月近く前に、膝丸と本気で斬り結んだ末に彼が髭切に告げた言葉だ。
その『甘え』という単語が持つ自堕落なイメージが先走り、髭切は主から甘えを感じ取ったことはないと思い込んでしまった。だが、更紗たちが主を咎める様子を前にして、
(お前の言う通りだったみたいだ。主は、甘えていたんだね)
異なる側面で、『甘える』という言葉の意味を髭切はかみ砕いていく。
誰にも何も語らなかった彼女は――本人曰く皆が傷つくから何も言えないと言い張る彼女は、そのくせこちらの態度が悪かったのだと言わんばかりに逃げ出し、戻ってきてからも当てつけのように笑ってみせた。
彼女の行動は、裏を返せば何を言われずとも理解してみせよと、相手に迫っているのと同義だと髭切は捉える。
問答無用の謎かけに加えて、不正解に対する理不尽ともいえる逃避と拒絶という名の八つ当たり。それは、確かに甘えとも評せるだろう。
そこまで分かってしまったのなら、もうここに座って成り行きを見守っている必要などない。彼女の仮面を剥ぎ取る役目を、よその審神者に任せるつもりは髭切にも毛頭なかった。
「僕は君と違って何年も生きてる。行動しなくても、結果がどうなるかの予測ぐらいはつくよ。そして、僕は皆が傷つくって予想できている」
藤が口にする言葉の中には、確かに本音もあるのだろう。だが、それを覆い隠すほどの欺瞞にも満ちていると、髭切はもう気が付いてしまっている。
「傷つくかどうかは、僕が決める。前にも言ったよね」
一言を返しつつ立ち上がり、髭切は藤を見下ろす。
「その可能性があるだけでも、僕は嫌なんだ」
彼女の口から紡がれる返事は、髭切達を守るという体裁をとっていた。
「それは、どうせ分かるわけがないって、最初から諦めていた方が――ううん」
だが、それすらも虚飾と示すために、彼は言葉の刃を振り下ろす。
「僕らを見下していた方が、楽だから?」
この答えが間違いだったとしても構わない。これから自分が行う全てが、目の前の娘にとって望んでいないことだったとしても、それこそどうでもいい。
沸き立つ激情を、好きだと思っている人を最も傷つけている藤(もの)を、髭切は許さないと半年前から決めていた。
「――君は、卑怯だね」
今、眼前に立ち、瞳を震わせているのは、嘗ての自分が選ばなかった選択の、最果てに辿り着こうとしている者だ。
己の気持ちを誰にも語らず、何事もなかったように笑顔を浮かべながら不条理への怒りを飼い慣らそうとして、心をも鋼のように作り替えようとした者の末路。その姿は、髭切が思っていた以上にずっとみっともなく、ずっと醜悪で、そして悲愴なものだった。
髭切がそのような姿にならないようにと藤が声をかけてくれたというのなら、今は立場が逆転しただけだ。自暴自棄になって刀解を促しつつ乾いた笑みを見せた己の姿が、目の前にいる藤に重なる。
「話をしよう、主」
もう逃がしはしない、と髭切は藤の腕を掴む。彼女の顔に笑顔はない。残骸めいた微笑の欠片が、辛うじて口の端に残っているだけだ。
ちらりと鶴丸に視線をやると、彼は肩を竦めて曖昧な笑みを浮かべていた。客人のことは気にするな、と言いたいのだろう。彼に感謝しつつ、髭切は藤の腕をしっかりと握ったまま彼女をずるずると部屋の外に引きずり出した。
本丸の廊下は、いつもの賑わいが嘘のように静かだった。この時間なら、皆は自室や庭のどこかにいるはずだ。
通りがかった誰かに出くわすわけにもいかないと、髭切は藤を常ならば顕現に用いている小さな和室へと連れて行く。後ろ手で襖を閉めると、部屋はうっすらとした暗がりに包まれた。
「髭切、離して」
機械的な硬さの残る藤の声を無視し、髭切はぐいと腕を引いて彼女を自分に向き直させた。あろうことか、既に藤の顔には笑顔が戻りつつある。そうはさせじと、髭切は彼女の頬を掌で挟んだ。
「ねえ、髭切。いったいどうしたの。僕が、卑怯だなんて」
「こちらが何も言わない内から、相手の態度を勝手に決めつけて悪者とすることは、卑怯な行いだよ」
有無を言わさない返答に、藤の中から出かかっていた言い訳の言葉は、あっという間にかき消されていく。
「君は僕に頼んでいたよね。『自分が間違っていることをしたら、言ってほしい』と」
「それは、言ったけれども」
手入れを拒み続ける藤を、髭切は許せないことだと語った。彼は優しいだけではなく、藤が間違ったことをしたら怒ることもあるのだ、と。
「君は、間違いを続けている。僕が許せないと思ったことをし続けている」
「それは、髭切の言う『相手の態度を勝手に決めつけて悪者にしている』こと?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
全く見当もつかないと言わんばかりに首を傾げる藤に向けて、触れれば切れてしまうのではと思うほどの冷たい声で、髭切は告げる。
「それは、藤が藤を――自分自身を傷つけている、ということだ」
主という呼び名ではなく、彼女の審神者としての名を使い、髭切は十重二十重に張り巡らされた彼女の心の檻に手をかける。
「そんな風に笑っていたくないと自分で分かっているのに、己にそれを強いている。周りが君の異変に気が付いているのに、こっちの気持ちを盾にして詮索も告白も拒んでいる。そのうえで、ますます悪い方に自分を追い詰めている。それが、君のしている『間違っていること』だ」
髭切に挟まれていた彼女の顔から、笑顔の残骸も崩れて消えていく。震える唇がどんな音を紡ぐよりも先に、髭切は機先を制して更に言葉を放つ。
「だから、そんな風に自分で自分を傷つけるような真似は、やめてもらおうか」
髭切が彼女へと放つ言葉の数々を聞いて、藤は微動だにすらできなくなっていた。笑顔が間違っていると言われてしまい、ならば『どうするべきか』と考えてもその先が見えない。
笑わなければ、彼らを不安がらせてしまうと思っていた。心配をかけたくないから、この選択しかないと決意した。
理解してくれることはないだろうと、内心で髭切の言うように見下していたというのは、否定できない事実だと藤も思う。見ないようにしていたとしても、指摘されたうえで自分は清廉潔白な被害者と強弁を振るうほど、藤も傲慢ではない。
だが、それでも笑顔だけは唯一自分に求められ、自分が与えられるものだと信じていた。なのに、それを間違っていると否定されたらどうすればいいのだろう。そんな嘘じゃ誰も幸せになれないと指摘されて、だったら何を選択するのが正しいと言うのだろう。
「じゃあ、どうすれば良かったの。僕の考えていることを話しても、君達は傷つくだけなのに、そんな状態で僕に何をしろって言うの」
零れ出た言葉は、自分のものではないように思えるほど震えていた。
「君がそうやって決めつけるたびに、僕は何度でも言うよ。僕が傷つくかどうか、それは言われた僕が決める。話さなきゃ、僕は何もできない。何も始まらない」
あの言葉を語らない審神者が髭切に語ったように、思いは形にしなくては伝わらない。気持ちを言葉にしなければ分からない。その表面だけをなぞることはできても、根っこに潜む感情を雰囲気だけで理解しろというのは、到底無理な話だ。
「僕には君が何を黙っているのか、大体予想がついている。でも、確信が持てなかった」
自分の辿り着いた答えがもし間違っていたら、今度こそ藤の心に消えない傷を残すのではないかと髭切は懸念を抱いた。三日月に示唆されていた自死の件も、何度か脳裏に過っていたからでもある。
「だから、君と答え合わせをしたかったのに、君はそのことから目を逸らし続けている。でも、僕はもう藤の命令は聞かない」
やめて、と言われたとしても、たとえ自分の考えが外れていたとしても、彼女が伏せ続けていた札の存在に触れる話題から、髭切は逃げないと決めた。
「僕が見つけた答えを、言うね」
まだ小さく首を横に振っている藤の両肩を掴み、彼女の瞳を正面から見据え、彼は告げる。
「君が大事にしている誇りを、僕らは踏みにじっていったんじゃないかな。ちょうど、僕が鬼を斬ったという逸話を、結果的に歌仙たちが踏みにじっていったように」
藤の唇は、引き攣れたまま動かない。喉は機能を忘れたかのように、ただ乱れた吐息だけをひゅうひゅうと漏らしている。
「それが具体的に何かまでは、僕には想像がつかなかった。でも、君があんな形で曖昧にして、目を逸らし続けた理由は分かった気がする」
彼女の両肩に置いた手に、ぐっと力が込められる。瞼の裏に蘇ったのは、数日前の物吉とのやり取り。どこか悲しげに微笑む琥珀色の少年が、いつも微笑んでいる藤の姿と重なって見えた。
「踏みにじった側――僕たちから見たら、その行動自体は善意から生まれたものだった。だから、皆が大事な君は、笑って何でもないふりをしようとした。離れに閉じこもったのは、その何でもないふりができなくなってしまいそうだったから。そうじゃない?」
藤は瞬きも忘れて、己の心を暴こうとする金がかかった茶の瞳を見つめていた。常に笑っていることの多い彼の顔に、笑みはない。抜き身の刃の如く鋭い視線だけが、じっとこちらを見下ろしている。
適当な誤魔化しも、言い訳も、眼前の神様には通じないだろうと、目を見ただけで分かってしまった。何より、そんなうわべだけの誤魔化しを口にするのは、彼に対してあまりに不誠実だと、藤は既に自覚させられてしまっている。
「この答えは、藤にとって見当違いの答え? それとも」
「――大体、そんな感じだよ」
髭切の問いを上書きするように、藤は答える。ひりついた喉から漏れた彼女の声は、まるで幽霊のように掠れていた。
「……よく分かったね」
「色々と、示唆はされていたからね。ただ、矛盾している部分があったから、間違いないとまでは思えなかった」
「矛盾……?」
「君は僕に言ってくれたよね。僕の誇りを、どうでもいいことにしていいわけがない、と。歌仙たちが僕の気持ちを無視するのなら、そんな彼らこそどうだっていいのだ、と」
一年近く前のやり取りを、髭切は忘れていない。そして藤も、当時を思い出して視線を微かに泳がせる。
「どうして、その言葉を自分にかけてあげられないのかな。君こそ、歌仙や僕の気持ちなんて無視してしまえば」
「そんなこと、言えるわけがない!!」
髭切の提案を耳にして、突如藤の声が膨れ上がる。上手く動かない喉を無理矢理動かしたせいで、ぴりりと小さな痛みが走った。それに合わせるかのように、瞳の奥が、つんと熱くなっていく。その熱に飲まれまいと、藤は瞬きせずに髭切を見つめ続けていた。
誰かに首を絞められているわけでもないのに、息をするのが苦しい。足元が覚束なくて、そのまま崩れ落ちそうになる。けれども、髭切は逃がしてくれそうになく、だから藤は彼を見続けるしかなかった。
「どうして、言えるわけがないの?」
先ほどまでの斬りつけるような冷たさが幾分か弱まり、こちらの気持ちに寄り添う温かさを髭切の声から感じ取る。だからといって、ここで誤魔化しても彼は納得しないだろうと、藤も察していた。
「……僕は、自分に親切にしてくれた人に優しくしたいと思っていた。そういう人には、こちらからも親切にしてあげるべきだって教えられて育った。だから、僕に優しくしてくれた歌仙たちの心を、無視なんてできない」
主を見守る歌仙の瞳の温かさも、五虎退の無邪気な敬慕も、物吉の幸せを願う祈りも、藤は十分すぎるぐらい理解していた。
だからこそ、彼らの親切が裏目に出た瞬間のことを、そのときの自分の思いを形にするのを拒んでいた。その中に、髭切の言うように彼らを一方的に見下す卑怯な自分も、いくらかは混ざっていたのだろう。
「髭切にああやって言えたのは、君が僕に似ているって思ったからなんだ」
誰にも自分の意見を認めてもらえずに、言葉にできない怒りを抱えて迷っていた彼の姿を、藤もまた己に重ねていた。あの場にいた彼を前にして、彼女は彼だけを見ていたわけではなかった。
己の誇りを否定されて、笑うことしかできなくなった。そんな嘗ての自分が、助けを求めて泣いているようにも見えていた。
「僕と同じ思いをしてほしくなかった。自分の心を殺して、傷ついていく人をもう見たくなかった」
そこまで言いかけて、藤はゆっくりと首を横に振る。
「……ううん、違うね。今の言い方は、それこそ卑怯だ。本当は、そういう人を助けたら、僕も少しだけ救われた気分になれる。だから、僕は君を助けた」
かつて誰も助けてくれなかった自分に似た誰かへ、救いの手を差し伸べる。それは、ただ過去の亡霊を救った気分になるだけの、何の意味もない行為だと藤は自嘲する。
しかし、髭切は笑わなかった。卑怯な行為だと藤に同調もしなかった。彼女の口元に浮かんだ嫌な笑顔を消すために、再び彼女の頬を柔らかく挟み、彼は言う。
「君が誰を救おうとしたかは、それこそどうでもいい。あの言葉のおかげで、僕はこうしてここにいられている。だから、僕はあの時の君の行動を卑怯とは言わない」
真摯にこちらを見据える髭切の瞳を前に、彼は公平な神様だと藤は思う。自分から見て悪い所は悪いと指摘する一方で、良いと思った所はこうして素直に認めるのだから。故に、こうして一対一で話をせねばと思うほど、自分は彼にとって見過ごせないほどの間違いをしていたのだろうと、藤は思いを巡らせた。
未だ迷いの只中にいる薄紫の瞳から目を逸らさずに、髭切は言葉を重ねていく。
「だからこそ、僕も君と同じように心を殺している藤を見ていたくないんだ。君は、僕よりも、自分に優しくしてくれた歌仙よりも、他の皆よりも、自分自身を大事にするべきだ」
藤の心を十重二十重に取り囲む檻は、もう崩れかけている。揺れている瞳がその証拠だと信じて、髭切は彼女の心へと踏み込む言葉を紡ぎ続けていく。
「藤が自分の思いを告げても分かろうとしない人は、それこそどうだっていい。そうだよね」
「――僕は、髭切とは違う。歌仙たちは、僕の刀剣男士だ。僕は、僕の刀剣男士を蔑ろにしたくない」
確かに、藤は自分の刀剣男士に対して、卑怯とも言える態度をとり続けていた。どうせ分かるわけないと彼らの態度を勝手に決めつけ、見下すような真似をしていた。
しかし、彼女は同時に、これまた揺るぎようがないぐらいに刀剣男士たちを好いている――愛しているのだと、髭切は知っている。だからこそ、彼女は今もこうして我が儘な子供のように最後の抵抗を続けていた。
だが、その抵抗は、髭切にとっては痛々しいものとしか見えなかった。
「たかが、刀の付喪神だよ。君がどんな風に生きてきたのかも知らない、ただの鉄の塊だ。もし僕らの存在が君にとっての苦痛の原因にしかならないというのなら、君が僕らを見捨てても僕らは――少なくとも、僕は藤を恨まない」
「それは、髭切がそう思っているだけだよ。歌仙は、きっと悲しむ。五虎退は、泣いてしまうに決まっている。それに、膝丸が言っていた。主がちゃんとしないせいで、自分たちが憐れまれるんだって」
あの雨の日、血を吐くような彼の叫びもまた、藤がかつて叫ぼうとして叫べなかった慟哭をそのまま表したものだった。だからこそ、彼の声を聞いてしまった瞬間、退路を断たねばならないと彼女は感じていた。
しかし、そんな彼女なりの優しさから生まれた言い訳も、髭切は切り捨てる。
「僕はもう一度、君に怒らなくちゃいけないみたいだね。君が自分を傷つける理由に、勝手に僕らを使わないでくれるかな」
彼女が自ら生み出したしがらみを、髭切は出てきた側から千切り捨てていく。
「君がそんな風に苦しんでいるのに、僕らが心の底から笑っていられると思う? 君がこの一週間笑い続けている様子を目にして、本当に皆が幸せになったと思っているの?」
髭切にそのように問われるまでもなく、藤もまた気が付いていた。素直に騙されてくれたのは、小豆や和泉守といった新参の刀剣男士たちだけだ。
髭切はもちろんとして歌仙も乱も、話をしようと面と向かい合った二人の間には、いつも強張った空気が流れていた。彼らが何も言えなかったのではない。自分が笑顔の壁を立てて言わせなかったのだと、他ならぬ自分のことであるが故によく知っている。
「君が僕たちを好きだとか嫌いだとか、僕たちが君を慕っているとか、君が主だからとか、今はそんなことはどうだっていい。君は、自分自身にただこう問うだけでいいんだよ」
彼女の頬を挟む手から力を抜き、髭切は優しい手つきで赤くなったそこを撫でる。彼女の心に張り巡らされた鎖が、全て無くなっているようにと祈りながら、
「ねえ、藤。それとも――『あーちゃん』と呼んだ方が、君にとってはいいのかな」
奥底に眠っている建前に縛られる前の彼女を呼び起こすように、先だっての夜の散歩では口にできなかった言葉で、髭切は問いかける。
「君は、何がしたいの?」
彼は問う。
どうすべきかではなく、どうしたいのかと。
一日中揺さぶられ続けていた藤の中では、引き抜こうとして抜けなかった心という芽の根が、しっかりと張ってしまっている。
もはや無視できないぐらいに、彼女の胸の内で叫び声が響いている。それは声なき悲鳴であり、同時に助けを求める声でもあった。
「……どうしたいのかなんて、分からないよ」
髭切の問いに、藤は曖昧な返答をする。半年以上前から見失い続けていた己の要望は、そう簡単には見つけられない。全てを理路整然に落ち着いて語るなんて到底無理だ。
だが、ずっと昔から抱えていた願いを口にするぐらいなら。
「分からないけど、でも」
震える足が力を無くして倒れ込むことがないように、藤は髭切の両腕を縋り付くように掴みながら、言う。
「でも、認めてほしい。皆が好きだから」
こんのすけに皆と別れる案を勧められても、頑なに反論し続けていた理由は、ひとえに彼らが好きだと強く思っているからこそだ。
自分の笑顔では、審神者になったときから側にいた刀剣男士ですら幸せにできていないだろうと指摘され、思わず動揺してしまったぐらいに、その気持ちに嘘はなかった。
「認めてほしいのなら、ちゃんと言葉にして伝えないとね」
「……でも、言ったら皆が傷つくから。いや、違う。そうじゃない、よね」
髭切は無言で頷く。傷つくかどうかも自分で決めると言っている相手に、この言い訳は最早使えない。
「――怖いんだ。君の意見は間違っている、そんなのおかしい、そんな風にしか考えられないなんて可哀想な子供だ。そうやって否定されることに、私がもう耐えられないだけなんだ。だから、どうでもいいってしたかったのに」
唇が震える。自分が間違っているのだと何度も言い聞かせてきたのに、切り捨てきれなかった願いの欠片がぽろぽろと零れ落ちていく。
「ねえ、藤。僕は、君が何を抱えているのかは知らない。でも、『その誇りを君がどうでもいいことにしていいわけがない。誇りを傷つけられれば、心が痛い。そんなの、当たり前じゃないか』」
そうでしょう、と言わんばかりに、彼は口元の緊張を緩めてなだらかな曲線を唇に浮かべる。
自分の口から生まれ出た言葉を、藤はどうしても自分にかけられない。ならば、と髭切は彼女の言葉を借りて、自分が受け取ったものを藤へと返していく。
「だから、僕は君の口から聞きたい。僕たちが大事にできなかった君の願いが、いったいどんな形にしているのかを知りたい」
「――僕は」
ふと、誰かに背中を押されたような気がした。それは、幼い己自身からの激励のように思え、気が付けば藤の口は勝手に動いていた。
「僕は、鬼でよかった。鬼として、見ていてもらいたかった」
怪物として恐れてほしいのではなく、かといって人ではないからと仲間はずれは良くないと憐れむのではなく、ただ自分を定義するあり方としての『鬼』を認めてほしかった。
「僕は、鬼として育てられた。鬼であることが僕にとって当たり前で、今もそれは変わらない。だから、無理に人の枠に押し込まなくてもいい」
声が震えてしまう。鼻の奥がつんと痛い。目の奥がじりじりと炙られているかのように熱く、瞬きをしたら何かが決壊してしまいそうだった。
「――そう。鬼として見てもらいたかったんだ」
髭切が、藤の言葉をなぞる。
彼は鬼を斬った刀だ。何を馬鹿なことを、と言われるかもしれない。けれども、そうやって否定されれば今度こそ諦められる。半ば投げやりな心持ちにながら、藤は回答を待ち、
「なんだ。そんな簡単なことだったんだね」
胸の内に長年藤が秘め続けていた塊を、彼はあっさりと一言で片付けていく。まるで、取るに足らない些事であるかのように。
その反応は、彼女が抱えていたものをぞんざいに投げ捨てたようにも見えて、藤の中に何日か――否、何年ぶりかと思うほどの激しい熱が湧き上がる。
「簡単って、そんな風に――!!」
激情に突き動かされるようにして髭切を睨むも、藤はすぐに気が付く。
彼はこちらを嘲っているのでもなければ、憐れんでいるわけでもなかった。落ち着いた眼差しで、過度に感情を揺らさずに、彼は藤の言葉に寄り添っていた。
「簡単に見えてしまうんだよ。君がずっと笑って誤魔化して、そんな悩みはなかったようなふりをして、あまつさえ『どうでもいい』なんて言うものだからね」
その言葉は、藤の固まった思考回路に別の視点を与える。
自分の思いを一番無かったことにしようとしていたのは、歌仙でも今まで接してきた大人たちでもない。早々に彼らに見切りをつけて、世間から見たら自分は間違っているのだと自分の誇りにレッテルを貼り付けたのは、他ならぬ己自身だ。
「藤の気持ちを大事にしていなかったのは、確かに僕らなのだろうね。でも、それ以上に君を傷つけていたのは、君自身だと僕は思うよ。だから、こうして今、君を叱っている」
こつん、と頭の上に小さな重みが載せられる。それは、軽く握られた髭切の拳だった。
「僕は君が何を思っているか、どれくらい必死に鬼として見てもらいたかったか、そんなことは想像しかできない。僕の身じゃ理解できない。だって、僕は刀で、君は鬼なんでしょう。違うものの気持ちは分からないよ」
「……そう、だよね」
やはり否定されてしまうのだろうかと、藤は唇に歯を突き立てる。しかし、
「だけど、理解できないからって、否定はしないよ」
真摯にこちらを見つめる琥珀の瞳に、嘘はない。
「主が、僕に宿る鬼を斬った逸話を正しいって受け入れてくれたように、僕は藤の中にある鬼を受け入れる。そういう形でありたい、認めてほしいって願う君の心に、僕も寄り添わせてほしいな」
彼の言葉にお為ごかしも自己陶酔もなく、ただ優しく羽で包むような優しさだけがあった。
語られた言葉の意味を理解した刹那。
――ぽつりと、雫が一つ落ちる。
地面に辿り着くより先に、更にもう一つ。
堰を切ったように、彼女の頬を透明な雫が流れ落ちていく。
「あ、あ」
藤の喉が震え、やがてそれは嗚咽の形となっていく。
「あ、あぁ、あ」
ずっと、耐えていた。何もそれは、刀剣男士たちに限った話ではない。
人と生活していく中で、自分の中の当たり前が当たり前でなく、主張すれば主張するほど望まれない見方をされるばかりだった。彼らが彼らなりに優しさで以て接してくれているから、その親切を無下にする勇気を持てず、息苦しさの中で自分を強引にねじ曲げ続けていた。
そんな考え方は、捨ててしまえばいいと分かっていた。長いものに巻かれてしまえば、楽になれると何度も思ってきていた。
普通の人が普通に生活をしていく日々において、自分だけが要らぬ苦労を背負い込んでいる。空を飛べるのに地上を歩くことを選んだ鳥のように、あるいは緑豊かな森を捨てて岩場で生きることを選んだ獣のように。
だけど、分かっていたのに捨てられなかった。その矜持を無かったことにしてしまっては、自分が自分で無くなってしまうように感じたから。
「――っ、う、うぅっ」
歯を食いしばっても隠しきれない嗚咽が、部屋に響いていく。言いたいことは沢山あるのに、声が形になってくれない。ずっと耳にしたかった言葉だったというのに、お礼の一つも言えない。
「――ごめん、なさい」
代わりに出たのは、謝罪の言葉だった。
どうしても捨てられなかった願いなのに、好きな相手に否定されるのが怖いからと、意気地なしな自分が隠してしまった願い。
そのせいで、皆が己にとって望ましくない行動をしてしまい、それ見たことかと自分は彼らを悪者に仕立て上げてしまった。自分は悪くないのだと、己の不甲斐なさを肯定しようとした。
「ごめん、なさい。僕は、君の言うように、卑怯な奴なのに」
震え上がる喉を叱咤して、どうにか言葉を紡ぎあげていく。こんなに子供のように泣いてしまっていたら、髭切は自分に幻滅してしまったのではないかと、藤は遅まきながら溢れ出た涙を拭い、髭切を見つめ直す。
果たして、彼は驚いたようにこちらを見ていただけだった。戸惑ったかのように数秒狼狽えた様子を見せたかと思うと、宙を泳がせていた手をそろそろと藤の頭に載せ、ゆっくりと撫でていく。
その温かい手に促されるように、また涙が湧き上がり、ぽたぽたと落ちていく。あんなにも彼を遠ざけようとしたのに、時に酷いことも言ったというのに、それでも彼はこうして頭を撫でてくれるのだ。そんな彼の優しさを思えば思うほど、感情の箍が外れたように瞳から雫が零れていく。
「ごめん、なさい。私、髭切に、いっぱい、いっぱい、嫌なこと言ったのに」
「うん。言われたね」
「でも、髭切は、ずっと私が欲しかったものを、くれた」
「僕は、僕が思ったことを言ったまでだよ。それで藤は、もう大丈夫になったの?」
髭切の問いかけに、藤はゆるゆると首を横に振る。お世辞にも、自分が外に出ても大丈夫な顔をしているとは思えなかった。
「じゃあ、少しだけこうしていようか。その後、君がどうするかは、君が決めるんだよ」
突き放すような物言いではあるが、それもまた自分が口にした言葉が跳ね返っただけなのだと、藤は思う。髭切が歌仙たちと向き合ったとき、どうするかは髭切が決めるのだと言ったのは、他ならぬ藤自身だったのだから。
「――うん」
だから、さざ波だった心が落ち着くまでは、今はこの薄闇の中に隠れていようと、願う。
しかし、藤がそうやって平静を取り戻そうとしているにも拘わらず、お構いなしに現実は牙を剥いていく。
シンと静まりかえっていた本丸の廊下を、誰かが荒々しい足音と共に駆けていき、どうしたのかと思うより先に、閉められていた襖が勢いよく開かれた。
「あるじさま、歌仙さんが……あるじさま!?」
入ってきた五虎退は、振り向いた藤の顔から流れ落ちる涙の滝に驚き、かつてないほどに大きく目を見開く。だが、その反応よりも聞き捨てならない単語を、藤の耳は拾い上げていた。
「歌仙が、どうかしたの?」
「ど、どこかに出かけていて、それで、戻ってきて……」
「どこかにって、どこに?」
「えっと、僕が最後に見かけたときは、ちょっとぼんやりとした様子で、行かなきゃいけない場所があるって、転移装置のある祠の方に……」
慌てているせいか、五虎退の舌は上手く回りきっていないようだったが、それでも要点は分かる。
歌仙は、こんのすけに呼ばれてどこかに行っていたと聞いていた。なのに、こんのすけの側に彼はいなかった。恐らく、その用事とやらで彼は本丸を離れているのだろうと藤は思っていた。
正直なところ、あのときは鶴丸と更紗との応対で頭がいっぱいになっていて、歌仙のことなど頭から吹き飛んでいた。とはいえ、少し落ち着いた今なら、何か歯車が噛み合っていないようなちぐはぐさを感じる。
「お客が来ているのに、そんな遠出をするような用事を歌仙が引き受けるかな……」
「え、と……それで、そう、今はそんなことはどうでもいいんです! あるじさま! 歌仙さん、ひどい怪我で! だから、あるじさまを呼んで来いって言われて!!」
「怪我!?」
五虎退の言葉を聞いた刹那、藤の顔は一気に青ざめる。
慌てて彼の元へと走り出そうとするが、先ほどまで立っているのもやっとなほどに感情が乱れていた藤は、足をもつれさせて転んでしまう。すぐさま髭切と五虎退が駆け寄るも、それよりも先に彼女は立ち上がり、靴も履かずに縁側から外へと飛び出した。
胸を締め付ける嫌な予感が嘘であってくれと願う彼女を嘲笑うように、濃い血の香りが彼女の鼻を掠めていった。